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ダンゲロスSS上海

『破幇同盟』

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磨鍼溪 在象耳山下。
世傳李太白 讀書山中、未成棄去。
過是溪、逢老媪 方磨鐡杵、問之、曰「欲作針」。
太白感其意、還 卒業。
嫗自言「武姓」、今溪傍有武氏巖。
『方輿勝覽』巻五三、眉州·磨鍼溪


■1 『飢鬼』の手記


 中華民国歴114年――西暦2025年。
 上海(シャンハイ)宝山(バオシャン)区。
 大型企業の工場や大学の集まる、上海北部の一角で、私は、彼と出会った。

 鉄の人。
 秋から冬へと変わる季節に、私は、鉄と上海を生きたのだ。



■2 宝山区月浦鎮


 標的の勤める工場から数kmのところで、私は車から降ろされた。

 他の車が通るたびに粉塵が舞い上がり、咳が漏れる。
 ぼんやりと濁った景色の向こうに高い煙突がいくつも見えた。

 鉄鉱石から鉄を取り出して製品にするための工場があるらしい。

 昔は日本と技術連携をして、友好の証だともてはやされたこともあった。
 今は、日本が時代遅れの設備を押し付けたことによる公害の温床扱いだ。

 より新しい技術を導入した工場に押され、業界の主流からは弾かれた区画。
 上海市の発展期、多くの建材需要の中で発展した工場であるとともに、古臭い公害の元凶。
 この街の礎でありながら、時代の波に乗り遅れ、錆びついた産業。
 それが、この工業地帯だった。

 時々評価は表裏反転する中で、確実なことは一つ。
 しわ寄せを食らうのはここで暮らすことしかできない人間の肺と喉だ。

 柄になく小難しいことを考えていたら、腹が鳴った。

「あらあら、丫头(お嬢ちゃん)。御家族にでも会いに来たの?
 ほら、よかったら食べていきなさいな」

 耳ざとくそれを聞きつけたのか、道端の店先にいた老婦人が、饅頭を差し出してきた。決して繁盛しているようには見えないのに、お人よしもいいところだ。

 本能が食べ物を求める。
 しかし、饅頭に意識を向けた瞬間、胸に仕込まれた『蟲』が蠢くのが分かった。
 腹をを十分に満たす食事をしてはならない。
 それが、組織から私に下された命令のひとつだ。
 守らなければ、胸に刻まれた『蟲』は私を殺すだろう。

「謝々。お気持ちだけで構いません。
 あの、鋼鉄股份有限公司の第6区画はこちらでよいでしょうか」

 できるだけ丁寧な口調を繕って断り、代わりに目指す工場の場所を尋ねた。
 こちらのイントネーションで、母語でないことがわかったのだろう。
 老婦人は目を細めると、ゆっくりとした発音で話してくれた。

「あらあら。外の国の方だったのね。
 だめねえ、最近の若い人はみんなお綺麗で、お顔立ちで国がわからないのだもの。
 ええ、ええ、それで間違いありませんよ。
 第6で人を探すなら、張哥(張兄さん)……白髪の、体の大きい男の人を尋ねて御覧なさい。きっと、よくしてもらえるはずよ」

 張哥(張兄さん)
 白髪で巨躯の男性。
 標的の特徴と合致する。

 これが、私が殺すべき相手。
 組織から、「清王朝のダイヤ」を奪ったと目される容疑者の一人。

 ――張三(チャン・サン)

 組織創立の立役者の一人とされる男であり、組織からの離反者だった。
 張三……張家の三男坊。
 私の国で言えば「鈴木三郎」とでもいったところか。
 ありえないとは言わないが、偽名と考えるのが自然だろう。

「それより、本当にいいの? お腹の音がこちらまで聞こえるのよ?
 若い人はダイエットだなんていうけれど、きっとあなたはもっと食べた方が可愛らしいと思うわ」
「大丈夫です。私は、空腹の方が、調子がいいので」

 嘘ではない。
 空腹に意識が研ぎ澄まされていく。
 これが私の、ベストコンディションである。
 さあ、仕事を始めよう。



■3 鋼鉄股份有限公司第6区画


 事前には聞いていたが、標的がいるとされる敷地は拍子抜けするほど緩い保安体制だった。
 最低限の普通人による警備のみ。最新鋭の技術などは使われていない。
 産業スパイの危険は少ないという判断なのだろう。

 高さ数メートルの壁も、張られた鉄条網も、能力を発動させた私にとっては、軽くまたげる程度のハードルに過ぎない。
 一息で跳び越えて敷地内に侵入し、建物の屋根を伝い、警備の死角を辿って奥へと進んでいく。

 標的である男、張三はすぐに見つかった。
 製品である鋼材の品質について議論しているようだった。

 巨躯、という表現がふさわしい男だった。
 身長自体は2mやそこらといったところで、それくらいの人間ならば組織にも大勢いる。しかし、特筆すべきはその肉の厚みである。

 首、手首、足首、およそ人体において細い急所とされるところがどこも太い。
 特注であろう巨大な作業着でもなお体を収めきるには足りていない。

 そして、その肉体が見かけ倒しでないことはすぐに証明された。
 周りの職員と話しながら、張三は巨大な鋼材を軽々と持ち上げ、輸送車に積み込みだしたのだ。本来ならば重機でつり上げて搬入すべきレベルのものを、である。

 いや、違う。
 私は即座に、その「パフォーマンス」の意味するところを再解釈した。
 組織からの事前情報によれば、張三は接触を条件に鉄を操作する能力者だという。
 ならば、その重心、あるいは重さ自体を制御するなどしているのだろう。

 そもそも、私と同じで、相手は魔人。
 自己認識で世界の法則を歪曲する特異能力者だ。
 その力を用いれば、人間のフィジカルではありえないことだって当然に体現できる。

 息を殺し、物陰から標的が一人になるタイミングを伺う。

 どれほど身を潜めていたか。
 小さく腹が鳴る。
 当然だ。日が変わってから、何も口にしていないのだから。

 張三が、工場裏に入った。
 他に人目はない。
 警備のルートは確認済み、巡回員がこの場所に来るまでは時間がある。

 好機。

 跳躍。
 私は、数メートルの距離をただの一歩で詰めた。
 それは、本来の私の身体能力では、通常の人間では絶対に体現できない動き。
 その異常を為すことこそ、私の能力だ。

 眼前の巨体。素手で無防備な張三はこちらに背を向けている。

 殺った。

 そんな楽観的な結論を、私の加速した反応速度が否定した。

 背を向けたまま。
 張三がいつの間にか手にしていた鉄球が、鉄の棍棒へと変化し、私の心臓目掛けて伸びていた。

 張三の能力――鉄の操作。
 相手はすでに、戦闘体制に入っている――

 棍棒の間合いの内へと滑り込む。
 背後から抱きつく勢いでさらに距離を詰め、拳打を叩き込む。

 張三はその場で倒れこむと、拳を避ける勢いのまま脚を蹴りあげた。
 丸太のような脚が耳の脇を掠め、風圧で聴覚が歪む。

 身を翻し、距離を取って回り込む。
 相手の獲物が鉄棍である以上、距離を取ってはこちらが不利。
 だが、それは、歩法や反応の速度が同等の場合にのみ成立する方程式だ。

 ――魔人能力『飢鬼』。

 私の二つ名でもあるその特殊能力は、空腹の度合いに応じて、身体能力を上昇させるというもの。
 対して、張三の能力は、鉄の操作。
 同じ身体能力強化系でない以上、一対一に持ち込んだ時点でこちらの優位は明白だ。

「なんだ、組織のか。一人か?」

 突然の襲撃に驚いた様子もなく、張三はそう漏らした。
 覇気はない。殺気もない。
 しかし、鉄棍は私に向き、間断なく揺れてこちらの機先を制している。

「『钢铁构架』張三だ。
 なあ小妹妹(嬢ちゃん)。どうせ不意打ちは失敗したんだ。名くらい寄越しな」
「ダイヤを、出せ」
「風情がないねえ」

 奇襲による殺害が失敗した時点で、私は交渉へと移った。
 組織からの指示は二つ。

 そのうち一つは、組織の至宝、「清王朝のダイヤ」盗難容疑者である張三からダイヤの情報と、可能であれば現物を入手すること。

 張三は、組織の創立メンバーである。
 組織の一部の人間しか知り得ない至宝のセキュリティの内情を知る、有力な容疑者の一人だというのが、指示に記載された補足事項だった。

「しっかし、噂は、本当なのか」

 張三は私の言葉には答えず、ただそう呟いた。

「ダイヤを出せ、と言っている」
「空振りだよ、小妹妹(嬢ちゃん)

 淡々とした答え。
 本当か、ブラフかは伺い知れない。
 だが、素直に聞き出せないのならば、力の差を示して尋問する。
 あるいは、もう一つの指示――張三の殺害という目的を遂行する。

 常に、命令達成のための最適解を打ち続けなければならない。
 そうでなければ組織が植え付けた『蟲』が、私の臓腑を喰らうのだから。

 私は、足元の石を掴み、無造作に投げた。
 それだけで、『飢鬼』で強化された膂力は石つぶてを弾丸にする。

 張三は野球選手めいてそれを鉄棍で弾いた。
 その動作でわずかに開いた守りを縫うように、張三の巨体の脇をすり抜けた。
 巨体ということは即ち、死角が多いということ。
 速度で勝り、体格で劣るならば、それを駆使する。

 飢えによって研ぎ澄まされた私の反応からすれば、張三の動きは水の中にいるようなものだ。
 ならば、速度の差を生かし、常に相手の反応しにくい場で戦う。
 警戒すべきは鉄棍と、掴み。
 『飢鬼』で強化した膂力で引き離せはするだろうが、相手が能力を応用する隙は与えたくない。

 拳を叩き込み、脚を蹴り、関節を穿つ。
 こちらの打撃は命中し、相手の攻撃は全て回避する。
 一方的な戦況。

「ひどい顔色だ。飯、食ってるか?」

 だが、張三の表情は、そして、動きは、何一つ、変わらなかった。
 致命傷とまではいかずとも、確実にダメージの蓄積はあるはずなのに。
 効いていない?

 いや、そんなはずはない。
 少しずつ、相手は後退している。
 押していることには変わりない。このまま、路地の行き止まりまで追い詰めれば、形成は逆転する――

必定将死(チェックメイト)っやつだ」

 瞬間。
 私の上下左右を、鉄の棒でできた檻が取り囲んだ。
 閉じ込められた。

 何をした?
 張三の能力は、接触を条件とするものではなかったか?
 この鉄檻を具現化した瞬間、張三が接触した形跡はなかった。
 遠隔発動の別条件が存在するのか?

「お嬢ちゃん。おまえさん、『蟲』入りだな? 何か、やらかしたのか?」

 張三は『蟲』のことを知っているらしい。
 組織の元幹部というのは事実のようだった。

 『蟲』とは、組織の幹部の能力によって、殺手たちに埋め込まれている安全装置だ。
 組織が定めた掟を破った際、体内の『蟲』は臓腑を食い破り、殺手を処理する。

「やらかしたも何も。大抵の殺手には、埋め込まれるものだろ」
「……そうなっちまったのか。なるほどなあ」

 考え込むように、張三は私から視線を外した。
 なぜかはわからないが、張三には、殺意がない。
 私など、取るに足らない下っ端だと考えているのか。

 ならばちょうどいい。
 あと、もう少し、侮っていればいい。

「俺に殺手を差し向けるってことは、組織もダイヤの行方はわかってないんだな」
「……私は、任務を与えられただけだ」

 余計なことは言わない。
 だが、相手が尋問状態に入ったと思っているならば、会話で時間を稼ぐ。

 私の能力が、次の段階へ至るまでの。
 空腹状態から、戦闘によって肉体を酷使し、さらにエネルギーを費やした状態。

 即ち――飢餓。

 注意信号が、危険信号へ。
 体が動かなくなるまでの、秒読みが始まる。

 それこそが、私の『飢鬼』が真価を発揮する条件である。

 視界が眩む。
 体が本能に突き動かされ、自動的に動き出す。
 鉄の檻で覆われていない足元、地面に拳を突き立てる。

 無造作な一撃は舗装された足場を穿ち、穴を生み出した。
 私はそこに飛び込むと、U字に地面を掘りぬいて、檻を抜け出す。

「ほう」

 飛び掛かり、爪を突き立てて張三の巨体を押し倒す。
 棍で腕を捻りあげようとする動きを膂力で捻じ伏せ、肩口に犬歯を突き立てた。

 口に含み、飲み込もうとする衝動を、なけなしの理性で止め、吐き出す。
 まだ、飢えなければ。
 相手の命を奪うまで、腹を満たすわけにはいかない。

 この距離であれば、鉄棍は用を為さない。
 それでも、変形による攻撃を警戒して、まず私は張三の手から武器を奪い、蹴り飛ばして武装を解除した。

 あとは一方的な蹂躙である。狩猟である。捕食である。
 私と張三では、速度の世界が違う。

 私は油断せず、そして飢餓の衝動のままに――

 反転し、張三によって地面に、容易く組み伏せられていた。

 何が起きた?
 いや、何が起きたのか。それ自体はわかる。

 自分にとって、張三の速度は半分以下のスローモーションだ。
 どのように相手の体が動いたかは認識できる。
 反応もできる。そのはずだ。
 だって、相手が1の動きをする間に、こちらは3の動きができるのだから。

 なのに。
 完全に動きを制御されている。
 膂力でも、速度でも勝っているはずなのに。

 振り払う。いなされる。
 拳を放つ。極められる。
 脚を振るう。捻られる。

 張三の動きは私に比べれば遅い。
 しかし、一つの挙動に、攻撃、防御、崩し、そして次手以降への布石という無数の意図が圧縮されている。
 私が3の動作をする間に、張三は10の戦術的な意図を1の動作で体現する。
 違うのは、動作の密度と、予測の精度。

 魔人能力ではない。ただの経験と武の蓄積だ。
 それだけで、私の『飢鬼』が、無効化されている。

 やがて、制限時間が訪れた。
 『飢鬼』は飢えるほど強くなる。
 だが、その状態で戦い続ければ、いずれ、エネルギー切れが起きる。

 動きを止めた私に、いつの間に拾ったのか、張三は鉄棍の切っ先を突き付けていた。
 その先端は、槍のように細く尖り、心臓を狙っている。

「いい能力だったぞ、小妹妹(嬢ちゃん)

 鉄の楔が、私の胸を無造作に刺し貫いた。



■4 屋台街


 様々な香辛料の匂いが湯気となって立ち上り、酒の入った人々の喧噪に撹拌される混沌の屋台街。工区の労働者の腹を満たす場所。
 その一角で、私は、標的であるはずの、張三と歩いていた。

 張三は、戦いの最後に、私の中にある『蟲』だけを貫いて摘出した。
 鉄棍の先端を操作して、手術道具のようにしたのだと言っていた。
 思った以上に器用な能力であるらしい。

 『蟲』の摘出。
 そんなことができるとは知らなかった。
 昔馴染みの能力だから、勝手がわかるのだと、張三は笑った。

 勝てない。
 そして、自分を縛っている『蟲』は消えた。
 こうして私は、事実上の捕虜として、張三に連れられているのだった。

 エネルギーの使い過ぎで『飢鬼』は発動していない。
 もう、体を最低限動かすだけで精一杯だ。

 刺激的な匂いに頭がおかしくなりそうだった。
 今は何でもいいから口にしたい。

 そんな表情を読み取られたのだろう。
 張三は、とある屋台の前で立ち止まった。

 鉄板炒飯、と書いてある。

「主人、双蛋(ダブルエッグ)を一つ頼む」
「おや、大張(張兄ィ)。夜に珍しいねえ。今日は休肝かい?」
「まさか。この小妹妹(嬢ちゃん)にだよ」
「ああ、いつもの奢り癖かい。あいよ。ちょっと待ってな」

 互いに顔見知りなのだろう。
 気安い様子で張三の注文を受けると、屋台の店主は鉄板に油を敷いた。

 手早く卵を二つ片手で割って溶き、鉄板に満ちた油で揚げるように焼く。
 じゅわじゅわと油が跳ねる音、焦げの香りが胃を刺激する。

 卵の脇でニンジン、玉ねぎ、青ネギ、豆のペーストが炒められる。
 数十秒でそれらが混ぜられ、最後に米が投入された。

 両手の金属ヘラで、カシャンカシャンとリズミカルに具材と米が撹拌される。
 見る見るうちに米が黄色に染めあがり、鉄板に押し付けられて焦げ目がつけられた。

 塩にいくつかの香辛料、そして醤。
 無造作な味付けがされるまで、およそ1分程度。
 湯気のたつ炒飯が、紙容器に並々と盛られた。

「ほら、食えよ」

 店主から張三に手渡されたときには、彼の手のせいで小さく見えたが、いざ渡されると相当な量だ。店先のメニューによれば、10元(約200円)。
 組織のある市街地の感覚からすると、ずいぶんと安いように思える。

「なんで」
「腹減ってるんだろ。気にせず食いな。
 俺は俺で適当に食うから」

 こちらにはもう反論する気力もなかった。
 あれよあれよという間に、屋台街の一角のテーブルに座らされた。

 私の前には、湯気の立つ炒飯。
 張三の前には、白酒の注がれた小さなグラスと、烤肉串、焼牡蠣、豚足、鴨のホルモンといった小吃が並んでいる。

「こっちのもつまんでいいからな。
 さ、熱いうちが一番旨いぞ」

 勧められるまま、炒飯を口に含む。
 油で強調された卵の濃厚な味を、米の甘さと唐辛子の刺激が追いかける。
 野菜の食感が時折ざくざくと混じり、食の実感を一層のものにする。

 美味しい。
 これまでも屋台料理を食べたことはあったが、これほどしっかりと、複雑な味をあますところなく感じたのは、初めてだった。

 多分それは、この屋台が特別だからというよりも、今の自分の状況によるところも大きいのだろう。

 ――喰うな。ごく潰しが。

 親に捨てられ、飢えることが日常だった。
 そして魔人となり、組織に拾われた。

 ――食事は最低限にしろ。常に『飢鬼』を発動しろ。

 仕事のためには、飢え続けなければならなかった。

 ――飢えていないお前に、価値はない。

 存在価値を証明しなければ、『飢鬼』を発動しなければ、『蟲』に殺される。
 そんな中で、私にとって食は、命を繋ぐには必要であっても、楽しめるものではなかったのだ。

 だが、今、私の中には『蟲』がない。
 組織の掟に反しようとすると警告のように現れた脈の乱れが消えているのが何よりの証拠だ。

 私は今、食事を楽しんでいる。
 普通の人間ならば当たり前のことを、当たり前にできている。

 それが、目の前の男の気まぐれでもたらされたものであっても。
 仮に張三がこれから私を尋問し、組織にいた頃よりもひどい境遇に置かれる可能性があったとしても。

 それでもこの瞬間、この炒飯の味は、私にとって、一生の記憶になるだろう。

「旨いか。旨いよなあ!
 车胎商賈(ミシュラン)に媚びた仿效菜肴(ものまねメニュー)より、俺もこっちの方が好きだ」
大張(張兄ィ)の稼ぎじゃ、高くて喰えないだけだろ」
「違えねぇ!」

 店主の混ぜ返しに張三は大口で笑い、白酒のグラスを掲げて一息で呷った。
 白酒は、確かアルコール度数50%を越える強い酒だったはずだが、張三の岩のような髭面は、顔色一つ変わらなかった。

「しかし、噂には聞いちゃあいたが、ずいぶん組織も変わっちまったみたいだなあ」

 私は、今の組織のことしか知らない。
 魔都を支配するマフィアを統べる国際的な犯罪組織。
 そのトップは不明。掟は絶対。秘密主義が徹底されたベールの向こう側。

「少なくとも、今の幇は、小妹妹(嬢ちゃん)みたいなのがいていい場所じゃない。
 鎖は『蟲』だけだったのか?」

 その言葉の意味することは明白だった。
 組織を抜けることは可能か。組織を抜けたいと思うのか、ということ。

 すでに、私には身寄りはない。
 財産と呼べるものもなく、家や友人もない。
 『蟲』から解き放たれた以上、私を組織に縛りつける鎖はなくなった。

「……うん。けど、組織は離反者を許さないよ」

 私は任務の関係上、他のダイヤの盗難容疑者の情報を他にも把握している。
 離反したとなれば、他の裏切者よりも優先的に刺客が差し向けられるだろう。

「じゃあ、組織、潰すか」

 顔を曇らせた私に、近所に買い物に行こうというくらいの気軽さで、張三は言った。
 一瞬、その言葉が、理解できなかった。

「つぶ……え? 組織……魔幇を?
 何言ってるの。バカでしょ。ムリだよ。
 アンタがいくら強くても、一人でどうやって」

 街の喧嘩とは違うのだ。
 殴って倒せばそれでおしまい、ではない。
 いくら腕っぷしが強くても、殴るべき実体がない組織を相手にどう戦うのか。

 けれど、張三には全く悩む様子がなかった。

「人が作ったもんだろう。人が潰せない理由がない。
 まず、奴らの旗印のダイヤを確保すれば、組織の屋台骨は揺らぐだろうさ。
 俺におまえさん一人を寄越すような状態じゃあ、奴らもダイヤの確たる情報を持っていないってことだろうしな。いくらでもつけ入る隙はある。
 ……それに、一人じゃない。二人いるだろうが」
「いや、私なんて。魔人能力も使わないアンタに負けるくらいの……」

 言いかけた私の言葉を、張三はぶあつい手のひらで制した。

「おまえさんの能力は、強いよ。
 要は使い方の問題だ。
 人間食わなきゃやってけないし、腹が減ったら弱くなるが、おまえさんは空腹でも戦える。腹がいっぱいなときは、頭を使って精緻に戦う。腹が減ったら獣のように獰猛に暴れる。相手が片方に慣れたところを破調で叩く。そんな切り替えができるのは、最強だろうが」

 ――喰うな。ごく潰しが。
 ――食事は最低限にしろ。常に『飢鬼』を発動しろ。
 ――飢えていないお前に、価値はない。

「私は、食べて、いいの?」
「当然だろう」
「楽しんで、いいの?」
「酈食其伝曰、民以食為天。
 酒と飯は一番楽しめるやり方でいただくのが、一番の礼儀ってもんだからなあ」

 食べることを肯定された。
 生きることを肯定された。
 力を、肯定された。
 一人ではないと、肯定された。

 彼の中で、組織を潰すための協力者としていつの間にか私がカウントされていたことには驚いたが、そんなことは、些細な問題だった。

 組織に抗っても勝ち目などない。無謀の極みだ。
 それでも、自分が人として扱われたことは、それ以上に私にとって、大きかった。
 それだけの理由で、私は、この得体のしれない男と手を組んでみようと、愚かにも思ってしまった。

 溢れてくる涙を見られたくなくて、下を向いて炒飯を口いっぱいに頬張る。
 こんなに口にものを詰め込んだのはいつぶりだったろうか。
 噛む。何度も噛みしめる。
 甘い。旨い。舌から伝わる刺激に、全ての意識を集中させる。

 舌の上を滑り、喉の奥へと、味の塊が吸い込まれていく。
 熱量が、生命が、体の奥へと満ちていく。

「おまえさん、いける齢かい?」

 嚥下の余韻に浸っていると、張三がグラスを掲げてきた。
 栄養のせいで子どもに間違われるが、一応私は成年ということになっている。
 しかし、豪快で大雑把な見た目のくせにここで法を気にするとは、張三という男は意外にも生真面目なのだなと、私は可笑しくなった。

「いただくよ。けど、いいの?
 アンタにとって私は『小妹妹(ガキ)』なんでしょ?」

 意趣返しに、ずっと気になっていた呼びかけについて指摘した。
 女性への呼びかけにはいろいろあるが、小妹妹はその中でも特に子ども扱いの呼びかけだ。祖父が孫娘や近所の子どもに呼びかけるような。
 少なくとも、共に戦う相手に対して使う呼びかけではない。

「悪かった。戦士に対する敬意を欠いた無礼を許されよ。
 ……それじゃあ、改めて」

 自分の手と比べても小さなグラスに、透明な液体が注がれる。

「『钢铁构架』張三だ」
「『飢鬼』林希美」

 戦いの中で、一度は私から拒んだ名乗りを、改めて交わす。

「『飢鬼』と『钢铁构架』。
 二人の『破幇同盟』に、干杯!」

 グラスを鳴らす。
 私は白酒を舐めるように啜った。
 果物を思わせる風味。パイナップルが近いだろうか。
 アルコールの刺激は強いが、風味は爽やかで吹き抜けるような味わいだった。



 中華民国歴114年――西暦2025年。
 上海市宝山区。
 大型企業の工場や大学の集まる、上海北部の一角で、私は、彼と出会った。

 秋から冬へと移り変わる季節。
 『飢鬼』と『钢铁构架』。
 私達『破幇同盟』は、確かに上海を生きたのだ。
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