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南海の魔島
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南海の魔島
山本周五郎
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[#3字下げ]神秘の島[#「神秘の島」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
南太平洋の或る海上に、「モオゼ島」或《あるい》はまた「天火の島」と呼ばれる怪奇な一孤島があるという伝説は、古くから航海者たちの口から口へ伝わっていた。――予言者モオゼはシナイ山上で神から天火に依《よ》って十戒を授けられたというが、その孤島は今もなお天火を放って雲表へ十戒を書くといい、それが伝説の名の由来だと伝えられている。
その島のことを初めて記録に登《の》せたのは、西班牙《スペイン》の貴族ドリゴオ伯爵の「我が新世界」という旅行記である。ドリゴオ伯は有名な冒険家で、一六二〇年に五艘の船を率いて新世界探検に乗出《のりだ》し、東|印度《インド》諸島から南太平洋を横断し、南|亜米利加《アメリカ》を廻って、一六三五年に帰国している。
「我が新世界」がその時の旅行記であるが、その中の一六二九年六月十七日の項に左のような記録がある。
――いま我々の前方二十|浬《カイリ》の彼方《かなた》に「天火の島」が在《あ》る。この島こそ世界中の冒険家の憧憬《あこがれ》の的であった我々はいまその島を眼前にして引返《ひきかえ》すのだ。この島を見るために恐るべき犠牲が払われた。死の海は我等の偵察船「聖ヨセフ号」と「エプロ号」とを一瞬にして呑去《のみさ》った。あの瞬間の恐怖こそ終生忘るべからざるものであろう。二艘の友船は島へ近づくと共に、忽然《こつぜん》として理由も無く、まるで石塊《いしころ》が沈むように沈没し去ったのだ。如何《いか》なる航海者も「天火の島」へ近寄る事は出来ぬ。あの「死の海」のある限りは。
モオゼ島に関する記事はそれだけである。
伯爵はその島を発見し、二十|浬《カイリ》まで接近しながらそれ以上は何も為《な》し得ずに去っている。偵察のためにやった二艘の船が理由もなく「石塊《いしころ》のように」沈没したというのは何故《なぜ》か? 死の海とは何の意味か? 残念ながらドリゴオ伯の記録では分らない。
一七〇〇年代に入って、和蘭陀《オランダ》の探検家マイダス・オルデンが、呂宗《るそん》島から南太平洋へかけて十年掛りの探検をやった結果、「未知の島々」という手記を書いた。その中にはやや精《くわ》しく「モオゼ島」のことが記してある。――それに依ると、島は周囲約八、九十|哩《マイル》、海岸線は高さ二百|呎《フィート》に余る屹立した断崖絶壁で囲まれ、樹木も草も見られない。船を着ける場所もなく断崖を登る法も無い。つまり海中からいきなり巨大な巌が突立《つきた》っているようなものである。附近の海は静穏であるが、……或る一ヶ所だけ、知ることの出来ない不思議な海溝がある。過《あやま》って其処《そこ》へ船を進めると沈没は免れない。我々の同行の船「アムステルダム号」は遂《つい》に其処《そこ》で悲しむべき運命の渦《うずまき》を残して水底へ沈んだ。――
此処《ここ》にもまたドリゴオ伯の記録と同じように「死の海」のことが書いてある。尤《もっと》もそれ以後七人の冒険家が次々と「モオゼ島」或は「天火の島」の記録を遺しているが、どの書物にも「死の海」の恐るべき記事の無いものはない。そして、遂に今日に至るまで一人として、その島へ上陸した者がなかったのである。
旗野浩三博士《はたのこうぞうはかせ》がこの島の探検を思い立ったのは十年も前の事だ。博士は古い航海者たちの伝説から、各国の冒険家の記録を残りなく読み、その島に関する充分な知識を得ると同時に、昭和九年の春、敢然として第一回の探検を決行した。――しかし五ヶ月にわたる難航の後、ようやく島の位置だけはつきとめたものの、既に探検に必要な物資が不足していたので、眼前に目的の島を見たまま空しく帰らざるを得なかったのである。
この惜《おし》むべき失敗の後、博士は第二回の探検を完全にするため、四年間を準備に費やした。同行者には鉱物学の藤原健博士、自然科学者として依本《よりもと》順吉博士を選び、助手としては甥の大沼哲夫《おおぬまてつお》、門下生の理学士内田三郎、内田の妹のスズ子などが加わった。――また無電機や十六ミリ撮影機を用意し、武器火薬、食糧も一年分を積込《つみこ》むなど、前回の時に数倍する準備を以て、昭和十三年十月はじめ、第二回の探検に出発したのである。
東京湾を出肭した探検船「白鴎丸《はくおうまる》」は、途中で一度小さな暴風雨に遭ったのみで、三週間というもの南へ南へと無事な快走を続け、二十三日めの夕方、遂に目的地へと到着した。――西経一四〇度四分、南回帰線から百五十|浬《カイリ》、ラパ諸島を右に見て、更《さら》に東南へ二百|浬《カイリ》ほど行った絶海の洋上に、その「モオゼ島」は在った。
記念すべき昭和十三年十一月七日の早朝、まだ東の水平線がようやく色づきはじめた頃、探検隊の人々は日の出を待切《まちき》れずに白鴎丸の甲板《カンパン》へ走り出た。
モオゼ島は二|粁《キロ》の先に突立っている。実にそれは「突立っている」という以外に形容の出来ぬ光景であった。――島の周囲は海を抜くこと二百|呎《フィート》、或いは三百|呎《フィート》が断崖である。全くオルデンが「未知の島々」の中に書いている通り、「海の中から巨大な岩が突出ている」ようなものだ。
「うーむ、こいつは難物だぞ」
依本博士が先《ま》ず大きな溜息をついた。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
「飛行機でも持って来なければあの断崖の上へは登れやせん。まるで壁だね」
「いや登ることは出来るよ」
旗野博士は自信ありげに云《い》った。
「第一回の時に周囲を廻って見たんだ。西側の方にただ一ヶ所だけ岩の裂目《さけめ》がある。そこならどうやら登れそうなんだ」
「木も草も生えておらんようじゃないか」
「その代り食人種のいる心配もないという訳さ」
「なんにしても思ったより難物だ」
依本博士は余程驚いたらしい。――旗野博士はまたその様子を見てくすくす笑っていた。
朝の食事がすむと間もなく、旗野博士は甥の大沼哲夫と内田三郎を呼び、船長に短艇《ボート》を下すよう命令した。島を眼前に見ると一時もじっとしていられないらしい。先ず三人で一番乗りをやろうということになったのだ。
「三人だけで行くなんて危険だ。島には何がいるか知れんじゃないか」
「上陸するなら皆一緒にやろう」
「船員の腕つこきを十人ばかり連れて行ったら……」
などと人々は口々に忠告したが、博士は笑って受付《うけつ》けなかった。
「なに、例の登口の裂目を見に行くだけさ。夕方までには帰って来るよ」
とあっさり短艇《ボート》へ乗込んだ。
しかし実を云うと、博士はひと晩夜営をするつもりであった。断崖の裂目を調べて、若《も》し出来たら頂上まで行ってみるのも宜《い》いと考えたのである。だからひそかに小銃を二挺と、食糧や天幕《テント》を積入んでいた。ところがいざ短艇《ボート》を下そうとした時、内田の妹スズ子が走って来て、いきなり短艇《ボート》へ飛乗《とびの》って了《しま》った。
「駄目だスズ子、いけないよ」
内田は驚いて止めたが、
「厭《いや》よあたし先生とお兄さまから一歩も離れない決心で来たんですもの、それに此処《ここ》まで来て一番乗りに後《おく》れるなんて意味ないわ」
「だって今夜は夜営するんだぜ」
「夜営ぐらい毎年|上高地《かみこうち》でやっていますもの、平気だわ」
「――まあ宜《よ》かろう」
旗野博士が側から微笑しながら云った。
「折角《せっかく》乗ったんだから一緒に行くさ、その代り自分のことは自分で始末するんだよ。女の子だからと云って我々は別に大事にしてあげることは出来ないんだから」
「そんなこと初めから分ってますわ、先生」
スズ子は美しい歯を見せて笑いながら元気にそう云って、大沼哲夫の側へ坐った。――短艇《ボート》は本船を離れた。
太陽は既に高く昇っていた。波ひとつ立たぬ海面は強い日光を受けてぎらぎらと眼を射るように輝いている。何方《どっち》を向いても鴎や信天翁《あほうどり》や、その他の海鳥の姿が一羽も見えない。海鳥の飛ばぬ海は花の無い園のように寂しいものだ。――大沼哲夫は双眼鏡を覗きながら、ふとそんなことを考えた。
一時間の後、短艇《ボート》は島の西海岸へと着いた。其処《そこ》には僅《わず》かながら絶壁の下に、波をかぶらない平な岩が突出ていたので、四人は短艇《ボート》をしっかりと岩へ繋いで上陸した。
「恐ろしく高いなあ」
「凄いわねえ」
「丸ビルの三倍はあるだろう」
「眼がくらくらするわよ」
断崖の真下に立って見ると、屹立三百|呎《フィート》の高さは全く圧倒的なものであった。――博士はパイプに火をつけながら、
「我々がこの島へ上陸した最初の人類だ。我々四人の名こそ、この断崖へ刻みつけて千古に遺すべきものだ。スズ子君は日本の全女性の代表というところだね」
「あらすばらしいわ」
「大いに威張って宜いよ――さあ、裂目を見に行くかね」
内田と哲夫が銃を持ち、博士が先に立って左へ進んだ。波に洗われて尖った、足場の悪い岩地である。殆《ほとん》ど断崖に縋《すが》るような恰好で、百五十|米《メートル》ほど行くのに約一時間を要したが、やがて右手に大きな絶壁の裂目のある処へ出た。――それはまるで雷にでも裂かれたように、五|米《メートル》足らずの幅で頂上まで割れている。然《しか》も幸運なことには、その裂目の左右には、足場として持って来いの岩の尖りが出ているのだ。
「こいつは旨いぞ」
博士は思わず叫んだ。「まるで誂《あつら》えたようじゃないか。是《これ》なら少しザイルを使うだけで楽に登ることが出来る。ひと休みしたらやってみよう」
「上へあがって合図したら、船の人たちはさぞ吃驚《びっくり》するでしょうね」
スズ子は眼を輝かせながら元気に叫んだ。――その時海の方を見ていた哲夫が、そっと博士の側へ近寄って囁《ささや》いた。
「伯父《おじ》さん、此方《こっち》へ来て下さい」
「……何だ」
哲夫は内田兄弟から離れると、博士の手に双眼鏡を渡しながら云った。
「白鴎丸が見えなくなりました」
「……?」
「死の海にはまったのではないでしょうか」
博士の顔色が蒼くなった。
[#3字下げ]人間が居る[#「人間が居る」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
白鴎丸の姿が見えない。つい三十分前には慥《たし》かに二|粁《キロ》彼方《かなた》の海上にいたのである。それがいま双眼鏡で見ると何処《どこ》にも見えないのだ。此方《こっち》へ四人上陸しているのだから、無断で停泊の場所を変えるということは絶対にあり得ない。――しかし、現に白鴎丸は消えて無くなったのだ。
ドリゴオ伯爵の記録以来、多くの冒険家たちが筆を揃えて書いている「死の海」――石塊《いしころ》のように船を沈めるという死の海……白鴎丸もその恐るべき運命の罠に陥ったのであろうか。
「内田|兄妹《きょうだい》には黙っている方が宜いな」
博士は低い声で囁いた。
「殊《こと》に依ると場所を変えたのかも知れない。兎《と》に角《かく》島の上へ登ってみれば分るだろう。若しも白鴎丸が……」
そう云いかけて、博士は口を噤《つぐ》んだ。
若し白鴎丸が死の海へ呑まれたのだとすれば、博士はじめ四人の運命は絶望である。食糧は二日分に足りない。用意して来た物は二挺の銃と僅かな弾丸《たま》とライカと夜営用具だけだ。……航路から三百|浬《カイリ》以上も離れたこの絶海の孤島では、救助船を待つ希望も持つことは出来ぬ。――探検は果然! その第一歩に於《おい》て恐るべき不運に見舞われたのである。
内田|兄妹《きょうだい》はまだ気付いていなかった。絶望を知らせるのは一時でも延ばしてやるのが慈悲だ。そう思った博士は、哲夫を促して戻ると、元気に裂目を登る支度に掛った。
登攀《とはん》を始めたのは午前十時だった。先頭に哲夫、次に博士、スズ子、内田という順序である。かなり風蝕しているにも拘わらず、足場にする岩は極めて硬く、哲夫と内田は銃や夜営用具や食糧を背負っていたのに、大した危険にも遭わず登攀を続け、途中で二度休んだだけで、一時間と四十分の後には断崖の頂上へ着くことが出来た。
「――まあすばらしい」
スズ子は頂上へ着くなり、崖の端へ走り寄って島の中を展望しながら叫んだ。
「原始林だわ。お兄さま御覧なさい、原始林よ、池も見えるわ。深い深い森、巨《おお》きな樹、樹の海だわ。有史以前そのままの風景よ」
「なるほど、こいつは雄大だ」
三郎も妹と並んで立ちながら呻《うめ》いた。
海上から見た時は一木一草も眼につかなかった。それは島の内部が低くて、その周囲を高い絶壁が取巻《とりま》いていたからである。――いま彼等の立っているのは、その絶壁の中で最も高く屹立した岩山の一つだ。見下ろせば深々たる原始林の海である。何千万年この方|曾《かつ》て人の住んだことがなく、一度として斧を入れた者のない真の原始林だ。……豁谷《けいこく》も見える。森の木隠れに池とも沼とも見える水面が光っている。それは見る者に一種の敬虔な戦慄を与える神々しい風景であった。
「――先生」
スズ子は振返って叫んだ。
「船の人たちに知らせましょうよ、銃を射てば聞えるでしょう? きっとみんな吃驚《びっくり》しますわ」
「それが出来たらね」
博士は遂に沈黙を破る時が来た。――内田|兄妹《きょうだい》が島内の景色に見惚《みと》れているあいだ、哲夫と共に双眼鏡で懸命に附近の海上を捜したが、白鴎丸の姿は何処《どこ》にも発見することが出来なかったのである。――博士は静かに云った。
「白鴎丸は沈んで了《しま》ったよ」
「――え?」
内田|兄妹《きょうだい》は唖然とした。博士の言葉の意味が直《す》ぐには分らなかったのだ。
「沈んだと云う他に考えようがないのだ。死の海のことは多くの記録が証明している。恐らく白鴎丸も同様の運命に終ったのだろう。――不幸にしてそうとすれば、我々四人はこの島から去る法が無くなった訳だ」
「……まあ、――」
さすがにスズ子は蒼白《あおざ》めた。――博士は再びパイプを取出して火を点け、
「だが絶望するには早い。我々は頑張るんだ。我々が此処《ここ》へ探検に来たことは日本の知人たちが知っている。半年も消息が無ければ必ず捜索隊を寄来《よこ》すだろう。……半年だ、半年だけ頑張るんだ」
「無論ですとも、先生!」
内田三郎が決然と眉をあげた。
「どうせ探検は命懸けのものです。船が無くなったとなれば、却《かえ》って落着《おちつ》いて仕事が出来ますよ」
「その意気だ!」
博士は強く頷いて云った。
「我々日本人は頑張ることにかけては世界一の民族だ。この不幸を逆転して探検の成功に導こう、宜いかねスズ子君、哲夫も頼むぞ」
四人は互いに確《しっか》りと手を握り合った。
先ず根拠地を定めなければならない。第一の条件は水だ。飲料水のある所で、猛獣や毒蟲《どくむし》(若しいるとすれば)に襲われる危険の少《すくな》い場所が必要だ。――四人は木を伐って来て岩の上に建て、白い布切《ぬのきれ》を縛り付けて救助信号を作った後、荷物を纏《まと》めて島の低地へと降りて行った。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
崖を下ると叢林《そうりん》である。護謨《ごむ》樹のような恐ろしく葉の広いのや、芭蕉《ばしょう》科の樹々や、まだ曾て眼にしたことの無い珍種の巨木がみっしり枝を交わしている。珍種と云えばそれらの樹へ絡みつき垂下《たれさが》っている蔓草《つるぐさ》もまた殆ど未知の種類である。一歩叢林の中へ入ると、密生した枝葉のために全く日光は遮られて夜のように暗い。
進むのは極めて困難だった。一歩|毎《ごと》に逞しい蔓草や、茨の藪を切拓《きりひら》かなければならない。しかもいつ何処《どこ》から危険な動物が跳掛《とびかか》って来るか知れないのだ。
銃は博士とスズ子が持ち、内田と哲夫が切拓く役になって進んだ。――この困難な仕事を助けたのは、パパイアの果実である。其《その》他にも手の届くところに名も知れぬ果実がびっしり生《な》っていたが、食用になるかどうか分らぬのでみんなパパイアを採っては食べた。……頭の芯まで徹《とお》るような素晴しい香気と、舌から喉へ辷《すべ》り込む甘味は、一口毎に骨の髄から精気を盛返《もりかえ》すように思えた。
藪の中で夜営をして翌《あく》る日になった。まだまだ道は下りである。蔓草や藪ばかりでなく自然に朽ちた巨木がごろごろ倒れているので、下り勾配を一歩ずつ切拓いて行く苦心は形容の外《ほか》であった。
二日めの午後三時頃のことである。
四人が朽木《くちき》に腰をかけて、パパイアを食べながら休んでいた時、スズ子が不意に持っていた果実を取落し、
「――あッ」
と云って立上《たちあが》った。
三人は本能的に身を起して、スズ子の見ている方へ眼をやった。――その瞬間に藪がばさりと閉じて、何者か走り去って行く物音が聞えた。
「何だ、スズ子、おまえ何か見たのか?」
「人……人ですわ。――」
「馬鹿な」
「いえ! 藪を両手でこう掻分《かきわ》けて覗いたんです。大きな眼でこうやって見たんです」
三人は黙って顔を見合せた。――この孤島に人間が住んでいる? そんなことが信じられようか、若し漂流者でもいるとするなら、此方《こっち》を見て逃出《にげだ》す筈《はず》はない。それとも土着の蕃人《ばんじん》か、スズ子にしてもちらと見ただけで、どんな恰好をしていたか精しくは分らない。
「ゴリラか何かじゃないのかい」
「そんなことはないさ」
内田の言葉を遮って哲夫が云った。
「心理学から云うと、こんな環境にある場合には、人間をゴリラと見違えることはあっても、ゴリラを人間に見違えることは決して無いんだ。……しかしいずれにしても見届けるまでは油断が出来ない」
「とにかく安全な場所を捜すとしよう」
博士は銃の安全錠をあけながら云った。
「蕃人でも何でも、人間がいるとすれば心丈夫だ。それから注意しておくが、若し蕃人が襲って来たとしてもむやみに殺したりしてはいかん。出来るだけ和解の方法をとるようにするんだ。それを忘れないように」
四人は再び前進を始めた。
その日の夕方近く、谿流の音が聞えたので四人は勇み立って進み、夜になるほんの少しまえ、遂に清冽な谷川の畔《ほとり》へ出ることが出来た。――其処《そこ》は四十五度の急勾配であったが、下が割に柔かい草地てあるし、附近の藪や叢林も疎《まば》らなので、展望の利く便もあったから当分落着くことに定《き》め、早速夜営の準備にとり褂った。
此処《ここ》へ来るまで野獣らしい物にも遭わず、蛇類も見かけなかったが、初めてさっき奇怪な動物を見たので、是からは警戒を厳重にする必要が出来て来た。哲夫は真先《まっさき》になって附近の樹を伐り、夜営地を中、小にしてぐるりと柵を植込《うえこ》み、また柵の内側には壕を掘った。――その仕事は翌る日の正午《ひる》頃まで、三人とも不眠不休でやった結果、出来上りはかなり満足なものであった。ひと口に云うと、疎雑《そざつ》ではあるが小要塞といったかたちで、これなら不意を襲われても充分に防禦《ぼうぎょ》することが出来るであろう。
仕事が終ると、上陸以来はじめて、持参の米を炊いて喰べ、スズ子を見張りにして三人ともぐっすり眠った。
三人がどんなに疲れていたかということは、眠っているあいだに恐るべき悲劇が起ったのを、誰も知らずにいたことで分るだろう。……まるで死んだように、ひと息に三時間ほど眠ってふと眼を覚した哲夫は、天幕《テント》の外へ出るなりあっ[#「あっ」に傍点]と叫んで立竦《たちすく》んだ。
あれほど厳重に作った柵の一部が押倒《おしたお》されている。掘起《ほりおこ》したのではない。根の方を一|米《メートル》も埋めた丸太が、そのまま四五本内側へ押倒されているのだ。……然もスズ子がいない。足許に彼女の持っていた銃が捨ててあるばかりで、スズ子の姿は見えないのだ。
「スズ子さーんッ」
哲夫は大声に叫んだが、直ぐ天幕《テント》の垂れをあげて二人を呼起《よびおこ》した。
「先生、内田! 大変です、起きて下さい。スズ子さんが掠《さら》われました」
[#3字下げ]原始の人[#「原始の人」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
三人は茫然と天を仰いだ。
スズ子は掠われたのだ。三人が眠っているあいだに、何物か柵を押破って踏込《ふみこ》み、スズ子を掠って逃げたのだ。――前日藪の中から覗いていた奴の仕業《しわざ》に相違ない。
「捜しに行こう」哲夫が決然と云った。
「通った道は分る筈だ。若し救助が遅れて万一のことがあったら取返しがつかぬ」
「いや! それはいけない」
内田三郎はきっぱりと遮った。
「妹一人のために我々三人が危険へとび込むのは無意味だ。それも相手が分っているならともかく、何者とも何処《どこ》に隠れて居るとも知れないのに、この迷宮のような森林の中でどう捜すことが出来よう」
「しかし捨てて置けばスズ子君はいまにも……」
「分ってる! 妹はいま殺されかかっているかも知れない。既にもう生きてはいないかも知れない。いずれにしてもこの底知れぬ森の中から捜し出す時間はないだろう! 無駄なことは分っているんだ。――それより早く柵を直そうじゃないか、やつ[#「やつ」に傍点]はまた来るに相違ない。その時は……」
云いかけたまま、内田三郎は大股に倒れた柵の方へ歩み去った。
やつ[#「やつ」に傍点]が再び来たら、その時は妹の仇《かたき》を討ってやる――恐らく内田はそう云おうとしたに違いない。哲夫も博士も暗然と声をのんだ。
内田の言葉通りである。この奥底知れぬ密林の中から掠われたスズ子を捜出《さがしだ》して助けるということは、海へ落した宝石を砂の中からみつけようとするに等しい。しかもその密林の中には、正体の知れぬ怪物がいるのだ。
「――哲夫」
博士は鼻につまった声で云った。
「行って柵を直すとしよう」
「…………」
三人とも再びスズ子の名を口にしなかった。無言のまま倒された柵を起し、太い藤蔓を切って来て、丸太と丸太とを縦横に絡み附けた。
悲しい夕方が来た。残り少い米は大切にしなければならぬので、果実を採って来て喰べた。そのあいだにも三人の耳は、若しやスズ子の悲鳴でも聞えはせぬかと、絶えず森の彼方《かなた》へと惹かれていた。――しかし何の音もしない。鳥の声もしなかった。次第に濃くなって行く暮色の下で、聞えるものは谿流《けいりゅう》の音だけである。
やがて夜になった。不意の襲撃に備えるため、三人は代る代る不寝番をすることにして、先ず博士と内田が天幕《テント》へ入った。
横にはなったが、二人とも眠れはしなかった。うとうととする度《たび》に直ぐ眼が覚める。スズ子の悲鳴が聞えたように思ったり、何物とも知れず近寄る物の気配を感じたりするのだ。――十二時になって、内田が哲夫と代った。
「内田、気を落さないでくれ」
哲夫は銃を渡しながら云った。
「スズ子さんは生きている。僕はそんな予感がするんだ。あの人はきっと生きているよ。やつ[#「やつ」に傍点]は恐らく人質に掠って行ったんだ」
「――うん、僕もそんな気がする」
「そうに違いない。やつ[#「やつ」に傍点]が若し殺すつもりなら掠って行くなんて面倒な事をせずに、此処《ここ》で殺した筈だ。掠って行ったのは殺すためじゃない。きっと生きているよ」
「だが僕は……思うんだ」
内田は苦しげな声で云った。
「えたい[#「えたい」に傍点]の知れぬ怪物のために、なまじ生きていて苦しむよりいっそ――」
「内田! 女々《めめ》しいぞ!」
哲夫は強く相手の肩を掴んで叫んだ。
「スズ子さんは子供じゃない。短艇《ボート》へ乗る時にも、自分の身の始末は自分ですると云っていた。少しばかりの苦しみに耐えられないような、そんな弱い人ではない筈だ。――信じ給え、スズ子さんは生きている。その他のことは時期が解決するよ」
内田三郎は低く頭を垂れた。
哲夫はその肩を、労《いた》わるように叩いてから天幕《テント》の中へ入った。――スズ子は生きている。ただ漠然とした予感ではあったが、哲夫にはどうもそれが真実に思えて仕方がないのだ。
――きっと生きている。生きていさえすれば、必ず救い出す機会は来る。
そんなことを繰返《くりかえ》し考えている内に、いつかしらうとうとと仮睡《まどろ》んだらしい。
ふと妙な物音を聞いたように思って眼を覚ますと、博士が入口に立ったまま、懐中電灯を持って手紙のような物を読んでいる。
「伯父さん、――どうしたんです」
「……内田が出て行ったんだ」
「何ですって※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
哲夫は愕然と毛布を蹴って跳起《はねお》きた。――博士は持っていた手紙を哲夫に渡した。
[#ここから2字下げ]
先生。僕をお赦《ゆる》し下さい、どうしても妹のことが、諦められないのです。僕は捜しに行きます。生きて、再びお眼にかかれようとは思いません。繰返しお赦しを願うのみです。大沼君、嗤《わら》ってくれ。
[#ここで字下げ終わり]
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
読終《よみおわ》った哲夫は、天幕《テント》の外へ出て魔のような闇の大森林をじっ[#「じっ」に傍点]と見やった。
内田の気持はよく分る。彼は妹が生きていると思うゆえに、じっ[#「じっ」に傍点]としていることが出来なかったのであろう。また自分たち兄妹《きょうだい》のために博士や哲夫を危険に曝《さら》したくないため、独りで出て行ったに違いない。百に一つも生きて帰る望みのない道へ! ――
「哲夫、火を焚こう」
博士が出て来て云った。
「内田が戻って来る目標になるだろう」
「しかし、……ええ焚きましょう」
火を焚けば例の怪物の目標になるであろう。しかしそれを恐れていては、若し内田が戻って来ようとする場合の助けにならない。……哲夫は焚木《たきぎ》を集めて来て火をつけた。
二人は燃上《もえあが》る焔《ほのお》を前に、銃を執《と》って黙然《もくねん》と坐っていた。
朝が来た。内田は戻って来なかった。白鴎丸と共に多くの同行者を失い、此処《ここ》でもまた内田兄妹を失って、今は博士と哲夫の二人だけになった。――朝の光のなかで博士と哲夫がしみじみと感じたのは「この二人きりになった」というまざまざしい事実であった。
大きな悲しみの中にも、疲れと眠気は避けようがなかった。
「代りあって寝るとしようか」
「僕はその前に食物《たべもの》を採って来ます」
そう云って哲夫は立上った。
柵の一部に出入口が作ってある。藤蔓を解いて外へ抜けようと、哲夫がいま身を跼《かが》めたとき、博士がいきなり大声で、
「哲夫危いッ、戻って来いッ」
と叫んだ。恟《ぎょっ》とした哲夫が、いちど解いた藤蔓を素早く巻きながら見ると、十|米《メートル》ばかり先の叢林の中から、人間とも猿ともつかぬ巨《おお》きな裸の怪物が半身を現わし、此方《こっち》を狙って何か投げつけるところだった。
「――あっ!」
と云って跳退く刹那、大きな石のような物が哲夫のいた場所へ唸《うな》りをたてて飛んで来た。――そして怪物は直ぐ、身を翻えして叢林の中へ隠れた。
博士は哲夫が側へ来ると、銃を渡しながら声を顫《ふる》わせて云った。
「哲夫、いまのを見たか、すばらしい発見だ、人類学をひっくり返すことが出来るぞ」
「何です、あれは何ですか」
「原人だ、原始人だ。十万年以前にこの地球へ現われ、既に絶滅したと思われていた人類の祖先だ」
「然《しか》し、ネアンデルタール人(原人)は欧羅巴《ヨーロッパ》の中南部と南|亜米利加《アメリカ》、豪州などに棲《す》んでいたのではありませんか」
「否《いや》! ニュージイランドでも遺骨が発見されている。恐らく今のやつ[#「やつ」に傍点]はその系統だろう。類人猿でもなし類猿人でもない、たしかに原始人だ。彼等は――まだ絶滅してはいなかったのだ」
哲夫は走って行って、怪物の投げた物を拾って来た。――博士はそれを奪い取るようにして見た。石を割って作った一種の投擲用の武器である。
「――石斧《せきふ》だ」
博士の両眼は喜びに輝き、石斧を持つ手は驚きに戦《おのの》いた。
「石斧を使っているとすれば、彼等はまだ後期石器時代のまま進化していないに相違ない。――哲夫、我々は十万年前の人類に会ったのだ。十万年前の人類の生活が見られるんだぞ」
「やつ[#「やつ」に傍点]等はその前に我々を殺して了《しま》うでしょう」
「和睦をするんだ。何を犠牲にしても和睦しなくてはならん、そして……」
「危い!」
哲夫はそう叫びながら、博士を突飛ばすようにして天幕《テント》の蔭へ身を避けた。――実に危い一瞬であった。二人が去ったその場所へ、五つの石斧が風を截《き》って落下した。
「射っちゃいかん!」
銃を執直《とりなお》す哲夫を抑えて、博士は天幕《テント》の中へすべり込んだ。――そして覗き窓をあけて外を見た。
叢林の一部が微《かす》かに揺れている。……と見るうちに、奇怪な人間の顔がぬっと現われた。赤毛である、眉が高く迫っている。顔の下半分が前へつき出ている、恐ろしい顎だ。――彼はよく光る眸子《まなこ》でじっ[#「じっ」に傍点]と此方《こっち》を見まもっていたが、やがて前跼《まえかが》みの窮屈そうな、然し敏捷な歩き方で柵の方へ出て来た。……肩と胸と脛《すね》とは赤毛で蔽《おお》われているが、その他は日に焦《や》けた逞しい皮膚が現われている。――原人だ、博士の言葉は違わなかった。その骨格から、顔つきや歩行の型まで、典型的なネアンデルタールである。彼等は新世代の第四期に、人類の祖先として地球上に現われ、石器時代の前、中期を経て絶滅したものと信じられていた。それが今、博士と哲夫の眼前に現われたのだ。……自分の身の危険も忘れて博士が狂喜したのも無理はないであろう。
[#3字下げ]密林の捕虜[#「密林の捕虜」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
覗き窓の前方へ現われた原人は三人である。博士は前後を忘れて彼等の動作を観察している。――哲夫は万一の場合に備えて、銃を手にし、持ってきた弾丸《たま》を(僅《わず》かに三十発)すっかり身につけた。
「見ろ哲夫、彼等は石棒を持っている」
「……右の端にいるのは女でしょうか。――あ! そうだ、女ですよ伯父さん、子供を抱いてます」
「是はうまいぞ」
博士は希望に溢れた様子で、
「原人たちは、戦いには絶対に女を伴わぬ筈だ。殊に依ると戦わずにうまく……」
云いかけた時、背後の方で柵の押倒される物音がしたと思うと、あっ[#「あっ」に傍点]と云う間もなく、二人の上へ天幕《テント》が倒れかかり、恐ろしい力で押えつけられた。――そのとき哲夫は何かに烈しく頭を打ちつけ、
――いけない、殺されるぞ!
と思ったまま気絶して了《しま》った。
後で考えると、それから哲夫は殆ど二日あまりも意識を失っていたらしい。烈《はげ》しく肩を揺すられるのと、キイキイという妙な叫声《さけびごえ》を耳にして、長い眠りから覚めたような、けだるい気持で眼を開けると、…つい鼻先に覗込《のぞきこ》んでいる原人の顔があった。
「あっ――」
哲夫は総身の血が一時に冷えるような恐怖を感じながら、反射的に右手で襲撃を防ぐ恰好をした、――意外にもその手にはまだ確りと銃が握られてあった。然し、それよりも更に意外なのは、原人が左手で彼の肩を掴み(痺れるように痛かった)右の手にバナナの房を持って、是を食べろと云わんばかりに差出《さしだ》していることであった。哲夫は直《すぐ》に了解した。
彼等は害心を持っていないのである。少くともいまは危険がない。寧《むし》ろ食物を与えようとさえしているのだ。哲夫の手から銃を奪《と》らなかったのは、無論それが恐るべき武器だということを知っていない証拠である。
「――有難《ありがと》う」
哲夫はバナナを受取った。……すると右手の方で笑いながら、
「哲夫、有難うは傑作だな」
と云う博士の声がした。
「その男に言葉など分りはしないよ」
「あ! 伯父さん」
哲夫は吃驚《びっくり》して振向《ふりむ》いた。
その時はじめて、彼は自分の置かれている場所を見た。それは檻であった。方三|米《メートル》ほどの、荒木で組んだ檻である。下には干草や柔かい樹皮を干したものを厚く敷き、上には芭蕉科植物の広い葉が屋根に葺《ふ》いてある。――そして彼の振返った方に、この檻と五|米《メートル》ほど離してもう一つ同じような檻があり、その中に博士が笑いながら立っていた。
「どうだ、この新しい住宅は洒落《しゃれ》たものだろう」
「伯父さんも御無事だったんですね」
「儂《わし》は初めから無事さ、おまえこそもう駄目かと思ったよ。おまえは原人の女に感謝しなくてはいけないぜ。――あのとき子供を抱いた女の原人がいたろう。あれが二日間というもの殆ど附きっきりで介抱していたんだ」
「――もう二日も経っているんですか」
「まあそのバナナでも食べろ」
博士は笑いながら云った。
「元気を取戻したら詳しく話してやろう。おまえが失神しているあいだに、儂《わし》はずいぶん色々なことを経験したよ」
「食べながら伺いましょう」
哲夫は坐り直した。
博士の語ったことを簡単に記すと、――原人たちの人数は凡《およ》そ百二三十人でその約半数は女と子供である。一番老年と思われる者が酋長で、これが絶対の権力を持っているらしい。――気質は温和で肉食をせず、多く木実《きのみ》を生食しているが、極めて幼稚な耕作法を知っているとみえ、この附近に粟のような一種の穀類を栽培している――彼等はまだ火を知らない。
「宜いかね哲夫、これが最も重大なんだ。――彼等はまだ火を知らないのだ。ドイツからジブラルタル附近にかけて棲んでいた原人は、すでに火食をした形跡が遺っている。しかし此処《ここ》の種属はそれを知らない。そのうえ肉食をしないという点が今までの原生人類学にない珍しい事実だ。これは恐らく今日まで何人《なんぴと》にも発見されたことの無い全く新しい系統の原人に相違ない」
「言葉も文字もないのですか」
「言葉はある、多くはないが、二三十種はあるようだ。あとは身振りで補っている。文字はあるか無いか分らんが、絵を描くことは上手だよ」
「絵を描くんですって?」
「然も彩色画だ。おまえの左の方を見てごらん。――見えるだろう。いま文明国で流行の超現実派とかいう絵より、よっぽど面白いじゃないか」
なるほど、檻の左手に幅五|呎《フィート》、長さ十五|呎《フィート》ほどの板が立ててあり、その表には丹青美しく、翼のある恐竜を撃殺している若い原人の姿が描いてあった。――後で分ったのだが、それは彼等にとって魔除けの護符とも云うべきものであった。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
二週間ほど、何事もなく過ぎた。
原人たちは朝夕二回ずつ、色々な果物を持って来て二人に与えた。その中には見たこともなく名も知らぬ珍奇な物が幾種類もあり、しかも舌を痺《しび》れさせるような、美味なものが多かった。――食物の世話をする原人は二人でその他の者たちは初め遠くから、好奇心に輝く眼で臆病そうに眺めたり、何か互いに頷き合ったりするだけで、なかなか近くへは寄らなかった。
「まるで動物園の猛獣扱いですね」
「恐らく本当にそう思っているのだろうさ。我々が珍しい動物を見て娯《たの》しむように、彼等も二人を何か珍しい動物だと思ってるに違いない」
「友達には聞かせられませんね」
哲夫は心から苦笑した。
しかしその内に段々と事情は好転して来た。初めに子供たちが馴れ、(皮肉な話だが)木実《きのみ》を拾って檻の中へ入れに来たりするようになった。全く動物園の猿扱いである。――哲夫はその機会をのがさず、なるべく子供を近づけておいて、片言の単語や、やさしい歌などを教えようと熱心に試みた。……尤も原人類の発声帯の器官が違うので、その試みは失敗に終ったが、それでも親密な感情を作るためには役立った。哲夫が歌をうたい始めると子供たちは遊戯を捨て、大人たちは仕事を抛《ほう》って檻の側へ走り集ってくるようになったのである。
こうした努力は凡そ三週間も続いたであろうか、原人たちは次第に二人に馴れ、やがて昼のうちは檻から外へ出ることをさえ許し始めた。
このあいだにも、哲夫や博士は絶えず内田|兄妹《きょうだい》のことを案じていた。檻を出されるようになってからは、若しや自分たちと同じような運命にいるのではないかと思って、原人たちの動作を注意したり、部落の内外を見廻したりしたが、少くともこの部落にいない事だけはたしかだということが分った。
「此処《ここ》の他にも別に部落があるのじゃないでしょうか。島は広いのだし、二つや三つの部落が有っても宜いと思いますがね」
「そうかも知れん」
「言葉が通じるようになりさえすれば、分るんだがなあ……」
しかし言葉の通じるのを待つ必要はなかった。二人がそんな問答をした翌る日の正午頃、――この楽園のような平和境に恐るべき惨劇が突発したのである。
その時、博士と哲夫は同じ檻の中で、暑い日盛りを午睡しようとしていた。すると不意に、部落の方で慄然《ぞっ》とするような、長くひきのばされた凄《すさま》じい悲鳴が閒えた。まるで体を引裂かれる野獣の断末魔かとも思えた。
「――何でしょう」
「何だろう」
二人は同時に云いながら、半身を起して声の聞えた方へ振返った。
部落とは云っても家がある訳ではない。森の中にある低い木と木の梢を結合《むすびあわ》せ、その上へ芭蕉科植物の葉を重ねたものが点々とあるだけのものだ。その部落のある森の入口のところへ、今まで見たことのない、褐色の毛を持った原人が十四五人現われ、赤毛の原人の家を襲っているところだった。
彼等は右手に、尖《さき》の太くなった石棒を持ち、左手で小屋を引※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《ひきむし》り、中にいる老人や女たちを曳出しては、荒々しく咆えながら、鈍い動作で右手の石棒を振上げ、一撃のもとに撃倒《うちたお》して行く――悲鳴はその老人や女たちのものであった。
哲夫は咄嗟《とっさ》に銃を執って立った。
「危いぞ、気をつけろ」
と云う博士の声を後に、檻から出ると脱兎のように走りだした。――直送二百|米《メートル》、褐色の毛の原人の一人がそれと気付いて急に此方《こっち》へ向直《むきなお》って来るのを、哲夫は十|米《メートル》まで近寄せておいて狙い射ちに引金を引いた。
だあん!
銃声は密林にこだま[#「こだま」に傍点]し、立向って来た原人は悲鳴と共にだあっ[#「だあっ」に傍点]と倒れた。
その一発の銃声は彼等を恐怖に叩きこんだ。そんな音は曾て耳にしたことがないのだ。彼等は――敵も味方も――愕然として振返った。その大きく瞠《みひら》かれた眼前で、哲夫は再び銃をあげ、最も体格の巨《おお》きい、そして恐らく指揮者とも思われる褐色の毛の原人を狙って第二発めを射った。
だあん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
耳を聾する銃声と共に、
「わあう――」
喉にからまるような悲鳴をあげ、両手で胸を掻※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《かきむし》りながらその原人はうち倒れた。――そして次の瞬間には、残った襲撃者たちは石棒を捨て、恐怖の声をあげながら叢林の中へと逃込《にげこ》んでいた。
[#3字下げ]穴居族[#「穴居族」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
二人は英雄になった。――否、神になったという方が本当だろう。赤毛の原人たちは二人を檻から出し、今まで酋長の住んでいた小舎《こや》へと恭《うやうや》しく導き入れた。
彼等の眼前で行われた銃の奇蹟は、恐怖と同じ畏敬を以て彼等を跪《ひざまず》かせた。今やすべての権力は二人の手に移ったのだ。――博士はこの時の来るのを待っていたのである。
言葉が通じない不便はあっても、すでに長いあいだ生活を見て来ているので、簡単な発音や身振り手振りを入れれば、幾らか意志を通じることは出来るらしい。――博士と哲夫は辛抱強くそれを繰返すことで、やがて左のようなことが朧《おぼ》ろげながら分って来た。
(即ち、この島の北側に岩石地帯があり、そこに種族の違う原人の群が穴居生活を営んでいる)
(穴居族とこの森林族とは、昔から相交通すること無く、折さえあれば互いに殺合《ころしあ》って来た)
(その争いの元は、いま穴居族が占領している「月神《つきがみ》の洞《ほこら》」である)
これだけのことを知るのに数日を要した。
しかし努力の甲斐はあったのである。「月神の洞」というのが何であるかは分らないが、穴居族と森林族とが殺し合って争奪するとすれば、何か其処《そこ》には隠れた秘密があるに相違ない。――それよりも寧《むし》ろ、二人にとって考えられるのは内田|兄妹《きょうだい》のことであった。
「きっと其処《そこ》にいますよ、伯父さん」
「我々のように」
と博士は気遣わしげに云った。
「大切に保護されているかどうかは分らないが、恐らく彼等の手に捕《つかま》ったことだけは間違いないだろう」
「行きましょう。――殊に依るとまだ生きているかも知れません。少しの違いで取返しのつかぬようなことがあっては諦めきれませんよ」
「銃の威力ですっかり気を好《よ》くしたな」
「装填してあったのが七発、二発射って予備が三十発です。気を好くする程じゃないですよ」
そう云って哲夫は苦笑した。
若い二人の原人に案内されて博士と哲夫が部落を出掛けたのは其夜のことであった。――殆ど道のない叢林を分けて行くのだが、毒虫や猛獣に襲われる心配がないので(原人たちは何十代にも渉って、自分たちの生活の安全のために、其等《それら》の動物を根絶《ねだや》しにしたのである)その旅行は割に平安なものだった。
夜の明け方に、彼等は大きな沼地の畔《ほとり》を通った。上陸した初めの日、あの高い断崖の上から眺めたのがそれであろう。汀《みぎわ》には葦《あし》に似た植物が密生し、水は蒼黒く凄いまでに澄み淀んでいた。――博士は若しや独木舟《まるきぶね》のような物でもありはせぬかと暫《しばら》く立止って見廻していたが、それに似た何物をも発見することは出来なかった。
案内役の原人たちは、沼を過ぎると間もなく、再び密林の中へ入った処で藪の茂みへ入り、此処《ここ》で夜を待つのだということを教えた。その様子で既に穴居族の部落の近いことが察せられる。また事実、密林の彼方《かなた》にちらちらと白い岩肌が見えていた。
午後二時頃のことであろうか、森の梢が妙にざわざわと揺れだしたので、見上げると空には雷雲がのしかかっている。
「伯父さん、驟雨《スコール》が来ますよ」
「珍しいな、この島へ上陸して初めてじゃないか」
「此処《ここ》じゃあ濡れますね」
そう云いながら振返ると、原人たちの様子が変っているのに気付いた。
彼等は不安そうな眼で、雷雲に蔽《おお》われて次第に暗くなって来る空を見上げたり、空気の中から何かを嗅ぎだそうとするように、大きな鼻孔をいつばいに広げて振仰いだりしている、――明らかに何か異常なことが起るのを予感している様子だ。
「何でしょう伯父さん」
「雷を怖れているんだ。察するところこの附近には雷の来ることが稀《まれ》なんだろう。我々の文明国だってつい最近まで……」
博士の言葉の終らぬうち、不意に眼の眩《くら》むような雷光が森を劈《つんざ》いた。
既に雷雲がすっかり空を包み、それでなくてさえ陰暗たる密林の中は、宵闇のように暗く閉《とざ》されていた。その暗さが、一瞬青紫色のすばらしく美しい光でさっ[#「さっ」に傍点]と輝きだしたのだ。――博士と哲夫は雷光だと思った。しかしそうではなかった。その光はそのまま消えないのである。
「ガウガ、ガウガ、ガウガ」
祈りとも悲鳴ともつかぬ声をあげながら、原人たちは大地へひれ伏して了《しま》った。
光はまだ消えない。慈光遍満とでも云おうか、密林のあらゆる樹々、風に揺れる木葉《このは》の一枚一枚までがはっきりと浮出《うきで》て見える。夢のような美しさだ。光は空から来るのでもなく地上から放射されるのでもない。空気がそのまま光となって輝くかに見える。
「何でしょう、これは? 空気が妙に匂いますね」
「磁気現象だよ。空中の電子が、地中のある金属に触れて発する光だ。稀《まれ》であるが珍しくはない。――空気が匂うのはイオンだよ」
博士はそう云いながら、原人の一人の肩を掴んで引起し、彼等が何のために恐れるのかを訊《き》き始めた。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
原人は恐怖のため殆ど意識を失いかけていた。しかし熱心に訊きだした結果、驚くべきことが分かった。――即ち、その光は「月神の洞」にいる荒神《あらがみ》の怒《いかり》から出るもので、荒神は犠牲を求めているのだと云う。
「哲夫、ようやく分ったぞ」
博士は立上りながら云った。
「我々はその荒神へ捧げる犠牲だったのだ。生贄《いけにえ》として飼われていたのだ」
「伯父さん、では内田|兄妹《きょうだい》が危い」
「そうだ、若し穴居族に捕えられているとすれば危険が迫っている。急ごう哲夫!」
原人たちに「月神の洞」の位置を糺《ただ》したのち、二人は密林の中を懸命に走りだした。
光は明暗を描きながら輝いている。それこそ時にとっての天恵だ。森の中は真昼のように明るいので、障害の無い処を選びながら走りに走る。途中に凄い谿谷《けいこく》があって、それを渡ると間もなく叢林は疎《まば》らになり、二人の眼前には白い岩地と段丘とが現われた。――その段丘には点々と穴があいているし、その穴の外から下の岩地へかけて、褐色の毛の原人たちが身をひれ伏している有様まで歴々《ありあり》と見える。
しかしそれよりも哲夫を恟《ぎく》りとさせたのは、二人が立った所から右手二百|米《メートル》ほど先に、小高く盛上った岩の丘があり、(それは祭壇であった)その上に十人ばかりの原人たちが犇《ひし》めき騒いでいる。見るとその丘の中央に一段高く壇を築いて、素裸の人間が二人ひき据えられているのだ。
「あ! 内田です、伯父さん」
哲夫は叫びながら、既にそちらへ向って走りだしていた。
壇上に据えられた内田|兄妹《きょうだい》は、衣服を剥ぎ取られて文字通りの裸である。原人たちはそれを左右から腕を掴んで引立てた。美しいスズ子の体が、みちあふれた雷光を浴びて神像《しんぞう》のように輝いている。――その前に立上った一人の巨大な原人は、何か大きな声で咆えたてながら、右手に持った石棒を鈍い動作で高く、スズ子の頭上へ振上げた。
脱兎の如く走って来た哲夫は、五十|米《メートル》ほどの距離でぴたりと立止り、――いま当《まさ》に石棒を振上げた原人を狙って引金を引いた。
だあん!
段丘に反響して銃声が轟いた。原人は横ざまに壇から転落した。
だあん、だあん、だあん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
銃口は続けざまに火を噴き、壇上の原人たちは悲鳴をあげながら次々と倒れた。――残った者は驚きの余り、茫然と手を垂れたまま立竦んでいたが、哲夫が銃を構えながら走って行くと俄《にわか》に暴々《あらあら》しい声で咆え、石棒を振かざしながら逆襲して来た。
「――哲夫さあん!」
スズ子の声だ。
「スズ子さん、もう大丈夫だ」
叫びながら哲夫は射撃を続けた。
銃の性能を知らぬ彼等はまるで標的のようなものであった。本能的に威嚇の形を作りながら、両手を挙げ胸をひらいて走って来るので、一人ずつ狙い射ちにやれる。――忽《たちま》ち全部を射斃《うちたお》して了《しま》った。
その時、すでに博士は壇上へ駈けつけていた。内田|兄妹は《きょうだい》その足首を壇の枷木《かせぎ》に縛り付けられている。それを切放したとき哲夫も走寄《はしりよ》って来たが、――手早く上衣《うわぎ》とズボンを脱いで、
「スズ子さん、早く是を着て」
と差出した。
素裸にされていたスズ子は、危険のなかにも羞《はずか》しさに肌まで赧《あか》くなっていたが、それを受取ると待兼ねていたように身に着けた。
「済みません、先生」
「何を云う、そんなことはお互いだ」
「その代り土産《みやげ》があります」
「後だ後だ!」
博士と内田とは短い叫びを交わしながら、支度の出来たスズ子を中に、その壇上から走り下りた。――網シャツとパンツだけになった哲夫は、銃を小脇に持って殿《しんがり》に立った。この時早くも、段丘の方からは原人たちが押寄せて来ていたのである。
「早く、森の中へ入れ」
哲夫は叫びながら銃を射った。――「月神の洞」の荒神が怒るという、例の光はようやく薄らいで、電光が閃《ひらめ》めき始め、雷鳴が島の周囲に屹立する断崖に、凄じい反響を呼起した。
逃げる四人の廻りへ、石斧が唸りを生じて飛んで来た。哲夫は弾丸《たま》を填《つ》めては射ち、填《つ》めては射ち、殆ど息をつく暇もなく射撃を続けながら走った。――銃身は火のように熱して来た。弾丸《たま》は少くなるばかりだ。しかも原人たちは、仲間の死体を乗越え踏越え、獣のような兇猛さで追って来る。ここ荒神に捧げる生贄《いけにえ》の祭壇を汚されたので、彼等はもう復讐の鬼と化しているのだ。
「――残念、弾丸《たま》が無い!」
哲夫はそう叫んで、手にした銃を逆に持直《もちなお》した。――一騎討ちの覚悟を決めたのだ。それと見て博士が、
「待て哲夫、此方《こっち》へ来い」
そう云いながら、手早く燐寸《マッチ》を取出すと、側に倒れていた朽木の枯枝へ火を放った。
[#3字下げ]その三[#「その三」は中見出し]
乾き切っていた朽木である。枯葉がぱっと燃えだすと見る間に、火は忽ちにして枝へ移り、暗い密林の中でぱちぱちと焔が揺れあがった。
間近に迫っていた原人たちは、その焔を見た刹那に恐怖の底へ叩き込まれた。曾て火というものを知らぬ彼等にとって、焔は奇跡そのものである。原人たちは追撃を忘れて立止り、石斧や石棒を捨てて咆え叫びながら逃げだした。
四人は走った。
そして赤毛の原人たちの部落へ一|粁《キロ》ばかりと思われる地点へさしかかった時、不意に眼前へ十四五人の人間が現われた。――ヘルメットがある、白服を着ている、海員帽がある、文明人だ。銃を持っている。
四人は茫然と立竦んだ。余りに意外な喜びは人の感情を麻痺させるものだ。見よ、それは白鴎丸と共に消失《きえう》せた人々ではないか。藤原博士がいる。ヘルメットを冠《かぶ》っているのは依本順吉博士だ。柏崎船長、若い船員達、みんな探検隊の同志である。――此方《こっち》が驚きに唖然としているあいだ、向うはまた四人の変った姿を見て直《すぐ》にはそれと分らなかったらしい。しかし狂喜の沈黙は博士の声で破られた。
「船長、船はどうした」
その声が両方の喜びの堰を切った。
「やあ博士でしたか」
「君か、無事だったか」
「生きていたか」
互いに烈しく抱合《だきあ》った。手を握った。笑いだした。笑いながらぽろぽろ涙をこぼした。――柏崎船長は鬼のような髭面を、博士の頬へこすりつけながら叫んだ。
「無事です博士、船は無事です」
「そうか、無事か」
「無事です。船は無事です」
みんな赤毛の原人の部落へは戻らず、別の道からあの断崖の裂目を伝って下り、久し振りに懐しい白鴎丸へ帰った。――直《すぐ》に風呂を浴びた。熱い珈琲《コーヒー》、冷たいサイダー、そして炊きたての御飯に魚のフライ、料理人《コック》が自慢の菓子、その度毎に四人は子供のように歓びの声をあげた。――一行は二三日休養して元気が回復するのを待ったうえ、改めて探検を続けようということになった。
「しかし、あのとき船はどうしたのかね船長」
「実はそれで発見があるんだ」
藤原博士が脇から話を取った。
「君たちが上陸すると直ぐ、我々は錨《いかり》をあげて南海岸へ廻ったんだ。悪気じゃない、先手を打って驚かそうとしたのさ。――ところが其処《そこ》には思いがけぬ危険が待っていた」
「死の海だな?」
「そうだ。白鴎丸が島の南端を廻ったとたんに、ずぶずぶと沈没を始めたのだ」
「あの時は全くもう駄目だと思いました」
柏崎船長が口を添えた。
「死の海のことを伺っていましたが、まるで訳が分からない。いきなりずぶずぶ沈むんですからね」
「幸い浅瀬にいたので、上甲板まで水に浸ったが、倒れずに済んだ。もう百|米《メートル》左へ出ていたら取返しがつかぬところだったよ。――それから我々は短艇《ボート》を下し、食糧品を取出すやら、磯へ露営地を作るやらして、殆ど二十日あまりも総掛りで働き、苦心の結果やっと白鴎丸を浮上らせることが出来たんだ。――君たちを捜しに行くのが遅れたのはそのためさ」
「何のことはない、まるで此処《ここ》まで船大工をしに来たようなものだ」
依本博士の言葉にどっと哄笑があがった。
「それで、発見とは何だね」
「待て、口で云うより事実を見せよう。船長、例の処へ船をやってくれ」
白鴎丸は静かに動きだした。
モオゼ島を南へ廻ると、断崖が巨人のように海面へのしかかっている岬がある。白鴎丸はその百|米《メートル》ほど手前で停った。――藤原博士は立上って、旗野博士と一緒に前帆檣《ぜんぱんしょう》の縄梯子《なわばしご》を登って行き、
「あれを見給え、――」
と岬の下の海中を指示した。――博士は眼を細めて覗込んだ。初めは分らなかったが、眼が馴れるにしたがって異様な光景が見え始めた。――青く青く澄徹《すみとお》った水中に、船が沈没しているのだ、それも一艘や二艘ではない。光の具合で先は分らないが、見えているものだけでも七艘まで数えられる。
「ああ此処《ここ》か、死の海というのは」
「そうだ。海底の岩礁と、岬の下にある水面下の洞窟の角度で、干潮から満潮に移る或る時間に、この附近の水圧が二十分の一に減るのだ。――つまり船が沈む理由はこれだ」
「そうか、問題は水圧だったのか」
博士は頷きながら、暫くは海底の難破船から眼を離すことが出来なかった。――その中には三百年以前に悲しい運命を辿《たど》ったドリゴオ伯爵の「聖ヨセフ号」もあるだろう。マイダス・オルデンの友船「アムステルダム号」もあるに違いない。
「――安らかに眠りたまえ、君たちの失敗はみごとに取返したよ」
博士は瞑目しながら呟いた。
同じ夜のことである。船室に集った人々が食後の寛《くつろ》いだ気持で、博士たち四人の冒険談を聞いていた。原人の話は皆をどんなに驚かせたことであろう。――尚《なお》そのうえに、内田三郎は大変な土産《みやげ》を持っていた。
「月神の洞」と呼んで二種族が争奪しているのは、実はイリジウム鉱のすばらしい鉱洞だということである。原鉱が殆どそのまま洞窟の壁に露出しているという。――時局柄その発見は重大な功績と云わなくてはならない。みんなはそれだけでも探検の価値はあると、凱歌をあげた。
話し更《ふ》かして寝ようとした時である。当直船員のけたたましい叫声が聞えて来たので、何事かと一同甲板へ走出てみると、……モオゼ島の空が真っ赤に輝いている。
「――何だろう」
「恐ろしく赤いな、まるで震災の時の大火の空みたいだ」
人々は審《いぶか》しげに空を仰いだ。――哲夫は博士の肩に触れながら云った。
「伯父さん、あの火ですよ」
「うん」
「最後のどたん場で森へつけた火ですよ。――あれが燃えひろがったんですね。ごらんなさい、恐らく島全体が燃えているんです」
「可哀そうな……原人たち」
博士の頬を泪《なみだ》が伝わった。
モオゼ島はまる二週間燃え続けた。その火を見ながら白鴎丸は日本への帰航の途についた。改めてイリジウム鉱を発掘する準備をして引返して来るために――人類進化学説、あらゆる意味から最も惜《おし》まれたのは、二種族の原人の死滅である。しかし旗野博士と大沼哲夫の手で、その研究報告は近いうちに発表される筈だ。その時こそ世界の学会は驚倒することであろう。……白鴎丸は今、故国への船路を平安に走っている。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年新春増刊号
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年新春増刊号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)或《あるい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)東|印度《インド》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#3字下げ]神秘の島[#「神秘の島」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
南太平洋の或る海上に、「モオゼ島」或《あるい》はまた「天火の島」と呼ばれる怪奇な一孤島があるという伝説は、古くから航海者たちの口から口へ伝わっていた。――予言者モオゼはシナイ山上で神から天火に依《よ》って十戒を授けられたというが、その孤島は今もなお天火を放って雲表へ十戒を書くといい、それが伝説の名の由来だと伝えられている。
その島のことを初めて記録に登《の》せたのは、西班牙《スペイン》の貴族ドリゴオ伯爵の「我が新世界」という旅行記である。ドリゴオ伯は有名な冒険家で、一六二〇年に五艘の船を率いて新世界探検に乗出《のりだ》し、東|印度《インド》諸島から南太平洋を横断し、南|亜米利加《アメリカ》を廻って、一六三五年に帰国している。
「我が新世界」がその時の旅行記であるが、その中の一六二九年六月十七日の項に左のような記録がある。
――いま我々の前方二十|浬《カイリ》の彼方《かなた》に「天火の島」が在《あ》る。この島こそ世界中の冒険家の憧憬《あこがれ》の的であった我々はいまその島を眼前にして引返《ひきかえ》すのだ。この島を見るために恐るべき犠牲が払われた。死の海は我等の偵察船「聖ヨセフ号」と「エプロ号」とを一瞬にして呑去《のみさ》った。あの瞬間の恐怖こそ終生忘るべからざるものであろう。二艘の友船は島へ近づくと共に、忽然《こつぜん》として理由も無く、まるで石塊《いしころ》が沈むように沈没し去ったのだ。如何《いか》なる航海者も「天火の島」へ近寄る事は出来ぬ。あの「死の海」のある限りは。
モオゼ島に関する記事はそれだけである。
伯爵はその島を発見し、二十|浬《カイリ》まで接近しながらそれ以上は何も為《な》し得ずに去っている。偵察のためにやった二艘の船が理由もなく「石塊《いしころ》のように」沈没したというのは何故《なぜ》か? 死の海とは何の意味か? 残念ながらドリゴオ伯の記録では分らない。
一七〇〇年代に入って、和蘭陀《オランダ》の探検家マイダス・オルデンが、呂宗《るそん》島から南太平洋へかけて十年掛りの探検をやった結果、「未知の島々」という手記を書いた。その中にはやや精《くわ》しく「モオゼ島」のことが記してある。――それに依ると、島は周囲約八、九十|哩《マイル》、海岸線は高さ二百|呎《フィート》に余る屹立した断崖絶壁で囲まれ、樹木も草も見られない。船を着ける場所もなく断崖を登る法も無い。つまり海中からいきなり巨大な巌が突立《つきた》っているようなものである。附近の海は静穏であるが、……或る一ヶ所だけ、知ることの出来ない不思議な海溝がある。過《あやま》って其処《そこ》へ船を進めると沈没は免れない。我々の同行の船「アムステルダム号」は遂《つい》に其処《そこ》で悲しむべき運命の渦《うずまき》を残して水底へ沈んだ。――
此処《ここ》にもまたドリゴオ伯の記録と同じように「死の海」のことが書いてある。尤《もっと》もそれ以後七人の冒険家が次々と「モオゼ島」或は「天火の島」の記録を遺しているが、どの書物にも「死の海」の恐るべき記事の無いものはない。そして、遂に今日に至るまで一人として、その島へ上陸した者がなかったのである。
旗野浩三博士《はたのこうぞうはかせ》がこの島の探検を思い立ったのは十年も前の事だ。博士は古い航海者たちの伝説から、各国の冒険家の記録を残りなく読み、その島に関する充分な知識を得ると同時に、昭和九年の春、敢然として第一回の探検を決行した。――しかし五ヶ月にわたる難航の後、ようやく島の位置だけはつきとめたものの、既に探検に必要な物資が不足していたので、眼前に目的の島を見たまま空しく帰らざるを得なかったのである。
この惜《おし》むべき失敗の後、博士は第二回の探検を完全にするため、四年間を準備に費やした。同行者には鉱物学の藤原健博士、自然科学者として依本《よりもと》順吉博士を選び、助手としては甥の大沼哲夫《おおぬまてつお》、門下生の理学士内田三郎、内田の妹のスズ子などが加わった。――また無電機や十六ミリ撮影機を用意し、武器火薬、食糧も一年分を積込《つみこ》むなど、前回の時に数倍する準備を以て、昭和十三年十月はじめ、第二回の探検に出発したのである。
東京湾を出肭した探検船「白鴎丸《はくおうまる》」は、途中で一度小さな暴風雨に遭ったのみで、三週間というもの南へ南へと無事な快走を続け、二十三日めの夕方、遂に目的地へと到着した。――西経一四〇度四分、南回帰線から百五十|浬《カイリ》、ラパ諸島を右に見て、更《さら》に東南へ二百|浬《カイリ》ほど行った絶海の洋上に、その「モオゼ島」は在った。
記念すべき昭和十三年十一月七日の早朝、まだ東の水平線がようやく色づきはじめた頃、探検隊の人々は日の出を待切《まちき》れずに白鴎丸の甲板《カンパン》へ走り出た。
モオゼ島は二|粁《キロ》の先に突立っている。実にそれは「突立っている」という以外に形容の出来ぬ光景であった。――島の周囲は海を抜くこと二百|呎《フィート》、或いは三百|呎《フィート》が断崖である。全くオルデンが「未知の島々」の中に書いている通り、「海の中から巨大な岩が突出ている」ようなものだ。
「うーむ、こいつは難物だぞ」
依本博士が先《ま》ず大きな溜息をついた。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
「飛行機でも持って来なければあの断崖の上へは登れやせん。まるで壁だね」
「いや登ることは出来るよ」
旗野博士は自信ありげに云《い》った。
「第一回の時に周囲を廻って見たんだ。西側の方にただ一ヶ所だけ岩の裂目《さけめ》がある。そこならどうやら登れそうなんだ」
「木も草も生えておらんようじゃないか」
「その代り食人種のいる心配もないという訳さ」
「なんにしても思ったより難物だ」
依本博士は余程驚いたらしい。――旗野博士はまたその様子を見てくすくす笑っていた。
朝の食事がすむと間もなく、旗野博士は甥の大沼哲夫と内田三郎を呼び、船長に短艇《ボート》を下すよう命令した。島を眼前に見ると一時もじっとしていられないらしい。先ず三人で一番乗りをやろうということになったのだ。
「三人だけで行くなんて危険だ。島には何がいるか知れんじゃないか」
「上陸するなら皆一緒にやろう」
「船員の腕つこきを十人ばかり連れて行ったら……」
などと人々は口々に忠告したが、博士は笑って受付《うけつ》けなかった。
「なに、例の登口の裂目を見に行くだけさ。夕方までには帰って来るよ」
とあっさり短艇《ボート》へ乗込んだ。
しかし実を云うと、博士はひと晩夜営をするつもりであった。断崖の裂目を調べて、若《も》し出来たら頂上まで行ってみるのも宜《い》いと考えたのである。だからひそかに小銃を二挺と、食糧や天幕《テント》を積入んでいた。ところがいざ短艇《ボート》を下そうとした時、内田の妹スズ子が走って来て、いきなり短艇《ボート》へ飛乗《とびの》って了《しま》った。
「駄目だスズ子、いけないよ」
内田は驚いて止めたが、
「厭《いや》よあたし先生とお兄さまから一歩も離れない決心で来たんですもの、それに此処《ここ》まで来て一番乗りに後《おく》れるなんて意味ないわ」
「だって今夜は夜営するんだぜ」
「夜営ぐらい毎年|上高地《かみこうち》でやっていますもの、平気だわ」
「――まあ宜《よ》かろう」
旗野博士が側から微笑しながら云った。
「折角《せっかく》乗ったんだから一緒に行くさ、その代り自分のことは自分で始末するんだよ。女の子だからと云って我々は別に大事にしてあげることは出来ないんだから」
「そんなこと初めから分ってますわ、先生」
スズ子は美しい歯を見せて笑いながら元気にそう云って、大沼哲夫の側へ坐った。――短艇《ボート》は本船を離れた。
太陽は既に高く昇っていた。波ひとつ立たぬ海面は強い日光を受けてぎらぎらと眼を射るように輝いている。何方《どっち》を向いても鴎や信天翁《あほうどり》や、その他の海鳥の姿が一羽も見えない。海鳥の飛ばぬ海は花の無い園のように寂しいものだ。――大沼哲夫は双眼鏡を覗きながら、ふとそんなことを考えた。
一時間の後、短艇《ボート》は島の西海岸へと着いた。其処《そこ》には僅《わず》かながら絶壁の下に、波をかぶらない平な岩が突出ていたので、四人は短艇《ボート》をしっかりと岩へ繋いで上陸した。
「恐ろしく高いなあ」
「凄いわねえ」
「丸ビルの三倍はあるだろう」
「眼がくらくらするわよ」
断崖の真下に立って見ると、屹立三百|呎《フィート》の高さは全く圧倒的なものであった。――博士はパイプに火をつけながら、
「我々がこの島へ上陸した最初の人類だ。我々四人の名こそ、この断崖へ刻みつけて千古に遺すべきものだ。スズ子君は日本の全女性の代表というところだね」
「あらすばらしいわ」
「大いに威張って宜いよ――さあ、裂目を見に行くかね」
内田と哲夫が銃を持ち、博士が先に立って左へ進んだ。波に洗われて尖った、足場の悪い岩地である。殆《ほとん》ど断崖に縋《すが》るような恰好で、百五十|米《メートル》ほど行くのに約一時間を要したが、やがて右手に大きな絶壁の裂目のある処へ出た。――それはまるで雷にでも裂かれたように、五|米《メートル》足らずの幅で頂上まで割れている。然《しか》も幸運なことには、その裂目の左右には、足場として持って来いの岩の尖りが出ているのだ。
「こいつは旨いぞ」
博士は思わず叫んだ。「まるで誂《あつら》えたようじゃないか。是《これ》なら少しザイルを使うだけで楽に登ることが出来る。ひと休みしたらやってみよう」
「上へあがって合図したら、船の人たちはさぞ吃驚《びっくり》するでしょうね」
スズ子は眼を輝かせながら元気に叫んだ。――その時海の方を見ていた哲夫が、そっと博士の側へ近寄って囁《ささや》いた。
「伯父《おじ》さん、此方《こっち》へ来て下さい」
「……何だ」
哲夫は内田兄弟から離れると、博士の手に双眼鏡を渡しながら云った。
「白鴎丸が見えなくなりました」
「……?」
「死の海にはまったのではないでしょうか」
博士の顔色が蒼くなった。
[#3字下げ]人間が居る[#「人間が居る」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
白鴎丸の姿が見えない。つい三十分前には慥《たし》かに二|粁《キロ》彼方《かなた》の海上にいたのである。それがいま双眼鏡で見ると何処《どこ》にも見えないのだ。此方《こっち》へ四人上陸しているのだから、無断で停泊の場所を変えるということは絶対にあり得ない。――しかし、現に白鴎丸は消えて無くなったのだ。
ドリゴオ伯爵の記録以来、多くの冒険家たちが筆を揃えて書いている「死の海」――石塊《いしころ》のように船を沈めるという死の海……白鴎丸もその恐るべき運命の罠に陥ったのであろうか。
「内田|兄妹《きょうだい》には黙っている方が宜いな」
博士は低い声で囁いた。
「殊《こと》に依ると場所を変えたのかも知れない。兎《と》に角《かく》島の上へ登ってみれば分るだろう。若しも白鴎丸が……」
そう云いかけて、博士は口を噤《つぐ》んだ。
若し白鴎丸が死の海へ呑まれたのだとすれば、博士はじめ四人の運命は絶望である。食糧は二日分に足りない。用意して来た物は二挺の銃と僅かな弾丸《たま》とライカと夜営用具だけだ。……航路から三百|浬《カイリ》以上も離れたこの絶海の孤島では、救助船を待つ希望も持つことは出来ぬ。――探検は果然! その第一歩に於《おい》て恐るべき不運に見舞われたのである。
内田|兄妹《きょうだい》はまだ気付いていなかった。絶望を知らせるのは一時でも延ばしてやるのが慈悲だ。そう思った博士は、哲夫を促して戻ると、元気に裂目を登る支度に掛った。
登攀《とはん》を始めたのは午前十時だった。先頭に哲夫、次に博士、スズ子、内田という順序である。かなり風蝕しているにも拘わらず、足場にする岩は極めて硬く、哲夫と内田は銃や夜営用具や食糧を背負っていたのに、大した危険にも遭わず登攀を続け、途中で二度休んだだけで、一時間と四十分の後には断崖の頂上へ着くことが出来た。
「――まあすばらしい」
スズ子は頂上へ着くなり、崖の端へ走り寄って島の中を展望しながら叫んだ。
「原始林だわ。お兄さま御覧なさい、原始林よ、池も見えるわ。深い深い森、巨《おお》きな樹、樹の海だわ。有史以前そのままの風景よ」
「なるほど、こいつは雄大だ」
三郎も妹と並んで立ちながら呻《うめ》いた。
海上から見た時は一木一草も眼につかなかった。それは島の内部が低くて、その周囲を高い絶壁が取巻《とりま》いていたからである。――いま彼等の立っているのは、その絶壁の中で最も高く屹立した岩山の一つだ。見下ろせば深々たる原始林の海である。何千万年この方|曾《かつ》て人の住んだことがなく、一度として斧を入れた者のない真の原始林だ。……豁谷《けいこく》も見える。森の木隠れに池とも沼とも見える水面が光っている。それは見る者に一種の敬虔な戦慄を与える神々しい風景であった。
「――先生」
スズ子は振返って叫んだ。
「船の人たちに知らせましょうよ、銃を射てば聞えるでしょう? きっとみんな吃驚《びっくり》しますわ」
「それが出来たらね」
博士は遂に沈黙を破る時が来た。――内田|兄妹《きょうだい》が島内の景色に見惚《みと》れているあいだ、哲夫と共に双眼鏡で懸命に附近の海上を捜したが、白鴎丸の姿は何処《どこ》にも発見することが出来なかったのである。――博士は静かに云った。
「白鴎丸は沈んで了《しま》ったよ」
「――え?」
内田|兄妹《きょうだい》は唖然とした。博士の言葉の意味が直《す》ぐには分らなかったのだ。
「沈んだと云う他に考えようがないのだ。死の海のことは多くの記録が証明している。恐らく白鴎丸も同様の運命に終ったのだろう。――不幸にしてそうとすれば、我々四人はこの島から去る法が無くなった訳だ」
「……まあ、――」
さすがにスズ子は蒼白《あおざ》めた。――博士は再びパイプを取出して火を点け、
「だが絶望するには早い。我々は頑張るんだ。我々が此処《ここ》へ探検に来たことは日本の知人たちが知っている。半年も消息が無ければ必ず捜索隊を寄来《よこ》すだろう。……半年だ、半年だけ頑張るんだ」
「無論ですとも、先生!」
内田三郎が決然と眉をあげた。
「どうせ探検は命懸けのものです。船が無くなったとなれば、却《かえ》って落着《おちつ》いて仕事が出来ますよ」
「その意気だ!」
博士は強く頷いて云った。
「我々日本人は頑張ることにかけては世界一の民族だ。この不幸を逆転して探検の成功に導こう、宜いかねスズ子君、哲夫も頼むぞ」
四人は互いに確《しっか》りと手を握り合った。
先ず根拠地を定めなければならない。第一の条件は水だ。飲料水のある所で、猛獣や毒蟲《どくむし》(若しいるとすれば)に襲われる危険の少《すくな》い場所が必要だ。――四人は木を伐って来て岩の上に建て、白い布切《ぬのきれ》を縛り付けて救助信号を作った後、荷物を纏《まと》めて島の低地へと降りて行った。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
崖を下ると叢林《そうりん》である。護謨《ごむ》樹のような恐ろしく葉の広いのや、芭蕉《ばしょう》科の樹々や、まだ曾て眼にしたことの無い珍種の巨木がみっしり枝を交わしている。珍種と云えばそれらの樹へ絡みつき垂下《たれさが》っている蔓草《つるぐさ》もまた殆ど未知の種類である。一歩叢林の中へ入ると、密生した枝葉のために全く日光は遮られて夜のように暗い。
進むのは極めて困難だった。一歩|毎《ごと》に逞しい蔓草や、茨の藪を切拓《きりひら》かなければならない。しかもいつ何処《どこ》から危険な動物が跳掛《とびかか》って来るか知れないのだ。
銃は博士とスズ子が持ち、内田と哲夫が切拓く役になって進んだ。――この困難な仕事を助けたのは、パパイアの果実である。其《その》他にも手の届くところに名も知れぬ果実がびっしり生《な》っていたが、食用になるかどうか分らぬのでみんなパパイアを採っては食べた。……頭の芯まで徹《とお》るような素晴しい香気と、舌から喉へ辷《すべ》り込む甘味は、一口毎に骨の髄から精気を盛返《もりかえ》すように思えた。
藪の中で夜営をして翌《あく》る日になった。まだまだ道は下りである。蔓草や藪ばかりでなく自然に朽ちた巨木がごろごろ倒れているので、下り勾配を一歩ずつ切拓いて行く苦心は形容の外《ほか》であった。
二日めの午後三時頃のことである。
四人が朽木《くちき》に腰をかけて、パパイアを食べながら休んでいた時、スズ子が不意に持っていた果実を取落し、
「――あッ」
と云って立上《たちあが》った。
三人は本能的に身を起して、スズ子の見ている方へ眼をやった。――その瞬間に藪がばさりと閉じて、何者か走り去って行く物音が聞えた。
「何だ、スズ子、おまえ何か見たのか?」
「人……人ですわ。――」
「馬鹿な」
「いえ! 藪を両手でこう掻分《かきわ》けて覗いたんです。大きな眼でこうやって見たんです」
三人は黙って顔を見合せた。――この孤島に人間が住んでいる? そんなことが信じられようか、若し漂流者でもいるとするなら、此方《こっち》を見て逃出《にげだ》す筈《はず》はない。それとも土着の蕃人《ばんじん》か、スズ子にしてもちらと見ただけで、どんな恰好をしていたか精しくは分らない。
「ゴリラか何かじゃないのかい」
「そんなことはないさ」
内田の言葉を遮って哲夫が云った。
「心理学から云うと、こんな環境にある場合には、人間をゴリラと見違えることはあっても、ゴリラを人間に見違えることは決して無いんだ。……しかしいずれにしても見届けるまでは油断が出来ない」
「とにかく安全な場所を捜すとしよう」
博士は銃の安全錠をあけながら云った。
「蕃人でも何でも、人間がいるとすれば心丈夫だ。それから注意しておくが、若し蕃人が襲って来たとしてもむやみに殺したりしてはいかん。出来るだけ和解の方法をとるようにするんだ。それを忘れないように」
四人は再び前進を始めた。
その日の夕方近く、谿流の音が聞えたので四人は勇み立って進み、夜になるほんの少しまえ、遂に清冽な谷川の畔《ほとり》へ出ることが出来た。――其処《そこ》は四十五度の急勾配であったが、下が割に柔かい草地てあるし、附近の藪や叢林も疎《まば》らなので、展望の利く便もあったから当分落着くことに定《き》め、早速夜営の準備にとり褂った。
此処《ここ》へ来るまで野獣らしい物にも遭わず、蛇類も見かけなかったが、初めてさっき奇怪な動物を見たので、是からは警戒を厳重にする必要が出来て来た。哲夫は真先《まっさき》になって附近の樹を伐り、夜営地を中、小にしてぐるりと柵を植込《うえこ》み、また柵の内側には壕を掘った。――その仕事は翌る日の正午《ひる》頃まで、三人とも不眠不休でやった結果、出来上りはかなり満足なものであった。ひと口に云うと、疎雑《そざつ》ではあるが小要塞といったかたちで、これなら不意を襲われても充分に防禦《ぼうぎょ》することが出来るであろう。
仕事が終ると、上陸以来はじめて、持参の米を炊いて喰べ、スズ子を見張りにして三人ともぐっすり眠った。
三人がどんなに疲れていたかということは、眠っているあいだに恐るべき悲劇が起ったのを、誰も知らずにいたことで分るだろう。……まるで死んだように、ひと息に三時間ほど眠ってふと眼を覚した哲夫は、天幕《テント》の外へ出るなりあっ[#「あっ」に傍点]と叫んで立竦《たちすく》んだ。
あれほど厳重に作った柵の一部が押倒《おしたお》されている。掘起《ほりおこ》したのではない。根の方を一|米《メートル》も埋めた丸太が、そのまま四五本内側へ押倒されているのだ。……然もスズ子がいない。足許に彼女の持っていた銃が捨ててあるばかりで、スズ子の姿は見えないのだ。
「スズ子さーんッ」
哲夫は大声に叫んだが、直ぐ天幕《テント》の垂れをあげて二人を呼起《よびおこ》した。
「先生、内田! 大変です、起きて下さい。スズ子さんが掠《さら》われました」
[#3字下げ]原始の人[#「原始の人」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
三人は茫然と天を仰いだ。
スズ子は掠われたのだ。三人が眠っているあいだに、何物か柵を押破って踏込《ふみこ》み、スズ子を掠って逃げたのだ。――前日藪の中から覗いていた奴の仕業《しわざ》に相違ない。
「捜しに行こう」哲夫が決然と云った。
「通った道は分る筈だ。若し救助が遅れて万一のことがあったら取返しがつかぬ」
「いや! それはいけない」
内田三郎はきっぱりと遮った。
「妹一人のために我々三人が危険へとび込むのは無意味だ。それも相手が分っているならともかく、何者とも何処《どこ》に隠れて居るとも知れないのに、この迷宮のような森林の中でどう捜すことが出来よう」
「しかし捨てて置けばスズ子君はいまにも……」
「分ってる! 妹はいま殺されかかっているかも知れない。既にもう生きてはいないかも知れない。いずれにしてもこの底知れぬ森の中から捜し出す時間はないだろう! 無駄なことは分っているんだ。――それより早く柵を直そうじゃないか、やつ[#「やつ」に傍点]はまた来るに相違ない。その時は……」
云いかけたまま、内田三郎は大股に倒れた柵の方へ歩み去った。
やつ[#「やつ」に傍点]が再び来たら、その時は妹の仇《かたき》を討ってやる――恐らく内田はそう云おうとしたに違いない。哲夫も博士も暗然と声をのんだ。
内田の言葉通りである。この奥底知れぬ密林の中から掠われたスズ子を捜出《さがしだ》して助けるということは、海へ落した宝石を砂の中からみつけようとするに等しい。しかもその密林の中には、正体の知れぬ怪物がいるのだ。
「――哲夫」
博士は鼻につまった声で云った。
「行って柵を直すとしよう」
「…………」
三人とも再びスズ子の名を口にしなかった。無言のまま倒された柵を起し、太い藤蔓を切って来て、丸太と丸太とを縦横に絡み附けた。
悲しい夕方が来た。残り少い米は大切にしなければならぬので、果実を採って来て喰べた。そのあいだにも三人の耳は、若しやスズ子の悲鳴でも聞えはせぬかと、絶えず森の彼方《かなた》へと惹かれていた。――しかし何の音もしない。鳥の声もしなかった。次第に濃くなって行く暮色の下で、聞えるものは谿流《けいりゅう》の音だけである。
やがて夜になった。不意の襲撃に備えるため、三人は代る代る不寝番をすることにして、先ず博士と内田が天幕《テント》へ入った。
横にはなったが、二人とも眠れはしなかった。うとうととする度《たび》に直ぐ眼が覚める。スズ子の悲鳴が聞えたように思ったり、何物とも知れず近寄る物の気配を感じたりするのだ。――十二時になって、内田が哲夫と代った。
「内田、気を落さないでくれ」
哲夫は銃を渡しながら云った。
「スズ子さんは生きている。僕はそんな予感がするんだ。あの人はきっと生きているよ。やつ[#「やつ」に傍点]は恐らく人質に掠って行ったんだ」
「――うん、僕もそんな気がする」
「そうに違いない。やつ[#「やつ」に傍点]が若し殺すつもりなら掠って行くなんて面倒な事をせずに、此処《ここ》で殺した筈だ。掠って行ったのは殺すためじゃない。きっと生きているよ」
「だが僕は……思うんだ」
内田は苦しげな声で云った。
「えたい[#「えたい」に傍点]の知れぬ怪物のために、なまじ生きていて苦しむよりいっそ――」
「内田! 女々《めめ》しいぞ!」
哲夫は強く相手の肩を掴んで叫んだ。
「スズ子さんは子供じゃない。短艇《ボート》へ乗る時にも、自分の身の始末は自分ですると云っていた。少しばかりの苦しみに耐えられないような、そんな弱い人ではない筈だ。――信じ給え、スズ子さんは生きている。その他のことは時期が解決するよ」
内田三郎は低く頭を垂れた。
哲夫はその肩を、労《いた》わるように叩いてから天幕《テント》の中へ入った。――スズ子は生きている。ただ漠然とした予感ではあったが、哲夫にはどうもそれが真実に思えて仕方がないのだ。
――きっと生きている。生きていさえすれば、必ず救い出す機会は来る。
そんなことを繰返《くりかえ》し考えている内に、いつかしらうとうとと仮睡《まどろ》んだらしい。
ふと妙な物音を聞いたように思って眼を覚ますと、博士が入口に立ったまま、懐中電灯を持って手紙のような物を読んでいる。
「伯父さん、――どうしたんです」
「……内田が出て行ったんだ」
「何ですって※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
哲夫は愕然と毛布を蹴って跳起《はねお》きた。――博士は持っていた手紙を哲夫に渡した。
[#ここから2字下げ]
先生。僕をお赦《ゆる》し下さい、どうしても妹のことが、諦められないのです。僕は捜しに行きます。生きて、再びお眼にかかれようとは思いません。繰返しお赦しを願うのみです。大沼君、嗤《わら》ってくれ。
[#ここで字下げ終わり]
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
読終《よみおわ》った哲夫は、天幕《テント》の外へ出て魔のような闇の大森林をじっ[#「じっ」に傍点]と見やった。
内田の気持はよく分る。彼は妹が生きていると思うゆえに、じっ[#「じっ」に傍点]としていることが出来なかったのであろう。また自分たち兄妹《きょうだい》のために博士や哲夫を危険に曝《さら》したくないため、独りで出て行ったに違いない。百に一つも生きて帰る望みのない道へ! ――
「哲夫、火を焚こう」
博士が出て来て云った。
「内田が戻って来る目標になるだろう」
「しかし、……ええ焚きましょう」
火を焚けば例の怪物の目標になるであろう。しかしそれを恐れていては、若し内田が戻って来ようとする場合の助けにならない。……哲夫は焚木《たきぎ》を集めて来て火をつけた。
二人は燃上《もえあが》る焔《ほのお》を前に、銃を執《と》って黙然《もくねん》と坐っていた。
朝が来た。内田は戻って来なかった。白鴎丸と共に多くの同行者を失い、此処《ここ》でもまた内田兄妹を失って、今は博士と哲夫の二人だけになった。――朝の光のなかで博士と哲夫がしみじみと感じたのは「この二人きりになった」というまざまざしい事実であった。
大きな悲しみの中にも、疲れと眠気は避けようがなかった。
「代りあって寝るとしようか」
「僕はその前に食物《たべもの》を採って来ます」
そう云って哲夫は立上った。
柵の一部に出入口が作ってある。藤蔓を解いて外へ抜けようと、哲夫がいま身を跼《かが》めたとき、博士がいきなり大声で、
「哲夫危いッ、戻って来いッ」
と叫んだ。恟《ぎょっ》とした哲夫が、いちど解いた藤蔓を素早く巻きながら見ると、十|米《メートル》ばかり先の叢林の中から、人間とも猿ともつかぬ巨《おお》きな裸の怪物が半身を現わし、此方《こっち》を狙って何か投げつけるところだった。
「――あっ!」
と云って跳退く刹那、大きな石のような物が哲夫のいた場所へ唸《うな》りをたてて飛んで来た。――そして怪物は直ぐ、身を翻えして叢林の中へ隠れた。
博士は哲夫が側へ来ると、銃を渡しながら声を顫《ふる》わせて云った。
「哲夫、いまのを見たか、すばらしい発見だ、人類学をひっくり返すことが出来るぞ」
「何です、あれは何ですか」
「原人だ、原始人だ。十万年以前にこの地球へ現われ、既に絶滅したと思われていた人類の祖先だ」
「然《しか》し、ネアンデルタール人(原人)は欧羅巴《ヨーロッパ》の中南部と南|亜米利加《アメリカ》、豪州などに棲《す》んでいたのではありませんか」
「否《いや》! ニュージイランドでも遺骨が発見されている。恐らく今のやつ[#「やつ」に傍点]はその系統だろう。類人猿でもなし類猿人でもない、たしかに原始人だ。彼等は――まだ絶滅してはいなかったのだ」
哲夫は走って行って、怪物の投げた物を拾って来た。――博士はそれを奪い取るようにして見た。石を割って作った一種の投擲用の武器である。
「――石斧《せきふ》だ」
博士の両眼は喜びに輝き、石斧を持つ手は驚きに戦《おのの》いた。
「石斧を使っているとすれば、彼等はまだ後期石器時代のまま進化していないに相違ない。――哲夫、我々は十万年前の人類に会ったのだ。十万年前の人類の生活が見られるんだぞ」
「やつ[#「やつ」に傍点]等はその前に我々を殺して了《しま》うでしょう」
「和睦をするんだ。何を犠牲にしても和睦しなくてはならん、そして……」
「危い!」
哲夫はそう叫びながら、博士を突飛ばすようにして天幕《テント》の蔭へ身を避けた。――実に危い一瞬であった。二人が去ったその場所へ、五つの石斧が風を截《き》って落下した。
「射っちゃいかん!」
銃を執直《とりなお》す哲夫を抑えて、博士は天幕《テント》の中へすべり込んだ。――そして覗き窓をあけて外を見た。
叢林の一部が微《かす》かに揺れている。……と見るうちに、奇怪な人間の顔がぬっと現われた。赤毛である、眉が高く迫っている。顔の下半分が前へつき出ている、恐ろしい顎だ。――彼はよく光る眸子《まなこ》でじっ[#「じっ」に傍点]と此方《こっち》を見まもっていたが、やがて前跼《まえかが》みの窮屈そうな、然し敏捷な歩き方で柵の方へ出て来た。……肩と胸と脛《すね》とは赤毛で蔽《おお》われているが、その他は日に焦《や》けた逞しい皮膚が現われている。――原人だ、博士の言葉は違わなかった。その骨格から、顔つきや歩行の型まで、典型的なネアンデルタールである。彼等は新世代の第四期に、人類の祖先として地球上に現われ、石器時代の前、中期を経て絶滅したものと信じられていた。それが今、博士と哲夫の眼前に現われたのだ。……自分の身の危険も忘れて博士が狂喜したのも無理はないであろう。
[#3字下げ]密林の捕虜[#「密林の捕虜」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
覗き窓の前方へ現われた原人は三人である。博士は前後を忘れて彼等の動作を観察している。――哲夫は万一の場合に備えて、銃を手にし、持ってきた弾丸《たま》を(僅《わず》かに三十発)すっかり身につけた。
「見ろ哲夫、彼等は石棒を持っている」
「……右の端にいるのは女でしょうか。――あ! そうだ、女ですよ伯父さん、子供を抱いてます」
「是はうまいぞ」
博士は希望に溢れた様子で、
「原人たちは、戦いには絶対に女を伴わぬ筈だ。殊に依ると戦わずにうまく……」
云いかけた時、背後の方で柵の押倒される物音がしたと思うと、あっ[#「あっ」に傍点]と云う間もなく、二人の上へ天幕《テント》が倒れかかり、恐ろしい力で押えつけられた。――そのとき哲夫は何かに烈しく頭を打ちつけ、
――いけない、殺されるぞ!
と思ったまま気絶して了《しま》った。
後で考えると、それから哲夫は殆ど二日あまりも意識を失っていたらしい。烈《はげ》しく肩を揺すられるのと、キイキイという妙な叫声《さけびごえ》を耳にして、長い眠りから覚めたような、けだるい気持で眼を開けると、…つい鼻先に覗込《のぞきこ》んでいる原人の顔があった。
「あっ――」
哲夫は総身の血が一時に冷えるような恐怖を感じながら、反射的に右手で襲撃を防ぐ恰好をした、――意外にもその手にはまだ確りと銃が握られてあった。然し、それよりも更に意外なのは、原人が左手で彼の肩を掴み(痺れるように痛かった)右の手にバナナの房を持って、是を食べろと云わんばかりに差出《さしだ》していることであった。哲夫は直《すぐ》に了解した。
彼等は害心を持っていないのである。少くともいまは危険がない。寧《むし》ろ食物を与えようとさえしているのだ。哲夫の手から銃を奪《と》らなかったのは、無論それが恐るべき武器だということを知っていない証拠である。
「――有難《ありがと》う」
哲夫はバナナを受取った。……すると右手の方で笑いながら、
「哲夫、有難うは傑作だな」
と云う博士の声がした。
「その男に言葉など分りはしないよ」
「あ! 伯父さん」
哲夫は吃驚《びっくり》して振向《ふりむ》いた。
その時はじめて、彼は自分の置かれている場所を見た。それは檻であった。方三|米《メートル》ほどの、荒木で組んだ檻である。下には干草や柔かい樹皮を干したものを厚く敷き、上には芭蕉科植物の広い葉が屋根に葺《ふ》いてある。――そして彼の振返った方に、この檻と五|米《メートル》ほど離してもう一つ同じような檻があり、その中に博士が笑いながら立っていた。
「どうだ、この新しい住宅は洒落《しゃれ》たものだろう」
「伯父さんも御無事だったんですね」
「儂《わし》は初めから無事さ、おまえこそもう駄目かと思ったよ。おまえは原人の女に感謝しなくてはいけないぜ。――あのとき子供を抱いた女の原人がいたろう。あれが二日間というもの殆ど附きっきりで介抱していたんだ」
「――もう二日も経っているんですか」
「まあそのバナナでも食べろ」
博士は笑いながら云った。
「元気を取戻したら詳しく話してやろう。おまえが失神しているあいだに、儂《わし》はずいぶん色々なことを経験したよ」
「食べながら伺いましょう」
哲夫は坐り直した。
博士の語ったことを簡単に記すと、――原人たちの人数は凡《およ》そ百二三十人でその約半数は女と子供である。一番老年と思われる者が酋長で、これが絶対の権力を持っているらしい。――気質は温和で肉食をせず、多く木実《きのみ》を生食しているが、極めて幼稚な耕作法を知っているとみえ、この附近に粟のような一種の穀類を栽培している――彼等はまだ火を知らない。
「宜いかね哲夫、これが最も重大なんだ。――彼等はまだ火を知らないのだ。ドイツからジブラルタル附近にかけて棲んでいた原人は、すでに火食をした形跡が遺っている。しかし此処《ここ》の種属はそれを知らない。そのうえ肉食をしないという点が今までの原生人類学にない珍しい事実だ。これは恐らく今日まで何人《なんぴと》にも発見されたことの無い全く新しい系統の原人に相違ない」
「言葉も文字もないのですか」
「言葉はある、多くはないが、二三十種はあるようだ。あとは身振りで補っている。文字はあるか無いか分らんが、絵を描くことは上手だよ」
「絵を描くんですって?」
「然も彩色画だ。おまえの左の方を見てごらん。――見えるだろう。いま文明国で流行の超現実派とかいう絵より、よっぽど面白いじゃないか」
なるほど、檻の左手に幅五|呎《フィート》、長さ十五|呎《フィート》ほどの板が立ててあり、その表には丹青美しく、翼のある恐竜を撃殺している若い原人の姿が描いてあった。――後で分ったのだが、それは彼等にとって魔除けの護符とも云うべきものであった。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
二週間ほど、何事もなく過ぎた。
原人たちは朝夕二回ずつ、色々な果物を持って来て二人に与えた。その中には見たこともなく名も知らぬ珍奇な物が幾種類もあり、しかも舌を痺《しび》れさせるような、美味なものが多かった。――食物の世話をする原人は二人でその他の者たちは初め遠くから、好奇心に輝く眼で臆病そうに眺めたり、何か互いに頷き合ったりするだけで、なかなか近くへは寄らなかった。
「まるで動物園の猛獣扱いですね」
「恐らく本当にそう思っているのだろうさ。我々が珍しい動物を見て娯《たの》しむように、彼等も二人を何か珍しい動物だと思ってるに違いない」
「友達には聞かせられませんね」
哲夫は心から苦笑した。
しかしその内に段々と事情は好転して来た。初めに子供たちが馴れ、(皮肉な話だが)木実《きのみ》を拾って檻の中へ入れに来たりするようになった。全く動物園の猿扱いである。――哲夫はその機会をのがさず、なるべく子供を近づけておいて、片言の単語や、やさしい歌などを教えようと熱心に試みた。……尤も原人類の発声帯の器官が違うので、その試みは失敗に終ったが、それでも親密な感情を作るためには役立った。哲夫が歌をうたい始めると子供たちは遊戯を捨て、大人たちは仕事を抛《ほう》って檻の側へ走り集ってくるようになったのである。
こうした努力は凡そ三週間も続いたであろうか、原人たちは次第に二人に馴れ、やがて昼のうちは檻から外へ出ることをさえ許し始めた。
このあいだにも、哲夫や博士は絶えず内田|兄妹《きょうだい》のことを案じていた。檻を出されるようになってからは、若しや自分たちと同じような運命にいるのではないかと思って、原人たちの動作を注意したり、部落の内外を見廻したりしたが、少くともこの部落にいない事だけはたしかだということが分った。
「此処《ここ》の他にも別に部落があるのじゃないでしょうか。島は広いのだし、二つや三つの部落が有っても宜いと思いますがね」
「そうかも知れん」
「言葉が通じるようになりさえすれば、分るんだがなあ……」
しかし言葉の通じるのを待つ必要はなかった。二人がそんな問答をした翌る日の正午頃、――この楽園のような平和境に恐るべき惨劇が突発したのである。
その時、博士と哲夫は同じ檻の中で、暑い日盛りを午睡しようとしていた。すると不意に、部落の方で慄然《ぞっ》とするような、長くひきのばされた凄《すさま》じい悲鳴が閒えた。まるで体を引裂かれる野獣の断末魔かとも思えた。
「――何でしょう」
「何だろう」
二人は同時に云いながら、半身を起して声の聞えた方へ振返った。
部落とは云っても家がある訳ではない。森の中にある低い木と木の梢を結合《むすびあわ》せ、その上へ芭蕉科植物の葉を重ねたものが点々とあるだけのものだ。その部落のある森の入口のところへ、今まで見たことのない、褐色の毛を持った原人が十四五人現われ、赤毛の原人の家を襲っているところだった。
彼等は右手に、尖《さき》の太くなった石棒を持ち、左手で小屋を引※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《ひきむし》り、中にいる老人や女たちを曳出しては、荒々しく咆えながら、鈍い動作で右手の石棒を振上げ、一撃のもとに撃倒《うちたお》して行く――悲鳴はその老人や女たちのものであった。
哲夫は咄嗟《とっさ》に銃を執って立った。
「危いぞ、気をつけろ」
と云う博士の声を後に、檻から出ると脱兎のように走りだした。――直送二百|米《メートル》、褐色の毛の原人の一人がそれと気付いて急に此方《こっち》へ向直《むきなお》って来るのを、哲夫は十|米《メートル》まで近寄せておいて狙い射ちに引金を引いた。
だあん!
銃声は密林にこだま[#「こだま」に傍点]し、立向って来た原人は悲鳴と共にだあっ[#「だあっ」に傍点]と倒れた。
その一発の銃声は彼等を恐怖に叩きこんだ。そんな音は曾て耳にしたことがないのだ。彼等は――敵も味方も――愕然として振返った。その大きく瞠《みひら》かれた眼前で、哲夫は再び銃をあげ、最も体格の巨《おお》きい、そして恐らく指揮者とも思われる褐色の毛の原人を狙って第二発めを射った。
だあん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
耳を聾する銃声と共に、
「わあう――」
喉にからまるような悲鳴をあげ、両手で胸を掻※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《かきむし》りながらその原人はうち倒れた。――そして次の瞬間には、残った襲撃者たちは石棒を捨て、恐怖の声をあげながら叢林の中へと逃込《にげこ》んでいた。
[#3字下げ]穴居族[#「穴居族」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
二人は英雄になった。――否、神になったという方が本当だろう。赤毛の原人たちは二人を檻から出し、今まで酋長の住んでいた小舎《こや》へと恭《うやうや》しく導き入れた。
彼等の眼前で行われた銃の奇蹟は、恐怖と同じ畏敬を以て彼等を跪《ひざまず》かせた。今やすべての権力は二人の手に移ったのだ。――博士はこの時の来るのを待っていたのである。
言葉が通じない不便はあっても、すでに長いあいだ生活を見て来ているので、簡単な発音や身振り手振りを入れれば、幾らか意志を通じることは出来るらしい。――博士と哲夫は辛抱強くそれを繰返すことで、やがて左のようなことが朧《おぼ》ろげながら分って来た。
(即ち、この島の北側に岩石地帯があり、そこに種族の違う原人の群が穴居生活を営んでいる)
(穴居族とこの森林族とは、昔から相交通すること無く、折さえあれば互いに殺合《ころしあ》って来た)
(その争いの元は、いま穴居族が占領している「月神《つきがみ》の洞《ほこら》」である)
これだけのことを知るのに数日を要した。
しかし努力の甲斐はあったのである。「月神の洞」というのが何であるかは分らないが、穴居族と森林族とが殺し合って争奪するとすれば、何か其処《そこ》には隠れた秘密があるに相違ない。――それよりも寧《むし》ろ、二人にとって考えられるのは内田|兄妹《きょうだい》のことであった。
「きっと其処《そこ》にいますよ、伯父さん」
「我々のように」
と博士は気遣わしげに云った。
「大切に保護されているかどうかは分らないが、恐らく彼等の手に捕《つかま》ったことだけは間違いないだろう」
「行きましょう。――殊に依るとまだ生きているかも知れません。少しの違いで取返しのつかぬようなことがあっては諦めきれませんよ」
「銃の威力ですっかり気を好《よ》くしたな」
「装填してあったのが七発、二発射って予備が三十発です。気を好くする程じゃないですよ」
そう云って哲夫は苦笑した。
若い二人の原人に案内されて博士と哲夫が部落を出掛けたのは其夜のことであった。――殆ど道のない叢林を分けて行くのだが、毒虫や猛獣に襲われる心配がないので(原人たちは何十代にも渉って、自分たちの生活の安全のために、其等《それら》の動物を根絶《ねだや》しにしたのである)その旅行は割に平安なものだった。
夜の明け方に、彼等は大きな沼地の畔《ほとり》を通った。上陸した初めの日、あの高い断崖の上から眺めたのがそれであろう。汀《みぎわ》には葦《あし》に似た植物が密生し、水は蒼黒く凄いまでに澄み淀んでいた。――博士は若しや独木舟《まるきぶね》のような物でもありはせぬかと暫《しばら》く立止って見廻していたが、それに似た何物をも発見することは出来なかった。
案内役の原人たちは、沼を過ぎると間もなく、再び密林の中へ入った処で藪の茂みへ入り、此処《ここ》で夜を待つのだということを教えた。その様子で既に穴居族の部落の近いことが察せられる。また事実、密林の彼方《かなた》にちらちらと白い岩肌が見えていた。
午後二時頃のことであろうか、森の梢が妙にざわざわと揺れだしたので、見上げると空には雷雲がのしかかっている。
「伯父さん、驟雨《スコール》が来ますよ」
「珍しいな、この島へ上陸して初めてじゃないか」
「此処《ここ》じゃあ濡れますね」
そう云いながら振返ると、原人たちの様子が変っているのに気付いた。
彼等は不安そうな眼で、雷雲に蔽《おお》われて次第に暗くなって来る空を見上げたり、空気の中から何かを嗅ぎだそうとするように、大きな鼻孔をいつばいに広げて振仰いだりしている、――明らかに何か異常なことが起るのを予感している様子だ。
「何でしょう伯父さん」
「雷を怖れているんだ。察するところこの附近には雷の来ることが稀《まれ》なんだろう。我々の文明国だってつい最近まで……」
博士の言葉の終らぬうち、不意に眼の眩《くら》むような雷光が森を劈《つんざ》いた。
既に雷雲がすっかり空を包み、それでなくてさえ陰暗たる密林の中は、宵闇のように暗く閉《とざ》されていた。その暗さが、一瞬青紫色のすばらしく美しい光でさっ[#「さっ」に傍点]と輝きだしたのだ。――博士と哲夫は雷光だと思った。しかしそうではなかった。その光はそのまま消えないのである。
「ガウガ、ガウガ、ガウガ」
祈りとも悲鳴ともつかぬ声をあげながら、原人たちは大地へひれ伏して了《しま》った。
光はまだ消えない。慈光遍満とでも云おうか、密林のあらゆる樹々、風に揺れる木葉《このは》の一枚一枚までがはっきりと浮出《うきで》て見える。夢のような美しさだ。光は空から来るのでもなく地上から放射されるのでもない。空気がそのまま光となって輝くかに見える。
「何でしょう、これは? 空気が妙に匂いますね」
「磁気現象だよ。空中の電子が、地中のある金属に触れて発する光だ。稀《まれ》であるが珍しくはない。――空気が匂うのはイオンだよ」
博士はそう云いながら、原人の一人の肩を掴んで引起し、彼等が何のために恐れるのかを訊《き》き始めた。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
原人は恐怖のため殆ど意識を失いかけていた。しかし熱心に訊きだした結果、驚くべきことが分かった。――即ち、その光は「月神の洞」にいる荒神《あらがみ》の怒《いかり》から出るもので、荒神は犠牲を求めているのだと云う。
「哲夫、ようやく分ったぞ」
博士は立上りながら云った。
「我々はその荒神へ捧げる犠牲だったのだ。生贄《いけにえ》として飼われていたのだ」
「伯父さん、では内田|兄妹《きょうだい》が危い」
「そうだ、若し穴居族に捕えられているとすれば危険が迫っている。急ごう哲夫!」
原人たちに「月神の洞」の位置を糺《ただ》したのち、二人は密林の中を懸命に走りだした。
光は明暗を描きながら輝いている。それこそ時にとっての天恵だ。森の中は真昼のように明るいので、障害の無い処を選びながら走りに走る。途中に凄い谿谷《けいこく》があって、それを渡ると間もなく叢林は疎《まば》らになり、二人の眼前には白い岩地と段丘とが現われた。――その段丘には点々と穴があいているし、その穴の外から下の岩地へかけて、褐色の毛の原人たちが身をひれ伏している有様まで歴々《ありあり》と見える。
しかしそれよりも哲夫を恟《ぎく》りとさせたのは、二人が立った所から右手二百|米《メートル》ほど先に、小高く盛上った岩の丘があり、(それは祭壇であった)その上に十人ばかりの原人たちが犇《ひし》めき騒いでいる。見るとその丘の中央に一段高く壇を築いて、素裸の人間が二人ひき据えられているのだ。
「あ! 内田です、伯父さん」
哲夫は叫びながら、既にそちらへ向って走りだしていた。
壇上に据えられた内田|兄妹《きょうだい》は、衣服を剥ぎ取られて文字通りの裸である。原人たちはそれを左右から腕を掴んで引立てた。美しいスズ子の体が、みちあふれた雷光を浴びて神像《しんぞう》のように輝いている。――その前に立上った一人の巨大な原人は、何か大きな声で咆えたてながら、右手に持った石棒を鈍い動作で高く、スズ子の頭上へ振上げた。
脱兎の如く走って来た哲夫は、五十|米《メートル》ほどの距離でぴたりと立止り、――いま当《まさ》に石棒を振上げた原人を狙って引金を引いた。
だあん!
段丘に反響して銃声が轟いた。原人は横ざまに壇から転落した。
だあん、だあん、だあん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
銃口は続けざまに火を噴き、壇上の原人たちは悲鳴をあげながら次々と倒れた。――残った者は驚きの余り、茫然と手を垂れたまま立竦んでいたが、哲夫が銃を構えながら走って行くと俄《にわか》に暴々《あらあら》しい声で咆え、石棒を振かざしながら逆襲して来た。
「――哲夫さあん!」
スズ子の声だ。
「スズ子さん、もう大丈夫だ」
叫びながら哲夫は射撃を続けた。
銃の性能を知らぬ彼等はまるで標的のようなものであった。本能的に威嚇の形を作りながら、両手を挙げ胸をひらいて走って来るので、一人ずつ狙い射ちにやれる。――忽《たちま》ち全部を射斃《うちたお》して了《しま》った。
その時、すでに博士は壇上へ駈けつけていた。内田|兄妹は《きょうだい》その足首を壇の枷木《かせぎ》に縛り付けられている。それを切放したとき哲夫も走寄《はしりよ》って来たが、――手早く上衣《うわぎ》とズボンを脱いで、
「スズ子さん、早く是を着て」
と差出した。
素裸にされていたスズ子は、危険のなかにも羞《はずか》しさに肌まで赧《あか》くなっていたが、それを受取ると待兼ねていたように身に着けた。
「済みません、先生」
「何を云う、そんなことはお互いだ」
「その代り土産《みやげ》があります」
「後だ後だ!」
博士と内田とは短い叫びを交わしながら、支度の出来たスズ子を中に、その壇上から走り下りた。――網シャツとパンツだけになった哲夫は、銃を小脇に持って殿《しんがり》に立った。この時早くも、段丘の方からは原人たちが押寄せて来ていたのである。
「早く、森の中へ入れ」
哲夫は叫びながら銃を射った。――「月神の洞」の荒神が怒るという、例の光はようやく薄らいで、電光が閃《ひらめ》めき始め、雷鳴が島の周囲に屹立する断崖に、凄じい反響を呼起した。
逃げる四人の廻りへ、石斧が唸りを生じて飛んで来た。哲夫は弾丸《たま》を填《つ》めては射ち、填《つ》めては射ち、殆ど息をつく暇もなく射撃を続けながら走った。――銃身は火のように熱して来た。弾丸《たま》は少くなるばかりだ。しかも原人たちは、仲間の死体を乗越え踏越え、獣のような兇猛さで追って来る。ここ荒神に捧げる生贄《いけにえ》の祭壇を汚されたので、彼等はもう復讐の鬼と化しているのだ。
「――残念、弾丸《たま》が無い!」
哲夫はそう叫んで、手にした銃を逆に持直《もちなお》した。――一騎討ちの覚悟を決めたのだ。それと見て博士が、
「待て哲夫、此方《こっち》へ来い」
そう云いながら、手早く燐寸《マッチ》を取出すと、側に倒れていた朽木の枯枝へ火を放った。
[#3字下げ]その三[#「その三」は中見出し]
乾き切っていた朽木である。枯葉がぱっと燃えだすと見る間に、火は忽ちにして枝へ移り、暗い密林の中でぱちぱちと焔が揺れあがった。
間近に迫っていた原人たちは、その焔を見た刹那に恐怖の底へ叩き込まれた。曾て火というものを知らぬ彼等にとって、焔は奇跡そのものである。原人たちは追撃を忘れて立止り、石斧や石棒を捨てて咆え叫びながら逃げだした。
四人は走った。
そして赤毛の原人たちの部落へ一|粁《キロ》ばかりと思われる地点へさしかかった時、不意に眼前へ十四五人の人間が現われた。――ヘルメットがある、白服を着ている、海員帽がある、文明人だ。銃を持っている。
四人は茫然と立竦んだ。余りに意外な喜びは人の感情を麻痺させるものだ。見よ、それは白鴎丸と共に消失《きえう》せた人々ではないか。藤原博士がいる。ヘルメットを冠《かぶ》っているのは依本順吉博士だ。柏崎船長、若い船員達、みんな探検隊の同志である。――此方《こっち》が驚きに唖然としているあいだ、向うはまた四人の変った姿を見て直《すぐ》にはそれと分らなかったらしい。しかし狂喜の沈黙は博士の声で破られた。
「船長、船はどうした」
その声が両方の喜びの堰を切った。
「やあ博士でしたか」
「君か、無事だったか」
「生きていたか」
互いに烈しく抱合《だきあ》った。手を握った。笑いだした。笑いながらぽろぽろ涙をこぼした。――柏崎船長は鬼のような髭面を、博士の頬へこすりつけながら叫んだ。
「無事です博士、船は無事です」
「そうか、無事か」
「無事です。船は無事です」
みんな赤毛の原人の部落へは戻らず、別の道からあの断崖の裂目を伝って下り、久し振りに懐しい白鴎丸へ帰った。――直《すぐ》に風呂を浴びた。熱い珈琲《コーヒー》、冷たいサイダー、そして炊きたての御飯に魚のフライ、料理人《コック》が自慢の菓子、その度毎に四人は子供のように歓びの声をあげた。――一行は二三日休養して元気が回復するのを待ったうえ、改めて探検を続けようということになった。
「しかし、あのとき船はどうしたのかね船長」
「実はそれで発見があるんだ」
藤原博士が脇から話を取った。
「君たちが上陸すると直ぐ、我々は錨《いかり》をあげて南海岸へ廻ったんだ。悪気じゃない、先手を打って驚かそうとしたのさ。――ところが其処《そこ》には思いがけぬ危険が待っていた」
「死の海だな?」
「そうだ。白鴎丸が島の南端を廻ったとたんに、ずぶずぶと沈没を始めたのだ」
「あの時は全くもう駄目だと思いました」
柏崎船長が口を添えた。
「死の海のことを伺っていましたが、まるで訳が分からない。いきなりずぶずぶ沈むんですからね」
「幸い浅瀬にいたので、上甲板まで水に浸ったが、倒れずに済んだ。もう百|米《メートル》左へ出ていたら取返しがつかぬところだったよ。――それから我々は短艇《ボート》を下し、食糧品を取出すやら、磯へ露営地を作るやらして、殆ど二十日あまりも総掛りで働き、苦心の結果やっと白鴎丸を浮上らせることが出来たんだ。――君たちを捜しに行くのが遅れたのはそのためさ」
「何のことはない、まるで此処《ここ》まで船大工をしに来たようなものだ」
依本博士の言葉にどっと哄笑があがった。
「それで、発見とは何だね」
「待て、口で云うより事実を見せよう。船長、例の処へ船をやってくれ」
白鴎丸は静かに動きだした。
モオゼ島を南へ廻ると、断崖が巨人のように海面へのしかかっている岬がある。白鴎丸はその百|米《メートル》ほど手前で停った。――藤原博士は立上って、旗野博士と一緒に前帆檣《ぜんぱんしょう》の縄梯子《なわばしご》を登って行き、
「あれを見給え、――」
と岬の下の海中を指示した。――博士は眼を細めて覗込んだ。初めは分らなかったが、眼が馴れるにしたがって異様な光景が見え始めた。――青く青く澄徹《すみとお》った水中に、船が沈没しているのだ、それも一艘や二艘ではない。光の具合で先は分らないが、見えているものだけでも七艘まで数えられる。
「ああ此処《ここ》か、死の海というのは」
「そうだ。海底の岩礁と、岬の下にある水面下の洞窟の角度で、干潮から満潮に移る或る時間に、この附近の水圧が二十分の一に減るのだ。――つまり船が沈む理由はこれだ」
「そうか、問題は水圧だったのか」
博士は頷きながら、暫くは海底の難破船から眼を離すことが出来なかった。――その中には三百年以前に悲しい運命を辿《たど》ったドリゴオ伯爵の「聖ヨセフ号」もあるだろう。マイダス・オルデンの友船「アムステルダム号」もあるに違いない。
「――安らかに眠りたまえ、君たちの失敗はみごとに取返したよ」
博士は瞑目しながら呟いた。
同じ夜のことである。船室に集った人々が食後の寛《くつろ》いだ気持で、博士たち四人の冒険談を聞いていた。原人の話は皆をどんなに驚かせたことであろう。――尚《なお》そのうえに、内田三郎は大変な土産《みやげ》を持っていた。
「月神の洞」と呼んで二種族が争奪しているのは、実はイリジウム鉱のすばらしい鉱洞だということである。原鉱が殆どそのまま洞窟の壁に露出しているという。――時局柄その発見は重大な功績と云わなくてはならない。みんなはそれだけでも探検の価値はあると、凱歌をあげた。
話し更《ふ》かして寝ようとした時である。当直船員のけたたましい叫声が聞えて来たので、何事かと一同甲板へ走出てみると、……モオゼ島の空が真っ赤に輝いている。
「――何だろう」
「恐ろしく赤いな、まるで震災の時の大火の空みたいだ」
人々は審《いぶか》しげに空を仰いだ。――哲夫は博士の肩に触れながら云った。
「伯父さん、あの火ですよ」
「うん」
「最後のどたん場で森へつけた火ですよ。――あれが燃えひろがったんですね。ごらんなさい、恐らく島全体が燃えているんです」
「可哀そうな……原人たち」
博士の頬を泪《なみだ》が伝わった。
モオゼ島はまる二週間燃え続けた。その火を見ながら白鴎丸は日本への帰航の途についた。改めてイリジウム鉱を発掘する準備をして引返して来るために――人類進化学説、あらゆる意味から最も惜《おし》まれたのは、二種族の原人の死滅である。しかし旗野博士と大沼哲夫の手で、その研究報告は近いうちに発表される筈だ。その時こそ世界の学会は驚倒することであろう。……白鴎丸は今、故国への船路を平安に走っている。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年新春増刊号
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年新春増刊号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ