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ダンゲロスSS上海
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ダンゲロスSS上海

未命名の鞍馬山(下)

最終更新:

dangerousss_shanghai

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管理者のみ編集可
※GKより
行数がwiki反映可能数を超えているため、GK判断で上下編に分割してます。
上編は「未命名の鞍馬山(上)」へ


【KURAMA NODE 07 / OBSERVATION LOG Σ-03】

SESSION_ID:Σ-03 / LOCAL_NODE:KURAMA_07
TIME STAMP:■■■■-██-██T██:██:██Z(local同期不良)

概要:
– local 三次元投影体、固着完了。依然として〈多重オブジェクト環境〉を維持。
– 書き込みエラーにより、認知層ノイズは上昇傾向。ただし許容範囲内。

ステータス:
– “接続障害(local term)” / PERSISTENT
– SHIP_CLUSTER Σ:APPROACH → SHANGHAI ORBIT
– BLACKOUT_EVENT #01:
   > SHIP 01–16 / VISUAL CHANNEL 全遮断
   > REASON:LOCAL ENTITY “UNKNOWN / THANATOS?”
– NOTE:正体不明の存在による広域認知攻撃を検出。
     外部インターフェース再選定を最優先タスクに繰り上げ……



 鞍馬山についての何かしら、それなりに役に立つ情報が出てくるかと思ったけれど、
 書いてあることがあまりに意味不明すぎて、目のほうが勝手に滑っていく。

「……何かと、通信してた……とか、ですかね」

 自分に言い聞かせるみたいに呟いてから、画面右上の×印を押す。

 次に、【INTERFACE_CANDIDATE_LIST】を開く。

 表計算ソフトのアイコンがひとつだけ並んでいる。

INTERFACE_CANDIDATE_LIST_Σ.xlsx

 クリックすると、表が開いた。

 番号と、記号と、断片的な情報。

– INTERFACE_01:BLACKOUT(認知攻撃 影響下 / 活動不能)
– INTERFACE_02:TERMINATED(self-disposal (audio record only) / 不適合)
– INTERFACE_03:ACTIVE → MISSING(last seen:NODE_07)
– INTERFACE_04:CANDIDATE / high adaptation / local / 認知可塑性:high

 健康診断の結果表とも、学校の名簿とも違う。
 単語の意味は拾えるのに、全体の像がまるでつかめない。

 そっと閉じて、【WATCH_LIST】を開く。

– WATCH_01 / id:Λ-01 / local nick:〈■■■〉 / status:NO RESPONSE
– WATCH_02 / id:Λ-02 / local nick:〈‡〉 / status:LOST
– WATCH_03 / id:Λ-03 / local nick:SUBJECT_L14 / age:14(approx)
–  外見:brown hair / local female form
–  anomaly:Phase Anchor / THANATOS
–  last seen:SHANGHAI / MEDIA:vid_03–17, img_03–04 ……

 次の行で、指先が止まった。

「……サブジェクト、エルじゅうよん」

 小さく読み上げる。
 その行の下に、ツリー状に補足情報がぶら下がっていた。

 行の端に、小さなクリップマークがついている。
 何も考えないうちに、そこをクリックしていた。

 動画再生ウィンドウが開く。

 画面の中で、夜の路地を歩いている少女がいる。

 屋台の提灯の下。
 レジ袋を片手にぶら下げて。
 青緑のジャケット。ミモレ丈のスカート。裾のあたりから、ちらちらと覗く尻尾の先。

 栗色の髪が揺れるたび、照明の光が少しずつ色を変える。

 わたしだった。

「……は?」

 声が、勝手に漏れる。

 別のクリップを開く。
 昼間の雑居ビルの廊下。
 別の角度。別の高さ。

 階段を上る足元。鍵を回す手つき。ドアが閉まる瞬間の横顔。

 どれも、わたしが知らない位置から撮られたものだった。

 喉の奥が、きゅっと縮む。

「……なにこれ」

 正体のわからない相手に、ずっと覗かれていたらしい——
 そう思った瞬間、気味が悪いを通り越して、身体の奥でゆっくり怒りが湧いてくる。

 世の中には、時々、変な考えに憑りつかれた人がいる。
 上海でも、どこでも、そういう人は一定数いる。

 ただ——

 自分の映像が、「WATCH_LIST」なんてラベルの下に並べられて、
 知らない誰かと共有されていたかもしれない、という事実だけは、さすがに笑えない。

 パソコンの画面に映る黒い反射の中に、自分の顔がうっすら重なっている。
 目が合った気がして、少しだけ背筋が冷たくなる。

 あの依頼文を思い出した。

 ——鞍馬山山頂付近に、“名前のないもの”がいる。
 ——それに名前を与え、その効力を観測せよ。

 もしや、掲示板の端っこに、わざわざあんな依頼を紛れ込ませたのも——

「……わたしを、呼ぶため?」

 口に出してみると、その言い方がやけにしっくりきてしまう。

 小さくつぶやいて、拳を握る。

 わたしは、一度だけ息を吸い込んだ。

 そして、机の上のノートパソコンに狙いを済まして——

 殴る。

 鈍い手応えと、軽い破裂音。
 パネルがひしゃげて、キーボードが浮き上がり、
 バラバラに砕けた部品が机の上に散らばる。

 まだ光っていたランプも、そこでやっと、ぱち、と音を立てて消えた。

「……」

 知らないうちに、息が上がっていた。
 自分を落ち着かせるみたいに、静かに深呼吸する。

 潰れたパソコンから一歩身を引いて、
 わたしは茶屋を出る。

 屋根の抜けた穴の向こうで、薄い星がいくつか瞬いていた。

 足元の土を踏みしめる。
 一歩、また一歩と、鞍馬山の奥へ向かって歩き出した。



 ◇ ◇ ◇

 【きみ】



 七合目を過ぎたあたりから、ボクたちを包む霧が急に分厚くなった。

 さっきまで遠くに見えていた街の灯りが、ぱたりと消える。
 木々は色を失い、幹と枝だけが、鉛筆で描かれた線みたいに浮いている。
 逆に、足元だけはやけに鮮明で、土の粒や露で濡れた石の輪郭まで、細かく目に入ってくる。

『きみ、段差気をつけて。ここからちょっと、山が本気出すから』

 耳の奥で、師匠の声。

「山って、本気出すんですか」

『出すよ。舐められっぱなしだと、名誉にかかわるからね』

「誰に対しての名誉ですか、それ」

『さぁ?』

 軽口を聞きながらも、ボクのつま先は自然と慎重になる。
 足音の手触りが、乾いた土から、しめった岩の感触に変わる。
 斜面が、ほんの少しだけきつくなった。

 後ろを歩く同行者の気配は、変わらない。
 なのに、距離感だけが、ときどきカクンとずれる。

 すぐ後ろにいると思ったら、急に遠くなったように感じる。
 振り返ると、ちゃんとすぐ後ろを歩いている。

 足音は、ちゃんと二つ。

 ザッ、ザッ——。

     *

 霧は、音を吸う。

 木の葉の擦れる音も、鳥の声も、
 さっきまでうるさかった観光客の笑い声も、
 全部、布団の中に押し込められたみたいに小さくなる。

 代わりに、耳の中がうるさくなった。

 ——きみ。
 ——おい。
 ——きみ。
 ——そこのきみ。

 鼓膜の裏を指先でなぞるみたいに、どこからか、さわさわと声が近づいてくるような。

「師匠、呼びましたか?」

『ん』

「なんか、呼ばれてる気がするんですけど」

『気のせいだよ』

「即答ですね」

『こういうのは、気のせいにしておいたほうが安全』

 こちらの質問の、いちばん芯のところだけ、
 やんわりそらされたような感覚が残る。

『山の中で、“自分のことを呼んでる声”なんて、掃いて捨てるほどある。
 拾い始めたらキリがないからね』

「でも、名前は呼ばれてないです」

『なら、なおさら』

 師匠の声が、いつもより低い。
 冗談を挟む余裕を、どこかに置いてきたような。

『ここで、きみが返事をしたら、その瞬間“目印”になる。
 SNSに住所と名前を書くようなもんだ。
 あとは、勝手に届く』

「そういうものですか」

『そういうものだよ』

 答えになってない。
 でも、これ以上聞いても、多分同じことを繰り返されるだけな気もした。

     *

 少し開けた場所があった。

 倒木が一本、横たわっている。
 片端にだけ、炭と焦げ跡が残っていた。
 霧はまだ濃く、同行者の輪郭をゆっくり削っていく。
 炭の匂いが、まだ霧の底に薄く溜まっていた。

「ここで一回、休憩しましょう」

 すぐ近くで、東西さんの声がする。

『きみもここで、水飲んどきな』

「はい」

 ザックからボトルを出す。

「だいぶ登ってきましたね」

 近くの石に、彼が腰掛ける気配がした。

「きみさん、疲れてません?」

「……まぁ、それなりに」

「いいペースですよ。最初から飛ばすと、上で足攣りますから」

「そういうの、観察眼ですか」

「どちらかと言えば、経験談ですね」

 経験、という単語が妙に引っかかる。

『昔ね、そこで勝手にキャンプ張ってた連中がいたんだよ』

 師匠の声が、タイミングよく被さった。
 誰もいない倒木のほうを、つい見てしまう。

「師匠の知り合いが、ですか」

『いや』

 さらっと、太郎丸のときと同じような、距離のある返し方をする。

『宗教ごっこしてた人たち、宇宙と交信してた人たち。
 みんなそこで、夜通し語ってた』

「ここで?」

『そう。焚き火囲んで、星を見ながらさ』

 焚き火の輪を想像すると、少しだけ暖かくなる気がしてくる。
 同時に、その輪から一歩だけ離れた場所に、自分が立っている絵も浮かぶ。

『そういうときって、だいたい、自分に名前をあげたくなるんだよね』

「自分に?」

『“わたしはこういう人間だ”とか、“俺たちはこういう集団だ”とか。
 焚き火ってのは、そういう話をしやすくさせる』

「師匠も、したことあるんですか。そういうの」

『あるよ』

 迷いなく返ってきた。

『わたしも昔、見知らぬ相手に名づけられそうになったことがある』

「名づけを?」

『でも、たまたま別件が入ってね。
 中断されたから、そのままになった』

「……運が良かったってことですか」

『さぁ。そこから先の運は、よく分かんないね』

 霧のせいで、景色の線はぼやけているのに、
 声だけが妙にくっきり届く。
 この場に師匠は来ていないのに、声だけで、まるで近くにいるような気がしてくる。

『ともかく。
 それ以来、わたしは“本当っぽいもの”を、あんまり信じてない』

「本当っぽい、ってなんですか」

『自分で「これだ」と思ってしまうやつ。
 そういうのは、大体、誰かにとっても“おいしいもの”なんだよ』

 焦げ跡から、白い灰が舞い上がったような気がした。
 風向きなのか、ただの錯覚なのか、はっきりしない。

『だから、極力、弟子を名前で呼ばないようにしてる。
 “きみ”とか、“お前”とか。
 そういう未完成の呼び方のほうが、まだマシ』

「……それって、守ってくれてるってことでいいんですか」

『どうだろうね。楽してるって説もある』

「師匠のほうが、ですか?」

『名前をちゃんと呼ばないと、責任感が薄まるからね。
 “きみ”がどうなっても、「きみ」がどうにかなっただけで済む』

 少し意地の悪い言い方だった。
 けれど、完全に冗談とも言い切れない。

 黙っていると、師匠がぽつりと足した。

『……守りたいのは本当。
 ただ、それを綺麗な理由だけにしておくと、嘘になるから』

 嘘になるから。

 それきり、会話は途切れた。

     *

 沈黙のあいだ、耳の奥の声がまた強くなる。

 ——お前。
 ——あなた。
 ——そいつ。
 ——きみ。

 色んな呼び方が、ぐるぐる回っているのに、
 どれも、ピンとこない。

 ボクの真ん中に、ぽっかり穴があるみたいだった。
 どんな呼びかけも、そこを通り抜けていく。

「……ねぇ、きみさん」

 不意に、東西さんの声が落ちる。
 気づけば、すぐ隣に立っていた。

「さっき、名付け親の人、いましたよね」

「ん? あぁ、太郎丸さん」

「彼、あなたには二つ名をくれませんでしたね」

「……はい。“きみのままでいい”って」

「残念じゃないですか。自分だけ名前がないのって」

 言葉にされると、少しだけ胸のあたりがむずむずする。

「……ちょっと、羨ましくはあります」

 東西さんは「でしょう?」と笑った。
 けれど、

「でも、今はそれでいいんだと思いますよ」

 と続けた。

「どうしてですか」

 彼は、霧の向こうのどこかを見たまま、しばらく口を閉じる。

 そして、長い沈黙のあと、

「山頂にたどりつけたら」

 独り言みたいな声でこぼした。

「山頂の景色を前にした時、きっとわかります」

「……それ、どういうことですか?」

「ふふ」

 東西さんは一拍おいてから、「体験談です」と穏やかに笑った。

     *

『よし。行こうか』

 頭の中の師匠の声が、少しだけトーンを変えた。

 ザックを担ぎ直し、立ち上がる。
 同行者も、無言で続いた。

 ——きみ。
 ——きみ。
 ——きみ。

 再び歩き出すと、霧がさらに濃くなっていく。
 視界は狭まるのに、耳だけはやけに遠くまで開いていく。



 ◇ ◇ ◇

 【死神】



 足元は、さっきより少しだけ硬い。
 土と小石の混じった感触から、踏みしめるたびにぎし、と鳴る岩肌の音に変わっていった。

 七合目手前の茶屋を離れて、わたしはしばらくは何も考えないようにして歩いた。

 崩れた屋根と、拳一つで沈黙したノートパソコン。

 ——KURAMA_NODE_07。
 ——INTERFACE_CANDIDATE_LIST。
 ——WATCH_LIST。
 ——SUBJECT_L14。Phase Anchor。THANATOS。

 壊してしまっても、全部消えたことにはならない。
 画面に並んでいた文字は、まだ脳裏に張りついている。

 意味の分かる単語と、分からない単語とが、ごちゃ混ぜになっている。

 NODE、とか、SHIP、とか。
 それくらいなら、なんとなく想像できる。

 SHIP_CLUSTER Σ。
 たぶん、船の群れ。

 枝を踏んだ感触が、足裏からずしりと伝わってきた。
 少し湿った音を立てて、枝が割れる。

 息を吐くたびに、肺の中の空気が重くなっていく。
 登り坂のせいか、さっき見た文字列のせいか、自分でも判別がつかない。

 ——最初に、空の高いところで“何か”を見つけた日のことを思い出す。

 あれが、たぶんきっかけだった。
 でも、どこからが始まりで、どこまでが「あと付け」なのか、もう分からない。

 そこまで考えて、わたしは首を振った。

「……考えすぎ」

 言い訳みたいに、土を一歩強く踏みしめる。

 ただのオカルト配信者が、
 ただのネタとして、あんなフォルダ名やログを捏ね回して遊んでいただけかもしれない。

 ただの、悪趣味なウォッチリスト。
 ただの、盗撮魔の整理フォルダ。

 そう決めてしまえば、話は早い。
 わざわざ拳で壊す必要も、なかったはずだ。

 ——でも、それでも、SUBJECT_L14 の行だけは、「ただの」にしては出来すぎている。

 年齢。髪の色。借り物の躰の外見。
 Phase Anchor/THANATOSという、表現もどこか引っかかる。

 あの一行を見た瞬間、
 川の底と、この山と、そのあいだを漂っていた五十年と少しが、同じ糸で括られたみたいに感じた。

 拳を振るったのは、その感覚がどうしても癇に障ったというのもあるのだろうか。

 実際のところは分からない。
 あの端末は、向こう側からすれば単なる「観測窓」の一つで、本体は別の場所でケラケラ笑っているかもしれない。

 それでも——

「……ここに呼ばれた、ってことだけは、認めるしかないか」

 鞍馬山山頂付近に、“名前のないもの”がいる。
 それに名前を与え、その効力を観測せよ。

 掲示板の端っこの、あの依頼文。
 廃屋のノートパソコン。

 ぜんぶ、向こうのほうから、あらかじめ用意されていたみたいに見えてくる。

 わたしが莫大な借金を抱えていることも。
「死神」という名で解決屋をしていることも。

 長い時間をかけて自分で選んできた道のようでいて、
 上海の外れに、鞍馬山なんて名前の山が「最初からあった顔」で立っているように、
 ほんの一秒前までは存在しなかった設定が、あとから書き足された可能性だってある。

 足元の勾配が、少しだけきつくなった。
 木の幹と幹のあいだから、白い霧がじわじわと流れ込んでくる。

 太郎丸が言っていた「穴」という言葉を思い出す。

 名前を食らうもの。

 それは、川の底で一度落ちかけた場所と、どこかでつながっているのかもしれない。
 八歳で一度引きずり込まれかけて、十四歳で肉と魂をばらばらにされた、あの隙間。

 向こうにとって、わたしが「触媒」だというなら、
 確かにこちらにとってのわたしは、向こうとこっちをつないだまま、身動きの取れない錨みたいなものだ。

 そこにぶら下がっている限り、わたしの行ける天国は、どこにもないのかもしれない。

 借金を全部返して、恩返しを終えたその先にあるはずの「どこか」へ、
 ちゃんと行けるのかどうかさえ、まだ分からない。

 霧の層が、もう一段、厚くなった。
 空のどこかで、黒い染みの気配が、また少し濃くなる。

「……もうすぐ、上だね」

 誰にともなくつぶやいて、背負い紐を軽く引き直す。

 山頂は、まだ見えない。
 ただ、その上から吹き下ろしてくる冷たい風だけが、
 少しずつ、肺の奥のほうまで染み込んでいくのが分かった。



 ◇ ◇ ◇

 【きみ】



 最後の石段を、東西さんと二人で上がり切ると、霧の白さがふっと薄くなった。

 そこが山頂だった。

 簡素な木の標識と、錆びたベンチ。色あせた案内看板には、天狗だのUFOだの心霊スポットだの、観光客の好きそうな言葉がいくつも並んでいる。その矢印が、みんな同じ一点――山頂のほぼ真ん中あたりを指していた。

 そこだけ、地面が浅く窪んでいた。
 雨のあとみたいに黒く湿っているのに、水たまりではない。覗き込めば、ただのすり鉢の底にも見えるし、角度を変えると、遠い夜空を真上から覗き込んでいるようにも見えた。

 霧がそこに落ちていく。
 風はほとんどないのに、白い靄だけ、ゆっくりと沈んでいった。

「……着きました、師匠」

 ボクは少し離れたところで足を止めて、小声で師匠を呼ぶ。

『うん、見えているよ』

 頭の上――雲のさらに向こうから、いつもの声が降ってきた。

『そこが“例の場所”だ。まずは一周してみて。看板と地面と、人の通った跡。片っ端から見て回っておくれ』

「了解です」

 小さく返事してから、ボクは東西さんに向き直る。

「すみません。一回りしてから、真ん中、近づいてみてもいいですか」

「ええ。足元だけ、気をつけて」

 二人で、窪地の縁をゆっくり歩く。
 足もとには焦げた石、ねじれて折れた三脚のようなもの、文字のかすれたプレートのかけら。誰かがここに機械を据えつけて、なにかを測ろうとして、途中でやめた――そんな跡のようにも見えた。

「ここが、看板の差していた場所でしょうか」

 天狗も、UFOも、心霊も、本当にこんな何もなさそうな場所を指していたのだろうか、と自分で言いながら思う。

『欲張りな山頂だねえ』

 師匠はくすくすと笑う。

『で、その真ん中。きみには、どう見える?』

 ボクは窪地の縁で立ち止まり、少し身をかがめて見下ろす。

「……ただの火山湖に、見えます」

 すこし息を止め、角度を変える。

「でも、別の角度からだと、“下”がどこまであるのか、よく分からない感じです。暗いのに、穴っていう感じもしなくて」

『うん、そうだろうね』

 師匠は、何かを確かめるみたいな声で言った。

『こっちからのデータともだいたい合ってる。……よし』

 そこで、少しだけ間が空く。
 声の向こうで、見えない何かを並べ替えているような気配だけがする。

『うん、やっぱりそうか。“きみ”だったのか』

 呼ばれた気がして、ボクは反射的に顔を上げた。

 同じタイミングで、隣の東西さんも、穴から視線をはずす。

「こんばんは、師匠」

 先に返事をしたのは、東西さんのほうだった。

 ボクは、口を開きかけたまま、声を飲み込む。

(……あれ?)

『こんばんは。高度三千メートルからの中継をお送りしております』

 いつもの調子で冗談を言う師匠。

 ボクは呆けたように口を閉じる。

 師匠の冗談に、東西さんは口元だけで笑った。

「相変わらず、感度良好みたいですね」

『そっちの受信機の性能がいいからねえ。——それで、調子はどうだい、“きみ”』

 問いかけられているのは、自分のはずだった。

 けれど、自然に返事をしたのは、また東西さんのほうだった。

「足もとは、いまのところ安定しています。ここまでの道のりも、特に問題ありません」

『うん。それなら何より』

 そのまま、ボクを置き去りにして会話だけが進んでいく。

「どういうことですか、これ……」

 口の中に溜まったもやもやが、勝手に声になって出た。

 隣で、東西さんが浅く息を吐く。

「——そろそろ、説明するときかもしれませんね」

 静かな声だった。
 ボクではなく、穴の縁あたりに向かって話しかけるような調子。

「師匠。ご挨拶が遅れました」

『ああ、いいよいいよ。そっちは、もうだいたい察しがついてたから』

 師匠はあっさり受ける。

 ボクの胸のあたりで、何かがきゅっと縮んだような気がした。

「……東西さん?」

 小さく呼んでみる。

 彼はボクを一度だけ見てから、ゆっくりうなずいた。

「少し、混乱させてしまうかもしれませんが——自分は、未来の“きみ”です」

「は?」

 間の抜けた声が出てる。
 ボクの疑問に答えるように、頭の中に師匠の声が響く。

『時間の話じゃないよ』

 淡々とした言い方だった。

『この山じゃ、“いつか”より先に、“なんて呼ぶか”で決まるんだ』

 思考が追い付かない。

『東西はね、“きみ”の未来の可能性のひとつだよ』

 師匠は続ける。

『ここで名づけを済ませたあとに、この世界側に残りうる“きみ”の像——その一つだと思ってくれればいい』

「ボクが、東西さんになるってことですか?」

『過去とか未来とかは、この山では同時に存在するんだ。
 ここでは、先に“呼び名”が来る。認識は、それに引きずられて、どのようにも変わるんだ』

 言っていることは分かるようで、分からない。
 ボクは、東西さんの横顔を見る。

 自分より少し年上にも、ずっと年上にも見える落ち着いた輪郭。

「……ボクは、あなたになるんですか?」

 自分で言っておきながら、どこか他人事みたいな響きになった。

 東西さんは首を縦にも横にも振らず、ほんのわずかに肩をすくめる。

「いや、“きみ”という器の中身になるという方が近いでしょうね」

 淡々とした声だった。

「……ボクが、それを拒んだら、その“先”は、どうなるんですか」

 どこを一番気にしているのか、自分でもうまく分からないまま、口だけが先に動く。

 ひと拍置いてから、

「お互いに消えてしまうだけですよ」

 と、東西さんは穏やかに笑う。

「ここに、存在する繋がりがなくなるので」

 淡々と、事実だけを述べる口調。

「でも、それは“なかったこと”になる、というのとは少し違います」

「違うんですか」

「ええ」

 東西さんは、空を見上げた。

「別の世界線の“きみ”が、何事もなかったかのように弟子を引き継ぐことになりますから」

 ボクが彼の話を咀嚼しきる前に、師匠の声が頭に響く。

『さて、山の話に戻ろうか』

 と、師匠が軽く手を叩くような声音で言った。

『その“穴”はね、向こう側のものがこの世界に居座るための変換装置みたいなものさ』

「変換装置……」

 ボクが反芻すると、師匠は「そう」と続ける。

『こっちの空気と、向こうの空気を、両方がそこそこ我慢できる温度に混ぜるための……そうだね、“空調”とでも言っておこうか』

 空調。
 言葉にすると、ずっと俗っぽい例えだった。

『でも、想定外が起こって、今はその“空調”がうまく回ってない』

 師匠の声が、さっきまでよりほんの少しだけ低くなった。

『“鞍馬山”って名前はね、あちら側で名付けた仮の名なんだ。とりあえず、この場所をこの世界につなぎとめておくためのね』

 一度そこで区切ってから、師匠は言葉を継いだ。

『本当に欲しいのはね、こっち側の誰かが、本気で信じた願いごとを込めた“本当の名前”さ』

「……」

 意味が分からないまま、背筋だけがひやりとして、ボクは反射的に半歩だけ後ろへ下がった。

『東西の言う通り、きみは、“器”なんだよ』

 師匠の声が、いつもの調子に戻る。

『からっぽだからこそ、中に何を流し込むかで、どうにでもなれるように作られてる』

 からっぽ、という言葉に胸がうずく。

『だから、わたしはずっと“きみ”としか呼ばなかった』

 少しだけ、言い訳のようにも聞こえる。

『本当の名前は、ここで一緒に決めるつもりだったからね』

 東西さんが、小さく補足する。

「もし、ここで“きみ”が、鞍馬山と仮に名付けられたものに、新たな名前を与えれば」

 ボクではなく、穴のほうを見たまま。

「その名のかたちに沿って書き換えられた世界に残るのが、自分なのかもしれません」

 ボクは息を吸って、ゆっくり吐いた。

 ざり、と、霧の奥で砂利が鳴った。

 東西さんと同時にそちらを向く。

 霧の向こうから、靴底が砂利を踏む音が近づいてくる。

 やがて懐中電灯の丸い光が、霧の中にゆっくり浮かんだ。
 その輪の中から、小柄な人影がにじむように現れる。

 夜の山頂に不似合いな、街の子どもみたいな服装だった。
 薄い色の上着に、膝下までのスカート。足もとは、見慣れたスニーカー。

(……解決屋だ)

 そう思った。

 こんな時間に、こんな場所まで来る理由は、あまり思い浮かばない。
 ボクが掲示板に貼った、あの雑なメモが頭に浮かぶ。

 あんなものを真に受ける人間なんて、いないだろうと思っていた。

 小柄なその子は、ボクたちに気づくと一度だけ立ち止まり、手元のライトをわずかに下げた。

『待ちわびたよ』

 師匠が嬉しそうに言う。

 ボクは、とりあえず口を開く。

「こんばんは」

 山頂のひんやりした空気の中で、声が少しだけ上ずった。

 女の子は、すぐには返事をしない。
 ボクのほうを一度眺め、視線を移して靴、荷物、立ち位置を順に確かめていく。
 こちらを警戒している。

「……こんばんは」

 ようやく返ってきた声は、見た目の年齢のわりに落ち着いている。

「おひとり、ですか?」

 当たり障りのない問いで、まず様子を見る。
 東西さんは、横で静かに様子を見ていた。

「ええ。そちらも……?」

「三人……いえ、二人です」

 思わず師匠まで数えてしまってから、慌てて言い直す。

 女の子は、わずかに眉を寄せて、周囲を見回した。

「二人……?」

 ひょっとして、この子には東西さんが見えていないのか。

 東西さんが、小さく肩を落とす。

「私は、きみの“先”であり、足元の影みたいなものだからね。
 この夜では、ちょっと紛れやすいのかもしれません」

 冗談とも本気ともつかない口調だった。

「えっと、もう一人は、今姿を見せれないようで……」

 慌てて言いつくろう。

「……そうですか」

 女の子はそうは言うものの、疑うよな視線をボクに向け続ける。
 ボクは、気を取り直して話を続ける。

「こんな時間に登ってくるってことは、解決屋ですよね」

「そうですね」

 女の子は素直にうなずく。

「ちょっと、気になることがあって」

 そこで言葉を切り、山頂の中央――窪んだ地面のほうを一度だけ見る。
 ボクと東西さんは、その反対側に立っていた。

『きみ、いいタイミングだから聞いてごらん』

 頭の上から、師匠の声が落ちてくる。

『あの紙切れを見ましたかって』

 ボクは、一拍だけ迷う。
 けれど、ここで触れないほうが、あとでややこしくなりそうだった。

「あの……」

 女の子のほうを見て、言いかけてから、言い直す。

「あの依頼を見て、来たんですか?」

 彼女の瞳が、ほんの少しだけ動いた。
 心当たりがあるときの反応だ。

「雑居ビルの、一階の」

 こちらから場所を補足する。

「知ってます」

 食い気味に返ってきた。

 その一言に、ボクは内心で小さくうなずく。
 やっぱり、そこからだ。

『確定だね』

 師匠が、満足そうに息をつく。

『錨と器、両方そろった』

「……依頼主はあなたですね」

 今度は、女の子のほうから問われた。
 ボクは一瞬だけ言葉を飲み込む。

「ボクが“依頼主”というか……」

 少しだけ正直に答える。

「師匠に言われたとおり、書いて貼っただけです」

 そう言って、意識しないように空を見上げる。

「師匠……?」

 女の子は、困惑したように目を細める。
 こちらの意図を探るような目だった。

『自己紹介しておこうか』

 師匠が、そこでわざと明るい声を出す。

『まずは、きみからね。
 向こうさんだって、知らない相手と山の上で遭遇すれば不安だろう?』

 それもそうだと思い、ボクは小さく息を整える。

「ええと」

 女の子のほうを向き直る。

「ボクは“きみ”って呼ばれてます」

 女の子が、わずかに瞬きをする。

「きみ、さん」

「そう呼んでもらえれば」

 自分で言っていて、やっぱり落ち着かない。

『名前は、ここで決める予定だからね』

 師匠が、念を押すように言う。

「そちらは?」

 ボクは女の子に問い返した。

 彼女は一拍だけ考えるような間を置き、それから淡々と答える。

「……死神です」

 夜気より、その声色のほうが少し冷たく聞こえた。

 こんな山の中で、死神なんて、ずいぶん物騒な名乗りだ。
 ただ、月明かりに照らされた横顔は、びっくりするほど整っていて、どこか大人びても見える。

 なのに、

(……かわいい顔して、生活は楽じゃなさそうだな)

 そんな印象がふと浮かんで、自分で苦笑する。口には出さない。

「死神さん、ですね」

 とりあえず、呼び方だけ確認する。

 彼女は、わずかに首を傾けただけで、否定も肯定もしなかった。

「……わたしを呼び寄せたのは、その師匠って人ですね」

 死神が、少しだけ声を落として目を細める。

「ボクは……」

 そこまで言いかけたとき。

 足元の小石がひとつ、自然な坂とは逆向きに、するりと動いた。
 窪地の外側から、縁のほうへ。何かに引かれたみたいな動きだった。

 カチ……カチ……。

 落ちた先から聞こえた音は、石と土のぶつかる音ではない。
 遠くでゆっくり歯車が噛み合うような、硬い音だった。

「……今の、何でしょうね?」

 思わず、死神のほうを見て尋ねる。

 互いに一瞬だけ顔を見合わせてから、ボクはすぐに窪地へ視線を戻した。

 穴の底は、さっきと同じように暗く湿って見える。
 けれど、縁がさっきよりわずかに深くなった気がして、落ち着かない。

『うん、いいタイミングだね』

 師匠が、満足そうに息をつく。

『上を見てごらん。彼らも錨に反応してる』

 空を見上げると、星の光が、にじんだインクを拭ったみたいに、山頂の真上に丸く集まりつつあった。

 雲の切れ目のあたりに、ぼんやりと白い渦ができ、その内側が鈍い光がちらちらと瞬いている。

 その中心は、七色に瞬きするたびに変化して見える。

「くろ……」

 死神が、小さくつぶやきかけて、すぐに首を振る。
 彼女の視線が、こちらに戻る。

「あの紙には、“鞍馬山山頂付近に、名前のないものがいる”って書いてありましたよね」

 彼女は、掲示板の文面をなぞるみたいに続けた。

「“それに名前を与え、その効力を観測せよ”。報酬は、清王朝のダイヤ」

 ボクは思わず目を瞬く。

「……よく覚えてますね」

「仕事なので」

 短い返事だった。

 死神の声には起伏が少ないのに、その中で「仕事」というところだけ、少し固く聞こえる。

『ね?』

 師匠が、楽しそうに言う。

『鞍馬山の存在に違和感をもつ人は、そう多くない。
 ましてや報酬はあのダイヤだ。無関係な人間なら、あまりの胡散臭さに近寄らない』

 相変わらず軽い調子だ。

「そちらは、ここで何をするつもりなんですか?」

 死神が、少しだけ声を落として尋ねる。

 問いかけの矛先は、ボクと、その背後にいる相手の両方に向いているようだった。

「ボクは、何も聞かされてません」

 死神が、短く応じる。

「先日までなかったはずの山なのに、みんな“前からあった”と言っていたので」

 そこで言葉を切り、少しだけ息をつぐ。

「だから、わたしはこの山が原因で何かが大きく変わったと考えてます」

 死神が、ボクをまっすぐ見る。

 疑っているというより、「答えを持っているなら出してほしい」と言っている目だった。

「そちらは?」

 今度は、はっきりと聞かれる。

「あなたたちは、この山をどう見てるんですか」

 言葉尻に、師匠への警戒も混じっている気がした。

『……素直でいいねえ、この子』

 師匠が、どこか楽しそうに笑う。

「依頼には、“名前のないものに名前を与え、その効力を観測せよ”って書かれてましたよね」

「ええ」

「ひとつだけ、決めておきたいんですが」

 死神が、ぽつりと言った。

「ここで何かあったとき、わたしは、あなたたちの“敵”になりますか」

 その言い方は、妙にまっすぐだった。

 敵、という言葉を軽く使っているわけでもなく、
 あらかじめ線を引いておきたいだけ、という感じでもない。

 ただ、「そのつもりなら先に教えてほしい」という確認。

 ボクは、言葉に詰まる。

『いい質問だねえ』

 師匠が、おもしろがるように言う。

『きみ、どう答えたい?』

(どう、って)

『わたしの本音を代弁する必要はない。それでは意味がないからね。
 きみがここに来た目的を正直に話せばいい』

 思わず東西さんを見る。
 彼は、ボクを見て微笑んだ。

 登山口で書いた“きみ”という呼び名。
 ボクの未来だという東西さん。

 それから、師匠。

「少なくとも」

 自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。

「今ここで、あなたと敵対する理由はありません」

 死神の目が、わずかに揺れる。

「ボクは、師匠のために清王朝のダイヤモンドの情報を得るためにここに来ました」

 そう言ってから、自分で少しだけ苦笑したくなった。

「……分かりました」

 死神は、それ以上は追及しなかった。

「じゃあ、わたしも依頼どおりに動きます」

 そう言って、ようやく一歩だけ、穴のほうへと近づく。

 死神の足もとで、ライトの光がゆっくり動いた。
 窪みの輪郭だけが、夜の中でやけにはっきりしている。

『この子は、この世界と“あちら”を結ぶ座標そのものだよ』

 師匠の声が頭の奥で響く。

『死んだはずで、まだここにいる。
 こういう黄泉帰りは、向こうからもよく見えるんだ。灯台みたいなものさ』

 黄泉帰り、という言い方に、少しだけ眉が動く。

『もちろん、本人の事情も、願いもあるだろうけどね。
 こっちとしては、位置情報さえ安定していればいい』

(……相変わらず、言い方が乱暴なんですよ)

 心の中でだけ、ぼやく。

『で、きみだ』

 師匠は、あっさり話題を切り替える。

『きみは、名前も能力も、一度ぜんぶ手放した“空き地”だ』

 空き地という単語に、今度はこっちの胸がちくりとする。

 だからこそ、ここにいろいろ書き込める。
 線も、境界も、目いっぱいね』

(褒められてる気が、あまりしないんですけど)

『褒めてるとも。
 何も書いてない画用紙ほど、使い道が多い』

 そこまで聞いて、ボクはようやく腑に落ちる。

 どうして、師匠がボクなんかを拾ったのか。
 どうして、魔人としての力をすべて失ったボクを「弟子」にしたのか。

 ——最初から、「使う」前提だった。

 とはいえ、それは今さらの話だ。
 それに薄々気づきながらも、ここまで来たのはボク自身でもある。

『きみの願いを、穴のほうに流す。
 こちら側でいう“名づけ”ってやつを通してね』

 師匠は淡々としている。

『そうすれば、この山——正確には、その奥にいる何かは、きみの選んだ世界に合わせて形を整える。
 そのとき、清王朝のダイヤの行き先も、きみの望むままに書き換わる』

(……つまり)

『そういうこと。
 この街で他の連中を出し抜いてダイヤを奪うより、ここで一度、世界のほうを動かしたほうが早い。
 効率がいいし、確実だ』

 言いながら、師匠はさらに付け足す。

『向こうの星——アルクトゥールスの街に持ち帰るぶんを確保したあとなら、
 余りは、あの死神の子にあげてもいい』

 さらっと言われて、思わず死神のほうを見る。

 ライトを持つ手首のあたりに、細い影が揺れた。
 東西さんが彼女の背後に立って、ボクにだけ分かるように手を振っている。
 見えていないことをいいことに、好き勝手なジェスチャーをしていた。

 彼女は、ボクの頭の中で交わされているやりとりを何も知らない。

(……ひどい、って怒るほどでもないんだよな)

 少なくとも、話の筋は通っている。

 師匠は、ダイヤの情報を集めろと言ったし、実際ここに手がかりがあった。
 あの依頼文も、分け前を考えているというなら、師匠の側には「だますつもり」はないのだろう。

 抜け落ちているのは——
 そこへ至るまでの手順を、どこまで説明する気があるのか、その一点だけだ。

 ボクは、死神に聞こえないように、ごく短く息を吐いた。

「何か、気づきましたか」

 死神のほうから声をかけられて、慌てて顔を上げる。

「ああ、ええと」

 穴の縁を一度見てから、なるべく搔い摘んだ言い方を探す。

「ここが、“名前のないもの”の出入口みたいな場所なのは、確かだと思います」

「出入口」

「向こうと、こことをつなぐための……仕掛け、というか」

 死神は、ライトを持ったまま窪地から目を離さない。

「あなたの師匠の依頼どおりにするなら」

 彼女はライトの先端を、ほんの少しだけ下げた。

「誰かが、ここにいる“何か”に、名前を与える必要がある」

「そう、ですね」

 言いながら、喉が少し乾く。

 死神は、少しだけ黙り込んだ。

「……わたしは、この山が“本当は何なのか”は、いまもよく分かりません」

「ボクもです」

「ただ」

 死神は、ライトのスイッチを切った。
 東西さんの姿が彼女の影に溶ける。
 月と星の光だけが、窪地の輪郭を薄くなぞった。

「わたしは、昨日までなかったことが、“最初からそうだった”って書き足されるのは、好きじゃないです」

 きっぱりした声だった。

『きみ』

(はい)

『さっき、あの子に“敵になる気はない”と答えたろう?』

(はい)

『そのままでいい。
 名づけは、きみひとりで抱え込む必要はないんだよ』

(……死神さんと、相談してもいいってことですか)

『その方が、より誠実だからね。
 ここで名づけを試みたのは、きみたちが初めてじゃない。
 その残骸がいい証拠だろう? この穴に願いを流し込もうとした者は、一人や二人じゃない』

 折れた三脚。
 ちぎれたケーブル。
 焦げた地面。

(じゃあ、どうして全部、失敗したんですか)

『器としての素質が、決定的に足りなかったからさ』

 師匠の声は、淡々としている。

『すでに欲でいっぱいの杯には、まともなものは入らない。
 自分の都合だけで満たされている器は、ろくでもないものまでまとめて呼び込んでしまうんだよ』

 ボクは、死神の横顔を横目で見る。

 整った顔立ちが、夜のせいか心持ち暗く見えた。
 ライトを消した手も、ほんのわずかに震えているように思える。
 寒いだけかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

「……ひとつ、いいですか」

 自分でも、何を聞きたいのかはっきりしないまま、口が動いていた。

「清王朝のダイヤ、そんなに欲しいんですか」

 死神は、少しだけこちらを見る。

「欲しいと言うよりは」

 言葉を選ぶように、そこで一度止まった。

「……借りたものを、ちゃんと返したいだけです」

「借りたもの」

「はい」

 それ以上、細かい説明はしない。
 けれど、その一言で、だいたいの輪郭だけは分かる気がした。

 借金、か。
 さっき“死神です”と名乗ったときの冷たさとは違い、その言い方はずっと重く響いた。

「ダイヤがあれば、返せるんですか」

「全部とは言いませんけど」

 死神は、視線をわずかに落とす。

「返そうとしているくらいには、なれると思います」

 うまく言葉にはできないけれど、その距離感はなんとなく分かる。

『いいね』

 師匠が、頭の中でぽつりと言う。

『こういう子は、自分の都合だけでは動かない。
 だからこそ、信頼できる』

(信頼、してるんですか)

『少なくとも、余計な嘘を重ねることはしない。
 返したいものがある人間は、自分だけの得よりも、相手との釣り合いを気にするからね』

 ボクは、死神の横顔を見ながら、師匠の言葉をなぞる。

 器としての素質。
 欲でいっぱいかどうか、という話。

 少なくとも、この子は「楽をしたい」ためにここへ来たわけではないのだろう。

「……さっき、“最初からそうだったって書き足されるのは好きじゃない”って、言ってましたよね」

 自分でも、話題を戻しているのか、ずらしているのかよく分からない。

「ええ」

 死神がうなずく。

「それ、どうしてですか」

「どうして」

 少しだけ考え込むように、視線が宙をさまよう。

「うまく言えませんけど」

 それでも、ちゃんと答えようとする間合いだった。

「……“なかったことにされる”のも、“最初からそうだったことにされる”のも、どちらも、帳尻だけ合わせられた感じがするので」

 帳尻、という言い方に、ボクの胸がちょっとだけ反応する。

「借りたほうも、貸したほうも、どこかで分かってるのに、
 “最初からなかった”ってことにされるのは、あまり好きじゃないです」

 死神は、穴から目をそらさないまま言った。

「返せなかったとしても、“借りた”って事実だけは、残っていてほしいというか」

 その口ぶりは淡々としているのに、どこか言い切らないものが残っていた。

  少し間があいた。

「……それ、分かる気がします」

 自分の声が、思ったより小さく聞こえた。

「ボクも、一回いろいろ“なかったこと”にされてるので」

 死神が、こちらをちらりと見る。

「名前とか、能力とか。
 全部いったん外れて、“きみ”って呼ばれてるだけの状態になってて」

 そこまで言って、自分で肩をすくめる。

「それ自体は、まあ、便利なところもあるんですけど」

「便利、ですか」

「はい。名前を覚えられたくない人と話すときは、とくに」

 何かを付け足そうとして、やめた。
 自分で説明し切れるほど、整理できている話でもない。

「でも、どこかで覚えてる人は覚えてますし。
 書き換わってないところも、ちゃんと残ってる」

 死神は、ふっと視線を穴の縁へ戻した。

「……それなら、まだいいですね」

 その言い方が、少しだけ柔らかくなる。

「全部まとめて、“最初からそうだった”って、きれいに整えられるのは、ちょっと」

「納得いかない?」

「はい」

 短く、はっきりうなずいた。

「ここで名前をつける話も、多分ですけど」

 ボクは、穴を見たまま言う。

「これまでのことを“なかったこと”にするというよりは、
 これからのほうを、どういう前提で続けるか決め直す……くらいの話だと思います」

 死神が、少しだけこちらに顔を向ける。

「前提」

「はい。
 たとえばこの山なら、“最近までなかったのに、昔からあったことになってる”っていう前提に、いま変わってしまってるじゃないですか」

「そうですね」

「それを、もう一段階、別の前提に変える感じというか」

 自分で言いながら、うまく説明できている自信はない。
 それでも、まったく的外れというわけでもない気がした。

「……その結果、どこまで変わると思ってます?」

 死神の問いは、少し慎重だった。

「世界が、全部書き換わるんでしょうか」

「全部、まではいかないと思います」

 即答してから、言葉を足す。

「少なくとも、ここから距離の近いところほど、影響は強く出るでしょうけど」

『その認識でいいよ』

 師匠が、軽く相づちを打つ。

『地形と、人の記憶と、いくつかの行き先。
 それくらいなら、まとめて書き換わる』

(“いくつか”って言い方が怖いんですよ)

『怖がっているくらいが、ちょうどいい』

 死神は、しばらく黙っていた。

 山頂の空気が、少しだけ冷えたように感じる。

「……もし、ここで名前をつけて」

 沈黙を破ったのは、死神のほうだった。

「いいことも、そうでないことも、受けた善意も、返すべき恩も、“最初からなかった”みたいに整理されるんだったら、それは嫌です」

 言い切る声だった。

「返せてないことも含めて、“こういうふうに借りました”っていう記録のつけ直しなら、まだ飲める気がします」

「借りたままにしておくための」

「はい」

 死神は、少しだけ息を吐く。

 ボクは、その言葉を咀嚼するようにゆっくりと口を開く。

「もし、ここで名前を決めるとしても」

 言いながら、自分の指先を握ったり開いたりしてみる。

「全部を、きれいにし直すためじゃなくて、
 “ここから先、どう返していくか”を決めるために使う……っていうのは、どうですか」

 死神の視線が、またこちらに戻る。

「返すために、ですか」

「はい」

「……それで、あなたの師匠は困らないんですか」

 その問い方は、少しだけ意地悪に聞こえた。
 ボクを試しているというより、師匠の顔色を測っているような調子。

『まったく、疑り深くてかわいいね』

 師匠の声を無視して、ボクは答えを探す。

 師匠が本当に欲しいのは、アルクトゥールス側の繁栄と、そのための資源。
 こちら側の帳尻をどう合わせるかには、そこまで強いこだわりはない。

「困らないと思います」

 少しだけ間を置いて、そう言った。

「あの人は、計画的なようで案外ゆるいです。
 破綻も含めて計画のうちとか言い出すタイプなので」

 死神は、ふっと笑ったように見えた。

「それはそれで、ややこしいですね」

「そうですね」

 認めざるを得ない。

「ただ」

 死神は、小さく首をかしげる。

「“きみ”さんはどうしたいんですか」

「ボク、ですか」

「はい。
 師匠がどうとか、わたしがどうとかじゃなくて」

 そこで一度だけ言葉を切り、

「あなた自身は、ここで名前をつけたいと思ってるんですか」

 と、きちんとした形にして投げ返してきた。

 穴の縁、夜の空気、自分の手の冷たさ。
 全部まとめて、喉のあたりで詰まる。

『いいね』

 師匠が、満足そうにささやく。

『さあ、弟子。
 ここから先は、きみの番だ』

 ボクはすぐには答えられなかった。

 何を、どうしたいのか。
 師匠に拾われたときから、ずっと後回しにしてきたところを、いきなり正面から聞かれた気がした。

「……正直に言うと」

 少し間を置いてから、ようやく声が出る。

「まだ、よく分かってません」

 死神が、意外そうに目を瞬く。

「ここで名前を決めることが、何をどこまで動かすのか。
 師匠の話を聞く限り、かなりのところまで変えられるんだろうな、とは思うんですけど」

 自分の靴先を見る。土がかすかに湿って光っている。

「“全部やり直します”って宣言をする勇気は、ボクにはないです。
 でも、“全部元に戻します”って言い切るほど、割り切れてるわけでもない」

 死神は、黙って聞いていた。

「だから今のところは――」

 言葉を探す。

「“どういうふうに変えたら、あとで自分で責任を取りやすいか”を考えてる感じです」

「責任」

「はい。
 師匠から借りたものを返す話も、師匠の計画も、全部まとめて」

 死神は、ほんの少しだけ口元をゆるめた。

「……それなら、少し安心しました」

「安心?」

「はい。
 全部を一気に変えて自分だけ楽になろうとしてる人の顔じゃないので」

 言われて、思わず苦笑がもれる。

「そこまで器用じゃないですよ、ボク」

「わたしもです」

 短いやり取りだったが、胸のあたりのこわばりが少しだけほどける。

 ボクは穴のほうを見る。

 さっきまでと同じく、黒く湿った窪地。
 ただ、視線を合わせた瞬間、そこから上がってくる空気の温度が、ほんの少しだけ変わった気がした。

 冷たさの中に、何か別の気配が混ざる。

「……何か、変わりましたか」

 死神が、小さな声で聞く。

「え?」

「さっきから、穴の感じが少し違うので」

 言われて改めて見下ろす。
 見た目はほとんど変わっていない。

 けれど、底のほうにたまっていた暗さが、さっきよりも濃く見える。
 何かが息をひそめて聞いているような気配がする。

『向こうも聞いているよ』

 師匠の声が落ちてくる。

『きみがどういう前提で話を進めるつもりか。
 死神の子が、どこまでを許容するつもりか』

(じゃあ、さっきの会話も)

『丸聞こえさ。
 “名前のないもの”は、そういう情報の集め方をする』

 ボクは小さく息を吸う。

「……試されてる気がしますね」

 思わず口にすると、死神がわずかに首を傾げる。

「穴に、ですか」

「そうかもしれません」

 そこまで言ったときだった。

 窪地の底の暗がりに、うっすらと光が混じった。
 湿った土の間に、細い筋が一本、ゆっくりと走る。

 電気でも、蛍でもない。
 色のはっきりしない、ぼやけた光。

「……見えますか」

「ええ」

 死神も、息を潜めるように答える。

 光は、誰かが線を引くみたいに、窪地の中をなぞり始めた。
 やがて、それは一定の形を作る。

 輪郭。
 でも、文字ではない。
 どこかの街の地図の一部のようにも、知らない建物の間取りのようにも見える。

『ああ、出たね』

 師匠が、少しだけ楽しそうに言う。

『願いごとの形だ。
 この世界で言う“設計図”みたいなもの』

(誰の、ですか)

『さあね。
 今、この場にいる二人分が、混ざって見えているはずだよ』

 言われて、思わず目をこらす。

 窪地の中の光は、確かにひとつの形に落ち着こうとしているのに、
 見ていると、どこかでゆらぐ。

 普通の家並みに見えたかと思うと、次の瞬間には遠い街の高層ビル群にも見える。
 階段のある学校の廊下のようでもあり、窓のない工場の内部のようでもある。

「……」

 死神も、何かを飲み込んだように黙り込んだ。

 光は、ゆっくりと二つに割れる。

 片方は、ボクの立っている側に近い辺へ、
 もう片方は、死神の足もとの方向へ。

『分かりやすいね』

 師匠が、少しだけ感心したように言う。

『片側は“きみ”のほうの続きを、もう片側は死神のほうの続きを見せたがっている』

(続きを見せるって……)

『“こうだったかもしれない”と、“こうなるかもしれない”の両方さ』

 死神が、不意に息を呑む音を立てた。

 ボクもつられて、自分の側に近いほうの光を見る。

 そこには、どこか見覚えのある景色があった。

 上海の街並み。
 グランドスラム。
 格闘技場。

 ボクは、思わず眉をひそめる。

 格闘技場に立っているのは、今のボクではない。
 少し背が伸びて、動きも視線も大人びた、自分によく似た誰か。
 ぼんやりした輪郭は、どこか東西さんとも重なって見えた。

 目の奥でスイッチが入ったみたいに視界の中心が細く絞られ、次の瞬間、光の線が相手の肩口を正確に撃ち抜く。
 乾いた破裂音のあと、巨体が膝から崩れ落ち、観客席のどよめきが波みたいに押し寄せる。

 別の場面では、ロープの向こう側へ踏み出した足が、そのまま宙を踏みしめていた。
 鉄柵もバリケードも、その“ボク”を留まらせることはできない。
 空中に敷かれた見えない段差を、当然のような顔で上り下りしながら、敵の死角をぐるりと回り込んでいく。

 その合間に、耳の奥でいくつもの声が重なったかと思うと、リングの下や観客席のあちこちで仲間たちが一斉に動き出す。
 誰かの見ている景色と、誰かの立っている位置が、ひとつの頭の中で当たり前のように組み上がっていくのが分かる。

 師匠から借りた三つの機能を、その“ボク”は、息をするみたいな自然さで切り替えていた。

『――これは、きみの“あり得たほう”の一つだね』

 師匠の声が、頭の奥で淡々と説明する。

(……あまり、見ていたくないですね)

『なら、深追いしなくていい』

 言われて、視線をそらす。

 代わりに、死神のほうを見る。
 彼女も、自分の側の光景から目を離せずにいた。

 穴の中に浮かんでいるのは、小さな店先のようだった。
 暖かい色の灯り。
 木のテーブル。
 誰かが笑っている輪郭。

 けれど、そこにいるはずの二人分の影が、どちらもぼやけている。

「……」

 死神の唇が、何かを言いかけて止まる。

「それ、もしかして」

 ボクが声をかけると、彼女は小さく首を振った。

「分かりません」

 それ以上は何も言わない。
 ただ、ライトを握った手に、わずかに力がこもる。

『欲しくなるようにできてるからね』

 師匠が、淡々と告げる。

『“こうだったらよかったのに”と、“こうなれたらいいのに”を、混ぜて見せる。
 それが、あの穴のやり方だ』

(じゃあ、これは誘惑なんですか)

『そうとも言えるし、確認でもある。
 きみたちが“どこを選びそうか”を、向こうも測っている』

 ボクは、穴から目を離す。

「……あんまり、親切な見せ方じゃないですね」

 思ったことが、そのまま口をついて出た。

 死神が、ふっと息を吐く。

「そうですね」

 短く同意する。

「でも、ボクは“どうしたいか”は、はっきりしてきました」

 その言い方に、さっきまでより芯が通っている。

「わたしは」

 死神は、穴を見下ろしたまま言った。

「“こうだったらよかったのに”っていう夢の中に浸るつもりはありません」

 ボクは、黙って聞く。

「今までの全部を引き取ったまま、どう返すかを考えたいです。
 “楽だったかもしれない”ほうに乗り換えても、きっとどこかで違和感を覚える気がします」

 それは、さっきからずっと彼女が言葉を変えながら繰り返していることの、いちばんはっきりした形だった。

『きみ』

(はい)

『この子と一緒に決めるなら、“名前のつけ方”は一つしかない。
 でも、それは、きみにとって残酷な結果となるかもしれない』

(……やっぱり、そうなりますか)

『そうなるね』

 ボクは、死神の横顔を見る。

 穴の光が、彼女の頬に薄く映っている。
 その光景を見て、ようやく自分の中でも一つだけ、答えに近い形が固まった気がした。

「……さっき、死神さんが言っていた、“借りたままにしておくための名前”って話ですけど」

「はい」

「それを、そのまま使うのは、どうでしょう」

 死神が、こちらを見る。

「全部きれいにゼロに戻すんじゃなくて、“まだ途中です”って状態のまま、名前をつける。
 “ここから先、どう返すか考える場所です”っていう意味で」

 死神は、しばらく黙っていた。

 山頂の風が、わずかに強くなる。

「……そんな名前が、許されると思いますか」

「許されるかどうかは、向こう次第ですけど」

 ボクは、穴を見下ろす。

「少なくとも、ボクたちにとっては、それがいちばん正直な選び方だと思います」

 死神は、ゆっくりと目を閉じ、また開いた。

「だったら」

 短く言う。

「“まだ決めません”っていう名前は、どうでしょう」

「まだ決めません」

「はい。
 ここが“いつか来るべき時のために残してある場所”だと分かるくらいには曖昧で、
 でも、“なかったことにする気はありません”ってことは伝わるような」

 ボクは自分で言いながら、少しだけ照れくさそうな顔をした。

「……言い換えると、“未命名”ってことになりますけど」

 その言葉が出た瞬間、穴の中の光が、わずかに震えた。

 窪地に映っていた景色が、綻ぶように崩れていく。
 家並みも、店先も、路地の影も、まとめて線が消されていく。

『……結局、こうなるんだね』

 師匠の声が、さっきまでよりわずかに低い。

『“まだ決めません”を、そのまま名前にする。
 私の立場を考えれば、怒るべきところなんだろうけど、筋は通ってる』

(通ってますか)

『通ってるさ。
 “今は名づけないけど、忘れない”。そう決めたってことだからね』

 死神が、不安そうにこちらを見る。

 ボクは、

「たぶん、向こうに伝わりました」

 そう答えて、もう一度、穴の底を見た。

 さっきまでこちら側と向こう側をつなぐみたいに満ちていた光が、
 ゆっくりとすぼまっていく。

『これで、この山はしばらく“保留”だ』

 師匠が言う。

『本当の名前は、まだ誰にも渡らない。
 ただ、“ここにそういう場所がある”という印だけが残る』

(それで、向こうは納得するんですか)

『納得というより、交渉はここで打ち切りだね。
 少なくとも、今日のところはこれ以上踏み込めなくなった、ということ』

 空を見上げると、頭上の白い渦が、少しずつ形を失っていく。
 にじんで輪になっていた光も、やがて普通の雲の切れ目の中に紛れた。

 死神は、しばらく黙って穴を見ていた。

「……本当に、“未命名”でいいんですか」

「ボクは、それがいちばんしっくりきました」

 正直に答える。

「借りたものを全部抱えたまま、“ここから先どうするか考える場所”。
 今のところ、それ以上の名前は思いつきません」

 死神は、ゆっくりとうなずいた。

「わたしも、そう思います」

 そこで一度だけ、穴から視線を外す。

「全部きれいに片づけてから、ゼロから名前をつけ直す、ってやり方もあるのかもしれませんけど……」

 彼女は言いかけて、少しだけ肩をすくめる。

「わたしは、そういうのが上手じゃないので。
 途中のままでも、“途中です”って書いておいてもらえたほうが、落ち着きます」

「途中であることを、隠さない名前」

「はい」

 短いやり取りだったが、山頂の空気がほんの少しだけ軽くなった気がした。

 穴の底では、光が最後に小さく揺れてから、土の色に紛れていく。
 ところどころ、湿り気の中に薄い筋となり、しばらくして完全に消えた。

『決まりだね』

 師匠が、息をひとつつく。

『このノードは、“未命名”として扱う。
 きみと死神、二人がそう選んだ以上、向こうもそれを無視はできない』

(ノードって、何ですか)

『細かい言い方は気にしなくていい。
 きみたちの言葉で言うなら、“ここ一帯が、まとめてそういう扱いになった”くらいの意味さ』

 東西さんが、ボクと穴のあいだに視線を落とし、穏やかな表情で口を開く。

「……おめでとうございます」

「おめでとう?」

「ええ」

 いつもの淡々とした声だった。

「“きみ”が、自分で決めた最初の名前ですから」

 その言い方に、少しだけ胸がむずがゆくなる。

「でも、まだ何も決めてませんよ」

「“まだ決めません”と決めたのは、十分大きな一歩だと思います」

 それだけ言って、東西さんは薄く笑った。

 死神には、その姿は見えていない。
 彼女は、ボクが口にした「おめでとう」という言葉のほうにだけ、わずかに首をかしげていた。

「……何が、おめでとうなんでしょう」

「自分のことを、自分で決めたからじゃないですかね」

 自分でも、少し曖昧な返事だと思う。

 けれど、死神は「そういうものですかね」とだけ答え、深くは追及しなかった。

 そのとき、東西さんの輪郭が、わずかに揺れた。
 夜風のせいではない揺らぎだった。

「……そろそろ、時間みたいですね」

「時間?」

「ここに残っていられる理由が、もうあまりありません」

 東西さんは、ボクにだけ聞こえる声で続ける。

「“東西”という名前で固定される未来は、ひとまず棚上げになりましたからね。
 そろそろ撤収です」

「撤収って」

「また、どこかで会うかもしれませんし、会わないかもしれません」

 ほんの少しだけ、楽しんでいるような口調になった。

「でも、“未命名”を選んだ“きみ”の選択、自分は嫌いじゃないです」

 それきり、東西さんの輪郭は、霧に紛れるように薄くなっていく。
 黒い山の影と混ざり合い、やがてどこにいたのか分からなくなった。

『バイバイ、東西』

 師匠がそう告げると、応える声もなく、気配は完全に消えた。

 山頂には、ボクと死神の二人だけが残る。

 死神は、静かに穴に向かって一礼した。

「勝手に山に上がってきて、勝手に名前を保留にして、ごめんなさい」

 それは謝罪というより、状況の報告に近い響きだった。

「でも、今日はこれで帰ります。
 まだ、やるべきことが、こちらに残っているので」

 穴はもちろん、何も答えない。

『いい締めだ』

 師匠が、満足そうに言う。

『きみも、そろそろ時間だよ』

 師匠の声がそう告げたとき、山頂はもう、すっかり普通の夜の静けさに戻っていた。

「……そろそろ、下りましょうか」

 ボクは、死神のほうを向いて言った。

「そうですね」

 死神はうなずき、山頂標識のほうを一度だけ振り返る。

「バスも、あんまり遅くなると、なくなりそうです」

「ボクは、このあと少し寄り道したいので……。
 あなたは、足、大丈夫ですか」

「このくらいなら」

 死神は、スニーカーのつま先で軽く地面を叩いた。

「ああ……じゃあ、このあたりで」

 口に出してみると、自分でも少し不思議な気分になる。

 さっきまで、一緒に穴を覗いて、「未命名」を選んで。
 それなのに、別れ方は、たまたま街で相席になった相手とそう変わらない。

「依頼のことは、どうします?」

 自分でも、引き留めるみたいだと思いながら、言葉が続いた。

「もう誰も来ないと思いますよ」

 死神は、静かに言う。

「何なら、わたしのほうで片づけておきます。
 “依頼主の都合により中止”とか、そのあたりで」

「助かります」

 そう答えてから、少しだけ迷い、言葉を足す。

「今日は、来てくれてありがとうございました」

「こちらこそ」

 死神は、一瞬だけ考えるような間を置いてから続けた。

「“未命名”って選択肢、わたしは一度失敗してるので……。
 きっと、あなただから選び取れたんだと思います」

 ボクは、何と返せばいいか分からず、ただうなずく。

「じゃあ、気をつけて」

「きみさんも」

 そう言って、死神は穴にもう一度軽く一礼すると、登ってきた道を引き返すように歩き出した。

 暗くて足もとが見えないはずなのに、迷いのない歩き方だった。

 ライトの光が、木々の間で小さく揺れて、やがて見えなくなる。
 その背中が完全に見えなくなってから、ボクはようやく息を吐いた。

『上出来だよ』

 師匠の声が降ってくる。

『気取られずに、ここまでよくやった』

「……ここから、どうなるんですか」

 誰に聞かせるでもなく、小さく問う。

『きみは、ここでお役御免だ』

 師匠の声は、淡々としていた。

『この夜に“きみ”がいる理由は、もう十分果たされた。
 ノードは“未命名”で固定されたし、死神も山を降りる』

「ボクは」

『形の話だよ』

 言葉をさえぎるように、師匠が言う。

『この山頂に立っている“きみ”の形は、ここまでってこと。
 あとは、こっちで処理する』

 そう言われてはじめて、指先のあたりから、少しずつ薄くなっていく感覚に気づく。

 痛いわけでも、苦しいわけでもない。

 ただ、「ここにいる」と意識していた輪郭が、ゆっくりとほどけていく。

『心配しなくていい』

 師匠の声は、いつもの軽さに戻っていた。

『明日の朝には、ちゃんと目を覚ます。
 いつものベッドで、いつもの天井を見てね』

「……このことは」

『ほとんど忘れていると思う。
 細かい経路や、山頂の会話や、“未命名”って言葉も』

 ボクは、足もとを見る。

 さっきまで確かにあった三脚の残骸や、焦げた地面が、夜に溶けるように見えづらくなっていく。

『ただ』

 師匠が、少しだけ言い方を変える。

『完全な白紙ってわけでもない。
 きれいに消しても、紙にうっすら跡が残ることがあるだろう?
 栗色の髪をした可愛らしい女の子と、山の上で同じ時間を共有した――そのくらいの輪郭は残る』

「それは……何のために残すんですか」

『次に、“きみ”が何かを決めるときの、土台みたいなものさ』

 師匠は簡単に言う。

『真っ白な紙は便利だけど、どこまでが自分で、どこからが他人の書き込みか分かりづらい。
 少しくらいは、自分で引いた線が残っていたほうがいい』

 息を吸おうとして、うまく吸えない。

 胸が苦しいわけではない。
 空気の重さや温度が、だんだん他人事になっていくような感覚だった。

『大丈夫。難しいことは、全部こっちでやる』

 師匠の声が、遠くなる。

『きみは、目を覚ましたあとで、また“今日どうするか”だけ考えればいい』

「……分かりました」

 自分の声も、自分のものじゃないみたいに聞こえた。

 穴の縁から半歩だけ下がる。
 靴底の感触が、土なのか何なのか、曖昧になっていく。

 視界の端で、山頂標識の文字がぼやけた。

『おやすみ、きみ』

 それが、最後に聞こえた言葉だった。



 ◇ ◇ ◇

 【死神】



 山頂を離れてしばらく歩くと、わたしの足もとを照らすライトの輪だけが、頼りなくも心強く思えてきた。
 視界は狭い。周りは黒い木立と、石段と、手すり代わりのロープだけだ。

 風は弱いのに、枝と枝がこすれる音だけはよく聞こえる。
 踏むたびに、土と小石がこすれる感触が靴底から伝わってきて、足音だけがやけに目立った。

(……もう、帰ってるよね)

 五合目あたり。
 あの老人が店を広げていた場所の、少し手前でわたしは足を止めた。

 太郎丸 権蔵。
 「気に入ったら帰りに小銭を置いてけ」と、錆びた缶を顎で示してきた。

 あの二つ名は、正直ひどかった。
 でも、たしかに「いま背負っているもの」を、いやでも思い出させてくる言葉だった。

(明かりもテントもない時間だし、もう下山してるはず)

 そう思いながらも、足は自然とそちらに向かっていた。

 薄暗い斜面を回り込むと、ライトの輪の端に、布のようなものが映った。

「……?」

 少し近づく。
 テント、ではない。布切れだ。色の抜けた、薄い布が、骨組みだけ残ったポールに引っかかっている。

 その下に、白いものが見えた。

 反射的にライトを向ける。

「え……」

 骨だった。

 人の形が、かろうじて分かるくらいに崩れかけた白い骨。
 ところどころ、黒ずんだ布が張り付いたままになっている。

 無造作に伸びた白髪が、頭蓋のあたりに少し残っていた。
 肩の位置には、太くて長い棒。巨大な毛筆の柄だけが、骨と一緒に転がっている。

 下駄の鼻緒が切れたまま、片方だけ骨のそばに残っていた。

 数刻前までそこに座っていた老人の姿が、頭の中で重なる。

(……いやいや)

 喉の奥が勝手に笑いそうになるのを、飲み込んだ。

 骨は、昨日今日、ここに転がったものじゃない。
 長いあいだ風雨に晒されたように、白く乾いている。
 布も、缶も、パラソルの支柱も、時間をかけて色あせたような色をしていた。

 足を踏み出すたび、土の表面がざらりと崩れる。
 靴底の感触が落ち着かない。

 骨のそば、斜め前あたりに、錆びついた空き缶が転がっていた。

「……」

 胸ポケットを指先で探る。
 薄い紙切れの感触が、そこにあった。

 さっき、穴の中で見せられたものを思い出す。

 あのとき、わたしがすぐに首を縦に振れなかったのは、この二つ名があったからかもしれない。

 大げさに言うほどの恩じゃない。
 それでも、まったく意味がなかったとは言いたくなかった。

「……ありがとうございました」

 わたしは、骨の主に向かって小さく頭を下げた。

 自分でも不思議なほど、言葉は素直に出てきた。
 返事は、もちろんない。

 わたしは少しかがんで、缶をそっと持ち上げる。
 土がこびりついていて、指先がざらついた。

 缶を立て直し、口を上に向ける。

 上着のポケットから財布を取り出し、ファスナーを開けた。
 札を一枚。硬貨を何枚か。
 山に来る前、屋台で使うつもりで崩しておいたお金の中から、数枚を選ぶ。

 それを、指先でそろえ、空き缶の口のところに一度そっと当てる。
 それから、まとめて中へ落とした。

 カラン、カラン、と乾いた音が響いて、それきり静かになった。

 風の音。
 木が擦れる音。
 遠くでフクロウみたいな声が一度しただけで、あとは何も続かない。

「……生きてた頃に会えたのか、どうなのか」

 缶の口を見下ろしながら、ぽつりと言う。

 ほんの数時間前、ここに座っていた老人。
 その記憶と、目の前の骨の古さは、どう考えても噛み合わない。

 けれど、この山そのものが、先日まで存在していなかったくせに、
 昔からここにあったことにされている。

 だったらこの老人も、ずっと前からここで名づけを続けてきたことになっていても、おかしくない。

(……同じようなもん、か)

 わたしは、もう一度だけ頭を下げた。

 山に利用されていたのか、
 山に利用される人間を、邪魔してくれていたのか。

 どちらの可能性も、それなりにありそうだし、どちらも違う気もする。

「そんなかっこいい話じゃないのかもしれないですけど」

 自分で苦笑しながらつぶやく

「それでも、ひとつだけは、間違いなくて」

 胸ポケットを指で軽く押さえる。

「あなたのつけたこの名前のおかげで、わたしは“借りたもの”を忘れずに済みました」

 闇の中で、骨はただ転がっている。

 わたしは、もう一度だけ空き缶を見た。
 ここに、たしかにあの老人がいた──そのことだけは、忘れないでおこうと思った。
 そう決めてから、背を向けた。

 登山道に戻ると、風向きが変わった。
 木々の間を抜ける音が、ささやき声みたいに聞こえる。

 振り返らない。

 足もとだけ見ながら、一歩ずつ、慎重に下っていく。

 背中のほうで、風がひときわ強く吹いた気がした。
 誰かが「ああ、ちゃんと置いていきやがった」と笑ったような気もした。

 振り返らずに、そのまま歩幅だけを少し広げた。


 *


 上海に戻ってきたころには、空はもう白み始めていた。
 高架をくぐるトラックの音と、一番電車のブレーキの音が、薄暗い街にばらばらと響いている。

 貧民街の端の、あの雑居ビルの前で足を止める。
 一階の酒場は、まだシャッターを半分だけ下ろしたままだ。
 脇の細い通路から中に入ると、湿ったモルタルと古い油の匂いが鼻をついた。

 通路の突き当たりに、鉄板を打ち付けただけの掲示板がある。
 紙と古いテープの跡で、ごちゃごちゃしている。

 その中に、あの依頼文が混じっていた。

鞍馬山山頂付近に「名前のないもの」がいる。
それに名前を与え、その効力を観測せよ。
報酬:清王朝のダイヤ

 読み返してみると、やっぱりだいぶ怪しい。

「……」

 胸ポケットから、細いペンを取り出す。
 紙の下のほう、空いている余白を探す。

 少しだけ迷ってから、短い一文を書き足した。

依頼主の都合により中止。

 ペン先を離す。
 インクがじわりと紙に染みていく様子を、しばらく眺めた。

 ペンをポケットに戻し、掲示板から離れる。
 通路を抜けて表に出ると、空はさっきより少し明るくなっていた。

 そのままビルの外階段を上がる。
 最上階からさらに一段、屋上への扉を押すと、ひんやりした風がまともに顔に当たった。

 錆びた手すりの向こうに、上海の街が広がっている。

 高層ビルのガラスに、うっすら朝日が映る。
 低い建物の屋根のあいだからは、あちこちで白い湯気が立ち上っている。

 通りには、もう動きがある。
 出勤する人、屋台を開ける人、学校に向かう子どもたち。
 それぞれが、いつも通りの朝を始めていた。

 ふと、視線の端に黒いものが映った。

 路地の曲がり角。
 電柱の影とは別に、そこだけ色が濃く沈んだ場所がある。

 歩いてきた男の肩口に、それがふわりとくっついた。
 黒いビニール袋が、風に流されて勝手にまとわりついたみたいな動きだ。

 男は振り返り、それに歯を見せて笑いかける。
 肩を回しながら、その黒い染みとじゃれ合うように店へ入っていく。

 コンビニの軒先にいた店員の背中にも、同じような黒いふくらみが張り付いていた。

 陽が少しずつ強くなるにつれて、それはあちこちで目に入ってくる。

 横断歩道を渡る人の足首に絡みつくもの。
 自転車のカゴに腰かけて、どこかを見つめているもの。
 マンションのベランダの手すりに、洗濯物みたいにぶらさがっているもの。

 輪郭は、人の形をしているようで、していない。
 小動物みたいにも見えるのに、形がはっきりしない。
 顔のあたりだけぽっかり抜けていて、その奥に何があるのか、うまく見えない。

 街の人たちは、誰も気にしない。
 きっと彼らには、昔からの知り合いとか、顔なじみの隣人とか、
 よく餌をもらいに来る、人なつっこい野良猫みたいに見えているのだろう。

 どこから来たのか、いつからそこにいるのかも、たいして考えないまま。

「……鞍馬山も、そんな感じなんでしょうね」

 口の中で小さくつぶやく。

 先日までなかったのに、気づいたときには「前からあった」ことになっている山。
 誰もがそれを昔からあるように受け入れていた

 遠くの空を見上げる。

 上海の上空には、まだ薄く、墨をのばしたような染みが点々と残っている。
 鞍馬山だけじゃない。
 それぞれの下には、同じように「先日まではなかったはずの場所」が、
 顔なじみのように街に紛れ込んでいるのかもしれない。

 じっと見つめると、染みの端がかすかに揺れた。
 そこから、また新しい黒いものがいくつか、ふらふらと街のほうへ落ちていく。

「……」

 視線を切って、手すりから身を離す。

 全部を数えていたら、きりがない。
 ひとつひとつに、名前をつけてやることもできない。

 ただ、向こうからそういう「何か」がやってきて、
 こちらの人々は、それと一緒に生活している——その事実だけは、どうしても見えてしまう。

 わたしの足もと、屋上のコンクリートの隅にも、
 小さな黒い染みがひとつ、じっとこちらを見ているような気がした。

「……お腹すいたな」

 そう言って、わたしは見て見ぬふりをする。

 代わりに、深呼吸をひとつして、階段のほうを向いた。

 この街は今日も動き出している。
 わたしも、わたしのやることをやるだけだ。

 屋上をあとにして扉を閉めると、さっきまでの朝の光とざわめきは、
 安っぽい鉄の扉一枚の向こう側に押し込められた。

 狭い階段に、わたしの足音だけが静かに響いた。


 fin.
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