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如林寺の嫁
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如林寺の嫁
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甲斐国《かいのくに》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)水|某《なにがし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「えたい」に傍点]
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甲斐国《かいのくに》の北巨摩《きたこま》の高原の村々には、斯《こ》う云う伝説がある。
――黄昏《たそがれ》に娘が独り歩きをする時は、「私《わたし》ゃ如林寺《にょりんじ》の嫁だ」と云わなければならない。
でないと娘には「たえ姫の魔」が憑《つ》くと云うのである。「たえ姫の魔」とは何であろうか。
信玄《しんげん》公が甲府城に覇を唱えていた頃、韮崎《にらざき》に清水|某《なにがし》と云う豪族がいたが、信玄公の意《こころ》に協《そ》わぬ事があって領地を召上げられ、甲州を追放されることになった。
清水某は一族を連れて北国《ほっこく》へ落ちたが、その時息女の妙子《たえこ》姫を、大草村なる下僕の家に預けて去った。
姫には既に云い交した男があった。腕利《うでき》きの若侍で、主家の片腕と頼まれていたが、一族と共に北国に去るに臨んで、姫に誓って云った。
「一年待って下さい、一年|経《た》ったら、鎮守《ちんじゅ》の杜《もり》の辛夷《こぶし》の木の下で会いましょう」
×
妙子姫は待っていた。
日蔭《ひかげ》の身にとって高原の春秋は蕭条《しょうじょう》たるものがあった。永い冬が来た。八《やつ》ヶ|嶽《たけ》の裾《すそ》一帯は雪に埋《うず》まった。
姫は伝手《つて》を頼って、加賀にいると云う父と自分の未来の良人《おっと》とに、何度か手紙を送った。
「私達の春は最《も》う直ぐです。待って下さい、待って下さい」と、男からは三度返辞が来た。
それからぱったり姫と一族との音信《いんしん》は断たれて了《しま》った。清水一族は信玄公の手で、加賀の海辺《うみべ》で鏖殺《おうさつ》されたのである。
併《しか》し姫はそれを知らなかった。――やがて春が来た。鎮守の杜に辛夷の花が咲く頃になった。
姫は仮の病に身を冒されたのが原《もと》で、次第に重い患《わずら》いの枕《まくら》に就いた。
「辛夷の花が咲く、――あの方が来ていらっしゃりはすまいか」
泪《なみだ》に冷えた枕の上で姫はそう思う。
その頃鎮守の杜で、村人達が毎日黄昏|刻《どき》になると、えたい[#「えたい」に傍点]の知れぬ魔に襲われた。魔は白装束で、蒼白《そうはく》な顔に黒髪が乱れかかっていた。
或時《あるとき》、村の若衆達が魔の正態《しょうたい》を見届けようとして杜に待っていた。黄昏頃になると果して魔が現れたので、そっとその後を跟《つ》いて行くとそれは妙子姫のいる家の前で消えた。
如林寺の和尚《おしょう》がその話を聴いて、妙子姫の病床を訪ねた。ちょうどその時妙子姫の魂は、男を慕って鎮守の杜へ行っていたが、帰って来ると如林寺の和尚が経文を誦《じゅ》しているので、家に入《い》ることが出来ず、軒の辺《あたり》を迷い歩いていた。
如林寺の和尚の読経中に、姫の躯《からだ》は死んだ。
×
姫の亡躯《なきがら》は如林寺に埋葬された。
併し魂は帰るところが無いので、帰る可《べ》き体を探さなければならなかった。
それで黄昏になると、「たえ姫の魔」は自分と同じ齢頃《としごろ》の娘を探しに出るのであった。
若《も》し一度《ひとたび》、「たえ姫の魔」に憑かれると、その娘は鎮守の杜へ行って辛夷の木の周囲を、男の名を呼び叫びながら狂い廻って、果ては狂い死《じに》に死んで了うのである。
「娘っ子達よ。晩方に家を出るときゃあな、如林寺の嫁だと、そう云うべし」
[#地から2字上げ](「日本魂」昭和二年十二月号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「日本魂」
1927(昭和2)年12月号
初出:「日本魂」
1927(昭和2)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「如林寺《にょりんじ》の嫁」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甲斐国《かいのくに》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)水|某《なにがし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「えたい」に傍点]
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甲斐国《かいのくに》の北巨摩《きたこま》の高原の村々には、斯《こ》う云う伝説がある。
――黄昏《たそがれ》に娘が独り歩きをする時は、「私《わたし》ゃ如林寺《にょりんじ》の嫁だ」と云わなければならない。
でないと娘には「たえ姫の魔」が憑《つ》くと云うのである。「たえ姫の魔」とは何であろうか。
信玄《しんげん》公が甲府城に覇を唱えていた頃、韮崎《にらざき》に清水|某《なにがし》と云う豪族がいたが、信玄公の意《こころ》に協《そ》わぬ事があって領地を召上げられ、甲州を追放されることになった。
清水某は一族を連れて北国《ほっこく》へ落ちたが、その時息女の妙子《たえこ》姫を、大草村なる下僕の家に預けて去った。
姫には既に云い交した男があった。腕利《うでき》きの若侍で、主家の片腕と頼まれていたが、一族と共に北国に去るに臨んで、姫に誓って云った。
「一年待って下さい、一年|経《た》ったら、鎮守《ちんじゅ》の杜《もり》の辛夷《こぶし》の木の下で会いましょう」
×
妙子姫は待っていた。
日蔭《ひかげ》の身にとって高原の春秋は蕭条《しょうじょう》たるものがあった。永い冬が来た。八《やつ》ヶ|嶽《たけ》の裾《すそ》一帯は雪に埋《うず》まった。
姫は伝手《つて》を頼って、加賀にいると云う父と自分の未来の良人《おっと》とに、何度か手紙を送った。
「私達の春は最《も》う直ぐです。待って下さい、待って下さい」と、男からは三度返辞が来た。
それからぱったり姫と一族との音信《いんしん》は断たれて了《しま》った。清水一族は信玄公の手で、加賀の海辺《うみべ》で鏖殺《おうさつ》されたのである。
併《しか》し姫はそれを知らなかった。――やがて春が来た。鎮守の杜に辛夷の花が咲く頃になった。
姫は仮の病に身を冒されたのが原《もと》で、次第に重い患《わずら》いの枕《まくら》に就いた。
「辛夷の花が咲く、――あの方が来ていらっしゃりはすまいか」
泪《なみだ》に冷えた枕の上で姫はそう思う。
その頃鎮守の杜で、村人達が毎日黄昏|刻《どき》になると、えたい[#「えたい」に傍点]の知れぬ魔に襲われた。魔は白装束で、蒼白《そうはく》な顔に黒髪が乱れかかっていた。
或時《あるとき》、村の若衆達が魔の正態《しょうたい》を見届けようとして杜に待っていた。黄昏頃になると果して魔が現れたので、そっとその後を跟《つ》いて行くとそれは妙子姫のいる家の前で消えた。
如林寺の和尚《おしょう》がその話を聴いて、妙子姫の病床を訪ねた。ちょうどその時妙子姫の魂は、男を慕って鎮守の杜へ行っていたが、帰って来ると如林寺の和尚が経文を誦《じゅ》しているので、家に入《い》ることが出来ず、軒の辺《あたり》を迷い歩いていた。
如林寺の和尚の読経中に、姫の躯《からだ》は死んだ。
×
姫の亡躯《なきがら》は如林寺に埋葬された。
併し魂は帰るところが無いので、帰る可《べ》き体を探さなければならなかった。
それで黄昏になると、「たえ姫の魔」は自分と同じ齢頃《としごろ》の娘を探しに出るのであった。
若《も》し一度《ひとたび》、「たえ姫の魔」に憑かれると、その娘は鎮守の杜へ行って辛夷の木の周囲を、男の名を呼び叫びながら狂い廻って、果ては狂い死《じに》に死んで了うのである。
「娘っ子達よ。晩方に家を出るときゃあな、如林寺の嫁だと、そう云うべし」
[#地から2字上げ](「日本魂」昭和二年十二月号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「日本魂」
1927(昭和2)年12月号
初出:「日本魂」
1927(昭和2)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「如林寺《にょりんじ》の嫁」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ