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ダンゲロスSS上海
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ダンゲロスSS上海

ハウスレス・ハードスキン

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dangerousss_shanghai

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「惜しいな。おぬしの剣はまっすぐに過ぎる」

 低く静かな、それでいてよく通る声である。
 落胆や蔑みではない。言葉通りに惜しみ、どこか面白がってもいるらしかった。

 上海湾沿岸の旧コンテナ埠頭。
 立地や機能に不足がなかったにもかかわらず、より利便性の高いターミナルが離れた場所に作られて久しい。
 今は寄り付く者もほとんどいない。
 表沙汰にできない取引をここでするため、魔幇が新ターミナル建設の手を引いたのだともいう。

 今、コンテナは一つもなく、魔幇、マフィアの類もいない。
 白昼の青空の下、二つの人影だけが向かい合っていた。

 言葉を発したのは潮風にコートと髪を靡かせる狐面の男。

 向き合う敵手は無言。
 奇妙な色彩を帯びる鎧の騎士が両手剣を振りかざした。

 騎士の剣技は狐に通じていない。
 剣を構える。振るより先に狐の拳が柄頭を叩く。
 剣を振り抜く。空を切った後、狐の拳が兜を揺らす。
 先ほどからそのようなことの繰り返しだ。

 しかし一方で、騎士が剣を取り落とすこともなく、兜の中で意識を手放すこともない。
 狐の側でも勝敗を決する決め手を欠いていた。
 少なくともこれまで見せている手札の中には。

「並の相手であればそれで勝ちを拾えたろうな。それゆえ他の技を磨かなんだか。上海覇者に興味のある手合いでもなければ、さもありなん」

 狐の声に騎士は答えず。
 しかし両者の動きはぴたりと止まった。
 彫像の様に静止し、それでは埒が明かぬと見たか。
 再び、動いたのは騎士。
 疾風の踏み込み。
 旋風の大薙ぎ。
 だが遠い。
 長剣はただ空を裂く。

 狐は一歩たりとも動いていない。
 騎士が間合いを違えたか。
 そうではない。
 騎士の剣は止まっていない。全身を捻り一回転、剣に勢いを乗せる。そして今度は踏み込みではなく踏み切り。
 両腕を伸ばしきり、地を蹴った脚もまた伸びる。

 左右と奥行き、二次元範囲において最大射程の飛び掛かり。
 そして。

 甲高い金属音が二つ重なった。
 一つ、狐の拳が再び柄頭を弾いた。
 一つ、狐の蹴りが鎧の胴を捉えた。

 同時ではない。
 狐はくるりと背を向けながら騎士の懐に潜り込み、自らの拳打を騎士の両腕に添わせるように、柄を内から外へと殴りつけた。騎士が生み出した遠心力と合わさり、とうとう剣はその手を離れた。
 さらに狐は倒れ込むように身を屈め、その勢いのまま後ろ蹴りを突き上げるように繰り出した。
 連続した動きである。
 その音が重なるように響いた。
 神速、というものだろう。

 そして、油断なく騎士に向き直る。

 遠い。

 狐は宙を舞う鎧姿を見た。
 一瞬の間に目が合ったような気もした。
 そして騎士は言葉なく海へと落ちた。

 これで決着とするには物足りない終わり方である。
 しかし待てども騎士が海から上がってくることはなかった。

(さて、奇妙な手ごたえの相手だった)

 狐――拳狐は此度の敵手について思いを巡らす。

 上海には昔から伝わる怪談がある。
 今は清王朝のダイヤの情報と混同されることもあるようだが、ずっと前から伝わる昔話だ。
 財宝を守る騎士の亡霊。
 実在するとは思わなんだ。
 たまさか見かけた折に何者の変装であろうかとちょっかいをかけただけではあるが。

(思いの外よく飛んだ。あれは相当に軽い)

 蹴り足から得た感触は鋼鉄そのもの。
 頑丈ではあるがこちらの足を痛めるほどでもない。
 しかし奇妙なことに鋼鉄をへこませたという感覚もなかった。まるで形が変わらない。

 そして蹴った際の反響音。兜を打った際はさほどでもなかったが、胴の中身が空でなければああも響くまい。
 空の鎧であればむしろ生身の人間よりよほど軽いはずだ。

 変形しないがために力が散らず、さらには軽さ故に飛距離が伸びた。そういうことだろう。

「鎧の化け物か」

 鎧の中の人間であればどうにでもする技がある。
 投げれば衝撃は身に伝わろう。
 兜を打たれ内に響く音で失神した者もいると聞いた。
 さらに言えば、鎧というのは着込む物だ。鋲で固定されてはいるが、最も外側に重なった部位、首や肩回りから順に外すこともできただろうか。

「しかし中身がないのではな」

 話しかければ剣を止めて聞く素振りを見せていた。それ以外は休まず責め立てていたが拳狐の能力を把握していたわけではないのだろう。
 恐らくは単に疲労しないからそうしていたというだけなのだ。

 長引けば分が悪いのは拳狐だったやも知れぬ。

「ここは分け、いや、預かりと数えておくか」

 面に隠れぬ口元が笑う。
 覗く瞳は奇妙な光を捉えている。
 視線の先では宙を舞ったあの剣が、いつの間にやらコンクリートに突き立っていた。


 海の香りはプランクトンが作っているのだという。
 そんな知識を得るずっと前から、この香りそのものを知っている。

 これはお父様の仕事場の匂いなのだと、小さな頃はそんな風に思っていた。
 今では海にまつわる記憶も雑多に増えて、この香りだけでは家族を思い出すこともない。

 今日もまた一つ、上海湾の近いこの場所で思い出を増やすことになる。

 わたしは今、上海蟹ランドの海が見える広場で蟹の着ぐるみを着ています。
 なんででしょうね!? お仕事なんですけどね!

 普段の仕事とはまた別の、急遽依頼された誰かの代役。
 中の人もワンオペではないでしょうに。ローテーションのシフトを調整すればいいのでは?
 そう思っていたのだけどサイズの問題で着れる人がそもそも少ないらしいです。

 今のわたしは小さなモクズガニのモックー。母音をIにしてはいけません。
 ふさふさのハサミがチャームポイント。
 ボイルはしてないけど真っ赤なボディ。
 ズワイガニのシゥシゥ、毛ガニのマオマオがお友達。
 尊敬する蟹は上海蟹です。

 上海蟹ランドも魔幇の仕切りだとは聞いたことがあったけれど。
 わたしにこんな仕事が回ってくるとは。
 魔幇の稼業にも色々あるのは知っていました。カレー部門とかヒップホップ部門とか。

 犯罪組織という言葉からは想像できない領域にさえ支配の手が回っている。
 改めて組織の無秩序な巨大さを感じます。

 根回しがあったのだろうけど、ここのスタッフは突然やってきたわたしにも親切にしてくれました。
 運営母体には魔幇との繋がりがあるのだとしても、ここに勤める一人一人はごく普通の人々のようです。

 わたしの本来の同業者だってそうです。
 あまり顔を合わせることはないけれど全く知らないわけでもない。
 互いに過去を話すこともなく、友達ではなく、仲間と言えるかもわからず、それでも緩やかな連帯感を感じている彼女たち。

 魔幇の生み出す仕事で生きている人というのは確かにいるのです。
 魔幇が滅び去ったら彼女たちの生活はどうなるのだろう、と。
 そう考えることもあるけれど、わたしの中の復讐心が消えることはない。
 消すつもりもない。

 復讐の後に残るもののことは今のわたしには考えられない。

 目の前を親子連れのお客さんが横切っていく。
 女の子が殻ごと食べられる小さな揚げ蟹の串を食べていた。
 ふさふさのハサミを振ってアピールする。
 こちらに驚いた様子で父親の後ろに隠れてしまった。
 声は出せないしいつものお客さんの相手とは勝手が違う。

 早くスパイクに会いたいな、今日そう思ったのはこれで何度目だろうか。


(クラムって変わった人だね)

「それはそうだ。ソレガシのような者ばかりでは世界中が狂っていることになる」

 本当になにもかもが変わっている。
 鱗語交流もなしに僕の考えがわかるのも、話す言葉も、見た目も、嚙んだ感触まで変だ。

 今日も今日とて僕は鱗語の射程内、メーメーが仕事をしている上海蟹ランド直下の下水道で待機している。
 そこに流れて来たのがクラムだった。
 美味しそうな貝の匂いがしたからすぐに噛みついたんだけどまるで歯が立たない。
 驚いたところに急に話しかけてきたからさらにびっくりだ。

 西洋の鎧だというのは見ればわかったけれど、中に人がいると思っていたし、もう死んでいると思っていた。
 どっちも大外れ。鎧だけで生きてる変なやつ。
 彼自身は生き物ではなく幻覚だと言っている。
 まるでわけがわからないし、もうそういうものだと思うことにした。

 僕たちワニも人間と同じように鳴き声でコミュニケーションをとる。
 何種類かの声を使い分けるとはいえ人間の言葉ほどのバリエーションはない。
 野生の中ではそんなに複雑なメッセージは必要ないし、ごく簡単な身振りや目配せも合わせてなんとなく伝わればそれで十分。
 まあ、僕自身に他のワニと暮らした記憶はないけれど。

 クラムもテレパシー能力があるわけではなく、僕の動きから意味を察しているらしかった。やっぱり人間じゃないのかもしれない。
 僕の方は彼が発する言葉を聞いて理解できる。賢いからね。

 メーメー以外の誰かと話すのは初めてだ。
 地上にいたという彼との会話は面白い。
 それに近頃のダイヤを巡る戦いについての話は有益だ。メーメーの役に立つかもしれない。

(それでクラムも清王朝のダイヤを探しているの? ダイヤが欲しい?)

「ひとまずは所在がわかればいい。それを広めれば狙いがそちらに集中するからな。それが我が貴婦人を危機から遠ざけることになる」

(貴婦人? クラムの大切な人? 狙われているの?)

「ああ。貴婦人を清王朝のダイヤと混同する者が何人もいた。それほど美しいお方だ」

(美しいだけでダイヤと間違えられるの? すごいね! 僕も会ってみたいな)

「ソレガシも再びお会いしたい。それに、あのお方の姿を大勢に見せることができればと。そう思うこともある」

(今は会えないの?)

「そうだ」

(……きっと再会できるよ。僕もそうだった)

 貴婦人のことをもっと詳しく聞こうかと思ったけれど、それはなんだかクラムを余計に寂しがらせてしまうような気がした。
 少し話しただけでも彼に心があるのは明らかだった。

 こういう時、友達同士だったらなんの話をするんだろう。
 メーメーと話す時は自然に言葉が湧き出るけれど初対面の相手にはとても難しい。
 好きな食べ物を聞いたけどクラムは何も食べないんだって。

 僕が悩んでクラムも黙り込んでいる、そんな時。

(スパイク!)

 メーメーからの通信だ!
 危ないことがあったならすぐに助けに行かないと!

 そう思ったのだけれど。

(そっちは大丈夫!?)

 心配されるのは僕の方らしい。


 そろそろ夕暮れ時のパレードの準備をしなければ、という時に。
 妙な物に気が付いた。

 遠い海原、ランドの敷地を示すブイよりも向こう側に、一隻の帆船が見える。
 大航海時代に使われるようなガレオン船。
 旗は黒地に髑髏のジョリー・ロジャー。
 ハリウッド映画に出てくるようなやつ。なにかの撮影だろうか。
 それともランド関係のなにか?
 そういえばカリブの蟹賊というライドアトラクションが人気だとか。

 ぼんやりと眺めていると船はどんどん近づいてくる。
 様子がおかしい。
 やがて船はこともなげにブイの描くラインを断ち切った。
 あり得ない。

 ランド側の海は上海蟹の養殖場になっている。
 生育環境を壊すことを魔幇が許すはずがない。

 物理的にも無理だ。
 養殖場は浅瀬に作られている。
 あの大きさの船なら座礁してしまうはず。

 ただの船じゃない。
 魔人。だとしたらあの見た目も仮装やこけおどしでもないか。
 魔幇に敵対する海賊?
 ここの警備が座して見ているとも思えないけれど、わたしはどうする?
 安全を求めるなら逃げるべきだ。わたしの体自体が魔幇の財産とも言える。
 それを守るための行動をとっても魔幇からの評価が下がったり、セレモニーのコンパニオンから外されることはないと思う。

 魔幇と敵対している勢力と手を結ぶという選択肢もあるけれど、その相手として相応しいとも思えない。
 汚れを洗うのに泥水を使うべきではないでしょう。

 逃げよう、そう心を決めつつあるのに。足を動かすことを躊躇ってしまう。
 周囲のお客さんたちは危機に気が付いていない。
 船を危険だと思っていないのか。
 ここまで被害が及ばないと考えているのか。

 わたしが逡巡する間も船は止まらない。
 浅瀬をどんどん突っ切ってランドに迫る。
 そして。

「ハッハー! 喜べてめえら! 上海をこのキャプテン美髯が支配する八つ目の海にしてやるぜ!」

 大音声の主がはっきり見えるほど間近に船は来た。
 船上では大勢の水夫が動く中、一際目立つ男が一人。
 肌の色や顔つきはコーカソイドらしいけど、服装と髭、手にした得物は関帝を真似たようだった。
 あれが船長。おそらくは彼が魔人だ。
 船が座礁しないというだけなら能力自体は脅威というわけでも――。

 ――いや、違う。
 灰色の砂浜、海岸線の変化にようやく気付く。
 ゆっくりと、少しずつ、でも確実に海面の高さが上がっている。今は満潮の時間じゃない。
 おそらくは浅瀬を深く掘り下げ、さらに海水を増やす能力。
 削られた浅瀬は深い海になり、海水に沈む陸地は浅瀬になる。
 それを繰り返せば。

「本当に上海が海になる……!」

 私の動揺を知ってか知らずか、キャプテン美髯は再び大笑した。

「野郎ども! 網を投げろ! まずは蟹を根こそぎ奪え!」

 水夫たちは掛け声を挙げてその命令に従った。
 キャプテン美髯は笑顔で頷き隣に立つ男の肩を叩いた。
 黒いチャイナ服の黒人男性。副船長だろうか。

 そしてキャプテン美髯は甲板を駆け、一人船から飛び出した。
 溢れ出る海水と共に、彼はとうとう上海蟹ランドへの境界を侵した。

「大人しく投降せよ!」

「なめやがって! 野良海賊が!」

 集まっていた警備の人間、青い制服の真面目そうな人たちとガラの悪い黒服たちが殺到する。
 状況に気づいたらしいお客さんたちは悲鳴を上げながら逆方向へ。

 わたしは別のことを考えていた。

(スパイク! そっちは大丈夫!?)

 下水にも海水が逆流している可能性がある。
 スパイクなら水質の違いは大して問題ない。彼は数時間単位で息を止められるから下水道が水没しても大丈夫。その気になれば一瞬で影響を受けてない内陸の下水に逃げることもできる。
 頭ではわかっているけど心配なものは心配だ。

(ランドが魔人に襲われてる! 魔幇とは敵対してるみたいだけどすっごく野蛮なの! そっちは変な魔人が出たりしてないよね!?)

(え!? メーメーは無事なの!? こっちは……変なやつだけど悪い魔人じゃないよ)

(なにかいるの!?)

 鱗語交流完全同期。
 共有された視界に映るのは暗がりの中でぼんやりと光る鎧の姿。

(本当になに!?)

(クラムっていうんだ。彼は本当に大丈夫。それより迎えが必要ならすぐに行くよ)

(人目が多いからそれはやめた方がいいかな……うん、スパイクと話したら落ち着いてきた。わたしもすぐに避難するね。この戦いに関わってもいいことないし)

 深呼吸を一つ。
 改めて周りを見る。

 海水は足首まで上がってきている。着ぐるみに染みて冷たいけど脱ぐよりはまし。
 お客さんたちは走りにくそうだけれど順調に離れていってる。スマホで撮影している人もいるけれど、そういう人たちも足を止めてはいない。
 わたしもその最後方に続く。
 キャプテン美髯と戦う人たち。これは分が悪そうだ。相手は一人なのにまるで敵わない。

 水没した場所で戦うことに慣れていない。美髯と比べて明らかに動きが悪い。
 そして単純に美髯が強い。
 絶え間なく動き回り、常に誰かの至近距離にいる。銃で狙わせない動き。
 そして彼が青龍偃月刀を振るう度、警備側は複数人が吹き飛ばされる。
 斬ることにはこだわらないらしく長柄の部分も当てている。

 凄惨だ。全く斬られていないわけじゃない。血飛沫が舞い、海水が少しずつ濁る。殴られた者だって体が不自然に曲がっている。
 鈍色に光る柄も鋼鉄なのだろう。

 このままならほぼ間違いなく美髯が勝つ。

 その後はどうなる?

 誰かが止めなければ上海は海に沈む。

 誰かは、きっと誰でもいい。
 腕利きの解決屋や魔幇の主力には美髯に対処できる者もいるはずだ。
 わたし一人では到底敵わないし、スパイクの姿はこんなところで晒すべきじゃない。

「蟹の次は人だ! 野郎ども! 上海人を奴隷にして詰め込んでやれ!」

 警備を全滅させた美髯が叫ぶ。
 振り返れば船から降りる海賊が見える。
 逃げるべき方へ視線を戻す。

 海水に足を取られたらしい子供が倒れる。
 きっと真っ先に狙われるのはああいう子供だ。

 水深は少しずつ増している。スパイクが隠れながら戦うこともできるだろうか。

 テレパシーで叫ぼうとした私の思考を遮るものがあった。

 ハンドベルとシンバル。
 場違いに明るい壊れた音楽。

 本来はパレードと連動するからくり時計塔。
 蟹の人形たちが右に左に動きながら楽器を鳴らす。
 海水で機械に異常が出たのか、スピーカーから流れる曲は音割れし、リズムも狂い、音量も不意に大きくなったり小さくなったりを繰り返す。

(メーメー。今なら目立たないよ。彼を送って僕は隠れる)

 スパイクの声がわたしを現実に引き戻す。

 彼、とは。

 ざぶん、と立てた水音に気づいた人はどれだけいただろうか。
 一瞬の内に彼は現れた。

「なんだ。……何者だ、お前」

 美髯の声には警戒が混じる。あるいは、理解できない何かへの不安。

 スパイクの視界で見た時とは違い、わたしには驚きも恐怖もない。
 不思議と懐かしさすら感じる。
 夕日に照らされ、不思議な色に光る彼。

 お父様が商っていた物。あるいはお母さまが好んで集めていた物。
 イリデッセント・ガラス。オパール。あるいは宝石箱の螺鈿細工。

 揺らめく色彩はそういう物に似ている。

「ソレガシの名は、クラム・ハードシェル」

 壊れた行進曲に、狂ったラジオのような声が重なる。

「人々よ。ソレガシの行いを通して我が貴婦人の絶美を知るがよい。これなる騎士を遣わした者はいかなる氷肌玉骨であろうかと」

 騎士は悠々と歩き海賊に迫る。

「なにを、言ってやがる」

 海賊はたじろぎ、しかし後ろには下がらない。
 青龍刀を構え直した。

 ふと、曲の名を思い出した。
 今、彼の手に剣はないけれど。

 ユリウス・フチーク。剣闘士の入場。


 上海には一つの怪談がある。

 彼は海の向こうから来たのだという。
 七色に輝く剣と鎧を持つのだという。
 煌びやかなダイヤや真珠、様々な宝の隠し場所を知るのだという。
 宝を探す者の前に立ちはだかり、決闘を挑むのだという。

 ただの噂だ。その全てが真実かはわからない。
 現にそこに現れた騎士の手に剣はない。

 それでも。その噂を知る者たちは。
 逃げ遅れた客。蟹の着ぐるみ。海賊の中の幾人か、上海について下調べをした者共。
 夕暮れの光の中で、彼らはその時思い知った。

 クラム・ハードシェルは実在する。

 美髯は彼のことを知らない。
 ただ、邪魔者であることだけはわかった。

 クラム・ハードシェルは青龍刀がわずかに届かぬ距離で構えた。
 無手の構え。
 半身になり、腋を締め、握った拳を相手に向ける。
 どこの流派とも知れぬ、どこにでもあるような、いくつかの武術で共通する基本の構えだ。

「騎士じゃねえのか。よほど拳法に自信があるらしいな」

「いや、剣を落としたのでな。この構えも昼に見たものを真似ただけだ」

「殺す」

 海賊の額に血管が浮く。
 侮辱を決して許さぬ男だ。
 言葉よりも早く動き出していた。

 踏み込み、そして円を描く大薙ぎ。
 最も力の乗る切っ先で捉える必殺の間合い。

 ぎゃっ、と悲鳴が上がった。

 青龍刀は空を切っている。
 離れた場所でクラムは手下の海賊を殴りつけていた。
 打たれたのは客に最も近づいていた男だ。

 倒れる男を一顧だにせず、クラムは次の敵を目指す。
 やはり美髯ではない。
 客を襲う者を狙っている。

「馬鹿にしやがるッ」

 美髯は吠えてクラムを追う。
 届かぬ。
 甲冑姿からは想像できぬほどに速い。
 視線の先でまた部下が倒れた。

「ちいっ」

 それが狙いであるならば、と。
 美髯は逃げ遅れた人間を探す。
 近くにはいない。
 だが、追いかける素振りさえすれば。

 水を叩く足音、朽ちた打楽器のような奇妙な響き。
 それが背後から迫る。
 振り向こうとした、その時には後頭部に鈍い衝撃。
 青龍刀を杖代わりに、倒れ込む無様だけは晒さぬが。

 目をやれば騎士は既に離れている。
 あれだけ動き回って疲れる素振りもない。
 部下共は必死に逃げ惑う。もはや客に向かう余裕もないようだった。

「てめえら! ここだ! 来い!」

「アイ!」

 声を張り上げれば間髪ない返事。
 辛うじて無事な者共がもたつきながらも寄り集まる。
 騎士の動きは単純だ。機械的と言ってもいい。
 標的が一か所に固まれば最短距離で狩りにかかる。
 その直線を捉える。

 がん、と甲高い金属音。

 部下はまた一人倒れたが、青龍刀は初めて騎士を捉えた。
 切れも凹みもせぬ。
 だが、撥ね飛ばした。

 宙を舞う鎧目掛けて水面を蹴る。
 着水から立て直す間を与えず一撃。
 鋼鉄が再び飛ぶ。

 軽い!

 美髯は追い回し、猛然と連撃を加える。
 地に落ちればもう一度空へ弾き飛ばす。
 あるいは地に落ちるのも待たずに突き上げる。

 鉄を打つ手ごたえは自身の体にも響く。
 青龍刀も刃こぼれを起こした。
 だが、勝てる。

 キャプテン美髯はほくそ笑んだ。

 これで死ななきゃ、こいつは本物の化け物だ。


 もうお客さんの心配はしなくて良さそうだ。

 あのクラムという騎士の戦いに紛れて、スパイクも少しずつ、確実に敵を減らしていた。
 海賊たちには気づかれなかった、と思う。
 ワニの姿を見つけたなら仲間にそうと警告するはず。

 浅い海には様々な物が浮かんでいる。ゴミ箱やその中身、誰かの落とし物らしい帽子。そういう物に比べれば、スパイクの背中は光を反射する水面のうねりとほとんど見分けがつかない。

 さらに広場にはスパイクが出入りできるマンホールや側溝がいくつもあった。
 夏場にウォータープログラムを行う関係で廃水口が豊富なのだ。
 下水から別の下水へ現れるスパイクを見とがめる者はいない。

 動ける海賊はもうキャプテン美髯だけ。

 海賊に対するのはスパイクと、クラムと、もう一人。
 わたしじゃない。
 いつの間にか乱戦に紛れ込んでいた、その人。
 横に立つ彼に目を向ける――着ぐるみだから全身を向けないと視界も動かない。

「ふふ、全身蟹で隠した身で面だけの狐を怪しむかね。なに、己はただの通りがかりよ」

「……カニカニー」

 何者かはわからないけれど、海賊たちから人々を助けてくれたのは事実だ。
 でも上海蟹ランドを守る者が善意の人とは限らない。
 魔幇か、その雇われ。
 そういう可能性がある以上、スパイクの姿を見せるわけにはいかない。
 彼の存在に気づいてからスパイクは隠れることに専念している。

 このモックーの中身がわたしだと、そうあちらから言及されれば仕事と関りのある人物だと確定する。
 正体を見極めるためにもわたしからは話しかけにくい。

 もう一つ気になるのはその手に持つ剣。
 海賊を倒すのには使わずに、しかし決して手放さなかったその剣。
 クラムと同じ色彩をしている。

「ああ、これか。これを返すのも用事の一つ。おぬしはあやつの縁者、というわけでもなさそうだが」

 狐面の下の瞳はクラムに向けられている。
 先ほどからずっとだ。
 見守っているのではなく見極めようとしている。
 虫を観察する学者のように好奇心と冷徹さが同居している。

「あやつの中身は空。故に軽く、速い。重さがなければ打撃力は落ちるが馬鹿力で補っている。なにより不死身だ。勝ちは最初から決まっている」

 鎧の中に人がいないというのはスパイクからも聞いている。
 だとしたら体重はせいぜい20kg強のはず。わたしよりも軽い。

「だが不格好な勝ちではつまらんよな」

 男が笑う。
 面に隠れていないその口元がなぜだか最も狐らしく思えた。
 黙り込むわたしにはさほど興味がないらしく、狐は独り言を続けた。

「しかし、何を庇っている?」


 頭だ。

 キャプテン美髯は疲労困憊の体に鞭打った。

 頭を砕けば勝てるはずだ。
 そう自分に言い聞かせた。

 長引く戦いの中、自身の攻撃がクラム・ハードシェルにまるで苦痛を与えていないという事実を認めざるを得なかった。
 だが、他にも一つ気づいたことがある。

 クラム・ハードシェルは頭部への攻撃だけは避けている。
 そこに彼の急所があるのだと、わずかな希望にすがっている。

 騎士は地に足をつけ、膝まで海水に漬かりながら構えた。
 美髯に相手を宙に巻き上げる余力はない。海水を増やすつもりもない。いくら慣れがあるとはいえ海面が今以上に上昇すれば美髯も楽には動けぬ。

 頭を砕く。

 美髯は内心で繰り返す。
 分がいいのは俺の方だ。この化け物だって俺の間合いを越えられねえ。
 俺は一隻の船と一振りの青龍刀で七つの海を生き残ってきた。
 奴が不死身なら俺も不死身。最後に立っているのはこの俺だ。

 美髯は青龍刀を振りかぶろうと試みた。
 できぬ。
 騎士の片手が刃の峰を上から押さえつけていた。

 起こりを読んだのだ。
 この戦いの中で初めてのことだった。

「相手が疲れ果ててやっとか。まあ及第点はやろう」

 狐の呟く声が戦う両者に聞こえたか、それはわからない。

 ただ、騎士は空いた方の手を掲げた。
 音もなく、飛び来る物、一つ。

 鎧と同じく千変の光を帯びる物。
 彼という存在に暫し欠けていた一部。

 両手剣と呼ばれる物ではあるが、彼はその柄を片手で掴み取った。

 そして。
 騎士は両手で剣を高く掲げる。上段、断ち斬る構え。
 海賊もまた自由になった青龍刀を掲げる。横向きの、あからさまに受け止めるための構え。
 止めて押し返す自信があるか、あるいは剣を振らせぬ駆け引きか。

 だが、騎士は躊躇なく剣を振り下ろした。

 ずるり。

 海賊は不敵な笑みを浮かべたまま、どうと倒れた。
 縦に裂けた胸の傷から流れ出る血が海を濁らせる。
 青龍刀は音もなく両断されていた。

 残照も薄らいでいく空の下、遊色の騎士が立っている。


 もうすっかり日は暮れてランド中の照明が点いている。
 ライトの類はほとんど無事で済んだらしい。それでもやはり夜の暗さではあるけれど。

 暗がりの中で狐面の男はなにか納得したらしかった。

「剣も鎧と同じだな。傷つかず歪みもしないのだろう」

 わたしもその言葉で理解できた。
 スパイクは彼が幻覚を自称したのだと言った。
 あの剣の形、刃先は薄く、刀身は真っすぐであること。その精度がそもそも非現実的に理想的なのだ。
 その刃が一切荒れず、潰れもしないのならば。
 なにかを斬っているその最中でさえ、最上の鋭さを保ち続ける。
 鋼鉄程度は苦もなく断ち斬れるのだろう。

 ともかく、海賊と警備以外は全員無事。
 海賊と警備は全滅。
 危機は去った。
 そう思ったのだけれど。

 そこら中で倒れている海賊たちを眺めて気づく。

 いない。

 船上でキャプテン美髯と並んでいた男。
 チャイナ服の黒人。

 もしや、まだ船に戦力が?
 海を見やる。

「え?」

 思わずモックーらしからぬ声が出てしまう。
 不意に、眩しい光と、轟音。

 美髯の船から火柱が吹きあがった。

 火薬に引火? でもどうして。

 逆光の中でなにかが動いている。

 夜のように黒い。
 それは船から飛び立った。

 ざぶり、と音を立てて。
 倒れ込んだ美髯のすぐそばに、その男は着水した。

「ロバーツ、俺の、船が」

 怖気が走った。
 美髯の声。まだ喋れるの?

 ロバーツと呼ばれた男、チャイナ服の黒人は美髯を見下ろしたまま口を開いた。

「無様アルね、キャプテン。いや、船を失った者をそう呼ぶのも酷アルか」

 同情も蔑みもない、無感動な表情で男は言葉を続ける。

「二つ教えておくアル。一つ、懐に入った者を疑わないのは寛容ではなく迂闊アル。二つ、我の名前はロバーツではないアル」

 その男は美髯を踏みつけた。
 そして、今度こそ気を失った元船長に告げる。

「我は謎の中国人『R』。お前が嫌った魔幇七武海の一角アル」

 ――その名前は。

「謎の中国人『R』、あいつが」

「知っているのか、小姐」

 またモックーらしからぬ声を出してしまった。取り繕うのは難しいかもしれない。
 自分の鼓動と汗の冷たさがやけにはっきり感じられる。

「魔幇七武海の中でも特に変わった海賊です。自分の船を持たず敵対する海賊団に潜入して内側から破滅させるとか。あなたは……」

 魔幇か、その敵か。そうはっきり聞くべきだろうか。
 逡巡の間に。

 ぱりん、となにかの割れる軽い音と共に近場の照明が消える。

 暗闇。破片が水に落ちる音。

 Rが腕を振ったのは見えていた。袖から鏢を放ったのか。
 しかしその後は。
 闇に溶けたRが次に何を狙うのか。
 着ぐるみの視界では目で追うことすらできない。

 わずかな光の中で狐がこちらに手を伸ばした。
 いえ、気づいた時には既にその手が、私に迫ったRの腕を掴んでいた。

 さらに一瞬の後、両者の腕が霞む。速い。
 二人の男が距離を取って向かい合う。その膠着が訪れるまでの動きはまるで見えなかった。
 ついていけない。

 少し離れたところには、ほのかに光るクラム・ハードシェル。彼も今は剣を降ろして静観している。

「いい護衛を雇ったようアルな。張琅月」

「己はそこな小姐のお供でもないのだがな。ただ強敵を求めるだけよ」

 わかったことは二つ。
 Rはわたしの本名を知り、わたしを狙った。
 狐面の男はわたしにとって味方とは言い切れない。でも今はRの敵だ。

 逃げるべきではない。
 狐はわたしの本名にも反応は示していない。幸い顔も見られていない。
 彼が生き残っても「張琅月」と「恋辻メーメー」が結び付けられる可能性は低い。

 一方、Rはここで始末しなければならない。「張琅月」を標的としたのは魔幇全体の動きではないはずだ。
 そもそもわたしの行動の自由は魔幇に握られている。わたしを捕まえたいのか殺したいのかはわからないが魔幇そのものの意向ならいくらでもやりようがある。組織とは無関係なR個人の行動だろう。
 問題は情報をどこから得たか。どれだけの者がその情報を共有しているか。

「あなたが上海蟹ランドを取り仕切っているの? 今日ここで着ぐるみの仕事をすることになったのもあなたが仕組んだこと?」

「我はただの海賊アル。科学の進歩は素晴らしいアルな。時代錯誤のボロ船に乗っていても中国と通信ができるアル」

 目線を狐に向けたままRは嘲笑った。

「安心するアル。君が今日ここでモックーを演じたこと、張琅月が素性を隠しながら生き延びたこと、それぞれバラバラの筋から得た情報を組み合わせてわかったことアル。他の者には伝えていないアルよ。それが知りたかったことアルな?」

 べらべらと喋る。取るに足らない小娘だと思われている。

(メーメー、僕ならいつでも行ける)

(待ってスパイク。もう少し情報を引き出したい。それに狐面の人がスパイクをどう思うか……)

 狐面は強敵を求めるのだと言ってRと戦い始めた。そういうタイプなら横槍を入れれば反感を買うことになるだろう。
 あるいは面白がってスパイクと戦おうとするかも。スパイクなら勝てると信じているし、スパイクを見られたなら口封じをしなければいけない。だけど。
 曲がりなりにも彼はお客さんたちが逃げるのを助け、わたしを守ってくれもした。

 わたしから敵に回ることは道を外れている。そう思う。

 魔幇への復讐を望み、Rを殺すことは問題ないと考え、海賊たちの幾人かをスパイクが食べるのを良しとした。
 それでもだ。
 血塗られた魔道を歩むのだとしても、わたしがわたしを外道だと思ってしまったら。
 きっと復讐を果てしても、この胸がすくことはない。
 そんな予感がしている。

「わたしが、張琅月が生きていた。それはわたしにとっては大きな秘密だけど、あなたになんの関係があるって言うの?」

 怒りを込めてRを睨む。
 やはり彼はわたしを向かない。

「関係アルか。大いにあるアル。今は誰もが求めている清王朝のダイヤ、その道標となるのが君アル」

「そんなの、わたし知らない……」

「君自身が知らずとも生まれ持った因縁は決して消えないものアル。親の顔も知らぬ我が中国人でアルのと同じように」

 因縁。思い当たることは、それはただの都市伝説だ。

「疑問に思ったことはないアルか? 清王朝のダイヤは魔幇の至宝。盗んだ者が誰であっても適当な首と共に魔幇に差し出せばどんな褒美も思いのままアル」

 知っている。その布告があったからこそ皆がダイヤを求めている。魔幇が本当に褒美を渡す気があるかは疑問だけれど。

「あるいは、魔幇に敵対する者であれば、ダイヤを盗むことができたという事実が首領すら出し抜いた知恵と力の証明アル」

 それもわかる。犯人は魔幇に敵対していてなおかつ強大な力の持ち主だ。接触できれば手を結ぶ可能性もあり得た。盗むだけで終わらず魔幇から逃げきれる実力があるのかはわからないけれど。

「清王朝のダイヤを手にした者が名乗り出ないのは何故アルか。それが本物の清王朝のダイヤだと証明できないからではないアルか。一目見れば誰もがそれとわかるという、清王朝のダイヤは今、その本来の輝きを失っているのではないアルか。それを取り戻すための方法を張一族は知っているのではないアルか」

 それは、知ったことじゃない。

「そんなの、ただの妄想じゃない。張一族の秘伝なんてない」

「君が知らずとも、と言ったアルよ。君に流れる血そのものにダイヤが反応するかもしれないアル。君という生き残りに他の張一族がコンタクトを取りに現れる可能性もアル。君の知識が空っぽでも、君の体に価値はアル」

「嫌な言い方」

 嬢としての仕事にさえ気品と教養は求められる。
 やはり、Rはわたしに目を向けない。

「清王朝のダイヤか。己が耳にした話とは少し違っておるな。名乗り出る者がないのではなく、それらしい物のうちどれが真物かわからぬという話だと思うたが」

 狐面が口を挟んだ。Rも彼には険しい表情を向ける。

「本物と証明する手段がないという話アル。荒唐無稽な珍品をダイヤだと吹聴する者がぞろぞろいるのは把握しているアル」

「確かに証明はできぬがな。己もそれらしい物には心当たりがある。聞く気はないか」

 狐が嘯く。
 彼がダイヤに興味を持っていないのだとして、求める者にただで話す理由はあるか。
 時間稼ぎか、他の狙いがあるのか。
 Rは無言で続きを促した。
 狐の話に付き合うと決めたらしかった。

「よし、まず考えるべきは清王朝のダイヤが尋常のダイヤではないということだ。ではどれだけ違うのかという話よ。全く予想外の物をダイヤと呼びならわしているのではないか、とな。そして、ダイヤでない物がダイヤと例えられるのなら、そこには相応の理由もあろう。なにかしらダイヤに酷似した性質を持つに違いない。さて、ダイヤと言えばどんなことを連想する?」

 わたしに聞いているらしかった。
 ダイヤの性質。
 宝石の中でも最上とされるのは比類なき光沢とファイア――極めて高い屈折率が生み出す七色の光――を持つからだ。
 それからモース高度10、めったなことではひっかき傷がつかない固さもよく知られている。

「七色の光、傷つかない……」

 それは、その特徴を持つ者は。
 わたしたちは既に出会っている。
 でも、そんなことがあるのだろうか?

 狐は笑う。

「もうわかったろう。おぬしが狙うべきはそこの小さな蟹ではない。怪談に語られる財宝の守り人。そこで突っ立っている亡霊。クラム・ハードシェルという騎士よ」

 その言葉が終わると同時。
 クラム・ハードシェルが動きを見せた。
 非常に緩慢な動作だった。

 ほんの少し首をひねり、剣を地に突き立て、片手でバイザーに手をかけ、もう逆の手は首元を押さえるようにした。
 色彩が揺らぐ。ほんのわずか、彼が震えているようにも見えた。

 バイザーが上がる。
 鎧は空と聞いていたけれど、そこには何かが収まっていた。
 人の頭よりは少し小さい、丸めた布の塊。
 それが首周りのすぼまりに丁度良く嵌っているらしかった。
 美髯との戦いの中、彼が頭部を庇っていたのを思い出す。

 ガントレットの指先がそれを引きずり出す。
 彼は臙脂色の布をゆっくりと広げていく。
 厚い布に守られていた物は一粒のダイヤだった。
 クラムの光に照らされ幻想的な雰囲気を纏っている。その石自体は何の変哲もない物にも見えた。

 でも、もしかしたら。

 ごく普通のダイヤモンドとクラム・ハードシェル、両者がここに揃っていることになんらかの意味があるのでは。
 そう思わせるなにかがある。

 Rはその光に魅入られたように狐から視線を外した。

 狐は戦いの構えを解いた。面の奥の瞳がこちらを見ている。
 冷たい視線。美髯と戦うクラムを見ていた時と同じ目だ。

 怖気が走る。
 そこでやっと私は彼の真意に気が付いた。
 狐は既にRへの興味を失っている。
 クラム・ハードシェルが清王朝のダイヤと関りがあるというのも出まかせだろう。

 今、彼の目的はわたしを見定めることだ。

 お前も奥の手を見せろと彼の目は言っている。

 脚を左右に広げ、浅い水に体を沈める。
 形意拳・鱷形。今の恰好では蟹の姿勢に見えるだろうか。
 泳ぐように、滑るように、全身を捻り進む。
 水音にRが振り返る。

 ほんの一瞬、Rはわたしに気づけない。
 その目線の高さよりずっと低い位置にいる。そして赤も闇夜には視認しがたい色だ。

 その一瞬の後、わたしを見つけたRは怪訝な表情を浮かべる。
 顔を伏せた着ぐるみが不格好な姿勢で迫る。彼がそれにとってなんの脅威になるというのか。
 そう思ってくれればいい。
 鱗語交流完全同期。
 わたしの狭い視界に映るのは暗い水中だけであっても、スパイクの目はRとの距離、Rの動作を決して見逃さない。

 触れるほどの距離に迫る。Rは殺意を込めた蹴りを繰り出す。
 わたしが弱者であっても彼が手心を加える理由はない。
 でも、それは油断がないということではない。

 鱷形拳はまともな武術ではない。形意拳とはいうものの、十二形拳の龍形や鼉形とは別物だ。
 戦う力は必要だったけれど、力があることを誰にも知られるわけにはいかなかった。
 師事する相手はなく、たしなみ程度の護身術しか知らないわたしが、スパイクと共にワニの動きからなんとかひねり出したもの。
 拳法を修めた魔人を倒せるような技ではない。

 単純な蹴りには単純な対処。
 迫る布靴を飛び越える。Rの上半身へ、頭を押さえるように組みつく。
 下から迫り、上へと仕掛ける。
 それだけはどんな相手にも通じるように功夫を重ねた。
 だから、水を吸った着ぐるみを纏っていてもそれができる。

 それでさえ、武術を修めた魔人には通用しない。一瞬の後には振りほどかれてしまうのだろう。
 けれど。
 鱷形拳はまともな武術ではない。
 その一瞬を得るための技なのだ。
 相手がどんな達人だとしても、一瞬の時間だけは稼いでみせる。

(スパイク!)

 上海には一つの怪談がある。
 誰にも目撃されたことのない、巨大な透明ワニの噂。
 本当はそうではない。
 透明なわけではなく。
 ただ大きいだけでもない。

 心で叫ぶよりも早く。
 わたしがそれを思うのと同時に。
 わたしの無敵の矛がRの片腕を食いちぎっていた。

 Rはわたしよりずっと格上の相手だ。
 船からここまで一跳びにした跳躍力。
 溜まった水をものともしないフットワーク。
 それでも、彼の一番の強みは狐と戦った際に見せたあの拳打。

 いや、わたしには腕の動きを見ることすらできなかった。
 わたしに向けた蹴りとは次元が違う。

 だからこそスパイクは腕を狙った。
 飛び退くわたしと入れ替わるように、血を迸らせて絶叫するRを再びスパイクが襲う。
 今やフック船長よりも無力となった魔幇七武海の一角は、スパイクと共に水底へと消えた。

 クラムはまたダイヤを布でくるみ、大事そうに胸元へ抱えていた。
 開きっぱなしのバイザーの中は空っぽだ。
 彼はなぜダイヤを隠し持っていたのか。
 Rの注意を引くためにそれを晒してくれたのはどうしてか。
 わたしが聞いてもいいのだろうか。

 狐を振り向けば、腕を組んでこちらを見ている。
 彼のお眼鏡には叶っただろうか。
 この人物についてもわからないことばかりだ。
 スパイクの姿を見られてしまったけれど。

 そして狐はおもむろに構えた。


 かたん、と軽い音が鳴る。
 クラム・ハードシェルがバイザーを降ろした音だ。

「あの者の相手はソレガシが務めるべきであろう」

 蟹の着ぐるみと狐面の男にそう呼びかけた。

「……まあ良い。今日はおぬしとまみえただけでも収穫ではあった」

 狐は仕方なさそうに構えを解く。
 蟹はわずかに狼狽え、二人の視線を追う。
 海の方へ。

 海賊船の残骸の前に、赤い火の逆光の中に、一人の男が立っている。
 胸に酷い傷を負った、もはや船長とは言えぬ男だ。
 不死身であるかのように死に損なった男だ。

 水に漬かっていた船底板らしい、焦げ跡のない細長い板切れを一つ持っている。
 男は一歩、騎士に向けて踏み出した。
 もう一歩、ゆっくりと歩み続ける。

 騎士は剣を手に取った。
 彼もまた進む。
 言葉はない。

 かつて七つの海を荒らし回った一人の海賊がいた。
 その魔人能力は超海制覇という。
 船体がどんな岩盤も削り取り、そこに新たな海を作り出す、そういう力だ。
 岩盤というのは文字通りの岩に限ったことではなく、そこに張り付いた藻や貝の類も消し飛ばしていた。

 船から剥がした舟板も船体の一部だと言えるだろうか。
 その力であれば、魔人能力により形作られた不壊の騎士であっても、ただの貝のように打ち砕けるだろうか。

 できる。

 他の誰が信じなくとも、その男だけはそう認識していた。

 板も剣もまだわずかに届かぬ距離で双方が足を止めた。

 手にした板を低く構える。
 左足を前に出す。左手で板の中ほどを持ち、右手はやや後ろを掴む。
 先を下げ、目は決して相手から逸らさない。

「どうした、掛かって来い……」

 荒れた呼吸の合間に呼びかける。

 強がりであっただろうか。
 男の顔に笑みが浮かぶ。

 そして、ほんのわずか。
 その膝からがくりと力が抜けた。

 騎士が動く。

 男は、やはり笑う。

 馬鹿が。それは誘いだ。

 渾身の力で、振り絞った全霊で、一切れの海賊船が天を衝いた。
 ただ星の浮かぶ天だけを。

 騎士は間合いの外だ。

 見てからは避けられんはずだ。奴も、誘いか。

 そして、騎士が駆ける。美髯にはその動きがやけに遅く見えた。
 水飛沫さえ止まって見える。

 騎士が板に触れることはなく、剣を構えることもない。
 なんの工夫もない前蹴りが美髯の腹に深く刺さった。

「武器を振る後の隙を捉える。自分がするのは難しいものだ」

 ラジオの砂嵐のような雑音交じりの声は、ほんの少し波の音にも似ていた。


 それから。

「後隙を狙うのはよいが、蹴りは下手よな」

 欠点をあげつらうようでいて口元は満足げだったと思う。

「昼の続きは日を改めるとしよう」

 狐の彼はクラムにそう言い残して去っていった。
 結局、わたしは彼の名前も知らないままだ。

 彼は張琅月の名前を聞いてスパイクの姿を見た。
 わたしたちの障害になることがあるのだろうか。
 ……だとしても、既にわたしから彼を敵に回すことはしないと選択したのだ。
 自体がより悪い方へ変化するとしても、その時になって受けて立つしかない。

 警戒すべきことは他にもある。
 謎の中国人『R』はいくつかの情報を組み合わせて恋辻メーメーと張琅月を結びつけたのだという。
 同じことが他の誰にもできないとは考えられない。
 わたしの素性、思惑、秘密。それらに辿り着いた者が今後も現れるかもしれない。
 清王朝のダイヤに関して、張一族の秘伝という都市伝説が付随するなら今それを調べている者はきっと少なくないのだろう。
 それもまた迎え撃つしかないのだ。

 ただ強いだけの敵であればきっと大丈夫。
 わたしとスパイクなら戦うことも勝つこともできる。そう信じている。

 では。
 敵ではない者が現れたとしたら。

「クラム・ハードシェルさん、でいいのですよね。少しお話してもよろしいでしょうか」

 モックーの頭を取り外して鎧の騎士と向き合う。
 スパイクも私の隣で水面から顔を出す。

「スパイク殿とその友か」

「ええ、恋辻メーメーと名乗っています。ご助力ありがとうございました。おかげでお客さんたちには被害なく済みました」

「ソレガシだけの力ではない」

 クラムは首を振り、戦いの痕に目をやった。
 警備員や海賊たちの死体がまだそこら中に残っている。
 逃げる客の中にはスマホで撮影していた者もいた。警備員などは一人一人の身元もはっきりしているはずだ。
 死体が消えるのは不自然だ。
 下水には持ち帰らない方がいいだろうとスパイクとは話し合った。

 謎の中国人『R』の話しぶりからすれば、キャプテン美髯が上海蟹ランドを襲うように誘導したのは彼だったのだろう。
 ダイヤの手掛かりを手に入れた後は魔幇から離反するつもりだったのかもしれない。
 それももう確かなことはわからないけれど。

「クラムさんはどうして助けてくれたのですか?」

「スパイク殿には貴婦人の話をしていた。ソレガシが騎士らしからぬ振る舞いをすればソレガシが語った貴婦人の名誉も紛い物となろう」

「貴婦人、ですか」

「然り。ソレガシが剣を振るう理由は他になし。そして貴婦人自身が清王朝のダイヤを求めることもない」

 清王朝のダイヤ。彼にも張一族の秘伝の話は聞こえていたのだろう。それを口に出したのは追及するつもりはないということ。
 彼も貴婦人についてはあまり聞かれたくないのかもしれない。

「……あなたはスパイクの言葉がわかるのですね」

「ソレガシは幻覚なのだ。ソレガシという幻覚を見せるのがソレガシの力。そういうこともあるのだろう」

「幻覚ですか。今こうして話しているのも、あの海賊を斬ったのも」

「左様」

 スパイクが見た幻覚、スパイクの脳が作り出した虚像だというなら、確かにスパイクと意思の疎通ができるのはおかしなことでもないか。
 幻覚を見せる力、魔人能力だというのなら普通の幻覚と同じように考えるべきではないのだろうけど。
 皆が同じ幻覚を見て、触れることさえできるのなら、それは現実に存在するのと変わらない。

「あのダイヤも幻覚だったのですか」

 クラムが掲げて見せたあのダイヤ。怪談では騎士と財宝は一揃いのように語られていたけれど。
 目の前のクラムは再び首を振った。

「故あって持ち歩いているが、ソレガシとは別に在る物だ。……ソレガシはそろそろ行くとしよう」

 クラムは鞘のない剣を手にしてこちらに背を向けた。

 ダイヤのこと、貴婦人のこと、深く聞くべきではないのだろう。
 わたしがわたしたちの過去を彼に語らないように。
 きっと誰にでも秘密がある。

 それでも。最後に一つだけ。

「あなたは勇敢な騎士でした」

 どんどん小さくなる背中にその言葉が届いたのかはわからない。

 彼自身は傷つかないのだとしても、彼の持つダイヤはそうではなかったはずだ。
 あのダイヤを晒した時、彼の手が震えていたのは気のせいではなかったと思う。

 彼がそうしたのは貴婦人の名誉を守るためだと言った。
 Rからわたしを庇うことが騎士道に適うと彼は判断したのだ。
 それはきっと、わたしたちが身勝手な復讐者だと知らなかったから。
 あるいは、スパイクが守るわたしに貴婦人を重ねたのかも。

 どんな理由であっても、ほんのわずかな一時、スパイクと言葉の通じる彼と共闘したことには不思議な感慨があった。

(メーメー、復讐が終わったら海に行こうよ)

 スパイクからそんな思いが伝わってくる。

(海? ここからでも見えるけど)

 湾に来たのは初めてじゃない。

(うん。でも海の向こうには行ったことがないよ。下水は川に流れて、川は海に繋がるのにね。今日会った人たちはみんな海の向こうから来たんだよね?)

(ええ、クラム・ハードシェルの怪談はそういう話になっていたはず。海賊もそうね。……狐の人はわからないけれど)

(メーメーはどう? 海の向こうに行きたくない?)

 復讐の後のことなんて考えられない。
 そう思っていたけれど。

(そうだね。スパイクも一緒ならそれもいいかもしれない)

 お父様のように自由に海外を見て回ることはできないだろう。
 きっとその時のわたしたちには財産もなく、魔幇の残党からなんとか逃げるのが関の山だ。
 混乱の中、外国へ向かう船があれば、お客さんの伝手を使って潜り込めるだろうか。
 それともいっそ海賊になってしまう?

 なんとか実現できそうなことから荒唐無稽なことまで考えてしまう自分がおかしかった。

(うん。メーメー、楽しいことをいっぱい考えようよ)

(ええ、ありがとう、スパイク)

 人々がどこか遠くへ行こうと考えるのは何故だろうか。
 理由はそれぞれあるのだろうけど、きっと帰る場所がないからではないはずだ。

 いつか、その時が来たら、上海はわたしたちにとって帰る場所になっているのだろうか。
 そうなっていたら、きっとどこへでも行ける。

 さっきから「きっと」ばかりだな。

 そう思うとなんだか笑ってしまう。

(ふふ)

(ふふふ)

 スパイクも引きずられるように笑う。
 それに釣られてまた笑う。

 星と月の光の下で、一人と一匹が声もなく笑い合っていることをわたしたちだけが知っている。
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