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ダンゲロスSS上海
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ダンゲロスSS上海

拳と狐(下)

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十六

瑞使製薬工場。
世間に知られる姿は、至って普通の製薬工場に過ぎない。
しかしその真の姿は、裏社会の人間御用達の薬物実験所だ。
チャイニーズマフィアやチンピラたちが、利益を求めて非道な実験を繰り返している。

魔幇も例外ではない。
違法ドラッグの生成、拷問用器具の開発、ダイヤの欠片の分析。
さまざまな研究を扱う場所が、工場内に点在している。
その中の一つが、蟲を飼育するラボだ。
かつて魔幇の殺手だった頃の林希美が、蟲を植え付けられた場所。

林希美は、そのラボを目指してひた走っていた。
非公開の内部構造を、迷うことなく突き進んでいく。
手にしているのは、張三から手渡された地図。
カリー・魔幣と対峙したあの日、貧民街で共に戦った“協力者”から、張三が受け取っていたものだ。

「……さすが」

地図に記されたルートに誤りはない。
実際にその目で確認したかのように、正確な地図。
しかし、不安がないわけではない。
あまりにも順調に行き過ぎている。
工場を警護する敵と一度も遭遇していない。
まるで罠に誘いこまれているかのようだ。

だが、足を止めている暇はない。
この戦いの結果が『破幇』の行く末を決めると張三は言った。
七鴉翁を倒すためには、まず《蟲》の使い手を倒す必要があるのだろう。
であれば、自分がやることは一つだ。
たとえ罠であろうとも踏み越えるのみ。

「……ここか」

地図に記された目的地。
扉を開けて、部屋の中に入る。
見覚えのある風景。
かつて思考を縛る処置を受けた場所。

部屋の中央には、一人の男が立っていた。
グレゴール・スムーレンバーグ。
体内に蟲を飼い、蟲を植え付ける男。
長身、白い肌。
その立ち姿は、年齢を感じさせない。

部屋の中には他にも気配がある。
決して姿は見せないが。
幹部を守る護衛。
おそらくその類だろう。

「蟲を捨てて、私の元に戻ってくるとはな」

その言葉は、グレゴールが林希美を覚えていることを示していた。
グレゴールの持つ欲は、自らの蟲で他者が苦しんで死ぬところを見たいというもの。
それ故、処置を施した相手を忘れることはない。

「『飢鬼』林希美。アンタを倒しに来た」

林希美はグレゴールの問いに答えず、静かに名乗った。

「不可能を可能と信じ込んだのか。ならば、私の前で欲得に苦しむ姿を見せてくれ。生存欲が潰えるさまを」

グレゴールが指を鳴らした。
その音に呼応して、三人の少女が姿を現す。
手にはそれぞれ異なる暗器。
蟲を植え付けられた殺手に違いない。

「監獄からの供給が途絶えたせいで、いつもより数は少ない。だが、三対一では君に勝ち目はあるまい」

グレゴールが手を振ると、猛然と殺手たちが動き出す。
その瞳からは、魔幇の命令に従うという意思しか感じられない。
息が合った攻撃が、林希美を狙う。
だが、林希美はそれらの攻撃を難なく回避した。

(……見える)

林希美には殺手たちの動きが読めていた。
張三と共に戦ってきた日々が、林希美に見切りの眼を与える。
カリー・魔幣や目艮竟といった敵に比べれば、殺手たちの速度は問題にもならない。

(……そうか)

林希美は、気付く。
目の前の少女たちは、張三と会わなかった場合の自分なのだと。
少女たちと自分を違えたものがあるとすれば、それは単なる偶然の選択に過ぎない。

張三から教わった勁が、殺手たちをしかと打つ。
その攻撃に殺意はない。
張三は、けりをつけてこいと言った。
きっとそれは、単にグレゴールを倒せという意味ではない。
蟲に縛られていた自分を乗り越えろということだ。

(……私はなりたい。張三みたいなヒーローに)

あの日、蟲の呪縛から解き放ってくれた英雄のように。
だから、決してこの娘たちを殺しはしない。
自分のように救われる未来があるかもしれないのだから。
その想いをこめて、拳打を放つ。
研ぎ澄まされた拳が急所を打ち、殺手たちは気を失った。

「計算外だな。しかし、結果が変わることはない」

そう言うと、グレゴールは離れた場所から蹴りを繰り出した。
天を突かんばかりのテコンドーの蹴り。
長い足が、彼我の距離という障害を克服する。
鋭い蹴撃が、林希美の姿勢を崩した。

「殺手に蟲を宿らす者が、殺手より弱いという道理はあるまい?」

グレゴールは、連続で蹴りを放つ。
体軸の回転を利用した嵐のような連撃。
林希美は、不利な体勢で何とか凌ぐしかない。
ふとそのとき、林希美の腹が小さく鳴った。

(……!)

林希美が使う《飢鬼》は、飢えれば飢えるほど身体能力が向上する強化能力だ。
ここに到達するまでの戦いが、林希美に確かな飢えをもたらした。
さあ、反撃の時間だ。

林希美の膂力と速度は徐々に上がっていき、やがてグレゴールを圧倒し始める。
リーチの長さを活かした蹴撃も、攻撃が届く前に踏み込んでしまえば意味を失う。
だが、必ずしも林希美が有利というわけではない。
飢えることと力尽きることは、隣り合わせだ。
飢え切るまでにグレゴールを倒せなければ、敗北は必至と言える。

(……今だ!)

エネルギー切れの寸前で、林希美はグレゴールにとどめの一撃を放つ。
《飢鬼》による強化はピークに到達していた。
攻撃が命中すれば、グレゴールの死は確実だ。

しかし。

「うっ」

横殴りの打撃が、林希美を襲った。
衝撃が来た方向に視線を向ければ、そこには一人の女がいる。
先ほどまで、全く気配を感じなかった暗殺者。
熟練の殺手であることは間違いない。
その瞳は三人の少女たちよりも深く、深く闇に沈んでいた。
別の未来を掴むにはもう遅すぎる、魔幇の犬。

「君の能力は把握済みだ。対策を立てることなど造作もない」

グレゴールは、林希美に蟲を植え込んだ張本人。
《飢鬼》という能力について、承知していないはずがない。
監視カメラで林希美の姿を確認していたグレゴールは、熟練の殺手を伏兵として配置した。
《飢鬼》をあえて使わせ、エネルギー切れに合わせて伏兵をぶつける。
奇襲で最大の一撃を空費させてしまえば、何も恐れるものはない。

(……)

全身から力が抜けていく。
林希美の中には、もう肉体を動かすだけのエネルギーは残っていない。
混濁する意識の中で、走馬灯が駆け巡る。
次々と流れていく光景は、どれも張三との食事ばかりだ。

(……もう一度、一緒に食べたかったな)

林希美は、力なく目を閉じる。
ふと、カレーの匂いが香った気がした。



「所詮は魔幇を裏切った雑魚か。もう少し楽しませてほしかったが」

グレゴールは踵を返し、失望した様子でそうつぶやいた。
林希美は苦しみ悶えることもなく、静かに命を落とした。
犠牲者が欲得に苦しむ姿を好むグレゴールにとっては、拍子抜けの結果と言ってよい。

「まあいい。次に飼う蟲の餌にしてやろう」

グレゴールがそう言ったとき、背後で何かが倒れる音が聞こえた。
振り返るとそこには、光り輝く林希美と倒れ伏した暗殺者の姿がある。

「なっ。何故生きている?!」

「……さあね」

林希美の身体に宿るダイヤの欠片が光り輝き、持続的に力を生み出していた。
肉体を動かすために必要な、最小限のエネルギーの供給。
多くもなく、少なくもないそれは、《飢鬼》のピークを維持しながら戦うことを可能にしていた。
即ち今の林希美は、飢えながら、満ちている。

それは、知らず知らずのうちに託されていた秘宝。
なにもない女、カリー・魔幣の残り香。

既に欲望で満ち溢れている杯には、まともなものは入らない。
だが、その女には“なにもなかった”。
願いを叶えるダイヤの欠片に、何も望まなかった。
何一つ欲望が入っていない器なら、いくらでもまともなものを入れられる。

林希美は、拳を構えた。
未知の力への困惑よりも先に来るのは、確信。
眼前の敵を倒せるという確信だ。
狙いすました一撃が、グレゴールを貫いた。

「ば、馬鹿な!どんな欲があれば、そんな力を引き出せるというのだ?!」

「……食欲。気が合う人と食卓を囲むことより、大切なことなんてないでしょ?」

ダイヤめいた煌めきを目に映しながら、グレゴールの心臓は動きを止めた。

十七

上海中心大厦。
VIPエリアで、七鴉翁はモニター越しに劉炎嵐と張三の戦いを観戦していた。
その様子は余裕綽々、ワイン片手に余興を楽しむ金持ちのようだ。
だがそのとき、七鴉翁の後ろに控える一匹の鴉が、悲鳴と共に爆ぜた。

「……ッ?グレゴールが?!」

七鴉翁が使う《七つの仔》は、魔幇の構成員として生きる者と魔人としての認識を共有し、その特殊能力を七つまで使用できるというものだ。
元の能力者が死亡したとき、世界からその魔人の認識は失われる。
一部の例外を除けば、本人の認識なしで特殊能力を発動することはできない。
それは、認識を共有して特殊能力を発動する七鴉翁も同じこと。
即ち、《七つの仔》による模倣も失われる。

グレゴール・スムーレンバーグの死は、《七つの仔》の壱、《蟲》の喪失をもたらした。
飼い主の力なくして、七鴉翁の蟲はその効能を発揮できない。
寄生された戦士たちの口より、蟲が這い出てくる。
少しばかりのたうち回った後、蟲たちはその動きを止めた。

「どうやら間に合ったみたいだな」

蟲の様子を見て、張三がつぶやく。

『張三、これは貴方の手下の仕業ですか?』

「手下じゃない。相棒だよ」

口元に笑みを浮かべながら、張三が言い返す。
その様子は、子の成長を喜ぶ親のようにも見えた。

「さすが旦那だ!助かったぜオイ!」

劉炎嵐はにやりと笑い、張三に声をかける。
怒りが消えたわけではないが、安堵の胸をなでおろした。
炎嵐にとって、罪なき者と戦うことは苦痛でしかない。
これ以上相手を傷付けずに済むことを、素直に喜んでいた。

『……良いでしょう。私が相手をするだけの価値はある……そう認めましょう』

先ほどまで停止していたエレベーターが動き出し、張三と炎嵐を招く。
この招待も、あるいは罠か。
だが罠であれば、罠として踏み抜くまで。
二人が歩みを止める理由にはならない。

『ホェンちゃん、倒れた人たちは私が見ておくね。……救急車を呼べるかは微妙だけどさ』

「おう。頼んだ」

王双葉のドローンに後を任せ、炎嵐はエレベーターへと乗り込んだ。
無論、張三も一緒だ。
現在の階を示す表示は瞬く間に数を増していき、VIPフロアへと到着する。
開いた扉の先、広いフロアの奥には、両手を広げて二人を迎える七鴉翁がいた。

「ようこそ、愚かな挑戦者よ。魔幇の大幹部たる私が、相手をして差し上げましょう」

「よぉ、魔幇のクソ野郎。とりあえず、下の連中の分の借りを返させてもらうぜ!ゴラァ!」

「その前に『上海覇者』の貴方には、清王朝のダイヤを返していただかねば」

「ハッ。てめえらのせいで、もう消し炭になっちまってるんじゃねえか?!」

七鴉翁に向かって、炎嵐は駆けていく。
ミチミチと強く拳を握りしめ、猛然と殴りかかりに行く。
顔面に一発くれてやろうという気持ちが、炎嵐の肉体から溢れ出るようだ。

「ずいぶんと道化が板に付いたもんだな、七鴉」

張三もまた、七鴉翁に向かって歩を進めた。
鉄棍を片手に、泰然とした動きで距離を詰めていく。

「ああ!これも張无忌が遺した魔幇を守るため!(かぞく)のためなら、私は哀れな道化にもなりましょう」

「ンな戯言、誰が信じるか。テメェが偉そうに兄貴を語るなよ……!」

張三の言葉に怒りが滲む。

「それならば、ただ心のままに百年節の余興を楽しむといたしましょう。魔幇の反逆者を処刑する宴をね」

先ほど爆ぜた鴉の代わりとばかりに、新たな鴉が影から出でる。

「《七つの仔》の参、《娯楽的処刑》」

《娯楽的処刑》。
それは処刑機能を備えた魔幇の調理器具、執行櫃が持つ特殊能力だ。
面白おかしく対象を処刑するため、その身に搭載された機能の数々。
自らの存在を定義する能力であるため、模倣した際どのように発動するかは時と場合による。
今この時においては、一定範囲内にその機能を召喚するものとして力を発揮した。
七鴉翁が呼び出した空飛ぶ回転鋸の群れが、炎嵐と張三を襲う。

「オラオラ!」

炎嵐は真正面から、これを弾いた。
回転鋸はわずかに肌を抉るもの、流れた血の熱さにすぐさま刃を失う。

「七鴉、こんなくだらねえ芸まで覚えたかよ」

張三は手にした鉄棍をもって、回転鋸を受け流す。
鉄と鉄の摩擦で火花が散り、明後日の方向に回転鋸は飛んでいく。

「ハーハッハッハッ!では、これならどうです?」

七鴉翁はすぐさま次の処刑に移る。
鋼鉄の糸で編まれた鞭が、唸りを上げて二人に迫った。

その狙いは、鞭打つことではない。
敵の攻め手を絡めとること。
鞭は炎嵐に巻き付いて、七鴉翁に迫る動きを阻む。

「あん?!こんなもんで俺を止められるかよ!」

炎嵐は怒りのままに、血の温度を上げる。
沸血を流すに足るしなやかな血管が、鞭が巻き付く場所にも熱を伝えた。
次第に鞭は赤みを増し、少しずつその姿は溶けていく。

しかし、その鞭はただの鞭にあらず。
反逆者を処刑するために準備された、高電圧の電気鞭。
鋼鉄の鞭で繋がった身体へと、凄まじい勢いで電流を流す。
抵抗率は上がると言えども、溶け切るまで鋼鉄は鋼鉄のまま。
天を割くばかりの電撃が、炎嵐を襲う。

「いってぇなオイ!だったら全力で焼き尽くすまで!」

電撃による痛みが、炎嵐のさらなる怒りを呼び起こした。
たちまち血は沸き上がり、驚くべき勢いで鋼鉄製の鞭を溶かしていく。
溶かし切ってしまえば、電撃が走ることもない。

「ハーハッハッ!それでは水責めと参りましょう」

突然、炎嵐の周囲にガラスケースが召喚された。
ガラスケースの中は水で満たされ、六方ともに密閉されている。
これは炎嵐を閉じ込める縛めの策か?

「うぉ?!」

七鴉翁の狙いは違った。
怒りで身を熱した炎嵐と、大量の水の接触。
それによりもたらされる結果は、水蒸気爆発。
その勢いは、天井と床ごと炎嵐を吹き飛ばした。

一方、張三の方はどうなっていたか。
唸る鞭が巻き付いたのは、張三の鉄棍。
炎嵐にしたのと同じく、鞭を通じて電気を流す算段だ。
もしこのまま鉄棍を手にしたままなら、全身に電撃が走ることだろう。

張三は《鉄杵》を発動させ、素早く鉄棍を鉄球に変える。
巻き付く鞭の縛めを消し、雷死を避けた。
さらに張三は鞭の波を掻い潜り、七鴉翁へ猛然と近付いた。
自ら能力を解除して、鉄球を元の鉄棍に戻す。
鉄棍の先端が、標的を狙うように七鴉翁の方を向いていた。

「――《鉄杵》」

今しがた掻い潜った鞭のごとく、鉄棍はしなやかに動き始める。
先端は鋭く尖り、敵の命を狙う。
長い体を地に這わせ、獲物に牙を突き立てる蛇のようだ。

鉄の牙が七鴉翁に届かんとしたとき、それを阻むものがあった。
空中に浮く数多の中華鍋。
《娯楽的処刑》を持つ執行櫃は、元はと言えば調理器具。
いわゆる処刑道具のみならず、鍋や包丁の類も兼ね備える。

「嗚呼、張三。なぜ、グレゴールを?優れた蟲使いなくして、上海の平穏はないと言うのに」

水蒸気爆発から来る風を受けながら、七鴉翁は張三に問う。

「平穏ね……そいつは、魔幇の都合だろう。ただ従わせるためだけに蟲を入れているようじゃ、もうお終いさ」

「魔幇あってこその上海です。ああ、貴方には我らが背負うものの重みがまるで分かっていない!」

張三の返答に、七鴉翁は明らかな失望を見せる。
だが、その表情もどこまで本当なのかは分からない。
七鴉翁の本音は、道化のヴェールに包まれている。

「重みを背負うと言うか。それにしては、がら空きの背よ」

その言葉が聞こえるや否や、大きな音が生じた。
見れば、七鴉翁の背中に拳が突き刺さっている。
丈の長いコートに、白い狐の面。
拳狐だ。

背中へ直撃した拳打に対して、七鴉翁はわずかに顔を歪ませた。
硬気功の類を用いていたか、有効打とはなっていない。

「紛れ込む鼠がまだいましたか」

「この面を見て、鼠と言うか。くだらぬ企みをする前に、目医者へ行った方がいい」

挑発を受けた七鴉翁は、背後の拳狐に対して後蹴りを放つ。
宙に舞ってこれを避けた拳狐は、袖口から幾つもの鏢を投げつけた。

「さてはて、どこから忍び込んだのやら。その面を剥がし、素顔を晒すとしましょう」

「この面を外す相手は、真に認める強者のみ。我欲を貪る死に烏に、見せてやる顔などない」

今戦場にあるのは、言葉の応酬のみではない。
芝居がかった口調で喋りつつも、七鴉翁は再び《娯楽的処刑》を使用している。
拳狐を狙うのは、回転する肉包丁。
旋回しながら迫るそれは、肉を断たんと拳狐を襲う。
素早くトンファーを取り出した拳狐は、苦も無く肉包丁を叩き落した。

「おい、紅虎。いつまでへばっているつもりだ。己と一戦交える前に、くたばられては困る」

「ああ?!へばっているだ?お前こそ、俺の高温で倒れんなよオイ!」

声をかけた拳狐に応えて、爆発の跡から炎嵐が姿を見せる。
いくらか傷を受けたように見えるが、勢いは未だ壮健だ。

「元よりおぬしとは戦うつもり故、備えは常に万全よ。そも熱気に倒れるようでは、此処に立つ資格はなかろう」

炎嵐、張三、拳狐、そして七鴉翁。
この戦場に立つ四人は、いずれも身に豊潤な気を纏っていた。
元々強靭な魔人の肉体に、積み重ねた鍛練が加わる。
気をもって力を引き出せば、熱風程度に負けはしない。
炎嵐の肌に直接触れぬ限り、灼かれることはないだろう。

「二つでは少なすぎ、四つでは多すぎる。そう言ったのは、誰だったか。まあ、ここからが本番だ」

炎嵐と拳狐の様子を見て、張三はそうつぶやいた。
当然、拳狐は此処に来るだろうと見越していた口ぶりだ。

七鴉翁の攻撃は続く。
千差万別の処刑が、立て続けに襲いかかった。
だが三人は、その悉くを潰す。

絶え間なく続く銃撃が、炎嵐の身体を貫かんとした。
炎嵐は滾る血をもって熱を成し、銃弾の全てを溶かす。

数え切れぬほどの鋼鉄の棘が、張三の血を吸わんとした。
張三は鉄棍を流体に変え、棘の隙間を埋めて刺突を防ぐ。

蚯蚓のような幾十もの吊り縄が、拳狐の首をくくらんとした。
拳狐は武器を双刀に持ち替え、縊首の輪を斬り刻む。

処刑の技では埒が明かぬと考えてか、七鴉翁が《娯楽的処刑》の行使を止めた。
立身中正の姿勢を取り、おもむろに構えを取る。

「そろそろ遊びは終わりにいたしましょう。一人ずつ始末させていただきます」

七鴉翁の影が、四匹目の鴉を産み落とすべく蠢き始めた。

十八

「一人ずつたぁ、舐められたもんだなオイ!」

炎嵐は猪突猛進、七鴉翁へと向かっていく。
七鴉翁が鬱陶しい真似をしなくなった今、ブン殴ってやる好機と捉えた。
炎嵐の猛進に、張三と拳狐が続く。
二人は炎嵐に合わせる形で、技の仕掛けを試みた。

実のところ、三対一の構図は必ずしも有利とは限らない。
数が多くとも、息が合わねば同士討ちを招くこともありうる。
肝要なのは、誰の動きに合わせるかということだ。
張三と拳狐はどちらも変化に富み、他者の動きに合わせやすい技を持つ。
自然、真向からぶつかる炎嵐に二人が合わせる形となった。

対する七鴉翁の影から舞うは、四匹目の大烏。

「《七つの仔》の()、《時空凌遅刑》」

その宣言と共に、張三と拳狐の攻撃は、空を切る。
狙いすましたかのような七鴉翁の蹴撃が、二人を打った。

「何してんだ?!旦那!拳狐!」

炎嵐は張三と拳狐の動きを見て、そう叫んだ。
七鴉翁に攻撃を仕掛ける二人の動き。
炎嵐の目から見たそれは、わざと動きを緩めたように見えたからだ。

「……」

「むう」

張三と拳狐は、違和感を覚えた。
自分以外のものがわずかに速く、いや自分が遅く動いていた。
敵を確実に捉えていたはずの攻めが、一拍置いてそこに届く。
そういう感覚だ。

《時空凌遅刑》。
上海大賽実行委員、講知泉が持つ特殊能力。
その効果は一瞬の一時停止を連続で繰り返し、生物の時間の流れにラグを生じさせるというものだ。
緊迫した戦場で敵に生じるラグは、せいぜいコンマ数秒程度。
だが、達人同士の戦いでその時間差は、致命的な隙となりうる。

「滞る時の中で、『上海覇者』が倒れる様をごらんなさい」

《時空凌遅刑》で対象にできるのは、二人まで。
七鴉翁は張三と拳狐を対象とし、事実上一対一の状況を作り出していた。
ラグの生じた張三と拳狐へ着実に攻撃を加えながら、炎嵐と対峙する。

(チィ!こいつ……よくわからねえ戦い方だ)

炎嵐も、それとは別の惑いに当たっていた。
七鴉翁との戦いに感じるもの。
遥か古代より生きてきた大木のような、どっしりとした重み。
それが鍛練の賜物であろうことは、炎嵐にも分かる。
しかし、同時に武人のそれとは違う異質な気配も感じられる。

七鴉翁を支えるものがあるとすれば、それは首領の側近たる者の責任。
魔幇の行く末を担うという重責は、七鴉翁に一線を画する強さを求めた。
これに応えることで、古代樹の如き強さを得たのだ。
武人としての強さのみではない。
魔幇の大幹部としての立場が、在野の達人とは異なる種類の強さを生んでいた。

炎嵐の攻撃は当たっている。
七鴉翁にダメージを与えていることは、間違いないだろう。
だが、どれだけ勝利に近付いたのかが読み取れない。
そうしている間も七鴉翁の反撃は、炎嵐の体力を削る。
七鴉翁が炎嵐の隙を突いて一撃を加えんとした、まさにそのとき。

「――『鉄杵磨成八卦蛇』」

張三が操る八匹の鉄蛇が、牙を剥いた。
一つの攻めでは後れを取る。
だが、二ならば、三ならば。
それすら防ぐとて、八ならば如何。
八つの時間差攻撃が、強かに七鴉翁を狙う。

「――《為逸速的一息》」

疾き拳狐の拳が、唸りを上げた。
拳狐の持つ《為逸速的一息》は、止まっているものを高速で動かす能力。
止まっているかどうかは、拳狐の主観に拠る。
拳狐が肉体を止められていると認識すれば、その動きを速めることは可能だ。

《時空凌遅刑》のからくりは、減速にあらず。
一瞬の一時停止を、連続で繰り返す。
数多の武器を用いた試みの中。
それに気付いた拳狐は、細切れの静止を速さに変えた。

戦いは瞬く間に、三対一の構図に戻る。
だが、勝負が決したわけではない。
七鴉翁は《時空凌遅刑》の対象を巧みに変え、三人を翻弄する。
古代樹のように重厚な攻めと守り。
結果として起こるのは、互いに体力を削る我慢比べ。
こうしたとき、戦況の変化というのは不意に訪れるものだ。

戦場を舞う一匹の烏が、突然爆ぜた。
七鴉翁は口元に苦々しさを見せるも、すぐに平静を取り戻す。

「どこぞの馬鹿が、宴会道具の置き場所を間違えましたか。まあ、いいでしょう」

烏の爆散が告げたのは、執行櫃の喪失。
《娯楽的処刑》なしでも事は済む、七鴉翁の平静の理由はそれである。
七鴉翁は部下が保管場所を間違えたために、戦いの余波で破壊されたものと考えた。
実際には下山アンドロメダの弟子が高低差を無視して保管場所に辿り着き、目からのビームで消滅させていたのだが、それを知る者はこの戦場にいない。

しかし、少しの時を置いて烏がもう一匹爆ぜたとき、七鴉翁の顔は驚愕に変わった。

「馬鹿なッ!首領が?!」

十九

少しだけ、時は巻き戻る。

「もう少し派手な出迎えがあるもんだと思ってたんだけどなー」

魔幇の本拠地と思しき施設の中を進みながら、白髪黒羽はそう嘆く。
隠された入口から続く場所は、狭い通路が続く構造だった。
古い施設を改修した雰囲気の感じられる場所である。
いくつか扉を見つけたものの、中は物置にされているか、永く使われていない部屋ばかり。
それでいて通路は複雑に交差しており、油断すれば戻れなくなる恐れすらある。

「魔幇は秘密の多い組織ですから、本拠地への出入りは少ないのかもしれません」

【周囲を照らす】小石をスパイクの前にかざしながら、恋辻メーメーがそう答えた。
魔幇は、全貌を知るのは首領のみと言われるほど謎のヴェールに包まれた組織だ。
その本拠地ともなれば、入れる資格を持つ者は限られるだろう。
まるで人気がなかったとしても、何の不思議もない。

「……幹部の人しか入れない、って可能性もあるんじゃないでしょうか」

日ノ御子神楽が、不安そうに言う。
実力が上の人間しか入れない場所なら、遭遇する相手は間違いなく強敵だ。

「ありえます。それこそ魔幇四天王とか」

魔幇四天王。
上海の裏社会を統べる魔幇の首領から、直々に指名を受けた大幹部。
実在が疑われるほど、謎に包まれた存在だ。
対峙した者は全員命を落とす故、名を知られることはないと噂される。
四天王と呼ばれながら、五人以上の働きをするという話さえあるほどだ。

もっとも、既に魔幇四天王は全員敗れている。
そのことを黒羽たちは知る由もないが。

「四天王ね。ま、ラストダンジョンにはお似合いだろ」

黒羽がそう言葉を発したとき、通路の角から飛び出す影があった。
顔の高さのあたりに、赤い光が揺らめている。

「おっと、言ってるそばからエンカウントかい?」

黒羽は【撃たれる】拳銃を素早く構え、影に向ける。
この状況で敵以外と遭遇する可能性は低い。
先手必勝とばかりに、《創造上の想像力》による攻撃を試みた。

「ピピー、人間ヲ発見!直チニ殺害ヘ移リマス!」

しかし、出現した影は何事もなかったかのように接近してくる。
光に照らされ露になったのは、人型の機械。
殺人マシンである。
機械は幻想(イメージ)を見ない、それが《創造上の想像力》のルールだ。

殺人マシンは《殺人ブレード》で、一直線に黒羽を狙う。
《殺人ブレード》は、右腕と一体化した刀。
言ってみればただの刃物だが、斬撃のスピードは馬鹿にできない。

「やっべ」

「スパイク!」

メーメーの声に従い、スパイクが殺人マシンに襲い掛かる。
スパイクが持つ強靭な顎は、殺人マシンのアーマーでさえ容易に喰い破るものだ。
殺人マシンの右脚部は千切れ、配線から火花が散った。
だが、スパイクが前に出た成果はそれだけではない。

「ピピー、人間デハアリマセン。攻撃ヲ中止シマス」

殺人マシンは、人を殺す機能以外を持たない悲しき存在。
ワニを相手にしたときのプログラムは、搭載されていない。
それ故、スパイクと接触した殺人マシンは、行動不能に陥った。
次々と部位を破壊するスパイクに成す術もない。

「かはは、助かったぜスパくん」

《創造上の想像力》を無効化する相手に、少しだけ焦った黒羽はスパイクに礼を言った。

「あっ」

メーメーが、何かに気付いて声を上げた。

「ん?どうした、メーちゃん」

黒羽がメーメーの視線の先を見てみると、壊れた壁の中に剥き出しの配管があった。
接続部が外れて、中から水が漏れている。
どうやら先ほどの戦闘で、スパイクの尻尾が当たってしまったようだ。

(スパイク、ここは下水道だと思う?)

(水の音がしているし、下水道!)

(それじゃあ、ちょっと探ってきてくれる?)

(オッケー!)

スパイクが使う《下水鱷魚》は、下水道を自在に移動できる能力である。
下水道であれば、身体の大きさにかかわらずどんな場所でも通ることが可能だ。
人間と異なる価値観を持つスパイクにとって、下水道と認識する基準は緩い。
ただの水道管であっても、問題なく能力を発動できる。

《鱗語交流》でスパイクの感覚を一部同期して、メーメーは本拠地の内部を探る。
水道管を設置している以上、ここには水を必要としている場所があるはずだ。
もし手洗い場やトイレがあるなら、その付近に人がいる可能性は高い。
スパイクの移動経路を計算しながら、メーメーは頭の中で本拠地の構造を組み上げていく。

「この場所のだいたいの構造が分かりました。人がいそうな場所も」

「大したもんだな、メーちゃん。ま、分かったんならいっちょ案内を頼むぜ」

黒羽たちはメーメーの指示に従い、怪しい場所を一つ一つチェックしていく。
確かに手洗い場やトイレはあったが、人がいる気配はない。
痕跡を見ても、使われたのは結構前という印象だ。
殺人マシンと似た形をした、清掃用や医療用と思しきロボットの他に、動くものはなかった。

「ここが、最後の場所です」

メーメーは、大きな鉄の扉の前で立ち止まった。
両開きの扉は、いかにもという雰囲気を醸し出している。

「おっし、正々堂々真正面から行くとしようぜ」

「万事屋さん、無理は禁物ですからね」

やる気満々の黒羽に、神楽が思わずツッコむ。
黒羽は軽く苦笑しながら、鉄の扉を思いっきり開いた。

「……」

そこにいたのは、玉座と見紛う豪華な椅子に座る一人の老人であった。

短く切り揃えられた白髪。
長い髭。
顔中に刻まれた皺。
黒い丸眼鏡。
要素だけを見れば、典型的な中国マフィアの老人と言えるだろう。

だが、まるで生命力が感じられない。
例えるなら、枯れ朽ちる寸前の老木だ。
陰鬱なその雰囲気は、否応なく死の足音を感じさせた。

「アンタ、いったい誰だ?」

黒羽は【嘘を吐けない】拳銃を突き付けて、老人に問う。

「儂は五爪の翁……魔幇の首領……ヒヒッ」

老人の言葉に、一同は言葉を失う。
この男が、魔幇の首領?

「清王朝のダイヤは取り返してきたか?……ヒヒヒッ、あれは儂のものじゃ……誰にも渡さん……誰にも……ヒヒッ」

事実だけを言えば、この男は紛れもなく魔幇の首領、五爪の翁。
周囲をきちんと認識しているかどうかも怪しい様子だが、そのことだけは間違いない。

上海を我が物と見なす妄執の果てに、命数を使い果たしたのか。
清王朝の末裔の呪詛に縛られ、冥界へと誘われたのか。
怨恨を持つ魔人の能力をその身に受けて、絶え間ない狂気に陥ったのか。

どうしてこうなったのかは誰にも分からぬし、語られることもない。

「……なぜ儂の前で頭を下げぬ……忠誠を誓え……《龍飛九天:雲従其志》!」

七鴉翁が《七つの仔》で模倣したときと同じく、隷属の誘惑が黒羽たちに迫る。
しかし、《龍飛九天:雲従其志》が効果を発揮する条件は、五爪の翁よりも一定以上弱いことだ。
死にかけの老人相手では、条件を満たすことはない。
ただ魔人の能力を使われたということだけが、分かった。

百年節を前に清王朝のダイヤが奪われたのも、この有様が遠因である。
見ての通り五爪の翁は瘦せ衰え、配下が心の底からの忠誠を誓うこともなくなった。
組織は統制を失い始め、裏切り者が現れ始める。
蟲を使わずに忠実な殺手を得ることも難しくなった。
七鴉翁が魔幇を表舞台に上げる決断をしたのも、この首領の状態あってのことだ。

「ゴホッ……ゴホッ……」

《龍飛九天:雲従其志》は、発動にある程度の体力を消費する。
無為に終わった能力が、さらに五爪の翁を弱らせた。

「やー、一発ぶん殴ってやろうって思ってたんだが……こりゃ……」

五爪の翁の様子に、黒羽は眉をひそめた。
この老人に拳を喰らわせたところで、気持ちは晴れないだろう。

「ここは、私たちに任せてもらって良いですか?」

「グオオオォ」

メーメーとスパイクが、声をかける。
今、二人の心にあるのは、燃やし続けてきた復讐の炎だ。
復讐は、果たさねばならない。
たとえどんな敵が相手であろうとも。

「オーライ。神楽ちゃんは、あっち向いてな」

その言葉を聞き終えると、スパイクは五爪の翁に向かって歩を進めた。
スパイクの動きに合わせて、メーメーは意識を集中する。
《鱗語交流》、完全同期。
復讐を果たすとすれば、それは必ず二人の手で。
人鰐一体の復讐者は、老人の喉を喰い破った。

「上海でも三途の川なのかは知らねえけど……ほらよ、くれてやる」

黒羽は財布から紙幣を取り出し、五爪の翁だったものに投げつけた。
【地獄に落ちる】冥銭が、喉元から流れた血で赤く染まる。
上海の裏社会に君臨し続けた魔幇の首領の人生は、あっけなく終焉を迎えた。

二十

「馬鹿な。いくら何でも、早すぎる」

爆ぜた鴉を見て、七鴉翁は明らかに動揺していた。
先ほど発した言葉からすれば、魔幇の首領が命を落としたということだろう。

「……首領が死んだか」

魔幇の首領。
張三は、その男のことをよくは知らない。
首領の座を辞して魔幇を去った張三の代わりに、七鴉翁が神輿として担いだ男。
その男の跡を継いで、首領となった者。
聞き及んでいるのは、それぐらいだ。

「誰かに殺された?いや、あの場所が分かるはずはない……」

七鴉翁は、ブツブツとつぶやく。
先ほどまでの芝居がかった口調は、見る影もない。

五爪の翁。
先代首領の血を引くという理由だけで、首領に選ばれた男。
七鴉翁が自らの傀儡とすべく、首領の座に据えた男。

しかし、その男には類稀なる才があった。
たちまち魔幇の首領として裏社会に君臨し、その勢力を拡大した。
謀略として首領に据えたはずの、七鴉翁自身も五爪の翁に魅入られていた。
故にその喪失は大きい。

「張三!これも貴様の仕業かッ?!」

「さあな。あいにくだが、覚えがねえ」

実際、張三には覚えがない。
破幇を成すとすれば、まずは七鴉翁を倒すところから。
それが張三の考えであった。

「心当たりならあるぜ!人の言うことを聞かねえクソボケだがな!」

炎嵐は、白髪黒羽を頭に浮かべながらそう言った。
魔幇の本拠地を見つけて、意気揚々と乗り込む姿が目に浮かぶようだ。

「こやつを倒せば、ひとまず破幇は成るか」

「おう。そろそろ幕引きだな、七鴉」

首領が命を落とした今、側近中の側近たる七鴉翁を倒せば、魔幇は崩れ去るだろう。
その確信と共に、張三は拳狐に応えた。

「うし!最後に一発でかいのお見舞いしてやるか!」

炎嵐、張三、拳狐。
三人の男が、それぞれに構えを取った。

「《THE・炎怒》ォォ!!」

「――『鉄杵磨成八卦蛇』」

「――《為逸速的一息》」

力を振り絞り、七鴉翁を倒すべく技を繰り出す。
いずれも決まれば、敵を屠りうる大技だ。

「魔幇は潰えぬ。首領が果てたなら、私の下に新たな魔幇を成すまで。全ては、日暮れに鴉の鳴くままに」

ぞっとするほど冷たい、七鴉翁の声が聞こえた。
もはや芝居がかった様子はどこにもない。
その瞳は、深淵に沈んでいる。
七鴉翁の影にまた一匹、漆黒の鴉が産まれた。

「《七つの仔》の伍、《永久凍結》」

瞬く間に、世界は凍り始める。

二十一

鞍馬山の山頂に到着した。
下山アンドロメダ。
そう名乗った依頼人の言う通り、あまり時間はかからなかった。
時を短く感じたと言う方が正確かもしれない。

新宿の名付け親、太郎丸権蔵の姿も見なかった。
生きている姿も。
骨となった姿も。
とすればここは遥か過去、あるいは遠い未来なのかもしれない。
どちらでもない気もする。

空には相変わらず、黒い染みがある。
わたしはもうあれに名前を付けている。
付けてしまった。

あの日見た穴はもうない。
ごく普通の窪みがそこにあるだけだ。
再び名前を付けるときまで、現れることはないのかもしれない。

わたしの前に、ふと一羽の鳥が降り立った。
黒い身体を持つ、大きな鳥。
烏かと思ったけれど、どうやら違うらしい。
梟のようでもあるし、鷹のようでもある。
カモメのようでもあるし、燕のようでもある。

その黒は羽根の色ではなく、影を纏っているように見えた。
色々なものが重なった影。
喜び、怒り、哀しさ、楽しさ。
その全てが混ざったような影。

よくわからない。
そう言えば、名前を付けるのは“知らないもの”だと言っていた。
わたしの仕事は、これに新たな名前を与えることなのだろう。
何と名付けるのがいいだろうか。

鳥が小さく鳴いた。
雀やウグイスの、さえずりのような響き。
さえずり。

『山頂に行って、思ったままの名前を付けてくるだけさ。本当にただの思いつきでいい』

なぜだか、それはぴったりの名前のように感じられた。

「あなたの名前は、『さえずり』」

わたしは、そう口に出した。
鳥の纏う黒が消える。
青い鳥に姿を変えて、今登ってきた道に沿って飛んでいく。

幸せの青い鳥。
そんなことを考えながら、わたしは山を下り始める。
天国へのチケットにもなりうるもの。
ダイヤの欠片を気にしながら。

二十二

《永久凍結》。
それは魔幇八大龍、天の一龍が持つ力。
魔幇が清王朝の末裔から奪い取った、気紛れな守護龍。
その龍たちが、人間の命令に従うことは決してない。
だが、魔幇に属する者とは見なされる。
七鴉翁の《七つの仔》をもってすれば、能力だけを拝借することは可能だ。

《永久凍結》は、X(未知)から得たエネルギーをもって、敵を凍結する特殊能力。
しかし、恐るべきは凍らせた後である。
凍結された者は原子レベルで分解され、文字通り塵一つ残さず消滅する。
発動すれば、問答無用で敵を消す災い。

「この世から消え去れ、邪魔者ども」

だが、その力が炎嵐たちを消し去ることはなかった。
《永久凍結》は、X(未知)から無尽蔵なエネルギーを取り出して発動するもの。
そのX(未知)は、鞍馬山にて『さえずり(twitter)』という名を与えられた。
もはやそこから、際限なくエネルギーを取り出すことはできまい。

それ故、《永久凍結》は炎嵐たちに凍結の力を放つだけに留まった。
炎嵐の憤怒から来る熱が、すぐさま凍った戦場を溶かしていく。

「全然効かねえなゴラァ!」

「馬鹿な!何故だ?」

炎嵐の轟撃。
張三の重撃。
拳狐の瞬撃。

三人の攻撃が、七鴉翁に命中する。
七鴉翁は後ずさり、大きくよろめいた。
追撃を加えんと三人は動く。
とどめを刺すために。

そのときであった。

「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない」

マルコによる福音書、第1章。
七鴉翁がその聖句を読むと共に、影より六匹目の鴉が産声を上げた。

「《七つの仔》の(ろく)、《まるこよ、その水着はほとんどヒモである》」

《まるこよ、その水着はほとんどヒモである》。
くり魔んじゅう先輩という名の男が持つ謎めいた特殊能力。
本人でさえその真価を知らぬ能力を、不完全ながら七鴉翁は読み解いていた。

いつも貝紐を肴にビールを呑んでいる。
これが、《まるこよ、その水着はほとんどヒモである》の効果である。

では、貝紐とは何か。
貝紐とは、ホタテの外套膜を指す言葉である。
キリスト教において、ホタテ貝は十二使徒の一人、聖ヤコブのシンボルとされる。

ビールとは何か。
中世よりビールは液体のパンとされ、修道士により盛んに醸造された。
キリスト教において、パンは罪無きキリストの身体を象徴する。

肴を魚と読み解けば、キリスト教徒の隠れシンボル(イクトゥス)とも一致するだろう。

十二使徒。
罪無きキリスト。
即ちそれは、限定的な奇跡の再現を意味する。

「光あれ」

七鴉翁の右手から放たれた光が、炎嵐を吹き飛ばす。
七鴉翁の左手から放たれた光が、拳狐を打ち上げる。
そして、胴より放たれた十字の光が、張三を貫く。

「ぐぉ……」

その光がもたらすものは、異次元の衝撃。
身体の真芯を貫いた光が、張三の吐血を誘発した。
いや、血を吐くばかりではない。
全身から血が噴き出し、張三の命を削っていく。

「残念ながら、奇跡は一度きり。だが、それで十分だ。神の如き力にひれ伏すがいい!」

傷だらけの張三を見下ろしながら、七鴉翁はそう言い放つ。
勝利を確信した漆黒の眼。
もはや、張三の命には一刻の猶予もない。

「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる……」

残された力を振り絞り、張三はその言葉を口にした。

「何?」

「……箴言、第27章。旧約聖書だよ」

張三は、ふっと笑った。

「クク、友情の絆で勝つとでも言うつもりか」

七鴉翁は、張三の言葉を嘲笑する。
張三の命は、風前の灯火だ。
魔幇を成し得た一員でありながら、首領の座を辞した愚か者。
愚者を侮蔑と共に冥府へ送ってやろう、そういう悪意が宿っていた。

「然り。互いに武を競い、酒を酌み交わす友なくして、何が人生か」

ふらふらの状態で、拳狐が立ち上がる。
張三ほどではないが、明らかに手負いだ。
たとえ《為逸速的一息》で拳打を放とうとも、七鴉翁を傷付けることは叶うまい。

「その身体で何ができる?何もできまい」

「いや、できる」

拳狐は、傷だらけの身を押して構えに入る。
その構えは、実に基本の型に忠実な構えであった。
古めかしいと形容しても良いほどに、ありふれた構えであった。

「なんだ、そのカビの生えたような構えは」

「いかなる絶技も、土台がなければ始まらぬ。古よりの型を侮れば、負けるが道理よ」

狐面で隠れていない口元だけが動き、言葉を放つ。
構えは不変、崩れはなし。

「クハハ、ならばやってみせるがいい」

余裕の表情で、七鴉翁は挑発した。
油断と言われれば、否定はできまい。
しかし、七鴉翁の頭に敗北の二文字はまるでなかった。
ここから負ける道筋など、あろうはずもない。

拳狐は、静かに息を整えた。
静止した身体に気を巡らせ、一瞬の動に備える。

「――《為逸速的一息》」

宣言と共に、拳狐は足で地面を強く踏み付けた。
震脚。
中国武術における鍛練の一つ。
その動きは、攻撃そのものではない。

だが。
見てみるがいい、七鴉翁を取り囲むものを。
余裕綽々の鴉を足元から狙う刺客を。
この戦場で拳狐が用いた武器を。

《為逸速的一息》で速められる対象は、拳狐が直接触れている物のみではない。
別の物を介して影響を与えられるのであれば、離れた位置にある物も加速しうる。

力を振り絞った震脚は、強かに地面を震わせた。
地面で十分に静止した武器は、その振動を受けて加速する。
武器が描く軌道は、拳狐がイメージした理想の動き。
全ての武器が、狐を描きながら七鴉翁へと向かっていく。

「ククッ、これが貴様の切り札か?こんなもの、避けるまでもない」

七鴉翁は、硬気功を用いて守りに入る。
どれだけの武器が届こうとも、七鴉翁を絶命させるにはまるで足りぬ。
無為な行動。
やはり愚か者だと、七鴉翁は侮った。

ああ、しかし。
鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。
独りでは足りぬ技も、友がいれば研ぎ澄まされる。

「――『鉄杵磨成牢』」

張三が、技の行使を宣言した。
いや、それは技と言うにはあまりにも単純な操作。
張三は、ただ《鉄杵》を解除した。

たちまち七鴉翁を捕らえる鉄の檻が生まれる。
全ての武器の、鉄の棒への回帰。
拳狐の使いし諸々の武器は、元を辿れば全て張三が作り変えたる鉄の棒。
あの晩、宴の後に受け取っていた秘策。
複雑怪奇に絡まった鉄檻は、容易な脱出を許さない。

「張三!鉄檻ごときで私を止められるとでも?!こんなもの、すぐに壊して――」

「その必要はないさ。どうせ、溶けちまうからな」

「然り。あやつが倒れたまま、黙っているなどありえぬことだ」

張三と拳狐の言葉は、確信に満ちていた。

「まったくよう……」

男が、やって来る。
ズンズンズンと鼓動を響かせ、やって来る。

「ムカついて仕方がねえ……」

男が、やって来る。
ギリギリギリと奥歯を嚙みしめ、やって来る。

「てめぇのようなクソ野郎を倒せない自分に……!」

男が、やって来る。
ミチミチミチと拳を強く握りしめ、やって来る。

「不甲斐ねえ俺自身に腹が立つ!!」

男がやって来る。
幾つもの怒りを乗り越えて。
嗚呼、終止符を打つ炎怒(デッドエンド)がやって来る。

「ドッゴァラァ!!!」

どうしようもない憤怒が、限界を超えて炎嵐の血を沸き立たせる。
太陽に勝るほどの高熱が、炎嵐の中を駆け巡る。
七鴉翁が抗う刻もないほどに、烈しく拳を前に出す。

熱が奔る。
拳がぶつかる。
怒りが届く。

「《THE・炎怒》ォォォォ!!!!」

全てを乗せて炎嵐が放った一撃は、七鴉翁を真正面からぶっ飛ばした。
七鴉翁を縛る鉄の檻が橙色に染まり、溶融する。

勝負は、決した。

「………ゴハッ………そんな馬鹿な……」

信じられぬという顔で、七鴉翁は炎嵐を見た。

「……終わるというのか……私の魔幇が……」

気を巡らせて何とか声を出しているものの、七鴉翁の死は確定的だ。
肉体は焼け爛れ、人としての形を成していない。

「……とっくの昔に終わっていたんだ。兄貴が死んだあのときにな」

同じく死の足音を聞きながら、張三が小さく言葉をこぼした。

「……いや、違う……魔幇が成ってからの百年……それを無駄とは言わせん……。魔幇が滅びるなら……魔幇自身の手で……」

焦点の合わない瞳で、七鴉翁は天を見つめる。

「……《七つの仔》の(しち)、《Jolly Ambitious Warfare System》」

影から七匹目の烏が生まれ出でて、即座に爆ぜた。
七鴉翁は、もう息をしていない。
炎嵐と拳狐は、その場に倒れ込んだ。

「勝ったか」

「然り」

短いやりとりが、死闘の終わりを告げていた。



しかし。

『ホェンちゃん、ホェンちゃん!大変!大変だよ!』

VIPフロアにやって来たドローンから、王双葉の声が響いた。

「双葉?」

『とりあえず、見てみてよ!』

ドローンから、ホログラム映像が流れ出す。

上海の空に、一匹の龍が舞っていた。
それは、五つの爪を持った黄金の龍。
魔幇の首領、五爪の翁が背中に刻んだ入れ墨と同じ龍だ。
その龍が黒い炎を吐くと、漆黒の闇が地に産み落とされた。

《Jolly Ambitious Warfare System》。
発動者が最強だと思っている存在を召喚する特殊能力。
元の能力者、車吾空はサメを最強と考えているため、サメを召喚する。
しかし、七鴉翁が使えば、当然召喚される最強の存在は異なる。

七鴉翁にとっての最強の存在は、魔幇。
魔幇の百年の歴史を凝縮した概念。
それは天に君臨した五爪の龍であり、その龍が統べる(つわもの)

漆黒の闇を纏う兵は、拳法家であり、剣士であり、殺手でもある。
芸術家であり、研究者であり、怪異でもある。
百年の間に存在した構成員の情報が複雑に混ざり合った存在。
魔幇之闇とでも言うべき兵が、上海の街に攻め入ってくる。
上海の人々は、悲鳴を上げながら逃げ惑うしかない。

《Jolly Ambitious Warfare System》は、発動者が死亡しても効果を失わない。
即ち、魔幇之闇を倒し尽くさねば、魔都上海は滅ぶだろう。

「ふ、ふざけんな!どうなってんだよ!これじゃ、上海が滅茶苦茶じゃねえか!」

力を出し尽くした炎嵐に、再び怒りの波が押し寄せる。
現在の惨状は、明らかに七鴉翁の仕業だ。
しかし、七鴉翁は絶命しており、怒りをぶつける先はない。

「落ち着け、紅虎」

拳狐は、冷静な声でそう呼びかけた。

「落ち着いていられるかよ!」

「思い出せ。己たちの生きる上海(まち)は、それほど弱くはない」

白い狐の面の下に、確信に満ちた瞳があった。

二十三

魔幇之闇は、上海全土にその姿を現した。
自らの力を誇示するかのように、漆黒の軍勢は人々を襲う。
向けられる殺意に見境はない。
魔幇之闇の持つ漆黒の槍が、逃げ遅れた老爺を狙う。
その矛先が届かんとしたとき、七色に光る両手剣が魔幇之闇を断ち切った。

「ソレガシの名は、クラム・ハードシェル!我が貴婦人の絶美の下に、庇保の剣を振るう者なり!」

魔人武器工房通りで見た過去の幻影。
貴婦人が、上海の民を憂うあの令嬢が遺した想いの結晶であるとするなら。
上海の人々を守ることに、何の迷いがあろう。
貴婦人に御言葉を賜ることがあるとすれば、それは上海の安寧の先にこそ。
故にクラム・ハードシェルは、魔幇之闇を討つのだ。

後続の魔幇之闇が、クラムに拳打を放つ。
しかし、鈍くぎらついた鎧は不壊。
信念なき拳が、クラムの幻覚(せかい)を変えることはない。

その騎士は、遥か海の向こうからやって来たのだという。
七色に輝く剣と鎧を持つのだという。
途方もない歓喜を覚えるほどに、美しいものを知るのだという。
人々を害する者の前に立ちはだかり、深い闇を打ち払うのだという。
百年の後もそのようなことを続ける亡霊なのだという。
真相は定かではない。



「あはは!敵がたくさんで楽しいねえ」

カムパネルラは宙に舞いながら、軽やかにナイフを振るう。
鋭い太刀筋が、魔幇之闇を切り裂いていく。
魔幇之闇の攻撃が迫れば、たちまちカムパネルラは姿を消し、また新たに現れる。

「チッ。これじゃ、ダイヤどころの話じゃない」

ジョバンニは、戦況の推移に軽く舌打ちした。
魔幇之闇に銃撃は効くものの、次々と後続が押し寄せてくる。
このまま戦闘が続けば、残弾不足でジリ貧だ。

「そこのアナタ、弾切れでお困りカ?近代武器も《中国四千年の歴史》!素敵なアイテムをお届けアルヨ」

突然現れた謎の中国人『R』が、チャイナ服の袖から次々と銃を取り出す。
54式拳銃、81式自動歩槍、NDM-86をはじめとする小火器群。
いずれも中国で製造された銃器ばかりである。

「……」

ジョバンニは黙ってそのうちの一つを手に取ると、『R』の方に銃口を向けた。

「アイヤー?!ワタクシ、敵じゃないアルヨ?!」

銃口が火を噴き、拳銃が吠える。
発射された弾丸は、『R』の後方から迫る魔幇之闇を吹き飛ばした。

「悪くない銃だ。代金分は働いてやる」



「四霊、我が身に来たれ――」

《四霊随身》が、海圻の気を増幅させていく。
全身を巡るそれは、たちまち海圻の肉体を極限の領域に到達させた。

「烈蹴―――『白虎脚』」

気を纏った右足が、魔幇之闇を強かに蹴る。
魔幇之闇は空中に打ち上げられ、大地の支えを失った。

「シグリ!」

「おっけい!任せてよ!」

《金剛糸繰》でダイヤの網を作り出した金剛シグリは魔幇之闇を捕らえ、ハンマー投げの要領でぐるぐると回した。
捕らえた魔幇之闇を鎚代わりに、他の魔幇之闇を殴打していく。

『海圻、シグリ君!敵の増援よ!すぐに西の方角へ向かって!』

華甲の指示を受け、海圻とシグリは次なる戦場へと駆け出していく。
加えてここで戦う『清海』は、二人だけではない。

「上海にこれほどの危機が迫ったことはあるまい。困っている人たちを助けるぞ!」

『清海』のリーダー、ガングートの指揮の下、組織のメンバーたちが魔幇之闇に立ち向かう。
その横には『清海』が身柄を預かった、かつての敵たちの姿もある。

「魔幇の怨念が相手となれば、迷う必要はなし!私たちの罪は、この戦いを終えた後に雪ぎましょう!行きますよ、雷!」

「ええ、お嬢様!」

昏倒状態から回復した蘇絲織と雷雅忠。

「ガハハ!こんな奴原、儂は魔幇などとは認めんぞ!冥土の道連れに、一人でも多く薙ぎ倒してやろう!」

残り少ない命を賭けて戦う叩頭卿。

立場を違えていたはずの戦士たちが、一つの脅威を前に力を合わせて奮闘していた。



上海市内のとある大通り。
普段はおおいに賑わうこの場所も、今は人の気配がない。
魔幇之闇の魔の手を避けるべく逃げ出したか、あるいは魔幇之闇に立ち向かうべく別の場所へと向かったか。
無人となった通りを、魔幇之闇の一団が進軍していく。

その様子をじっと見つめるキョンシーがいた。
女陰黄泉だ。

「くっ時限爆弾があると分かって、みんな逃げたに違いないぜ」

女陰黄泉の能力《律令》は、彼女が思いつく理屈をあり得る事象とするものだ。
反論・反証がない限り、その効果が打ち消されることはない。
女陰黄泉に反論する者は、皆無。
それ故、思いついた理屈は現実のものとなりうる。

『00:03』

存在しなかった時限爆弾が、突如屋台街に出現する。

『00:02』

爆発寸前のそれは、無慈悲にカウントを重ねた。

『00:01』

当然、爆弾を解除しようと試みる者もいない。

『00:00』

ドカーン。
時限爆弾は、魔幇之闇の一団を見事に吹き飛ばした。



「貴方、なんだか火力が落ちてきていない?」

ギャラハッド・ソネットの様子を見て、チンチンマンが問いかけた。
チンチンマンは《破魔気》の煙を魔幇之闇に吹きつけながら、器用に銃を操っている。

「ファイアー!しっかり朝食にカレーは食ってきたけれど、流石に敵が多すぎるんだよ!」

ギャラハッドが使う《ファイアーボイス》は、食べたカロリーを炎と化す能力。
いつも通りに十五杯のカレーを食べてきたものの、絶えることなく迫る魔幇之闇にガス欠気味だ。
栄養補給をしなければ、ただファイアーと叫ぶだけの魔人になってしまうだろう。

「いっけな~い、地獄地獄☆わたしの名前は、しりあるキラ子!三度の飯より無差別殺人が好きな上海の一般的な高校生!」

そこへ殺人フランスパンをくわえた、しりあるキラ子が走ってきた。
無差別殺人鬼であるキラ子にとって、魔幇之闇が溢れる上海は入れ食い状態の漁場だ。
異常に硬い殺人フランスパンを手に取り、次々と魔幇之闇を撲殺していく。

「ごめん、ちょっとそのパンちょうだい。お代は後で払うから」

ギャラハッドは、キラ子のパンを横から奪う。
パンを一気に丸呑みして、速やかにカロリーを補給する。
殺人フランスパンの異常な硬さは、物理的に圧縮されたカロリーの証。
ギャラハッドの中に、炎を生み出すエネルギーが満ち溢れていく。

「ファイアー!」

「無差別殺人を繰り返していたら、証拠隠滅してくれる素敵な王子様が現れちゃった!わたし、いったいこれからどうなっちゃうの~!?」



「必殺、プープダイナマイトォォ!」

「必殺、プープストリィィィム!!」

キュアアースホールこと茶山明日歩と、キュアダイアリアこと斎藤あやめの必殺技が、魔幇之闇に直撃した。
こう書くとなかなか格好良く見えるが、実のところ敵は糞便まみれである。

「魔幇とスポンサー契約を結んで、二人を魔幇少女にする計画が台無しだプ」

うんこの妖精、シニョ~が残念そうに呟いた。

「それにしても、こいつらは黒いわね」

「ええ、とっても黒いわ」

魔幇之闇、それは黒い敵だった……。
髪も、皮膚も、服も、靴も――おそらくは下着も。
吐き出す息までも黒く見える。

「おそらくはうんこも黒いわね」

「黒いうんこ……血便ね。きっと、胃か十二指腸が弱点よ」

「つまり、どうするんだプ?」

「お腹のあたりを狙うわ」

魔法少女を構成するエーテル体は、極めて単純な答えを導き出した。

「必殺、プープダイナマイトォォ!」

「必殺、プープストリィィィム!!」

二人の魔法少女の呼び声のもと、上海にうんこが積み上がっていく。
魔都上海、美観と衛生を奪われる覚悟をせよ。



果成いっぽの蹴りが、魔幇之闇を吹き飛ばした。
特撮ヒーローの決め技のごとく、漆黒の身体が爆散する。

「ああ。こいつらも、お前らなんだな」

いっぽは、魔幇之闇にかつての友の残滓を感じていた。
道を違えた友の中には、魔幇に名を連ねた者もいる。
いっぽが、魔幇之闇に揺蕩う友の姿を見るのも無理はない。

「止めるよ、俺が」

ヒーローへの憧れが、友に向ける悲しみが、いっぽにさらなる強さを与える。
だが同時に、いっぽの中には一抹の迷いがあった。
魔幇之闇は上海中を闊歩している。
いったいどこにいる敵から倒していくべきなのか。

「東だ!東に三つの軍勢あり!」

涼やかな声が、いっぽの耳に届いた。
振り返るとそこには、水色のヒーロースーツがある。

「早期マッチングマン!」

「そうだ、私は早期マッチングマン!迷える若人よ、私が君を導こう!」

早期マッチングマンは迅速に情報を収集し、然るべき戦場に戦士を導く早期マンの司令塔。
その指揮能力をもってすれば、次に戦うべき相手を見つけることは難しくない。
ヒーローに憧れる少女は頼れる道しるべを得て、さらなる輝きを放つ。



「ファーッファッファッ!いくら数を誇ろうとも、所詮上げ底の見せかけだ!ミーの増量キャンペーンに恐れおののきなさい!」

弄堂超級机器人の肩の上で、爬・巳・狸・魔都は高らかに笑った。

♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪
♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪
♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪

鋼鉄人形の巨体に陳列された大量のミサイルが、魔幇之闇に向けて発射される。
連鎖的に爆発が巻き起こり、漆黒の影を吹き飛ばしていく。

「ひーん、頑張ってくださーい!」

24時間営業の店舗の制服を着た大戦持A子が、魔都を【応援】する。
帰国費用を稼ぐために魔都の店でアルバイトを始めたA子は、なし崩し的に戦闘に巻き込まれていた。
何故かは分からないが、《精神道奇襲術》を使うA子と弄堂超級机器人(スーパロボット)を操る魔都の相性は抜群だ。
A子の【激励】は、瞬く間に魔都の武装を【補給】し、殲滅速度を【加速】する。

「ふへへへ。敵が全滅したら、失敗が有耶無耶になって無事に帰れるかも……」



「大丈夫か?!」

《痛みの塔》でブロックの壁を作りながら、槌唄塔也は負傷者たちに問いかけた。
上海を襲う魔幇之闇を見て、塔也たちトラブルバスターズは総出で防衛に当たっている。

みえざるかべが われらをまもる

倉森七歌の《深く昏き森》の力が、負傷者たちを守護する防壁を作り出す。

「だ、大丈夫ですか」

その防壁の中で、浅村育美の《泪をみるひと》が負傷者たちの傷を癒す。
見事なコンビネーションだが、戦況が有利かと問われれば別だ。
ブロックを生成して足止めは図れるものの、攻めの手が足りない。
今のままの状況が続けば、追い詰められることは必至だ。
そのとき、ブロックの中をすり抜けて魔幇之闇を討つ影があった。

「怪我した人を殺そうとするなんて、とんでもないやつら」

《隧道展望》。
陸飛燕が持つその特殊能力は、物質の内部や障害物の間をすり抜けることを可能にする。
生成されたブロックであっても、まるで存在しないかのように陸飛燕は通過していく。
即席の迷路に戸惑う魔幇之闇を、自由自在の移動で翻弄していた。

「困ったところに救いの手か。助かるな」



「その通りの先から、新たな敵が来ます」

魔幇之闇を示すマークが、路覇タッカーの持つ地図の上で踊った。
路覇の《堪輿万国全覧御宇基図》は、自由範囲・自由倍率の地図を作成する能力。
一度マーキングしたものは、いつでも地図上に表示できる。
姿形は違えど、魔幇之闇の根源は一つ。
それ故、新たにマーキングすることなく、魔幇之闇の動きを把握することが可能だ。

「この影は、倒してからしばらく経つと消えてしまいますね。漆黒の爪……良い作品になると思ったのですが」

魔幇之闇を地へと沈めながら、倒萩は残念がった。
倒萩が持つ《掻撫》は、尾の先で地形を柔らかく溶かす力を持つ。
武勇に優れた魔幇之闇と言えど、立つ場所がなければ本領を発揮できない。

「あるいは、あの龍の爪を作品にするのも面白いかもしれませんね」

空を飛ぶ五爪の龍を見上げながら、倒萩はそう言った。
倒萩の二つ名は『ネイルアーティスト』。
標的と依頼者の爪を剥ぐ、異端の芸術家だ。

「それなら、航空図でも作ってあげましょうか」

路覇は冗談めかして、倒萩に提案した。



「うおおお!喰らええ!」

「強火で焼いてあげる」

ジゥファンの《朱雀掌》が燃え盛る。
愛星の《灼熱的火焔》が火を放つ。
二つの炎が、魔幇之闇を灼熱地獄に送り込む。

「そっちの角から敵が来るっス!」

「足元を狙ってください」

フーイェンの《白虎瞳》が影より迫る敵を捉える。
静梅の《観察眼》が敵の弱点を見抜く。
二つの双眸が、魔幇之闇の情報を暴く。

「似た能力を持った人間が、二人も被っているなんてびっくりね」

「偶然というのは意外とよくあるもんじゃろ。息が合って、何よりじゃが」

ロンロンの言葉に点心会のボス、スーシェンはそう答えた。

「大切なのは、いかなる者が属しているかではない。その才を、どう用いるかだ」

ジャニス・チャンが、挑発的な口調で言葉を挟む。

「言ってくれるのう。ならば、今は儂の才を用いるときじゃろう」

「ふん。十年前の魔人抗争で名を馳せた腕前、見せてもらおうか」

点心会とジャニス一派。
二つの組織の長が、魔幇之闇の群れへと向かっていく。



「1、2、たくさん。えーと、あと何人倒せばいいんだ?」

ビリー・ザ・キッドたくさん世は、悩んでいた。
敵の数。
残りの弾丸。
溢れ出す魔幇之闇を倒すには、どうすればいいか。

「全員殺せば同じか」

ビリーは、アホである。
アホであるが故、決断してからの行動は早い。
風のごとき速さでリボルバーを引き抜き、発砲する。
何の変哲もない弾丸が、魔幇之闇の一人に風穴を開けた。

倒れた魔幇之闇を踏み越えて、新たな魔幇之闇がビリーに迫る。
その瞬間、ばたりと魔幇之闇は倒れ込んだ。

「弾丸が貫いた死体には、穴がある。マカロニなんだよ」

《マカロニウェスタン》。
マカロニっぽい物の上に乗った相手の意識を遠のかせる、ビリーの特殊能力である。



「上海の危機……それを救う手掛かりは、アマゾンにありッ!」

謎の声が響き渡ると、周囲はアマゾンと化した。
アマゾングレートヤモリやアマゾンオオクマネコといった獣たちが、野生の暴力で魔幇之闇をなぎ倒す。
セキュリティ不全に陥った監獄から脱獄した観光客のSちゃんが、《百年節スペシャル魔都アマゾン探検隊シリーズ》を再び発動したのだ。

「懐かしい故郷に戻れるとは。吾輩、感激ですな」

大戦持A子とはぐれ、上海を彷徨っていたアマゾンキスイガメのダイヤモン・ドーもこれに続く。

「ふざ……ふざけるな!ふざけるなよ!もう滅茶苦茶だ!」

カズマが落書きを描いた壁は、Sちゃんの認識で無残にもアマゾンへと塗り変えられていた。
目の前で起きた事象にキレながら、ヤケクソでカズマは魔幇之闇との戦いへ加わる。

「上海が、こんなだ」

屋台街で黒羽たちに敗れた魔幇構成員も、その後に続いた。
自分の欲望に従って、魔幇に属していた者たち。
しかし、未曽有の危機を前にして、私欲を気にしている余裕などなかった。
そもそもアマゾンに迷い込んでしまった時点で、他にどうしようもない。

「アマゾン最高!アマゾン最高!アマゾン最高!」

百年の歴史を誇る魔幇と言えど、アマゾンと戦った経験を持つ者は少ない。
幾人もの魔幇之闇が、アマゾンの奥地に呑み込まれていった。



「ブヒョヒョ!その程度、何ともないぞ!」

『仁』の布袋和尚が、魔幇之闇の攻撃を受け止める。
脱獄して甘味を食ったがために、その身体は豊満。
脂肪があらゆる攻め手を包み込み、刺突も殴打も効きはしない。

「やったか?!」

やってない。
『義』の立旗が撃ったロケットランチャー。
その爆炎の中から、魔幇之闇がほとんど無傷で現れる。

「シブトイ奴ラ!狩リノ時間ダ!」

『智』のマイティドラゴン・プレデターが、武器を手に喜びを露にする。
マイティドラゴンが投獄されていた理由は、魔幇に所属する魔人狩り。
魔幇之闇は、絶好の獲物と言えよう。

「黒の戦士(プレイヤー)か!シャカパチしがいがあるぜーっ!」

『智』のシャカパチマンのハンドシャッフルが轟く。
シャカパチは、手札がなければ出来はしない。
魔幇之闇が倒れるのが先か、シャカパチマンの手札が尽きるのが先か。

治療(アクメ)は任せてもらおう。どんな状態でもすぐ元気(アクメ)にしてみせる」

『信』のレイズアクメマンが、回復役として後ろに控える。
脱獄に伴い、その姿はボディペイントから戦隊風コスチュームに変わっていた。
双子の兄が死んだ今、上海をうろつく性戯の味方は唯一人。

五人揃って脱獄したが故、もはや模範囚とは呼べぬ五徳囚。
彼らの明日はいったいどうなる。



上海市虹口区の一角。
開け放たれた監獄の前に、灰蛇絡は立っていた。
両目に映るのは、列を組む魔幇之闇の集団。
もし侵攻を許せば監獄のみならず、周囲の街も危険に巻き込まれることになるだろう。

灰蛇絡は看守室で拾ったナイフを手に取り、髪を切る。
刃を肌に滑らせ、血を流す。

切り落とせる髪は、もう多くない。
流せる血も、そう多くはない。
それでも灰蛇絡は《堕落蛇道》を使い、できる限りの蛇を生む。
魔幇之闇に牙を突き立てる、黒と赤の蛇を。

劉炎嵐なら、きっとそうしただろうから。



魔幇之闇が攻め入る貧民街。
そこに、意識を取り戻したカリー・魔幣の姿があった。

すばらしき日々は失った。
懐かしい歌は忘れた。
愛おしい笑顔は擦り切れた。

それにもかかわらず、カリーはこうして戦場に立っている。
いったい何故か。
彼女自身にも、分からない。
理由を付けようとすれば、いくらでも付けようはあるのだろう。
例えば、魔幇之闇の進む先にある、百年前の郷愁の地。

だが、そんな試みは無為だ。
何故戦うかなど、後回しにすればいい。

今、カリーの胸にある想いはただ一つ。
こいつらを“なにもなかった”ことにしてやろう。



屋台街にも、魔幇之闇の軍勢と戦う拳士の一団がいた。
息を合わせて戦ってはいるが、魔幇之闇の猛攻に圧され気味である。
一団の隙を突いて、漆黒の刃が拳士のうちの一人に迫る。
しかし、その刃が拳士の命を奪うことはなかった。

「大したことねぇな。拳狐の一撃の方が、百倍は痛かったぜ」

魔幇之闇と拳士の間に割り込んだ大柄な男は、自らの肉体で黒い刃を受け止めた。
追撃を許すこともなく、剛腕を振るって魔幇之闇を吹き飛ばす。

「王烈の兄貴!」

「おう、俺だ。《好漢の鎧(ナイスガイ)》の王烈だ」

岩壁を思わせる男の名は、王烈。
打撃や斬撃のダメージを大きく軽減する《好漢の鎧》を使う武人である。

「お前ら、よくやった。後は俺と婆さんに任せろ」

婆さん?
王烈の手下がその言葉の意味を理解する間もなく、一つの影が魔幇之闇の軍勢の間を駆け抜けた。

「なんと妖艶な太刀筋なのでしょう。ここ上海を覆ってきた闇の帳、その歴史の長さを感じられるようでございます」

魔幇之闇が放つ、幾つもの斬撃を華麗に避ける老女の名は、感想婆。
上海にて感想道を極めた達人である。
数多の物語を素早く読み切り、言霊を紡ぐ感想婆にとって、魔幇之闇の攻め筋を読み切ることなど児戯にも等しい。

「しかし、婆にとっての第一は、上海に住む皆様の心身の健やかなること。心なき悪鬼の横暴を、見過ごすわけには参りません」

そう言うと、感想婆は目にも止まらぬ連撃を放つ。
感想婆の大攻勢(ふくりこうせい)に、魔幇之闇は膝をつくほかはない。



「ああもう!」

魔幇之闇を倒しながら、林希美はぼやきの言葉を放つ。
グレゴールを討ったダイヤの煌めきは、まだそのまま。
《飢鬼》のピークを維持したままで、林希美は上海を駆けていた。

向かう先は、上海中心大厦。
張三が七鴉翁と対峙しているはずの場所。
しかし、上海中心大厦に至る道には魔幇之闇が溢れている。
人々を襲う魔幇之闇を無視できるはずもない。

「張三、生きていてよ」

心からの祈りと共に、林希美は道を急いだ。



「よーし、その調子だ我が弟子よ。連続攻撃で得点アップ!緑のキノコが見つからないから、きみだけが頼りだよ」

下山アンドロメダは、無限1UPに成功したことのない女である。

「師匠、本当にこれが正しい戦い方なんでしょうか」

黒いセーラー服を着た少女、死神(きみ)がそう問いかける。
下山の弟子は魔幇之闇が現れてからというもの、彼女はひたすらに目からビームを出していた。

「もちろんだとも。遠距離攻撃の目からビームで敵を倒した後、高低差無視で安地に移動。30秒経過したら、再度攻撃。このハメ技で、楽勝だとも。能力構成の設計者も、これを想定していたんじゃないかな?」

能力構成の設計者はこの女、下山アンドロメダである。

「師匠がこうして前に出てくるなら、通信機能を別のものに変えればもっと色々出来たのでは?」

「残念ながら、無限通話はプリセット!変えたければ、基本プランから見直したまえ。キャンセル料は、きみの借金より多いけどね」

無論、そんなプランなどありはしない。



「ラスボスを倒したら、普通はエンディングだろ?まー、能力が効くのは何よりだけどな」

《創造上の想像力》で魔幇之闇をなぎ倒しながら、白髪黒羽はそう言った。
魔幇之闇は、魔幇構成員の情報の集合体。
通常とは異なる理を持つが、物事を認識する点は普通の人間と同じだ。

「……この黒い影、いったい何なんでしょうか?」

《罰天令》で黒羽を支援しながら、日ノ御子神楽が不安そうに問う。

「アタシにもさっぱりわからねえけど……ま、全員ぶっ倒せばそれで万事解決だろ」

蛮族の如き答えを返して、黒羽は魔幇之闇の群れに飛び込んだ。
弾切れのない認識の弾丸が、敵を貫いていく。



(スパイク、今よ!)

鱷形拳で魔幇之闇の攻撃を凌いだ恋辻メーメーは、《鱗語交流》を通じてスパイクに指示を出す。

(オッケー!暴れるよ!)

排水口より飛び出したスパイクの顎は、メーメーを攻める魔幇之闇を強く挟み込んだ。
漆黒の影を噛み千切ると、巨大な尾を別の魔幇之闇に叩き付ける。
人鰐一体のコンビネーションが、上海を襲う敵を次々と打ち倒していく。

二人の復讐に、いったんの区切りはついた。
だが、魔幇の残滓が上海を襲うとなれば、話は別だ。
たとえ苦難の日々を過ごそうとも、かつて家族と暮らしたこの街を見捨てることなどできはしない。
メーメーの想いに応えて、スパイクは全力を振るった。



「……えい」

死神の拳が、魔幇之闇をいとも容易く貫いた。
蝙蝠のような羽根と悪魔じみた尻尾が、ぴょこぴょこと動く。
魂を縛る契約は、死神に尋常ならざる身体能力を与えていた。

「……もうひと頑張り必要っていうことですか」

契約が残っているということは、ダイヤの欠片がまだ願いを叶えていないということ。
事態が解決したとき、ダイヤの欠片は天国へのチケットになりうると、依頼人は言っていた。
上海に溢れる魔幇之闇を倒さなければ、借金はそのままということなのだろう。

「——よし」

大丈夫。
目の前にいるのは、黒い染みじゃない。
死神は決意も新たに、歩みを進めた。



「こいつら、全然かわいくないわね。こんなにいるんだから、一人ぐらいかわいい敵がいてもよくないかしら」

魔幇之闇の攻撃を物ともせず、反撃を加えながら喬芽芽がぼやいた。
芽芽の《可愛くてごめん》は、彼女がかわいいと認めた存在以外からのダメージを無効化する能力。
上海の人々を襲って回る魔幇之闇に、芽芽がかわいさを感じるはずもない。

「私の護衛であることを忘れてもらっては困りますわ。かわいい敵が出てきたら、ピンチじゃありませんの」

カルミア・チャムリーが、そう文句を言った。
慣れない手つきで拳銃を握りしめ、迫る魔幇之闇に撃ち込んでいる。

「心配要らないわ。だって、私は世界一かわいいんだもの。かわいいは最強よ」

芽芽が可愛いウィンクをするや否や、魔幇之闇は倒れた。



上海で生きる者たちが、力を合わせて魔幇之闇に立ち向かう。
チャイニーズマフィアも、解決屋も、一般人も関係なく、上海全土を滅ぼさんとする敵に戦いを挑む。
街を守らんとする心の炎が、鮮やかに燃え上っていた。

しかし、魔幇之闇の勢いが衰えることはない。
天高く舞う五爪の龍が黒い炎を吐くたびに、新たな魔幇之闇が産み落とされた。
人々は理解し始める。
あの龍を倒さぬ限り、平穏は来ないと。

人々は願う。
龍を倒す者の到来を。



「双喜さん、大丈夫アルかね?」

グイェンと背中合わせで戦いながら、タオマオが不安そうに問いかけた。

「きっと大丈夫だ。御守りも持たせてやったしな!」

そう答えて、グイェンは空を見上げた。

五爪の龍が舞う空の、さらにその上。
雲を割って、一つの星が轟音と共に流れ落ちてくる。
その流れ星の名は、双喜。

二十四

「いやっふー!すごい!すごい!どこもかしも欲望だらけ!」

高い空の上から、双喜は五爪の龍に向かって落ちていた。
いや、ただ落ちるばかりではない。
欲望から得た膨大なエネルギーを放出し、軌道を修正していた。
全身から噴き出るオーラは、美しい尾を引いている。

古代中国において、流星は天狗と呼ばれた。
星が流れる際に轟く音を、天の狗が吠える声と聞いたのだ。
天狗を名乗るアルクトゥールス星人。
その秘宝を核とする犬系女子、双喜はまさしく天狗の名にふさわしいだろう。

なぜ今、双喜は天空にいるのか。
答えは、上海市民が持つ欲望である。
人々は魔幇之闇との戦いの中で「生きたい」という欲望を燃やしていた。
次々と敵を生む五爪の龍を見て、「倒してほしい」と願っていた。

願いとは、欲望に対する祈り。
五爪の龍へ向かう意識は、上方向に強い流れを生み出していた。
《欲心流路》は、強い指向性を持つ欲望の流れに乗って移動する力も持つ。
双喜はその流れに乗って、遥か上空へと飛び上がったのである。

「ああ!すばらしい!全ての欲がここにある!強欲食欲私欲物欲邪欲色欲我欲肉欲意欲金銭欲知識欲戦闘欲、そして何より上海を愛する欲!」

双喜が感じているのは、「生きたい」という欲望だけではない。
生き残ろうとする欲望の裏側には、さまざまな欲望が隠れ潜んでいる。

生き残って、美味しいものを食べたい。
生き残って、素敵な恋をしたい。
生き残って、友達と遊びたい。
生き残って、ぐっすりと眠りたい。
生き残って、大金持ちになりたい。
生き残って、皆から褒め称えられたい。
生き残って、強い奴と戦いたい。
生き残って、世界を平和にしたい。
生き残って、この上海で大切な人と生きていきたい。

上海に渦巻く欲望の嵐が、双喜に力を与え続けていた。

「素敵な欲望を見せてくれて、ありがとう!私に生命を与えてくれて、ありがとう!」

止めどない感謝と共に、双喜は行く。
重力を受けて加速する双喜を待つのは、硬い龍鱗を持つ五爪の龍。
荒れ狂う五爪の龍の身体が、双喜にぶつかった。
その体当たりは、信じられぬほどの衝撃を生む。
いくら人造魔人と言えども、耐え抜けるものではない。

だが、双喜を護るものがある。
《玄武印》。
空へと旅立つ双喜にグイェンが押印していたそれは、あらゆる攻撃から対象を護る。
たとえ世界を滅ぼす力を受けようとも、一発だけなら耐えられるのだ。
かくして、双喜は五爪の龍の背に立った。

「右に喜び!」

《欲心流路》に渦巻く欲望が、巨大な掌となって姿を見せる。

「左にも喜び!」

対となるように、もう一つの掌が生じる。

「二つ重ねて、幸せ二倍!」

欲望への喜びに溢れた双掌が、五爪の龍に向けて構えを取った。

「名付けて、双喜大祭掌(ダブル・ハピネス・キャンペーン)!」

双喜の呼び声に合わせて、欲望の掌は双喜ごと五爪の龍を挟み込む。

「愛してるよ!しゃんはーい!」

愛を叫ぶ言葉と共に、双喜と五爪の龍は散った。
まるで最初からいなかったかのように、魔幇之闇の姿も消えていく。
天に光が生まれ、欲望から生まれたエネルギーの奔流が上海に降り注ぐ。
百年節の最後を飾る、美しい花火。
その輝きを、上海の人々は地上から見つめていた。

二十五

百年節の大騒動を終えた上海は、少しずつ元の活気を取り戻し始めている。
あちらこちらでトラブルが起きるのはいつも通りだが、人々の笑顔が溢れる場所も多い。
以前のような賑わいを見せるのも、そう遠くないかもしれない。

あの日、上海の空に輝いた花火。
『欲心流路』から膨大な力を受け取ったダイヤの欠片たちは、砕け散る代わりにさまざまな奇跡をもたらした。
例えば、蟲に害された者は元の姿を取り戻し、人々が魔幇之闇から受けた傷も癒えた。
他者を想う上海の人々の欲望――願いを叶えたのだ。

魔幇の失墜によって生じた裏社会の空白を利用して、成り上がろうとする悪党がいないわけではない。
だが、第二の魔幇の誕生を阻止すべく、奔走している正義漢もまた多いのだ。
上海の街は、今日も混沌と欲望に満ち溢れている。



復興が進む上海で、頭角を現した一人の人物がいた。
名前はカムリア・チャムリー。
華やかな青色のドレスを着た、長い金髪の美しい女性だ。

しかし、その美しさが語られることは殆どない。
彼女の傍らには、世界一可愛い喬芽芽という護衛がいるからだ。
「太可愛了」と称える声が、ここ上海で尽きることはない。



下山アンドロメダとその弟子は、しばらく上海に逗留することに決めた。
ダイヤの欠片を巡る問題はひとまず解決を見たが、アルクトゥールス星に関わるトラブルはどうやらまだまだあるらしい。
防御言語プロトコルという名の胡乱な言葉は、明日も上海に響くだろう。

弟子の借金は消えていないが、完済する日はそう遠くないはずだ。
アルクトゥールス星では、急激にインフレが進んでいる。
下山師匠の弟子として住民票を移してしまえば、百億円単位の借金など物の数ではない。



白髪黒羽と日ノ御子神楽は、無事日本へと帰国した。
もちろん、魔幇から奪われた清王朝のダイヤと一緒にだ。
万事屋が贈る親友への出産祝いは、実に豪華なものとなった。

余談だが、後日『世界第二位の探偵』の名義で、上海のさまざまな組織に多額の寄付があったという。
振込先は、劉炎嵐の事務所や『清海』といった上海の人々を救おうとする者のところ。
その寄付額の合計は、上海から消えたダイヤの価値を遥かに超えるものだったそうだ。



グイェンは、タオマオと同棲生活を始めた。
解決屋として再スタートした点心会で働きながら、二人でいちゃつく日々を過ごしている。
タオマオのラブラブ攻勢に、グイェンは毎日たじたじだ。

そのタオマオは、ダイヤの欠片が起こした奇跡により人としての姿を取り戻した。
ただし、その奇跡は不完全なものだったらしく、ときたまウーズの姿に変わったり、勝手に能力が発動したりするらしい。
グイェンはしばしば騒動に巻き込まれることになるのだが、それはまた別の話だ。



復讐を果たしたメーメーとスパイクは上海を離れ、旅に出ている。
もはや身分を偽る必要はないが、スパイクの呼び方に合わせて恋辻メーメーの名前はそのままだ。
もし行方不明の家族と再会できるときが来るなら、改めて張琅月の名を名乗るのかもしれない。

旅の途中で、きっと二人は綺麗なものをたくさん見るだろう。
夜の街と下水道。
汚濁にまみれた運命が、二人を縛ることはない。



死神もまた、天の川を行く鉄道に乗って旅に出た。
終着駅を示すプレートには、『天国』と記されているのだろう。
名付けの報酬として受け取ったダイヤの欠片は、借金を完済する魔法のチケットになったらしい。

各駅停車のゆったりとした旅で、死神はさまざまな人に出会うだろう。
かつて出会った者と再会することがあるかもしれない。
例えば、そう、「きみ」と名乗る旅人と。



上海市内、どことも知れぬ路地裏に石ころが一つ落ちていた。
美味い飯を食いたい、素敵な人と出会いたい、大金持ちになりたい。
そんな声が響くたびに、石ころはほんの少しだけダイヤめいた煌めきを放つ。

アルクトゥールス星に伝わる秘宝は、人々の欲望を集めるという。
十年後、百年後、あるいは千年後。
いつの日か、上海に再び欲望の嵐が巻き起こったとき、ダブル・ハピネス・キャンペーンと朗らかに叫ぶ声が聞こえるだろう。



中華民国歴114年――西暦2025年。
上海市宝山区。
大型企業の工場や大学の集まる上海北部の一角で、私は、彼と出会った。

上海の街を見渡せる高台で、私は木枯らしに身を震わせていた。
張三と出会ってからの日々。
つらいこともあったはずなのに、思い出すのは張三とした食事のことばかりだ。
誰かに知られたら、食い意地が張っていると言われるかもしれない。

飢えに喘いでいた私を救ってくれた人。
彼が最初に差し出した炒飯の味を、忘れることはないだろう。
きっとこれから美味しい料理と出会うたびに、あの味を懐かしむのだ。
初めて知った食の喜びは、決して消えることがないのだから。

秋から冬へと移り変わる季節。
『飢鬼』と『鋼鉄構架』。
私たち『破幇同盟』は、確かに上海を生きたのだ。

「おい、林希美」

後ろから、私を呼ぶ声がした。

「何?張三」

振り返ると、そこには張三がいる。

「そんな風に黄昏られちゃあ、まるで葬式の後みたいだ」

張三は、戦いに生き残った。
本人曰く致命傷を負ったらしいが、なぜか息を吹き返したそうだ。
流れ星が願いを叶えてくれたんだよ、と張三は笑った。

もちろん、全てが元に戻ったわけではない。
丸太のようだった腕は痩せ衰え、老齢に見合ったものに変わっている。
命だけは取り留めたというところだろう。
年齢を考えれば、明日ぽっくり逝ってもおかしくはない。
だが、健啖家なところは相変わらずだ。

「腹減ったろ」

「うん」

私はそう答えて、張三と一緒に食堂へ向かう。
温かな料理が、私たちを待っているはずだ。

冬が始まり、寒さが厳しさを増す季節。
林希美と張三。
私たちは、これからもここ上海で生きるのだ。



これで、清王朝のダイヤを巡る魔都上海のお話はいったんお終いだ。
激動の十日間を駆けた綺羅星は、またどこかで輝くだろう。
運が良ければ、その星の輝きを再び目にすることがあるかも知れない。
だがそれはきっと、ずっと先の話だ。

さあ、それでは改めて。
物語(なぐりあい)を再開するとしよう。

二十六

上海から少し離れた孤島。
上海大賽で賑わっていた格闘技場の観客席に、人の姿はもはやない。
熱狂が過ぎ去った戦場に、二匹の獣がいた。

一匹は、虎。
号を『紅虎』、名は劉炎嵐。
暫定の『上海覇者』にして、本気で世界平和を願う男。
直線的な喧嘩殺法と、曲線的な劈掛拳を武器とする。

一匹は、狐。
号を『拳狐』、名は不明。
白い狐の面を被り、ただひたすらに戦いを求める男。
数多の型を重ねた実の拳と、敵を惑わす虚の拳を武器とする。

双方、本調子とは言い難い。
先日の死闘で負った傷は、まだ両者を苛んでいる。
しかし、それが戦いを止める理由になるだろうか?
強さを競う武人の(さが)は、決して止められぬものだ。

『それじゃ、確認するよん?』

二人の間を漂うドローンから、王双葉が声をかけた。
双葉は、この仕合の立会人。
と言っても、戦う前の段階で決まり事を確かめる補佐役に過ぎない。

『一つ、この仕合の勝者が「上海覇者」の号を得る』

「ああ」

「仔細なし」

炎嵐と拳狐の戦いは、名目上は上海大賽の決勝だ。
魔幇なき今、従う必要も特にないが、その決まりに乗っ取って『上海覇者』の号を争うこととした。

「だけどよ、拳狐。お前も、別に『上海覇者』を名乗りたいわけじゃねえだろ?」

「然り。己が興味を持つのは、おぬしがその名にふさわしいだけの強さを持つかだけよ」

『上海覇者』。
真の最強を意味する称号。
その号を持つ者は当然、強くあらねばならない。

「ああ?!この間、さんざん一緒に戦っただろうが!」

「おぬしの強さは、怒りを源とする。戦いを終えて、腑抜けておらぬかと案じただけだ」

炎嵐の《THE・炎怒》は、怒れば怒るほどに血の温度が上がる特殊能力。
怒りがなければ、脅威にはならない。

「心配すんな!今日もムカついて仕方ねえからよ……!」

炎嵐の吊り上がった目が、拳狐を睨みつける。
髪の毛は逆立ち、拳は強く握られている。
ミチミチと肉体から怒る声がする。

「俺がもう少し早く魔幇を潰すと決めていれば、苦しむ人はもっと少なかったかもしれねえ!自分の決断の遅さに腹が立つ!」

魔幇を滅ぼせたのは、タイミングが良かったからに過ぎない。
もしもっと早く炎嵐が動いていたとて、結果が同じになるとは限らないだろう。
しかし、そんなことを炎嵐は考えもしない。

「お前もだ、拳狐!それだけの強さがあれば、もっと多くの人を救えるはずだ!そうだろ?!」

劉炎嵐という男は、人間を過大評価している。

もっと優しくなれるはずだ。
もっと他人に寄り添えるはずだ。
全力でなくてもいい、ほんの少し誰かに手を差し伸べるだけで、世の中はもっと素敵になるはずだ。
人間は、もっと素敵な世界を作れるはずだ。

そう、信じている。

「それは傲慢というものだ、紅虎。弱い者が、弱い者で居続ける道理はない。誰もが、やがて胸に炎を灯して立ち上がるだろう」

拳狐もまた、人間を過大評価している。

誰もが強くなる可能性を持っているはずだ。
今はまだ弱くとも、やがて強者として自分の前に立てるはずだ。
誰かにまるごと救ってもらわなくとも、少しの勇気で立ち上がれるはずだ。
人間は、もっと強くなれるはずだ。

そう信じている。

「気に入らねえな!」

それ故、両者は相容れぬ。
相容れぬからこそ、生き様を違えるのだ。

『えーと、続けていいかな?一つ、この仕合の勝者が、清王朝のダイヤの所持者となる』

清王朝のダイヤ。
魔幇から強奪された秘宝。
無論、それは白髪黒羽の手によって、上海から持ち出された。
同じ名を持つダイヤの欠片もまた、全て砕け散った。
今の上海に、本物の清王朝のダイヤは存在しない。

しかし、存在しないからと言って、その影響力がなくなったわけではない。
第二の魔幇となるべく、清王朝のダイヤを求める者もいるだろう。
消えた至宝を我が物とするために、無意味な諍いを起こす者もいるだろう。
上海の平穏を願うなら、誰かがまだ持っていると思わせる必要がある。
奪う気にもなれないほどの強者が。

それ故二人は、この仕合の勝者がダイヤの所持者となる約定を交わしたのだ。
虚構のダイヤの守り手となって、秘宝を狙う敵を討つ。
その約定は、清王朝のダイヤの始まりにどこか似ていた。

「おう」

「仔細なし」

より強い方が、ダイヤの所持者となる。
両者とも、そのことに異論はない。
この仕合の後、自分の方が強いと思うときが来たなら、改めて勝負を挑めば良い。

『最後。一つ、戦闘不能をもって決着とする。ただし、相手を殺すことは禁止』

「いいぜ」

「仔細なし」

最強とは何か。
その問いに、完璧な答えを返せる者はいないだろう。
だが、二人のどちらが強いかという問いであれば、答えは単純だ。
相手を倒した方が強者。
ただそれだけだ。

『なら、あとは二人にお任せ。終わった頃にまた来るよん』

そう言い残して、ドローンは戦場から去っていく。
さあ、仕合の時間だ。

二十七

「それじゃまぁ一応名乗っておくか。『上海覇者』、『紅虎』劉炎嵐。行くぜオラ!」

炎嵐が吠えた。

「己の名は、拳狐。一つ手合わせ願おうか」

拳狐が応えた。

まず先に動いたのは、炎嵐である。
繰り出したのは、劈掛拳。
その技は通常の拳打のように、拳を打って腕を引くわけではない。
両腕を振り回し、流れるように攻撃を加える。

炎嵐の優れた体躯から繰り出される劈掛拳は、扇風機のようなものだ。
一度巻き込まれてしまえば、次々と来る連撃に成す術もない。
加えて、身体は蛇のように曲がりくねった動きを見せる。
回転する扇風機の羽根の間を縫い、動く的を狙う。
それができなければ、炎嵐は倒せぬ。

眼前の男にはそれができる。
《為逸速的一息》。
静止時間に応じた加速をもたらすその力は、容易く羽根の間に拳を通す。
拳狐の拳は炎嵐の劈と掛をくぐり抜け、その胴を狙った。
無論、このことは炎嵐も承知の上。
打撃を喰らうことを前提とした、相打ちの攻めである。

だが、拳狐はさらに先を読んだ。
《為逸速的一息》は、拳狐がイメージした高速の動きを現実化する。
拳狐がイメージしたのは、単なる拳打ではない。
拳で打ち、即座に受けの構えを取る攻防一体の動作。
炎嵐の相打ちを挫く動きであった。

「はっ、大当たりだなオイ!」

しかし、この攻防に打ち勝ったのは炎嵐だ。
拳狐の拳を喰らいつつも、唸る剛拳をぶち当て、拳狐を吹き飛ばした。
炎嵐の動きは、劈掛拳から喧嘩殺法に変わっている。
炎嵐は直感に任せて、当たるかどうかも分からぬほどに非合理な攻撃を放っていた。

狐が下手の射る矢を恐る。
まともな人間は相手にしやすいが、無茶苦茶な人間は相手にしにくいという意味のことわざだ。
数多の型を修める拳狐は、当然劈掛拳のことも知る。
もし劈掛拳のまま攻めていたなら、受け往なされることは避けられぬ。

だが、本人ですら道理の分からぬ攻撃なら当たる可能性はある。
どうせ受けられてしまうなら、当たった時にでかい方がいい。
炎嵐は、博打に勝ったと言える。

「ぬう。ならば、おぬしに七色の幻を見せてやろう」

そう言うと拳狐は、炎嵐に向かって歩み始めた。
歩法を用いず、ただ単に前身した。
《為逸速的一息》に備えるため、一部位を固定することもない。
例えるならそれは西洋剣術、基礎中の基礎。
ひたすらに近付いてただ斬り付ける、幻覚の騎士の動き。

だが、拳狐の手に剣はなく、身を護る不壊の鎧もない。
これは自暴自棄の酔狂か?
否。
同じ動きであろうとも、使い手が変われば意味を違える。

数多の拳法を使う拳狐は、幾つもの攻め手を持つ。
直進直行に見えても、幾百通りの変化へと技を繋げられる。
炎嵐から見て、ただひたすらに前進してくる姿はいっそ不気味だ。
愚行にも思えるその歩みに、炎嵐は数多の攻めを幻視してしまう。

「チッ!厄介な真似しやがるな!」

もちろん、これを黙って見ている炎嵐ではない。
拳狐に対して、試しの一撃を放つ。
こちらの攻めに対して、どう動くか。
それを見ることで、拳狐が選びうる変化を狭めようとした。

これは、フェイントの一種。
あくまでも次に繋げるための攻撃。
とは言え、血沸き立つ炎嵐の剛拳は、フェイントと呼ぶには強過ぎる。
思わず【当たったら倒れる】と認識してしまうほどだ。
拳狐が動きを見せぬなら、そのまま当ててしまえば良い。
そういう意図を含んだ拳であった。

「……」

拳狐はこの一撃に惑わされなかった。
いや実のところ、拳狐は、何も考えていない(・・・・・・・・)
前進することのみを肉体に命じ、精神を無の領域に置いている。
考えぬ者にフェイントなど、意味を持たない。
炎嵐の試しの一撃を、ただそのまま引きつけた。

拳狐の狙いはもちろん、《為逸速的一息》による思考の加速。
脳に重い負荷がかかる故、一つの戦いに一度が限度の大技。
しかし、全身を動かしている故、刹那の反撃に《為逸速的一息》を用いることはできぬ。
隠し武器を使った技では、炎嵐に有効打を与えることは難しい。
拳狐はいかなる方法で、炎嵐に反撃を加える算段か。

それこそ、何も考えていない。
危機に対して、身体が心を目覚めさせたとき、その場で方策を立てるべし。
炎嵐の選択次第では、無為に終わる行動だ。
だが、此度の相手はまたとない強者。
相手が博打を仕掛けてきたのなら、こちらもやらねば武人が廃る。

(……良し)

炎嵐の拳が放つ熱に、拳狐の心は平時より早く目覚めた。
爆発的に加速する思考は、炎嵐の狙いを見抜く。
位置取りを確かめ、耐火の袖で炎嵐の腕を往なす。
往なした勢いそのままに、炎嵐に右膝を入れた。
膝頭が突き刺さり、炎嵐は軽く息を漏らす。

「うぉ?!」

拳狐はさらに左足で炎嵐を蹴り、宙に舞う。
炎嵐も拳撃を返すが、虚しく空を切った。
互いに一本取って、仕切り直しといったところだ。

「やりやがったな!ウオラァァ!」

身体に走る痛みと、してやられた屈辱が、炎嵐の怒りを呼ぶ。
《THE・炎怒》。
怒りは血をさらに沸き立たせ、身体能力を跳ね上げる。
炎嵐は口から炎を放たんばかりの勢いで咆哮し、天高く跳躍した。

「ドッゴォラァアアア!!」

空中より来る蹴撃は、特撮ドラマのヒーローの如し。
敵を屠る剛脚が、迸る熱と共に拳狐へ迫る。
もし命中したならば、敗北は必至。
必殺技とは、まさにこのことだ。

「はっ」

だが、如何なるヒーローにも勝てぬものはある。
放送休止。
興行主に一息つかれては、技を当てる好機がない。
《為逸速的一息》。
名に一息を持つその力が、拳狐を必敗の運命から遠ざける。

拳狐は、《為逸速的一息》で袖口よりフックロープを射出していた。
狙った先は、無人の観客席。
フックが絡まった瞬間に、拳狐は巻き上げ機構の回転を速める。
やがて友になりうる者に教えた動きをもって、拳狐はその位置を変じた。
炎嵐の蹴りは、拳狐の代わりに大地を砕く。

「ちょこまかと逃げやがって!オラオラ!」

蹴りを避けられた炎嵐に、焦りの色はない。
すぐさま地を蹴り、拳狐へと迫る。
炎嵐の次なる一撃は、またも蹴り技。
駆け抜けた勢いをそのままに、直線的なヤクザキックを繰り出した。

「しゃっ」

これに対して拳狐が仕掛けたのは、掴み技。
炎嵐の蹴りにあえて飛び込み、その脚を両手で掴もうとした。
もちろん拳狐の仕掛ける技が、単なる掴みであるはずもない。
見よ、拳狐は体軸を中心に激しく回転している。

《為逸速的一息》。
捻じ切らんばかりの高速回転で、炎嵐の脚を狙う。
それは獲物を捕らえるワニのような、情け容赦のないデスロールだ。

「チィ!」

これを見た炎嵐は、脚の動きを無理やり変える。
ぶちぶちと筋が切れる音が聞こえるものの、気にせず【加速】して脚を逃がす。
いや、それだけではない。
【熱血】からもたらされる強化を活かし、さらに脚を【再動】する。
動きを変えて回し蹴りとなった脚が、拳狐に迫る。

だが、拳狐も然る者。
炎嵐の動きに合わせて身体を反らし、蹴りの軌道の上を転がった。
炎嵐の脚より奔る熱が、じりりと耐火のコートの背を焦がす。
コートの裾を翻し、拳狐は地に降り立った。

「今だウオラァァ!」

着地した拳狐目がけて、炎嵐が拳を振るう。

「陰陽、我が身に満ちよ――」

上海の平穏を護る男に倣い、拳狐が気を巡らす。

「ドゴォラァ!!」

「雷突―――『聳孤撃』」

拳撃が交差し、互いの身体に命中した。
炎嵐の拳から伝わる熱は拳狐を焼き、黒い染みを作る。
拳狐の拳は的確に炎嵐の経穴を突き、血流を弱める。
公平に見るならば、相打ち。

そして、この激突の在り様こそ戦いの要諦。
同じように、一進一退の攻防が続く。
対等の力を持つ者たちの戦いは、得てして均衡状態を招くものだ。
片方が技を繰り出せば、もう片方がそれに応じた技を返す。

あいこの繰り返し。
決着を目指すならば、あいこの仕方を変える必要がある。
即ち、互いの身を削る攻めの応酬だ。
決着のため、炎嵐と拳狐は幾度となく相打ちを繰り返す。

結果、そこにはひどく傷付いた虎と狐がいた。
互いに限界が近いことは、承知している。
おそらく次の攻防が、勝負の決め手となると分かっていた。

「認めよう。おぬしが、この面を外すにふさわしい相手であると」

拳狐は、静かに告げた。

「己は武人、名を拳狐――」

拳狐は名乗り、白い狐の面に手をかける。

「されど『狐』を外さば、ただの『拳』よ!」

拳狐は狐の面を放り投げ、素顔を晒した。
その顔は、実に平凡なものであった。
何の変哲もないと形容しても良いほどに、ありふれた顔であった。

しかし、炎嵐を見つめるその瞳は、熱い蒼炎を宿している。
選びし戦型は後の先、待ちの構え。

「良い気合だなオイ!だがよ……認めるのがちょっと遅過ぎやしねえか?!」

拳狐の上からの物言いに、炎嵐は腹を立てた。
体内を巡る血液は、さらに温度を上げる。

「このムカつきを全力でぶつけさせてもらうぜ!《THE・炎怒》ォォォ!!」

拳狐を見据えるその瞳は、燃える紅炎を宿している。
選びし戦型は直進直行、正面突破の構え。

「ウォラアアアアアァァァ!!」

炎嵐が、駆ける。
心臓は爆音を鳴らしながら、猛烈な鼓動を刻む。
しなやかな血管が、全身に沸血を流す。
余力を振り絞って、炎嵐は一撃に賭けた。

拳狐は、待つ。
《為逸速的一息》の真価を引き出すため、全身を静止させる。
静かな呼吸が、肉体に気を巡らす。
余力を振り絞って、拳狐は一瞬に賭けた。

炎嵐の拳が、拳狐に近付く。
《THE・炎怒》による強化は、攻撃の威力を増すのみではない。
向上した身体能力は、拳狐に接近する速度も上昇させる。

それは即ち、拳狐の静止時間を奪うということ。
拳が速く届けば届くほど、瞬撃の威力は弱まる。
最短距離での接近が、刹那の差を生む。
拳狐の拳より先に、炎嵐の拳が届く。
炎嵐は、勝利を確信した。

「ドッゴァラァ!!!」

然し。

何かが、背後から炎嵐を貫いた。
その衝撃に炎嵐は姿勢を崩す。
拳狐を倒しうる拳は逸れ、あるべき威力を失う。

「――《為逸速的一息》」

《為逸速的一息》。
その能力は一時の静をもって、一瞬の動をもたらす。
拳狐が放った神速の拳は炎嵐に突き刺さり、その意識を刈り取った。
言葉もなく、炎嵐は倒れ伏す。

嗚呼、炎嵐を貫いたものは、いったい何か?

《為逸速的一息》は、止まっているものを高速で動かす能力。
止まっているかどうかは、拳狐の主観に拠る。
拳狐から見て対象が動いていなければ、全身を動かしたとしても支障はない。

それは、物語の初めより同じ場所に存在したもの。
拳狐の視界の中で、常に同じ位置にあったもの。
白い狐の面。
拳狐の顔の上で長く静止し続けたそれは、驚嘆すべき速度と継続時間を持つ。

拳狐は、狐の面をただ放り投げたのではない。
炎嵐を崩す武器として投げたのだ。
狐面は拳狐がイメージする理想の動きをなぞり、ひどく大きな狐を描いて背後より炎嵐を貫いた。

拳狐は信じた。
炎嵐が真っ直ぐに向かってくることを。
決着の刻、その位置に炎嵐がいることを。
尊敬に値する強敵を、ただひたすらに信頼した。

狐は賢しく嘘を吐く。
面を外しての啖呵は、虚の拳の極致。
拳狐は、どこまで行っても『拳』と『狐』。
ひととき『狐』を外そうとも、その在り様は必ず『拳狐』へと戻るのだ。

「紅虎、おぬしはまさしく強敵だった。だが、今日のところは己の勝ちだ」

鎢鉄で作られた狐の面を拾い上げながら、拳狐はそう言い放った。
今日のところは、という言葉は本心である。
最後の切り札を見せた今、次の勝負で勝てるかどうかは分からぬ。

「次に立ち合えば、己の負けかもしれぬな。だが、それで良い。勝負などというものは、勝っても負けても楽しいものよ」

満足した表情で、拳狐は誰に聞かせるでもなくつぶやく。
『上海覇者』拳狐は、悠然と格闘技場を立ち去った。



「負けちゃったねぇ、ホェンちゃん」

大の字になった炎嵐の顔を、双葉が覗き込む。
誰よりも近くで二人の戦いに立ち会いたいと考えた双葉は、生身で格闘技場の外に待機していた。

「ムカつくな!!」

炎嵐は、大声でそう言った。
身体はボロボロだが、相変わらず声はでかい。

「そのわりにすっきりした顔してるけど……」

「負けたってのに、気分が良いのが気に入らねえ!これじゃあまるで負けることを願ってたみたいじゃねえか!」

全力を出し切った勝負。
敗北に腹は立つが、悔しさ以上に心地良い。
その心地良さが逆に、炎嵐をムカつかせていた。

「……ホェンちゃんのそういうとこ、結構好きだよん」

双葉が、小声でつぶやいた。
その瞬間、炎嵐がガバッと起き上がる。

「今何て言ったッ?!」

炎嵐は、格闘技場全体に響かんばかりの大声で叫んだ。

「うひ!な、何でもない!」

「いや、言っただろオイ!もう一回言ってくれ!」

炎嵐は傷だらけの身体で、双葉を追い回す。
『紅虎』と『電梟』。
上海最強の解決屋コンビは、これからも多くの人を救っていくだろう。
底抜けの善人が放つ怒声は、上海をずっと震わせ続けるはずだ。

二十八

上海市内の、とある食堂。
一人の酔客が店員に絡んでいる。

「だからよ、俺様は最強なんだよ。もし上海大賽に参加していたら、今頃『上海覇者』は俺様だったはずさ」

店員は迷惑そうにしているが、酔った男がそれに気付く様子はない。
周囲の客も、厄介事を嫌ってか、口を噤む者ばかり。
そのとき、酔客に声をかける者がいた。

「おぬしが上海覇者になるなど、到底無理な話だ」

「何ぃっ?俺様を馬鹿にしやがったのは、どこのどいつだ!」

酔客の怒声が食堂に鳴り響く。
公衆の面前で虚仮にされた男は、憤慨しながら振り返った。

「己か?」

丈の長いコートの裾が、はらりと揺れる。

「己は武人、名を拳狐――」

白い狐の面を付けた男は、静かにそう名乗った。

(完)
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