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ダンゲロスSS上海
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ダンゲロスSS上海

虚と実

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dangerousss_shanghai

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ガシャリ、ガシャリ。
金属同士が擦れる音が鳴る。
静謐を乱す響きも、ここ上海蟹ランドでは人混みの喧噪に溶けてゆく。

音を発しているのは、虹色に鈍くぎらつく甲冑である。
姿だけを見れば、一人の騎士が歩みを進めているようにしか思えぬだろう。
しかし、その中身は虚にして無であった。
クラム・ハードシェルである。

旧フランス租界の廃墟で貴婦人に侍りしクラムが、なぜ今、上海蟹ランドにいるのか。
端的に言えば、住処を追われたからだ。

ならず者の死体が晒されて以後も、クラムは幾度となく刺客と相対し、これを打ち破った。
もし廃墟を訪れる刺客のみが相手であれば、何も問題はなかったであろう。
だが一度襲撃は途絶え、しばらくの後。
幾つもの重機が運び込まれ、廃墟の解体が始まった。

拮抗する勢力争いのバランスを乱し、目当てのダイヤを傷付けるやもしれぬ蛮行だ。
刺客の送り手は、よほど腹に据えかねたのであろう。
あるいはそうせざるを得ないほど、切羽詰まっていたのかもしれぬ。
ともあれ、クラムは一粒のダイヤを持って逃げ去らねばならなかった。

廃墟が壊され始めた時、貴婦人が姿を消していたことは不幸中の幸いであった。
一粒のダイヤであったがために、クラムはそのダイヤを手に隠し、住処を去ることができたのだ。
もし貴婦人のままであったなら、その手で触れることを躊躇い、逃げ遅れていたことだろう。

逃亡の道中、クラムは拾った革袋にダイヤを詰め、鎧に結わい付けた。
貴婦人の身の安全を思えば、がらんどうの鎧の中に隠し持つべきである。
しかし、今はただのダイヤであるとは言え、自らの内とも言える部分に貴婦人を入れるという行為は憚られた。

クラムには、ダイヤの美しさが分からない。
クラムが美しいと感じるのは、貴婦人ただその人のみである。
一粒のダイヤと化した貴婦人の横に、他のダイヤを置いたとしても、その美しさを見分けられるとは到底思えぬ。
それ故、廃墟を離れて以降、どうしようもない不安に駆られることがあるのだ。
自分は廃墟に置かれた別のダイヤを持ち去っただけで、貴婦人はまだあそこに一人取り残されているのではないか、と。

だが、それを確かめるために、革袋の口を緩めて中を覗き見ることはできない。
美しい貴婦人と一粒のダイヤ、どちらの姿を取るかをクラムが選べるわけではない。
もし貴婦人の在る時に新たな追手を迎えれば、避けがたい危機を招くかもしれぬ。
腰を落ち着け、守りを固めるに値する拠点を見つけるまで、あの美しさを見ることは叶わないだろう。

しかし、常に板金鎧を身にまとった者が落ち着ける場所など、そう多くはない。
如何に変わり者の魔人が多い魔都上海とは言え、平時の街並みにあって甲冑姿で目立たぬことは難しい。
そして、それこそが今、クラムが上海蟹ランドにいる理由なのだ。

上海蟹ランドはハロウィンの季節を迎え、仮装の催しを開いていた。
殆どの客は上海蟹の着ぐるみ帽子だの、蟹バサミ型のグローブだのを身に着けているだけだが、手の込んだ衣装をまとっている者も少なくない。
クラムの甲冑ほど凝った装いは珍しいが、いないこともないという塩梅である。
すれ違う客から視線を向けられることはあっても、その視線は称賛や驚嘆の類であり、疑念から来るものではない。
不気味さを彩る色合いも、ここでは一種の芸術表現として受け止められていく。
都合の良いことに、催しに際して入場料は無料となっており、身銭を持たぬクラムでも容易に足を踏み入れられた。

この好機を利用してどこか良い場所を見つけられれば、とクラムは考えている。
どこか西洋風の城や館があれば、気配を殺して装飾用の甲冑として振る舞うこともできるだろう。
加えてダイヤを隠し置く場所さえ見つけられれば、再び貴婦人に仕えることも叶うはずだ。

ガシャリ、ガシャリ。
そのように思いを巡らせながら、上海蟹ランドの大通りを歩いていたそのときである。

クラムは、はたと気付いた。
何者かに尾行されている。
しかと確かめたわけではないが、背後に追ってくる気配がある。
試しに歩みを止めてみれば、背後の気配もまた動きを止めた。

クラムは気配に気付かぬ振りをしながら、応じ方を思案する。
振り向きざまに鋼鉄の剣を構えることは、極めて容易だ。
相手の技量にもよるが、そのまま斬り捨てることもできるだろう。
だが、ひとたび戦いになれば、騒ぎとなることは間違いない。
それでは貴婦人に再び会いたいという、この思いを遂げられぬ。

さて、どうしたものか。
クラムは逡巡する。
しかし、その逡巡は長く続かなかった。
クラムの思索を割くように、前方で波しぶきの激しい音と数多の悲鳴が重なったからだ。

恋辻メーメーは、上海蟹ランドを駆けていた。
逃げ惑う人々の流れに逆らって、ひたすらに駆けていた。
駆ける先に何が待ち構えているかは分からない。
だがそれでも、駆けずにはいられなかった。

メーメーが上海蟹ランドを訪れた理由は、魔幇への復讐に必要な清王朝のダイヤを探すためである。
馴染みの上客から聞いた噂話をもとに情報を手繰り、メーメーはダイヤを守る亡霊騎士の存在へと辿り着いた。
眉唾物にも思える話だが、魔幇の息のかかった者が動いた事実があるのだと言う。
そして今日この日、亡霊騎士の行方が上海蟹ランドだと知ったのだ。

(スパイク!たぶん、中央広場!ひとまず、パークの真ん中を目指して!)

メーメーは《鱗語交流(リンゴトーク)》を介して、相棒たる『透明ワニ』のスパイクへと語りかけた。
《鱗語交流》は蜥蜴の類と会話を可能にする、メーメーの魔人としての特殊能力である。
この能力を以てメーメーはワニのスパイクと友誼を結び、共に戦ってきた。

(オッケー!……メーメー、なんか怒ってる?)

数々の悲鳴を引き起こしているこの騒ぎが、清王朝のダイヤに関わるものであることはまず間違いないだろう。
しかし、今メーメーをダイヤよりも強く、突き動かしているものがあった。
家族の日常を壊す輩に対する、義憤の心だ。

メーメーは魔幇の手によって、父と母との幸福な生活を奪われた女である。
泣き叫びながら逃げる親子連れの顔は、あの日の屈辱をまざまざと思い起こさせた。
家族の幸せを引き裂く者は許せない、そういう思いが止めどなく込み上げてくる。
《鱗語交流》で伝わる情報はメーメーの思うがままだが、コントロールできないほどの激情が湧き上がるときは別だ。
スパイクは、隠しきれぬメーメーの怒りを鋭敏に感じたのだろう。

(あー、スパイクに怒ってるんじゃないの。子供を泣かせる奴が許せなくって!)

(……うん、そうだね!悪いやつらは、懲らしめてやろう!)

メーメーと同じく、スパイクもまた魔人である。
特殊能力の名は《下水鱷魚(シーワーゲーター)》。
下水道を高速移動できることに加え、物理法則を無視して変形し、あらゆる配管を通過できる能力だ。

通過できるのは、下水の配管に限られる。
だが、スパイクが下水と認識する場所の範囲は実に広い。
実質、配管でつながった場所であれば、自由自在に移動できる能力と言っても良いだろう。

上海蟹ランドはその名の通り、上海蟹をメインに据えたテーマパークである。
蟹炒飯屋・蟹の姿蒸し屋・蟹バーガー屋など、上海蟹をふんだんに使った料理を出す飲食店。
蟹専門の水族館や上海蟹ふれあいコーナーといった、上海蟹を扱う教養施設。
カニデレラ城・蟹コースター・回転木蟹などの、上海蟹をモチーフにしたアトラクション。
さまざまなジャンルの施設が数え切れぬほど立ち並ぶ、巨大な観光スポットだ。

そして、それらの施設には排水を要する場所が多くある。
各施設の排水路は入り組んでいるが、最後には地下の巨大な下水道で一つにつながる構造だ。
配管を辿っていけば、望む場所へと移動できる。
上海蟹ランドは、スパイクにとって自らの特殊能力を最大限に発揮できる場所と言えた。
メーメーと合流するまでに数分もかかるまい。

「な、何よこれ?」

中央広場に辿り着いたメーメーは、実に異様な光景を目にした。
見下ろす先には、海があった。
その海に、船が一隻浮いている。

中央広場は元来、可愛いマスコットたちが愉快なパレードをする、そんな場所である。
当然、海などあろうはずもない。
だが、こうして現実に海はあり、潮の匂いをはらんだ風が吹いている。

「ゲヒヒィー!ダイヤを守る騎士様は出てこないのか?ゲヒヒッ、この俺様に恐れをなして逃げ出したか?」

船の甲板に、一人の男が立っていた。
青龍偃月刀を携えた巨身の男である。
男の背丈は、軽く見積もっても2メートルを下回ることはあるまい。
その男は、顎と口元に美しく艶やかな髭を蓄えていた。
名をキャプテン美髯と言う。

このキャプテン美髯もまた、魔人であった。
特殊能力《超海制覇》を持つ彼が乗り込む海賊船は、いかなる浅瀬でも決して座礁しない。
船の行く手を阻む岩盤があれば、船体がそれを削り取り、たちまち海を生み出してしまう。
つまり、この惨状を生み出したのはキャプテン美髯に他ならない。

海賊船と聞けば、大砲を積み込んだ巨大な帆船を思い浮かべる者も多いだろう。
だが、現代の海賊は、標的への接近に重点を置いた高速艇を海賊船として用いる。
キャプテン美髯の海賊船もその例に漏れず、速さを極めた最新鋭の船である。
この船であれば、五関を超え、千里を行くことも難しくなかろう。

「ヒャッハー!キャプテン美髯、バンザイ!」

操舵室からは、部下たちの声も聞こえてくる。
縄張りを主張するが如く、海賊たちの快哉が響き渡った。

(メーメー、もうすぐ真ん中のはずなんだけど……なんか水が塩辛い!僕、間違えて海に来ちゃってないよね?)

(その道で正解!詳しい説明は省くけど、目の前が海になっちゃってるの!)

スパイクの合流が近いことを知り、メーメーは意を決する。
キャプテン美髯と部下たちがわめく海賊船へ、猛然と飛び乗った。
少しバランスを崩すも、着地自体に支障はない。

「ゲヒヒッ、なんだぁ小娘。俺様に何か用か?……む……むむぅ~?」

キャプテン美髯は自らの船に降り立ったメーメーを、まじまじと見つめた。
初めは怪訝そうに見ていたキャプテン美髯だが、徐々にその表情は喜悦へと変わっていく。

「ゲヒヒヒ、俺様は運が良い!清王朝のダイヤを取りに来たら、おまけで張一族の血を引く女まで飛び込んできたぁ~!」

「なっ!」

メーメーは驚愕する。
あの日スパイクが始末した黒服の男たちに、残党がいないことは情報屋に確認済みだ。
それにもかかわらず、目の前の男は自分のことを、張琅月(チャン・ランユエ)のことを知っている。

どこか別のルートから情報が漏れたのか。
それとも情報屋が裏切ったのか。
沸き起こる不安が、メーメーの身体を強張らせた。

「なんでそれを知っているのかって顔だなぁ?ゲヒヒヒィ、特別にこのキャプテン美髯様が教えてやろう!」

キャプテン美髯は、メーメーに語った。
《無敵鉄人》を使ったリーダー格の魔人。
あの男は、密かに誓いを交わしたキャプテン美髯の弟分だったのだと言う。
キャプテン美髯が清王朝のダイヤを、リーダー格の男が張一族を、それぞれ確保するという約定であった。
その約定の最中、キャプテン美髯は張琅月の顔写真を見ていたのである。

「ゲヒッ、お前が無事でここにいて!あいつと連絡が取れないってことはよ!殺し屋でも雇ってあいつを返り討ちにしたのかー?」

キャプテン美髯は自慢の髭を撫でながら、瞳に危うい光を宿らせる。

「ゲヒヒ、安心していいぜぇ、張琅月!お前があいつの仇だったとしても、清王朝のダイヤのためだ。命を奪ったりはしねぇ。魔幇への復讐も、この俺様が手助けしてやろう!」

「残念ですけれど、わたしは貴方のような悪党に従うつもりはありません!」

スパイクは、もうすぐここに到着する。
それまで持ちこたえられれば、この男はどうにか倒せるはず。
合流までの時間を稼ぐため、メーメーは形意拳の構えを取った。

対するキャプテン美髯は青龍偃月刀を構え、切っ先をメーメーに向けた。
武器を振るうべく、一歩を踏み出そうとした、まさにそのときである。

頭上からタタッと何かが、キャプテン美髯の足元に突き刺さった。
何者かが武器を放ったのかと、キャプテン美髯は気色ばむ。
いや、よく見れば、突き刺さったのは武器の類ではない。
甲板を貫いているのは、蟹の身を取り出すための細身のフォークである。
ただの食事道具が、見事に甲板を刺し通していた。

キャプテン美髯は、フォークが飛来した方向を見上げる。
すると海賊船の天辺に、いつの間にやら長髪の男が立っていた。
灰緑のコートに鉛色のグローブ、そして何より目立つ白い狐の面。

即ち、拳狐である。

「ゲヒッ、何だお前は?!さては、俺様を狙う魔幇の刺客かぁ?!」

突然現れた拳狐に、キャプテン美髯は声を荒げた。
諍いの末、キャプテン美髯は現在、魔幇と敵対関係にある。
自分を狙う者がいるとすれば、魔幇の手の者に違いない。
そう考えるのは、自然な成り行きであった。

(おれ)は武人、名を拳狐(チュアンフー)――」

拳狐は名乗った後、軽やかに飛び立つ。
丈の長いコートの裾が、潮風を受けてバタバタとはためいた。
片膝を付いて屈むように甲板へ着地し、すぐさま顔を上げる。

「こんな面を着けてはいるが、己は一匹狼よ。魔幇なぞと一緒くたにされてはかなわぬ」

狐の面の奥から向けられた視線が、キャプテン美髯を鋭く射貫いた。

「ゲヒヒ、魔幇でないというなら、何故俺様に楯突く!この小娘に雇われた殺し屋か?!」

「おぬしの起こした騒ぎのせいで、厨房はもぬけの殻だ。おかげで、己の食う蟹が蒸し上がらぬ」

狐の面で隠せぬ口元が、不機嫌そうに歪む。

「か、蟹ぃ?ゲヒヒ、お前はいったい何を言っている?」

「賊には言葉が難しかったか?おぬしのことが気に入らぬ、そう言ったのだ」

拳狐は背中に手を伸ばし、銀灰色の長棍を取り出す。
その長棍をぐるりと回すと、キャプテン美髯に向けて構えを取った。
何の変哲もない、ごく普通の構えであった。

さて、このような両者のやりとりを半ば唖然として見ていたのが、メーメーである。
突如狐の面を被った男が乱入し、蟹がどうのこうので戦おうというのだ。
困惑しても仕方あるまい。

(お待たせ!今、外に出たけどほんとに海だね!メーメーはどこ?)

(……あ、ああ、スパイク。そこから、船が見える?)

スパイクからの連絡に、メーメーはハッと我に返った。
抑えきれない激情は弱まり、心に落ち着きが戻ってくる。
冷静になれたという意味では、先ほどの戸惑いも悪くはなかろう。

(見える、見える。メーメーはそこにいるの?)

(うん。とりあえず船の方に来て。攻撃は……ちょっと待って)

メーメーは考える。
拳狐と名乗った男は、今のところ敵ではないように思える。
先ほどの話からすると、魔幇に関わる者でもないらしい。

だが、自分の素性を聞かれた可能性がある。
もし拳狐がダイヤを狙う輩なら、敵対することも十分ありうる。
だとすれば、スパイクの存在は極力隠しておいた方が良いだろう。
それが、メーメーの結論だった。

「ゲヒヒ、そんなチャチな棒切れで俺様の青龍偃月刀に勝てるものかぁ!いいぜぇ、小娘共々まとめて相手をしてやる!ゲヒヒィー!」

そうしている間に、キャプテン美髯と拳狐の戦いは始まっていた。
拳狐の長棍は、飾り気のない簡素なものだ。
金属の棒をただ切り出したもの、そう言っても過言ではない。

一方、キャプテン美髯が持つ青龍偃月刀は、美麗な彫刻を施した、見るからに上質の武器である。
加えて、両者には覆しがたい体躯の差があるのだ。
キャプテン美髯が拳狐を侮るのも無理はない。

だが、その侮りは一合目で脆くも崩れ去ることになる。
勢い良く振り下ろされた長棍を、キャプテン美髯は青龍偃月刀で受けた。
苦も無く押し返し、そのまま攻めに転じられる。
そのはずだった。

「ゲヒッ?!」

想定外の威力に、キャプテン美髯は目を見開いた。
勢いがあるとか、技が優れているとか、そういう次元の話ではない。
単純に、見た目にそぐわぬ重みがあるのだ。
認識のズレは動きにもズレを生む。
結果、キャプテン美髯は軽くよろけることとなった。

「どうだ、美髯とやら。鎢鋼の棍は重かろう」

鎢、またの名をタングステン。
鉄の約2.5倍の比重と、ダイヤモンドに次ぐ硬度を持つ希少金属。
その希少金属を含んだ長棍を、拳狐は武器として持ち込んだ。
故に振るう長棍は、重く硬い。

さりとて常人にとっては鎢鋼の長棍など、重いだけのガラクタだ。
振るおうとしても逆に振り回されて、まともに使えたものではない。
だが、拳狐には《為逸速的一息(いっそくがためのいっそく)》がある。
止まっているものを高速で動かす、魔人としての特殊能力。
《為逸速的一息》のおかげで、拳狐は鈍重な長棍も、双剣のように疾く扱えるのだ。

無論、ただ《為逸速的一息》を使うのみでは、静止のために隙が生まれる。
しかし、拳狐は《為逸速的一息》を用いた摺り足で間合いをはかり、高速化に必要な長棍の静止時間を確保していた。
止まっているかどうかは、拳狐の主観に拠る。
拳狐から見て長棍が動いていなければ、足を動かしたとしても支障はない。

さらに、一打加えた後の構えは、長棍を不動のままに敵の攻めを受けられるものである。
これにより、拳狐は防御と溜めを両立していた。

「ゲヒ……だが、タネが分かってしまえば恐るるに足らず!喰らえぃ!」

いくら重くても、構えた武器ごと吹き飛ばしてしまえば関係ない。
そう考えたキャプテン美髯は、力任せに青龍偃月刀で薙いだ。
全力の勢いに、ブオンと風が鳴る。
しかし。

「失礼。わたしを忘れていませんか?」

大振りな攻めで生まれた隙に、背後からメーメーの形意拳・鱷形が突き刺さる。
メーメーは戦いの推移を観察しながらも、好機をうかがっていた。

「ゲヒャ?!」

キャプテン美髯は苦悶の声を上げ、動きを止める。
鍛錬を重ねた武人と比べれば、メーメーの拳法はまだまだ未熟。
だが、相手の意識の外から攻めるのであれば、未熟な技でも事足りる。
メーメーの拳は、キャプテン美髯の肉体に確かなダメージを与えた。

そして、そこから事態は動き出す。

拳狐が追撃を加えるべく、距離を詰める。
そうして、まさに長棍の間合いに入ろうかというときである。
ガシャンという音を立て、一つの甲冑が二人の間に割り込んだ。
甲冑はそのまま甲板を滑るように吹き飛んでいく。

数瞬遅れて、チャイナ服を着た男が甲板に降り立った。
濃褐色の肌をした、筋骨隆々の男だ。
しかし、チャイナ服の袖口から覗く腕だけは違う。
猛禽のように細く絞り込まれている。
どこかちぐはぐな印象を感じさせる、そんな男であった。

「オー、これはこれハ。中国っぽいものがよりどりみどりネ。困ってしまうアルヨ」

男は辺りを見回すと、これまたちぐはぐな口調でそう言った。

「皆さん、初めましてアル。畏れながらワタクシ、魔幇十傑の末席を占めるモノ。名前は……『R』とでも呼ぶがヨロシ」

『R』と名乗る男は、拱手をしながら恭しく礼をした。
その礼儀正しさとは裏腹に、目は全く笑っていない。

「……」

ガシャリ。
甲冑が、のそりと起き上がる。
あれほど派手に吹き飛んだにもかかわらず、身体を痛めた様子はない。
いや、それどころか甲冑には一つの傷も付いていない。
陽光を受けてギラつく板金は、どこか言い知れぬおぞましさを感じさせた。
クラム・ハードシェルだ。

「アイヤー、あれほど殴ったのに全然効いてないアルヨ。ダイヤを守る騎士は幽霊、という噂は本当だったアルカ?」

上海蟹ランドの大通りで、クラムを尾行していたのはこの謎の中国人『R』である。
『R』はキャプテン美髯の起こした混乱に乗じて、クラムへと襲い掛かった。
周囲の視線を気にせず済むようになったクラムも、両手剣を構えてこれに応じた。

幾度かの激突の後、『R』の剛拳がクラムに直撃。
クラムは、キャプテン美髯の海賊船まで吹き飛ばされた。
これが、ここに至る経緯である。

魔都上海でも、まず見ることのない全身鎧。
不気味な佇まいから漂う、どこか現実感のない雰囲気。
加えて、『R』が言い放ったダイヤという単語。
その場にいる全員が、この甲冑こそ噂の亡霊騎士なのだと理解する。

(清王朝のダイヤ……!)

清王朝のダイヤがどんな価値を持つものなのか、メーメーは知らない。
だが、百年節におけるダイヤの不在が、魔幇に打撃を与えうることは分かっている。
自分が手に入れられないとしても、魔幇の手に渡ることだけは避けなくては。
状況を静観しつつも、魔幇十傑を名乗った『R』への警戒を高めていく。
もちろん、自分の素性を知るキャプテン美髯に対しても。

「ゲヒヒヒィ!お前が噂の騎士か!上海の支配者であるこの俺様にダイヤを寄こしやがれ!」

キャプテン美髯は、上海で最も価値のある宝としてダイヤを求めている。
俺様は、七つの海に続いて上海をも制覇する男だ。
当然、上海の至宝も自分の手中にあるべきだろう。
そう本気で考えている。

「何故そうもダイヤを求めるのだ。貴婦人の美しさも知るまいに」

クラムは、声高にダイヤと叫ぶキャプテン美髯を見て、そうつぶやいた。
貴婦人の美しさを知ることもなく、ただの石を求める愚か者たち。
真の価値を知らぬ者などに、貴婦人を奪われるわけにはいかぬ。
クラムは両手剣を構え、強く握り込んだ。

誰が敵で、誰から倒すべきか。
それぞれの思惑が戦場を駆け巡る。

「ゲヒヒ!ダイヤは俺様のものォゲハッ!」

クラムに気を奪われたキャプテン美髯の腹を、長棍が激しく打った。

「己の前で余所見をするなど、よほど命が惜しくないと見える」

緊張の中、先んじたのは拳狐である。
拳狐が疾く動けたのは、ダイヤに対する立ち位置の違いによるところが大きい。
確かに拳狐は、清王朝のダイヤを欲している。
だが、必須というわけではない。
ダイヤは上海大賽に強者を呼び込むための手段であり、目的ではないのだ。
それ故、雑念を振り払い、眼前の敵を打つことに専念できた。

「オー、素晴らシイ!アナタ、とても中国っぽい武術家アルネ!ワタシ、アナタを倒したいアルヨー!」

長棍の見事な攻めを見て、『R』が拳狐へと殴り掛かる。
詳しい理由は分からぬが、拳狐の動きにどこか感じるものがあったらしい。
拳狐はすぐさま後方へ飛び退き、『R』の拳は空を掠める。
そこへメーメーが動き、追撃しようとする『R』に圧をかけた。

このような五者の攻防が続いた。
誰が勝ち抜けるでもなく、誰が負け落ちるでもない。
それぞれに異なる立場と均等とは言えない力量の差が、奇妙な均衡状態を作り出していた。

だが、その均衡状態は不意に崩れる。

クラムの革袋から貴婦人のダイヤが零れ落ちたのだ。
零れ落ちたきっかけが何であったのかは、分からない。
おそらくは、結わえた紐が偶然に切れたのであろう。
理由はともかく、ダイヤは甲板の上へ無造作に転がった。
全員の視線が注がれる。

ダイヤを最初に手にした者。
それは、貴婦人に侍る騎士ではなかった。
矛を隠し持つ復讐者でもなかった。
強者を求める武術家でもなかった。
謎に包まれた中国人でもなかった。

「ゲヒヒィ!野郎ども、今だぁ!」

強欲にまみれた七つの海の覇者だった。

キャプテン美髯の《超海制覇》は、海賊船を呼び出す能力ではない。
乗り込む海賊船は、金を積めば誰にでも買える普通の船である。
その船を操るのは、魔人ではないキャプテン美髯の部下たちだ。
七つの海を乗り越えてきた操船術は、達人の域に達している。

部下たちと呼吸を合わせた戦闘術。
それこそがキャプテン美髯、最大の武器である。
隠し持っていた切り札を、絶好の機会に解き放った。

突然海賊船が動き出し、激しい揺れが甲板の上にいる者を襲う。
クラムとメーメーはバランスを崩し、膝をつく。
『R』は辛うじて姿勢を保つも、動き出すには至らない。
《為逸速的一息》を持つ拳狐ですら、静止を乱されては足が止まる。

一方、キャプテン美髯は、揺れなど存在しないかのように悠々と駆け抜けた。
海に生きる男だからこそ、可能な絶技である。
キャプテン美髯は甲板の上を転がるダイヤに難なく辿り着き、手中に収めた。

「ゲヒヒヒヒャー!どうだ、これでわかったかぁ!俺様が上海の支配者よ!」

そう高らかに宣言したキャプテン美髯に、体勢を立て直した拳狐と『R』が果敢に仕掛ける。
だが、二人が動き出したタイミングに合わせて、海賊船は大きく蛇行した。
船はじゃじゃ馬のように暴れ、結果、拳狐と『R』は船外へと投げ出される。

この戦場に残る魔人は、残り三人。
いや、それに加えてもう一匹。

上海は今、混乱のただなか。
珍しいダイヤが盗まれて、街中が大騒ぎになっている。
七色に光る鎧の騎士がダイヤを守っている、という噂もその一つ。
本当か嘘かは分からないけど、噂を追って悪の組織も動いているらしい。

僕の名前は、スパイク。
上海の地下深く、下水道に住んでいるヨウスコウアリゲーター。
でも今いるのは、いつもの下水道じゃあない。
上海蟹ランドというテーマパークの中に、いきなり現れた海。
その海にぷかぷかと浮かんでいる海賊船の中さ。

えっ、陸地に突然海が現れるはずない?
そりゃあ、僕もそう思うけど、この目で見たんだから信じるしかない。
試しに水を飲んでみたら、ずいぶん塩辛かったしね。

メーメーは今、悪い海賊とかと戦っているけど、僕は配管の中で待機中。
攻撃の合図があるまで、じっとしていなきゃいけない。
だけど、もしメーメーが危なくなったら、すぐに飛び出してガブッと敵に噛みつくつもり。
メーメーは、辛いこともついつい我慢しちゃう性格だ。
僕が黙っていると、無茶することも結構あるからね。

そうこうしているうちに、海賊船がぐらぐら揺れた。
こんなに激しく揺れるのは、生まれて初めてだ。
うわわ、メーメーが甲板の上で派手に転んでる!

(メーメー!大丈夫?!)

(痛タタ……大丈夫、ちょっと尻もちを付いただけ)

ホッ。
本当にお尻から転んだだけみたい。
大きな怪我はしていないようだから、安心だ。

そうしているうちに、髭面の海賊がダイヤを拾った。
メーメーの復讐に必要な、とても貴重なダイヤだ。
ついでに、狐とチャイナ服が海の中に飛ばされて行った。

(攻撃しちゃダメかな?今って、けっこう噛みつくチャンスじゃない?)

状況を見て、メーメーに攻撃を提案する。

(今動くと、もう片方が厄介になりそうかな)

あえなく却下された。
両方まとめて倒せると思うんだけどなぁ。

(それより、スパイク。これから話す作戦を聞いて。まず――――)

僕は、メーメーが語る作戦を聞いた。

ふむふむ。
ちょっと不安はあるけれど、なかなか良い作戦だ。
僕が活躍する、というところが特に良い。

(オッケー、任せて!メーメーも無理しないでね!)

メーメーに返事をしてから、すぐに高速で移動し始める。
この作戦は、必ず成功させてみせる。
もうすぐダイヤは、メーメーと僕のものだ。

上海蟹ランドの一角。
遠のいていく海賊船を眺めながら、拳狐は佇んでいた。
敵を逃したにもかかわらず、口元からうかがえる表情に焦りの色はまるでない。

「追いかけなくて良かったアルカ?」

「なに、人生には休みが肝要よ。事を急いても仕方あるまい。それに……」

背後から声をかけた『R』に対して、拳狐が答える。

「それほどの拳気を当てられて、断るのは野暮というものだ」

拳狐は振り向き、『R』を見据えた。
『R』の身体からは、陽炎のように闘志が発せられている。
自らの手で拳狐を倒したい。
そう肉体が叫び立てているようであった。

「謝謝アル。応えてくれて、誠にありがたいアルヨ」

『R』は拱手を見せて、謝意を示す。
礼を尽くした挨拶だが、そこに平穏さは微塵もない。
掌に包まれた拳が、いつ牙を剝いてもおかしくはなかった。

「おぬしこそ、ダイヤを追わずに良かったのか?」

当然の疑問である。
清王朝のダイヤは、現在の魔幇にとって最優先事項。
それを無視してまで立ち合いを望むとは、如何なことか。

「清王朝のダイヤは確かに、貴重なお宝アル。でも、アナタの方がもっと中国っぽいネ。アナタを倒して、ワタシはさらに『中国』へ近付くアルヨ」

「はて、虚言か。それとも狂人の戯言か。まあ、どちらでも構わぬ」

拳狐は、おもむろに拳を構えようとする。
だが『R』は片手を上げ、その動きを留めた。

「ちょっと待つヨロシ。せっかく上海蟹ランドに来たアルヨ。もっと楽しい場所で闘うアルネ」

「ほう」

『R』は、一つの看板を指差す。
そこには、ポップな書体で書かれた上海蟹ウォーターライドという文字と、激流の絵図が描かれていた。

「良かろう。では、行くか」

「行くアルネ」

そういうことになった。



上海蟹ウォーターライドは、上海蟹型の乗り物で水路を流れていくアトラクションである。
俗に激流下りと呼ばれるものに近しい。
水の流れで生じる揺れや衝撃を、座席に座って大いに楽しむ遊びだ。
上海蟹の背を模した座席は円形に組まれ、中央には十分な空間がある。
やや小ぶりではあるが、水上の円形闘技場と言っても良いだろう。

『R』は器用に操作盤を動かすと、流れるように上海蟹の背へと乗り込んだ。
続いて拳狐も、静かに足を踏み入れる。
座席の中心を囲むように、両者は間合いを取った。

けたたましい発進音が、戦いの始まりを告げた。
先に仕掛けたのは、『R』である。

「ホワチャー!《中国四千年の歴史》の重み、たっぷりと喰らうアルネ!」

猛禽の如き『R』の両腕から、拳が繰り出される。
『R』が持つ《中国四千年の歴史》は、チャイナ服の袖に仕込んだものを『中国』っぽいものに変じる。
両腕は常に袖の中にあり、既に『中国』っぽいものと化していた。
腕だけではあるが、『R』の繰り出す技は中国拳法の達人のそれに等しい。
苛烈な勢いで放たれた拳が、拳狐を座席のへりまで吹き飛ばす。

「なるほど、なかなかの剛拳だ。だが、型がまるでなっていない。所詮は拳だけの紛い物よ」

腕を交差させた受けの構えをそのままに、拳狐は『R』を睨みつける。

「そんなことを言っていられるのも今のうちアル!ワタシの《中国四千年の歴史》は、達人の型さえも忠実に再現するアルネ!」

『R』は拳狐へと駆け寄り、さらなる打撃を放とうとする。

「アナタ、奇妙な足さばきを使うアル。でも激しく揺れるこの足場では、その足さばきは使えナイ!違うカ?!」

甲板の上での乱戦の中で、『R』は拳狐の《為逸速的一息》の片鱗を見た。
静止と高速移動の繰り返し。
揺れの中では即座に動けなかったという事実。
これらのことから、『R』は特殊能力の特性を類推した。

「ふむ。この戦場を選んだのは、己の《為逸速的一息》を封じるためか。確かに脚を速めるためには使えぬな」

迫る拳を狐面の奥の瞳に映しながら、拳狐はそう言った。

「だが、『R』よ。おぬしは墓穴を掘った」

拳狐は片腕で『R』の拳を受け流し、もう片方の腕で拳打を放った。
『R』の鳩尾に、神速の拳が突き刺さる。

「グハッ?!」

「確かに精強な拳よ。だが、拳打とは拳のみにて打つものに非ず」

中国拳法における打撃とは、ただ拳と腕の動きだけで放つものではない。
地を踏みしめ、身をねじり、勁を通す。
全身が連動してこそ、敵を倒すに足る威力が生まれる。
一部位のみを使った打撃で倒せるのは、明確な格下のみである。

「緩やかに揺蕩う甲板の上ならともかく、激流を下る舟の上では拳に勁が伝わるまい」

確かに『R』の両腕は、達人級だ。
だが、腕のみで放った手打ちの一撃では、相手の芯まで害を与えることはできない。
勢いに任せて身体を吹き飛ばすのが、関の山である。
技を繰り出す足場が不安定であれば、なおさらのこと。

「アイヤー?!そ、それならなんで、アナタのパンチはこんなに痛いアルカ?!」

「知れたこと。積み重ねた鍛錬の差よ。おぬしは型を侮り、稽古を怠った。ただそれだけのことに過ぎぬ」

拳狐は日々、型の稽古を欠かしたことはない。
さまざまな状況を想定した、絶え間ない反復。
その地道な積み重ねが、激流を下る舟の上でも強堅な拳打を放つことを可能としていた。
《為逸速的一息》を使うに足る下半身の静止は、無理かもしれぬ。
だが、眼前の敵を屠るに足る拳打なら、問題なく繰り出せる。

「ぐ、ぐぬヌ。しかし、《中国四千年の歴史》は拳法だけではないアルネ!この技を喰らうがヨロシ!」

『R』は拳狐から距離を取り、両手を袖の中に隠す。
そうした後、袖の中から複数の釵を投射した。
広く放射状に投げられた釵は、拳狐の逃げ場を塞ぐ。
《為逸速的一息》を使えぬ状況なら、避けることはできない。
そういう算段であった。

「袖口からただ武器を出すことを、技と言うか。中国の歴史も随分と安くなったものだ」

カン、カン、カンと金属音が鳴った。
見れば、拳狐の足元に釵が数本落ちている。
気付かぬうちに、拳狐の右手には鈍色の短杖が握られていた。
察するに、《為逸速的一息》で袖口から隠し杖を取り出し、釵を打ち払ったのであろう。

「ふむ、期待したほどではなかったな。激流下りの山場も、まだというのに」

拳狐は『R』に背を向け、上海蟹ウォーターライドの座椅子に手を掛けた。
そうして、悠然と前方の景色を眺め始めたのだ。
既に短杖はコートの中へしまわれている。
まるで、勝負はもう終わったとでも言いたげである。
後ろから攻められても何ともない、そう挑発しているようにも見えた。

「ふ、ふざけないで欲しいアル!勝負はまだ終わってないアルヨ!」

『R』は憤慨するが、拳狐に動きはない。
その間にも上海蟹ウォーターライドは、水路を進む。
ちょうど一番の激流ポイントに差し掛かり、大きく座席が傾いたときである。
『R』は懐からドル札の札束を取り出し、袖の中に加え入れた。

「《中国四千年の歴史》、フルパワーアル!銅貨の海で、溺れるがヨロシ!」

順治通宝、雍正通宝、乾隆通宝、咸豊重宝……。
『R』の袖口から、札束から変換された大量の古銭が溢れ出す。
それはもはや技とは言えない、単純な物量の暴力。
舟の傾きにより生じた高さの違いを活かして、下側にいる拳狐を古銭で押し潰そうというのだ。

然し。
古銭が座席の前方へ到達する前に、拳狐の姿は消えていた。

では、拳狐は何処か。
『R』の遥か頭上である。
拳狐は空中で姿勢を整えると、重力に任せて『R』へと身を落とした。
強烈な蹴りが背中を打ち、『R』は溢れる古銭の中に倒れ込む。

「な、なんデ……」

「《為逸速的一息》を、脚を速めるためには使えぬ、とは言ったがな。疾く動けぬ、と言った覚えはない」

からくりを明かせば、実に単純だ。
拳狐は、腕で跳躍した。
足で大地を蹴るが如く、両手で座椅子の一つを突き押し、身体を跳ね上げた。

脚に比べて、腕の力は弱い。
普通であれば、わずかに身体が浮くのみである。
だが、《為逸速的一息》で重力に勝る加速を得たならば、鳥のごとく高く飛翔することも不可能ではない。

虚言を以て、切り札を封じたと相手に思わせる。
意識の外に消え去れば、一度見せた切り札も伏せ札に戻り、敵を討つ。
これもまた、拳狐の繰り出す虚の拳である。

「巧い嘘つきは、嘘をつかずに嘘を成す。狐が正直者などとは、ゆめゆめ思わぬことだ」

上海蟹ウォーターライドが帰路に就くとともに、拳狐と謎の中国人『R』の勝負は決した。

「ゲヒヒ!これが清王朝のダイヤか。ゲヒヒヒ、なかなか美しいな。気に入った!」

海を生みながら進む海賊船の上。
キャプテン美髯は、ダイヤを検めながら満足気にそう言った。
握りしめられたダイヤが、陽光を受けて煌めく。

その言葉を受けて、クラムは静かに立ち上がった。
甲冑の姿に変わりはないが、漂う不穏さが増したように感じられる。
在るはずのない中身から、怒気が漏れ出してくるかのようだ。

クラムに今視界に捉えているのは愛する貴婦人ではなく、ただのダイヤだ。
艶やかな髭を蓄えた大男が、ダイヤを握っているに過ぎない。
だが、脳裏に浮かぶ貴婦人の姿を重ねてみればどうか。
目の前で不埒な賊に拐かされたに等しい。

「ゲヒヒ!あとはそこの鎧を真っ二つにしてから、ダイヤの秘密を聞き出すだけだ!」

キャプテン美髯の視線が、甲板に残った二人の魔人に向けられる。

「ゲヒヒヒィ!張琅月よ、せいぜい大人しくしていろ!お前まで放り出されては、探すのが面倒だからなぁ!ゲヒヒ」

その言葉を聞いて、むしろメーメーは奮い立った。
戦場に立ち続けることに、確かな意味があると知ったからだ。
自分が動きを見せている限り、キャプテン美髯は海賊船に無茶な動作をさせるまい。

(あとは、この騎士が思う通りに動いてくれるか、よね)

メーメーは、怒気を発する騎士を横目で見る。
この騎士のことは、ダイヤの守護者であるということ以外、ほぼ何も知らない。
だが、先ほどの乱戦で、騎士は自分に剣を向けなかった。
ダイヤを狙う意思を見せなければ、敵意を向けられずに済むのではないか。
メーメーは、そう推測している。
警戒を怠るつもりはないが、ひとまずは味方であると考えた。

(少しでもプレッシャーをかけておかないと)

メーメーはキャプテン美髯の背後に回り、隙をうかがう。
先ほど使った手であるだけに、警戒されることは間違いない。
しかし、気を散らせるだけでも十分に意味はある。

「下郎。薄汚れた手でそのダイヤに触れるなど、許されぬ」

クラムは両手剣を斜めに構え、キャプテン美髯へと近付いていく。
その力強い歩みに、眼前の敵に対する畏れは一切ない。
真っ直ぐに近付いて、ただ斬り捨てる。
そういう動きであった。

これに対して、キャプテン美髯は青龍偃月刀を片手で構えた。
青龍偃月刀は、長い柄の先に刃の付いた武器である。
長槍とまでは行かぬが、その間合いは両手剣より広い。

だが、憤怒するクラムが物怖じすることはない。
何のひねりもなく、クラムは青龍偃月刀の間合いへと入っていく。
鉄靴の進む速度には、些かの衰えもない。

「ゲヒヒヒ!おとなしく俺様の青龍偃月刀の餌食となれぃ!」

キャプテン美髯は青龍偃月刀を掲げ、クラムの脳天目がけて振り下ろす。
いくら兜に守られているとは言え、頭を打てば無事では済まぬ。
当然、両手剣を上段に構えて刃を受けるだろう。
あとはもう片方の手を添えて、上から刃を押し込めば良い。

仮に避けられたとしても、問題はない。
左右に避けられたなら、持ち手を返して、胴を斬り上げてやるだけだ。
後方へと退いたなら、腕を引き、突きを喰らわしてやれば良い。

「……」

しかし、クラムの動きはそのどれでもなかった。
クラムはキャプテン美髯の一撃を、兜で受けた。
いや、受けたと言うのは語弊があろう。
迫る青龍偃月刀を気にせず、ただただ前へと進んだのだ。

グワアン、グワアン。
兜の中から、反響音が鳴り渡る。

クラムの特殊能力《蜃気楼鬼貝故事》は、騎士の幻覚を見せる能力である。
幻覚である鎧と剣の形状を変化させることはできない。
青龍偃月刀が兜に直撃しても、板金が凹むことはないし、傷が付くこともない。
さらに鎧の中身は実体がない故、頭を打った衝撃でクラムが昏倒することもないのだ。

何事もなかったかのようにクラムは前進し、両手剣を振り下ろす。
キャプテン美髯は咄嗟に身を躱す。
が、自らの攻撃がクラムに効かなかったことへの混乱から、反応が間に合わない。
結果、七色に揺らめく刃が、キャプテン美髯の長い顎髭を斬り落とした。

「ゲヒ?!お、俺様の髭がぁー?!」

キャプテン美髯は、自慢の髭の惨状に思わず叫び声を上げた。

「……」

その叫びに構うことなく、クラムは無言で追撃する。
鋭く薙いだ両手剣が、キャプテン美髯の肉を深く裂いた。

「ゲヒィィィー!」

甲板の上に、大海賊の血が舞った。
血しぶきを浴びながら、クラムは再びキャプテン美髯へと刃を向ける。
キャプテン美髯は青龍偃月刀を振り回し、クラムを遠ざけようとしながら逃げ惑う。

だが、いくら刃が当たっても鎧が傷付くことはない。
青龍偃月刀の勢いが、わずかにクラムの前進を押し留めるだけだ。
おぞましい無敵の鎧を前にして、次第にキャプテン美髯の心は恐怖に満ちていく。

「ゲヒ……来るな、来るなぁー!」

キャプテン美髯には、もはやメーメーを警戒する余裕すらない。

「ゲヒィィー!や、野郎ども!船を揺らせ!もう小娘が落ちても構やしねぇ!」

背に腹は代えられぬと、キャプテン美髯は部下に合図を出した。
メーメーが海に落ちたとしても、後で拾い上げれば何とかなる。
それよりも今は、この騎士をどうにかしなければ。
だが、命令とは裏腹に、海賊船は次第に速度を落とし、甲板の揺れも勢いを失っていく。

「ゲヒ?!どうした、もっと速度を上げろ!聞こえないのか、上げるんだぁ!」

キャプテン美髯は、焦りながら命令を下す。
しかし、その命令を聞く者はもういなかった。
いないのだ。

「お客様、船はもうすぐ港に着きますよ。あなたの旅も、ここまでですね」

メーメーが、慌てふためくキャプテン美髯に皮肉めいた言葉をかけた。
《鱗語交流》、完全同期(フルアクセス)
スパイクと共有する視界は、機関室と部下たちの死体を映している。

(やったね、メーメー!作戦大成功!)

いったい何が起きたのか。
メーメーとスパイクが実行した作戦は、こうだ。
海賊船の配管を通じて高速で移動し、船内にいるキャプテン美髯の部下を噛み殺していく。
部下を始末し終えたら、スパイクと視界を共有したメーメーが指示を出し、機関室のハンドルを操作する。
そうして海賊船の速度を落とし、甲板の揺れを止めたのだ。
スパイクの短い手足でハンドルを操作できるかどうかが不安要素だったが、何とかなった。

「……ダイヤを返してもらおう」

キャプテン美髯の眼前に、血で濡れたクラムが立っていた。
逃げ出そうしても、もう遅い。
剣の切先がキャプテン美髯の心臓を貫き、大量の血が噴出した。

「ゲ、ゲヒ……」

《超海制覇》で生み出された海が消えていく。
海賊船は甲板に近い部分を残して、上海蟹ランドの地面に沈む。
カニデレラ城前の庭園に、元々存在したオブジェであるかのように鎮座していた。

クラムはキャプテン美髯の死体をまさぐり、貴婦人のダイヤを取り戻した。
ほんの一瞬だけ、取り戻した。
そう、ほんの一瞬だけ。

突然、海賊船の配管から白く巨大な『透明ワニ』が現れた。
《下水鱷魚》を以てすれば、機関室から甲板へ素早く移動することは難しくない。

(ガブッと行くよ!)

スパイクは、渾身の力でクラムの腕に噛みついた。
無論、それは幻覚だ。
甲冑が噛み砕かれることはない。
しかし、甲冑を顎で挟み込んだまま、排水口へと引きずり込むことは可能だ。

「何!」

クラムの重量は、鋼鉄の鎧と剣と同等の重さしかない。
中身が詰まっていない分、見た目の印象と比べて随分と軽い。
強靭な肉体を持つスパイクなら、引き倒すのは容易だ。
不意を突かれたクラムには、力を込めて踏ん張る余裕もない。
鋼鉄の篭手から貴婦人のダイヤは零れ落ち、甲冑の騎士と『透明ワニ』は姿を消す。

「ごめんなさい……。でも、わたしにはどうしてもこのダイヤが必要なの」

恋辻メーメー。
真の名を、張琅月。
悲しき復讐者は、静かにダイヤを拾い上げた。

「これが、清王朝のダイヤ……」

メーメーは下船し、ようやく手に入れたダイヤを、しげしげと眺めた。
確かに大きく美しいダイヤだ。

「でも、これは本物なの……?」

しかし、清王朝のダイヤであるという確信を持つことはできない。
そもそもメーメーは、清王朝のダイヤがどのようなものであるのかを知らない。
宝石商のようにダイヤの鑑定ができるわけでもない。
本物であることを確かめるには、誰かの手を借りなければならないだろう。

問題は、誰を頼りにするかということだ。
信頼に足る相手でなければ、そこから復讐の企みが露見する可能性がある。

「張一族の秘伝なんてものがあるなら、今役立ってくれたら良いのに」

ダイヤの真の力を引き出すという、張一族の秘伝。
メーメーはその秘伝について、何も教えられていない。
本当にそんなものがあるのかさえ、不明だ。

「勝ち残ったのがおぬしとは、なかなか意外な結果だな」

突然かけられた言葉に、メーメーは驚いて振り向く。
そこには、狐の面を被った男が立っていた。
立ちはだかっていた、と言ってもよい。
メーメーは、咄嗟にダイヤをポケットに入れる。

「随分と早いお戻りですね。だいぶ離れたところへ放り出されたはずなのに」

「これでも足の速さには自信があってな。少し休めば、一飛びよ」

「……わたしが、黙ってそこを通してください、と言ったら?」

メーメーは、一縷の望みを持って拳狐に問いかけた。
拳狐の目的は、いまだ不明だ。
ダイヤ以外を求めて、上海蟹ランドに来た可能性もある。
もっとも、それが希望的観測に過ぎないことは、メーメー自身が一番よくわかっているのだが。

「おぬしがダイヤを置いていくと言うなら、喜んでそうしよう」

拳狐の返答は、ダイヤを狙っていると宣言したに等しい。
かすかな希望はあえなく潰えた。

「魔幇にダイヤを渡して、望みを叶えてもらうつもり?」

キャプテン美髯との問答の中で、拳狐は自分が魔幇でないと語った。
であるならば、ダイヤと引き換えに叶えたい望みがあると考えるのが、自然だ。

「否。望みは、己自身の手で叶えるものよ。わざわざ魔幇を喜ばせてやるつもりはない」

魔幇にダイヤを渡すつもりがない……?
意外な返答に、メーメーは訝しむ。

「では……魔幇の面子を潰すため?」

もしかして、この男は自分と同じように魔幇への復讐を企んでいる?
だとすれば、争わずに済むかもしれない。

「重ねて否。魔幇の奴らは気に入らぬが、ダイヤでどうこうしようという話ではない。いや、結果的にはそういう話になるか?」

拳狐は顎をさすりながら、思案している。
本当に考え込んでいる、そういう様子だ。

「ふむ。己の企みを一から説明してやってもよいが、些か面倒だ。短くまとめるとしよう」

拳狐の視線が、にわかに圧を増す。

「つまるところ、こうだ。己にあっさりと負ける者に、ダイヤを預けるつもりはない」

拳狐はそう言うと、拳を上げる。
狐の面から覗く視線は、そのダイヤを持ち帰りたいなら自分を倒してみろ、と言っている。
もはや闘争は避けられないだろう。
メーメーは覚悟を決め、鱷の構えを取った。

(スパイク!聞こえる?!)

メーメーは《鱗語交流》でスパイクに呼びかける。
拳狐を一人で相手にするのは、ちょっとどころではなく荷が重い。
いち早く、スパイクの助けが必要だ。
幸い、スパイクの姿は拳狐に見られていない。
不意打ちを仕掛ければ、倒せるはずだ。

(メーメー!この全身鎧、水に沈めても全然静かにならないよ!噛み砕けないし、中身が空っぽだ!)

水の中で溺れない?
中身が空っぽ?
まさか、本当に亡霊だとでも言うのだろうか。

(スパイク!ひとまず、そっちは放っておいて!今、狐面と戦っているの!)

(オッケー、了解!今すぐ行くよ!)

しかし、騎士のことを気にしている余裕はない。
とにかく、合流が優先だ。
騎士の方は、目の前の男を倒してから考えよう。

拳狐との戦闘は、一方的な展開になり始めていた。
メーメーが攻めようとしても、その動きの起こりを悉く拳狐に潰される。
こちらの繰り出す手が、全て見透かされているかのようだ。

だが、拳狐に勝負を決めようとする気配はない。
攻めては来るが、その動きは牽制の域を出ないものだ。
急所にポンと軽く当たる拳、身体すれすれを掠める蹴り。
明らかに手を抜かれている。
本気を出せば今すぐにでも殺せるぞ、そう言わんばかりの動きだ。

「己の目的は置いておくとしてだ。張琅月よ、おぬしの目的は魔幇への復讐か?」

牽制の攻めを繰り出しながら、拳狐はメーメーに問いかけてくる。
やはり、キャプテン美髯との話は拳狐に聞かれていた。
メーメーの懸念は当たっていたと言える。

「はっ、そんな顔をせずとも良い。誰かにおぬしのことを吹聴するつもりは毛頭ない」

顔をしかめたメーメーを見て、拳狐はそう言った。

「だが、悪いことは言わぬ。復讐など止めておけ」

「復讐は何も生まない、とでも言うつもりですか?」

込み上げてくる怒りを抑えながら、メーメーは拳狐に返答した。
魔幇への復讐を果たしたとしても、あの頃の幸せな生活は帰ってこない。
父と母の行方が分かるとも限らない。
しかし、それが復讐を諦める理由になるだろうか?
悲しい記憶を綺麗さっぱり忘れて日々を生きていくことなど、できはしない。

「己は、復讐の是非を説いているのではない。可否を説いているのだ」

拳狐の手刀が、メーメーの喉元ぎりぎりで止まる。
あと一歩踏み込めば、メーメーの息の根を止めるに足る位置だ。

「今のおぬしでは、復讐を成し遂げられぬと言っている。魔幇と相対するには、力不足よ」

その言葉にメーメーは押し黙り、目を閉じる。
が、すぐに目をカッと見開き、こう言った。

「なら、力が足りないかどうか、その身で確かめてもらいます!」

(今よ、スパイク!)

戻って来ていたスパイクを、既にメーメーは視界に捉えていた。
排水口の影に潜むスパイクへ、《鱗語交流》で攻撃の指示を出す。

(オッケー、任せて!)

回転しながら獲物を食いちぎる『透明ワニ』のデスロール。
いくら身体を鍛えていようとも、一度噛みつかれてしまえば命はない。

(あ、あれ?)

だが、拳狐の姿はそこにはない。
《為逸速的一息》。
下半身の十分な静止は、神速の避けを生む。
スパイクの顎は、虚空を噛んだ。

「伏せ札が鰐とはな。流石の己も、少し驚いたぞ」

事もなげに拳狐がつぶやく。

「……どうして不意打ちが分かったの?」

「あの二人におぬしが打ち勝つなら、伏兵か魔人の能力のどちらかと読んだまでよ。加えて、おぬしはちと分かりやす過ぎる」

奇襲は普段と変わらぬ振りが肝要よ、と付け加えながら、拳狐は長棍を構えた。
本気で来る、ということだろうか。

「さて、おぬしが鰐使いと分かったところで、第二幕と行くか」

スパイクを加えて、拳狐との戦いが再び始まった。
完全同期でスパイクと息を合わせながら、メーメーは果敢に攻めていく。
しかし、どれだけ攻めても、拳狐に打撃を与えるには至らない。
スパイクの顎と尾も、虚しく空を切るばかりだ。
理由は主に二つ。

一つ目。
メーメーは、高級デリバリーサービスの人気嬢である。
童顔と愛嬌を売りとする商売であるために、筋骨隆々となるまで身体を鍛えることは禁じられている。
客を魅了するか細い腕が、敵を屠るに足る膂力を得ることはない。
その非力さを拳法で補おうにも、数多の型を修める拳狐が相手では分が悪い。

それ故、急所にさえ気を付けておけば、メーメーの拳で致命傷を負う恐れはない。
拳狐は意識のほとんどを、スパイクに向けながら戦えるのだ。
隙を狙おうにも、虚の拳を知る拳狐には効果が薄い。

二つ目。
拳狐は、ほとんど攻め打たず、守りに専念していた。
牽制や相殺の攻めは繰り出すものの、間合いに深く立ち入ることはない。
《為逸速的一息》を回避にのみ使い、スパイクの猛攻を捌いている。
かと言ってスパイクが攻め一辺倒となれば、すかさず長棍で隙を突いてくるのだ。

「もう!逃げ回ってばかり!」

(おかしい!全然捕まえられないよ!)

「このコートは、防刃・耐火の特注品だ。鰐の顎で食い破られてしまっては、買い替えに困るのでな」

軽々とスパイクの顎と尻尾を避けながら、拳狐はメーメーを茶化す。
このままでは埒が明かない。

(スパイク!棍を狙って!硬いはずだから、注意して!)

(了解、了解!ガブッとな!)

メーメーの指示を受け、スパイクは狙いを拳狐本人から、拳狐が構えた長棍へと変える。
静止した長棍を、スパイクの自慢の顎が挟み込んだ。

(よーし、捕まえた!……アガガガガガ)

噛みついた長棍から、激しい振動が伝わる。
《為逸速的一息》。
拳狐は構えたまま、長棍をその場でドリルのように回転させていた。
手にはめた鉛色のグローブから、焦げた臭いがわずかに漂う。
拳狐は力を流して長棍を振り、怯んだスパイクを無理やり払い落とした。

「ふむ。筋は悪くないが、鍛錬が足りぬ。おぬしらは未だ一人と一匹のまま。一人にして一匹にならねば、魔幇の闇を払うに値せぬぞ」

「いったい、何のこと?」

謎めいた拳狐の言葉に、メーメーは思わず問いを返す。

「上手く息を合わせてはいるが、実のところ立場を違えている。いずれにせよ、復讐は止めておけということよ」

「また、そんなことを!」

(メーメー、落ち着いて!)

怒りが、またぶり返してくる。
挑発かもしれないと分かっているにもかかわらず、悔しさを抑えきれない。

「どうしても、と言うならば。まずは、そやつを倒すところからだな」

拳狐が指差す方向には、板金鎧と両手剣があった。
クラム・ハードウェル。
汚水にまみれた七色の騎士が、暗い地下より這い出てきた。

「その騎士はおぬしに執心の様子。気を向けぬ相手を敵としても面白くはない。己は、しばし見物させてもらうとしよう」

拳狐は長棍を収め、笑みながら静観の構えを取った。

「愚かな盗人よ。ソレガシにダイヤを返す気はあるか」

「……」

メーメーは、その問いに答えなかった。
答える意味がないからだ。
自らの復讐にダイヤを必要とする以上、答えは否に決まっている。
否と答えるなら、そこに交渉の余地はない。

(さっきの要領でお願い!スパイクが押さえ込んでいる間に、ダイヤを安全なところまで持って行くから)

(わかった!じたばたされても、押さえつければオッケーってことだよね?)

メーメーの勝ち筋は、先刻ダイヤを奪ったときと同じである。
スパイクが噛み付いて、下水道へと引きずり込む。
ただ、それだけだ。

水に浸しても溺れないという点は気にかかる。
だが、スパイクの顎が鎧を捕らえている間は問題ない。
動きを封じている隙に十分な距離を取れば、逃げ切れるはずだ。
いくら怪談の騎士と言えども、ホラー映画のようにどこへ逃げても追ってくるということはあるまい。

「返す気はないか。ならば、命はないものと思え」

クラムは両手剣を構え、じりじりと距離を詰めていく。
下水道の汚水で濡れた板金は、先ほどよりも禍々しく煌めいている。
現世のものとは思えぬ、ひどく不快な怪光だ。
地獄の番人だと言われても、思わず納得してしまうことだろう。

「行きます!」

メーメーは鱷形に構えて、クラムの注意を引こうとする。
スパイクの攻めを成し遂げるには、敵の意識を逸らすことが肝心だ。
十分にメーメーへ意識を集中させて、真っ向からの力比べを避けること。
それこそが、勝ち筋へ向かう近道である。

しかし、クラムはメーメーを振り切り、スパイクへと向かっていく。
理由はひどく単純だ。
先ほどの拳狐と同じである。
《蜃気楼鬼貝故事》によって、クラムの鎧が傷付くことはない。
それ故、メーメーの拳はクラムにとって脅威たりえぬ。
であれば、気にかける必要がないと考えるのは当然のことであろう。

(よし!狙い通り!)

(やっちゃえ、メーメー!)

だが、それこそがメーメーの狙いであった。
真の狙いは、油断を誘い、クラムの姿勢を崩すこと。
メーメーは完全同期を通して、甲冑だけの軽さを知っている。
体勢を崩すのみなら非力な自分でも成しえると確信していた。
ひとたび崩してしまえば、あとはスパイクに任せるだけだ。
メーメーとスパイク、両者が揃っているからこその戦術である。

メーメーには、スパイクがいる。
完全同期は二つの視点をもたらし、死角を消し去る。
両者の力に差はあるが、手数も二倍となる計算だ。
メーメーは常に、親友と一緒に戦っている。

対するクラムは、一人だ。
愛する貴婦人が戦場に出ることは決してない。
それどころか、言葉を返すことすらありはしないのだ。
不変の鎧に守られてはいるが、クラムはただ一人で戦わねばならない。

しかし、陰と陽。
あるいは、静と動。
相反するように思える二つも、些細なきっかけで入れ替わる。
強みは弱みに、弱みは強みへと変わりうる。

急に足を止めたクラムは、振り向きざまにメーメーへ刃を振るった。
メーメーの真の狙いまで読んでいた、ということはない。
硬い鱗を持つスパイクと違い、メーメーは斬撃一つで事足りる。
殺せる相手が間合いに入ったから殺しておく、ただそれだけの動きである。

クラムは騎士道に殉じているわけではない。
クラムが剣を捧げるのは、貴婦人に対してのみ。
貴婦人を救うためならば、クラムはいかなる不意打ちも躊躇しない。

(メーメー、危ない!)

この危機を見たスパイクは、咄嗟に飛びつき、メーメーをかばう。
もしこのとき、メーメーに迫る刃を無視して、スパイクがクラムに噛み付いていたとしたら。
勝利はメーメーたちのものであったかもしれない。

しかし、それはあくまでも仮定の話だ。
メーメーは復讐者だが、スパイクはそうではない。
スパイクは協力者であり、庇護者である。
メーメーを犠牲に勝利を得ようとすることはないだろう。
完全同期した思考の中でも、その原則は不変のものだ。

クラムの両手剣が、スパイクの背を肉に至るまで切り裂いた。
現実に起きた結果は、ただそれだけである。

(痛ッ!!痛い、痛い!)

「ッ!スパイク!」

鋭い痛みに、メーメーは思わず《鱗語交流》の完全同期を解除する。
地を這うスパイクは血を流し、痛みに悶えている。
追い打つように、クラムの両手剣がスパイクの鼻先に向けられた。

「もう一度だけ聞く。ダイヤを返す気はあるか」

ひどく落ち着いたクラムの声が、メーメーに問いを発した。
断れば、スパイクの命はない。
そう言わんとしていることは明らかだ。

「ダイヤを返せば、スパイクを助けてくれる?」

「……命だけは助けてやろう」

その言葉を聞いて、メーメーはポケットへと手を伸ばす。

(……駄目だよ……メーメー……)

スパイクは必死に止めようとする。
しかし、メーメーの決断が変わることはなかった。
ダイヤは確かに復讐の鍵だが、ただ一人の親友を捨ててまで得るものではない。
メーメーはポケットからダイヤを取り出すと、クラムの足元へ転がした。

「我が貴婦人よ、不覚を取ったソレガシをお許しあれ」

クラムは屈み、恭しくダイヤを拾い上げる。

「どうだ、少しは力不足が分かったか。矛が盾までやろうとしては、勝てる勝負も勝てなかろう」

拳狐が、メーメーとスパイクの前に躍り出た。

「これに懲りたら、復讐についてよくよく考えてみることだ。真に人鰐一体となれば、道も拓けよう。ひとまず、ここは退いておけ」

悔しげな表情を浮かべながらも、メーメーはスパイクの身体を引きずろうと試みる。
幸い、スパイクの命に別状はないようだ。
心もとない足つきではあるが、メーメーの動きに合わせて身を這わせ始めた。

これで戦場に残るは、剣と拳のみ。
勝ち誇るのは、ただ一つ。

十一

上海蟹ランドのシンボル、カニデレラ城。
至るところに上海蟹の意匠が施された城の中を、水路に乗って巡るアトラクション。
ステンドグラスに描かれた上海蟹が、夕陽を受けて橙色に茹で煌めいている。

その城を守るかのように、一人の騎士が立っていた。
その騎士に向かって、一人の武人が進んでいく。

「貴君もまた、ダイヤを狙う者か?」

クラムは、拳狐にそう問いかける。
その問いは肯定あるいは沈黙を前提としていた。
ダイヤを求めずして、何の用があるものか。

「そうだとも言えるし、そうでないとも言える」

拳狐の答えは少し違っていた。

「しかし、まあ、狙っているということにしておこう」

「どういう意味か」

「勝負が決するまで、ダイヤは関係ないということよ。仕舞うなり、隠すなり、好きにするが良い」

拳狐の言葉に騙りの気配はない。
戦おうという意志だけが、そこにはあった。
言葉を受けて、クラムは貴婦人のダイヤを革袋に詰める。
そうしてから固く、固く鎧に結わい付けた。

「己の名は拳狐。一つ、手合わせ願おうか」

拳狐は長棍を小脇に抱え、クイックイッと左手の指を動かす。
クラムに対して、かかって来いと促す手振りだ。

「ソレガシはクラム・ハードシェル。貴婦人の敵を打ち払うのみ」

対するクラムの動きは、平常と変わらない。
ひたすらに近付いて、ただ斬り付ける。
両手剣での戦い、基礎中の基礎。
その基礎に従って、前へと進んだ。

ガキンッ。
クラムの振り下ろした両手剣を、拳狐の構えた長棍が弾いた。
剣は幻覚であるが故、その刃がこぼれることはない。
長棍も鎢鋼の硬さ故、その身が削れることはない。

弾かれた勢いを利用して、クラムは両手剣を引き、刃の向きを変えて薙ぐ。
鋭く疾い刃の軌道は、水平の線をなぞる。
その線分は、拳狐の胴を真っ二つに裂く道筋だ。

「ふっ」

チリリと音がした。
拳狐の長い髪の毛先が数本、刃に断ち切られて、花弁のように宙を舞う。
両手剣は空を斬り、刃は横へと流れていく。
拳狐の姿は刃の軌跡、その下にあった。
《為逸速的一息》で膝の動きを速め、素早く屈んで身を躱していた。

いや、ただ躱すだけではない。
拳狐は屈むと同時に右足を後ろに引き、そのまま反時計回りに弧を描かせる。
下段蹴りだ。
勢いを増した右足は、クラムの脛当てをしかと打つ。
甲冑のみの軽さ故、打たれた脛は常人よりも強く蹴り飛ばされる。
バランスを崩され、クラムは斜め前方へ転ぶ。

「むう」

だが、クラムはただ転ぶに任せることを良しとしなかった。
咄嗟に肘を出し、拳狐の身体に落とさんとする。
甲冑と聞けば、身を守る武具と思い込む者は多かろう。
しかし、よくよく考えれば、着用者の意のままに動く鉄鋼である。
十分な速さがあれば、武器として敵を打ち据える。

拳狐は蹴りの勢いそのままに、ぐるりぐるりと横に転がった。
長棍を抱いて数回転がり、クラムとの距離を取る。
かくしてクラムの肘当ては地を打った。

「やれやれ。崩しは効くが、打つはやはり無意味か。難儀なことだ」

身を起こしながら、拳狐がつぶやく。

「ソレガシの甲冑は傷付かぬ。無益な試みを止めて去るならば、追いはせぬが」

立ち上がりながら、クラムは退散を促す。
促しつつも、分かっていた。
このまま去るような男ではない、と。

「なに、勝負などというものは、難事にぶつかってからが本番よ。どれ、ここは一つ、あれを試してみるとするか」

そう言うと、拳狐は長棍を水平に構え、身を沈めた。
長棍の先端は、クラムに真っ直ぐ向いている。
左手は長棍の末端に置かれ、右手は長棍に添えられていた。
例えるならビリヤード。
球を撞くハスラー。
そのような構えであった。

これを見て、クラムは上段の構えを取る。
拳狐の突きに合わせて、刃を振るうつもりだ。
仮に突き飛ばされたとしても、両手剣の間合いに拳狐は収まる。
だが、その間合いに拳狐が入ることはなかった。

「はっ」

ギュイイイン。
突然激しい音が鳴り、板金に火花が散る。
見れば長棍が甲冑を突き、ドリルのように回転している。
拳狐の手には、何も握られてはいない。
左手が掌底の形を取り、前方へと突き出されていた。

拳狐が仕掛けた技は、こうだ。
まず、長棍を《為逸速的一息》により高速で回転させる。
回転させた後、今度は左手を速めて、掌で勢い良く長棍を押し出す。
鉄砲の弾丸を撃つかのように、拳狐は長棍をクラムへと飛ばした。

人間相手なら、肉を捻じ切る回転である。
しかし、その回転もクラムの甲冑を傷付けることはない。
クラムは上段に構えたまま、不動。
長棍はやがて勢いを失い、カランとクラムの足元に落ちた。

「はてさて、穿ちも無為か。金剛不壊とは、おぬしのことよ」

「……ソレガシは幻覚に過ぎぬ。何度やっても結果は同じだ」

「触れもするし、声もする。加えて太刀筋は、強者のそれだ。これでも、おぬしはまやかしと言うか」

「疑う余地なく、幻覚だ。ソレガシには、それが分かっているのだ」

答えながら、クラムは自らの言葉を反芻する。
そう、分かっているのだ。
根拠はないが、クラムは自身が幻覚だと認識している。

幻覚が思考するのか、という疑問は当然ある。
だが、現実にクラムはこうして思考しており、かつクラムは幻覚である。
おそらく、クラムの中の何かが狂っているのだ。
何が、と問われれば答えに窮するが。
クラムにとって確かなものは、貴婦人の美しさ、それ以外にない。

クラムが思考を巡らせているわずかなうちに、拳狐は加速していた。
瞬く間に拳狐の左肩はクラムの胸下あたりへ密着し、彼我の距離はゼロとなる。
その位置は、上段に構えた両手剣の刃が届かぬ場所。
危険領域の先にある安全圏。
クラムが拳狐を斬ろうとするなら、握りを変える必要がある。

密着体勢をそのままに、拳狐はクラムの甲冑を右指でなぞる。
狙いは崩しか、あるいは投げか。
ジャズピアノを弾くが如く、掴みどころを探す指が板金の上で踊った。

クラムは斬撃を諦め、柄頭による殴打を試みた。
柄頭とは、両手剣の柄の先端部のことである。
敵を殴るに十分な重さと硬さを兼ね備えたそれは、刃の届かぬ場所をも殴れる武器だ。

頭上から迫りくる柄頭を、拳狐は首を傾け躱そうとする。
直撃は避けるものの、柄頭はさらに拳狐の肩へと襲いかかる。
命中。

「ぐっ」

肩口から広がる鈍器の衝撃が、拳狐の身体をクラムから離した。

「むん」

これを好機と見たクラムは、構えを上段に戻し、わずかに身を引く。
そうしてから、疾風怒濤の勢いで両手剣を斜めに振り下ろした。
振り下ろす先は、拳狐の首。
一振りにて命を奪う激烈な斬撃である。

ガキンッ。
クラムの振り下ろした両手剣と、拳狐の長棍が再びぶつかった。
拳狐は地面に対して垂直に長棍を立て、腿で支えて斬撃を受けている。
斬撃の起こりを見た拳狐は、クラムの足元で十分に静止した長棍を《為逸速的一息》により手元に戻したのである。

そしてこれは、ただの受けではない。
反撃の足がかりだ。
拳狐は長棍を軸に、猛然と足を振り上げる。
たちまち天地は逆となり、拳狐の足がクラムの兜へ向かう。
ポールダンサーが舞うように、拳狐は回りながら蹴りを放った。

蹴りはクラムの兜を強く擦るも、向きを変えるに留まる。
もちろん、兜に傷などない。
拳狐はそのまま長棍を後方へ傾け、足から着地した。

「バラすも無理と来たものよ。なかなか良い手だと思ったのだがな」

拳狐の狙いは、分解であった。
全身鎧と言っても、その全てが溶接され、つながっているわけではない。
人が着脱する防具である以上、複数の部位に分かれている。
では、クラムの鎧を部位ごとに分けてみればどうなるか。
例えば、篭手を外して遠くへ離してしまえば、剣を握れなくなるのではないか。
そういう発想である。

しかし《蜃気楼鬼貝故事》は、騎士の幻覚を見せる能力である。
バラバラに離れた甲冑を並べたところで、それを騎士と呼ぶだろうか。
否。
それは騎士ではない。
であれば、騎士の姿を損ねる変化は当然妨げられる。

「無益だと言ったはずだ。幻覚は幻覚に過ぎぬ」

「では、こうして言葉を交わしているおぬしも、全て己の妄想だと言うのか。おぬしに心など、毛ほどもないとでも言うつもりか」

「いや。貴君の聞く言葉は、間違いなくソレガシの意志で発する言葉だ。心というものが、ここにあるのだろう。おそらくは」

心というものは確かにあるらしい。
クラムはそう感じている。
こうして思考しているからではない。
貴婦人を想うとき、激しい感情が胸中に巻き起こるからだ。
その想いを心と呼ばずして何と呼ぶのか。

「ふむ」

そこからの拳狐の動きは、奇妙なものであった。
長棍の先をクラムの鎧に軽く当て、引き戻す。
牽制とも言えないほどのわずかな動き。
そうしてから、拳狐は呵呵と笑った。

「何が可笑しい」

その様子を見て、クラムが何事かと問いかけた。

「己は難しく考え過ぎていたということよ。幻覚であろうとなかろうと、おぬしは間違いなくこの場に生きている。それが今分かったのだ」

「何を言っているのか」

クラムは困惑する。
ソレガシが生きている?
血も肉もなく、ただここに在るだけのもの。
あやふやな記憶、鎧の中の虚空。
そんなものを生きていると呼べるだろうか。
亡霊、そう呼ばれた方がまだ得心が行く。

「己の《為逸速的一息》は、一時の静を以て一瞬の動をもたらす。だが、動をもたらすには制約がある」

拳狐はクラムに構うことなく、話を進めた。

「意志持つ命がまとう物を、己は速められぬ。そして今、己はおぬしの鎧を速められなかった。即ち、おぬしは生きている」

拳狐はそう言いながら、長棍を後方へ投げ捨てた。

「何をしているのか」

クラムの困惑は増す。
どうやら拳狐の中には、自分が生きていると認める道理があるらしい。
それは分かる。
だが、どうして武器を捨てるという愚行を選ぶのか。

「己の拳に立ち戻るのだ」

拳狐はおもむろに拳を握り、待ちの構えに入る。
その構えは、実に基本の型に忠実な構えであった。
時代がかったと形容しても良いほどに、ありふれた構えであった。

「生きているのなら、己の拳で殴り倒せる」

狐面の奥の瞳に欺瞞はない。

「貴君がどう考えたところで、ソレガシは幻覚だ。この鎧を傷に付けることは叶わぬ」

そう言いながら、クラムは自分に言い聞かせる。
何を主張しようと結果は変わらない。
そのはずだ、と。

「おぬしがどう考えようと、己には関係がない。己が、己の拳を信じるだけのこと」

「信じたから何なのだ。信じれば、世界が変わるとでも貴君は言うのか」

「変わるとも。世界を変えるのは常に、変えられると信じる意志だ。望みを叶えようとする心だ。その心が錬磨を生み、錬磨が成果を生む」

その言葉は、確信に満ちていた。

「クラム・ハードウェル。幻覚を自称する騎士よ。おぬしには、何一つ叶えたい望みがないと言うのか」

拳狐は、クラムに問うた。

「いや。望みはある」

ある。
あるとも。
分不相応な望みではあるが、一つだけある。

「では、その望みに殉じるが良い。己も、己の拳に殉じるとしよう」

「よかろう」

クラムは両手剣を構えて、じりじりと拳狐へ迫る。
剣と拳の間合いが、少しずつ近付いていく。
次の一手が勝負の決め手になる、そういう予感があった。
先んずれば勝つ、そういう直観があった。
しかし、先に動いたのはクラムでも拳狐でもなかった。

白く大きな『透明ワニ』が、排水口から飛び出してきた。



全身鎧に斬られたところが、じんじんと痛む。
もしかしたら、まだ血が止まっていないのかもしれない。
構うもんか。
きっと明日の朝には治っているはずさ。

メーメーには止められたけど、僕は諦めきれなかった。
目当てのダイヤがすぐそこにあるのに、黙って逃げるなんて出来やしない。
もうメーメーに悲しい顔はして欲しくない。

僕には、あの鎧を噛み砕くことができなかった。
僕には、あの狐を捕まえることができなかった。
たぶん今の僕には、メーメーの敵を倒すだけの力はない。

だけど、僕は『透明ワニ』だ。
地下に隠れて姿を見せない狩人だ。
あの二人が戦いに夢中の今なら、きっと『透明』になれるはず。
必ず隙を見つけて、ダイヤを奪い取ってやる。



飛び出したスパイクは、一直線にクラムへと向かった。
開かれた顎が、ダイヤを詰めた革袋を捉える。
スパイクは獲物を口中に収め、身体を激しく回転させる。
固く結ばれた紐が悲鳴を上げた。

クラムが突然の乱入者に驚愕した時間は、ほんの一瞬のみである。
すぐさまその意識は、ダイヤを守ることへと注がれた。
両手剣の柄頭をスパイクに打ち付け、顎を開かせようとする。

そのとき、一陣の風が吹いた。
《為逸速的一息》。
静止した拳狐の肉体が、爆発的に加速する。
だが、その動きは拳打を放つものではない。

拳狐は拳を開き、クラムの腕を取る。
刹那、甲冑がふわりと宙に浮き、地面へと投げつけられる。
投げた勢いで革袋と鎧を結ぶ紐はぶちりと千切れた。
当然スパイクはそのまま、逃げ去ろうとする。

地面に身体を叩き付けられながらも、クラムはスパイクを追おうとする。
しかし、動けない。
いや、動こうとすれば止められる。
関節技を極められたかのように、拳狐に制されている。

クラムに関節など、ありはしない。
故に関節技が効くはずもない。
だが、《蜃気楼鬼貝故事》が生み出す幻覚は、常に騎士の姿を保つ。
普通であれば部位が外れるはずの動きは、部位が外れないように制限される。
《蜃気楼鬼貝故事》がもたらした仮想の関節。
それが、拳狐の極め技を成立させていた。

「離せ!貴婦人が!」

排水口へ消えるスパイクを見ながら、クラムは叫ぶ。

「……」

拳狐は答えない。
クラムを制しながら、右拳を構えていた。
その拳は、静止している。
甲冑の背に届く位置で、静止していた。

「これが己の信じる、己の拳よ」

音が聞こえた。
クラムに、これまでなかった感覚が走る。
痛みだ。
強い痛みだ。
拳狐の拳が、クラムを打ち抜いたのだ。

しかし、なぜ痛みが?
拳狐がそう信じたから、拳が痛みを与えたとでも言うのか。

いや、そうではない。
信じて結果を変えたのは、クラムの方だ。
クラムの《蜃気楼鬼貝故事》は、騎士の幻覚を見せる能力である。
幻覚を見せているのは、幻覚であるクラム自身だ。
幻覚が痛みを感じるものとクラム自身が考えたなら、クラムは痛みを感じうる。

それはおそらく、無意識の願いだったのだろう。
クラムは、拳狐の信じた拳が結果を変えると信じたかったのだ。
信じた拳が幻覚に痛みを生むならば、自分の信じた願いも現実になるかもしれぬ。
いつか貴婦人の御言葉を賜ることがあるかもしれない、と。
拳狐の言葉が、二枚貝(クラム)硬い殻(ハードシェル)をこじ開けたのだ。

もちろん、それは確証のない戯言だ。
クラムの望みが叶うとは限らない。
だがいつの時代も人は、虚構にしか思えぬことを現実へと変えてきた。
叶わぬかもしれぬ夢を信じて突き進む心。
それを希望と呼ぶ。

淡い希望の中、クラムの意識は闇に沈んだ。

十二

クラムは、静かに目を覚ました。
気を失ったことなど、ついぞ記憶にない。
経験したことのない感覚に、軽く眩暈を覚える。

だが、すぐさまクラムは我に返った。
自分は、拳狐と名乗る狐面の男と戦っていたはずだ。
自分は敗北したのか。
貴婦人は奪われたのか。
ここは何処なのか。
頭に沸き起こる数多の問いが、クラムに混乱をもたらす。

だが、その混乱は一瞬で消え去った。
部屋の窓辺で夕陽の光を浴びる、貴婦人の姿を見たからだ。

「おお、我が貴婦人よ……ご無事でしたか」

クラムの胸に安堵が広がる。
再び貴婦人の姿を目に映した喜びが溢れる。
このために生きているのだと、再び実感する。

少し落ち着きを取り戻すと、再び困惑が襲ってきた。
気を失う前の光景も、段々と蘇ってくる。
あのとき、自分は拳狐なる男の一撃を喰らって気を失ったはずだ。
であるにもかかわらず、なぜ貴婦人がここにいるのか。

「ふむ。おぬし、本当にそのダイヤが貴婦人とやらに見えているのだな」

石造りの柱に背を預けながら、拳狐がクラムに話しかけた。
先ほどまで戦っていた敵の言葉に、すかさずクラムは傍らの両手剣を取る。

「待て。もはや、おぬしと事を構えるつもりはない」

少なくとも今日はな、と付け加えながら、拳狐はクラムを手で制した。

「何が何やらという様子だな。ここは一つ、己が話をしてやろう」

拳狐はクラムに向かって、これまでの経緯を語り始めた。



「ハイ、申し訳ないアル。ワタシ、中国っぽいものが欲しくて調子に乗ったアルネ。全部嘘だったアルヨ」

勝負が決した後のことである。
拳狐は情報を得るために『R』を問い詰めた。
その結果分かった事実は、『R』は魔幇十傑などではなかったということだ。
いや、それどころか魔幇ですらなかった。
『R』はチャイニーズマフィアの構成員であり、最近魔人として覚醒したばかりだと言う。

「仕合ったのが己で、運が良かったぞ。魔幇に知れたら、黄浦江に屍が浮いていたところだ」

「ハイ、誠に謝謝アルネ。何でもしますから、命だけは助けてほしいアルヨ」

『R』は拳狐に対して、完全に膝を屈していた。
靴を舐めろと言われれば、本当に舌を出そうかという勢いだ。

「では一つ頼むとするか。この屑石を先ほど見た『清王朝のダイヤ』に変えてもらおう」

そう言って拳狐は、おもちゃのダイヤを『R』に手渡した。
何かの役に立つかもしれぬと、上海蟹ランドの売店で購入しておいたものだ。

『R』の《中国四千年の歴史》は、チャイナ服の袖に仕込んだ物を『中国』っぽく変えられる。
この能力を用いて、拳狐は偽の『清王朝のダイヤ』を用意させた。
用意できたダイヤは、貴婦人のダイヤの完全な模倣とは言い難い。
だが、一時の騙りのためならば、十分な出来と言えた。

拳狐はそうして手に入れた偽のダイヤを、メーメーとの戦いの中ですり替えたのである。
《為逸速的一息》で速めた手練を、牽制の攻めの中に織り交ぜる。
大胆な仕掛けだが、殊の外上手くいったと言えるだろう。



「……では、あの白き鰐が持ち去ったダイヤは偽物だということか」

「如何にも。日の変わる頃には能力が解け、元の屑石に戻っていよう」

拳狐がすり替えたダイヤを、クラムがメーメーから取り戻し、スパイクが奪い去った。
つまり、スパイクが得たのは拳狐が用意した偽物である。
言うなれば、深夜十二時に魔法が解けるガラスの靴だ。

「しかし、貴君は何故ダイヤを持ち去らなかったのか」

クラムは、率直な疑問を口にした。
ダイヤを欲しているのであれば、すり替えた時点で上海蟹ランドを立ち去ればよい。

「己はダイヤを欲している。が、ダイヤそのものを求めているわけではない。おぬしを破り、ダイヤを奪ったという事実さえあれば良いのだ」

拳狐は、クラムに語った。
そもそも拳狐がダイヤを求めるのは、上海大賽へ強者を巻き込みたいがためである。
そのためには、クラムが守っていたダイヤを拳狐が持っているという噂さえあれば良い。
十分に噂が広がれば、拳狐を狙う者が自然と現れよう。
即ち、ダイヤ自体は無くても困らない。

そもそも清王朝のダイヤの真贋を見極められる者が、どれだけいるだろうか。
拳狐にしても、どのダイヤが本物であるかなど、とても分かったものではない。
適当なダイヤを清王朝のダイヤと言い張っても、それを即座に嘘と断じられる恐れは少ないだろう。

すり替えは、魔幇の手に本物のダイヤが渡らぬようにするための保険に過ぎない。
クラムの技量を身をもって知った今、ダイヤを返すことに懸念はなかった。
持ち運び方はもっと考えるべきだ、という忠告は必要だったが。

「それにだ。怪談に語られる騎士と立ち会う機会など、そうそう無い」

結局は強者と戦いたいだけなのだ、と拳狐は笑う。

「まあ、そういうわけよ。あのダイヤ、いや貴婦人は、おぬしの好きにするが良い」

拳狐がダイヤを奪ったという噂が流れれば、ダイヤを狙う不逞の輩は減るだろう。
少なくとも、しばらくの間は。

「……感謝する」

クラムは、拳狐に一礼した。

「だが、覚えておけ。おぬしが真に平穏を得たいならば、いずれは禍根を絶たねばならぬ。上海に蔓延る魔幇という災いをな」

そう言い残して、拳狐はカニデレラ城を去った。
後に残されたのは、クラムと貴婦人、ただ二人だけだ。
騎士の幻覚を一人、物言わぬ美しさを一人と数えるのであれば、だが。

クラムの胸中は、ざわついていた。
貴婦人の身を守るため、どれだけの困難を乗り越える必要があるのか、と。
しかし、そのような不安も、貴婦人の姿を見れば、ひどく小さなものに感じられた。
すぐ近くに、貴婦人の美しさがある。
今のクラムには、それだけで十分だった。

十三

海賊船を止めるぐらいしか良いところがなかったな、とスパイクは上海蟹ランドでの出来事を思い出す。

メーメーのもとに戻った後、あんまり無茶をしないで、と叱られてしまった。
確かに背中の傷は痛いけど、無茶って言うほどの無茶じゃないのに。
あんなに叱られたのは、久しぶりな気がする。
でも、ダイヤよりスパイクの方が大事なの、と言ってもらえたのはちょっと嬉しかったな。

苦労して奪い取ったあのダイヤも、どうやら偽物だったみたいだ。
日をまたいだら、おもちゃのダイヤに変わっていたらしい。
僕はワニだから、ダイヤが本物かどうかなんてよく分からない。
革袋に入っていても形がバレバレだったから、本物だと思ったんだけどなぁ。

上海蟹ランドでの戦いについて、もう一度考えてみる。
この顎でも、噛み砕けないものがあった。
素早く飛びついても、捕まえられない奴がいた。
どうやらメーメーの敵を全て倒すには、今の実力では足りないみたい。

でも、強くなるための方法は分からない。
誰かから噛みつき方を教わった記憶はない。
尻尾をブンブン振り回すのだって、自己流だ。
あーあ、どこからかワニの師匠が現れて、ワニ向けの拳法でも教えてくれたらいいのに。

メーメーなら、何か良い方法を知っているかもしれない。
仕事から帰ってきたら、ちょっと相談してみよう。
それまでは、悩まずにひと眠りだ。
美味しい物を食べて、ぐっすり寝れば、傷もすぐにふさがるさ。

僕の名前はスパイク。
上海の地下深くに住んでいる、泳ぎが得意な透明ワニ。
メーメーの親友で、メーメーの願いを叶える不屈の矛。
今は自信喪失中だけど、最後には必ずダイヤを奪い取ってやる。

十四

ネオンが怪しげに光る繁華街で、街頭ビジョンにニュースが流れている。
報道される事件は、上海蟹ランドで起きた騒動ばかりではない。
百年節を巡る混乱を映し出すかように、幾つもの騒ぎが足早に語られていた。
そんなニュースを後目に、拳狐は歩を進める。

クラム・ハードウェルは、やがて上海に渦巻く混沌へ飛び込むことになるだろう。
己が噂を流したとて、魔幇があの騎士をみすみす見逃すとは思えぬ。
望むと望まざるにかかわらず、貴婦人のために敵と対峙しなければならなくなる。
勢力争いの狭間で、あの者がどのように剣を振るうのか、興味は尽きない。

張琅月とその相棒は、おもちゃに戻った偽のダイヤに落胆するだろう。
勘が良ければ、己の仕業であることに気付くかもしれぬ。
そうなったとき、恨みを買うことはまず間違いない。
だが、それで良い。
優れた敵手を得るには、見込みのある者の恨みを買うのが手っ取り早い。

明日の今頃には、己がダイヤを奪ったことが知れ渡る。
ダイヤを求めて、新たな強者が己の前に立ちはだかることは、疑うべくもない。
あやつも既に動いているかもしれぬ。
楽しみだ。
実に、楽しみだ。

次なる戦いへの期待を胸に、食い損ねた蟹を食うべく、拳狐は夜の屋台へと消えていった。

(了)
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