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『民以食為天』(下)

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6.『閃耀的鑽石鏡(ひかりをはじくもの)』――郭 亀岩(カク・グイェン)



 『魔幇』特殊執行部隊「黑闇劍(ヘイアンジェン)」。

 犯罪組織『魔幇』において、さらに暗部を担うとされる特殊部門。
 清王朝のダイヤ『麒麟の涙』による、魔人能力の覚醒実験と、異能の保全、そして、『麒麟の涙』の保管・移送等を任されていたという。

 郭 亀石と張三とが踏み込んだのは、「黑闇劍」が管理していた場所。
 魔人化学研究施設第3号ラボ跡地。

 郭 亀石が守るべき少女、桃猫(タオマオ)……否、かつて別離した幼馴染、玲紗(リンシャ)が死亡し、そして、第二の生を受けたと思われる場所。

 煤にまみれた、迷宮のような建物を二人は進む。

「ここでは『麒麟の涙』に曝露することで、非魔人を強制的に魔人能力に覚醒させる実験を行っていたらしい。
 被験体が能力に耐えられれば、そのまま組織の一員として採用し、耐えきれず心身に異常をきたした場合、死亡する前に【黒物子(ウーズ)】と呼ばれる、魔人を取り込んで能力を抽出、保全する人工生命体に取り込む。
 そうやって、組織の戦略拡充に努めてたって寸法だ」

 先導する張三が、通路の両脇に据え付けられた培養槽と思われるケースの残骸を見て顔をしかめた。

「……張の旦那。そのダイヤ……『麒麟の涙』の力で、たとえば【黒物子(ウーズ)】に取り込まれた人間を、蘇らせることはできたりするのか?」

 郭 亀石の質問に、張三は首を横に振った。

「『麒麟の涙』は莫大なエネルギーをもったシロモノだが、本質的には、シンボルでありパワーソースであるだけで、「万能の願望器」じゃあない。人の希望に指向性を持つ高効率のエネルギーを宿した、美しい炭素の結晶ってだけだ。
 俺は【黒物子(ウーズ)】ってのに詳しくはないが、清王朝のロストテクノロジー……動画で話題になってる双喜とかいうあのお嬢ちゃんを作ってるような超技術の産物で、どうやって人間を取り込み、どうやって魔人能力を保持しているのかはブラックボックスだ。
 その技術体系の専門家が時間を費やせば可能性はあるかもしれないが、ダイヤを手に入れれば万事解決という話にはならないな」

 無常な結論に、郭 亀石は拳を強く握りこんだ。
 だが、タオマオは、リンシャは、その可能性に賭けてこの場所に来たのだろう。
 ダイヤの力を使って、【黒物子(ウーズ)】から人の身へと戻るために。

『シォンシュ、「黑闇劍(ヘイアンジェン)」の裏切り者の中に貴方がいたということは、【清王朝のダイヤ】はあの人(・・・)が盗んだのね」
『私はどうしてもそれが欲しい。必ず見つけ出して、会いに行くわ』

 あの日、彼女はそう口にして、姿を消した。
 その彼女の目撃証言があったということは、ここに、ダイヤを奪った下手人がいるということだ。

 リンシャは、下手人とやらからダイヤを奪うことができるだろうか?

 おそらく、難しいだろう。
 彼女は戦闘のエキスパートではない。
 以前の戦いでは不意打ちで敵を制圧できたが、最初から警戒している幹部級の相手を真正面から打ち破るほどの力はないはずだ。

 ならば、まずは彼女の身柄を確保し、安全な場所に連れていくことが第一だ。
 彼女が望む「人間に戻る」ための手段は、その後で時間をかけて探せばいい。
 いや、そもそも、今の彼女のままでもいいと、郭 亀石は思っていた。

「旦那。あんたは、ダイヤを奪った下手人に、目星がついているのか?」
「まあな」

 張三は小さく頷くと、煤まみれの両開きの扉に手をかけた。
 視線で、この先に警戒すべき「なにか」がいることがわかる。

 それでも張三が言葉を止めないのは、不意打ちなど意味がない相手であることを理解しているからだろうか。

「『魔幇』特殊執行部隊「黑闇劍(ヘイアンジェン)」。
 黒は、鴉の色。その統率役にして、『魔幇』最古参幹部。
 この研究所で、『蘇生』と『面影の再現』という二つの魔人能力を求めていた男。

 『魔幇』運動の発起人、張无忌(チャン・ウージー)の盟友」

 かくて、開かれた扉の先から、光が漏れ、一瞬だけ視界を白く染める。

「――七鴉翁(チーヤーウェン)
 『魔幇』の头目(ボス)からダイヤを奪った張本人にして、張无忌(アニキ)を殺した、俺の仇だよ」

 無機質な照明に照らされた大広間の奥。
 そこには、好々爺然とした老人と、その脇には、二人のタオマオ……リンシャが拘束され、気絶していた。少なくとも、郭 亀石にはそう見えた。

 片方は魔人能力で複製された偽物か。
 容易く取り戻させないための小細工だろうと、郭亀石は判断した。

「リンシャ!」
「しばらく暴れていたものでね。少し眠ってもらいました」

 くつくつと老人は喉を震わせるようにして笑った。
 まるで古い樹のようだと郭 亀石は思った。
 動物としての生を感じない、「違うもの」としての存在感。

「表層人格に発現した魔人能力以外の能力も発現させて、面白い戦いをし始めたのですがね。『麒麟の涙』では、【黒物子(ウーズ)】を人間にすることなどできないと伝えたら、脆いものでしたよ。
 ……残念。『閃耀的鑽石鏡(ブリリアントミラー)』を行使したあなたになら、殺されてもいいとまで思っていたのですがね」

 ぎりい、と、音が鳴るほどに、郭 亀石は奥歯をかみしめた。
 いつでも銃を抜き、能力を行使する用意はできている。

 一触即発。
 このまま、郭 亀石はリンシャを救い出すために、張三は兄の仇討ちのために全力をぶつけあう決戦が始まる。

 少なくとも、郭 亀石はそのつもりだった。

 しかし、その張り詰めた空気を、張三のどこかとぼけたような声が緩めた。

「七鴉。あんたにとって、その娘さんは用済みだろう。
 返してもらうことはできないか? もし要求を飲んでもらえるなら、こちらは、こっちの若いの……郭 亀石を退かせよう」

 ……何を言っているのか。

 確かに、仮に囚われている【黒物子(ウーズ)】……リンシャを無事に救い出せるならば、郭 亀石には戦う理由がなくなる。彼女を連れてこの場を立ち去ることに何の異存もない。

 だが、多くの人体実験で無辜の民から魔人能力を絞り出し、『魔幇』の組織を裏切ってダイヤを奪って都市に大混乱を引き起こすような相手が、そんな平穏な提案に頷くだろうか?

「あんたも知ってるだろうが、この若造はかなりできるぞ。惚れた相手のために死に物狂いな人間がどれだけ始末に負えないか、あんたが一番わかっているはずだ。悪い話じゃないんじゃないか?」
「なぜ、この【黒物子(ウーズ)】が用済みだと?」

 七鴉翁の呼びかけに、張三はさも当然のことにように、

「だって、おまえさん。兄貴と会いたかっただけ(・・・・・・・・・・・)だろうに」

 そんなことを、口にした。

 郭 亀石は、張三が何を言っているのか、わからなかった。
 張三は先ほど言ったはずだ。

 七鴉翁は、張三の兄、張无忌(チャン・ウージー)を殺した張本人だと。

 なぜ、自分が殺した相手ともう一度会うために、これほどの犠牲を出して研究を行う理由があるというのか。

 だが、七鴉翁は、張三の言葉を妄言だと笑うことはなかった。
 追憶にふけるように大きく息を吐きだすと、懺悔するかのように言葉を紡いだ。

「若き人よ。
 あなたには、この【黒物子(ウーズ)】が、どんな姿に見えていますか?
 絶世の美女か。あるいは、初恋の人の面影か。はたまたそれらがまじりあったような理想の容姿か。

 この【黒物子(ウーズ)】が『保全』している魔人能力は、『閃耀的鑽石鏡(ブリリアントミラー)』。
 観測している対象が最も欲しているモノであるかのように認識されてしまうという異能です。

 私にはね。この能力を発動している【黒物子(ウーズ)】が、張无忌(チャン・ウージー)に見えるのですよ」

 語りだす七鴉翁に、郭 亀石は混乱した。
 この男は何を考えている? 不意を打ってリンシャを取り戻すべきか? 張三に視線で問いかけるが、張三は「言わせてやれ」とばかりに、小さく頷くだけだった。

 確かに、相手に対話の余地があるならば、安全にリンシャを奪還できる可能性が高まる。
 また、現在の『魔幇』と上海、ダイヤを巡る騒動の元凶である男の語る言葉に、若干の興味があることもまた事実だった。

「今、張三豊(チャン・サンファン)が言ったとおり、私は、張无忌を蘇生させたかった。そうでなければ、その面影だけでも再び垣間見たかった。

 この魔人化学研究施設第3号ラボを作ったのは、表向き『魔幇』の戦力拡充とダイヤの研究のためでしたが、本質は、「蘇生」か「面影の再現」か、いずれかの異能を『魔幇』の一員の能力と定義し、私の『七つの仔』の模倣対象として確定させることだったのです。

 ……蘇生能力の方は、付随する自我が強すぎて、私の能力の七分の一を奪って独立してしまいましたが、もう一つの方は、こうして『閃耀的鑽石鏡(ブリリアントミラー)』として確保することができた。

 今、私の脇には、『閃耀的鑽石鏡(ブリリアントミラー)』の【黒物子(ウーズ)】が二つあるように見えるでしょう。片方は、私の『七つの仔』でコピーしたレプリカです。

 その意味で、確かに、私にとって、この【黒物子(ウーズ)】は用済みです。
 わざわざコストを払って確保し続ける意味もない」

 郭 亀石の全身に鳥肌が立つ。
 七鴉翁の言わんとすることの詳細はわからない。

 だが、わかることが一つ。
 この男は、リンシャに価値を置いていない。

 ならば、交渉のしようによって、争わずして彼女を取り返せる可能性もある。

「……じゃあ」
「だが、若い人。私はあなたに嫉妬している。
 まだ、選択をしていない、まだ間に合うかもしれないあなたに。

 致命的な分岐点を越えていないあなたに。
 だから、一つ、意地の悪い試練を課しましょう」

 七鴉翁が手をあげると、二人のリンシャを拘束していた十字架がせり出し、郭 亀石へと近づいた。

「先ほども言ったとおり、二つのうち一つは、【黒物子(ウーズ)】。
 そして、もう一つは、私の魔人能力『七つの仔』の一羽。『閃耀的鑽石鏡(ブリリアントミラー)』をコピーした、能力による具現化獣です。
 あなたは、その片方、偽物だと思う方を、殺す気で殴りなさい(・・・・・・・・・)
「…… っ!?」

 老人は、薄く笑っていた。
 それは、酷薄なサディズムを感じさせるものではなく、どこまでも穏やかな微笑みで、だからこそ、郭 亀石はその表情を恐ろしいと思った。

「その後は、残った方を連れ帰ればいい。それを私は追いません。
 追手を差し向けないことを約束してもいいでしょう。
 張三豊、それで構いませんか?」
「郭 亀石。おまえさんがそれでいいならば」

 思考する。

 仮にこのまま、張三と連携して七鴉翁と戦ったとして、すぐに七鴉翁がリンシャを殺す可能性は十分ある。郭 亀石の『玄武印』でそれを守り切ることはできるのか。

 一方で、この狂気の賭けに乗ったとして、この『魔幇』幹部は、本当に約束を守るのか。

 この状況。
 自分の能力。

 その中で、許容できるリスク。
 期待できるリターン。

 郭 亀石は特別頭が回る男ではない。
 だが、今思考せずに、いつ思考するのか。

 一瞬とも、無限とも感じる思考の果てに、郭 亀石は頷いた。

「わかった。やろう」

 そして、郭 亀石は二人のリンシャの姿を改める。
 容姿は寸分違わない。
 身にまとうその香り、小さな吐息の音すら同じだった。

「なあ、七鴉翁さんよ」
「なんですか? 若き人よ」
「あんたは、張无忌を愛していたのか?」
「ええ」
「なのに殺したのか?」
「ええ」
「どうして?」
「私は、彼の英雄としての資質に憧れた。その信念を崇拝した。
 けれど、彼のそれは、その実、一人の女を幸せにするための方便だった。
 私はその事実に失望し、その女に嫉妬しました。
 私は彼の友にはなれても、彼の子を孕むことはできない。
 そう理解したとき、私は、彼ではなく、彼と私の生み出した『魔幇(こども)』を愛することを決めたのです。
 『魔幇』が長くあるために、カリスマとしての彼はむしろ邪魔だった。
 彼が『魔幇』の長となれば、彼の死とともに組織は瓦解する可能性があった。
 むしろ、彼の死によってカリスマを固定し、それを引き継いだものをトップに据えることが最適解だった。だから、私は彼を殺したのです」
「後悔しているのか」
「ええ」

 二人のリンシャを検分しながら、郭 亀石は七鴉翁という男の辿ってきた時間を想像した。
 愛するものに手を伸ばせなかった、諦めてしまった悔悟。

 それは、きっと、郭 亀石が辿りえる可能性の一つだ。

「……決めた。俺は、こっちを殴る」

 郭 亀石はそう言って、片方のリンシャの額を指で小さく小突いた。

「それでは。本気で殴りなさい。
 手加減や寸止めの兆候が見られたら、その瞬間、【黒物子(ウーズ)】を破壊します」

 心臓が跳ねる。
 これから、郭 亀石は、守るべき少女の姿をしたものを、殺意をもって殴る。
 彼女を守るために。

 理不尽な試みに、彼女の命を賭ける。
 この罪は、一生をかけて償おう。

 拳を握り、前を見る。
 大地を踏みしめ、意識の全てを対象に集中する。

「――リンシャ。俺と生きてくれ」

 我流であれ八極拳の術理は一撃必殺。
 繰り出されたら最後、致命の一打は必定。

 それが意識を失った無防備な相手であるならば、その結末は不可避。

 だが、郭 亀石の拳が触れるその瞬間、リンシャの姿をしたソレは、瞳を開くと、拘束を引き千切り、身を捻った。

 郭 亀石の拳が拘束の十字架を穿つ。

「……賭けは、俺の勝ちだ」
「お見事」

 攻撃を避けたリンシャの姿をしたモノの背に、鴉の翼が生える。
 これが、七鴉翁が魔人能力で生み出した具象化獣なのだろう。

 郭 亀石は、もう一人の……自分がこれまで上海での戦いをともにしてきたタママオと名乗った【黒物子(ウーズ)】、リンシャを、壊れ物を扱うようにうやうやしく抱き上げた。

 本物のリンシャには、何も罠は仕掛けられていなかった。
 触れた瞬間の爆殺、あるいは毒針による遅効性の攻撃なども警戒して『玄武印』の用意はしていたのだが。

「……七鴉翁さん。張三の旦那。
 本当に、俺たちは帰っても構わないのか?」
「もちろんですよ、若き人。あなたは賭けに勝ったのです。
 愛する人を手放さないようになさい。愚かな老いぼれの轍を踏むことがないように」
「ああ、ここからは大人の時間だ。若いのは家でよろしくやってな」

 郭 亀石は、小さく頭を下げると、二人の『魔幇』創設者を背に、研究室から立ち去った。

 彼が二人のリンシャの真贋を見極められたのは、偶然ではない。
 七鴉翁に過去を語らせながら二人のリンシャの間を往復して検分をしたとき、彼が片方のリンシャに触れるのを見て、かの老人の表情が和らいだのを看破したからだ。

 もちろん、罠である可能性はあった。
 だから、殴る前に、郭 亀石は保険として、偽物だと推測したリンシャに魔人能力『玄武印』で、自分の拳撃に耐えられるように防御を施していた。

 仮にリンシャが本物であったとしても、一度であれば攻撃は無効化される。

 リンシャが偽物であり、かつ郭 亀石の殴打を真正面から受け止めた場合には、イカサマがばれて面倒なことになる可能性があった。
 しかし、七鴉翁はニセモノに回避をさせるという確信が郭 亀石にはあった。

 なぜなら、『閃耀的鑽石鏡(ブリリアントミラー)』を行使している以上、七鴉翁からは、ニセモノの方も、張无忌に……彼が愛した相手に見えているはずだからだ。
 愛する人の姿をしたものが無防備に殴られるのを、その面影を求めてこれだけの研究を重ねてきたような男が、耐えられるはずもない。

 七鴉翁の愛の強さに期待する賭けではあったが、郭 亀石は正しくそれに勝利したのだ。

「……あれ……? グィエン?」

 腕の中で、リンシャが身じろぎをした。
 だが、まだ意識は曖昧なようだ。

「そっか。夢か。だよね。そんなはずないもんね」
「違えよ」
「……いいの。わかってるから。
 けどさ。夢だったら、いいよね。甘えても」

 それは、少し舌足らずで飾りげのない、いつか、パオズを分け合った少女の口調。
 愛らしいタオマオとしての飾りの奥の、剥き出しになった彼女の言葉。

「グィエン。私の希望。ちゃんとした体になって、戻ってくるからね」
「ばか。いいんだよ。そんなの」
「えへへ、グィエンやさしい。ああ、覚めてほしくないなあ、この夢」
「覚めねえよ。覚ましてなんてやるもんか」
「うへえ、しあわせ。明日もがんばれそうだなあ」




7.『紅虎(ほのお)』――劉炎嵐(リュウ・ホェンラン)


 上海大賽、本日最大のイベント。
 『魔幇』の头目(ボス)、五爪の翁と、上海最強の解決屋、『紅虎』劉炎嵐との戦い。

 それは、一方的な展開で進んでいた。

 自己の血液を加熱することによって、爆発的な身体能力を得て、仮に傷ついて出血をすれば、流れた血そのものが炎となって相手を焼き尽くす。

 真正面からの戦いではおよそ攻略法が存在しないとされる、劉 炎嵐の魔人能力『THE・炎怒 』。

 闘技場全体を陽炎のように揺らめかせる熱量を前に、だが、五爪の翁は顔色一つ変えずにいる。

温い(・・)

 その言葉よって、大気そのものが従うかのように、五爪の翁の周囲だけは高熱による大気の屈折が起きていない。

 劉炎嵐の拳打を、蹴打を、五爪の翁は悠々と手にした杖で捌く。
 手を、足を受け止めた瞬間に杖からは刃が飛び出し、劉炎嵐の皮膚を裂いた。

 傷口から滴る真紅の血は見る間に炎と化して吹き上がる。
 しかし、

消えよ(・・・)

 その言葉によって、炎は途端に霧散した。

 言葉一つで、相手の能力を封殺する。

 魔人能力『龍飛九天・雲従其志』。

 自らの力を背景に、言葉によって周囲を従える異能である。
 それは、人に使えば人の精神を支配し、現象に使えばその事象に干渉する。

 単純で、圧倒的な支配の力。

 五爪の翁は、齢九十を超える老人だ。
 おそらくは魔人能力で肉体を補強している張三のように、年齢に不似合いな若々しい肉体ではない。
 だが、五爪の翁の肉体は、劉炎嵐を越える、堂々たる巨躯だった。

 腰はわずかに曲がっているが、それでも、その太さたるや、山中の巨岩を思わせる剛健でさである。
 魔人能力とは無関係に、ただ、自然なあり方として強く、老いてなお最強。
 それが、輪郭から伝わる肉体。

 劉 炎嵐は、張三から、五爪の翁の能力のことを聞いていた。
 油断はしていなかった。
 対策も考えていた。

 だが、それでもなお、圧倒的。

 怒りがこみ上げる。
 自らの中身の密度が高まり、弾けそうになる感覚。

 なぜ、これだけの力がありながら、こんな歪な支配しかできないのか。
 この力の使い方次第では、世界はずっとよいものになるのに。
 燃やすことしかできない自分より、もっと、応用のできる力で。

 どうして、人の心を。営みを。笑顔を。押さえつけることしかできないのか。

「殺し合いの最中に物思いとは、余裕だな」

 五爪の翁の杖が、顔面を殴打する。
 口に広がる血を吐く。
 それは龍の吐息めいて、帯状の炎となった。

 杖の素材によるものか、魔人能力の影響か、触れたものを灰にする劉炎嵐の赤銅色の皮膚を、五爪の翁の攻撃は容易く引き裂いてくる。

 逆に、劉炎嵐の攻撃は、たやすくいなされ、受け流されてしまう。
 身体能力は劉炎嵐の方が上のはず。だが、功夫の練度によってそれを覆される。

 劉炎嵐は、自問する。
 今の自分は、どこまで怒っている?

 それは即ち、自分の魔人能力『THE・炎怒』の火力が、どこまで発揮できているのか、ということだ。

 普段ならば、彼が戦いの最中にそんなことを考えることはない。
 だが、これだけの憤怒の中にあって、強化された身体能力をもってしても、劉炎嵐の拳は、五爪の翁に届いていない。

「ここまでか、小僧」

 これまでの戦い方では足りない。
 熱血によって自らを加速させるだけでは届かない。

 だが。

 本当に(・・・)劉炎嵐は(・・・・)これ以上(・・・・)怒ることができないのか(・・・・・・・・・・・)

 それは、戦いの前に、張三に投げかけられた質問だった。
 張三は若い頃、能力を暴走させ、自らの命を食いつぶす、半ば自滅のような形で魔人能力を行使したことがあるのだという。

 張三は言った。
 劉炎嵐の魔人能力『THE 炎怒』は、エンジンの中の爆発。
 あるいは、溶鉱炉の中の加熱であると。

 だが、あまりにも激しい怒りとは本来、「抱えた本人そのものを焼き尽くす」感情だ。

 ならば。

 『THE 炎怒』の生み出しうる熱量の上限は、劉炎嵐が耐えられるだけの火力で留まるはずがない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

「……ああ、そうだよな」

 ――(ズン)(ズン)(ズン)と。

 それは、体の端寸から焼け焦げていくイメージ。

 ――(ギリ)(ギリ)(ギリ)と。

 体が耐えられる限界を超えて、熱量が溢れだすイメージ。

 ――(ミチ)(ミチ)(ミチ)と。

 爆炎が、この肉体の輪郭を満たし、世界へ広がるイメージ。

 自らを焼く怒り(ほのお)

 常に劉炎嵐を焦がす憤怒の一因。

 それは、自らへの怒りだった。
 力が足りない。
 そんなシンプルなフラストレーションだった。

 昔は、自分すら守れなかった。
 そのことが腹立たしかった。

 やがて、自分を守れるようになった。
 けれど、隣にいる人間を守れなかった。
 そんな自分が口惜しかった。

 そして、手の届く人間を守れるようになった。 
 けれど、それを取り巻く世界には、悲劇があまりにも満ち溢れていた。
 だから、劉炎嵐の怒りは絶えることがなかった。

 そして今、そんな怒りを抱きながら、自分は一方的に蹂躙されている。

 腹立たしい。

 十数年前から、自分は何も変わっていない。
 あの裏路地で、大人とやりあって傷だらけだった時から。

 劉炎嵐は、何も、正しく貫き切れていない。
 少なくとも、彼はそう認識している。

 もちろん、その時の最善は尽くしている。
 後悔のない選択を心がけてはいる。

 けれど、常に思考の中には、取りこぼしたものがある。
 もっと、ましな方法はなかったか。
 もっと、多くのものを救うことはできなかったのか。

 たとえば、それは、

『昨日の、野良猫』

『口に出したことは、ちゃんと守った方が格好いいよ』

『じゃあ、その代わりに、炎嵐くんにも“魔法”見せてあげようかな』

 守れなかった、擦り切れた約束の相手とか。

 それは、外界を焼く怒りではない。
 自らの生を憤り、焼く憤怒。

 かくて、『THE・炎怒』は、「血液の温度が上昇すればするほど、身体が高温に耐えられるように変化する。」という安全装置を越え、限界を踏み越えた。

 腕から、脚から、口の端から流れる血が、赤い炎から、青い焔へと変容する。

消えよ(・・・)

 五爪の翁の言葉が、青の焔を揺るがした。

 しかし、それも刹那のこと。
 赤銅の皮膚を灼く青の焔は、すぐさま燃え盛る。

「なあ、五爪の翁」

 杖が振り下ろされ、劉炎嵐の頭部を殴打する。
 しかし、触れる直前で、杖は青焔に炙られて捻じ曲がり、折れ果てた。

 だが、打撃が命中していないにも関わらず、劉炎嵐は血を吐いた。

 攻撃など命中せずとも、刻一刻と、青焔は、劉炎嵐自身の命を蝕んでいるからだ。

「あんた、強いんだろ。なんでも自由にできる、『魔幇』のトップなんだろう」

 このまま間合いを取り、時間を稼げば、劉炎嵐は自滅するだろう。

 五爪の翁の脳裏に、一瞬だけそんな思考が浮かんだ。

「――儂が(・・)逃げる(・・・)?」

 そこで、初めて五爪の翁の表情が変わった。
 それは、盛大な、笑いであった。

「はははははははは!」

 五爪の翁は、呵々大笑し、一歩踏み出した。
 劉炎嵐の青焔に炙られ、焼け焦げた上着を脱ぎ捨てる。

 その背に刻んだ、皇帝の持ち物にしか許されぬモチーフ、五爪の龍の刺青が顕わとなる。

「儂に立ちはだかるのは! 己の不甲斐なさへの激怒か!」

 白髭が黒く焦げていくのも意に介さず、五爪の翁は真正面から劉炎嵐に拳打を繰り出した。
 あまりにも愚直な、力と意地とを込めた一撃だった。
 劉炎嵐はそれを受けることも避けることもしなかった。

 ただ、交差するように、鏡像のように、青く燃える拳を突き出す。

なんでそんな(・・・・・・)殴ってほしそうな顔してるんだよ(・・・・・・・・・・・・・・)!」
「小童が、知ったようなことを!」
「知るか! 言われないことがわかるかよ!」

 一撃。二撃。三撃。
 功夫の達人同士の応酬でありながら、それは、まるで街の喧嘩のような、意地のぶつけ合いだった。

 退けば負ける。
 日和れば負ける。
 避ければ負ける。
 守れば負ける。

 そんな、感情を剥き出しにした、熱情の爆発。

 劉炎嵐は知らない。
 五爪の翁が辿ってきた道程こそ、自らの無力への怒りの歴史であったことを。

 夢があった。
 野望があった。
 理想があった。

 この街を侵略から守り、人々が平和で、笑顔で暮らせるように。
 虐げられていた魔人が、健やかに生きられるように。

 そんなことを目指してた時代があった。
 父親から伝え聞いた張无忌(チャン・ウージー)の武勇伝に心躍らせ、彼の掲げた理念に殉じようと誓ったこともあった。

 だが、清廉な手段でそれを為せるほど、世界は甘くなかった。
 否。それをするのに、五爪の翁という存在は、力が足りなかった。

 彼が権力と立場に固執するようになったのはいつからだろう。

 ――それは、非魔人たちの権力と立場によって、共存の理想を阻まれたときからだ。

 彼が上海で自分以外の有力者を極端に排斥するようになったのはいつからだろう。

 ――それは、租界の有力者が結託し、魔人の奴隷市場を開いたときからだ。

 彼が自分の周囲の人間を全員能力で服従させるようになったのはいつからだろう。

 ――それは、政府のスパイによって、後継とするはずの養子を殺されたときからだ。

 彼が中国皇帝にしか許されない五爪の龍を背中に刻むようになったのはいつからだろう。

 ――それは、七鴉の翁が、組織の継続のために張无忌を殺したと知ったときからだ。

 夢があり、野望があり、目的があったはずの彼の、生きる目的自体が上海のトップであることにすり替わってしまったのはいつからだろう。

 ――それは――

「ははははははははははは!」

 五爪の翁は笑った。
 まるで過去の鏡像と殴り合っているようだと思った。

「おおおおおおおおおおおおおお!!」

 劉炎嵐は吠えた。
 まるで未来の鏡像と殴り合っているようだと思った。

 どれほどの拳打が互いを打ち据えたか。
 どれほどの青焔が二人を焼き焦がしたか。

 意地は互角。
 身体能力は劉炎嵐が上。
 技量は五爪の翁が上。

 だが、老いと若さという残酷までの差が、二人の命運を分かつ。

「……この……!」

 ぐらり、と五爪の翁の巨体が揺らいだ。
 その瞬間

 ――『仔の伍・越老越好』

 五爪の翁の影から広がる黒鴉の翼が、輝きを放った。
 それは、『魔幇』四天王、目艮竟(ムゥ・ゲンジン)の異能。
 物体の性質を、重ねた年月に応じて強化する能力。

 九十年以上の齢を重ねた肉体は、それによって正しく強化され――

邪魔だ(・・・)

 五爪の翁の『龍飛九天・雲従其志』によって、その効果は黒翼ごと弾け飛んだ。

「我は天に代わるもの。我は地を統べるもの。
 五行を掴み、手中に収め、その流転を御する意たらん!
 然るにこの身に刻む号、『五爪の翁』なり!」

 『魔幇』を支え続けた首魁の咆哮。
 長きに渡り個として戦うことのなかった彼の、武人としての名乗り。

 劉炎嵐は、その熱に真正面から応えた。

「解決屋『紅虎』劉炎嵐!」

 互いにもはや残された力は僅か。

 力を、意地を、怒りを、熱を。
 その全てを拳に込める。

 互いに防御を一切考えない、クロスカウンター。
 顎が砕ける音は、どちらから響いたのか。
 あるいは、どちらからも、響いたのか。

 そして。

 先に倒れたのは、五爪の翁だった。

 決着を告げる銅鑼が響いたのは、周囲がその驚愕の結果をどよめきとともに受け入れた後のことだった。

 劉炎嵐は、天を仰いだ。
 怒りは晴れない。

 拳を通じて、五爪の翁の抱えるものの一端を、感じ取った。

 きっと、劉炎嵐は、より強くなったとしても、無力を感じ続けるのだろう。
 ならば、その果てに、意味はあるのか。

 全力を燃やし尽くした影響か。
 限界を超えた青の焔がなおも魂を焦がす副作用か。

 彼が本来ならば絶対に考えないような陰の思考が脳裏によぎった。

 どれほど力をつけようと、守れないものがあるのならば。
 むしろ、力をつけるほどに「守らない」ことを選ばないとならない範囲が広がってしまうのならば。

 このまま、青の焔に身を任せ、灰となってしまうのも――

「ホェンちゃん!!!」

 そんな思考を冷ましたのは、背後から抱きしめるように伸ばされた腕と、聞き覚えのある声だった。

「ばか! ばか! なんなのこの力の使い方! 体中ぼろぼろじゃないの……心配したんだよ!」

 王 双葉(ワン・シャンイェ)

 信頼すべき相棒にして、劉炎嵐の生きる目的の一つ。
 ああ、何を馬鹿なことを考えていたのだ。

 惚れた女がいて、守りたいと思う。
 そいつが幸せでいられるように、できるだけのことをする。

 こんな単純なことで、劉炎嵐には生きる意味がある。

 きっと、劉炎嵐は、自らの無力に怒り続けることだろう。
 けれど、背中から伝わるこの温もりがある限り、その怒りがこの身を焼き尽くすこともないだろう。

 青の焔が消えていく。

「……って、おい、大丈夫か? 火傷してないか!?」
「ん、あ、大丈夫。なんかね、栗色の髪の女の子が、私の服に、魔人能力? みたいなの使ってくれて。熱はこれで大丈夫だから、炎嵐くんを止めに行ってあげて、って」

 炎嵐くん(・・・・)
 栗色の髪の女の子(・・・・・・・・)

「……そうか」

 どうやら、あの日と同じように。
 自分がもてあましていた炎は、あのお節介によって、消し止められたらしい。




8.『七つの仔(のこしたいもの)』――七鴉翁(チーヤーウェン)



「黑闇劍」魔人化学研究施設第3号ラボ跡地。

 その最奥の部屋で、『魔幇』の設立に携わった二人の男が熾烈な攻防を繰り広げていた。

「あの【黒物子(ウーズ)】、わざと助けさせたろう」
「……言ったはずです。私にとって、『魔幇』は仔。その一員もまた、私の仔だと」
「は! よく言う。だったら『蟲』を仕込んだ殺手はどうなる。
 あの二人に、昔の自分を重ねただけだろうが」
「返す言葉もありませんね」

 殺手たちに容赦なく『蟲』を入れ、反逆すれば即殺す冷酷。
 『魔幇』の存続に悪影響を及ぼすならば、全てを切り捨てる無慈悲。
 一度身内と認めたものに示す偏愛。

 一見して理性的に見えながら、一貫しない感情によって世を乱す。

 七鴉翁。

 おそらくこの男自身に悪意はない。
 だが、その在り方は、組織の頂点で多くに影響を及ぼすには、あまりに不安定でありすぎる。

 兄が殺されたことへの感情的なしこりを脇に置いても、今、ここでこの男は排除するべきだ。
 張三は改めて、そう確信する。

头目(ボス)、『紅虎』にやられたぞ。
 あと、『万事屋』に差し向けた鴉も二羽墜ちた。
 残る手札は四枚ってところか」
「ああ、張三豊(チャン・サンファン)
 あなたには今、(ファ)()()魔都(マトー)がついているのでしたね。
 そちらにも上海中の情報がリアルタイムで入ってきているわけですか」
「ああ。打倒七鴉翁(セブンレイヴン)、No1を入れ替えようって、息まいていたな」

 張三は、七鴉翁が振るう一閃を紙一重で避けた。
 しかし、目の前を行き過ぎたその瞬間、鉄棒の先端が鋭い刃として伸び、張三の頬を切り裂く。

 ――『仔の参・鉄杵』。

 七鴉翁の魔人能力『七つの仔』は、『魔幇』に所属しているものの魔人能力を模倣するコピー系能力だ。

 正確に言えば、魔人能力によつて生み出した七羽の鴉それぞれに、コピーした能力を行使させることができる能力であるらしい。
 そして、その鴉を己に憑かせることで、自身でも模倣した異能を行使できる、といったところのようだ。

 そして、その対象には「かつて『魔幇』に所属していた者」の異能も含まれる。

 今まさに、七鴉翁は、まるで慣れ親しんだ自分の能力であるかのように、張三の『鉄杵』を駆使していた。

 (ファ)()()魔都(マトー)からの情報で、上海の各地に七鴉翁の『七つの仔』が出没し、撃退されたことが判明している。

 魔人武器工房通りで『電気人形』と『欲病胎蔵回路』。
 上海大賽で、『越老越好』。

 一度倒された『七つの仔』は再生までに一星期(いっしゅうかん)ほどかかる。
 少なくとも、七鴉翁のコピー枠は、三つが潰れたことになる。

 また、とある筋からの情報で、七つの仔の一枠は、コピーした特殊な蘇生能力に残留されていた自我に逆侵食され、少女の形をとって制御不能となっているという。
 これで使用不可なのは四枠。

 残る使用可能な能力スロットのうち、一枠は、部屋の脇でこの戦いを眺めている『閃耀的鑽石鏡(ブリリアントミラー)』の模倣体。

 そしてもう一枠は、今まさに振るわれている『鉄杵』。

 となれば最後は、おそらく、組織の管理に利用されている『蟲』を操作する魔人能力。

 張无忌(チャン・ウージー)の異能であった、『獅子心蟲』であるはず。

 つまり、『鉄杵』以外、この戦いで七鴉翁が直接的に使う異能はない。

 となれば、通常は、本来の能力の持ち主である張三に負ける道理はない。
 そのはずだった。

 しかし、この場所は、七鴉翁の待ち構えていた、彼のための場。
 当然に、その道理を覆すための仕掛けは用意されている。

 七鴉翁と張三の間には、鉄で形作られた十羽の鴉が飛んでいた。

 そして、それらの鴉全ては、部屋の奥に立てられた巨大な円筒状の鉄と細いワイヤーで繋がっている。

 魔人能力『鉄杵』は棒状の鉄の形質を操作する。
 即ち、単純に、制御している鉄の質量が大きいほど、取れる戦術も広がる。

 張三は持ち運びの都合上、愛用の鉄棍の他、様々な形で変形させた鉄を素材として能力を行使しているが、拠点で敵を待ち構える七鴉翁にはそのような制約はない。

 圧倒的な物量により、変幻自在な攻撃を繰り返し、じりじりと張三を追い詰めていく。 

「どうしました、自分の能力でしょう。
 猿真似に劣るとは、肉体の維持に能力の制御を割きすぎているのでは?」

 七鴉翁の『鉄杵』の制御下にある金属は、張三の『津杵』で干渉できない。
 このあたりは、早い者勝ちの法則が存在しているようだった。

「はっ。昔から能力頼りの戦い方だったな、おまえさんは!」

 変幻自在の鉄の動きを直接見極めることは難しい。
 しかし、それを操っているのは人間。
 人間の殺意、害意、戦術である。

 ならば、戦える。

 足は肩幅に。足先は前に。
 自然に、重力と体幹と大気と鼓動と筋肉の収縮と。
 すべてが自然にあるように立つ。

 放鬆(ファンソン)

 張三は、鉄針の雨をかいくぐり、鉄の嘴をいなし、心身自在の境地を体現する。

「――張无忌(チャン・ウージー)の功夫ですね」
「今は、俺たち(・・・)の功夫だよ」

 致命の一撃は、手元の鉄棍の『鉄杵』による操作で防ぐ。
 軽い一撃は、七鴉翁の『鉄杵』による射程延長を勘案しながら最低限の動きで避ける。

 やがて、張三は、七鴉翁の『鉄杵』の猛攻に、徐々に対応し、距離を詰め始めた。

「いいのか、『鉄杵(・・)だけで(・・・)
「あなたこそ。あの、血涙を流した能力行使をしなくて、いいのですか?」

 七鴉翁と、張三。

 両者の間合い、五歩。
 鉄鴉の群れの嘴が、張三の肩を、腕を、脚を切り裂いていく。

 両者の間合い、四歩。
 心の臓を狙う鉄槍を、張三の鉄棍が変形した盾が弾く。

 両者の間合い、三歩。
 視界の隙をかいくぐる極めて細い針線が、張三の瞼を裂き、視界の半分を奪う。

 両者の間合い、二歩。

「……ッ! 我は、七天を仰ぎ、愛しき我が仔を守る翼!
 死肉を啄み、腐材を喰らい、忌み嫌われる黒を是とするもの!
 故に我が号、『七鴉翁』!」

 『仔の肆・閃耀的鑽石鏡(ブリリアントミラー)』、設定解――

 そう念じかけ、七鴉翁は、自らの戦いを眺める具象化獣……愛した男、張无忌の姿でこちらを見るモノの姿を見てしまった。

 その姿を、一時にでも失うことを、七鴉翁の感情は許容しなかった。

 『仔の壱・獅子心蟲』、設定解除。
 魔人能力『七つの仔』、模倣能力再設定。

 『仔の壱・狩りの時間だ(13倍の金曜日)』、発動。

 そう。今、この日は、星期五(きんようび)

 かつての同胞にして、七鴉翁が嫉妬した女、カリー・魔幣の絶対的な異能が効力を発揮する日。

 両者の間合い、一歩。

 七鴉翁の十三倍に強化された踏み込みが、十三倍に強化された発勁が、十三倍に強化された掌打が、張三の腹を貫いた。

 だが、張三が浮かべたのは、苦悶の表情ではなかった。

 あろうことか、鉄身の武侠は、『閃耀的鑽石鏡(ブリリアントミラー)』の具象化獣を一瞥し、笑ったのだ。

「……『獅子心蟲(あにきのちから)』を、解除したな」

 ぼこり。
 ぼこり。ぼこり。
 ぼこり。  ぼこり。    ぼこり。

 張三の体から、錆びた鉄杭が突き出てくる。
 『鉄杵』をコピーしている七鴉翁には、理解できる。

 それは、能力制御が緩んでいる証拠。
 そして、鉄杭の錆は、死期を悟った張三の『諦観』の表出だ。

 つまり、今まさに、張三は力尽きようとしている。
 そのはずだ。

 なのに、どうして、この男は(・・・・)勝ちを確信した表情をしている(・・・・・・・・・・・・・・)

必定将死(チェックメイト)ってやつだぜ、七鴉」

 そのとき、突如、二人の戦っていた部屋の四方八方から、壁を破り、柱を穿ち、天井を貫き、無数の鉄杭が飛び込んできた。

 何が起きている?
 張三の『鉄杵』か?

 魔人能力『鉄杵』は、接触を条件に、棒状の鉄の形質を操作する。
 そして、一度形質を操作した対象は、遠隔からでも、元の形に戻すことができる。

 だから、この事態を説明できるのは、後者。
 一度『鉄杵』で変形させたものの、能力解除だ。

 だが、いつ、どうやってこれだけの変形済みの鉄を、この建物に仕込んだというのか?

「……言ったな、七鴉。
 『猿真似に劣るとは、肉体の維持に能力の制御を割きすぎているのでは?』と。

 違うよ。俺はもう、脳の容量限界まで、すでに、『鉄杵』を行使して、それを維持し続けていたんだ」

 それが、張三が、本来無限に近い拡張性と応用力のある『鉄杵』による魔人としての戦いよりも、体術を中心とした功夫での闘いを中心としていた理由。

「まさか」
「そうだよ。この建物が出来たときから、その鉄材、建材のあちこちに、俺の『鉄杵』で変形させた鉄が仕込まれていた」

 張三が『魔幇』を抜けてから、製鉄所の設立に関わり、そこで働き続けていたことは七鴉翁も知っていた。
 それはただ、牙が抜けたふりをするだけの、道化を演じる手段だと思っていた。

 しかし、そうではなかったのだ。

 製鉄所の設立に関わり、その労働者として現場に出続けていた理由。
 それは、『魔幇』が拠点を作るにあたって利用される鉄材に、『鉄杵』の影響下にある鉄を鋳溶かし、いつか来る『破幇』の日の布石とするためであったのだ。

 柱が、天井が、壁が強度を失い、建物が崩れていく。
 七鴉翁は、張三の腹から腕を引き抜かんとする。

 しかし、13倍に強化された腕力ですら、張三を振り払うことはできない。

「おまえが死んでも、分散して保管された『遺産』により、『魔幇』は存続する。
 逆に、全ての拠点の『魔幇』の遺産を潰しても、おまえが生きていれば、『魔幇』は生きながらえる。
 幹部のおまえがダイヤをわざわざ奪ったのは、頭を五爪から挿げ替えるためだな。
 自分か、『遺産』がある限り、『魔幇』は存続すると確信していたんだ。
 おおかた、劉炎嵐か白髪黒羽か、『麒麟の瞳』を完成させた方を、次の头目(ボス)にしようとでも考えていたんじゃないのか?」

 だから、それらを同時に処分する、と。
 そう、張三は宣告した。

「――『鉄杵』、全解除」

 この建物だけではない。
 おそらく、上海中の『魔幇』の拠点が、このラボと同様に、『鉄杵』の解除によって崩落していることだろう。『魔幇』存続に必要な『遺産』もろともに。

(ファ)()()魔都(マトー)最強の地図屋(路覇タッカー)を仲間に引き入れてな。
 物流の経路から、主要な拠点は把握済みだ。
 元々拠点として建てた施設だけじゃない。
 後から『遺産』の保管場所にしたところにも、仕込みは済ませてある」
「この――ッ」

 『蟲』を操作する『獅子心蟲』は模倣枠から削除されてしまった。
 『蟲』を媒介して、『遺産』を持ち去るように構成員を操作することもできない。

「だが、これだけの大規模な能力行使――解除の形だとしても、人の脳が耐えられるはずは――」
「ああ、ないな」

 張三の瞳からは、百年前と同じように、血の涙が流れ落ちていた。
 能力の過負荷。暴走。
 触れた鉄自身をも自らだと強弁することによる能力拡張。

 体から解放された錆びた鉄棒が形を変え、捩じれ、無数に伸び、崩れ行くラボ中に映えている鉄棒と一体化して、加速度的に『鉄杵』の操作対象である金属が津波のように波打ち、広がっていく。

「このまま暴走すれば、上海中を巻き込みます! あなたはそれでいいのですか!」
「そいつはよくないが……大丈夫さ」

 それは、この百年間、自らの肉体の一部、骨、肉、血すらも、鉄を変質させたモノで補ってきたバケモノの成れの果て。

 人間としての輪郭が失われ、張三を中心として錆びた鉄の奔流が、七鴉翁を飲み込み、新たな形質を、輪郭を形成していく。

 錆びた鉄杭に互いに貫かれ、張三と七鴉翁、『魔幇』を生み出し、張无忌(チャン・ウージー)を守れなかった二人の男が、『魔幇』の残骸に押しつぶされていく。

「バケモノになった俺の後始末は、俺の同盟相手たちがしてくれるさ。
 知ってるか、七鴉。時代は変わったんだぞ。
 この上海(まち)には、新しい英雄が、毎日両手じゃきかないほど生まれて、輝いてるんだからな」

 それは変生。
 それは変性。

 七鴉翁はことここに至り、己の敗北を認めた。

 このラボで待ち構えることを決めた時点で、勝負は決まっていた。

 ここは最初から、この錆びた狂龍の胎の中であった。
 百年間かけて作られた無数の罠のうち一つ。
 そこに、七鴉翁は追い込まれていたのだ。

「……その執念深さ。まったく、貴方が魔幇の幹部だったら、私の仔は、あと百年は長生きできたでしょうに」

 『方輿勝覽』曰く。

 磨鍼溪 在象耳山下。
 世傳李太白 讀書山中、未成棄去。
 過是溪、逢老媪 方磨鐡杵、問之、曰「欲作針」。
 太白感其意、還 卒業。

 若き日の李白は、学に打ち込んでも成果が出ないため、諦めの境地に至った。
 あるとき、李白は、老婆が鉄の杵を磨いているのをみかけた。
 何をしているかと尋ねると、老婆は、「鉄の針を作るのだ」と答えた。
 李白はそれに感じ入り、改めて学に専心して、大成したという。

 そこから、鉄杵磨成針という故事成語が生まれた。

 それは、諦めることこそを諦め果てた、執念の体現。
 百年を賭けた『破幇』の達成であった。

「最後に一つ、教えていただけますか?」
「なんだ?」
「『閃耀的鑽石鏡(ブリリアントミラー)』。
 あなたには、誰に見えていたのですか?」
「……さあな。忘れたよ」

 かくて、錆びた鉄竜は、『魔幇』最古参幹部、七鴉翁を呑み潰した。

「ああ、できれば。貴方の兄君に、こうされたかったなあ」




10.『鉄杵磨成八卦龍(ねがいのはて)』――張三(チャン・サン)


 赤錆色の鱗をした龍――鉄杵磨成八卦龍(チャン・サン)は、怨敵を、己の肉体諸共にその身で砕き、臓腑に取り込んだ。

 およそ、人と人との戦いでは起き得ない決着。

 張三の人としての輪郭(じが)が解けていく。
 人としての認識を、失っていく。

 百年前に越えかけた一線。
 魔人が、人でなく魔そのものになる、その境界を、今まさに張三は踏み越えた。

 鉄を肉とし、鉄を骨とし、鉄を血とした。
 張三豊(チャン・サンファン)という人間が、多くのものを取りこぼして、どこにでもいる名無しの男、張三(チャン・サン)と名乗るようになってから。
 豊さという言葉には不似合いなモノになってから。

 長い『魔幇』との戦い、今日までの下準備のために傷つき朽ちて老いていく肉体の大半を、男はこの異能によって代替し、誤魔化してきた。

 この日までずっと耐えてきた異能の制御を、解放した。
 己を蝕む錆び(おい)に耐えてきた。

 己は鉄。錆びて朽ちる直前の鉄の龍。
 『魔幇』という因縁を喰らい、それとともに地に伏せる宿業の化生。

 怨敵、七鴉翁を喰らい、この身は正しく『魔幇』を喰うモノとなった。

 『魔幇』という大樹の命運はここに尽きたのだ。

 三尸の複製体から、白髪黒羽がダイヤを守ったことで、樹の養分は断たれた。
 五爪の翁を、劉炎嵐が討伐することで、樹の幹は倒れた。
 七鴉翁を、鉄杵磨成八卦龍が喰らうことで、樹の根は削がれた。

 これで、張三という男の、過去の清算は終わった。
 己を鉄であると定義したこの身は、概念的な錆化という形での限界を迎えている。
 龍体化はもはや己では解除できないが、この体が暴走して魔都を喰らう前に、錆によって身が朽ち果てる方が先だろう。

 制御を失った全身の鉄鱗が杭の形を取り、その先端から生まれた牙が本体に齧りつく。
 さながら己の尾を食むウロボロスの蛇。

 これでいい。
 錆びに、褪せた血の色にまみれた殻の内側を眺め、八卦龍――張三は瞳を閉じる。

 錆びて朽ちるまでに、すべきことが為せた。
 ここに至るまで、多くの人間を巻き込んで、傷つけた。

 その報いとして、この終わりは、あまりに穏やかでありすぎるとも思う。
 全身を、思考を、ヤスリで削られるような痛覚。
 生きながらにして肉体を蟲に喰われるような喪失感。
 だが、そんなものでは、自分の所業に対する責め苦には足りない。

 多くの人を傷つけてきた。歪めてきた。

 張无忌。守れなかった尊敬すべき兄。
 カリー・魔幣。道を分かった愛すべき義姉。
 七鴉翁。最後までわかりあえなかったかつての同胞。
 五爪の翁。道を歪めてしまった知己の息子。
 製鉄所を作ったときに関わり合った日中の技術者たち。
 百年に渡って『魔幇』のことを自分に伝え続けた情報屋たち。
 歪みつつある組織によって起きた事件を共に収めた解決屋たち。
 そして――決して豪華ではない食事を、目を輝かせて頬張ってくれた、若き同盟相手。

 無数の面影が脳裏をよぎる。
 浮かぶ感情は、感謝と謝罪。
 もしも、自分がもっとうまくやれていれば。
 そんな後悔。

 これでいい。これが報い。
 無限の相克の中、悔悟に朽ちるのが、この龍の正しい結末である。
 鉄は錆びるもの。錆びて朽ちるもの。それこそが節理であるのだから。

+ ――意識が消える、その瞬間。龍は微睡みに、幾つかの声を聴いた。
『簡単に諦めるんじゃないですよ! もっと欲張らないでどうするんですか!』

『己との約束を踏み倒すか? 万全の状態で手合わせをと言ったはずだ』

『貸し逃げなんざ許さねえ。……あんたには、リンシャの礼をしないといけないんだ』

『アタシの親友に「英雄を人身御供にして手に入れたダイヤ」なんざ渡せないんでね』

『可愛い女の子が泣いてるの。貴方がどうなろうと関係ないけど、それは許せないわ』

『というわけでね。突然だが、張三豊。天狗の責任で、きみを『還元』しようと思う』

『……炎嵐くんがね、ハッピーエンド以外、許さないって』

『なあ、張三サンよ。アンタは、誰かが泣いてるから腹立たんだろうが。そのアンタが誰か泣かせて、それでいいわけがないだろう!』

+ 『ふざけるな! 勝手に置いてくな! 張三。私は――アンタの、同盟相手だ!』

11.『愛染飢鬼(こいねがうもの)』――林 希美(リン・シーメイ)


 魔人化学研究施設第3号ラボ跡地。

 錆びた赤鱗の巨龍が暴れ、全身から生えた小龍によって己の身を喰らっているところで、私たちは現地に辿り着いた。

「おい、こっちだ!」
「お、ダイヤガール! 無事で何より! 告白も……うん、成功したんだね。よかった! いや告白の瞬間見損ねたからよくない! ね、今から再現VTR撮らない?」

 先導していた郭 亀岩さんの案内で、そびえたつ卵殻の元へと10人の魔人が集まる。

「間に合ったんですか!?」
「能力の暴走による鉄の取り込みが、一時的に落ち着いている。
 張の旦那の自我はまだ錆化による自壊を迎えていないということになるんじゃないかい?」
「ふむ。龍の全身から生えているあの触手めいた小龍たち、一定距離に近づくと侵入者を迎撃するようだ。己の撃ちだした瓦礫など一呑みであった」
「迎撃範囲は半径50m。距離が近づくごとに激しくなるわ。まあ、私には傷一つつけられないのだけど」

 拳狐さんたちの報告に、私は想定していた計画を修正し、バックアップ側に控えている王 双葉さんたちに成功率の計算を依頼する。
 状況は楽観視できないが、絶望的でもない。

 張三は、『黒幕』と刺し違えて、『魔幇』と死ぬつもりだ。
 そのことは、以前の作戦会議の時点で、私、林 希美(リン・シーメイ)にはわかっていた。

 それから、私は、あの日集まった全員に頭を下げ、張三の現状を説明し、彼を救うために力を貸してほしいと助けを求めた。

 アイツは隠していたようだが、寝床で錆びた鉄杭が生えた姿を、私は幾度か目にしていた。
 武器工房のラテン店主さんによれば、十年ほど前から見られた姿で、それは、『鉄杵』の制御が甘くなっていること、張三の「時間切れ」が近いことを示している兆候らしい。

 下山アンドロメダと名乗る謎の助言者のヒントを元に、カルミア・チャムリーさんのダイヤに関する様々な情報、『電梟』と魔都No2の闇商人の情報網を駆使し、私たちは張三を『錆化』による時間切れから解放する手段を模索した。

 それができるのは、『魔幇』が崩壊し、邪魔が入らなくなった、このときしかない。

「皆さん、準備お願いします!」
「己の役割は理解したが、どうやってあの状態から張三を助け出す算段なのだ?」

 拳狐さんが質問してきた。

「……張三(アイツ)の『錆び』を、『還元』します」
「なるほど。酸化には還元、か。至極真っ当な対応だな」

 さすが、文武両道の武人さん。
 私は最初聞いたとき、ちんぷんかんぷんだったことを、即座に理解したらしい。

 学校の教科書片手に、カルミア・チャムリーさんから教わった理屈を思い出す。

 この状況、自壊へのカウントダウンは、張三が己と己の能力が「錆びて劣化した」と認識したから起きている。

 では、錆とは何か。
 鉄が空気中の酸素と水分により反応し、酸化鉄となる酸化反応だ。

 それは自然な流れ。時に任せれば当然に起こる反応。
 しかし、人類は自然界の酸化鉄から鉄を取り出す工程を確立している。

 それが『還元』である。

 「酸化鉄(Fe3O4)」に「炭素(C)」を混ぜて高温で熱する。
 そうすると、酸素は鉄より炭素と結びつきやすいので、「一酸化炭素(C O)」や「二酸化炭素(C O2)」となって気化して無くなり、錆び……酸化鉄は消え、代わりに鉄が残るという化学反応。

 魔人能力の生成物であり、張三の生命とも結びついた概念的な酸化鉄『鉄杵磨成八卦龍』を還元するならば、同様に『概念的な炭素』と『概念的な熱量』で処理してやればいい。

 そして今、ここには、それらが揃っている。
 『概念的な炭素』……即ち、清王朝のダイヤ。
 『概念的な熱量』……即ち、劉炎嵐の『the 炎怒』。

「ほらよ」
「持っていきな」
「すみません」

 白髪黒羽さんと劉炎嵐さんの掌に生まれたダイヤを、私は受け取った。
 二人にとって、命を賭けて手に入れたものだ。

 それにも関わらず、ダイヤを使わせてほしいという私の無理な相談に、どちらも是と即答してくれた。

「アタシの親友は最高だからね。
 英雄を犠牲にして持って帰ってきたダイヤなんざ似合わないのさ。
 代わりに、最高級のダイヤを燃やして手にいた最高のハッピーエンドの土産話の方が、マシってもんだろう」
「俺も同じだ。……まあ、最高の女には最高の宝石ってのを贈りたかったが、アレには、後腐れない最高の上海の街の夜景で我慢してもらうさ」
『ばっ……何言ってんスかホェンちゃん!』

 『魔幇』のトレードマークでも、この国の王権を示す証としてでもなく、ただ、一人の男の酸化を還元するための、使い捨ての触媒……概念的な炭素の結晶として使うために。

 たぶん、その器の大きさこそが、王の証に選ばれる心根だったのだろう。

「劉炎嵐さんには、またさらにムリをさせますが」
「燃やして壊すだけの能力じゃないってことがわかったんだ。悪くねぇよ」

 先日、酔った張三の体から採取した少量の「錆び」が、私の中にわずかにある「ダイヤの欠片」と、劉炎嵐さんの炎で『還元』できることは実証した。

 勝算は、ある。

『全員、配置完了。
 これより『破錆作戦』を開始するっス』

 通信で、オペレーター代行の王 双葉さんが宣言した。

『第一工程『加熱』開始!』

 劉炎嵐さんと喬芽芽さんが、八卦龍へと突撃する。

「可愛い女の子に泣きそうな顔をさせるなんて、ほんっとうに可愛くない!」

 軽やかにフリルスカートを翻し、喬芽芽さんがくるりくるりと襲い来る触手状の錆びた小龍をいなしていく。

 魔人能力『可愛くてごめん』。

 彼女は、彼女が可愛いと認めたものからしかダメージを受けない。
 それがたとえ、百年武侠が能力を暴走させた鉄龍の牙でも。
 それがたとえ、『魔幇』首領を凌駕した若き解決屋の怒りの熱であろうとも。

「はっ。周りを気にせず……違ェな。
 何かを助けるために手加減抜きでブチ切れるのは初めてだ!」

 そして、劉炎嵐さんは、喬芽芽さんとともに、小龍の自動迎撃を潜りぬけ、八卦龍本体に触れた。

 魔人能力『the 炎怒』。
 怒りとともに、自らの血を加熱する異能。

 伝え聞いた「身を削る青い焔」を使わずとも、その最高温度はおよそ三千℃。
 酸化鉄の還元には十分な温度である。

 彼は怒る。

 ここまで多くを一人の男に背負わせたこれまでの世界に。
 背負わされたものに対して、もう無理だと叫べなかった男に。
 背負わされた男に、もう無理だと叫ばせなかった状況に。
 諦めて、一人で終わらせようとしてしまったその悲しい結末に。

 そんな結末は、冷たすぎる。
 熱量が足りない。
 叫ぶ。叫ぶ。熱に熱を重ね、劉炎嵐さんは叫ぶ。

 迫る小龍は喬芽芽さんに任せ、劉炎嵐さんは自らの怒りと向き合い続ける。

 たぶん、劉炎嵐さんは、犠牲となるヒーローが許せないのだ。
 努力をしたならば報われなければおかしい。
 百年苦しんだなら、それに見合っただけ幸せにならないとおかしい。

「なあ! 張三サンよ! アンタ、幸せになるんだろうなぁ。おい!」

 咆哮が熱となって大気を揺らした。

『第一工程『加熱』完了!
 第二工程『防護』開始してください!』

 王 双葉さんの言葉に、三人の魔人が私に触れる。

「あの人には、ちゃんと礼を言わなきゃいけないんだ。連れ帰ってくれよ」

 魔人能力『玄武印』。 
 マフィア末端構成員、郭 亀岩さんの、傷を肩代わりする異能。
 それが、私に付与される。

「賭け金が大きいギャンブルってのは燃えるもんだね。
 頼むよ、払い戻しは完全無欠のハッピーエンドだ」

 魔人能力『創造上の想像力(イマジナリーファイア)
 白髪黒羽さんの、対象に特定のイメージを装填し、対象を認識した相手にイメージを叩きつけ現実化する異能。
 それが、私の手にしたダイヤに『還元』のイメージとして装填される。 

「……えへへ。あんまり、私は張三さんって人のことは知らないけど。
 でも、ハッピーエンドのお手伝い、させてください」

 魔人能力『黒物子』。
 劉炎嵐のお笹馴染みであるという(ファ)さんの、無害であるが故に無敵の『黒もっこ』を対象に憑依させる異能。
 それが、私に黒のレインコート状の形として付与される。

『第二工程『防護』完了!
 第三工程『射出』開始してください!』

「多分ね、私、張三さんの親戚だと思うんです。
 あの人は、何も言ってくれなかったけど。
 私を見るあの人の目は、お父さんみたいだったから。だから、ちゃんと話がしたい。
 お願いします。
 ……スパイク、お願い」

 恋辻メーメーさんがそう言うと、砕けた床から除いた排水口から巨大な白ワニが現れた。
 白ワニ……スパイクという名前らしい……は私達を尾で巻き込んで移動し、一瞬で八卦龍への距離を半分ほどに詰めた。

 これ以上は、劉炎嵐さんの熱量で炙られて生命活動が危機になる。
 私は多重の魔人能力での防御と『飢鬼』による身体強化で耐えられるが、他の『射出』メンバーはそういうわけにはいかないだろう。

 この位置から、高速で私は八卦龍に向けて『射出』されるのがベストだ。
 私は双喜さんと、用意していた木箱に立った。

 迎撃射程圏内への侵入により、触手小龍が襲い来る。

「己の能力には不動の時間が必要だ。
 射出する木箱の『一息』のために、しばし時間を稼いでもらおう」
「わかりました」
「無問題!」

 ここに来るまでに、空腹状況はコントロールしている。
 自らの肉体を冷静に制御でき、かつ魔人能力が十全に解放できるタイミングが今。

 小龍の動きは張三の稽古でアイツが繰り出した攻撃の軌跡と似ていた。
 けれど、そこからも、アイツが本調子でないことがわかる。
 捌ける。そのことに安心しつつも、私は、寂しくも思った。

「やるじゃない、腹ペコガール」
「……正直、双喜さん、あなたが協力してくれるとは思わなかったですけど。
 ダイヤが消えたら、あなたは終わるんでしょ?」

 ダブルハピネスキャンペーンと称して上海の騒動を煽っていた彼女。
 それは、彼女が「何かを求める欲望」を生命活動のエネルギーとして利用しているかららしいと、私は彼女と接触していた郭 亀岩さんから聞いていた。

 そして、清王朝のダイヤの争奪戦の熱狂が終われば、彼女は生命維持に足るエネルギーを得られず死ぬであろうとも。 

「うーん、それね。ちょっと事情が変わっちゃったっぽいんだよね~」

 チョーカーで揺れる銀のハートを握り、双喜さんは少しはにかむように笑った。

「……私は、限りある時間で、生きた証を残したい。
 それは今でも変わらないけど。

 もう少し、時間がもらえるかも、って思ったときに。
 欲が、芽生えちゃったんだよね。

 命が惜しい。生きたい。話したい。喧嘩したい。触れ合いたい。仲良くしたい。
 あの子の分まで。あと、私に『太可愛了』なんて言ってくれた人のためにも。

 もちろん、生きられるって保証はない。
 ダイヤ争奪戦の熱が終わったら、やっぱりエネルギー切れで私は終わるかもしれない。
 けれど、私は生きた証を刻むなら、結果として、いろんな人が笑ってくれる形がいい。
 そんな感じ! ごめんね! うまく言えないや!
 とにかく私は死ぬために協力するんじゃなくて、生きて、証を残すために協力するの」
「……うん」

 双喜さんが言い終わるのを待っていたのか、触手小龍の攻勢が落ち着いたところで拳狐さんが私達に木箱へ乗るように促した。

「さあ、頼むぞ。己は張三と一戦交える約束だ。
 それを反故にされるわけにはいかんのでな」

 そう言って、拳狐さんは、私と双喜さんが乗った箱を軽々と放りあげた。

 魔人能力『為逸速的一息』。
 拳狐さんの、止まっていたものをその時間に応じて超加速する異能。

 それにより、私達は、八卦龍本体めがけ、高速で射出された。

『第三工程『射出』完了!
 最終工程『接触』、あとは頼みました!』

 距離が近づくごとに、大気の熱が上がっていく。
 劉炎嵐さんの『the 炎怒』が十分に空間を加熱しているのだ。
 私は、『黒物子』の「無害がゆえに無敵」という性質によって耐えられている。
 双喜さんはというと……

「うん、すごいね! どんどん迎撃の密度が増してる!
 でもつまらないなあ。欲が籠もってない。ただの生体反応って感じ」

 さすが清王朝の超技術によって作られた人造生命体。
 この熱をものともしないようだ。

 だが、私達の足場である木箱はそうもいかない。
 熱と加速の衝撃、小龍の攻撃によって途中で朽ちてしまう――

「さあ、それじゃあ腹ペコガール!
 ここからゴールに行けるかは、あなたの欲次第!
 囚われのお姫様を助けに行く王子様の、白馬になってあげましょう!」

 そう言って、双喜さんは私を抱えると中空に身を躍らせた。

 魔人能力『欲心流路』。
 双喜さんの、人の欲を力に変える異能。
 欲望のベクトルを感じ取り、それに乗って高速移動をすることも可能だ。

 だから、彼女を導くのは、私の欲望。
 林 希美が、張三に向けた、渇望。

 それが強いほど、確かであるほど、双喜さんは強く速く飛翔する。

 私を同盟相手だと言ってくれた人。
 私に、腹を満たしていいのだと言ってくれた人。
 私に生きる術を教えてくれた人。

 それが恋なのかと言われたら、違うと思う。
 それが愛なのかと言われたら、違うと思う。
 この感情に、渇望に、名前はつけられない。

 けれど、少なくとも、今私は、アイツを必要としている。

 たくさんのものをもらった。
 たくさんのものを返さないと気がすまない。
 意地? 言い訳? わからない。
 わからないから、わかるためにも、やっぱり私はアイツを取り戻さないといけない。

 なのに、アイツは私を置いていった。
 わかってる。それが一番、物事を丸く収める方法だと思ったんだろう。
 もしかしたら、ダイヤを使った『還元』の可能性だって、張三は理解していたのかもしれない。その上で、それはなしだと判断して、選ばなかったのかもしれない。
 そりゃあそうだ。

 自分を助けるために、みんなが命を賭けて争ったダイヤを触媒にして使いつぶす計画なんて、実現できるなんて普通は思わない。

 けれど、ざまあみろ。
 みっともなく泣きわめいて、助けを求めて、無理難題を周りにつきつけて迷惑をかけて、その上で、私はこのルートに辿り着いたぞ。

『ヒーローを目指す者のところに、ハッピーエンドはやってくる』 

 いつか、誰かがそんなことを言っていた気がする。
 なら、今、私はヒーローを目指す。

 みっともなくても、力が足りなくても、周りに頼ってばかりでも、それでも、ハッピーエンドを勝ち取ってやる。

「いい欲望! 全ッ然色はバラバラでベクトルもぐちゃぐちゃだけど、カロリーだけは十二分! すっげえ波乗りだぜ! ちょっとアグレッシブな機動するけど、吐くなよヒーロー!」

 もはや押し寄せる小龍の群れは視界を埋め尽くす壁のようだ。 
 むしろ小龍のいない空間を視界の中に探す方が難しい。

 けれど、全身に傷を受けながら、それでもジグザグの高速機動で双喜さんは笑い声を上げながら飛翔する。

「はははは! やっぱり人間一人抱えながら戦うのってきつーい! 熱い! 痛い! 無茶苦茶だ! 叶うかこんな願い! だから私は飛ぶんだほほえんで! 魔人パンマンのテーママジ熱い!!」

 そして、八卦龍本体へあと僅かというところで、双喜さんは、私を頭の上まで振り上げると、

「それじゃあ、白馬の役目はここまで。
 あとは、王子様のキスでお姫様を助けてあげるといいでしょう!」

 小龍のひしめく防衛線の、ほんの僅かな隙間に放り投げた。

 追いすがるように脚に食らいつく小龍の牙を、どこからか飛来した遊色の剣が切り裂く。
 幾筋か掠める錆鱗の礫を、『玄武印』の砕けた輝きが弾き飛ばす。


 落ちる。
 落ちていく。

 そして、八卦龍の頭――おそらくは、張三の肉体があるところが近づいてくる。

 私は手にしたダイヤを握りこんだ。
 これを八卦龍の体内に叩き込めば『還元』は完了する。

 けれど、この体制から、できる?
 踏み込みも、体軸の制御も難しいこの状況で――

『やあ、下山アンドロメダ師匠だよ。今直接きみの頭に語り掛けている。
 きみは今困っているんじゃないかな、いや答えはいらない。
 そういうことだから、少し力を貸そう。
 きみが今必要としているのは『高低差を無視して歩ける』能力だ。
 拡大解釈で、今君のいる場所に立てるようにアレンジをしておいた。
 礼はいらないよ。鴉天狗の負債を連帯責任で天狗仲間の私が返しただけと思ってくれればいい。それじゃあ、グッドラック!』

 一方的に脳裏に響いた言葉とともに、私は、空中に立っていた。

 赤錆の八卦龍は、眠るように瞳を閉じていた。

 私は自然と、張三が毎朝繰り返している日課の無極站樁功(くんれん)の体制を取った。

 足は肩幅に。足先は前に。
 自然に、重力と体幹と大気と鼓動と筋肉の収縮と。
 すべてが自然にあるように立つ。

 放鬆(ファンソン)

 あるべきところに、あるべきだけの力を行きわたらせる。
 肉体の一部がどこかに居着くことなく、自在である。
 否。肉体だけでない。心もまた、自在である境地。

 それは、欲の否定である無心ではない。
 欲もまた自然の心の一部。
 それも肯定し、受けいれることこそ、私の自在。

 魔人能力『飢鬼』。
 飢えるほどに自らの身体能力を向上させる、林希美の異能。

 ならば、飢えとはなんであるか。
 心身を満たすなにかを渇望する欲求である。

 であれば、空腹だけが飢えではない。
 血糖値の低下だけがこの異能のトリガーではない。

 どうしようもなく他者を求め、必要とするこの気持ち。

 それもまた、林希美に、人ならざる力を与える渇望である。

 頭頂が天に引かれる感覚を意識しつつ、下半身の関節を緩める。
 次いで、両肩を沈め、胸をわずかに後ろに引く。
 肺で取り入れる気を丹田へと落とす感覚。

 臍の裏にあたる命門を開放し、背骨の軸を尾骶骨までまっすぐに繋ぐ。
 体内にある「脈」を臓腑から頭、臓腑から腰まで繋ぎ伸ばす。

 股関節を緩め、踵に意識と重心とを収束させる。
 かくて「脈」は、一本の棒のような形で頭から脚まで、私の肉体を貫く。

 イメージするのは、中が空洞の筒。
 満たされることのない、渇望の形。

 肉体も、精神も、全て削ぎ落された無。
 そこで、無極たる空の筒は、満たす中身を求めて太極を為す。

「我は飢え渇くもの。身を満たすを求め。体を潤すを求め。
 魂を温めるを求む、餓えの鬼。
 然るにこの身に刻む号、『愛染飢鬼』林 希美!」

 いつかの張三と同様に、号を定め、名を宣ずる。
 そのように世界と己に、定義を刻み込む。

「勝手に満足して死ぬな!! 張三!」

 体が自然と、いつも追いかけてきたアイツの動きを模倣する。

「私は、まだ、満足(まんぷく)してない!
 まだ足りない! もっと、アンタと、色んなものを喰いたい!!」

 否、模倣ではない。その理念を、林希美の肉体として再現するための最適を実行する。

「これが、今日限りの私の絶招――」

 握りこんだ清王朝のダイヤが輝く。
 一瞬、若き日のカリー・魔幇が、私に微笑んでくれた気がした。

「――『愛染飢鬼金剛掌』!」

 そして、渾身の一撃が錆鱗を穿ち、『麒麟の涙』は八卦龍の眉間へと叩き込まれた。

 錆びた龍の鱗が剥がれ、そこから、一人の男の体が落下する。
 私は、下山アンドロメダさんの「高低差を無視して歩く力」でそれに駆け寄ると、張三の巨体を抱きとめた。

「……林希美」

 薄く目を開け、張三が呟く。

「ここまでやるとは、思わなかった」
「アンタの、同盟相手だからね」 

 鼓動はある。
 体温もある。

 生きている。
 なら、それでいい。

 上海を狂騒の渦に巻き込んだ、清王朝のダイヤ『麒麟の涙』は、燃え尽きた。
 各地の『魔幇』の拠点は張三の『鉄杵』解除によって崩落し。
 『魔幇』構成員の意志を縛っていた『蟲』は消え去った。
 五爪の翁は生きているが、劉炎嵐に敗北したことが世界中に知られることで、その絶対性は剥奪された。
 組織で暗躍していた七鴉翁は、死んだ。

 これから、多くのことが変わるだろう。

 『魔幇』はどうなるのか。
 この上海は、どうなるのか。 

 けれど、今はいい。
 私達は、生き延びたのだ。

 だから、この後のことは、食事を済ませて、腹を満たしてから、後で考えることにしよう。




12.『民以食為天(めしくうふたり)』――林 希美(リン・シーメイ)


 様々な香辛料の匂いが湯気となって立ち上り、酒の入った人々の喧噪に撹拌される混沌の屋台街。工区の労働者の腹を満たす場所。
 その一角で、私は、張三と歩いていた。

 つい先ほどまで、屋台外の一角は、先日の『破幇』に関わった魔人たちの宴会で大いににぎわっていた。

 いつの間にか意気投合していたらしい白髪黒羽さんと、喬芽芽さんが、双喜さんの背中をばんばんと叩きながらダル絡みし。

 突如現れて強力してくれた下山アンドロメダさんと華さん……死神ちゃん? とかいうあだ名の女の子は、劉炎嵐さんと王双葉さんをにこやかにひやかしていた。

 拳狐さんと恋辻メーメーさんは、張三と何やら武術論で盛り上がり、郭亀石さんは少し離れたところで、リンシャさんと深刻そうな話をしていた。

 みんな、それぞれに、この街で積み重ねてきた物語がある。
 私はその全てを知っているわけではない。
 けれど、杯を酌み交わし、食事を囲むみんなは、皆、幸せそうに見えた。

 万事ハッピーエンドではないとしても、きっと、それぞれが納得のいく着地点に辿り着くことができたのだろう。

 それは、私も同じだ。
 皆のおかげで、取りこぼしたものはあっても、どうしても握りしめていたものだけは、失わずに済んだ。

「……終わったなあ」
「そうだね」

 あれから、どこか、張三はぼんやりと物思いにふけることが増えていた。
 理由は想像できる。
 百年の間目指していたことを達成した。
 そのために命を捨てるつもりだった。

 だから、張三は「その先」を考えてこなかったし、想像もできないのだろう。

「あ、あった!」

 しばらく歩いて、私は目的の屋台を見つけた。
 熱された鉄板ごしに揺らぐ店主さんに、私は声をかける。

「ご主人、双蛋(ダブルエッグ)、一つください!」
「おお、小妹妹(じょうちゃん)。今日はアンタが奢る番かい?」
「うん。いつかのお返し」
「そうかい。なら、少しサービスしようかね」

 初めてここで食事をしてから、私はたびたびこの屋台で、この卵二つを使った鉄板炒飯を食べに来ていた。

 そうすることで、自分のスタート地点を確かめることができるような気がしたからだ。

 私の注文を受けると、屋台の店主は鉄板に油を敷いた。

 手早く卵を二つ片手で割って溶き、鉄板に満ちた油で揚げるように焼く。
 じゅわじゅわと油が跳ねる音、焦げの香りが胃を刺激する。

 卵の脇でニンジン、玉ねぎ、青ネギ、豆のペーストが炒められる。
 数十秒でそれらが混ぜられ、最後に米が投入された。

 両手の金属ヘラで、カシャンカシャンとリズミカルに具材と米が撹拌される。
 見る見るうちに米が黄色に染めあがり、鉄板に押し付けられて焦げ目がつけられた。

 塩にいくつかの香辛料、そして醤。
 無造作な味付けがされるまで、およそ1分程度。
 湯気のたつ炒飯が、紙容器に並々と盛られた。

 あの時と同じ、変わらない鮮やかな手さばき。

「ほら、食べるよ? ご主人サービス盛りすぎ。
 私だけじゃ食べきれないよ。わけたげるからさ」
「あー……ああ」

 張三を屋台街の一角のテーブルに座らせる。

 私の前には、湯気の立つ炒飯。
 張三の前には、白酒の注がれた小さなグラスと、烤肉串、焼牡蠣、豚足、鴨のホルモンといった小吃。

 私が初めて張三に奢ってもらったときと同じ光景。
 だが、立場は逆だ。

 あの時、私は自分の目的を見失っていた。
 そこに、張三は食と、道とを示してくれた。

 今、張三は、おそらく自分の目的を見失っている。
 だから、今度は、私の番だ。

「ほら、冷めちゃうでしょ。最高なうちに食べよ。
 まさかさっきの宴会でお腹いっぱいってことないでしょ?
 拳狐さんと話しててほとんど食べてないの見てるんだからね」

 そう言って、小吃の皿に炒飯を盛り、張三へと差し出す。

「……あー」

 張三は、ぼんやりと、それを見た。
 以前なら、勢い込んで手をつけたはずのそれを、呆と眺めている。

「『七鴉翁を殺して。兄貴を守れなくて。俺が生き延びて、悠長に飯食ってていいのか』」

 私の言葉に、張三が目を丸くした。

「……そんな顔してる」
「まあ、そんなところだよ」

 観念したように、張三は両手をあげた。
 その表情は、どこか、道に迷った子どものように見えた。

 私の何倍も年を重ねていても、色々なことを知っていても、きっと、張三は、自分のことを考える時間は、ほとんどなかったのだと思う。

 自分が止められなかった『魔幇』の暴走を止めるために。
 歪んでしまった兄の理想に始末をつけるために。

 ずっとそのことばかりを考えて、個として、張三という人間として、どう生きるかという、当たり前のことを二の次にしてきたのだろう。

「でも、生きてるんだからさ。
 食べていいんだよ。楽しんで、いいんだよ」

 だから。
 今度は、私が伝えるのだ。

 あの日、張三がくれた言葉を、今度は私が返す番だ。

「『酈食其伝曰、民以食為天。
 酒と飯は一番楽しめるやり方でいただくのが、一番の礼儀ってもんだからなあ』
 ……でしょ?」
「ああ。……そうだ。そんなことも、言ったっけなあ」

 観念したようにぼりぼりと頭をかき、そして、ようやく張三の表情が和らいだ。

「食うか」
「うん」

 そして、私たちは、湯気を立てる炒飯を口に運ぶ。

 油で強調された卵の濃厚な味を、米の甘さと唐辛子の刺激が追いかける。
 野菜の食感が時折ざくざくと混じり、食の実感を一層のものにする。

 美味しい。

 きっと、一人で食べるよりも、今、こうして、二人で食べるから、もっと美味しい。

「……林希美」
「何?」
「おまえさんが同盟相手で、本当によかった」
「でしょ」

 二つのグラスに白酒を注ぐ。

 これまで、張三は、痛みを止めるための麻酔として、酔っていたのだと思う。
 だから、これからは、もっと楽しく酔えればいい。

「何に干杯する?」

 以前は、二人だけの『破幇同盟』の締結を誓って、杯を交わした。
 けれど、今はもう、『破幇』は成った。

 だから、私はこう言った。

「林希美と、張三。
 これから世界中を食いつくす、食べ歩き仲間に」

 これから、張三がやるべきことはあるだろう。
 彼がこの街に求められる場面も増えるだろう。
 だから、せめて、私くらいは、こんな馬鹿らしいほど明るい明日を、こいつに見せてやるのだ。

 張三は、目をまんまるにした後、やがて、大きな口をあげて笑った。

「ははは! そいつはいい!
 最強の『破幇同盟』改め、『世界食べ歩き仲間』か!
 まったく、長生きはするもんだ。干杯!」

 そして、私は白酒を舐めるように啜った。
 果物を思わせる風味。パイナップルに近い香気が爽やかに鼻を抜ける。

 張三は、白酒のグラスを掲げて一息で呷った。
 ほんの一口だけなのに、まるで、張三の岩のような顔面は、焼けた石のように真っ赤だった。


 中華民国歴115年――西暦2026年。
 冬から春へと移り変わる季節。

 『破幇同盟』は、終わりを告げ。
 林希美と張三は、この街を飛び出す。

 魔都上海での物語はここで終わり。

 ここからは、食べ歩きが趣味の私たち凸凹コンビが、上海で出会った皆との縁でまた色々なトラブルに巻き込まれるのだが、それはまた別の機会に語るとしよう。



   【破】      【幇】



【英雄たちの行く末】

○双喜
 ダイヤを巡る狂騒が終われば命を失う定めだった。
 しかし、彼女はまだ生きている。
 それは、ダイヤが失われ、『魔幇』の屋台骨が崩壊したことで「誰もが成り上がることができる」という期待による、新たな狂騒が始まったことが理由かもしれないし、あるいは、どこかのお節介が彼女の『太可愛了』な生き方に、加護(バフ)を与え続けているせいかもしれない。
 地雷系ファッションの解決屋とタッグを組んで、事態をさらに混沌とさせる彼女の姿が上海中で目撃されている。


○拳狐
 上海最強の一角として、『魔幇』とは別主体のプロモーターが運営することになった上海大賽で様々な武人と拳を交えている。
 張三や劉炎嵐とも非公式で手合わせをしたらしいが、その結果はと聞いても、不敵な笑みを浮かべるだけだという。


○郭 亀岩
 『魔幇』が事実上崩壊したことで、彼の所属する『点心會』は地元の調整役として仕事が倍増することになった。彼もまた、様々なもめ事の調整に奔走する日々だ。
 その隣には、夏でも大きな帽子とコートに身を包んだ相棒が常に控えているという。


○白髪黒羽
 対『魔幇』の活躍によりさらに評判を上げた『万事屋』は、裏表世界問わずに引っ張りだことなっている。
 彼女の親友は無事出産。ダイヤを出産祝いにはできなかったが、『万事屋』が上海で繰り広げた武勇伝に大笑いし、育児の合間に白髪黒羽を呼び出しては、そのエピソードの一つ一つにツッコミを入れながら楽しんでいるらしい。


○喬芽芽
 カルミア・チャムリーの護衛を続けつつ、無敵の解決屋として上海で活動している。
 最近では、自分以外の「カワイイ」の才能を見出し、育てることをライフワークとしているようだ。


○下山アンドロメダ師匠
 相変わらず、面白そうな弟子候補を見つけては翻弄する生活を続けている。
 その一方で、清王朝のロストテクノロジーこと、アルクトゥールス星由来の技術を再研究し、【黒物子(ウーズ)】の解析と、そこに吸収された生命体の再構成について、知見を重ねているようだ。


○張琅月(恋辻メーメー)(+透明ワニ)
 世界一カワイイ解決屋のプロデュースで、上海一区画の地域密着アイドルとして名を知られるようになった。
 彼女の過去を探り出そうとするパパラッチや、熱狂的なストーカーファンが白いワニに襲われたという噂もあるが、おおむねその活動は順風満帆のようだ。


○華(死神)
 上海のとある屋台街の看板娘として働いている。
 七鴉翁の『七つの仔』の一羽が独立した存在であり、本来であれば本体の死亡とともに消滅するはずであったが、コピー対象能力が特殊な蘇生系であったことから、疑似的に一個の生命として成立することになった。
 時折、近所のカフェで『電梟』王 双葉と談笑するところを目撃されている。


○劉炎嵐
 彼は怒り続けている。
 どれだけ強くなろうとも、全てを幸せにするのに、この熱は足りない。
 そんな当たり前のことを割り切れずに、劉炎嵐は怒り続ける。
 無謀な夢だと諦めることはない。
 届かぬ理想に絶望することはない。
 青の焔に己を灼き尽くすこともない。
 なぜならば、彼の左の薬指に輝く約束が、彼に最も大切なものを示し続けているからだ。



   【破】      【幇】




「ねえ、Mr.ファミマ」
「どうしました、カルミア様」
「今回の騒動で、清王朝のダイヤ……王権証器(レガリア)『麒麟の涙』は、一体誰を王と定めたことになるのかしら」
「ファーッファッファッ。そうですね。ミーが考えるに、ダイヤは概念的気体になってこの街中に散ったわけで、まあ、強いて言うのなら」
「言うのなら?」
「この街の張三李四(どこにでもいるだれか)、皆が魔都の王になった、というところなんではないでしょうかねえ」


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