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ダンゲロスSS上海
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ダンゲロスSS上海

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dangerousss_shanghai

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「てめぇ、今何と言いやがった!」

昼飯時を過ぎた上海市内の食堂に、怒声が響いた。
声の主は、通りにはみ出た椅子から立ち上がった男だ。
岩壁を思わせる体つきをした、大柄な男である。
名を王烈と言う。

王烈の声に呼応して、幾人かの男が立ち上がった。
無骨な身なりの男達は皆一様に怒気を含み、声の先を睨んでいる。
その様子を見るに、おそらくは王烈の手下の類であろう。
店内の客はいつでも逃げ出せるようにと、腰を浮かせ始めている。

上海において、このような出来事は珍しいものではない。
面倒事の一つや二つ、街を少しぶらつくだけですぐに見つかる。
ただ違うところがあるとすれば、王烈が声を荒げた相手である。

「聞こえなかったのなら、もう一度言ってやろう。おぬしが上海覇者になるなど、到底無理だと言ったのだ」

一つ空卓を挟んだ座席から、長髪の男が立ち上がる。
丈の長いコートを羽織ったその男は、顔に面を付けていた。
口元を曝け出した狐の面である。
白地に差した目元の朱は濁り、濡れ固まった血のようにも見える。
そうして隈取られた釣り目の中から、ぎょろりと黒い瞳が覗いていた。

「ふざけたことを抜かすやつだ。俺が勝ち残れないというなら、その理由を言ってみろ!」

さて、事の起こりはこうである。
王烈とその手下達は昼間から酒を呑み、喧しく歓談に興じていた。
周囲の客は迷惑そうに横目で見ていたが、厄介事を嫌ってか、口を噤む者ばかり。
それ故、俺は上海大賽に出場するぞ、王烈の兄貴なら優勝できますぜ、そんなやり取りが延々と繰り返されていた。
そこに狐面の男が一言、水を差したのだ。

「言葉で諭しても納得するまい。文句があるなら、かかって来るがいい」

狐面の男はおもむろに拳を握り、待ちの構えに入る。
その構えは、実に基本の型に忠実な構えであった。
古めかしいと形容しても良いほどに、ありふれた構えであった。

「そんなカビの生えたような構えで、王烈の兄貴に勝てるものかよ。相手をするなら、俺で十分だぜ」

王烈の手下の一人が、ぐいと前へと進み出る。
体躯は王烈ほどではないが、良く鍛えられた身体をしている。
手下の中でも特に血気盛んな若者であった。
公衆の面前で慕う相手の面子を潰されたのだ。
自らの拳で懲らしめてやろうと考えるのも無理はない。

「いかなる城塞も盤石の基礎なくしては成り立たぬ。古よりの型を侮れば、負けるが道理よ」

面に隠れていない口元だけが動き、言葉を紡ぐ。
構えは変わらず、一切崩れることはない。
その立ち姿は、寺院に鎮座する木像のようでもある。

「ふざけやがって……!」

手下の男は怒りの赴くまま、思い切り殴りかかった。
刹那、ドンと大きく鈍い音がした。
その余韻を追いかけるように、ドサリと音が続く。

殴りかかった男が、地に伏していた。
狐面の男の構えは些かも変わってはいない。
コートの右袖が揺らめき、通りに微かな風が吹いた。



「ぬぅ」

王烈は、見た。
いや、見えなかったと言うべきか。
王烈に見えたのは、狐面の男の袖口がわずかに動くところのみである。
それにもかかわらず、手下は倒れ伏している。
おそらくは、王烈の眼で捉えられぬ速さで拳が繰り出されたのだろう。

無論、ボクサーのジャブのように、目にも止まらぬ程の打撃というものはある。
しかし、王烈は音を聞いた。
大きく鈍い音だ。
肉を抉り、臓腑に響く音だ。
顎を狙い、脳を揺らしたのでは、ああはなるまい。
即ち、狐面の男は何か尋常ならざる業を使ったのだ。

「てめぇ、魔人か」

魔人。
それは、自らの認識を他者に押し付ける異能を持つ者。
この世の理から外れた結果を世界にもたらす者。
歴史に名を残す偉人の中にも、相当数の魔人がいたとされる。

ここ上海は魔人が数多く集う都市である。
常識から外れた出来事が起これば、原因はまず魔人と考えて仔細ない。
理外の業を見た王烈が、狐面の男を魔人と考えるのはごく自然な事と言えた。

「如何にも。己(おれ)は魔人、名は拳狐(チュアンフー)――」

構えをそのままに、狐面の男は名乗った。
特に気負うこともなく、魔人であることを素直に認めた。
当たり前のことを何故聞くのか、そういう口調であった。

王烈は思案する。
相手が魔人なら、単純な殴り合いで決着が付くとは限らない。
能力の中身を知らぬまま闘えば、手痛い火傷を負うこともありうる。
来たる上海大賽を前に、それは避けたい。
どれ、ここは一つ鎌を掛けてみるか。

「能力は肉体強化、いや速度強化の類か?ふむ、使うには溜めが必要と見た」

王烈は最初に思いついた能力を、そのまま拳狐に問うてみた。
もちろん、こんなものは当てずっぽうだ。
見えざる第三の拳を放つ。
自由自在に望む音を生み出す。
拳の速さを増す以外にも、可能性はいくらでもある。
待ちに徹することから溜めに時間を要すると考えたが、それとて確信に足る推測とは言えぬ。

しかし、兎にも角にもまず問いかけてみねば始まらない。
狐の面に遮られて、表情の変化は掴みにくい。
不動の構えを取るが故に、身体の動きから心情を察するのも容易ではない。
だが、声色から何か読み取れるものがあれば、それは勝利の糸口となりうる。

「然り。我が『為逸速的一息(いっそくがためのいっそく)』は、一時の静を以て一瞬の動をもたらす」

こいつは馬鹿か。
王烈は呆れた。
自らの能力を問われるままに明かすとは。

確かに魔人の能力は強力無比だ。
しかし、既知か否かでその価値は大きく変わる。
手札を伏せずに戦うという行為は、眼前の優位を捨てることに等しい。
当然、拳狐の言葉が真であるとは限らない。
が、どうにも嘘を吐いているようには思えぬ。

ならば、こいつは侮っているのか。
能力を明かせば、俺達が怖気づくとでも考えたか。
舐めるなよ。
俺も、俺の手下達も、臆病者ではない。
馬鹿な奴ばかりだが、闘いとなれば頭が回る。

「そいつは良いことを聞いたなぁ」
「まったくだ。息の合う仲間がいて良かったぜ」
「これだけいれば事足りるでしょうネ」

王烈の胸中に応えるかのように、手下達がぞろぞろと歩を進めた。
互いに視線を見やり、呼吸を整える。
そうしながら、拳狐を囲むように位置を取った。

「まとめて来るか。良かろう」

そう言うや否や、拳狐は左脚に重心を移した。
右足が地を離れ、宙に浮く。
驚くほど滑らかに、拳狐は構えを変えた。
紅鶴のごとき一本立ちの構えであった。



少しの睨み合いを経て、王烈の手下達は拳狐に襲い掛かった。
一斉に、ではない。
攻めの動き、その起こりがずれている。
事情を知らぬ者が見れば、息を合わせるのにしくじった、そう見えるだろう。

しかし、これこそが王烈の手下達の策であった。
能力を使うために溜めが必要となる。
溜めが必要ならば、溜める間を与えなければ良い。
入れ替わり立ち代わり、時間差で攻撃を加え続ければ、やがて隙が生まれるに違いない。
そういう算段である。
打たれる覚悟を持って、集団の力で勝利しようというのだ。

「なるほど、なかなか悪くない手だ」

感心したように拳狐がつぶやく。
だがすぐに軽い笑みを浮かべ、こう続けた。

「相手が己でなければな」

憤りを覚えながらも、手下達は拳狐との距離を詰めていく。
やがて、両者の間合いは臨界点に達した。
一対多の攻防が始まる。

一人目。
音が聞こえた。
後方へ吹き飛び、腹部を抱える。
拳狐の構えは変わらない。

二人目。
音が聞こえた。
顔をしかめながら仰け反り、後ろへよろめく。
拳狐の構えは変わらない。

三人目。
音が聞こえた。
腕を押さえ、痛みをこらえる。
拳狐の構えは変わらない。

溜める間は、無いように思われた。
巧く欺かれたのか。
疑念が王烈達の胸中に去来する。
そのときだった。

四人目。
音が聞こえた。
バランスを崩し、その場に転ぶ。

今度は、見えた。
王烈にも、その手下達にも見えた。
微かにではあるが、拳狐が繰り出した攻撃の軌道が見えた。
膝を狙って、右足で蹴り込む様が見えた。

五人目。
音が聞こえた。
息を詰まらせ、必死にもがく。

今度も、見えた。
左肘を後方に突き出し、胸を抉る様が見えた。
その間、右手と右足は微動だにしていない。
次第に拳狐の技のからくりが解ってくる。

拳狐が使う『為逸速的一息』は、止まっているものを高速で動かす。
つまり、神速で攻めを繰り出すには、まず動きを止めておかねばならぬ。
それ故に連続で使うことはできない。
溜めが必要とは、そういう理屈である。

しかし、個々の部位を別々に動かせるとすれば、どうか。
全身を連動させず、それぞれ独立した動きで技を繰り出せば、どうなるか。
そこに停止時間が生まれる。

右足で蹴り、右手と左手を休ませる。
右手で打ち、左手と右足を休ませる。
左手で叩き、右手と右足を休ませる。
このような繰り返しが、能力の連続発動を可能にしていた。
日々の修練で鍛えられた体幹と、身体に染みついた型があってこその絶技である。

だが、この技を見て手下達はむしろ勢い付いた。
微かであっても、攻撃の軌道が見える。
即ち、一撃の威力が落ちているということだ。
目を慣らせば、避けうるということだ。
諦めなければ勝機はある、そう考えた。

「その不屈ぶりは称賛に値する。が、己に相手をいたぶり続ける趣味はないのでな。一気に決めさせてもらうぞ」

拳狐が纏うコート、その袖口から何かが不意に飛び出した。
それは爆発的に加速し、間合いの外から手下の一人へと襲い掛かる。
短杖であった。
鈍色に輝く、伸縮式の隠し杖である。

『為逸速的一息』が速めるのは、何も自らの肉体に限らない。
拳狐が備える武具もまた、電光石火の攻めをもたらす。
予想外の攻めに、手下達は思わず動きを止めた。

瞬く間に、均衡が崩れる。
その隙を見逃す拳狐ではない。
数瞬の後、手下達は皆、膝をついていた。

手下達は諦めることなく、何とか立ち上がろうとする。
だがそれを制して、王烈が前に出た。

「お前ら、よくやった。もう十分だ。後は俺に任せろ」

王烈の酔いは、すっかり醒めている。
その顔つきは、戦場に赴く闘士のそれであった。

「し、しかし、王烈の兄貴……!」

「心意気は嬉しいが、お前らでは到底手に負えまい。この男、どうやら俺が本気を出す価値がある相手のようだ」

王烈にとって、もはや拳狐は自らの強さに異を唱える邪魔者ではなくなっていた。
最強を競うに値する、絶好の敵へと変じていた。

「それにしてもあんた、拳士のくせに武器も使うのだな」

王烈の口ぶりは、拳狐を咎めるものではない。
元々、ルール無用の喧嘩である。
数を頼りに攻めていた側が、武器の使用を咎めるのもおかしな話だ。
さらに言えば、上海大賽に武器禁止の規定はない。
最強を名乗って上海覇者を目指そうとする者が、武器を使うのは卑怯だなどと言える訳がないのだ。
故にこの問いは、単純な興味から生じたものであった。

「使うとも。使うべきときにはな。よく奥の“手”などと言うだろう」

何でもありの私闘において、拳士が拳のみで戦うのは、大抵その方が強いからだ。
生兵法は怪我の元。
扱いに慣れぬ武器を振るえば、かえって不利を招きかねない。
だが、鍛錬を重ねて十分に習熟したならば、拳と同様に、あるいは拳以上に有効な選択肢となる。

「そも拳士と名乗った覚えはないがな」

拳狐は、そう付け加えた。

「『拳狐』などと名乗っておきながら、そんなことをぬかすのか?」

冗談めかして、王烈が問いかける。

「名乗っているではないか。ずる賢く人を化かす獣だとな」

拳狐は被った面を指で小突き、愉快そうに言葉を返す。
返答を聞き、王烈は呵呵と笑った。
ひとしきり笑った後、拳狐を真正面から見据え、拳を構えた。

「来るか、王烈」

「おう、行くとも」

上海大賽、その前哨戦のうち、一つが今始まる。



強敵を前に、王烈は考える。
先ほど拳狐が繰り出した鈍色の短杖。
警戒すべき奥の手だが、あれ一つで終わりとは限らない。
武器のもう一つや二つ、隠し持っていることは十分にありうる。
いや、あるいはコートの裏側にぞろりと、暗器や飛び道具の類を潜ませていてもおかしくはない。

(だが、勝てるはずだ。俺の『好漢の鎧(ナイスガイ)』ならば)

何を隠そう、王烈もまた魔人であった。
能力の名は『好漢の鎧』。
打撃や斬撃の類を退ける、概念の鎧を身に纏う能力である。
流石に無敵とまでは行かぬが、外部から受ける痛みや衝撃を大きく減じられる。

特筆すべきは、その発動条件である。
『好漢の鎧』は王烈の意思を問わず、攻撃を受けた時点で自動的に発動する。
即ち、拳狐の『為逸速的一息』を以てしても、隙を突くことはできないということだ。
神速の一撃が必殺の威力を持つとしても、持ち前の耐久力と合わせれば受け切れる。
そう、そのはずなのだ。

しかし、王烈は攻めあぐねていた。
攻めを躊躇う理由は、待ち構える拳狐の姿勢にある。
いや、待ち構えるという言い方では語弊があろう。
構えていないのだ。
全身の力を抜き、無策で立ち尽くしているように見える。
隙だらけのその待ちは、好きなだけ打って来いと誘い掛けるようであった。
それでいて、何か得体の知れない気配を感じずにはいられない。

(ええい、ままよ。俺の武は、直進あるのみ!)

意を決して、王烈は間合いに入った。
その瞬間である。

激しい痛みが、肩に走る。
重い衝撃が、全身へ響いていく。
目に映るのは、短杖を手に片膝をついている拳狐の姿。
纏うコートの裾が、ふわりと接地する。
これらが示す事実は一つ。
拳狐は様子見などせず、最初から渾身の一撃を放ってきた。
ほぐれた全身をくまなく連動させた、乾坤一擲の打撃に違いない。

能力によって軽減してもなお、耐え難い痛みであった。
もし『好漢の鎧』がなければ、一瞬で気を失っていたかも知れぬ。
頭蓋に打ち込まれていたならば、絶命していたとしても不思議はない。
それほどの一撃であった。

(だが、耐えた。耐え抜いた。この勝負、俺の勝ちだ!)

痛みをこらえながら、王烈は肩を打たれた側とは逆の拳を振り下ろす。
剛腕から放たれる強打は、拳狐の骨を砕く勢いである。
もはや『為逸速的一息』は使えない。
勝負は決したかに思われた。

然し。
拳狐は悠然と王烈の拳をいなし、手首と肘を取った。
その動きは何の変哲もない、()()()()()()()であった。
王烈の双眸に、拳狐の姿はしかと映っている。
映っているにもかかわらず、捉えきれない。
自分の中で何かがずれていくような感覚に、王烈はひどく困惑した。

戦場における疾さとは、単純な速度の速さばかりではない。
息遣いの観察、視線の誘導、有利な位置取り。
そういった細かな積み重ねが生む疾さというものもある。
まずもって、拳狐の技の仕掛けが巧く、疾いのだ。
だが、王烈を惑わせているものはそれだけではない。

肝要な点は、拳狐がこれまでただの一度も普通の速さで攻めていないことにある。
神速に眼が慣れ始めているが故、平常の動きは逆に異質なものに感じられる。
剛速球を見逃し続けた後、スローカーブを投げられた打者のように、王烈は自らの感覚を狂わされた。
この感覚の齟齬を即座に修正できる者は、上海広しと言えどもそう多くなかろう。

王烈の身体は宙へと浮き、そのまま地面へと投げつけられる。
背中に大きな痛みはない。
『好漢の鎧』は十全に機能している。

しかし、別の痛みが身体の内側から王烈を襲った。
痛みの出処は、殴りかかった腕である。
拳狐に取られた手首と肘である。
何が起きたかを、王烈はすぐに悟った。
骨を外されたのだ。

「安心したぞ。肌は硬くとも、節は変わらずなのだな」

王烈の手首を取ったまま、拳狐が言葉をかけた。
静止している。
稲荷伸を守護する狛狐のように、じっと動かないでいる。
狐の面の奥に潜む瞳だけが、次の獲物を見定めていた。

「さて、王烈よ。負けを認めるか?」

「……俺の負けだ」

王烈は、素直に自らの負けを認めた。
認めざるを得なかった。
もし抗おうとすれば、拳狐は疾風の如き勢いで他の骨を外しにかかることだろう。
既に詰んでいる勝負を無理に続けるのは、闘士として潔いとは言えまい。

「しかし、あの短杖が奥の手ではなかったのか?」

負け惜しみではないが、王烈は問わずにはいられなかった。

「奥の手だとも。だがな、王烈。勝負などというものは、切り札を見せ札にしてからが本番よ」

強い手を見続けた者の意識は、自然、その手を破ることへと向かう。
あの強い手さえ何とかすれば、勝利が得られるはずだ。
今の手札で防ぐには、どうするべきか。
そう思案してしまう。

だが、その思考の流れは仕掛けられた罠である。
強い手へと意識を反らした後なら、凡庸な手も十分に勝負の決め手となりうる。
切り札を見せつけ、ただの札で勝利する。
虎の威を借る狐と言えども、狐自身が弱いとは限らぬ。
これこそが、拳狐が繰り出す虚の拳であった。

「もっとも、切り札が一枚のみとは限らぬがな」

拳狐は笑みを浮かべながら、言葉を続けた。
まだまだ見せていない手札はあるぞ、そう言いたげである。
一枚上手どころの話ではなかったのだと、このとき王烈は理解した。



「それで拳狐よ。上海大賽が物足りないとはどういう意味だ?」

時は、空が赤みを帯び始める頃。
食堂の卓の一つで、拳狐と王烈は酒を酌み交わしていた。

決着の後、拳狐は店主に詫びを入れ、金を渡した。
店の壊れた箇所を修復し、迷惑をかけた他の客たちに馳走を振る舞うのに十分な金額であった。
王烈の手下達にも軽く手当を施し、医者にかかるための金をくれてやった。

拳狐は当然、王烈にも治療費の受け持ちを申し出た。
だが、王烈はその申し出を断り、代わりに拳狐と話がしたいと望んだ。
おそらく断られるだろう、王烈はそう考えていたが、意外にも拳狐は快諾した。
卓を囲んでみて分かったことだが、案外話の通じる男であった。
武に対する強いこだわりを除けば、ではあるが。

「文字通りの意味よ。上海覇者を決するに、今の上海大賽では足りぬのだ」

拳狐の話を要約すれば、こうだ。
上海大賽は、なるほど最強を名乗る者達による闘いである。
しかし、上海にはあえて最強を名乗らず、街に潜んでいる手練れも少なくない。
さらには自らの強さに気付かぬまま、日々を過ごしている実力者がいるかも知れぬ。
まだ見ぬつわものを捨て置いて、大会という狭い枠の中だけで上海覇者を決めるなど、お笑い草だ。
そういう趣旨の話であった。

「それ故、まずは強者を炙り出さねばなるまい。大火を燃え上らせるため、薪をくべなければ」

「しかし、強者を炙り出すと言っても、今から上海中を探し回るわけにも行かないぜ」

上海大賽の開催まで、もうそれほど時間はない。
解決屋の力を借りたとしても、すぐに強者を見つけ出すのは難しいはずだ。

「絶好の種火があるではないか。清王朝のダイヤモンドという種火が」

「清王朝のダイヤ?!奪還の褒美に、人探しを願おうとでも言うのか?!」

清王朝のダイヤモンド。
それは百年節を前にして、何者かに奪われた魔幇の至宝。
犯人の首と共に差し出せば、望むがままの褒美を得られる夢の引換券である。

「ふっ、それも面白かろうが、そうではない。今やあの石ころは垂涎の的だ。巧く使えば、絶好の囮となろう」

願望の象徴たるダイヤは上海に住まう数多の人々を惹きつけ、必ずや争いを巻き起こす。
ダイヤの在処に集った者の中には、功名心とは無縁の強者もいるはずだ。
あるいはダイヤを巡る争いそのものを求めて、何処からか猛者が現れるやも知れぬ。
水面下に潜む者達を巻き込めれば、上海覇者は真に誉ある称号と化す。
例えばの話、上海覇者自身がダイヤを持っているぞと高らかに公言すれば、上海大賽はさぞ熱の入った祭になることだろう。

「しかし、そんなことをすれば、魔幇の奴らが黙ってはいないぜ」

「望むところよ。所詮、己は強者と戦いたいだけの武闘馬鹿に過ぎぬ」

自嘲気味に拳狐は笑い、酒杯を呷る。
かち割氷がカラリと鳴り、陽光を受けてダイヤの如く煌めいた。

「それにだ……」

ふと何かを思い出したように、拳狐は狐面の奥の目を細める。

「十全に炎が燃え上れば、あやつも重い腰を上げるに違いない」

誰に聞かせるでもなく、拳狐は小さくつぶやいた。
闘いの幕開けは、近い。
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