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まだ名前のない音
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一人分の音
チョコチップたちのDPo-Xに、Kirscheという新しい連絡グループが増えた頃。
キャンプ場の候補やアウトドア用の服、持っていきたい料理の写真が次々と送られている一方で、二年生たちの放課後にも、まだ誰も形にしていないものがあった。
その日は現実側校舎での授業日だった。
放課後の音楽棟。
授業を終えた生徒たちの声が少しずつ遠ざかっていく中、廊下の奥にある個人練習室から、一定の間隔でドラムの音が響いていた。
低く腹へ届くバスドラム。
細かく刻まれるハイハット。
鋭く入るスネア。
一度流れ始めたリズムはほとんど途切れず、再生されている伴奏データへ正確に重なっている。
バニラキャラメルは、練習室の前で足を止めた。
中で叩いているのが誰なのかは、扉の横に表示された予約者名を見なくてもわかった。
ユーリコレット。
普段は淡々としていて、誰かに合わせて騒ぐようなことは少ない。
けれどドラムを叩いている時だけは、いつもより少しだけ感情が表へ出ているように聞こえた。
キャラメルは扉の外で、しばらくその音を聞いていた。
曲は終盤へ入る。
伴奏が大きくなり、コレットのドラムも音数を増やしていく。
最後の一打。
余韻。
そして――。
伴奏が終わるより少し早く、ドラムだけが止まった。
数秒後。
練習室の扉が開いた。
「そこで何してるの?」
スティックを片手に持ったコレットが、こちらを見ていた。
「聞いてた」
「いつから?」
「二曲目の途中くらい」
「長いね」
「邪魔しちゃ悪いかなと思って」
「扉の前にずっと立たれる方が気になるんだけど」
「ごめんね?」
キャラメルが少し首を傾けると、コレットはわずかに目を細めた。
「その顔で謝ればいいと思ってるでしょ」
「思ってないよ?」
「思ってる顔」
「ばれた?」
「最初から」
キャラメルは小さく笑い、開いた扉の向こうへ目を向けた。
練習室にはドラムセットと、伴奏を再生するための端末。
壁際には、ほかの楽器を接続するための機器も置かれている。
けれど今、室内にいる演奏者はコレット一人だけだった。
「入る?」
「いいの?」
「もう一回だけ叩いて終わるつもりだったから」
キャラメルは中へ入り、壁際の椅子へ座った。
コレットは再びドラムセットの前へ戻り、伴奏データを選ぶ。
「さっきと同じ曲?」
「うん」
「途中で止めてたよね」
「気のせい」
「最後まで聞こえてたよ」
「じゃあ、止めた」
「どうして?」
コレットは伴奏の再生ボタンへ指を置いたまま、少し黙った。
「別に」
「別に、で止めたの?」
「今日はもういいかなと思っただけ」
「コレットって、やめたい時は途中でもやめるんだ」
「何、その言い方」
「最後まで叩けないんじゃなくて、自分でやめたんだなと思って」
「叩けるよ」
「うん。知ってる」
キャラメルの声にからかう色はなかった。
コレットはしばらく彼女を見ていたが、やがて伴奏データから手を離した。
「この音源、ずっと同じなんだよね」
「同じ曲だから?」
「そうじゃなくて」
コレットはスティックの先で、膝を軽く叩いた。
一度。
二度。
一定の間隔。
「私が少し遅れても、先へ行く。逆にぴったり合わせても、何も返ってこない」
「音源だからね」
「わかってる」
また、膝を叩く。
「一人で練習するには便利。何回でも同じように流れるし、失敗しても文句を言わない」
「いい相手じゃない?」
「でも、反応もしない」
キャラメルは伴奏用の端末を見た。
決められたメロディー。
決められたコード。
決められた秒数。
コレットがどんな叩き方をしても、曲は一度も彼女を振り返らない。
「誰かと合わせてみたいの?」
「そこまで大げさな話じゃない」
コレットはすぐに答えた。
「部活へ入りたいわけでも、毎日みんなで練習したいわけでもない。趣味だから、叩きたい時に叩ければいい」
「うん」
「ただ、たまには」
スティックが、今度は二本とも膝の上で止まる。
「メロディーの方から、何か返ってきたら面白いかもって思っただけ」
キャラメルは少しだけ目を丸くした。
コレットは話しすぎたと思ったのか、すぐに端末へ向き直る。
「今の、忘れて」
「どうして?」
「自分でも、まだよくわかってないから」
「じゃあ、忘れないでおくね」
「逆でしょ」
「よくわからないなら、あとでわかった時に比べられるでしょう?」
コレットは小さく息を吐いた。
「キャラメルって、たまに面倒」
「たまに?」
「今は特に」
「でも、帰れとは言わないんだね」
「帰れって言ったら帰る?」
「たぶん帰らないかな」
「じゃあ言わない」
キャラメルは満足そうに微笑んだ。
コレットはもう一度、伴奏データを開いた。
「今度は最後まで叩く」
「聞いててもいい?」
「静かにしてるなら」
「はーい」
伴奏が始まる。
キャラメルは目を閉じた。
ドラムの音だけを追う。
コレットの演奏は正確だった。
けれど、完全に機械的ではない。
ほんの少しだけ前へ出るところ。
一度だけ溜めるところ。
伴奏の盛り上がりへ応えるように強くなるところ。
同じ音源へ合わせていても、そこにはコレット自身の癖がある。
曲が終わる。
今度は最後の一打まで、きちんと鳴った。
「どう?」
コレットが尋ねた。
「格好よかったよ」
「そういう感想じゃなくて」
「じゃあ、もう一つ」
キャラメルは少し考えた。
「ドラムだけでも聞けそう」
コレットの眉が、わずかに動く。
「それ、褒めてる?」
「褒めてるよ。でも」
「でも?」
「ドラムだけで聞けるからこそ、隣に違う音があったら、もっと面白そう」
コレットは何も答えなかった。
ただ、スティックで膝を叩くリズムだけが、先ほどよりほんの少し軽くなっていた。
キャンプ場の候補やアウトドア用の服、持っていきたい料理の写真が次々と送られている一方で、二年生たちの放課後にも、まだ誰も形にしていないものがあった。
その日は現実側校舎での授業日だった。
放課後の音楽棟。
授業を終えた生徒たちの声が少しずつ遠ざかっていく中、廊下の奥にある個人練習室から、一定の間隔でドラムの音が響いていた。
低く腹へ届くバスドラム。
細かく刻まれるハイハット。
鋭く入るスネア。
一度流れ始めたリズムはほとんど途切れず、再生されている伴奏データへ正確に重なっている。
バニラキャラメルは、練習室の前で足を止めた。
中で叩いているのが誰なのかは、扉の横に表示された予約者名を見なくてもわかった。
ユーリコレット。
普段は淡々としていて、誰かに合わせて騒ぐようなことは少ない。
けれどドラムを叩いている時だけは、いつもより少しだけ感情が表へ出ているように聞こえた。
キャラメルは扉の外で、しばらくその音を聞いていた。
曲は終盤へ入る。
伴奏が大きくなり、コレットのドラムも音数を増やしていく。
最後の一打。
余韻。
そして――。
伴奏が終わるより少し早く、ドラムだけが止まった。
数秒後。
練習室の扉が開いた。
「そこで何してるの?」
スティックを片手に持ったコレットが、こちらを見ていた。
「聞いてた」
「いつから?」
「二曲目の途中くらい」
「長いね」
「邪魔しちゃ悪いかなと思って」
「扉の前にずっと立たれる方が気になるんだけど」
「ごめんね?」
キャラメルが少し首を傾けると、コレットはわずかに目を細めた。
「その顔で謝ればいいと思ってるでしょ」
「思ってないよ?」
「思ってる顔」
「ばれた?」
「最初から」
キャラメルは小さく笑い、開いた扉の向こうへ目を向けた。
練習室にはドラムセットと、伴奏を再生するための端末。
壁際には、ほかの楽器を接続するための機器も置かれている。
けれど今、室内にいる演奏者はコレット一人だけだった。
「入る?」
「いいの?」
「もう一回だけ叩いて終わるつもりだったから」
キャラメルは中へ入り、壁際の椅子へ座った。
コレットは再びドラムセットの前へ戻り、伴奏データを選ぶ。
「さっきと同じ曲?」
「うん」
「途中で止めてたよね」
「気のせい」
「最後まで聞こえてたよ」
「じゃあ、止めた」
「どうして?」
コレットは伴奏の再生ボタンへ指を置いたまま、少し黙った。
「別に」
「別に、で止めたの?」
「今日はもういいかなと思っただけ」
「コレットって、やめたい時は途中でもやめるんだ」
「何、その言い方」
「最後まで叩けないんじゃなくて、自分でやめたんだなと思って」
「叩けるよ」
「うん。知ってる」
キャラメルの声にからかう色はなかった。
コレットはしばらく彼女を見ていたが、やがて伴奏データから手を離した。
「この音源、ずっと同じなんだよね」
「同じ曲だから?」
「そうじゃなくて」
コレットはスティックの先で、膝を軽く叩いた。
一度。
二度。
一定の間隔。
「私が少し遅れても、先へ行く。逆にぴったり合わせても、何も返ってこない」
「音源だからね」
「わかってる」
また、膝を叩く。
「一人で練習するには便利。何回でも同じように流れるし、失敗しても文句を言わない」
「いい相手じゃない?」
「でも、反応もしない」
キャラメルは伴奏用の端末を見た。
決められたメロディー。
決められたコード。
決められた秒数。
コレットがどんな叩き方をしても、曲は一度も彼女を振り返らない。
「誰かと合わせてみたいの?」
「そこまで大げさな話じゃない」
コレットはすぐに答えた。
「部活へ入りたいわけでも、毎日みんなで練習したいわけでもない。趣味だから、叩きたい時に叩ければいい」
「うん」
「ただ、たまには」
スティックが、今度は二本とも膝の上で止まる。
「メロディーの方から、何か返ってきたら面白いかもって思っただけ」
キャラメルは少しだけ目を丸くした。
コレットは話しすぎたと思ったのか、すぐに端末へ向き直る。
「今の、忘れて」
「どうして?」
「自分でも、まだよくわかってないから」
「じゃあ、忘れないでおくね」
「逆でしょ」
「よくわからないなら、あとでわかった時に比べられるでしょう?」
コレットは小さく息を吐いた。
「キャラメルって、たまに面倒」
「たまに?」
「今は特に」
「でも、帰れとは言わないんだね」
「帰れって言ったら帰る?」
「たぶん帰らないかな」
「じゃあ言わない」
キャラメルは満足そうに微笑んだ。
コレットはもう一度、伴奏データを開いた。
「今度は最後まで叩く」
「聞いててもいい?」
「静かにしてるなら」
「はーい」
伴奏が始まる。
キャラメルは目を閉じた。
ドラムの音だけを追う。
コレットの演奏は正確だった。
けれど、完全に機械的ではない。
ほんの少しだけ前へ出るところ。
一度だけ溜めるところ。
伴奏の盛り上がりへ応えるように強くなるところ。
同じ音源へ合わせていても、そこにはコレット自身の癖がある。
曲が終わる。
今度は最後の一打まで、きちんと鳴った。
「どう?」
コレットが尋ねた。
「格好よかったよ」
「そういう感想じゃなくて」
「じゃあ、もう一つ」
キャラメルは少し考えた。
「ドラムだけでも聞けそう」
コレットの眉が、わずかに動く。
「それ、褒めてる?」
「褒めてるよ。でも」
「でも?」
「ドラムだけで聞けるからこそ、隣に違う音があったら、もっと面白そう」
コレットは何も答えなかった。
ただ、スティックで膝を叩くリズムだけが、先ほどよりほんの少し軽くなっていた。
鍵盤の蓋
その日の夜。
キャラメルは自室の隅に置かれた電子キーボードの前へ座っていた。
普段は薄い布をかけてある。
学校へ入ってからは授業や友人との予定が増え、触れる回数も少し減っていた。
それでも、まったく弾かなくなったわけではない。
キャラメルは布を外し、鍵盤の蓋を開いた。
電源を入れる。
静かな部屋に、起動音が小さく鳴る。
彼女は目を閉じた。
思い出すのは、放課後に聞いたコレットのドラム。
一定の拍。
少しだけ前へ出るスネア。
最後へ向かって広がっていく音。
右手で、簡単な旋律を弾いた。
左手でコードを添える。
けれど、一人で弾いているため、頭の中にあるドラムとは少しずつずれていく。
「もう少し、こっちかな」
同じ部分を弾き直す。
コレットがどこで音を強くしていたのか。
どこで一度だけ間を空けていたのか。
思い出しながら、鍵盤を押す。
子どもの頃にも、似たことをしていた。
隣にはキャラメルより先に楽器へ触れ、すぐに適当な曲を弾き始める幼馴染がいた。
ギターを抱えたシュガーシロップ。
コードを覚えたばかりなのに、知っている曲へ無理やり合わせようとしていた。
『シロちゃん、そこ早いよ』
『キャラメルが遅いんじゃない?』
『私が先に弾いてたんだけど』
『じゃあ私に合わせて』
『どうして?』
『その方が格好いいから』
昔から、あまり変わっていない。
シロは何でも器用にこなす。
その分、じっくり一つを続ける前に、別の面白そうなものへ移ることも多かった。
スポーツ。
ゲーム。
ギター。
バーチャル世界。
今でも弾けるのだろうか。
キャラメルは鍵盤から手を離し、DPo-Xを開いた。
<シロちゃん、今もギター弾ける?>
送信。
返事はすぐに来た。
<一応>
続けて。
<何、急に>
キャラメルは少し考えたあと、文字を打つ。
<ちょっと思い出しただけだよ?>
数秒。
<その「?」が怪しい>
キャラメルは小さく笑った。
<そんなことないよ>
<絶対何かある>
<何もないよ?>
<二回目はもっと怪しい>
キャラメルはそれ以上答えず、DPo-Xを伏せた。
キーボードへ向き直る。
同じ旋律を、もう一度。
今度は頭の中へ、コレットのドラムだけではなく、昔聞いたシロのギターまで重ねてみた。
少し音が多すぎる。
でも。
完全に一人で弾いていた時より、どこか楽しそうに聞こえた。
「まだ、何もないんだけどね」
誰に言うでもなく呟き、キャラメルはもう一度、最初のコードを鳴らした。
キャラメルは自室の隅に置かれた電子キーボードの前へ座っていた。
普段は薄い布をかけてある。
学校へ入ってからは授業や友人との予定が増え、触れる回数も少し減っていた。
それでも、まったく弾かなくなったわけではない。
キャラメルは布を外し、鍵盤の蓋を開いた。
電源を入れる。
静かな部屋に、起動音が小さく鳴る。
彼女は目を閉じた。
思い出すのは、放課後に聞いたコレットのドラム。
一定の拍。
少しだけ前へ出るスネア。
最後へ向かって広がっていく音。
右手で、簡単な旋律を弾いた。
左手でコードを添える。
けれど、一人で弾いているため、頭の中にあるドラムとは少しずつずれていく。
「もう少し、こっちかな」
同じ部分を弾き直す。
コレットがどこで音を強くしていたのか。
どこで一度だけ間を空けていたのか。
思い出しながら、鍵盤を押す。
子どもの頃にも、似たことをしていた。
隣にはキャラメルより先に楽器へ触れ、すぐに適当な曲を弾き始める幼馴染がいた。
ギターを抱えたシュガーシロップ。
コードを覚えたばかりなのに、知っている曲へ無理やり合わせようとしていた。
『シロちゃん、そこ早いよ』
『キャラメルが遅いんじゃない?』
『私が先に弾いてたんだけど』
『じゃあ私に合わせて』
『どうして?』
『その方が格好いいから』
昔から、あまり変わっていない。
シロは何でも器用にこなす。
その分、じっくり一つを続ける前に、別の面白そうなものへ移ることも多かった。
スポーツ。
ゲーム。
ギター。
バーチャル世界。
今でも弾けるのだろうか。
キャラメルは鍵盤から手を離し、DPo-Xを開いた。
<シロちゃん、今もギター弾ける?>
送信。
返事はすぐに来た。
<一応>
続けて。
<何、急に>
キャラメルは少し考えたあと、文字を打つ。
<ちょっと思い出しただけだよ?>
数秒。
<その「?」が怪しい>
キャラメルは小さく笑った。
<そんなことないよ>
<絶対何かある>
<何もないよ?>
<二回目はもっと怪しい>
キャラメルはそれ以上答えず、DPo-Xを伏せた。
キーボードへ向き直る。
同じ旋律を、もう一度。
今度は頭の中へ、コレットのドラムだけではなく、昔聞いたシロのギターまで重ねてみた。
少し音が多すぎる。
でも。
完全に一人で弾いていた時より、どこか楽しそうに聞こえた。
「まだ、何もないんだけどね」
誰に言うでもなく呟き、キャラメルはもう一度、最初のコードを鳴らした。
旅先で見つけたもの
翌日の放課後。
シュガーシロップは、校門近くのベンチで待っていたミルククラウンを見つけた。
「ごめん。助っ人、思ったより長引いた」
「大丈夫だよ~。写真を見てたら、すぐだったから」
ミルクはDPo-Xの画面を閉じた。
今日は運動部の練習ではなく、先日の旅行で撮った写真を見せるために待っていたらしい。
「どこ行ってたんだっけ?」
「海の近く。小さい港がある町だよ」
二人は駅へ向かって歩き始めた。
ミルクが再び画面を開き、写真を一枚ずつ見せていく。
海へ沈む夕日。
古い倉庫を改装した店。
細い坂道。
駅の前にある小さな花壇。
「これ、朝の五時くらい」
「早くない?」
「朝日を撮りたかったの~」
「旅行先でも早起きできるんだ」
「旅行先だからだよ。家だと、もう少し寝たいな~ってなるけど」
次の写真には、港の近くに座る一人の演奏者が写っていた。
膝へギターを乗せ、海を背に弾いている。
周囲には数人の観客。
大きなステージも、照明もない。
「この人、現地の人?」
シロが尋ねた。
「たぶん。毎週そこで弾いてるんだって」
「聞いたの?」
「うん。近くのお店の人に」
ミルクは写真を少し拡大した。
「風が強かったんだけど、ギターの音はちゃんと聞こえたの。海の音と混ざって、すごくきれいだったよ~」
「動画は?」
「撮ったけど、写真の方が好き」
「どうして?」
「動画だと、その人の曲になるでしょう?」
ミルクは画面を眺めたまま言った。
「写真なら、見た人が自分で音を想像できるから」
シロは少しだけ感心したように、もう一度写真を見た。
「旅行の写真って、そういう見方するんだな」
「私だけかもしれないけどね~」
駅へ続く通りへ入る。
その途中に、小さな楽器店があった。
ショーウィンドウには、何本ものギターが並んでいる。
ミルクの足が、自然と止まった。
「気になる?」
シロが聞く。
「少しだけ」
「見てく?」
「いいの?」
「時間あるし」
店内へ入ると、木や金属、張り替えたばかりの弦が混ざった独特の匂いがした。
壁には、形も色も違うギターが並んでいる。
ミルクは一本ずつ見ながら、ゆっくり歩いていく。
「旅行の写真を見せに来ただけだったのに、どうして楽器屋?」
「ミルクが止まったから」
「シロちゃんも入りたそうだったよ?」
「まあ、久しぶりだったし」
「久しぶり?」
ミルクが首を傾げた。
シロは壁にかけられた、初心者向けのギターを見上げる。
「昔、少し弾いてた」
「シロちゃん、ギター弾けるの?」
「一応」
「初めて聞いた~」
「言ってなかったっけ」
「聞いてないよ」
「じゃあ言ってないな」
あまりにも軽い返事だった。
店員へ声をかけ、試奏用のギターを借りる。
シロはストラップを肩へかけ、数回弦を鳴らした。
少しだけ音程がずれている。
ペグを回して調整し、もう一度。
今度は、きれいに音がそろった。
「調整もできるんだ」
「これくらいなら」
短いコードをいくつか鳴らす。
特別に難しい演奏ではない。
それでも、長く触っていなかったとは思えないほど指の動きは自然だった。
ミルクはすぐ近くで、その手元を見つめている。
「格好いいね~」
「そう?」
「うん。シロちゃん、本当に何でもできるんだね」
「何でもはできないって」
「でも、スポーツもゲームも、ギターもできる」
「できるって言っても、これは昔ちょっとやってただけ」
「ちょっとで、それだけ弾けるの?」
「指が覚えてるんだよ」
シロは演奏を止め、ギターをミルクへ差し出した。
「持ってみる?」
「私が?」
「気になってたんだろ?」
ミルクは少し迷ってから、両手で受け取った。
想像していたより重かったのか、体がわずかに前へ傾く。
「思ってたより重い~」
「ストラップ短くした方がいいな」
シロが長さを調整する。
「左手、ここ」
「こう?」
「親指を少し下。手首は曲げすぎない」
ミルクは教えられたとおりに弦を押さえた。
けれど、音を鳴らすと鈍く詰まる。
「鳴らないね」
「指が寝てるから、隣の弦にも触ってる」
「難しいな~」
「最初はそんなもんだよ」
もう一度。
今度は、一本だけきれいな音が鳴った。
ミルクの表情が明るくなる。
「鳴った!」
「一本だけだけどな」
「でも鳴ったよ~」
何度か試したあと、ミルクは大切そうにギターを返した。
「やってみたいの?」
シロが尋ねる。
「うん。でも、まだ少し迷ってる」
「どうして?」
「楽器って、買って終わりじゃないでしょう?」
ミルクは壁のギターを見上げた。
「ちゃんと練習できるかわからないし、すぐに飽きたら、ギターにも悪い気がするから」
「真面目だな」
「そうかな?」
「やりたいなら、始めてみればいいと思うけど」
「シロちゃんみたいに教えてくれる人がいたら、できるかな~」
「私?」
「だめ?」
シロは少し考えた。
その時、DPo-Xが振動した。
キャラメルからのメッセージ。
<本当にまだ弾けるんだよね?>
さっきの返事だけでは、信用されていなかったらしい。
シロは目の前のミルクと、画面のメッセージを交互に見た。
「どうしたの?」
「キャラメルが、急にギター弾けるか聞いてきた」
「キャラメルちゃんも、ギターに興味あるの?」
「いや。あいつは――」
言いかけて、止まる。
幼い頃から知っているキャラメルは、ギターではなく鍵盤の方だった。
「何か考えてるんだと思う」
「何を?」
「それがわからない」
シロは返信を打った。
<今、楽器屋で弾いた。まだ弾けた>
すぐに既読がつく。
<本当だったんだ>
<疑ってたの?>
<ちょっとだけ>
<聞いといてそれかよ>
キャラメルから、笑顔のスタンプが届いた。
ミルクが横から画面を覗く。
「楽しそうだね~」
「キャラメルが、何か隠してる時のやつ」
「わかるの?」
「幼馴染だからな」
店を出る前。
ミルクはレジ横に置かれていた、小さな白いピックを一枚だけ買った。
「まだギター持ってないのに?」
シロが聞く。
「最初にきれいな音が鳴った記念」
「ピック使ってなかったけど」
「細かいことはいいの~」
ミルクはピックを光へかざした。
「また見に来たいな」
「いいよ」
シロは短く答えた。
その言葉のあとで、家の奥へしまったままの古いケースを思い出していた。
シュガーシロップは、校門近くのベンチで待っていたミルククラウンを見つけた。
「ごめん。助っ人、思ったより長引いた」
「大丈夫だよ~。写真を見てたら、すぐだったから」
ミルクはDPo-Xの画面を閉じた。
今日は運動部の練習ではなく、先日の旅行で撮った写真を見せるために待っていたらしい。
「どこ行ってたんだっけ?」
「海の近く。小さい港がある町だよ」
二人は駅へ向かって歩き始めた。
ミルクが再び画面を開き、写真を一枚ずつ見せていく。
海へ沈む夕日。
古い倉庫を改装した店。
細い坂道。
駅の前にある小さな花壇。
「これ、朝の五時くらい」
「早くない?」
「朝日を撮りたかったの~」
「旅行先でも早起きできるんだ」
「旅行先だからだよ。家だと、もう少し寝たいな~ってなるけど」
次の写真には、港の近くに座る一人の演奏者が写っていた。
膝へギターを乗せ、海を背に弾いている。
周囲には数人の観客。
大きなステージも、照明もない。
「この人、現地の人?」
シロが尋ねた。
「たぶん。毎週そこで弾いてるんだって」
「聞いたの?」
「うん。近くのお店の人に」
ミルクは写真を少し拡大した。
「風が強かったんだけど、ギターの音はちゃんと聞こえたの。海の音と混ざって、すごくきれいだったよ~」
「動画は?」
「撮ったけど、写真の方が好き」
「どうして?」
「動画だと、その人の曲になるでしょう?」
ミルクは画面を眺めたまま言った。
「写真なら、見た人が自分で音を想像できるから」
シロは少しだけ感心したように、もう一度写真を見た。
「旅行の写真って、そういう見方するんだな」
「私だけかもしれないけどね~」
駅へ続く通りへ入る。
その途中に、小さな楽器店があった。
ショーウィンドウには、何本ものギターが並んでいる。
ミルクの足が、自然と止まった。
「気になる?」
シロが聞く。
「少しだけ」
「見てく?」
「いいの?」
「時間あるし」
店内へ入ると、木や金属、張り替えたばかりの弦が混ざった独特の匂いがした。
壁には、形も色も違うギターが並んでいる。
ミルクは一本ずつ見ながら、ゆっくり歩いていく。
「旅行の写真を見せに来ただけだったのに、どうして楽器屋?」
「ミルクが止まったから」
「シロちゃんも入りたそうだったよ?」
「まあ、久しぶりだったし」
「久しぶり?」
ミルクが首を傾げた。
シロは壁にかけられた、初心者向けのギターを見上げる。
「昔、少し弾いてた」
「シロちゃん、ギター弾けるの?」
「一応」
「初めて聞いた~」
「言ってなかったっけ」
「聞いてないよ」
「じゃあ言ってないな」
あまりにも軽い返事だった。
店員へ声をかけ、試奏用のギターを借りる。
シロはストラップを肩へかけ、数回弦を鳴らした。
少しだけ音程がずれている。
ペグを回して調整し、もう一度。
今度は、きれいに音がそろった。
「調整もできるんだ」
「これくらいなら」
短いコードをいくつか鳴らす。
特別に難しい演奏ではない。
それでも、長く触っていなかったとは思えないほど指の動きは自然だった。
ミルクはすぐ近くで、その手元を見つめている。
「格好いいね~」
「そう?」
「うん。シロちゃん、本当に何でもできるんだね」
「何でもはできないって」
「でも、スポーツもゲームも、ギターもできる」
「できるって言っても、これは昔ちょっとやってただけ」
「ちょっとで、それだけ弾けるの?」
「指が覚えてるんだよ」
シロは演奏を止め、ギターをミルクへ差し出した。
「持ってみる?」
「私が?」
「気になってたんだろ?」
ミルクは少し迷ってから、両手で受け取った。
想像していたより重かったのか、体がわずかに前へ傾く。
「思ってたより重い~」
「ストラップ短くした方がいいな」
シロが長さを調整する。
「左手、ここ」
「こう?」
「親指を少し下。手首は曲げすぎない」
ミルクは教えられたとおりに弦を押さえた。
けれど、音を鳴らすと鈍く詰まる。
「鳴らないね」
「指が寝てるから、隣の弦にも触ってる」
「難しいな~」
「最初はそんなもんだよ」
もう一度。
今度は、一本だけきれいな音が鳴った。
ミルクの表情が明るくなる。
「鳴った!」
「一本だけだけどな」
「でも鳴ったよ~」
何度か試したあと、ミルクは大切そうにギターを返した。
「やってみたいの?」
シロが尋ねる。
「うん。でも、まだ少し迷ってる」
「どうして?」
「楽器って、買って終わりじゃないでしょう?」
ミルクは壁のギターを見上げた。
「ちゃんと練習できるかわからないし、すぐに飽きたら、ギターにも悪い気がするから」
「真面目だな」
「そうかな?」
「やりたいなら、始めてみればいいと思うけど」
「シロちゃんみたいに教えてくれる人がいたら、できるかな~」
「私?」
「だめ?」
シロは少し考えた。
その時、DPo-Xが振動した。
キャラメルからのメッセージ。
<本当にまだ弾けるんだよね?>
さっきの返事だけでは、信用されていなかったらしい。
シロは目の前のミルクと、画面のメッセージを交互に見た。
「どうしたの?」
「キャラメルが、急にギター弾けるか聞いてきた」
「キャラメルちゃんも、ギターに興味あるの?」
「いや。あいつは――」
言いかけて、止まる。
幼い頃から知っているキャラメルは、ギターではなく鍵盤の方だった。
「何か考えてるんだと思う」
「何を?」
「それがわからない」
シロは返信を打った。
<今、楽器屋で弾いた。まだ弾けた>
すぐに既読がつく。
<本当だったんだ>
<疑ってたの?>
<ちょっとだけ>
<聞いといてそれかよ>
キャラメルから、笑顔のスタンプが届いた。
ミルクが横から画面を覗く。
「楽しそうだね~」
「キャラメルが、何か隠してる時のやつ」
「わかるの?」
「幼馴染だからな」
店を出る前。
ミルクはレジ横に置かれていた、小さな白いピックを一枚だけ買った。
「まだギター持ってないのに?」
シロが聞く。
「最初にきれいな音が鳴った記念」
「ピック使ってなかったけど」
「細かいことはいいの~」
ミルクはピックを光へかざした。
「また見に来たいな」
「いいよ」
シロは短く答えた。
その言葉のあとで、家の奥へしまったままの古いケースを思い出していた。
古いギター
家へ戻ったシロは、夕食を終えると自分の部屋の収納を開けた。
奥に立てかけられた黒いケース。
引き出そうとすると、上に積んでいた荷物が少し崩れる。
「こんな奥だったっけ」
ケースを床へ置き、表面の埃を手で払った。
留め具を外す。
中には、以前使っていたギターが入っている。
派手な傷はない。
けれどストラップには少し癖がつき、金属部分には時間が経った跡が見える。
最近はほとんど触っていなかった。
学校ではバドミントン部。
別の運動部からも助っ人に呼ばれる。
家へ帰れば、みたらしっぽたちとFoFへログインすることも多い。
楽器を弾く時間は、少しずつ減っていった。
シロはギターを持ち上げ、ケーブルを小型アンプへつないだ。
一本ずつ弦を鳴らす。
音はかなりずれている。
調整に少し時間を使い、最後にコードを一つ鳴らした。
部屋の中へ、久しぶりの音が広がる。
指は、やはり覚えていた。
子どもの頃。
キャラメルの家で、キーボードの音へ無理やりギターを重ねた。
速いと言われれば、向こうが遅いと言い返した。
曲の途中で別のフレーズを思いつけば、勝手に弾き始めた。
今なら、少しは相手へ合わせて弾ける。
「……たぶん」
誰へ答えるでもなく、シロは呟いた。
DPo-Xが振動する。
ミルクからだった。
<今日はありがとう~>
<指先、少し痛いけど楽しかった>
その下に、白いピックを机へ置いた写真。
シロは返信を打つ。
<力入れすぎ>
<最初はもう少し軽くていい>
<次は気をつけるね~>
次。
という言葉に、シロの目が古いギターへ向いた。
このギターなら、まだ十分使える。
弦を張り替えて。
細かく調整して。
掃除をすれば。
けれど。
「勝手に決めるのも違うか」
一度画面を閉じる。
今度はキャラメルからメッセージが届いた。
<懐かしいギター?>
楽器店で撮った写真から、形に気づいたらしい。
<店のやつ>
<家のは今出した>
シロはケースへ収まっていたギターの写真を送った。
<まだきれいだね>
<使ってなかったからな>
<少し、もったいないね>
<なんで今日みんなギターの話するんだよ>
少し間を置いて、キャラメルから返事が来た。
<そういう日なんじゃない?>
「絶対何か知ってるだろ」
声に出しても、キャラメルには届かない。
シロはもう一度、ギターを構えた。
短いフレーズを弾く。
今度は昔より少しゆっくりと。
誰かが隣へ入る余地を残すように。
弾き終わったあと。
古いギターをすぐにケースへ戻さず、スタンドへ立てかけておいた。
奥に立てかけられた黒いケース。
引き出そうとすると、上に積んでいた荷物が少し崩れる。
「こんな奥だったっけ」
ケースを床へ置き、表面の埃を手で払った。
留め具を外す。
中には、以前使っていたギターが入っている。
派手な傷はない。
けれどストラップには少し癖がつき、金属部分には時間が経った跡が見える。
最近はほとんど触っていなかった。
学校ではバドミントン部。
別の運動部からも助っ人に呼ばれる。
家へ帰れば、みたらしっぽたちとFoFへログインすることも多い。
楽器を弾く時間は、少しずつ減っていった。
シロはギターを持ち上げ、ケーブルを小型アンプへつないだ。
一本ずつ弦を鳴らす。
音はかなりずれている。
調整に少し時間を使い、最後にコードを一つ鳴らした。
部屋の中へ、久しぶりの音が広がる。
指は、やはり覚えていた。
子どもの頃。
キャラメルの家で、キーボードの音へ無理やりギターを重ねた。
速いと言われれば、向こうが遅いと言い返した。
曲の途中で別のフレーズを思いつけば、勝手に弾き始めた。
今なら、少しは相手へ合わせて弾ける。
「……たぶん」
誰へ答えるでもなく、シロは呟いた。
DPo-Xが振動する。
ミルクからだった。
<今日はありがとう~>
<指先、少し痛いけど楽しかった>
その下に、白いピックを机へ置いた写真。
シロは返信を打つ。
<力入れすぎ>
<最初はもう少し軽くていい>
<次は気をつけるね~>
次。
という言葉に、シロの目が古いギターへ向いた。
このギターなら、まだ十分使える。
弦を張り替えて。
細かく調整して。
掃除をすれば。
けれど。
「勝手に決めるのも違うか」
一度画面を閉じる。
今度はキャラメルからメッセージが届いた。
<懐かしいギター?>
楽器店で撮った写真から、形に気づいたらしい。
<店のやつ>
<家のは今出した>
シロはケースへ収まっていたギターの写真を送った。
<まだきれいだね>
<使ってなかったからな>
<少し、もったいないね>
<なんで今日みんなギターの話するんだよ>
少し間を置いて、キャラメルから返事が来た。
<そういう日なんじゃない?>
「絶対何か知ってるだろ」
声に出しても、キャラメルには届かない。
シロはもう一度、ギターを構えた。
短いフレーズを弾く。
今度は昔より少しゆっくりと。
誰かが隣へ入る余地を残すように。
弾き終わったあと。
古いギターをすぐにケースへ戻さず、スタンドへ立てかけておいた。
もう一度だけ
数日後。
放課後の練習室には、再びコレットのドラムが響いていた。
伴奏データへ合わせ、同じ曲を叩いている。
前回より強い。
けれど、途中で少しだけ乱れた。
コレットは最後まで叩き切ると、スティックを置いた。
「今日は止めなかったね」
椅子に座っていたキャラメルが言う。
「また来たの?」
「最初からいたよ」
「知ってる」
「じゃあ聞かなくてもいいでしょう?」
「また来た理由を聞いた」
キャラメルは膝の上へ置いていた飲み物を一つ、コレットへ差し出した。
「差し入れ」
「何か頼みごとがある時のやつ?」
「どうして?」
「普段なら自分の分しか買わないから」
「そんなことないよ?」
「ある」
コレットは受け取りながらも、警戒した目を向けている。
「それで?」
「さっきの演奏、もう一回できる?」
「頼みごと、あるじゃん」
「ちょっとだけね」
「録音?」
キャラメルが開いていたDPo-Xには、音声記録用の画面が表示されていた。
「ドラムだけで、短く叩いてほしいの」
「伴奏なし?」
「うん」
「何に使うの?」
「少し試したいことがあって」
「何を?」
キャラメルは答えず、にこりと笑った。
コレットはしばらくその顔を見ていた。
「その笑い方、シロに何か隠してる時と同じ」
「そう見える?」
「見える」
「じゃあ、コレットにも少しだけ秘密」
「やっぱり面倒」
そう言いながらも、コレットはドラムセットの前へ座り直した。
「どのくらい?」
「八小節くらい。さっきの曲みたいな速さで」
「適当でいい?」
「コレットが叩きたいものでいいよ」
「一番困る注文」
「決められたものへ合わせるの、飽きたんでしょう?」
コレットの手が止まる。
前に話したことを、キャラメルはきちんと覚えていた。
「言ったね、そんなこと」
「忘れないでおくって言ったから」
「本当に忘れないんだ」
「大事そうだったから」
コレットはスティックを握り直した。
伴奏は流さない。
ヘッドホンもつけない。
誰の音にも合わせず、自分の中にある速さだけで叩き始める。
最初は、単純な拍。
そこから少しずつ音を増やす。
同じ形を繰り返したあと、一か所だけ外す。
最後に短いフィルを入れ、ぴたりと止めた。
「今のでいい?」
「うん」
キャラメルは録音を確認した。
画面には、少しずつ高さの違う波形が並んでいる。
「もう一回叩こうか?」
「今のでいいよ」
「失敗してない?」
「してないと思う」
「音楽わかるの?」
キャラメルは一瞬だけ、コレットを見た。
「少しはね」
「何かやってた?」
「それは、まだ秘密」
「また秘密」
「そのうち話すよ」
コレットは飲み物の蓋を開け、一口飲んだ。
「別に、期待はしてないから」
「何を?」
「それを使って、何かすること」
「うん」
「でも」
コレットは視線を少しだけ逸らした。
「もし誰かが合わせるなら、一回くらいは聞いてみたい」
「一回でいいの?」
「よかったら、もう一回」
「じゃあ、最初から二回にしておくね」
「そういう意味じゃない」
キャラメルは楽しそうに笑った。
コレットは呆れたように息を吐いたが、先ほど叩いたリズムを、今度はスティックの先で膝へ刻んでいた。
放課後の練習室には、再びコレットのドラムが響いていた。
伴奏データへ合わせ、同じ曲を叩いている。
前回より強い。
けれど、途中で少しだけ乱れた。
コレットは最後まで叩き切ると、スティックを置いた。
「今日は止めなかったね」
椅子に座っていたキャラメルが言う。
「また来たの?」
「最初からいたよ」
「知ってる」
「じゃあ聞かなくてもいいでしょう?」
「また来た理由を聞いた」
キャラメルは膝の上へ置いていた飲み物を一つ、コレットへ差し出した。
「差し入れ」
「何か頼みごとがある時のやつ?」
「どうして?」
「普段なら自分の分しか買わないから」
「そんなことないよ?」
「ある」
コレットは受け取りながらも、警戒した目を向けている。
「それで?」
「さっきの演奏、もう一回できる?」
「頼みごと、あるじゃん」
「ちょっとだけね」
「録音?」
キャラメルが開いていたDPo-Xには、音声記録用の画面が表示されていた。
「ドラムだけで、短く叩いてほしいの」
「伴奏なし?」
「うん」
「何に使うの?」
「少し試したいことがあって」
「何を?」
キャラメルは答えず、にこりと笑った。
コレットはしばらくその顔を見ていた。
「その笑い方、シロに何か隠してる時と同じ」
「そう見える?」
「見える」
「じゃあ、コレットにも少しだけ秘密」
「やっぱり面倒」
そう言いながらも、コレットはドラムセットの前へ座り直した。
「どのくらい?」
「八小節くらい。さっきの曲みたいな速さで」
「適当でいい?」
「コレットが叩きたいものでいいよ」
「一番困る注文」
「決められたものへ合わせるの、飽きたんでしょう?」
コレットの手が止まる。
前に話したことを、キャラメルはきちんと覚えていた。
「言ったね、そんなこと」
「忘れないでおくって言ったから」
「本当に忘れないんだ」
「大事そうだったから」
コレットはスティックを握り直した。
伴奏は流さない。
ヘッドホンもつけない。
誰の音にも合わせず、自分の中にある速さだけで叩き始める。
最初は、単純な拍。
そこから少しずつ音を増やす。
同じ形を繰り返したあと、一か所だけ外す。
最後に短いフィルを入れ、ぴたりと止めた。
「今のでいい?」
「うん」
キャラメルは録音を確認した。
画面には、少しずつ高さの違う波形が並んでいる。
「もう一回叩こうか?」
「今のでいいよ」
「失敗してない?」
「してないと思う」
「音楽わかるの?」
キャラメルは一瞬だけ、コレットを見た。
「少しはね」
「何かやってた?」
「それは、まだ秘密」
「また秘密」
「そのうち話すよ」
コレットは飲み物の蓋を開け、一口飲んだ。
「別に、期待はしてないから」
「何を?」
「それを使って、何かすること」
「うん」
「でも」
コレットは視線を少しだけ逸らした。
「もし誰かが合わせるなら、一回くらいは聞いてみたい」
「一回でいいの?」
「よかったら、もう一回」
「じゃあ、最初から二回にしておくね」
「そういう意味じゃない」
キャラメルは楽しそうに笑った。
コレットは呆れたように息を吐いたが、先ほど叩いたリズムを、今度はスティックの先で膝へ刻んでいた。
まだ名前のない音
夜。
キャラメルは自室のキーボードへ、DPo-Xを接続した。
コレットから録音したドラムの音を読み込む。
再生。
スピーカーから、伴奏のないリズムだけが流れ始めた。
正確ではある。
けれど、機械のように完全な間隔ではない。
ほんの少しだけ前へ出て。
少しだけ待つ。
一人で叩いていても、誰かが入ってくる場所を探しているような音だった。
キャラメルは鍵盤へ両手を置いた。
最初のコード。
コレットのドラムが、その下を進んでいく。
二つ目。
今度は少し遅らせる。
ドラムが待ってくれるわけではない。
それでも伴奏データと違い、録音の向こうにコレットがいると知っているだけで、音の聞こえ方は変わった。
同じ部分を繰り返す。
一度目は合わない。
二度目は少し近づく。
三度目。
ドラムのスネアと、キャラメルの右手が重なった。
「ここだ」
思わず声が出る。
そこから先は、先ほどまでより簡単だった。
コレットが強く叩く場所には、少し高い音。
一度だけ空けた場所には、鍵盤を長く伸ばす。
最後のフィルへ入ったところで、キャラメルも音を増やした。
ドラムが止まる。
鍵盤の音が、一秒だけ残る。
静かになった部屋で、キャラメルはしばらく動かなかった。
一人で弾いていた時とは違う。
コレットは今、この場にはいない。
それでも、自分以外の人が選んだ間へ、音を置いた。
少しだけ返事をもらえたような気がした。
DPo-Xが振動する。
シロからだった。
<これ、弦張り替えたら普通に使えそう>
古いギターの写真。
ケースから出され、スタンドへ置かれている。
続いて、ミルクからもメッセージが届いた。
<この前のギター、やっぱり楽しかったな~>
白いピックの写真も添えられている。
最後に、コレット。
<録音、何に使ったの>
キャラメルは三つの画面を順番に見た。
コレットのドラム。
自分の鍵盤。
シロのギター。
ギターを弾いてみたがっているミルク。
並べようと思えば、並べられる。
けれど、まだ誰も同じ場所には立っていない。
シロは、なぜキャラメルがギターのことを聞いたのか知らない。
ミルクは、シロの古いギターのことを知らない。
コレットは、キャラメルが鍵盤を弾けることを知らない。
そしてキャラメル自身も、これをどうしたいのか、まだ最後までは決めていなかった。
コレットへの返信画面を開く。
<少しだけ、音を足してみたよ>
入力。
けれど、送信する直前で止める。
代わりに、
<次に会った時に話すね>
と書き直した。
すぐに返事が来る。
<また秘密>
<もう少しだけね>
<忘れないで>
キャラメルは画面を見て、小さく笑った。
「忘れないよ」
録音した音源を保存する。
ファイル名の入力欄が表示された。
曲名はない。
誰かへ聞かせる予定も、まだない。
キャラメルは少し考え、
<無題01>
とだけ入力した。
保存。
画面を閉じても、先ほどの音は頭の中に残っていた。
ドラム。
鍵盤。
まだ加わっていない、いくつかの音。
それらには、名前も目的もなかった。
ただ別々の場所で鳴っていた音が、ほんの少しだけ、同じ方向を向き始めていた。
キャラメルは自室のキーボードへ、DPo-Xを接続した。
コレットから録音したドラムの音を読み込む。
再生。
スピーカーから、伴奏のないリズムだけが流れ始めた。
正確ではある。
けれど、機械のように完全な間隔ではない。
ほんの少しだけ前へ出て。
少しだけ待つ。
一人で叩いていても、誰かが入ってくる場所を探しているような音だった。
キャラメルは鍵盤へ両手を置いた。
最初のコード。
コレットのドラムが、その下を進んでいく。
二つ目。
今度は少し遅らせる。
ドラムが待ってくれるわけではない。
それでも伴奏データと違い、録音の向こうにコレットがいると知っているだけで、音の聞こえ方は変わった。
同じ部分を繰り返す。
一度目は合わない。
二度目は少し近づく。
三度目。
ドラムのスネアと、キャラメルの右手が重なった。
「ここだ」
思わず声が出る。
そこから先は、先ほどまでより簡単だった。
コレットが強く叩く場所には、少し高い音。
一度だけ空けた場所には、鍵盤を長く伸ばす。
最後のフィルへ入ったところで、キャラメルも音を増やした。
ドラムが止まる。
鍵盤の音が、一秒だけ残る。
静かになった部屋で、キャラメルはしばらく動かなかった。
一人で弾いていた時とは違う。
コレットは今、この場にはいない。
それでも、自分以外の人が選んだ間へ、音を置いた。
少しだけ返事をもらえたような気がした。
DPo-Xが振動する。
シロからだった。
<これ、弦張り替えたら普通に使えそう>
古いギターの写真。
ケースから出され、スタンドへ置かれている。
続いて、ミルクからもメッセージが届いた。
<この前のギター、やっぱり楽しかったな~>
白いピックの写真も添えられている。
最後に、コレット。
<録音、何に使ったの>
キャラメルは三つの画面を順番に見た。
コレットのドラム。
自分の鍵盤。
シロのギター。
ギターを弾いてみたがっているミルク。
並べようと思えば、並べられる。
けれど、まだ誰も同じ場所には立っていない。
シロは、なぜキャラメルがギターのことを聞いたのか知らない。
ミルクは、シロの古いギターのことを知らない。
コレットは、キャラメルが鍵盤を弾けることを知らない。
そしてキャラメル自身も、これをどうしたいのか、まだ最後までは決めていなかった。
コレットへの返信画面を開く。
<少しだけ、音を足してみたよ>
入力。
けれど、送信する直前で止める。
代わりに、
<次に会った時に話すね>
と書き直した。
すぐに返事が来る。
<また秘密>
<もう少しだけね>
<忘れないで>
キャラメルは画面を見て、小さく笑った。
「忘れないよ」
録音した音源を保存する。
ファイル名の入力欄が表示された。
曲名はない。
誰かへ聞かせる予定も、まだない。
キャラメルは少し考え、
<無題01>
とだけ入力した。
保存。
画面を閉じても、先ほどの音は頭の中に残っていた。
ドラム。
鍵盤。
まだ加わっていない、いくつかの音。
それらには、名前も目的もなかった。
ただ別々の場所で鳴っていた音が、ほんの少しだけ、同じ方向を向き始めていた。