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失恋第六番
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失恋第六番
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)何誰《どなた》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)田|父子《おやこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
「東邦合成樹脂の連絡課でいらっしゃいますか」
「はい、さようでございます」
「恐れいりますが課長の千田さんをお願い致します、こちらは楠田と申します」
「何誰《どなた》さまですか」秘書の宮田俊子嬢はちらと空っぽの課長席を見る、「もしもし、貴女《あなた》は何誰さまでいらっしゃいますか」
「楠田と申しますの、マクスエルの楠田と仰《おっ》しゃって下さればわかりますわ」
「少々お待ち下さいまし」秘書はすぐに了解し、顰《しか》め面をする。銀座のマクスエルという店のレジスターに可愛い娘《こ》がいて、課長が近頃ねつ[#「ねつ」に傍点]をあげているということを、――なにほどの事やあらん、秘書は手帛《ハンカチ》で鼻を掩《おお》い、作り声のバスでこう答える、「――ああ千田です、千田二郎です、何誰ですかな、ごほんごほん、なに、ええよく聞えんですがな、くすだ、はあ、……まり子さん、はて知らんね、ごほん、人違いじゃね、此の頃よくこういう電話が掛って来るが、誰かわしの名を騙《かた》って婦女を誘惑する者があるんじゃね、ごほん、先週なぞは赤坊を抱いた婦人が泣込んで来たくらいじゃ、わしはすぐに警察へゆけと教えたがね、貴女もそいつに騙《だま》されたんじゃろ、ふむ、――うむ、いやそんな精神だから色魔にひっかかるんじゃ、ごほん、きっぱりと手を切りなさい、さもないと酷《ひど》いめにあいますぞ」
扉を明けて千田二郎が入って来た。宮田秘書は慌てる、急いで会話を結ばなければならない、「――とにかくそんな訳ですから、こちらも調査をするが貴女も注意して下さい、では」受話器を措くとすぐ印字機《タイプライター》に向う。二郎は秘書の奇怪な声に吃驚《びっくり》して、立ったまま眤《じっ》とこっちを瞶《みつ》めている、秘書はキイを叩きながらにっ[#「にっ」に傍点]とあいそ笑いをし、そら咳《ぜき》をする。
「いま喉《のど》へ蝶々がとび込み、いいえ蝶々じゃございませんわ、こほん、蚊でございますわ、喉へ蚊がとび込んだんですの、こほん」
「メンソレでも塗るんだねすぐに」二郎は安心して椅子へ掛ける、「もう蚊が出るのかね、僕に電話が掛って来なかったかい」
「こほん、こほん、喉の中へ、電話はございません、メンソレは塗れませんわ、社長さまはどんな御用でしたの」
「竺葉《じくよう》で晩飯を喰べるんだってさ、今夜六時からね、おふくろも一緒だってよ」二郎は時計を見る、四時十分前である、「僕は約束があるんだ、電話が掛って来る筈なんでね、三時半頃には間違いなくって約束なんだ」
秘書は打ち終った紙を抜き、呼鈴を押し、前に打った物と重ねて揃《そろ》える、それから机の上を手早く片付け、印字機の蓋をし鍵《かぎ》を掛ける。給仕が入って来ると揃えてあった書類を渡してやり、椅子から立つ。
「ではわたくし今日はお先に帰らせて頂きます、これが金庫の鍵、こちらが仕切室《ブース》の鍵でございますから、ここへお置き致します」
そして外套《がいとう》と帽子を取る。二郎は珍しそうに眺めている、外套も帽子も流行おくれの型だし恐ろしく地味な色だ、身に着けると五つも老けてみえる、おまけに抱えた鞄《かばん》は古ぼけて黒い男持ちのような品である。二郎は我知らず自分の鼻を摘んで捻《ひね》る。
「ふむ、外套に、帽子に、鞄か、――然しあんまり外套であり帽子であり鞄であり過ぎるじゃないか、そいつは犬儒派か急進思想だよ」
「電話をお待ちになるのでしたら応接室へいらっしゃいませ」宮田嬢はこう言いながら扉を明ける、「四時限りで交換台は閉りますから、ではお先にごめんあそばせ」
二郎は応接室へ移って待つ。隣りが宿直室で時間過ぎの電話はそこだけにしか通じない、社員たちが去り、掃除婦が椅子をがたがたさせ始めた。二郎は煙草に火をつける、四時十五分、脚を組んで反る。待つのはお手のものだ、なにしろ固い約束がしてあるんだから、――然し四時四十分、彼は立って外套を着る。
午後五時、彼は人混みの数寄屋橋を渡っている。五分後、洋菓子喫茶店マクスエルの扉を明ける、レジスターは別の少女である。彼は混雑している店内を見やり、レジスターへいって訊《たず》ねる、少女は婦人客に釣銭を渡しながら「楠田さんはお休みでございます」と答える。二郎はすぐに外へ出る。どうも訳がわからない、ランデヴーというと定《きま》ってこれだ。ぼんやり銀座へ出て、尾張町の交岐点を越す、向うの街角で群衆が騒いでいる、わっと崩れたち、武装警官の走ってゆくのが見える。
「銀行ギャングだそうだ」こんな話をしながらゆく者がいる、「丸ノ内の三昌銀行で、五十万円の札束を」「拳銃をばんばん射って」「五人組だとさ」「こっちへ一人追い込んだそうだ」こんな断片が聞えた。
時間はまだ早い。彼は三原橋を渡って右へ曲る、倶楽部《クラブ》でジン・カクテルでも一杯やってゆこう、料飲停止とあれば恐らく酒は出まいから、――が樹緑ビルの酒神《バッカス》倶楽部は扉が固く閉って、誰のいるけはいもなかった。
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
六時十五分、竺葉の座敷に千田|父子《おやこ》が対座している。鰻《うなぎ》料理で名高いこの家は、戦後に建てたにしては凝った数寄屋造りで、周囲にぐるっと黒板|塀《べい》が廻してあり、庭も念入りに出来ている。――仁一郎氏は頭の毛が白い、然し眉毛と口髭《くちひげ》は黒い、二郎によく似たなかなかの好男子である。卓子《テーブル》の上にはグラスが二つ、昔なつかしい銀の大型のポットを置いて、すばらしい香気のある琥珀《こはく》色の酒を注いでは飲む。父子とも余り饒舌《しゃべ》らない、話はいわゆる「白文」で、頗《すこぶ》る飛躍的であり、まったく友達同志のようである。
「もう早くはなかろう、二郎、おまえ貰わないか、嫁をさ」
「そうだな、悪くはないが、もう二十分過ぎだよ、遅いじゃないか、おふくろは」
「遅くはないさ、おい、話をそらすな」
「僕はいいけれど、先方が災難だろう」
「それに就いてはキケロが言ってる、いやキケロといえば聞いて置きたい事があるんだが、どうも解せないんだがね、この頃、なにか有るのかい、おふくろが心配しているぜ、二郎」
「嫁だって心配するさ、貰えばね、六時半じゃないか、飯にしないかね」
「はぐらかすなよ、なにか有るんだろう」
「すぐわかるさ、大した事じゃない」二郎は暢《のん》びりと立上る、「手洗いはどっちかね」
廊下を曲っていって突当る。窓から見える街に灯が点《つ》いている、植込の女竹の葉に風がわたり、空はいちめんの星だ。――戻ってみると母親が来ている。若い着飾った日本髪の娘が母親の脇に俯向《うつむ》いて座っている。
「遅くなって御免なさいよ二郎さん、美容院で時間を取っちまったもんだから、それに車をみつけていたのでよけい暇を潰《つぶ》しちゃったのよ、これなら歩いて来ればよかったわ、ねえ」
伴《つ》れのほうへ振返る、娘は「ええ」と頷《うなず》くが顔は上げない。女中が喰べ物を運び始める、おふくろは独りで饒舌る、仁一郎氏はさっそく箸《はし》を取り、二郎はまだグラスを放さない、時どきじろっと親父の顔を見る、――へんな真似をするなよと云いたい訳だ、親父はそ知らぬ顔で鰻をつついている。おふくろは娘に喰べ物を勧めながら、近頃の美容師が日本髪を結う恰好はうどん屋が棹《さお》へうどんを干すようだ、などわからないことを云っている。
「なんだ、――」二郎がとつぜん眼を瞠《みは》る、「どこかで見たようだと思った、君かい」
娘が顔をあげる、宮田俊子嬢である。
「君かいって、二郎さん」母親が吃驚してこちらを見る、「貴方《あなた》いままで気がつかなかったんですか」
親父が失笑《ふきだ》した。俊子嬢も赤くなって笑う、おふくろは最後に、――二郎の戸惑いをした眼つきを見て笑いだす。「まさか今まで気がつかないなんて」こう云って笑う、それから俊子嬢を見て云う、「だから貴女も少しはお洒落《しゃれ》をなさらなければだめですよ、このとおりすぐに証拠が、――」二郎はグラスを措いて鰻の皿をひき寄せる。
不意に障子が明いて若い男が入って来た。黒いジャンパーに護謨《ゴム》の短靴を穿《は》いている、その靴のまま部屋へ入って後ろ手に障子を閉め、右手の拳銃を見せながら、「静かにしろ」と云う、凄《すご》いほど蒼《あお》ざめた顔で、左の頬に泥混りの乾いた血が付いている。肩で苦しそうに息をしながら、仁一郎氏の後ろを廻って、半間の戸納《とだな》の開きを明ける、
「話を続けろ、動いたり、おれのいることを教えたりするとぶっ放す、来るまでに三人もばらしているんだ、いいか」
男は中へ入って開きを閉める。ぶすっと音がして襖《ふすま》へ穴が明く、「ここから見ているぞ、話を続けろ」そして喘《あえ》ぐ。――仁一郎氏は息子を見る、おふくろはまっ蒼《さお》になり、箸を持つ手がひどく戦《おのの》いている、俊子嬢の額も白くなった、二郎は畳の上を眺める。
「おい君、畳に靴の跡があるぜ、どうする」
「拭いて呉《く》れ」戸納の中からだ、「但し変なまねをするとそれっきりだぞ、他の者は動くな、早くしろ」
二郎は立つ、俊子嬢が手帛《ハンカチ》を出す、それを受取って、彼は畳の上を拭く、障子を明けて、廊下も拾い拾い拭く、庭からすぐに来たものである、――済ませて障子を閉めると、庭のほうへ人がどやどや走って来た。
「蚊取線香を買わなくちゃいけないな」二郎が箸を持ちながら云う、「父さん、窓へ網戸を入れるんですね、今年は、でないと」
「どこの話だいそれは、まだ三月だぜ」
「事務所ですよ、喉へとび込んだから、社員が、みんな変挺《へんてこ》な声になっちまう、本当ですぜ、僕は吃驚しちゃった」
「丸ビルの三階に蚊が出るかね、そんな話は聞いたこともないぜ」
宮田君が知ってますよ、こう云おうとしたとき廊下へ人が上って来た。「失礼します」とう云って障子を明けた、私服と武装警官が六七人いる、部長の腕章を付けた人がすばやく室内を見まわした。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
「いや誰も来ません」二郎が答えた、「さっきから四人で食事をしていますが、――なにか間違いでもあったんですか」
「慥《たし》かにこの庭へ追込んだんですが、拳銃を持った兇暴な奴なんで、おかしいなあ」
二郎は上衣の裏を返して見せ、※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《めまぜ》をした。部長は緋色のバッジを見、彼の眼配せを認めた。二郎は笑いもせずに箸を置く。
「ほかをお捜しになったらどうです、もし此方へ来たら知らせますよ」
「それではお願いします」部長は睨《にら》むような眼をした、「然したいへん兇暴な奴ですから注意して下さい、お邪魔しました」
彼等は庭へ去った。二郎が饒舌りだす、仁一郎氏だけはさすがに落着いたが、母親も俊子嬢もまだ恐怖のために身動きもできない。二郎は母親の前にある風呂敷包を解いた、重箱で、中には握飯が入っている、「出て来たまえ」と戸納の男へ呼びかける。
「腹が減ってるんだろう、もう大丈夫だ、出て来て飯を食いたまえ、心配はないぜ」
開きを明けて、拳銃を持ったまま男が出て来る。野獣のような眼だ、震えている。二郎は皿の上へ鰻を集め、握飯を三つ載せて出してやる。男は明けたままの開きの前まで、後ろ退りに戻って座り、片手でがつがつ喰べ始める。
「此方《こっち》を見るな、話を続けろ」
「女たちを帰したいんだがね」仁一郎氏が云う、「怖がっていて可哀そうだが、どうだね」
「うるせえ、じっとしてろ、動くとぶっ放すぞ」
「茶を貰おうか」二郎が訊《き》く、「それとも気付けにブランデイをやるか、あるぜ」
「此方を見るな、自分たちだけで話してろ、欲しけれあ自分で取る、――断わっておくが詰らねえ真似をするなよ、九人組の強盗団というのを、新聞で読んでるだろう、そこいらのちんぴらとは違うんだ、話を続けろ」
二郎はまた饒舌りだす。仁一郎氏は煙草に火を点け、おふくろと俊子嬢もようやくまた箸を手にした。間もなく廊下へ足音が聞えた、男は皿を突返し、すばやく戸納へ入って開きを閉める。障子を明けたのは茶を持って来た女中である。
「なんだい今の騒ぎは」
「どうも相済みません、なんですか銀行ギャングが逃込んだとか申しますの、――横の木戸から入るのを見た人があったんだそうですけれど」
「怖いことね」おふくろの声は顫《ふる》える、「それでまだ捜しているんですか」
「いいえ今しがたみんな帰りました」
「車を呼んで呉れないか」二郎が云う、「僕と親父だけ先に帰るからね」
承知しましたと云って女中が去る。
「出て来たまえ君」二郎が呼ぶ、「服を変えて一緒に出よう、こんな処にいたってきりがないぜ」
男が出て来る。二郎は父親の外套と帽子を指さしてやる、「おれはどうするんだ」仁一郎氏が不平をもらす、男は拳銃を持ち替えながらすばやく外套を着、帽子を冠る、それから靴を脱いでジャンパーの懐中《ふところ》へ入れる。足が震え、眼がつり上っている、最も危険な瞬間だ。「すぐ車を返しますから、父さんの外套と靴はそれで取りにやって下さい」二郎は気分をそらすために態《わざ》とさりげなく言う、「宮田君、その握飯と鰻の余ったのをお重へ入れて呉れないか、――風呂敷へ包んでね」それから自分も外套を着る。
午後七時十五分、二郎と男を乗せた自動車が竺葉を出る。「千住駅まで」男が命ずる、「八百円やる」
運転手はいい顔をしない、男は二百円増す、車は廻って循環道路へ出る。二郎の左の脇腹には固い物が当てられている、男は頻《しき》りに胴震いをし、口の中でなにか呟《つぶや》く。江戸橋の袂《たもと》でカーブを切った、反動で二郎の躰が男へのめりかかった。そのとき二郎は左の手で例の物を下へ押しつけ、右手で男の顔を殴った、ま正面から、眼と眼との間へ、正確を極めた直打《ストレイト》である。外套の下でぶすっと拳銃が鳴った、然し二郎の拳は猛烈な勢いで二撃三撃、男は眼が眩《くら》み、悲鳴をあげて顔をそむけた。――二郎は落ちた拳銃を拾う、男は鼻血を流し、傷ついた犬のように頭を振る、
「眼が見えねえ、畜生、殺せ――」
「大げさなことを言うなよ」二郎は男の両腕を後ろへ廻し、それを絞るように抱え込む、「――運転手君、済まないが丸ビルへやって呉れないか、千住はもういいよ」
「おどかさないで下さいよ、どうしたんです、喧嘩《けんか》ですか」
「酒癖の悪い奴なんでね、酔うと暴れるんだ、然しもう大丈夫だよ、――じっとしているほうがいいぜ、君、こんどは本当に眼を潰すよ」
七時四十分。二郎は男を伴れて丸ビルの階段を登っている、男は手帛で鼻を押え、眼をつぶったままに曳《ひ》かれてゆく、眼は両方とも紫色に腫《は》れ塞《ふさ》がり、絶えず涙が流れる。――三階の事務室。宿直の社員が吃驚して立つ。
「いやなんでもない、友達が酔ってね」
「けがでもなすったんですか」こう云ってすぐ思いだしたらしい、「ああ三度ばかりお電話がありました、梶原さんという方からですが」
二郎は連絡課の仕切室《ブース》の鍵を出す。中へ入ると、男を窓際の長椅子に掛けさせ、扉に鍵をおろして宿直室へ戻った。
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
「梶原から三度も電話だって」二郎は救急箱を取出しながら訊く、「伝言はなかったかね」
「お邸のほうへも掛けたんだそうです、ここに番号が書いてありますが、みえたらすぐ電話を欲しいということでした」
二郎は洗面所へゆく、タウェルを水で絞り、仕切室へ入る、「じっとしていたまえ、いま手当てをしてやる」彼は血を拭いてやり、救急箱を明ける、「ひとつ悠くり話をしよう、殴ったりなんかして失礼したね、しみ[#「しみ」に傍点]るかも知れないが、ちょっと辛抱したまえ」薬を塗ると男はするどく咆《ほ》え、頭を反らした。
「よして呉れ、気障《きざ》なまねはたくさんだ、片をつけろ、仲間がこの礼はして呉れる、そのとき、ああっ」男は凄まじく咆え、顔をそむける、「ああっ、眼が潰れちまう、やめて呉れ」
両眼から頭へ包帯を巻く。「安静に頼むよ、さもないと本当に盲人《めくら》になるからね、いいかい、僕はちょっと飯を食って来る」二郎は扉に鍵を掛けて出る。洗面所で顔を洗い、宿直室へいってお重を開く、彼は竺葉では食事をしなかったのである、「――その番号を呼出して呉れたまえ」鰻はもちろん冷たかった。
電話は間もなく通じた。梶原が出ている、だが毎《いつ》もの貴族的な調子はなくて、力のないひどくせかせかした言葉つきだった。
「いま築地の聖ヨセフ病院にいるんだ、来られたらすぐ来て呉れないか、沼井が怪我をしてね」
「沼井が、――よほど重いのかい」
「まだはっきりしないが、事に依るといけないかも知れない、みんな来ているんだ」
「問題は車だが、然し、いやすぐゆくよ」
二郎は食事を片づけ、宿直の社員に仕切室《ブース》の監視を頼んだ。もう五十に近いその社員は、拳銃を渡されたとき生唾をのみ頬の筋を痙攣《ひきつ》らせた、「眼が見えないんだから大丈夫なにもしやあしないよ、時どき部屋の前で靴音をさせればいいんだ」然し万一のときは射ってもいいから逃がさないようにと言って、二郎は事務所をとび出した。――有楽町まで走り、そこで車を拾った。病院では受付のところに橋本五郎が待っていた、横浜の夜以来はじめて会うのである、握手をすると彼は「二階だ」と云って案内した。
磨いたように清潔な廊下を、二階へ登って曲ると、ついそこの扉の外に森口乙彦が立っていた。彼は二郎の手を握ると、そのまま廊下の端にある喫煙室へ伴れていった。電燈が明るいので雪白の椅子|掩《おお》いが眩《まぶ》しい、森口は煙草を出す。
「拳銃で射たれたんだ、一発は腹から脇へ貫けたが、一発は脊椎《せきつい》骨で止っている」森口はライターを点ける、「剔出《てきしゅつ》のため開腹したんだがいけなかった、心臓もひどく弱ってるらしい、いまちょっと眠ってるが」
「然しどうして、どこで射たれたんだ」
「丸ノ内の三昌銀行で強盗事件があった、五人組が自動車で乗着け、金庫を明けさせて八十万円強奪した、給仕の一人がうまく脱け出して、近くの日比谷署へ知らせたので、彼等が銀行から出るとたんに警官たちが駆けつけた、射ち合になり三人は車で逃げ、一人は捕えられ、一人は銀座方面へ逃走した、――沼井は偶然その近くを歩いていた、映画を観た帰りだそうだ、人の騒ぎと、拳銃の音を聞いて走っていった、すると向うから毬《まり》のようにとんで来る奴がある、無帽で、黒いジャンパーを着ていたそうだ、そいつがいきなり」こう云って、森口は持っている煙草の火をじっと見た、「……沼井はまだなにもしないし、なにを云いもしなかった、それをいきなり二発やった、沼井は射たれたとは思わず、なにかに躓《つまず》いて倒れたと思ったそうだ、すぐ起き上りながら見るとその男は有楽町のガードのほうへ走ってゆく、沼井はもがいたが足が立たない、そこへ警官が追って来たので、逃げていった方向を指で教えた、――そして気絶した」
銀座の街角で騒いでいた群衆、通行人の話していた「銀行ギャング」という言葉、――二郎がそれを眺めながら歩いていた数分前に沼井は兇弾を浴びて路上に倒れていたのだ。……無帽で黒ジャンパーの男、竺葉の座敷。
「九人組の強盗団というのは有名かね」二郎がこんどは煙草を出す、「ライターってやつは壊れるように拵《こしら》えてあるんだな」
「去年の春ころからだね」森口が自分のライターを点けて出す、「銀行専門にあらしていたが、最近ちょっと鳴りをひそめているようだ」
「今日のはそれとは違うのかね」
「さっき一課の部長が見舞いに来て云っていたが、違うらしいね、彼等はこれまで必ず九人で組んで仕事をした、今日のは五人だからね、――捉まえた一人を調べてるが、今のところ九人組とは別のものらしいということだった」
廊下に靴音がして、梶原宗助が扉口から覗《のぞ》いた、彼は二郎に軽く目礼すると、「来ないか」と低い声で云った。三人はすぐ喫煙室を出た。――二人の看護婦と入れ違いに病室へ入る、鉛色になった沼井の顔が、ぞっとするほど大きく眼を瞠ってこっちを見ている、二郎は暢びりと片手を挙げながら、枕|許《もと》へ近寄っていった。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
「ああ千田、君か」沼井裕作は頷いて歯を見せる、「どうした、ランデヴーは、うまくいったか」
「それがね、こんどは待ち呆《ぼう》けさ、こっちがね、――鰻を喰べちゃったよ」
「鰻をどうしたって」沼井はぎゅっと眉をしかめる、「相変らず、妙なことを云うな」
「妙なことはないさ、少なくとも鰻には妙なことはないんだ、まごついたのは、寧《むし》ろ」二郎はちょっと口籠《くちごも》る、「あれだよ、珍しい偶然なんだろうがね、いきなり云ったんでは信用できないだろうが、――君は、鰻は嫌いかい」
「頼むから、いまおれを笑わせないで呉れ」沼井は歯をくいしばる、「放っといて呉れ」
二郎は頷く、そして静かに後ろへ退る。沼井は頭を揺り、ちょっと三人の顔を見る、然しすぐに低く呻《うめ》きながら眼を閉じる。鉛色の額に膏汗《あぶらあせ》が浮いて、垂れた髪毛が粘り付いている。ふと沼井が大きく喘ぐ、そしてこう呟く。
「W……間索……O《オーバー》……7」頭がぐらっと片方へ傾《かし》ぐ、「さっぱりと、いこう」
三人の表情が石のように硬くなる、室内を颯《さっ》と風がはしったようだ、二郎は頭を垂れ、静かに病室から出る、梶原がついて来た。
「医者は絶望だとはまだ言わない、よくわからないが問題は心臓らしい、――腹膜の炎症の昂進が停ったら、もういちど弾丸の剔出をやるそうだ、出来るだけの手は尽すと云っている」
廊下はほの暗く、寒い、二郎は外套の釦《ボタン》をかける。
「僕は帰らなくちゃならない、一緒にいたいんだがね」彼は帽子を冠る、「ふしぎな偶然で、黒ジャンパーの男を捉まえた、訳はあとで話すが、事務所に押籠《おしこ》めてある、沼井を射った奴なんだ」
「君がそいつを、捉まえたって――」
「九人組の強盗団だって威張っていた、それで警官に渡さないで、僕が貰ったんだ」二郎は階段のほうへ歩きだす、「彼等の本拠を知りたいと思ってね、――だが沼井を射った男とは知らなかった」
「容易なことじゃないぜ、やつらはその点ばかげて口が固いからな、然し、――それじゃあずっと社にいるんだね」
「帰りにちょっと警視庁へ寄るが、それからはずっといる、変った事があったら」こう言いかけて二郎は梶原の手を握る、「頼むよ」
外へ出ると膚を切るような風だった。彼は外套の衿《えり》を立て、帽子の前をひき下げた、夜眼にも白く道から埃《ほこり》が舞立っていた。
待たせて置いた車で警視庁へゆく。捜査一課で三十分ほど話して出る。風は依然として強い、十一時五分前に事務所へ帰る、そしてすぐに男を休養室へ移す、――社内に急病人などが出たとき休ませる室だ、窓は金網入り硝子《ガラス》、寝台の他に脇卓子と椅子、狭いのにがらんとした感じで暗い。そこは事務室の西の端に当り、元来は物置場であった、窓の外は非常|梯子《ばしご》になっている。……二郎は男を寝台に掛けさせ、自分は椅子をひき寄せた。
「君は大乃木太市という名を知ってるね」彼はこう口を切った、「彼はいま警視庁に捉まっているんだがね、――然し僕はいま別のことを話したいんだ、聞いて呉れるかい」
明くる朝の七時。二郎は寝不足の眼をして出て来る。応接室から食堂へ電話を掛け、朝食の弁当を取寄せる。届けて来ると、丼《どんぶり》と茶道具とそれを載せた盆をきれいに拭き、手で持って休養室へ持ってゆく。――男は(既に包帯をとって)寝台に寝そべっている。
「飯を喰べたまえ、そして眠るんだね」彼は弁当を脇卓子の上へ置く、「――断わって置くが逃げるなんてことは考えないほうがいいぜ、僕が大乃木太市のことを警視庁で聞いて来た、それだけで説明は充分だろう、またあとで来る、そしてもっと仲良く話をしよう」
午前十一時、二郎は車を聖ヨセフ病院へ乗着ける、梶原と橋本は寝ていた。森口乙彦と喫煙室で十分ばかり話す、沼井はまだ危険状態を脱しない、然し心臓の調子がよくなり、腹膜の炎症の昂進が停ったという。羅漢さんの眼も腫れぼったいが、顔にはやや明るさが出ている。二郎は帽子を持ったまま自分のほうの経過を話す。
「警視庁に捉まっている奴は大乃木太市といって、強盗の前科がある、当人は絶対無言の行《ぎょう》でなんにも云わないが、指紋台帳でわかったんだそうだ、――おれのは懇談を始めたばかりさ、躰当りだ」
「事務所なんぞに置いては危ないな、専門家に任せたほうがいいじゃないか」
「それも悪くはないが、懐中《ふところ》へはいって来た鳥だからね」二郎は椅子から立つ、「それに、沼井の事があるからね、こいつだけは自分の手でやってみたいんだよ、――じゃあ」
帰る途中、二郎は銀座で車を下りる。なんの積りもない、ぼんやり歩きたかったのだが、ふと思いついて横町へ曲る。他の店と同じように「マクスエル」も婦人客が四五人いるだけで閑散だ。扉を明けて二郎が入ると、レジスターの少女が突然つん[#「つん」に傍点]とそっぽを向く、楠田まり子嬢である。彼はちょっと戸惑いをする、呼びかけようとして、だが不決断に奥へゆき、椅子に掛けて珈琲《コーヒー》を命じた。
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
二郎は珈琲を三杯のんだ。楠田嬢は全然こっちを見ない、つん[#「つん」に傍点]と鼻を反らして往来を眺め、指でカウンターを叩いている。「そうしたら驚くじゃないの」婦人客の一人が能弁に話している、「あの人ズロースを穿《は》いていないのよ、シュアー、幾らなんだって」「そういう人なんだがん[#「がん」に傍点]ちゃんていう人は、それでどうして」「どうしてったって――」二郎は伝票を持って立つ。まり子嬢はえへんと咳をする。
「昨日はどうしたの」伝票を出しながら彼が訊く、「ずいぶん待ったんだぜ、電話を」
「お珈琲三杯でございますね、六十円頂きます」
「急用でもあったのかい、僕は四時四十分まで待って、それから此処へも来たんだよ」
まり子嬢は邪険に出納器を鳴らし、断子《だんこ》としてそっぽを向き、つん[#「つん」に傍点]として釣を出す。
「四十円のお返しでございます、――余計なことですけれど、わたくしなんぞより赤ちゃんのある御婦人を大事になすったら宜しいでしょ、えへん」
「赤ちゃんのある御婦人だって、――へえ、なんのことだいそれは」
「人間は偶には自分の居間を硝子窓の外から覗いて見るものだと、ステファヌ・マラルメが申しておりますね、えへん、色魔なんて、女性が解放され自覚した現在ではアナクロニィズムだわ、これでわからなかったら合成樹脂の連絡課へお訊きになったらいいでしょ、課長の千田二郎さんが精《くわ》しく説明して下さいますわ」
客が入って来る。奥から婦人客たちが(まだがん[#「がん」に傍点]ちゃんの話をしながら)立って来る。次に入って来た客が菓子の飾棚《ケース》を覗く。二郎はしぜん後ろへ退る。まり子嬢はあいそよく婦人客の勘定を受取り、別の客の質問に答える、――二郎は不決断に外へ出る。なんだか訳がわからない、不味《まず》い珈琲だ。それに女というものはなんと、いやてんで訳がわからない。たぶん急にヒステリイでも起こしたんだろう、おまけに罪もないマラルメなんか引合に出して。――十二時二十分、彼は工業倶楽部の地下室へ食事をしに入った。
午後一時十五分、二郎は社へ帰る。仕切室《ブース》では宮田嬢が忙しそうに仕事をしている。昼食の休みに買って来たのだろう、彼の机の上に花が挿《さ》してある。外套と帽子を脱ぎ、届いている弁当の盆を持って出る、宮田嬢が眼尻で見ているのを無視しながら、――休養室では男が高鼾《たかいびき》で寝ている。二郎は持って来たのを脇卓子の上に置き、眠っている男の容子を暫《しばら》く眺めた。眼はまだ両方とも紫色に腫れているが、手足を投出し顔を傾《かし》げて、たいへんよく熟睡している。二郎はそれと離れる、そして今朝喰べた弁当の載っている盆を、手帛で持って廊下へ出、扉に鍵を掛ける。……仕切室《ブース》へ戻って、空の弁当箱や湯呑や盆を汚さないように包む。
「あの男をどうなさいますの」宮田嬢がペンを動かしながらこっちを見ずに言う、「なんのためにあんな人を此処へお置きになりますの」
「服を新調するんだね」二郎は包んだ物を抱える、「君は若くて、吃驚したぜ、縹緻《きりょう》よしじゃないか、ゆうべ初めてだが、おふくろもそう云っただろう、少しはお洒落もしなくちゃね、本当だぜ、すぐ帰って来る」
彼は車で警視庁へゆく。捜査一課で昨夜の部長に会い、包んで来た物を渡す。部長は包を明け、手でそっと盆を取る。
「前によく拭いてあるんですな、ほう、ではたぶん採れるでしょう、お待ちになりますか」
「待たせて貰います、急ぎますから」
「自動車がみつかりましたよ」部長はそれらの物を鑑識課へ持ってゆくように命じ、椅子へ戻りながらこう云う、「今朝早く池袋駅近くの焼跡に乗捨ててあったのです、ええ例の三人の乗って逃げた車ですよ、番号で調べると三河島の共栄商会という店の所有で、昨日の午前四時頃にガレージから盗まれたものだそうです」
三河島という地名が二郎の耳に強く響く。昨夜あの男は、「千住駅へゆけ」と運転手に云った、千住と三河島、方向は同じだ。――部長は更に大乃木太市が相変らず口をきかないこと、三人の足取りがまだ不明なことなどを告げる。二郎はじっと聞いている、「アナクロニィズム」という言葉がふと頭にうかぶ、無連絡だがひどく可笑《おか》しい、それで咳をして煙草を取出す。……四十分後。鑑識課の者が報告に来る。指紋は検出されたけれども、台帳には該当するものがない、前科はないようだ、二郎は礼を言って立った。
持ち帰った物を食堂へ返し、三階へ上るとすぐ社長室へいった。「今夜も此処へ泊ります」と断わる、仁一郎はふきげんに息子を見る。こちらはさあらぬ顔で、「一本頂きます」と、壁際の戸納を明けて酒壜を取出す。そして仁一郎氏のやや烈しい咳ばらいを聞きながして廊下へ出る。――仕切室《ブース》でも彼を迎える秘書の眼は温かくない、外套と帽子と酒壜を置き、話しかけられないようにすばやく脱出する。休養室では男は、寝台に腰掛けて、両手で眼を押えていた。飯は喰べてある。
「いい加減にどっちか片をつけて呉れ」男は脇を見ながら云う、「どう間違えたって仲間の居どころなんど云やあしねえ、無駄なまねは止したほうがいいぜ」
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
「君は昨夜からそれを言い続けている」二郎は平然と呟く、「仲間の義理、……なるほどね、君は慥《たし》かにそれを守るだろう、だが君に対して仲間が、同じようにその義理を守るかね」
「おまえさん達にあ、ふっ――」男は嘲《あざけ》るように唇を歪《ゆが》める、「まるっきり別の世界さ」
「そうかも知れない、僕には君たちの仲間に友達がないからね、……だが、それでもやっぱり信じ兼ねるんだ、殺人強盗、人を殺し物を盗む人間が、――仲間の義理に限って、固く守る、……事実なら見たいもんだ」二郎は悠《ゆっ》くり煙草を出し、点かないライターを頻《しき》りに擦る、「ところで、君には前科がない、年も恐らく二十四か五だろう、こんな仲間に入ったのもそう古いことじゃない、だが他の者は常習者だ、職業的犯罪者だと云ってもいいだろう、……そういう仲間が、自分を犠牲にして君に対する義理を守る?――奇蹟だ」
「それが誘導訊問ってやつかい」男は乾いた笑い声をあげる、「はっは、笑わしちゃあいけねえ」
「いや遠慮なく笑いたまえ、大乃木太市君などはたいへん元気に笑ったよ」ようやく煙草に火が点く、二郎は悠くり二三度ふかして、いともさりげなく呟く、「――君とはまるで違うね、……大きな差だよ」
「大乃木がどうしたっていうんだ」
男の眼が鈍く光る。二郎は静かに立つ。煙草を手に持って、赤い火をじっと瞶《みつ》める。
「いやなんでもない、……彼はどうもしやしないよ」二郎は扉口のほうへゆく、「晩飯のあとでまた来る、一杯やろうかね」
扉へ手を掛けたとき、男が後ろから跳びついた。両手で二郎の首へ掴みかかり、死にもの狂いに絞めあげる。二郎は下半身を前へ滑らせる、男の獣のような暴い呼吸が耳をうつ、二人の躯《からだ》が傾き、煙草の火が男の顔でぱっと光る、「熱《あつ》ッ」という叫びと共に、組んだまま脇卓子を押倒し寝台へのめる、そのとき条件が逆になる、二郎の拳の片方が男の腹へ片方が眼と眼の間へとぶ、男は悲鳴をあげながら身を捻《ひね》る、だが二郎はその衿を掴み、真正面から直打《ストレイト》で鼻柱を殴る、がんがんと容赦なしの、思い切って痛烈な打撃である、男は両腕で面を塞ぎ、呻き叫びながら床の上へ倒れたが、二郎はそれをひき起こし、顎《あご》をめがけて更に猛烈な一撃をくれた。――男ははね飛ばされるように横倒しとなり、「痛え、眼が見えねえ、悪かった、やめて呉れ」こう喚きながら転げまわった。……二郎は暢《のん》びりとネクタイを直し、ズボンをはたきながら廊下へ出る、なにか向うへ大きな声で命じていたが、間もなく救急箱を持って戻り、男を援け起こして、椅子へ掛けさせる。
「今夜いっしょに美味《うま》いブランデイをやろうと思ったのに」こう云いながら二郎は脱脂綿へオキシフルを浸《し》ませる、「これじゃあ君は飲めやしない、手を放したまえ、こんどは僕のせいじゃあないぜ、眼が潰れたって、そう断わってあるんだからな、もっと上を向くんだ」
再び腫れ塞がった眼と、鼻とから血が流れている、唇も切れている。脱脂綿を当てると男は声を震わせて呻き、身を捻る。
「君は三昌銀行から逃げるとき、有楽町駅へ曲るところで一人の男を射った」二郎は手当てを続ける、「一発は脇腹へぬけたが、一発は腹から入って背骨で止っている、……腹部の盲貫銃創は、有ゆる苦痛の中で最もひどいものだ、――その男はいま激烈な苦痛にさいなまれながら、病院のベッドで死とたたかっている、……膏汗をたらしながらね、だが君のように音はあげないぜ、少しは我慢したまえ」
男の全身が硬直した。腫れあがった唇が垂れて歯が見えた。二郎はガーゼへ軟膏を塗り、男の顔の上半へ当てる、それから新しい包帯を出して巻きながら、暢びりした調子で続ける。
「ゆうべ君は、色いろ熱をあげたね、罪は社会にある、政治や経済が責任を負うべきだ、うん、慥かに理屈だ、――然し僕はやはり賛成しないね、君と君の仲間には賛成できないよ、頭をこっちへ向けたまえ、……君は軍閥に騙《だま》されて戦争へ狩出されたと云った、戦場で兄さんを殺され、お母さんと妹を戦災で殺されたと云った、――絶望し棄鉢になるのは当然かも知れない、だがそれならなぜ当の相手をやらないんだ、……君を騙して戦争へ狩出し、母や兄や妹を殺した、曽ての軍閥や官僚になぜ向わないんだ、――君たち仲間が殺したり強奪したりする相手は、君と同じように軍閥官僚の犠牲になった人たちだぜ、君と同じように兄弟を戦死させ、良人《おっと》を父を我が子を死なせた人たちだぜ、……嘘だよ、君の言うことは嘘っぱちさ、そんなことを云って自分の悪事をごまかそうとするのさ、君はお母さんも兄さんも妹も死なせやしない、みんな口から出まかせさ」
「本当です嘘じゃありません」男は歯をくいしばった、「本当に兄は、兄は、――」
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
「さあ終った」二郎は相手の言葉に耳もかさず、立上りながら悠くりと続ける、「煙草の火が眼へゆかなかったのは仕合せだったね、僕は眼を覘《ねら》ったんだがね、うん、――煙草でした火傷《やけど》は痛いそうだ、然し頬ぺただからまあ我慢するんだな、ちょっと手足を借りるぜ」
二郎は男の両手を後ろへ廻して、包帯できりきり椅子の背へ縛る。それから両足をそれぞれ椅子の脚へ、――男はもう反抗する容子がない、ひどく思い詰めるもののように、頭を垂れ、歯をくいしばって、されるままになっている。
「晩飯はおそくなるかも知れない、それまで悠くり考えるんだね、君や君の仲間が、射ち殺し奪い取った人たちのことを、それが大なり小なり君と同様に戦争の被害者だということをね、……大多数の同胞が、住む家に苦しみ着る物に苦しみ、喰べる物に苦しんでいる、八方塞がりの苦しい中から、どうかして立直ろうと悪戦苦闘しているんだよ、――そういう同胞を、君たちは、拳銃で射ち殺し、重傷を負わせ、物を奪ってゆくんだ、……考えてみたまえ、お母さんや兄さんや妹さんを、戦争で殺されたというのが本当なら、考えてみたまえ」
二郎は脇卓子を起こし、その上に救急箱を置いて出ていった。――両眼を塞がれ、椅子に縛り付けられている男にとって、経ってゆく時間がどんなにながく、いかに退屈で苦しいかは想像以上であろう。初めのうち男はひどく考えこむようだった、彼等の頭脳は一般に単純で、――刺戟《しげき》に対する条件反応は極端に傾き易い、ある時は過敏にはたらき別の時は遅鈍に過ぎる、然もどちらも長続きがしない。男は二郎の言葉につよく動かされたようだ、それは或る時間、肉躰的な束縛の苦痛をさえ忘れさせたようにみえる、その思考をもう少し続けることができれば、彼の自覚は多少なりとも変らずにはいないだろう、然しそれは間もなく中断される、精神的|欠伸《あくび》が起こり、思惟はばらばらに崩れる、そして肉躰的な苦痛が彼の全部を捕える。……室内が暗くなり、遠い事務室の物音や人声がしだいに少なく低くなってゆく、だが二郎はまだ現われない。
たぶんもう七時か八時にはなるだろう、男は頭を反らせて椅子の背に凭《もた》れ、なにか口の中でぶつぶつ独り言を言っている。然しふと頭をあげる、足音が聞えるようだ、「やっと来やがった」こう呟く。だがその足音は廊下ではなく、窓の外から聞えて来るらしい、建物ぜんたいが森閑としているので、それが下から上へ登って来るのだということがわかる。
「非常梯子だな、――ちぇっ、夜番か」
男は舌打をする。足音はこの階へ達する、そしてこの部屋の外へ近づく。なんだ、突然がっ[#「がっ」に傍点]と窓硝子が破られる、がしゃん、がしゃんと叩き破る、金網入りなので一遍にはいかない。男は愕然《がくぜん》と硬直する。――がしゃん、硝子の破片が床で音を立てる。
「あっ此処だ」外で低く囁《ささや》く、「そこにいる」
男は身を震わす、「仲間だ」助けに来て呉れた。彼は叫ぼうとする、だがそれより早く破《わ》れた窓硝子の穴から拳銃を持った手が現われ、消音器《サイレンサー》を付けた鈍い音が起こる、暗い室内に閃光《せんこう》がとび、銃声が壁をうつ。
「おれだ、待って呉れ」男は絶叫する、「早川大吉だ、饒舌りあしねえ、射たねえで呉れ」
だが射撃は続く、壁へ、寝台の枠《わく》へ、弾丸がぶすぶす刺さる、男は悲鳴をあげ、椅子といっしょにがっと横倒しになる。
銃声が止む。倒れた男は呻く。――窓の外でひゅっと口笛が鳴る。なにか囁く声がする、そして足音が窓から離れる。……男の呻き声を縫って、かたかたかたとなにかが床を打つ細かい音が起こる、男の躯が激しく戦慄《せんりつ》するので、椅子の脚が床に触れるのだ。呻き声は弱まり、強く波をうち、長くひき伸ばされる、「畜生、あいつら」こんな呟きが聞える。
千田二郎が事務所へ帰ったのは午後八時十分である。宿直の社員が彼を見て呼止める、さっきから二度も電話だったと云う。「森口さんと仰しゃいました」こう聞いて二郎は息を詰める、すぐに電話器を取って聖ヨセフ病院へ掛ける。橋本五郎が出た。
「急に容体が変った、どうもいけないらしい、梶原がいないんだ、すぐ来て呉れ」
二郎は廊下へ出る。そこに停って、右手で外套のポケットを叩く。「ここで間を与えてはまずい」とう呟く、「どうしよう、――」そして不決断に歩きだす。二歩、三歩。こんどは急に大股《おおまた》になる、「そうだ、伴れてゆこう」二郎は休養室の扉を明ける。
「ああ点けないで、電燈を点けないで下さい」低く押しころした声が床の上から起こる、「今あいつらが来たんです、私は殺されます」
「誰がどうしたって、――なんだ、君は転げているんだな」
「そんな声を立てないで下さい、お願いです、私をそっと向うへ伴れていって下さい、あいつらは私を殺しに来たんです、――ああその窓から、拳銃で、……静かにして下さい」
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
二郎は毀《こわ》れている窓硝子を見る。肩をすくめる、それから男の手足を解き放し、腕を取って援け起こす。男の足は痺《しび》れてすぐには立てない、彼は二郎の腕へ縋《すが》りついて離れない。
「お願いです、早く向うへ伴れていって下さい」
「騒ぐことはない」二郎は廊下へ伴れ出す、「僕の側にいるあいだは安心したまえ、――だが、訳がわからない、誰がどうして君を……」
足探りに歩きながら、男はがくがくとひどく震える。
「あいつらです、私がなにか、饒舌ると思ったんです、それで殺しに来たんです」
「気をつけたまえ、階段だ」二郎は腕を抱えてやる、「あいつらとは、――然し、まさかね、だって仲間じゃないか、また階段だよ、……それに君が此処にいることをどうして知ったんだ」
「でもその他にあるでしょうか、いいえわかってます、畜生、――あのけだもの」
下りきると裏口へ出た。
「外へ出るんですか」男は身をもがいた、「厭《いや》です、あいつらはまだ張ってるに違いありません、私ばかりじゃない貴方も」
「僕が付いてる、車だ、乗りたまえ」
力任せに男を乗せる。車は走りだす、男は小さく身を縮め、怯《おび》えた小犬のように震えている。どんなにひどい衝撃《ショック》だったろう、絶えず口の中で独り言を言う、「にこ[#「にこ」に傍点]の奴だ、きっと、そんな声だった、……畜生、みていろ」車は橋を渡る。男はくいと顔をあげる。
「私は、私は云います、――」
「待ちたまえ」二郎は冷やかに遮《さえぎ》る、「僕は今それどころじゃない」
「でも貴方は云ったでしょう、私に」
二郎は手を振り、そっぽを向く。男は両手を握り合せ、なにかを絞るように揉《も》む、汗の音がする。「急いで呉れ」二郎は二度も運転手に叫ぶ。車は大きく曲り、広い道へ出て速度をあげる。――病院へ着くと、森口が受付のところに待っている、彼はけげんそうに同伴者を見る。二郎はその眼に頷きながら、「どうだ」と訊く。
「うん、やっぱり」羅漢さんの眼は暗い、「今夜いっぱいどうかって、――梶原は来た」
男の腕を抱えて階段を登る、男の全身をまだ間歇的に戦慄が走る。疑惑と危惧《きぐ》が彼を圧倒し、新たな恐怖で息苦しくなる。……病室へ着く、扉を明ける。梶原と橋本が振返る、――沼井は口をあけて喘いでいる。げっそりと頬が落ち、額が骨だってみえる。
二郎は男の包帯を解く、沼井がぎろりとこっちを見る。梶原も橋本も、二郎の伴れて来た人間がなに者であるかを了解する。包帯は解き終った。
「あの人を見たまえ」二郎は男を病床のほうへ向ける、「あそこに寝ている人を」
男の両眼は腫れ塞がっている、彼は手で暫く眼を押える、それから努力をして瞼《まぶた》をみひらく。いちど閉じて、頭を振り、指で脇を押える、病床と、瀕死《ひんし》の人の姿が見える。
「君の射った相手だ、三昌銀行から逃げるとき、あの街角で君の射った相手だ」
ふいに男の靴の踵《かかと》が床を打つ。そのとき沼井がああと声をあげた。無帽で、黒いジャンパーの男。
「君か、――」痛いたしく嗄《しわが》れた声で沼井が呼びかける、起きようとする、「よく来て呉れた、よかった、……ひと言、云いたかったんだよ、手を握らせて呉れ」
男は慄然と身ぶるいをする。二郎が肩を掴んで枕許へ押しやり、その右手を沼井のほうへ差出させる、それから沼井の鉛色の手を取り、二つを合わせる。――男は葦《あし》の葉のように震え、頭を垂れる。沼井は頭を傾けて見る。
「僕はなんとも、思っちゃあいない、君は、まちがったんだ、……ほんの過失さ、僕は偶然、ながれ弾丸《だま》に当ったんだ、此処にいる友達が、君のために証人になる、……大丈夫僕の分は、決して、罪にはならない」
男の膝《ひざ》が大きく揺れる。彼は呻きながら床へどしんと膝をつき、号泣の声をあげて、赦しを乞う、リノリュームへ両手と額をすりつける。「勘弁して下さい申し訳ありません」そして意味不明の言を続けさまに叫び、衝動のように号泣する。
「Adoramus te. Christe!」沼井が喘ぐ、「ああやめたまえ、泣くのは、たくさんだ、君は……悪くはない、少しも、勇気をだして――取返したまえ、君は、これから、生きるんだ」
医者が助手と看護婦を伴れて入って来る。二郎は男を引起こし、抱くようにして廊下へ出る、森口が後から来る。三人は喫煙室へゆく。男は喉を詰らせ頭を振り、眼を押える。――二郎は彼を長椅子に掛けさせる。
「聞こう、――九人の巣はどこだ」
「一つは野田です」男は呟く、「けれど、九人が集まるのは、浦和の市外です」
「精しく云いたまえ、野田はどうゆく」二郎は手帳を出す、「集まる日もあるんだろう」
男は話す。野田は五人だけの巣で、恐らく当分そこへは寄りつかぬであろう、九人のうち四人はいま関西へいっている、十七日には帰る。その日は必ず浦和でみんな顔を合わせる筈だ、さもなければ神田小川町の「ラム」という喫茶店が連絡所になっている、……二郎はすべてを手帖へ書きとめていった。然しまだ終らないうちに、廊下を走って来る足音が聞え、扉が明いた。橋本がひきつったような眼をして、こちらへ頷く。
「来たまえ、あぶなそうだ――」
[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]
窓硝子の向うに見える空は青い、然し紛れもなく春の青さだ。鉢植の杉の若芽にさしている日の色も慥かに春である。二郎はジン・フィズのタムブラーを持ったまま、話を途切らせて茫然と空を眺めている。――梶原は大型アルバムを披《ひら》き、そこへ一葉の写真を貼《は》っている、森口はその手助けをしながら、「それでどうした」と話を促す。二郎は酒を啜《すす》る。
「それで終りさ、謎だよ、――ステファヌ・マラルメがうまいことを云って、色魔はアナクロニィズムだそうだ、四十円のお返しでけり[#「けり」に傍点]さ」
「君の云うことのほうがよっぽど謎だ、相変らず訳がわからねえ」森口は糊壺《のりつぼ》を片付ける、「いったい成功しそうなのかそれとも失敗なのか」
「赤坊のある婦人を愛したらいいだろう、こうも言ったよ、おまけに合成樹脂の連絡課長の、千田二郎さまに訊けばいいってさ」
「頭がちらくらしてくる、まるっきり寝言だ」
「女は謎だ、神秘だ、寧ろ手品だ、沼井はクリスチャンだったのかい」
「どうだか知らないが」梶原が指を拭きながら身を起こす、「――主よ、われらなんじを讃《たた》う、いい言葉だった、……本音だったよ」
十秒ほど三人は沈黙する。二郎は酒を啜る。それから脚を組む。
「ところが拾いものさ、マラルメがね、人間は時には自分の居間を窓の外から眺めるものだ、こう言ってるんだとさ」二郎は暢びりと微笑する、「――窓の外からね、……こいつがぴんときたんだ、いいかい、彼は眼を包帯している、見ることができない、窓の外から窓硝子を毀《こわ》して、がんがんとやれば、――ね、詰るところ、楠田まり子嬢の啓示という訳さ」
「それは悪知恵というやつだ、こんな場合でなけれあ絶対に、――」森口がインク壺を明ける、「然し千田にそんな知恵が働こうとは思わなかった」
「こっちへ来ないか、千田君、書くよ」
梶原がペンを持つ。二郎は立ってゆく、森口も頭を下げる。梶原はいま貼った沼井裕作の写真の下へ、一字ずつ彫るような字で書き始める。――前例の如く簡潔で、決して長くはない、「彼はその責任を果したり」という句で終る。
三人は写真に向って不動の姿勢をとり、それぞれのタムブラーを挙げる。
「W……間索……O……7」二郎がささやくように云う、「全軍直チニ突入セヨ、――承知したよ、沼井君、今日がその日だ、見ていて呉れ」
そして一緒に、三人は酒を乾《ほ》した。南方の基地では遂に掲揚されなかった信号、W・間索・O・7(全軍直チニ突入セヨ)が、いま酒神《バッカス》倶楽部のメムバーの上に掲げられたのである。――二郎はタムブラーを置いて悠くり踵《きびす》を返す、そして窓際へいって外を眺める。電話のベルが鳴りだし、森口が出る。二郎は外を眺め続ける。電話はすぐ終る。
「野田からだ、まだなにもないと云ってる」
「三時だね」梶原が時計を見る、「なるべく夜にはしたくないな――」
三十分経つ。階段を駆け上って来る足音が聞える、乱暴に扉を明けて、橋本五郎が入って来る。帽子を脱ぐと汗で額へ髪がねばり着いている、彼は、「浦和だ」と云いながら、まず卓子へいってコップを取り、サイホンの炭酸水を注いで飲む。噎《む》せて咳きこみ、手を振る。
「浦和だ、小川町のラムの張込が当った、本庁からは一課長がゆくそうだ」
「みんな集まりそうか」
「連絡のようすではそうらしいと言ってる、浦和へ知らせたから情報が来る筈だ」
梶原が二郎へ振返る。二郎は頷いて外套を取る。森口が椅子の上にある帽子を取り、二郎の頭にのせながら、「マクスエルへ寄ってゆくか」と云う。二郎は大股に出てゆく。
五時二十分。二郎は浦和駅から志木へゆくバスを土合で下りる。畑地と枯田のまん中で、道沿いに十二三軒の鄙《ひな》びた家がある。むかし掛茶屋でもやっていたらしい店を殆んどそのまま、川魚料理と書出した家へ二郎は入る。「すみれ会はどこ」と訊くと、若い女中が先に立って、土間を脇へぬけ、池をまわって裏へ案内する。藁葺《わらぶ》きの古ぼけた百姓家を改造した別座敷に、五人ばかり背広服の男たちが雑談している、二郎は緋色のバッジを見せながら靴を脱いで上った。「ずいぶん遅いな」「まだ誰それは来ないか」「始めたらどうだ」出まかせの高声をあげて、彼等は二郎に席を与える。
「五人めがさっき入りました」男たちの中の一人が二郎に云う、「この店から蒲焼を注文しています、七時ころにと言ってました」
「そうですか、五人、――もう二人来れば」
二郎は煙草を出す。箱を三つ、男たちにすすめてライターを擦る。側にいた一人が自分のを出して点けて呉れる。「部長のライターはよく点きますね」向うでそう云う者がある、部長はすすめられた煙草を取る、「ライターは点くが煙草はたいていきれてる」和やかに笑い声が起こった。
[#6字下げ]十一[#「十一」は中見出し]
六時近く梶原と森口が来た。その少し前に、「七人集まった」という報告が入っている。二十分過ぎて橋本が捜査一課長と一緒に到着する。うちあわせはすぐ済み、女中が料理を運び始める。
七時五分前、「蒲焼が届いた」と知らせがある、芸妓らしい女が三人来ているという。二十分経つと四人が立上る。
すっかり昏《く》れている、曇っているので暗い。二郎が先になって街道を左へ折れ、細い道を南へ一町あまりゆく。低い猫柳の並んだ田川の畔に出ると、そこを東へ折れて林の中へ入る。なんのことはない四角形の他の三辺を廻るようなものだ。千田二郎が二度来て踏査した道である。それはやがて坂になり、小高い丘へ登る。――上には中流住宅が三十戸ばかり、庭を広くとってとびとびに建っている。二郎は畑の中へ入って、防風林をめぐらせた農家のような構えの一軒へ近寄る。どこかで犬が咆えている。
「泥溝《どぶ》があるよ」二郎はこう云いながら垣になっている珊瑚樹《さんごじゅ》の隙間から中へ入る、「少しくらい音をさせても大丈夫だよ、倉庫の裏だ」
三人も続いて垣をくぐる。暗くてよく見えないが、五六間さきに大きい倉庫がある。二郎はその壁に沿って北側へまわり、三人をそこに待たせて置いて独りで東側へゆく。――倉庫の向うに住居が見える。二階造りで、階下は暗いが二階の障子に電燈が明るい。そこまで三十間はあるだろう、微《かす》かに女の笑い声が聞えている。二郎は暫く見ている。それから更にそっちへ向って進む、が、……戸の滑る重そうな音が聞えたので、ぴたりと壁へ貼り着く。倉庫の中から出て来た者がある。出て来る後ろから(即ち倉庫の中から)呼びかける声がする。
「いっそ伊野も呼ぶか、――然しあいつは、いや、あいつはいい、伊野はやっぱり飲ましとけ、あいつはごててうるせえ、来ると云ったらしようがねえが」
「おはんがいるから動かねえでしょう」表の男がそう答える、「今夜あたり大乃木がいたらおさまらねえところだ、太市もおはんにあいれあげてましたからね」
男は住居のほうへ去る。――二郎は戻る。そっと三人のところまで戻って、ごく小さく声をひそめて囁く、「倉庫の中に一人いる、彼等はこの中へ集まる、もう少し見ているから」そしてすぐに東側の角へ引返して見張る。……空気が冷えてきて寒い、煙草がほしくなる。二階の障子に人影がうつり、大きく揺れて消える。けたたましい女の笑い声が起こる。間もなく階下の暗い玄関から人が出て来る、二人、三人。風邪ひきらしい咳をしながら、「あまた名所のあるところ――」妙な節で唄う、「やっぱり東京のほうが寒いぜ」そして倉庫の中へ入ってゆく、四人五人はいる。ごろごろと重たげに戸の滑る音がする。……向うの二階でまた女の笑い声が起こり、男がだみ声で喚く。二郎はそっと三人のところへ引返した。
「入った」二郎はこう囁く、「住居のほうに一人いる、橋本に頼むか」
「よかろう」橋本は振返る、「もう来ているだろうな」
梶原が畑のほうへ向けて懐中電燈を点滅する。闇の中からぱっぱっと点滅の答えが見える。三度、応酬が繰り返されて、間もなく人が近寄って来る、一課長と部長が二人だ。二郎は簡単に説明して、彼等を東側の角へ導く。配置のうちあわせはすぐ定る。一課長が四人の手を、順々にかたく握る。
「非常に兇暴ですから、――そのお積りで」
二郎が先頭で森口と梶原が続く。例の渇きが始まる、石段を三つ上ると戸口だ。二郎は大股に戸口を入る、暗い土間で、閉っている中戸《なかど》の隙間から光りがもれている。
「僕にまかせて呉れ」二郎が云う、「死ぬばかりが贖罪《しょくざい》じゃあないと思う」
「千田――」と森口が言った。
二郎は黙って引戸へ手を掛ける、ごろごろと鈍い音を立てて戸が明く。明るい電燈の下に、卓子を囲んでいた六人の男が振りむく。
「誰だ」肥えた口髭のある男が叫ぶ、「伊野か――あっ」
六人が総立ちになる、そのとき二郎の右手で拳銃が火を吹く、文句なしの、断平たる射撃だ、銃声が凄まじく室内に反響し、物の砕け飛ぶ音と、悲鳴が起こる。肥えた男がまず倒れ、一人は逃げようとして椅子もろとものめる。二郎は中へ入り、最後の二発を射つ。
「身動きもしちゃあいけない」彼はやや震える声で、然し静かに云う、「外は武装警官が取巻いている、今夜は容赦なしだ、へたに動くと命はない、そのままじっとしていたまえ」
×××
新聞に「九人組強盗団検挙」の記事がでかでかと出た日。東邦合成樹脂の連絡課へ、中年の洋装婦人が訪れて来た。――秘書の宮田嬢が出る、婦人は、「銀座のパリジャンからまいりましたが」と云う。
「どういう御用でございましょうか」
「千田さんと仰しゃる課長さまの御注文で、お子様服の寸法を取らせて頂きにまいったのですけれど」
「子供服のですか」俊子嬢は首を傾げる、「いま課長がちょっと出ていまして、わたくしなにも伺っておりませんのですが、――子供服といっても此処にはそういう……」
「慥かにそう仰しゃいましたわ」婦人は機嫌を損じたようだ、「たいへん忙しくて、手前共では出張は致さないのですが、ぜひというお話で特別にまいったんざんすの、お出先はおわかりにならないでしょうか」
「はあちょっと、わかり兼ねますけれど」
「それらしい子供さんはいらっしゃらないんでしょうか」婦人は部屋の中を見まわす、そこらに隠してあると思ったのかも知れない、それからつん[#「つん」に傍点]と顎をあげる、「手前共は本当に多忙なのですからね、銀座でも第一流で、決して出張はしないんざんすから、……ではいらっしゃいませんのね、ふむ、なんというこったろう、忙しいのに、ふむ」
パリジャン女史は顎を反らしたまま出てゆく。秘書は自分の机へ戻る、子供服、――なんのことだろう。ペンを取ると電話のベルが鳴る。
「ああ僕だよ」二郎の声である、「忘れていたんでね、出るとき云おうと思ったんだが、あれをさ、急いだもんでねえ、聞えるかい」
「はい、よく聞えますわ」
「君のところへ洋服屋がゆくんだ、もういった頃だと思うが、寸法を取りにね、僕の贈物だよ、遠慮はいらないからね、好きなように注文して呉れたまえ」
「有難うございますけれど、その方はいま帰りましたわ」俊子嬢は笑いだす、「たいそう怒ってお帰りになりましてよ」
「なんだってまた、どうしてさ」
「だってしようがございませんわ」俊子嬢は一言ずつはっきり云う、「わたくしに子供服は着られません」
底本:「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」新潮社
1983(昭和58)年12月25日 発行
底本の親本:「新青年」
1948(昭和23)年3月号
初出:「新青年」
1948(昭和23)年3月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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(例)何誰《どなた》
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(例)田|父子《おやこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]
-------------------------------------------------------
[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
「東邦合成樹脂の連絡課でいらっしゃいますか」
「はい、さようでございます」
「恐れいりますが課長の千田さんをお願い致します、こちらは楠田と申します」
「何誰《どなた》さまですか」秘書の宮田俊子嬢はちらと空っぽの課長席を見る、「もしもし、貴女《あなた》は何誰さまでいらっしゃいますか」
「楠田と申しますの、マクスエルの楠田と仰《おっ》しゃって下さればわかりますわ」
「少々お待ち下さいまし」秘書はすぐに了解し、顰《しか》め面をする。銀座のマクスエルという店のレジスターに可愛い娘《こ》がいて、課長が近頃ねつ[#「ねつ」に傍点]をあげているということを、――なにほどの事やあらん、秘書は手帛《ハンカチ》で鼻を掩《おお》い、作り声のバスでこう答える、「――ああ千田です、千田二郎です、何誰ですかな、ごほんごほん、なに、ええよく聞えんですがな、くすだ、はあ、……まり子さん、はて知らんね、ごほん、人違いじゃね、此の頃よくこういう電話が掛って来るが、誰かわしの名を騙《かた》って婦女を誘惑する者があるんじゃね、ごほん、先週なぞは赤坊を抱いた婦人が泣込んで来たくらいじゃ、わしはすぐに警察へゆけと教えたがね、貴女もそいつに騙《だま》されたんじゃろ、ふむ、――うむ、いやそんな精神だから色魔にひっかかるんじゃ、ごほん、きっぱりと手を切りなさい、さもないと酷《ひど》いめにあいますぞ」
扉を明けて千田二郎が入って来た。宮田秘書は慌てる、急いで会話を結ばなければならない、「――とにかくそんな訳ですから、こちらも調査をするが貴女も注意して下さい、では」受話器を措くとすぐ印字機《タイプライター》に向う。二郎は秘書の奇怪な声に吃驚《びっくり》して、立ったまま眤《じっ》とこっちを瞶《みつ》めている、秘書はキイを叩きながらにっ[#「にっ」に傍点]とあいそ笑いをし、そら咳《ぜき》をする。
「いま喉《のど》へ蝶々がとび込み、いいえ蝶々じゃございませんわ、こほん、蚊でございますわ、喉へ蚊がとび込んだんですの、こほん」
「メンソレでも塗るんだねすぐに」二郎は安心して椅子へ掛ける、「もう蚊が出るのかね、僕に電話が掛って来なかったかい」
「こほん、こほん、喉の中へ、電話はございません、メンソレは塗れませんわ、社長さまはどんな御用でしたの」
「竺葉《じくよう》で晩飯を喰べるんだってさ、今夜六時からね、おふくろも一緒だってよ」二郎は時計を見る、四時十分前である、「僕は約束があるんだ、電話が掛って来る筈なんでね、三時半頃には間違いなくって約束なんだ」
秘書は打ち終った紙を抜き、呼鈴を押し、前に打った物と重ねて揃《そろ》える、それから机の上を手早く片付け、印字機の蓋をし鍵《かぎ》を掛ける。給仕が入って来ると揃えてあった書類を渡してやり、椅子から立つ。
「ではわたくし今日はお先に帰らせて頂きます、これが金庫の鍵、こちらが仕切室《ブース》の鍵でございますから、ここへお置き致します」
そして外套《がいとう》と帽子を取る。二郎は珍しそうに眺めている、外套も帽子も流行おくれの型だし恐ろしく地味な色だ、身に着けると五つも老けてみえる、おまけに抱えた鞄《かばん》は古ぼけて黒い男持ちのような品である。二郎は我知らず自分の鼻を摘んで捻《ひね》る。
「ふむ、外套に、帽子に、鞄か、――然しあんまり外套であり帽子であり鞄であり過ぎるじゃないか、そいつは犬儒派か急進思想だよ」
「電話をお待ちになるのでしたら応接室へいらっしゃいませ」宮田嬢はこう言いながら扉を明ける、「四時限りで交換台は閉りますから、ではお先にごめんあそばせ」
二郎は応接室へ移って待つ。隣りが宿直室で時間過ぎの電話はそこだけにしか通じない、社員たちが去り、掃除婦が椅子をがたがたさせ始めた。二郎は煙草に火をつける、四時十五分、脚を組んで反る。待つのはお手のものだ、なにしろ固い約束がしてあるんだから、――然し四時四十分、彼は立って外套を着る。
午後五時、彼は人混みの数寄屋橋を渡っている。五分後、洋菓子喫茶店マクスエルの扉を明ける、レジスターは別の少女である。彼は混雑している店内を見やり、レジスターへいって訊《たず》ねる、少女は婦人客に釣銭を渡しながら「楠田さんはお休みでございます」と答える。二郎はすぐに外へ出る。どうも訳がわからない、ランデヴーというと定《きま》ってこれだ。ぼんやり銀座へ出て、尾張町の交岐点を越す、向うの街角で群衆が騒いでいる、わっと崩れたち、武装警官の走ってゆくのが見える。
「銀行ギャングだそうだ」こんな話をしながらゆく者がいる、「丸ノ内の三昌銀行で、五十万円の札束を」「拳銃をばんばん射って」「五人組だとさ」「こっちへ一人追い込んだそうだ」こんな断片が聞えた。
時間はまだ早い。彼は三原橋を渡って右へ曲る、倶楽部《クラブ》でジン・カクテルでも一杯やってゆこう、料飲停止とあれば恐らく酒は出まいから、――が樹緑ビルの酒神《バッカス》倶楽部は扉が固く閉って、誰のいるけはいもなかった。
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
六時十五分、竺葉の座敷に千田|父子《おやこ》が対座している。鰻《うなぎ》料理で名高いこの家は、戦後に建てたにしては凝った数寄屋造りで、周囲にぐるっと黒板|塀《べい》が廻してあり、庭も念入りに出来ている。――仁一郎氏は頭の毛が白い、然し眉毛と口髭《くちひげ》は黒い、二郎によく似たなかなかの好男子である。卓子《テーブル》の上にはグラスが二つ、昔なつかしい銀の大型のポットを置いて、すばらしい香気のある琥珀《こはく》色の酒を注いでは飲む。父子とも余り饒舌《しゃべ》らない、話はいわゆる「白文」で、頗《すこぶ》る飛躍的であり、まったく友達同志のようである。
「もう早くはなかろう、二郎、おまえ貰わないか、嫁をさ」
「そうだな、悪くはないが、もう二十分過ぎだよ、遅いじゃないか、おふくろは」
「遅くはないさ、おい、話をそらすな」
「僕はいいけれど、先方が災難だろう」
「それに就いてはキケロが言ってる、いやキケロといえば聞いて置きたい事があるんだが、どうも解せないんだがね、この頃、なにか有るのかい、おふくろが心配しているぜ、二郎」
「嫁だって心配するさ、貰えばね、六時半じゃないか、飯にしないかね」
「はぐらかすなよ、なにか有るんだろう」
「すぐわかるさ、大した事じゃない」二郎は暢《のん》びりと立上る、「手洗いはどっちかね」
廊下を曲っていって突当る。窓から見える街に灯が点《つ》いている、植込の女竹の葉に風がわたり、空はいちめんの星だ。――戻ってみると母親が来ている。若い着飾った日本髪の娘が母親の脇に俯向《うつむ》いて座っている。
「遅くなって御免なさいよ二郎さん、美容院で時間を取っちまったもんだから、それに車をみつけていたのでよけい暇を潰《つぶ》しちゃったのよ、これなら歩いて来ればよかったわ、ねえ」
伴《つ》れのほうへ振返る、娘は「ええ」と頷《うなず》くが顔は上げない。女中が喰べ物を運び始める、おふくろは独りで饒舌る、仁一郎氏はさっそく箸《はし》を取り、二郎はまだグラスを放さない、時どきじろっと親父の顔を見る、――へんな真似をするなよと云いたい訳だ、親父はそ知らぬ顔で鰻をつついている。おふくろは娘に喰べ物を勧めながら、近頃の美容師が日本髪を結う恰好はうどん屋が棹《さお》へうどんを干すようだ、などわからないことを云っている。
「なんだ、――」二郎がとつぜん眼を瞠《みは》る、「どこかで見たようだと思った、君かい」
娘が顔をあげる、宮田俊子嬢である。
「君かいって、二郎さん」母親が吃驚してこちらを見る、「貴方《あなた》いままで気がつかなかったんですか」
親父が失笑《ふきだ》した。俊子嬢も赤くなって笑う、おふくろは最後に、――二郎の戸惑いをした眼つきを見て笑いだす。「まさか今まで気がつかないなんて」こう云って笑う、それから俊子嬢を見て云う、「だから貴女も少しはお洒落《しゃれ》をなさらなければだめですよ、このとおりすぐに証拠が、――」二郎はグラスを措いて鰻の皿をひき寄せる。
不意に障子が明いて若い男が入って来た。黒いジャンパーに護謨《ゴム》の短靴を穿《は》いている、その靴のまま部屋へ入って後ろ手に障子を閉め、右手の拳銃を見せながら、「静かにしろ」と云う、凄《すご》いほど蒼《あお》ざめた顔で、左の頬に泥混りの乾いた血が付いている。肩で苦しそうに息をしながら、仁一郎氏の後ろを廻って、半間の戸納《とだな》の開きを明ける、
「話を続けろ、動いたり、おれのいることを教えたりするとぶっ放す、来るまでに三人もばらしているんだ、いいか」
男は中へ入って開きを閉める。ぶすっと音がして襖《ふすま》へ穴が明く、「ここから見ているぞ、話を続けろ」そして喘《あえ》ぐ。――仁一郎氏は息子を見る、おふくろはまっ蒼《さお》になり、箸を持つ手がひどく戦《おのの》いている、俊子嬢の額も白くなった、二郎は畳の上を眺める。
「おい君、畳に靴の跡があるぜ、どうする」
「拭いて呉《く》れ」戸納の中からだ、「但し変なまねをするとそれっきりだぞ、他の者は動くな、早くしろ」
二郎は立つ、俊子嬢が手帛《ハンカチ》を出す、それを受取って、彼は畳の上を拭く、障子を明けて、廊下も拾い拾い拭く、庭からすぐに来たものである、――済ませて障子を閉めると、庭のほうへ人がどやどや走って来た。
「蚊取線香を買わなくちゃいけないな」二郎が箸を持ちながら云う、「父さん、窓へ網戸を入れるんですね、今年は、でないと」
「どこの話だいそれは、まだ三月だぜ」
「事務所ですよ、喉へとび込んだから、社員が、みんな変挺《へんてこ》な声になっちまう、本当ですぜ、僕は吃驚しちゃった」
「丸ビルの三階に蚊が出るかね、そんな話は聞いたこともないぜ」
宮田君が知ってますよ、こう云おうとしたとき廊下へ人が上って来た。「失礼します」とう云って障子を明けた、私服と武装警官が六七人いる、部長の腕章を付けた人がすばやく室内を見まわした。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
「いや誰も来ません」二郎が答えた、「さっきから四人で食事をしていますが、――なにか間違いでもあったんですか」
「慥《たし》かにこの庭へ追込んだんですが、拳銃を持った兇暴な奴なんで、おかしいなあ」
二郎は上衣の裏を返して見せ、※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《めまぜ》をした。部長は緋色のバッジを見、彼の眼配せを認めた。二郎は笑いもせずに箸を置く。
「ほかをお捜しになったらどうです、もし此方へ来たら知らせますよ」
「それではお願いします」部長は睨《にら》むような眼をした、「然したいへん兇暴な奴ですから注意して下さい、お邪魔しました」
彼等は庭へ去った。二郎が饒舌りだす、仁一郎氏だけはさすがに落着いたが、母親も俊子嬢もまだ恐怖のために身動きもできない。二郎は母親の前にある風呂敷包を解いた、重箱で、中には握飯が入っている、「出て来たまえ」と戸納の男へ呼びかける。
「腹が減ってるんだろう、もう大丈夫だ、出て来て飯を食いたまえ、心配はないぜ」
開きを明けて、拳銃を持ったまま男が出て来る。野獣のような眼だ、震えている。二郎は皿の上へ鰻を集め、握飯を三つ載せて出してやる。男は明けたままの開きの前まで、後ろ退りに戻って座り、片手でがつがつ喰べ始める。
「此方《こっち》を見るな、話を続けろ」
「女たちを帰したいんだがね」仁一郎氏が云う、「怖がっていて可哀そうだが、どうだね」
「うるせえ、じっとしてろ、動くとぶっ放すぞ」
「茶を貰おうか」二郎が訊《き》く、「それとも気付けにブランデイをやるか、あるぜ」
「此方を見るな、自分たちだけで話してろ、欲しけれあ自分で取る、――断わっておくが詰らねえ真似をするなよ、九人組の強盗団というのを、新聞で読んでるだろう、そこいらのちんぴらとは違うんだ、話を続けろ」
二郎はまた饒舌りだす。仁一郎氏は煙草に火を点け、おふくろと俊子嬢もようやくまた箸を手にした。間もなく廊下へ足音が聞えた、男は皿を突返し、すばやく戸納へ入って開きを閉める。障子を明けたのは茶を持って来た女中である。
「なんだい今の騒ぎは」
「どうも相済みません、なんですか銀行ギャングが逃込んだとか申しますの、――横の木戸から入るのを見た人があったんだそうですけれど」
「怖いことね」おふくろの声は顫《ふる》える、「それでまだ捜しているんですか」
「いいえ今しがたみんな帰りました」
「車を呼んで呉れないか」二郎が云う、「僕と親父だけ先に帰るからね」
承知しましたと云って女中が去る。
「出て来たまえ君」二郎が呼ぶ、「服を変えて一緒に出よう、こんな処にいたってきりがないぜ」
男が出て来る。二郎は父親の外套と帽子を指さしてやる、「おれはどうするんだ」仁一郎氏が不平をもらす、男は拳銃を持ち替えながらすばやく外套を着、帽子を冠る、それから靴を脱いでジャンパーの懐中《ふところ》へ入れる。足が震え、眼がつり上っている、最も危険な瞬間だ。「すぐ車を返しますから、父さんの外套と靴はそれで取りにやって下さい」二郎は気分をそらすために態《わざ》とさりげなく言う、「宮田君、その握飯と鰻の余ったのをお重へ入れて呉れないか、――風呂敷へ包んでね」それから自分も外套を着る。
午後七時十五分、二郎と男を乗せた自動車が竺葉を出る。「千住駅まで」男が命ずる、「八百円やる」
運転手はいい顔をしない、男は二百円増す、車は廻って循環道路へ出る。二郎の左の脇腹には固い物が当てられている、男は頻《しき》りに胴震いをし、口の中でなにか呟《つぶや》く。江戸橋の袂《たもと》でカーブを切った、反動で二郎の躰が男へのめりかかった。そのとき二郎は左の手で例の物を下へ押しつけ、右手で男の顔を殴った、ま正面から、眼と眼との間へ、正確を極めた直打《ストレイト》である。外套の下でぶすっと拳銃が鳴った、然し二郎の拳は猛烈な勢いで二撃三撃、男は眼が眩《くら》み、悲鳴をあげて顔をそむけた。――二郎は落ちた拳銃を拾う、男は鼻血を流し、傷ついた犬のように頭を振る、
「眼が見えねえ、畜生、殺せ――」
「大げさなことを言うなよ」二郎は男の両腕を後ろへ廻し、それを絞るように抱え込む、「――運転手君、済まないが丸ビルへやって呉れないか、千住はもういいよ」
「おどかさないで下さいよ、どうしたんです、喧嘩《けんか》ですか」
「酒癖の悪い奴なんでね、酔うと暴れるんだ、然しもう大丈夫だよ、――じっとしているほうがいいぜ、君、こんどは本当に眼を潰すよ」
七時四十分。二郎は男を伴れて丸ビルの階段を登っている、男は手帛で鼻を押え、眼をつぶったままに曳《ひ》かれてゆく、眼は両方とも紫色に腫《は》れ塞《ふさ》がり、絶えず涙が流れる。――三階の事務室。宿直の社員が吃驚して立つ。
「いやなんでもない、友達が酔ってね」
「けがでもなすったんですか」こう云ってすぐ思いだしたらしい、「ああ三度ばかりお電話がありました、梶原さんという方からですが」
二郎は連絡課の仕切室《ブース》の鍵を出す。中へ入ると、男を窓際の長椅子に掛けさせ、扉に鍵をおろして宿直室へ戻った。
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
「梶原から三度も電話だって」二郎は救急箱を取出しながら訊く、「伝言はなかったかね」
「お邸のほうへも掛けたんだそうです、ここに番号が書いてありますが、みえたらすぐ電話を欲しいということでした」
二郎は洗面所へゆく、タウェルを水で絞り、仕切室へ入る、「じっとしていたまえ、いま手当てをしてやる」彼は血を拭いてやり、救急箱を明ける、「ひとつ悠くり話をしよう、殴ったりなんかして失礼したね、しみ[#「しみ」に傍点]るかも知れないが、ちょっと辛抱したまえ」薬を塗ると男はするどく咆《ほ》え、頭を反らした。
「よして呉れ、気障《きざ》なまねはたくさんだ、片をつけろ、仲間がこの礼はして呉れる、そのとき、ああっ」男は凄まじく咆え、顔をそむける、「ああっ、眼が潰れちまう、やめて呉れ」
両眼から頭へ包帯を巻く。「安静に頼むよ、さもないと本当に盲人《めくら》になるからね、いいかい、僕はちょっと飯を食って来る」二郎は扉に鍵を掛けて出る。洗面所で顔を洗い、宿直室へいってお重を開く、彼は竺葉では食事をしなかったのである、「――その番号を呼出して呉れたまえ」鰻はもちろん冷たかった。
電話は間もなく通じた。梶原が出ている、だが毎《いつ》もの貴族的な調子はなくて、力のないひどくせかせかした言葉つきだった。
「いま築地の聖ヨセフ病院にいるんだ、来られたらすぐ来て呉れないか、沼井が怪我をしてね」
「沼井が、――よほど重いのかい」
「まだはっきりしないが、事に依るといけないかも知れない、みんな来ているんだ」
「問題は車だが、然し、いやすぐゆくよ」
二郎は食事を片づけ、宿直の社員に仕切室《ブース》の監視を頼んだ。もう五十に近いその社員は、拳銃を渡されたとき生唾をのみ頬の筋を痙攣《ひきつ》らせた、「眼が見えないんだから大丈夫なにもしやあしないよ、時どき部屋の前で靴音をさせればいいんだ」然し万一のときは射ってもいいから逃がさないようにと言って、二郎は事務所をとび出した。――有楽町まで走り、そこで車を拾った。病院では受付のところに橋本五郎が待っていた、横浜の夜以来はじめて会うのである、握手をすると彼は「二階だ」と云って案内した。
磨いたように清潔な廊下を、二階へ登って曲ると、ついそこの扉の外に森口乙彦が立っていた。彼は二郎の手を握ると、そのまま廊下の端にある喫煙室へ伴れていった。電燈が明るいので雪白の椅子|掩《おお》いが眩《まぶ》しい、森口は煙草を出す。
「拳銃で射たれたんだ、一発は腹から脇へ貫けたが、一発は脊椎《せきつい》骨で止っている」森口はライターを点ける、「剔出《てきしゅつ》のため開腹したんだがいけなかった、心臓もひどく弱ってるらしい、いまちょっと眠ってるが」
「然しどうして、どこで射たれたんだ」
「丸ノ内の三昌銀行で強盗事件があった、五人組が自動車で乗着け、金庫を明けさせて八十万円強奪した、給仕の一人がうまく脱け出して、近くの日比谷署へ知らせたので、彼等が銀行から出るとたんに警官たちが駆けつけた、射ち合になり三人は車で逃げ、一人は捕えられ、一人は銀座方面へ逃走した、――沼井は偶然その近くを歩いていた、映画を観た帰りだそうだ、人の騒ぎと、拳銃の音を聞いて走っていった、すると向うから毬《まり》のようにとんで来る奴がある、無帽で、黒いジャンパーを着ていたそうだ、そいつがいきなり」こう云って、森口は持っている煙草の火をじっと見た、「……沼井はまだなにもしないし、なにを云いもしなかった、それをいきなり二発やった、沼井は射たれたとは思わず、なにかに躓《つまず》いて倒れたと思ったそうだ、すぐ起き上りながら見るとその男は有楽町のガードのほうへ走ってゆく、沼井はもがいたが足が立たない、そこへ警官が追って来たので、逃げていった方向を指で教えた、――そして気絶した」
銀座の街角で騒いでいた群衆、通行人の話していた「銀行ギャング」という言葉、――二郎がそれを眺めながら歩いていた数分前に沼井は兇弾を浴びて路上に倒れていたのだ。……無帽で黒ジャンパーの男、竺葉の座敷。
「九人組の強盗団というのは有名かね」二郎がこんどは煙草を出す、「ライターってやつは壊れるように拵《こしら》えてあるんだな」
「去年の春ころからだね」森口が自分のライターを点けて出す、「銀行専門にあらしていたが、最近ちょっと鳴りをひそめているようだ」
「今日のはそれとは違うのかね」
「さっき一課の部長が見舞いに来て云っていたが、違うらしいね、彼等はこれまで必ず九人で組んで仕事をした、今日のは五人だからね、――捉まえた一人を調べてるが、今のところ九人組とは別のものらしいということだった」
廊下に靴音がして、梶原宗助が扉口から覗《のぞ》いた、彼は二郎に軽く目礼すると、「来ないか」と低い声で云った。三人はすぐ喫煙室を出た。――二人の看護婦と入れ違いに病室へ入る、鉛色になった沼井の顔が、ぞっとするほど大きく眼を瞠ってこっちを見ている、二郎は暢びりと片手を挙げながら、枕|許《もと》へ近寄っていった。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
「ああ千田、君か」沼井裕作は頷いて歯を見せる、「どうした、ランデヴーは、うまくいったか」
「それがね、こんどは待ち呆《ぼう》けさ、こっちがね、――鰻を喰べちゃったよ」
「鰻をどうしたって」沼井はぎゅっと眉をしかめる、「相変らず、妙なことを云うな」
「妙なことはないさ、少なくとも鰻には妙なことはないんだ、まごついたのは、寧《むし》ろ」二郎はちょっと口籠《くちごも》る、「あれだよ、珍しい偶然なんだろうがね、いきなり云ったんでは信用できないだろうが、――君は、鰻は嫌いかい」
「頼むから、いまおれを笑わせないで呉れ」沼井は歯をくいしばる、「放っといて呉れ」
二郎は頷く、そして静かに後ろへ退る。沼井は頭を揺り、ちょっと三人の顔を見る、然しすぐに低く呻《うめ》きながら眼を閉じる。鉛色の額に膏汗《あぶらあせ》が浮いて、垂れた髪毛が粘り付いている。ふと沼井が大きく喘ぐ、そしてこう呟く。
「W……間索……O《オーバー》……7」頭がぐらっと片方へ傾《かし》ぐ、「さっぱりと、いこう」
三人の表情が石のように硬くなる、室内を颯《さっ》と風がはしったようだ、二郎は頭を垂れ、静かに病室から出る、梶原がついて来た。
「医者は絶望だとはまだ言わない、よくわからないが問題は心臓らしい、――腹膜の炎症の昂進が停ったら、もういちど弾丸の剔出をやるそうだ、出来るだけの手は尽すと云っている」
廊下はほの暗く、寒い、二郎は外套の釦《ボタン》をかける。
「僕は帰らなくちゃならない、一緒にいたいんだがね」彼は帽子を冠る、「ふしぎな偶然で、黒ジャンパーの男を捉まえた、訳はあとで話すが、事務所に押籠《おしこ》めてある、沼井を射った奴なんだ」
「君がそいつを、捉まえたって――」
「九人組の強盗団だって威張っていた、それで警官に渡さないで、僕が貰ったんだ」二郎は階段のほうへ歩きだす、「彼等の本拠を知りたいと思ってね、――だが沼井を射った男とは知らなかった」
「容易なことじゃないぜ、やつらはその点ばかげて口が固いからな、然し、――それじゃあずっと社にいるんだね」
「帰りにちょっと警視庁へ寄るが、それからはずっといる、変った事があったら」こう言いかけて二郎は梶原の手を握る、「頼むよ」
外へ出ると膚を切るような風だった。彼は外套の衿《えり》を立て、帽子の前をひき下げた、夜眼にも白く道から埃《ほこり》が舞立っていた。
待たせて置いた車で警視庁へゆく。捜査一課で三十分ほど話して出る。風は依然として強い、十一時五分前に事務所へ帰る、そしてすぐに男を休養室へ移す、――社内に急病人などが出たとき休ませる室だ、窓は金網入り硝子《ガラス》、寝台の他に脇卓子と椅子、狭いのにがらんとした感じで暗い。そこは事務室の西の端に当り、元来は物置場であった、窓の外は非常|梯子《ばしご》になっている。……二郎は男を寝台に掛けさせ、自分は椅子をひき寄せた。
「君は大乃木太市という名を知ってるね」彼はこう口を切った、「彼はいま警視庁に捉まっているんだがね、――然し僕はいま別のことを話したいんだ、聞いて呉れるかい」
明くる朝の七時。二郎は寝不足の眼をして出て来る。応接室から食堂へ電話を掛け、朝食の弁当を取寄せる。届けて来ると、丼《どんぶり》と茶道具とそれを載せた盆をきれいに拭き、手で持って休養室へ持ってゆく。――男は(既に包帯をとって)寝台に寝そべっている。
「飯を喰べたまえ、そして眠るんだね」彼は弁当を脇卓子の上へ置く、「――断わって置くが逃げるなんてことは考えないほうがいいぜ、僕が大乃木太市のことを警視庁で聞いて来た、それだけで説明は充分だろう、またあとで来る、そしてもっと仲良く話をしよう」
午前十一時、二郎は車を聖ヨセフ病院へ乗着ける、梶原と橋本は寝ていた。森口乙彦と喫煙室で十分ばかり話す、沼井はまだ危険状態を脱しない、然し心臓の調子がよくなり、腹膜の炎症の昂進が停ったという。羅漢さんの眼も腫れぼったいが、顔にはやや明るさが出ている。二郎は帽子を持ったまま自分のほうの経過を話す。
「警視庁に捉まっている奴は大乃木太市といって、強盗の前科がある、当人は絶対無言の行《ぎょう》でなんにも云わないが、指紋台帳でわかったんだそうだ、――おれのは懇談を始めたばかりさ、躰当りだ」
「事務所なんぞに置いては危ないな、専門家に任せたほうがいいじゃないか」
「それも悪くはないが、懐中《ふところ》へはいって来た鳥だからね」二郎は椅子から立つ、「それに、沼井の事があるからね、こいつだけは自分の手でやってみたいんだよ、――じゃあ」
帰る途中、二郎は銀座で車を下りる。なんの積りもない、ぼんやり歩きたかったのだが、ふと思いついて横町へ曲る。他の店と同じように「マクスエル」も婦人客が四五人いるだけで閑散だ。扉を明けて二郎が入ると、レジスターの少女が突然つん[#「つん」に傍点]とそっぽを向く、楠田まり子嬢である。彼はちょっと戸惑いをする、呼びかけようとして、だが不決断に奥へゆき、椅子に掛けて珈琲《コーヒー》を命じた。
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
二郎は珈琲を三杯のんだ。楠田嬢は全然こっちを見ない、つん[#「つん」に傍点]と鼻を反らして往来を眺め、指でカウンターを叩いている。「そうしたら驚くじゃないの」婦人客の一人が能弁に話している、「あの人ズロースを穿《は》いていないのよ、シュアー、幾らなんだって」「そういう人なんだがん[#「がん」に傍点]ちゃんていう人は、それでどうして」「どうしてったって――」二郎は伝票を持って立つ。まり子嬢はえへんと咳をする。
「昨日はどうしたの」伝票を出しながら彼が訊く、「ずいぶん待ったんだぜ、電話を」
「お珈琲三杯でございますね、六十円頂きます」
「急用でもあったのかい、僕は四時四十分まで待って、それから此処へも来たんだよ」
まり子嬢は邪険に出納器を鳴らし、断子《だんこ》としてそっぽを向き、つん[#「つん」に傍点]として釣を出す。
「四十円のお返しでございます、――余計なことですけれど、わたくしなんぞより赤ちゃんのある御婦人を大事になすったら宜しいでしょ、えへん」
「赤ちゃんのある御婦人だって、――へえ、なんのことだいそれは」
「人間は偶には自分の居間を硝子窓の外から覗いて見るものだと、ステファヌ・マラルメが申しておりますね、えへん、色魔なんて、女性が解放され自覚した現在ではアナクロニィズムだわ、これでわからなかったら合成樹脂の連絡課へお訊きになったらいいでしょ、課長の千田二郎さんが精《くわ》しく説明して下さいますわ」
客が入って来る。奥から婦人客たちが(まだがん[#「がん」に傍点]ちゃんの話をしながら)立って来る。次に入って来た客が菓子の飾棚《ケース》を覗く。二郎はしぜん後ろへ退る。まり子嬢はあいそよく婦人客の勘定を受取り、別の客の質問に答える、――二郎は不決断に外へ出る。なんだか訳がわからない、不味《まず》い珈琲だ。それに女というものはなんと、いやてんで訳がわからない。たぶん急にヒステリイでも起こしたんだろう、おまけに罪もないマラルメなんか引合に出して。――十二時二十分、彼は工業倶楽部の地下室へ食事をしに入った。
午後一時十五分、二郎は社へ帰る。仕切室《ブース》では宮田嬢が忙しそうに仕事をしている。昼食の休みに買って来たのだろう、彼の机の上に花が挿《さ》してある。外套と帽子を脱ぎ、届いている弁当の盆を持って出る、宮田嬢が眼尻で見ているのを無視しながら、――休養室では男が高鼾《たかいびき》で寝ている。二郎は持って来たのを脇卓子の上に置き、眠っている男の容子を暫《しばら》く眺めた。眼はまだ両方とも紫色に腫れているが、手足を投出し顔を傾《かし》げて、たいへんよく熟睡している。二郎はそれと離れる、そして今朝喰べた弁当の載っている盆を、手帛で持って廊下へ出、扉に鍵を掛ける。……仕切室《ブース》へ戻って、空の弁当箱や湯呑や盆を汚さないように包む。
「あの男をどうなさいますの」宮田嬢がペンを動かしながらこっちを見ずに言う、「なんのためにあんな人を此処へお置きになりますの」
「服を新調するんだね」二郎は包んだ物を抱える、「君は若くて、吃驚したぜ、縹緻《きりょう》よしじゃないか、ゆうべ初めてだが、おふくろもそう云っただろう、少しはお洒落もしなくちゃね、本当だぜ、すぐ帰って来る」
彼は車で警視庁へゆく。捜査一課で昨夜の部長に会い、包んで来た物を渡す。部長は包を明け、手でそっと盆を取る。
「前によく拭いてあるんですな、ほう、ではたぶん採れるでしょう、お待ちになりますか」
「待たせて貰います、急ぎますから」
「自動車がみつかりましたよ」部長はそれらの物を鑑識課へ持ってゆくように命じ、椅子へ戻りながらこう云う、「今朝早く池袋駅近くの焼跡に乗捨ててあったのです、ええ例の三人の乗って逃げた車ですよ、番号で調べると三河島の共栄商会という店の所有で、昨日の午前四時頃にガレージから盗まれたものだそうです」
三河島という地名が二郎の耳に強く響く。昨夜あの男は、「千住駅へゆけ」と運転手に云った、千住と三河島、方向は同じだ。――部長は更に大乃木太市が相変らず口をきかないこと、三人の足取りがまだ不明なことなどを告げる。二郎はじっと聞いている、「アナクロニィズム」という言葉がふと頭にうかぶ、無連絡だがひどく可笑《おか》しい、それで咳をして煙草を取出す。……四十分後。鑑識課の者が報告に来る。指紋は検出されたけれども、台帳には該当するものがない、前科はないようだ、二郎は礼を言って立った。
持ち帰った物を食堂へ返し、三階へ上るとすぐ社長室へいった。「今夜も此処へ泊ります」と断わる、仁一郎はふきげんに息子を見る。こちらはさあらぬ顔で、「一本頂きます」と、壁際の戸納を明けて酒壜を取出す。そして仁一郎氏のやや烈しい咳ばらいを聞きながして廊下へ出る。――仕切室《ブース》でも彼を迎える秘書の眼は温かくない、外套と帽子と酒壜を置き、話しかけられないようにすばやく脱出する。休養室では男は、寝台に腰掛けて、両手で眼を押えていた。飯は喰べてある。
「いい加減にどっちか片をつけて呉れ」男は脇を見ながら云う、「どう間違えたって仲間の居どころなんど云やあしねえ、無駄なまねは止したほうがいいぜ」
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
「君は昨夜からそれを言い続けている」二郎は平然と呟く、「仲間の義理、……なるほどね、君は慥《たし》かにそれを守るだろう、だが君に対して仲間が、同じようにその義理を守るかね」
「おまえさん達にあ、ふっ――」男は嘲《あざけ》るように唇を歪《ゆが》める、「まるっきり別の世界さ」
「そうかも知れない、僕には君たちの仲間に友達がないからね、……だが、それでもやっぱり信じ兼ねるんだ、殺人強盗、人を殺し物を盗む人間が、――仲間の義理に限って、固く守る、……事実なら見たいもんだ」二郎は悠《ゆっ》くり煙草を出し、点かないライターを頻《しき》りに擦る、「ところで、君には前科がない、年も恐らく二十四か五だろう、こんな仲間に入ったのもそう古いことじゃない、だが他の者は常習者だ、職業的犯罪者だと云ってもいいだろう、……そういう仲間が、自分を犠牲にして君に対する義理を守る?――奇蹟だ」
「それが誘導訊問ってやつかい」男は乾いた笑い声をあげる、「はっは、笑わしちゃあいけねえ」
「いや遠慮なく笑いたまえ、大乃木太市君などはたいへん元気に笑ったよ」ようやく煙草に火が点く、二郎は悠くり二三度ふかして、いともさりげなく呟く、「――君とはまるで違うね、……大きな差だよ」
「大乃木がどうしたっていうんだ」
男の眼が鈍く光る。二郎は静かに立つ。煙草を手に持って、赤い火をじっと瞶《みつ》める。
「いやなんでもない、……彼はどうもしやしないよ」二郎は扉口のほうへゆく、「晩飯のあとでまた来る、一杯やろうかね」
扉へ手を掛けたとき、男が後ろから跳びついた。両手で二郎の首へ掴みかかり、死にもの狂いに絞めあげる。二郎は下半身を前へ滑らせる、男の獣のような暴い呼吸が耳をうつ、二人の躯《からだ》が傾き、煙草の火が男の顔でぱっと光る、「熱《あつ》ッ」という叫びと共に、組んだまま脇卓子を押倒し寝台へのめる、そのとき条件が逆になる、二郎の拳の片方が男の腹へ片方が眼と眼の間へとぶ、男は悲鳴をあげながら身を捻《ひね》る、だが二郎はその衿を掴み、真正面から直打《ストレイト》で鼻柱を殴る、がんがんと容赦なしの、思い切って痛烈な打撃である、男は両腕で面を塞ぎ、呻き叫びながら床の上へ倒れたが、二郎はそれをひき起こし、顎《あご》をめがけて更に猛烈な一撃をくれた。――男ははね飛ばされるように横倒しとなり、「痛え、眼が見えねえ、悪かった、やめて呉れ」こう喚きながら転げまわった。……二郎は暢《のん》びりとネクタイを直し、ズボンをはたきながら廊下へ出る、なにか向うへ大きな声で命じていたが、間もなく救急箱を持って戻り、男を援け起こして、椅子へ掛けさせる。
「今夜いっしょに美味《うま》いブランデイをやろうと思ったのに」こう云いながら二郎は脱脂綿へオキシフルを浸《し》ませる、「これじゃあ君は飲めやしない、手を放したまえ、こんどは僕のせいじゃあないぜ、眼が潰れたって、そう断わってあるんだからな、もっと上を向くんだ」
再び腫れ塞がった眼と、鼻とから血が流れている、唇も切れている。脱脂綿を当てると男は声を震わせて呻き、身を捻る。
「君は三昌銀行から逃げるとき、有楽町駅へ曲るところで一人の男を射った」二郎は手当てを続ける、「一発は脇腹へぬけたが、一発は腹から入って背骨で止っている、……腹部の盲貫銃創は、有ゆる苦痛の中で最もひどいものだ、――その男はいま激烈な苦痛にさいなまれながら、病院のベッドで死とたたかっている、……膏汗をたらしながらね、だが君のように音はあげないぜ、少しは我慢したまえ」
男の全身が硬直した。腫れあがった唇が垂れて歯が見えた。二郎はガーゼへ軟膏を塗り、男の顔の上半へ当てる、それから新しい包帯を出して巻きながら、暢びりした調子で続ける。
「ゆうべ君は、色いろ熱をあげたね、罪は社会にある、政治や経済が責任を負うべきだ、うん、慥かに理屈だ、――然し僕はやはり賛成しないね、君と君の仲間には賛成できないよ、頭をこっちへ向けたまえ、……君は軍閥に騙《だま》されて戦争へ狩出されたと云った、戦場で兄さんを殺され、お母さんと妹を戦災で殺されたと云った、――絶望し棄鉢になるのは当然かも知れない、だがそれならなぜ当の相手をやらないんだ、……君を騙して戦争へ狩出し、母や兄や妹を殺した、曽ての軍閥や官僚になぜ向わないんだ、――君たち仲間が殺したり強奪したりする相手は、君と同じように軍閥官僚の犠牲になった人たちだぜ、君と同じように兄弟を戦死させ、良人《おっと》を父を我が子を死なせた人たちだぜ、……嘘だよ、君の言うことは嘘っぱちさ、そんなことを云って自分の悪事をごまかそうとするのさ、君はお母さんも兄さんも妹も死なせやしない、みんな口から出まかせさ」
「本当です嘘じゃありません」男は歯をくいしばった、「本当に兄は、兄は、――」
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
「さあ終った」二郎は相手の言葉に耳もかさず、立上りながら悠くりと続ける、「煙草の火が眼へゆかなかったのは仕合せだったね、僕は眼を覘《ねら》ったんだがね、うん、――煙草でした火傷《やけど》は痛いそうだ、然し頬ぺただからまあ我慢するんだな、ちょっと手足を借りるぜ」
二郎は男の両手を後ろへ廻して、包帯できりきり椅子の背へ縛る。それから両足をそれぞれ椅子の脚へ、――男はもう反抗する容子がない、ひどく思い詰めるもののように、頭を垂れ、歯をくいしばって、されるままになっている。
「晩飯はおそくなるかも知れない、それまで悠くり考えるんだね、君や君の仲間が、射ち殺し奪い取った人たちのことを、それが大なり小なり君と同様に戦争の被害者だということをね、……大多数の同胞が、住む家に苦しみ着る物に苦しみ、喰べる物に苦しんでいる、八方塞がりの苦しい中から、どうかして立直ろうと悪戦苦闘しているんだよ、――そういう同胞を、君たちは、拳銃で射ち殺し、重傷を負わせ、物を奪ってゆくんだ、……考えてみたまえ、お母さんや兄さんや妹さんを、戦争で殺されたというのが本当なら、考えてみたまえ」
二郎は脇卓子を起こし、その上に救急箱を置いて出ていった。――両眼を塞がれ、椅子に縛り付けられている男にとって、経ってゆく時間がどんなにながく、いかに退屈で苦しいかは想像以上であろう。初めのうち男はひどく考えこむようだった、彼等の頭脳は一般に単純で、――刺戟《しげき》に対する条件反応は極端に傾き易い、ある時は過敏にはたらき別の時は遅鈍に過ぎる、然もどちらも長続きがしない。男は二郎の言葉につよく動かされたようだ、それは或る時間、肉躰的な束縛の苦痛をさえ忘れさせたようにみえる、その思考をもう少し続けることができれば、彼の自覚は多少なりとも変らずにはいないだろう、然しそれは間もなく中断される、精神的|欠伸《あくび》が起こり、思惟はばらばらに崩れる、そして肉躰的な苦痛が彼の全部を捕える。……室内が暗くなり、遠い事務室の物音や人声がしだいに少なく低くなってゆく、だが二郎はまだ現われない。
たぶんもう七時か八時にはなるだろう、男は頭を反らせて椅子の背に凭《もた》れ、なにか口の中でぶつぶつ独り言を言っている。然しふと頭をあげる、足音が聞えるようだ、「やっと来やがった」こう呟く。だがその足音は廊下ではなく、窓の外から聞えて来るらしい、建物ぜんたいが森閑としているので、それが下から上へ登って来るのだということがわかる。
「非常梯子だな、――ちぇっ、夜番か」
男は舌打をする。足音はこの階へ達する、そしてこの部屋の外へ近づく。なんだ、突然がっ[#「がっ」に傍点]と窓硝子が破られる、がしゃん、がしゃんと叩き破る、金網入りなので一遍にはいかない。男は愕然《がくぜん》と硬直する。――がしゃん、硝子の破片が床で音を立てる。
「あっ此処だ」外で低く囁《ささや》く、「そこにいる」
男は身を震わす、「仲間だ」助けに来て呉れた。彼は叫ぼうとする、だがそれより早く破《わ》れた窓硝子の穴から拳銃を持った手が現われ、消音器《サイレンサー》を付けた鈍い音が起こる、暗い室内に閃光《せんこう》がとび、銃声が壁をうつ。
「おれだ、待って呉れ」男は絶叫する、「早川大吉だ、饒舌りあしねえ、射たねえで呉れ」
だが射撃は続く、壁へ、寝台の枠《わく》へ、弾丸がぶすぶす刺さる、男は悲鳴をあげ、椅子といっしょにがっと横倒しになる。
銃声が止む。倒れた男は呻く。――窓の外でひゅっと口笛が鳴る。なにか囁く声がする、そして足音が窓から離れる。……男の呻き声を縫って、かたかたかたとなにかが床を打つ細かい音が起こる、男の躯が激しく戦慄《せんりつ》するので、椅子の脚が床に触れるのだ。呻き声は弱まり、強く波をうち、長くひき伸ばされる、「畜生、あいつら」こんな呟きが聞える。
千田二郎が事務所へ帰ったのは午後八時十分である。宿直の社員が彼を見て呼止める、さっきから二度も電話だったと云う。「森口さんと仰しゃいました」こう聞いて二郎は息を詰める、すぐに電話器を取って聖ヨセフ病院へ掛ける。橋本五郎が出た。
「急に容体が変った、どうもいけないらしい、梶原がいないんだ、すぐ来て呉れ」
二郎は廊下へ出る。そこに停って、右手で外套のポケットを叩く。「ここで間を与えてはまずい」とう呟く、「どうしよう、――」そして不決断に歩きだす。二歩、三歩。こんどは急に大股《おおまた》になる、「そうだ、伴れてゆこう」二郎は休養室の扉を明ける。
「ああ点けないで、電燈を点けないで下さい」低く押しころした声が床の上から起こる、「今あいつらが来たんです、私は殺されます」
「誰がどうしたって、――なんだ、君は転げているんだな」
「そんな声を立てないで下さい、お願いです、私をそっと向うへ伴れていって下さい、あいつらは私を殺しに来たんです、――ああその窓から、拳銃で、……静かにして下さい」
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
二郎は毀《こわ》れている窓硝子を見る。肩をすくめる、それから男の手足を解き放し、腕を取って援け起こす。男の足は痺《しび》れてすぐには立てない、彼は二郎の腕へ縋《すが》りついて離れない。
「お願いです、早く向うへ伴れていって下さい」
「騒ぐことはない」二郎は廊下へ伴れ出す、「僕の側にいるあいだは安心したまえ、――だが、訳がわからない、誰がどうして君を……」
足探りに歩きながら、男はがくがくとひどく震える。
「あいつらです、私がなにか、饒舌ると思ったんです、それで殺しに来たんです」
「気をつけたまえ、階段だ」二郎は腕を抱えてやる、「あいつらとは、――然し、まさかね、だって仲間じゃないか、また階段だよ、……それに君が此処にいることをどうして知ったんだ」
「でもその他にあるでしょうか、いいえわかってます、畜生、――あのけだもの」
下りきると裏口へ出た。
「外へ出るんですか」男は身をもがいた、「厭《いや》です、あいつらはまだ張ってるに違いありません、私ばかりじゃない貴方も」
「僕が付いてる、車だ、乗りたまえ」
力任せに男を乗せる。車は走りだす、男は小さく身を縮め、怯《おび》えた小犬のように震えている。どんなにひどい衝撃《ショック》だったろう、絶えず口の中で独り言を言う、「にこ[#「にこ」に傍点]の奴だ、きっと、そんな声だった、……畜生、みていろ」車は橋を渡る。男はくいと顔をあげる。
「私は、私は云います、――」
「待ちたまえ」二郎は冷やかに遮《さえぎ》る、「僕は今それどころじゃない」
「でも貴方は云ったでしょう、私に」
二郎は手を振り、そっぽを向く。男は両手を握り合せ、なにかを絞るように揉《も》む、汗の音がする。「急いで呉れ」二郎は二度も運転手に叫ぶ。車は大きく曲り、広い道へ出て速度をあげる。――病院へ着くと、森口が受付のところに待っている、彼はけげんそうに同伴者を見る。二郎はその眼に頷きながら、「どうだ」と訊く。
「うん、やっぱり」羅漢さんの眼は暗い、「今夜いっぱいどうかって、――梶原は来た」
男の腕を抱えて階段を登る、男の全身をまだ間歇的に戦慄が走る。疑惑と危惧《きぐ》が彼を圧倒し、新たな恐怖で息苦しくなる。……病室へ着く、扉を明ける。梶原と橋本が振返る、――沼井は口をあけて喘いでいる。げっそりと頬が落ち、額が骨だってみえる。
二郎は男の包帯を解く、沼井がぎろりとこっちを見る。梶原も橋本も、二郎の伴れて来た人間がなに者であるかを了解する。包帯は解き終った。
「あの人を見たまえ」二郎は男を病床のほうへ向ける、「あそこに寝ている人を」
男の両眼は腫れ塞がっている、彼は手で暫く眼を押える、それから努力をして瞼《まぶた》をみひらく。いちど閉じて、頭を振り、指で脇を押える、病床と、瀕死《ひんし》の人の姿が見える。
「君の射った相手だ、三昌銀行から逃げるとき、あの街角で君の射った相手だ」
ふいに男の靴の踵《かかと》が床を打つ。そのとき沼井がああと声をあげた。無帽で、黒いジャンパーの男。
「君か、――」痛いたしく嗄《しわが》れた声で沼井が呼びかける、起きようとする、「よく来て呉れた、よかった、……ひと言、云いたかったんだよ、手を握らせて呉れ」
男は慄然と身ぶるいをする。二郎が肩を掴んで枕許へ押しやり、その右手を沼井のほうへ差出させる、それから沼井の鉛色の手を取り、二つを合わせる。――男は葦《あし》の葉のように震え、頭を垂れる。沼井は頭を傾けて見る。
「僕はなんとも、思っちゃあいない、君は、まちがったんだ、……ほんの過失さ、僕は偶然、ながれ弾丸《だま》に当ったんだ、此処にいる友達が、君のために証人になる、……大丈夫僕の分は、決して、罪にはならない」
男の膝《ひざ》が大きく揺れる。彼は呻きながら床へどしんと膝をつき、号泣の声をあげて、赦しを乞う、リノリュームへ両手と額をすりつける。「勘弁して下さい申し訳ありません」そして意味不明の言を続けさまに叫び、衝動のように号泣する。
「Adoramus te. Christe!」沼井が喘ぐ、「ああやめたまえ、泣くのは、たくさんだ、君は……悪くはない、少しも、勇気をだして――取返したまえ、君は、これから、生きるんだ」
医者が助手と看護婦を伴れて入って来る。二郎は男を引起こし、抱くようにして廊下へ出る、森口が後から来る。三人は喫煙室へゆく。男は喉を詰らせ頭を振り、眼を押える。――二郎は彼を長椅子に掛けさせる。
「聞こう、――九人の巣はどこだ」
「一つは野田です」男は呟く、「けれど、九人が集まるのは、浦和の市外です」
「精しく云いたまえ、野田はどうゆく」二郎は手帳を出す、「集まる日もあるんだろう」
男は話す。野田は五人だけの巣で、恐らく当分そこへは寄りつかぬであろう、九人のうち四人はいま関西へいっている、十七日には帰る。その日は必ず浦和でみんな顔を合わせる筈だ、さもなければ神田小川町の「ラム」という喫茶店が連絡所になっている、……二郎はすべてを手帖へ書きとめていった。然しまだ終らないうちに、廊下を走って来る足音が聞え、扉が明いた。橋本がひきつったような眼をして、こちらへ頷く。
「来たまえ、あぶなそうだ――」
[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]
窓硝子の向うに見える空は青い、然し紛れもなく春の青さだ。鉢植の杉の若芽にさしている日の色も慥かに春である。二郎はジン・フィズのタムブラーを持ったまま、話を途切らせて茫然と空を眺めている。――梶原は大型アルバムを披《ひら》き、そこへ一葉の写真を貼《は》っている、森口はその手助けをしながら、「それでどうした」と話を促す。二郎は酒を啜《すす》る。
「それで終りさ、謎だよ、――ステファヌ・マラルメがうまいことを云って、色魔はアナクロニィズムだそうだ、四十円のお返しでけり[#「けり」に傍点]さ」
「君の云うことのほうがよっぽど謎だ、相変らず訳がわからねえ」森口は糊壺《のりつぼ》を片付ける、「いったい成功しそうなのかそれとも失敗なのか」
「赤坊のある婦人を愛したらいいだろう、こうも言ったよ、おまけに合成樹脂の連絡課長の、千田二郎さまに訊けばいいってさ」
「頭がちらくらしてくる、まるっきり寝言だ」
「女は謎だ、神秘だ、寧ろ手品だ、沼井はクリスチャンだったのかい」
「どうだか知らないが」梶原が指を拭きながら身を起こす、「――主よ、われらなんじを讃《たた》う、いい言葉だった、……本音だったよ」
十秒ほど三人は沈黙する。二郎は酒を啜る。それから脚を組む。
「ところが拾いものさ、マラルメがね、人間は時には自分の居間を窓の外から眺めるものだ、こう言ってるんだとさ」二郎は暢びりと微笑する、「――窓の外からね、……こいつがぴんときたんだ、いいかい、彼は眼を包帯している、見ることができない、窓の外から窓硝子を毀《こわ》して、がんがんとやれば、――ね、詰るところ、楠田まり子嬢の啓示という訳さ」
「それは悪知恵というやつだ、こんな場合でなけれあ絶対に、――」森口がインク壺を明ける、「然し千田にそんな知恵が働こうとは思わなかった」
「こっちへ来ないか、千田君、書くよ」
梶原がペンを持つ。二郎は立ってゆく、森口も頭を下げる。梶原はいま貼った沼井裕作の写真の下へ、一字ずつ彫るような字で書き始める。――前例の如く簡潔で、決して長くはない、「彼はその責任を果したり」という句で終る。
三人は写真に向って不動の姿勢をとり、それぞれのタムブラーを挙げる。
「W……間索……O……7」二郎がささやくように云う、「全軍直チニ突入セヨ、――承知したよ、沼井君、今日がその日だ、見ていて呉れ」
そして一緒に、三人は酒を乾《ほ》した。南方の基地では遂に掲揚されなかった信号、W・間索・O・7(全軍直チニ突入セヨ)が、いま酒神《バッカス》倶楽部のメムバーの上に掲げられたのである。――二郎はタムブラーを置いて悠くり踵《きびす》を返す、そして窓際へいって外を眺める。電話のベルが鳴りだし、森口が出る。二郎は外を眺め続ける。電話はすぐ終る。
「野田からだ、まだなにもないと云ってる」
「三時だね」梶原が時計を見る、「なるべく夜にはしたくないな――」
三十分経つ。階段を駆け上って来る足音が聞える、乱暴に扉を明けて、橋本五郎が入って来る。帽子を脱ぐと汗で額へ髪がねばり着いている、彼は、「浦和だ」と云いながら、まず卓子へいってコップを取り、サイホンの炭酸水を注いで飲む。噎《む》せて咳きこみ、手を振る。
「浦和だ、小川町のラムの張込が当った、本庁からは一課長がゆくそうだ」
「みんな集まりそうか」
「連絡のようすではそうらしいと言ってる、浦和へ知らせたから情報が来る筈だ」
梶原が二郎へ振返る。二郎は頷いて外套を取る。森口が椅子の上にある帽子を取り、二郎の頭にのせながら、「マクスエルへ寄ってゆくか」と云う。二郎は大股に出てゆく。
五時二十分。二郎は浦和駅から志木へゆくバスを土合で下りる。畑地と枯田のまん中で、道沿いに十二三軒の鄙《ひな》びた家がある。むかし掛茶屋でもやっていたらしい店を殆んどそのまま、川魚料理と書出した家へ二郎は入る。「すみれ会はどこ」と訊くと、若い女中が先に立って、土間を脇へぬけ、池をまわって裏へ案内する。藁葺《わらぶ》きの古ぼけた百姓家を改造した別座敷に、五人ばかり背広服の男たちが雑談している、二郎は緋色のバッジを見せながら靴を脱いで上った。「ずいぶん遅いな」「まだ誰それは来ないか」「始めたらどうだ」出まかせの高声をあげて、彼等は二郎に席を与える。
「五人めがさっき入りました」男たちの中の一人が二郎に云う、「この店から蒲焼を注文しています、七時ころにと言ってました」
「そうですか、五人、――もう二人来れば」
二郎は煙草を出す。箱を三つ、男たちにすすめてライターを擦る。側にいた一人が自分のを出して点けて呉れる。「部長のライターはよく点きますね」向うでそう云う者がある、部長はすすめられた煙草を取る、「ライターは点くが煙草はたいていきれてる」和やかに笑い声が起こった。
[#6字下げ]十一[#「十一」は中見出し]
六時近く梶原と森口が来た。その少し前に、「七人集まった」という報告が入っている。二十分過ぎて橋本が捜査一課長と一緒に到着する。うちあわせはすぐ済み、女中が料理を運び始める。
七時五分前、「蒲焼が届いた」と知らせがある、芸妓らしい女が三人来ているという。二十分経つと四人が立上る。
すっかり昏《く》れている、曇っているので暗い。二郎が先になって街道を左へ折れ、細い道を南へ一町あまりゆく。低い猫柳の並んだ田川の畔に出ると、そこを東へ折れて林の中へ入る。なんのことはない四角形の他の三辺を廻るようなものだ。千田二郎が二度来て踏査した道である。それはやがて坂になり、小高い丘へ登る。――上には中流住宅が三十戸ばかり、庭を広くとってとびとびに建っている。二郎は畑の中へ入って、防風林をめぐらせた農家のような構えの一軒へ近寄る。どこかで犬が咆えている。
「泥溝《どぶ》があるよ」二郎はこう云いながら垣になっている珊瑚樹《さんごじゅ》の隙間から中へ入る、「少しくらい音をさせても大丈夫だよ、倉庫の裏だ」
三人も続いて垣をくぐる。暗くてよく見えないが、五六間さきに大きい倉庫がある。二郎はその壁に沿って北側へまわり、三人をそこに待たせて置いて独りで東側へゆく。――倉庫の向うに住居が見える。二階造りで、階下は暗いが二階の障子に電燈が明るい。そこまで三十間はあるだろう、微《かす》かに女の笑い声が聞えている。二郎は暫く見ている。それから更にそっちへ向って進む、が、……戸の滑る重そうな音が聞えたので、ぴたりと壁へ貼り着く。倉庫の中から出て来た者がある。出て来る後ろから(即ち倉庫の中から)呼びかける声がする。
「いっそ伊野も呼ぶか、――然しあいつは、いや、あいつはいい、伊野はやっぱり飲ましとけ、あいつはごててうるせえ、来ると云ったらしようがねえが」
「おはんがいるから動かねえでしょう」表の男がそう答える、「今夜あたり大乃木がいたらおさまらねえところだ、太市もおはんにあいれあげてましたからね」
男は住居のほうへ去る。――二郎は戻る。そっと三人のところまで戻って、ごく小さく声をひそめて囁く、「倉庫の中に一人いる、彼等はこの中へ集まる、もう少し見ているから」そしてすぐに東側の角へ引返して見張る。……空気が冷えてきて寒い、煙草がほしくなる。二階の障子に人影がうつり、大きく揺れて消える。けたたましい女の笑い声が起こる。間もなく階下の暗い玄関から人が出て来る、二人、三人。風邪ひきらしい咳をしながら、「あまた名所のあるところ――」妙な節で唄う、「やっぱり東京のほうが寒いぜ」そして倉庫の中へ入ってゆく、四人五人はいる。ごろごろと重たげに戸の滑る音がする。……向うの二階でまた女の笑い声が起こり、男がだみ声で喚く。二郎はそっと三人のところへ引返した。
「入った」二郎はこう囁く、「住居のほうに一人いる、橋本に頼むか」
「よかろう」橋本は振返る、「もう来ているだろうな」
梶原が畑のほうへ向けて懐中電燈を点滅する。闇の中からぱっぱっと点滅の答えが見える。三度、応酬が繰り返されて、間もなく人が近寄って来る、一課長と部長が二人だ。二郎は簡単に説明して、彼等を東側の角へ導く。配置のうちあわせはすぐ定る。一課長が四人の手を、順々にかたく握る。
「非常に兇暴ですから、――そのお積りで」
二郎が先頭で森口と梶原が続く。例の渇きが始まる、石段を三つ上ると戸口だ。二郎は大股に戸口を入る、暗い土間で、閉っている中戸《なかど》の隙間から光りがもれている。
「僕にまかせて呉れ」二郎が云う、「死ぬばかりが贖罪《しょくざい》じゃあないと思う」
「千田――」と森口が言った。
二郎は黙って引戸へ手を掛ける、ごろごろと鈍い音を立てて戸が明く。明るい電燈の下に、卓子を囲んでいた六人の男が振りむく。
「誰だ」肥えた口髭のある男が叫ぶ、「伊野か――あっ」
六人が総立ちになる、そのとき二郎の右手で拳銃が火を吹く、文句なしの、断平たる射撃だ、銃声が凄まじく室内に反響し、物の砕け飛ぶ音と、悲鳴が起こる。肥えた男がまず倒れ、一人は逃げようとして椅子もろとものめる。二郎は中へ入り、最後の二発を射つ。
「身動きもしちゃあいけない」彼はやや震える声で、然し静かに云う、「外は武装警官が取巻いている、今夜は容赦なしだ、へたに動くと命はない、そのままじっとしていたまえ」
×××
新聞に「九人組強盗団検挙」の記事がでかでかと出た日。東邦合成樹脂の連絡課へ、中年の洋装婦人が訪れて来た。――秘書の宮田嬢が出る、婦人は、「銀座のパリジャンからまいりましたが」と云う。
「どういう御用でございましょうか」
「千田さんと仰しゃる課長さまの御注文で、お子様服の寸法を取らせて頂きにまいったのですけれど」
「子供服のですか」俊子嬢は首を傾げる、「いま課長がちょっと出ていまして、わたくしなにも伺っておりませんのですが、――子供服といっても此処にはそういう……」
「慥かにそう仰しゃいましたわ」婦人は機嫌を損じたようだ、「たいへん忙しくて、手前共では出張は致さないのですが、ぜひというお話で特別にまいったんざんすの、お出先はおわかりにならないでしょうか」
「はあちょっと、わかり兼ねますけれど」
「それらしい子供さんはいらっしゃらないんでしょうか」婦人は部屋の中を見まわす、そこらに隠してあると思ったのかも知れない、それからつん[#「つん」に傍点]と顎をあげる、「手前共は本当に多忙なのですからね、銀座でも第一流で、決して出張はしないんざんすから、……ではいらっしゃいませんのね、ふむ、なんというこったろう、忙しいのに、ふむ」
パリジャン女史は顎を反らしたまま出てゆく。秘書は自分の机へ戻る、子供服、――なんのことだろう。ペンを取ると電話のベルが鳴る。
「ああ僕だよ」二郎の声である、「忘れていたんでね、出るとき云おうと思ったんだが、あれをさ、急いだもんでねえ、聞えるかい」
「はい、よく聞えますわ」
「君のところへ洋服屋がゆくんだ、もういった頃だと思うが、寸法を取りにね、僕の贈物だよ、遠慮はいらないからね、好きなように注文して呉れたまえ」
「有難うございますけれど、その方はいま帰りましたわ」俊子嬢は笑いだす、「たいそう怒ってお帰りになりましてよ」
「なんだってまた、どうしてさ」
「だってしようがございませんわ」俊子嬢は一言ずつはっきり云う、「わたくしに子供服は着られません」
底本:「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」新潮社
1983(昭和58)年12月25日 発行
底本の親本:「新青年」
1948(昭和23)年3月号
初出:「新青年」
1948(昭和23)年3月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ