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紀伊快男児
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紀伊快男児
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)是《これ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)人|走《は》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
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[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
「是《これ》は初めて見る種子のようだな」
「はい、それが先日お話し申しましたカンボサ渡来のもの[#「もの」に傍点]でござります」
天満屋《てんまや》仁兵衛は、ちょっと自慢そうな眼をした。
「堺にございます手前共の菜園で作らせてみましたが、果皮《かわ》は濃い緑に黒い縞《しま》が現われ、果肉《にく》は薄い黄色で固く緊《しま》り、甘味もひとしお勝《すぐ》れた極上品が採れましてございます」
「それは試してみる値打がありそうだな」
牧之助は、掌《てのひら》の種子を一つ取って噛割《かみわ》り、胚子の模様を検《あらた》めてから、口へ入れてぽりぽりと噛んだ。……怒ると「豹《ひょう》」と呼ばれているが、太い眉《まゆ》も意志の強そうな唇許《くちもと》も、そうしているところは極めて静かな、どちらかというと、鈍重な感じさえする風貌《ふうぼう》である。
「では、これも少し貰《もら》って置こう」
「有難う存じます。そう致しますと……」
仁兵衛はいかけて、口を噤《つぐ》んだ。
隣屋敷の方で、灸に人の怒号する声が起り、遽《あわただ》しい跫音《あしおと》が聞えたと思うと、屋敷境の生垣《いけがき》にある柴折戸《しおりど》を明けて、十七八になる娘が一人|走《は》せ入って来た。……隣は藩の中老長瀬吉右衛門、いま入って来たのは吉右衛門の娘佐和である。
「牧之助さま、大変でございます」
「……どうしました」
「大崎半九郎さまが、難題を云いかけ、庭へ押入って来ております。父も兄もまだお城で、わたくしには扱い兼ねますゆえ、どうぞいらしってなんとか」
「まいりましょう。……中座をするから」
牧之助は、仁兵衛に会釈《えしゃく》して庭へ下りた。
「一体どうしたのですか」
「下郎が門前を掃いていましたら」
佐和は歩きながら話した、「……大崎さまが通りかかって、お袴《はかま》の裾《すそ》へ箒《ほうき》の先が当ったのだそうでございます。それで下郎を斬《き》ると仰有《おっしゃ》って、庭へ踏みこんでいらっしゃいました」
「下郎はどうしました」
「裏へ逃がしてやりました。わたくし、代ってお詫《わ》びをしたのですけれど、女と侮《あなど》ってか、てんで相手になさいません」
木戸を抜けると直ぐ、庭上へ仁王立ちになっている大崎半九郎の姿が見えた。……背丈は六尺三四寸もあろう、肉食獣を思わせるような胸の厚い、剽悍《ひょうかん》な体つきで、叩《たた》けばかん[#「かん」に傍点]と響きそうな骨張った顔に、大きな眼と鼻とが、威圧的に据《すわ》っている、これで髭《ひげ》でも伸ばしていたらそのまま鍾馗《しょうき》の像であろう。
「主人《あるじ》は居らぬか、主人を出せ」
よく徹《とお》る甲高《かんだか》な声で喚《わめ》きたてているところへ、牧之助は、静かに歩み寄って会釈した。……半九郎は、左手で大剣の鍔元《つばもと》を掴《つか》みながら、くっと振向いて喚いた。
「なんだ、貴公当家の主人か」
「当家の主人は登城中です。拙者《せっしゃ》は隣家に住む高田牧之助と申し、少々ゆかりある者でござるが、下郎が粗忽《そこつ》を致したそうで、主人に代ってお詫びを仕《つかまつ》りたい、どうか御勘弁のほどを」
「ならん、粗忽なら勘弁のしようもあるが、下郎め、拙者を大崎半九郎と見て、わざ[#「わざ」に傍点]と箒を当ておったのだ。新参の武士と侮ってしたに相違ない。これへ出せ、斬って捨てねば拙者の面目が立たん」
「お怒りは御尤《ごもっと》も、まことに申訳ござらぬが、あの下郎は生来の白痴《たわけ》でござる」
「なに、白痴だと?」
「東西の弁《わきま》えもない全くの白痴でござる。馬鹿を斬っても御面目にはなりますまい、拙者が幾重にもお詫び申上げます」
そう云って牧之助は、庭上に膝《ひざ》を下ろし、両手を突いて低頭した。
「この通り、平に御勘弁が願いたい」
「……ふうむ」
半九郎はにっ[#「にっ」に傍点]と笑った。
「貴公、いま高田牧之助と名乗られたな」
「如何《いか》にも牧之助でござる」
「その名には覚えがある、たしか、和歌山の豹と云われているはずだ。予《かね》てからいちど会いたいと思っていたが……貴公がその仁とは意外だ、それとも同名異人でもあるか」
「いや、当藩に高田牧之助は拙者一人です」
平然と答えるのを見下ろしながら、半九郎は馬のような白い大きな歯を見せて笑った。
「そうか、牧之助は貴公一人か、和歌山の豹は正に貴公か、さても……さても謝りぶりのいい豹があるものだな」
「御勘弁下さるか」
「下郎は白痴、豹と呼ばれた貴公は一儀もなく土下座して詫びるばかり、これでは相手になるだけ名折れらしい、今日は見遁《みのが》してやるとしよう」
「かたじけない、それで安堵《あんど》仕った」
「さても」と、半九郎は笑いながら、
「さても命は惜しいものよ」と云い捨てて大股《おおまた》に立去った。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
「あんまりです、牧之助さま」半九郎を見送ってから、静かに立上る牧之助に佐和は声を顫《ふる》わせながら云った。
「扱って頂きたいとは申しましたが、あんな詫びの仕方までお願いは致しませぬ。貴方《あなた》はあの方の勇気に恐れたのでございますか」
「恐れました」
牧之助は困ったように苦笑しながら、「……あの男は戦場往来の豪傑だし、なにしろ怪力で、これまで数々の乱暴|沙汰《ざた》は貴女《あなた》も聞いておいででしょう、下手な挨拶《あいさつ》をすれば、あの長いやつをきっと抜きますよ」
「それが怖くて、土下座なすったのですか」
「そのため無事に済んだとすれば、土下座くらいは安いものです」
「牧之助さま!」
「客を待たせてありますから」まだ非難し足りなそうな佐和を残して、牧之助は木戸の向うへ去って行った。
大崎半九郎。彼は去年、八千石を以《もっ》て新規お取立てになった、大崎|玄蕃《げんば》の甥《おい》であった、……玄蕃は福島正則の家臣で、鞆《とも》ノ城主として八千余石を領していたが、主家改易と同時に、村上彦右衛門、真鍋五郎右衛門らと共に紀伊|頼宣《よりのぶ》に迎えられ、八千石の高禄《こうろく》を以て随身したのである。……半九郎はその甥であるが、二十人力というその膂力《りょりょく》に加えて、剣と槍《やり》とを勝れてよく使い、大阪の陣には兜首《かぶとくび》八級を挙げて、正則から「鬼九郎」の名を貰った。
玄蕃は家来は十八人いるし、みなそれぞれ一騎当千の勇士であるが、半九郎は、先《ま》ずその中の随一であろう。しかし、……恐ろしく傲岸《ごうがん》粗暴の質《たち》で、和歌山へ来てから半年ほどの間に、もう幾十度となく腕力沙汰を演じていた。
これに対して家中の人々は、
――新規お召出しの諸士には鄭重《ていちょう》に応待し、仮にも侮蔑《ぶべつ》、軽率の振舞い無きよう。
という頼宣の重き布告があったので、残念ながら、眼をつぶっているより仕方がなかったのである。……こうなると半九郎だけではない、村上彦右衛門、真鍋五郎右衛門らの家来達も、大手を振って城下をのし[#「のし」に傍点]廻る様になった。
――これでは困る。
――元を糺《ただ》せば喪家の浪人ではないか、殿のお情けで食に有付いた恩も忘れ、あの傍若無人さは捨置けぬぞ。
――殿のお手当てが篤《あつ》すぎるのだ。
家中の人々のあいだには、いささか主君に対する不平さえ擡頭《たいとう》しかけていたのである。
「高田、居るか」その日の暮れ方、牧之助が夕食の膳《ぜん》に向おうとしていると、庭から大きく呼びかける者があった。
佐和の兄、長瀬|吉之丞《きちのじょう》であった。
「おう長瀬、いまお退《さが》りか」
「ちと用談がある、一緒に出てくれ」ひどく切口上だ。
吉之丞は佐和によく似た美男で、牧之助より二歳下の二十六になる、役目は同じ近習番《きんじゅばん》だし、幼い頃から隣同志に育ち、しかも妹佐和と牧之助とは早くから許嫁《いいなずけ》のあいだがらだったから、殆《ほとん》ど兄弟同様の仲であった。……しかし、いま牧之助を見上げている眼つきは、まるで人が違うかと思われるほど冷たく、鋭い光を帯びていた。
「出てもいいが、いま食事にかかろうと……」
「一食や二食ぬいても、命に別状はあるまい、急ぐ用事だから出てくれ」
「では……まいろう」
「いや、刀は持って来て貰おう」
「この儘《まま》ではいけないか」
「脇差《わきざし》一本で外へ出られまい、早く頼むぞ」
牧之助は大剣を取りに戻った。
外は凩《こがらし》の夕暮れだった、……和歌山は暖かい土地であるが、霜月の風はさすがに肌を刺す。屋敷を出た二人は黙って大手筋を歩いて行ったが、一歩|毎《ごと》に四辺《あたり》は黄昏《たそがれ》の色が濃くなり、枯木の枝がひょうひょうと寒く鳴りだした。
「何処《どこ》まで行くんだ」
「分らないか」吉之丞は足を緩めずに去った。
「貴公が武士なら、これから行く先は分っている筈《はず》だ、それとも拙者に云わせたいのか」
「……大崎半九郎か」
牧之助は、ぴたっと足をとめた。
「そうだ」
吉之丞も立止り、振返って射竦《いすく》めるように牧之助を睨《ね》めつけた。……牧之助はその眼を避けるように空を見上げながら、
「それなら拙者は行かぬぞ」
と云った。吉之丞は怒りを制して、
「いや、行かなくてはならん、貴公が若《も》し長瀬家の縁者になるのなら、佐和の良夫《おっと》になるつもりなら、……武士の面目を立てなくてはならん、拙者の申す意味が分るか」
「それは、御尊父も御同意の言葉か」
「あんな恥|曝《さら》しな話が父に聞かせられるか、いま云ったのは、拙者と妹の意見だ、長瀬家は武名を尊ぶぞ」
「拙者は行かぬ」
牧之助は、ぽつんとした調子で答えた。
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
「行かぬ、……どうしても行かぬか」
「下郎が無礼をした、だから拙者が代って詫《わ》びたのだ。それで事は済んでいる。貴公は土下座をした事が不服らしいが、詫びるべき落度があれば、方法に差別はないはずだ」
「差別はある。たとい謝罪するにしても、武士には自《おの》ずからその限度がある。限度を越した謝罪は臆病《おくびょう》未練の貶《そし》りを受けるぞ」
「そうかも知れない」
牧之助は静かに眼を伏せた。
「……だが、拙者は自分の仕方で詫びたのだ。それが限度を越えたとすれば、その責《せめ》は拙者にあるので、改めて大崎半九郎に面目を問う理由はない。それは筋が違う」
「筋目の論ではない。貴公の武名を云っているのだ、貴公の不面目は、やがて長瀬の家名に及ぶと云っているのだ」
「……吉之丞」
牧之助は、静かに眼をあげながら云った。
「拙者と佐和どのとは、親たちの許した許嫁だ、拙者は佐和どのを生涯の妻だと思っている。たとえどのような事情が起ろうと、佐和どのは拙者の妻だ。……しかし、大崎へは行かぬぞ」
「それが貴公の返辞だな※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「そうだ、これが拙者の返辞だ」
そう云うと共に、牧之助は踵《きびす》を返した。
――なんという変り方だ。
去って行く牧之助を見送りながら、吉之丞は呼止めることも忘れて、惘然《もうぜん》と嘆息した。
高田牧之助は、頼宣の愛臣の一人だった。
食禄《しょくろく》は五百石だが、水戸以来のお側《そば》去らずで、文学にも明るく武道にも達し、近習番では元より、家中きって秀才の名を謳《うた》われている人物だった。……それが、近頃どうしたわけか眼に見えて人柄が変って来た、怒ると「豹」になると云われた風貌も鈍重になり、勤め振りもなんとなく怠り勝ちである。以前はよく往来していた若手との交りも断ったし、ともすると家に籠《こも》って出ない。一体どうしたのかと思っている時に、今度の事が起ったのだ。
「あいつ、あれが本心なのか」
吉之丞は唇を噛《か》みながら呟《つぶや》いた。
「そうだとすれば。いや、……そうではあるまい、なにか理由があるのだ。仔細《しさい》もなくそう人間が変るものじゃない。これにはなにか訳があるのだ、なにか……」
強いて自分を宥《なだ》めるように、吉之丞は呟き呟き凩の道を家へ帰った。
「どうなりまして」
待ちかねていたのであろう、兄の帰りを出迎えた佐和はすり寄って訊《き》いた。
「……行かなかった」
「でもそれは」
「高田は行かぬというのだ」
吉之丞は居間へ入りながら、出て行く時とは違って、自分の気持までが何処かちぐはぐになっているのを感じた。
「では兄上さま、行かぬでお済ましあそばしたのですか」
「なにか仔細ありげだった。おまえも己《おれ》も幼少からの知己で、高田の気質はよく知っている。あの男がなんの理由もなく卑怯者《ひきょうもの》になる訳はない。云うだけのことを云ったうえどうしても行こうとしない高田の様子を見ると、……己にはなにか訳があるように思えてならぬのだ」
「その訳をお教え申しましょうか」
「……え?」
「わたくしは存じております」
吉之丞は、思わず妹の顔を見た。佐和の眼は冷やかに澄んで、鋭い光を帯びていた。……彼女はどちらかと云うと温和《おとな》しい、口数の寡《すくな》い娘である。しかし、それは表に現われた半面で、その気質には男勝りの烈《はげ》しいものをもって[#「もって」に傍点]いた、決して挙動や色には出さないが、なにか事に当ると吃驚《びっくり》するように冷静な判断力と、それを処理する勇気を示すのが例だった。……吉之丞は、妹の眼にいまその色を見た。
「知っているなら、聞こう、なんだ」
「牧之助さまは、百姓になるおつもりなのです」
「……馬鹿な」
「お上《かみ》から土地のお下渡しを受けました。場所は海士郡《あまぐん》外浜、そこで西瓜《すいか》作りをなさるとか、もうお住居も出来かかっているそうでございます」
「誰から聞いた、そんな話を何者が」
「父上さまから、いま伺ったばかりでございます」
「父上、……父上が仰有《おっしゃ》ったか」
「牧之助さまには、もう武名は御無用なのです、どんな恥を忍んでも危険を避けようとなすったのはそのためです。あの方は外浜の村に落着いて、生涯気楽に土いじりをあそばせば御本望なのです」
「……佐和!」吉之丞は屹《きっ》と向直った。「それでおまえ、縁組のことをどうする積りだ、父上はそれについてなにも仰有らなかったのか」
「わたくしは長瀬吉右衛門の娘でございます。兄上さまの妹でございます。たとえ父上さまからのお申付けでも、百姓の妻になることは出来ませぬ」
[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]
「よし!」
吉之丞は頷《うなず》いて云った。
「その覚悟があれば、事の始末は兄が引受けてやる。おまえはなにも云うな」
佐和は、黙って眼で頷いた。
噂《うわさ》には翼がある、牧之助が外浜村へ引込んで農夫になるという評判は、忽《たちま》ち家中の人々のあいだに弘《ひろ》まってしまった。……なにしろ、衆望を荷《にな》っていた人物だから、人々の驚きも大きく、その批評も好悪《こうお》相半ばしていた。しかしそのなかで、最も適切だと思われるもう一つあった。それは、牧之助が近頃の御家風に、不満を懐《いだ》いた結果だというのだ。
――あの新参共を見ろ、あの通り和歌山城下を我物顔にのさばり歩いているのに、お上の度を越えた恩命で、我々は指一本出すことも出来ぬ、これでは高田ならずとも、武士が嫌《いや》になるのは当然だぞ。
この説を聞いた者は、初めて牧之助の本心を突止めたように思った。
――そうだ、それに違いない。
――高田ほどの者が、大崎半九郎づれに土下座をしたというのも、恐らく御家風に対する無言の訴えであろう。
――この儘《まま》には捨置けんぞ。
それでなくとも、新参組の横行を肚《はら》に据え兼ねていた血気の人々は、これをきっかけとして日頃の不平を爆発させ、誰からともなく、
――城外の海雲寺へ集れ。
という檄《げき》が飛んだ。
吉之丞はその知らせを聞いて下城すると、支度も解かず牧之助を訪れた。……高田の屋敷は混雑していた、荷造りした家財は庭へ運び出されているし、既に一方では車へ積んでいる者もある、牧之助も家士《いえざむらい》や下人たちと共に、襷《たすき》がけで働いていた。
「やあ吉之丞か」彼は入って来た吉之丞を見ると、いつもの笑顔を見せながら立って迎えた。
「急に立退《たちの》くことになったのでな、この通り取散らしているが、……まあ上らないか」
「いや、此処《ここ》でいい」
吉之丞は庭に立ったまま、「……今宵《こよい》、城外の海雲寺へ若手の者が集ることになっている、新参組お労《いたわ》りの御家風について、みんなの意見を述べようというのだ、貴公の意見も聴きたいから来て呉れ」
「さあ、……行けるかどうか」
牧之助は左右をかえり見て、
「この通り、なにしろ引越し騒ぎで、まだなかなか片付きそうもないから」
「高田、この集りは貴公に最も関わりのあるものだぞ、貴公が太刀を捨てようとすることについて、家中の沙汰《さた》を聞いていない訳ではあるまい」
「拙者が刀を捨てる?……」
牧之助は、静かに頭を振った。
「それは違う、拙者は刀を捨てはしないよ」
「では外浜へ引込んで百姓をするというのは嘘《うそ》か」
「事実だ、西瓜を作って紀州の名産にするつもりでいる。けれどもそれは刀を捨てるという意味ではない」
「無益の問答は止《よ》そう!」
吉之丞は押被《おっかぶ》せるように、「……若し貴公が太刀を捨てず、武士の道を忘れていないなら、海雲寺の集りへは来て呉れるはずだ。新規お召抱えの多い近頃の御家風は、お家を思う若手の我々にとって見遁《みのが》すことのできぬ問題だぞ」
「…………」
「拙者は来て呉れるものと思っているぞ」
吉之丞はそう云うと、返辞を待たずに去って行った。
その夜、海雲寺へ集った人数は四十人に近かった。近習番が中心で、多くは旗本の若者であるが、中には、馬廻りの老人組も四五人みえていた。……合議が始っても、牧之助の来る様子はなかった、吉之丞はなんども玄関へ見に出ていたが、遂《つい》に諦《あきら》めて席に就いた。
中心になって語っていたのは、辺木《へぎ》五郎兵衛であった。
「色々と意見はあるが、拙者は各々《おのおの》の説をひっくるめて、もう少しはっきりと事情を突詰めてみたい」
五郎兵衛は、力のある声で続けた。
「……新参組の大崎半九郎はじめ、腕自慢の暴れ者がのし[#「のし」に傍点]廻るのは、お労りの御意があるだけのことではない。原因はその以前にある。つまり、彼等が過当な高禄を以てお取立てを受けた、それが増上慢の根だ」
[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]
「いったい、彼等は何者なんだ」
五郎兵衛は、声を励まして云った。
「大崎玄蕃は何者だ、村上、真鍋は何者だ、なるほど、彼等は豪勇の士であるかも知れない。豊家《ほうけ》の侍として、また改易された旧主、福島正則の家臣として、幾戦場に功名手柄をたてた雄傑であるかも知れない、……しかし、この紀伊のお家になんの功があった?」
一座の人々は、いずれも、
――云ったり五郎兵衛。
という表情で、眼を輝かした。
「水戸からの随身で、御馬前に働いた家中の者は多い、父や兄弟をお家のために喪《うしな》った人々も少くない、みんな三河以来の御恩顧人だ、……しかし、その譜代の者でも、いきなり、千石二千石の御加増という例はないぞ。……それを、お家のために馬草《まぐさ》を刈る功もなかった浪人者が、玄蕃は八千石、村上、真鍋はそれぞれ二千石という高禄を賜わっている。この過分なお手当にはどうした仔細があるのだ」
「御家風が紊《みだ》れている、老職が盲《めし》いているのだ。このままでは、真実心から御奉公する者がなくなるぞ!」
「それだ、それを云いたいのだ」
五郎兵衛は続けた、「……武士は俸禄に依《よ》って御奉公をするものではない。万石を戴《いただ》こうと一人|扶持《ぶち》の切米《きりまい》を戴こうと、武士として御奉公に身命を惜しまざる道は一つだ。しかし、このように、曾《かつ》てお家になんの功績もない者共が、譜代の者を飛越す高禄で召抱えられるようでは、やがて不惜身命《ふしゃくしんみょう》の御奉公をする者はなくなる道理だ。……お上にはまだお年若であり、勇士豪傑を召抱えようとの思召《おぼしめす》はよく分るが、これではお家万代のためにならん」
「そうだ、このまま見過すべきことではないぞ」
左右に嗷々《ごうごう》と声があがった。
「半九郎づれがのさばる肚は、自分が高禄で召抱えられたのを、家中にそれだけの人物なしと見ての振舞いだ」
「新参者を逐《お》わなくてはならん」
「でなければ、彼等に足軽の扶持を与えるべきだ」
一時にみんなが叫びだした。……すると、その騒ぎの中から、静かに立上って声をかけた者があった。喧々嗷々《けんけんごうごう》とした一座は、その声が静かな底力のあるものだっただけに、ぴったりと鎮《しずま》って一時に振返った。
立上ったのは、高田牧之助であった。
「御一統のお説はよく伺った」
彼はゆっくりとした、歯切れのいい調子で云いだした。
「しかし、失敬だが各々の思案は的外れだ。各々はいまお上の御意を論《あげつら》い、老職方を盲人だと云われたが、眼の見えぬのは各々の方だ」
「高田、……過言は許さんぞ」
「まあ聞け、いま五郎兵衛の云った通り、大崎、真鍋、村上の人々はお家になんの功もない、それは事実だ。お家になんの功もない浪人者に、八千石、乃至《ないし》二千石などという高禄を賜わった事も前例のない過分な御恩命だ」
「それだけ分っていたら、我々の意見を的外れだと云うところはあるまい」
「いや的外れだ、まるで外れている」
牧之助は、ぐっと声に力を入れて、
「各々は御恩命の過当な点だけを見て、どうして斯様《かよう》なお扱いがあるのかという点を考えていない。……一座の意見をつづめると、ただお上がお年若で、御分別が浅いためだというように思える、馬鹿な説だ」
「…………」
「お上には御分別がある。それも各々よりは、ひと桁《けた》もふた桁も違う深い御分別があるのだ。よく聞け。……大坂の陣が終って天下は御宗家のものとなった。しかし、まだ諸国には、豊家恩顧の大名が勢力の根を張っているのだぞ、どんな小さな隙《すき》があっても、どこの一角が崩れても、天下の乱に及ぶ危険はまだ去ってはいないのだ。……大崎玄蕃、村上彦右衛門、真鍋五郎右衛門、これらの人々はお家にはなんの功もない。しかし、一旦《いったん》事ある時は、いずれも三軍の将たるべき人物だ。言葉を変えて云えば、彼等は恐ろしい火薬と云えよう、……捨てて置けば、何処《どこ》へ行ってどんな爆発をせぬとも限らぬ、現に福島家改易の折には、諸方から召抱えの使者が殺到したという、その中で、紀伊に御随身申したのは、ただお上の過分なお手当があったからだ。……お上は天下のため、御宗家万代のために、恐るべき火薬を御自分の手に買取られたのだ」
みんな声をのんで黙した。牧之助は、声を低めながら続けた。
「これほどの御意が察せられず、お上にたいして兎角《とこ》う申上げるなどとは笑止極まる、貴公たちが盲いていると申しても過言ではあるまい。それでもなお疑わしかったら、試みに大崎玄蕃どのを訪ねてみるがいい、……さすがに人物だ、当の玄蕃どのは初めからお上の御真意をお察し申し、和歌山城の壕《ほり》の埋草になる覚悟を笑って居られた、拙者の申すことは、これだけだ」
牧之助はそう云うと、一座に軽く会釈《えしゃく》して退席しようとした。……すると向うから、
「高田氏、待たれい」
と五郎兵衛が呼び止めた。
[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]
「貴公の只今《ただいま》の説、まことに道理だ、我ら全く一言もない、しかし……改めて訊《き》くが、お上がそれほど天下の御為に大事をとって在《おわ》すという時、それを承知しながら貴公はなぜ刀を捨てるのだ、なんのためにお側を去って百姓などになるのだ」
「拙者は刀を捨てはしない」
牧之助は力を籠《こ》めて答えた。
「……捨てるどころか、むしろこれから本当に刀を執って起《た》つのだ。戦塵《せんじん》おさまってようやく三年、天下もお家もこれから泰平の世を築きあげる大切な時期に当面している、国の鎮《しず》めとして、また国をうち建てる力として、我らはいま新しい戦に向わなければならないのだ……この刀は」
と、彼は左手に提《ひっさ》げた刀を叩《たた》いてつづけた。
「この刀は戦場のお役に立つだけで能《よく》事《こと》足りるのではない、万民|安堵《あんど》の世を築く、新しい戦の守となるべきだ。……城を護《まも》るも刀、民たちの中へ入って、共に国土を築くも刀、この刀こそ国を護り、国を築あげる力なのだ。……三日乞食をすれば精根を喪《うしな》うと云う、戴く食禄で綺羅《きら》を飾り、徒食安居すれば刀は錆《さ》びる、武士に必要なのは困難と労苦だ、労苦に鍛える刀の精神だ。拙者は西瓜作りと成る、米も麦も作ろう、そして……土を耕す心で剣の魂を磨《みが》く決心だ、各々は域を護るよき楯《たて》となって呉れ、拙者は民たちの中へ入り、民たちと共に国土を築く捨石となる、国と民とが、一つに合する大きな力を養うために!」
牧之助の言葉が終っても、人々は息をのみ頭を垂れていた。……彼の言葉の余韻が、いつまでも人々の脳裡《のうり》に警鐘の如く、力強い響きを伝えていたからである。
その翌《あく》る朝のことだった。
まだ明けきらぬ時刻で、道の霜は鈍い銀色の針を立てていた。率然と、その霜を踏み砕きながら、城外矢場下にある大崎玄蕃の屋敷内で、けたたましく人の馳駆《ちく》する物音が起った。
「半九郎、起きろ!」
「起きろ、豹《ひょう》が来たぞ」
組長屋の表へ走《は》せつけた人々は、雨戸を割れるように叩きながら、
「高田牧之助が来たぞ」
「高田の豹が来たぞ、……みんな起きて来い」
と喚《わめ》きたてた。……声につれて、長屋の中からばらばらと十四五人、素槍、抜刀を持ってとび出して来た。大崎半九郎は着流しのまま、大剣を左手に一番後ろから現われたが、その眼はいきなり、吸い付けられるように向うの築地塀《ついじべい》の蔭《かげ》へ行った。
築地の蔭に、高田牧之助が唯《ただ》一人で立っていた。彼は旅支度で、草鞋《わらじ》を穿《は》き、笠《かさ》を冠《かぶ》っていたが、半九郎の姿を見ると、笠をとり、それから腰の大小をとって、笠と共に地面へ置きながら、
「半九郎、そんなに狼狽《うろた》えることはないぞ」
と大声に呼びかけた、「……そこにいる方々も物騒な得物は片付けるがいい、拙者もこの通り丸腰になっている」
「無用の舌を叩くな、なんの用で来た」
「そう呶鳴《どな》らないで聞け、拙者はこんど新しい仕事を始めることになった、海士郡外浜へ土地を頂いて、そこで西瓜作りをやる」
「そんな戯言《たわごと》を聞く要はない」
「まあいいから聞け。それについて人手が足りない、いずれ麦も米も作ろうと思うので、貴公の二十人力を借りたいと思うのだ。……貴公ほどの武士が」
「えい黙れ、黙らぬとこの刀が」
「待て、半九郎」
牧之助が片手を出した。
その身振が、みんなの網膜の上でぱっ[#「ぱっ」に傍点]と黒い飛礫《つぶて》に化した、牧之助が跳躍したのである。そして半九郎がどう躱《かわ》す隙もなく、牧之助の拳《こぶし》は的確に彼の鼻柱を突上げていた。……あっ[#「あっ」に傍点]という声と共に、半九郎の体は折れたかと思えるかたちで仰反《のけぞ》った、そして次の刹那《せつな》には、更に踏込んで突上げた牧之助の拳を喰《くら》って、ばりばりと凄《すさま》じく雨戸を押倒しながら、長屋の土間へと顛倒《てんとう》した。
あまりに神速な動きで、一瞬、呆然《ぼうぜん》としていた人々ははっ[#「はっ」に傍点]と我に返り、
「やったぞ」
「半九郎を討たすな」
「助勢しろ!」
わっと叫びながら詰寄せた。……しかしどう手出しが出来たであろう。そのとき半九郎は猛然と起上り、まるで獣のように咆《ほ》えながら牧之助へ襲いかかった。二人の体は相撃って鳴り、牧之助の体が毬《まり》の様に地面上へ叩きつけられた。
「やったぞ半九郎」
見ていた人々は思わず声をあげた。ところがその声の終らぬうち、牧之助の上へ跳びかかった半九郎が、その体勢のまま、もんどり[#「もんどり」に傍点]打って築地塀の際《きわ》まですっ飛んだ。
[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]
胸のすく[#「すく」に傍点]ような格闘である。……すっ飛んだ半九郎がようやく起上るところへ、跳りかかった牧之助がもう一撃、小気味のいい音を立てて強《したた》かに顎《あご》を突上げる。
「よし、掛れ、豹を逃がすな」
見ていた人々がとび出そうとした時、
「待て、動くとならんぞ」
と叫ぶ者があった。ぎょっとして振返ると、小鬢《こびん》の白くなった老人が一人、大きな眼で睨《ね》めつけながら此方へやって来た。……この屋敷の主人、大崎|玄蕃允長行《げんばのすけながゆき》である、それを見るなり、人々は手にした得物を隠しながら、ばらばらと長屋の蔭へと逃げだしてしまった。……それには眼もくれず、老人は微笑を含みながら、さも興ありげに争闘のさまを見守った。半九郎はもうへとへとだった。……いや、もう精根尽きて、自分の力では立っていることも出来ず、牧之助の腕へ倒れかかり、脹《ふく》れあがった顔はぐったりと、まるで内証話でもしかけるように、相手の肩へ載せられたまませいせい[#「せいせい」に傍点]と手負い猪《じし》のように喘《あえ》いでいた。
「やったなあ、半九郎」
牧之助も片眼を腫《は》らしていた。「……貴公の右手はいい突を持ってる、気持のいい拳だ、胸のつかえ[#「つかえ」に傍点]がさっぱりと下りた、もう止《よ》そうな、そして改めて相談だ」
そう云いながら、大小と笠を拾い、片手で身支度をすると、なんと! 半九郎の体をよいしょ[#「よいしょ」に傍点]とばかりに背負《しょ》いあげた。そして、玄蕃のいることなど気付かぬ様子で、
「いいか、さっきの話の続きだが、貴公ほどの武士が、こんな狭苦しい城下町にうろうろしていて、なんの益がある」話しながら、のっしのっしと歩きだした。橫庭から門へ、門を出て右へ、……ばりっ、ばりっと霜柱を踏み砕きながら歩いて行く。
「外浜へ行けば、山野は曠《ひろ》いぞ、ここでは邪魔になる貴公の二十人力も、彼処《あすこ》へ行けば役立つことが出来る、戦場で戦うばかりが武士ではない、世を泰平にするために、泰平の世を確固たるものにするために、民たちと一緒になって働くのも武士の役目だ」
「……おろして呉れ……」
「まあ聞け、我らは父祖の代から戦塵のあいだに功名をあげた、そして幾苦難を経てようやく天下は治《おさま》った、しかし、事はいよいよこれからだ、刃金は熱《や》けている、まだ赤い、いいか、この赤いうちに刃金を鍛えるのだ。民たちのなかへ入って、ゆるぎ[#「ゆるぎ」に傍点]のない国土をうち建てるのだ。……分るか半九郎、拙者がいつか、貴公の喧嘩《けんか》を買わなかったのは、いつか貴公とこうして語る折が来ることを知っていたからだ」
「……下ろせ、下ろせ、高田」半九郎は身をもだえた。
「向うから人が来る」
「心配するな、あれは外浜へ行く我々の行列だ」
牧之助は静かに半九郎を背から下ろした。そのとき……松並木の街道を此方へ、荷物を積みあげた車や、駄馬の群を曳《ひ》いて、一団の人々が近づいて来た。共に外浜へ行く二十余人の家来と小者たちだ、みんな元気で、活《い》き活きと、会釈《えしゃく》をしながら二人の前を通り過ぎた。するとその列の半ば頃から、一人の旅装の婦人が脱けだして来て笠をとり、
「牧之助さま、わたくし、まいりました」と低く頭《こうべ》を垂れた。佐和であった。
「昨夜、兄から精《くわ》しく聞きました。女のあさはかな思案から、これまで数々と……」
「沢山々々、人間はみんな色々な欠点を持っている、思い違いもするし、過《あやま》ちも犯す、けれどこれぞ大事という時に、正しく立直ることが出来ればそれでいいのだ」
「では、では……」佐和の面に鮮かな色が甦《よみが》えった。
「わたしをお赦《ゆる》し下さいますのね」
「初めから云っていたでしょう、どんな事情が起ろうとも、貴女は牧之助の妻だと、……さあ行列に後《おく》れます、おいでなさい」
「……嬉《うれ》しゅう存じます」
佐和のひと言は、泪《なみだ》と、熱い感動に顫《ふる》えていた。そしてその泪を隠すために、素早く会釈して小走りに列を追って行った。心たのしげな、いそいそとした足どりであった。
「半九郎、行くだろうな」
「……この装《なり》でか」
「外浜に必要なのは、力と、魂だ」
「……この面《つら》でか」
半九郎は自分の顔を仰《あおむけ》にした。……頬桁《ほおげた》は脹れ、目の周りは黒く、額にはすばらしく大きな瘤《こぶ》が、それも三つほど盛上っている。牧之助は思わず失笑《ふきだ》した。失笑しながら、
「己も同じだ、この眼を見ろ」
「や、あははははは、貴公もか」
「二人とも脹れているんだ、脹れるというのはいい幸先だ、そうだろう半九郎」
「あははははは、脹れた豹か」わはははと笑いだしたが、腫れ瘤だらけの顔は笑うために歪《ゆが》んで、なんとも奇妙至極な表情になった。牧之助も笑った、二人は笑いながら、……折から燦々《さんさん》と輝きだした朝日の道を、大股《おおまた》に行列を追って歩きだした。
[#地から2字上げ](「講談雑誌」昭和十五年十二月号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「講談雑誌」
1940(昭和15)年12月号
初出:「講談雑誌」
1940(昭和15)年12月号
※表題は底本では、「紀伊《きい》快男児」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
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[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
「是《これ》は初めて見る種子のようだな」
「はい、それが先日お話し申しましたカンボサ渡来のもの[#「もの」に傍点]でござります」
天満屋《てんまや》仁兵衛は、ちょっと自慢そうな眼をした。
「堺にございます手前共の菜園で作らせてみましたが、果皮《かわ》は濃い緑に黒い縞《しま》が現われ、果肉《にく》は薄い黄色で固く緊《しま》り、甘味もひとしお勝《すぐ》れた極上品が採れましてございます」
「それは試してみる値打がありそうだな」
牧之助は、掌《てのひら》の種子を一つ取って噛割《かみわ》り、胚子の模様を検《あらた》めてから、口へ入れてぽりぽりと噛んだ。……怒ると「豹《ひょう》」と呼ばれているが、太い眉《まゆ》も意志の強そうな唇許《くちもと》も、そうしているところは極めて静かな、どちらかというと、鈍重な感じさえする風貌《ふうぼう》である。
「では、これも少し貰《もら》って置こう」
「有難う存じます。そう致しますと……」
仁兵衛はいかけて、口を噤《つぐ》んだ。
隣屋敷の方で、灸に人の怒号する声が起り、遽《あわただ》しい跫音《あしおと》が聞えたと思うと、屋敷境の生垣《いけがき》にある柴折戸《しおりど》を明けて、十七八になる娘が一人|走《は》せ入って来た。……隣は藩の中老長瀬吉右衛門、いま入って来たのは吉右衛門の娘佐和である。
「牧之助さま、大変でございます」
「……どうしました」
「大崎半九郎さまが、難題を云いかけ、庭へ押入って来ております。父も兄もまだお城で、わたくしには扱い兼ねますゆえ、どうぞいらしってなんとか」
「まいりましょう。……中座をするから」
牧之助は、仁兵衛に会釈《えしゃく》して庭へ下りた。
「一体どうしたのですか」
「下郎が門前を掃いていましたら」
佐和は歩きながら話した、「……大崎さまが通りかかって、お袴《はかま》の裾《すそ》へ箒《ほうき》の先が当ったのだそうでございます。それで下郎を斬《き》ると仰有《おっしゃ》って、庭へ踏みこんでいらっしゃいました」
「下郎はどうしました」
「裏へ逃がしてやりました。わたくし、代ってお詫《わ》びをしたのですけれど、女と侮《あなど》ってか、てんで相手になさいません」
木戸を抜けると直ぐ、庭上へ仁王立ちになっている大崎半九郎の姿が見えた。……背丈は六尺三四寸もあろう、肉食獣を思わせるような胸の厚い、剽悍《ひょうかん》な体つきで、叩《たた》けばかん[#「かん」に傍点]と響きそうな骨張った顔に、大きな眼と鼻とが、威圧的に据《すわ》っている、これで髭《ひげ》でも伸ばしていたらそのまま鍾馗《しょうき》の像であろう。
「主人《あるじ》は居らぬか、主人を出せ」
よく徹《とお》る甲高《かんだか》な声で喚《わめ》きたてているところへ、牧之助は、静かに歩み寄って会釈した。……半九郎は、左手で大剣の鍔元《つばもと》を掴《つか》みながら、くっと振向いて喚いた。
「なんだ、貴公当家の主人か」
「当家の主人は登城中です。拙者《せっしゃ》は隣家に住む高田牧之助と申し、少々ゆかりある者でござるが、下郎が粗忽《そこつ》を致したそうで、主人に代ってお詫びを仕《つかまつ》りたい、どうか御勘弁のほどを」
「ならん、粗忽なら勘弁のしようもあるが、下郎め、拙者を大崎半九郎と見て、わざ[#「わざ」に傍点]と箒を当ておったのだ。新参の武士と侮ってしたに相違ない。これへ出せ、斬って捨てねば拙者の面目が立たん」
「お怒りは御尤《ごもっと》も、まことに申訳ござらぬが、あの下郎は生来の白痴《たわけ》でござる」
「なに、白痴だと?」
「東西の弁《わきま》えもない全くの白痴でござる。馬鹿を斬っても御面目にはなりますまい、拙者が幾重にもお詫び申上げます」
そう云って牧之助は、庭上に膝《ひざ》を下ろし、両手を突いて低頭した。
「この通り、平に御勘弁が願いたい」
「……ふうむ」
半九郎はにっ[#「にっ」に傍点]と笑った。
「貴公、いま高田牧之助と名乗られたな」
「如何《いか》にも牧之助でござる」
「その名には覚えがある、たしか、和歌山の豹と云われているはずだ。予《かね》てからいちど会いたいと思っていたが……貴公がその仁とは意外だ、それとも同名異人でもあるか」
「いや、当藩に高田牧之助は拙者一人です」
平然と答えるのを見下ろしながら、半九郎は馬のような白い大きな歯を見せて笑った。
「そうか、牧之助は貴公一人か、和歌山の豹は正に貴公か、さても……さても謝りぶりのいい豹があるものだな」
「御勘弁下さるか」
「下郎は白痴、豹と呼ばれた貴公は一儀もなく土下座して詫びるばかり、これでは相手になるだけ名折れらしい、今日は見遁《みのが》してやるとしよう」
「かたじけない、それで安堵《あんど》仕った」
「さても」と、半九郎は笑いながら、
「さても命は惜しいものよ」と云い捨てて大股《おおまた》に立去った。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
「あんまりです、牧之助さま」半九郎を見送ってから、静かに立上る牧之助に佐和は声を顫《ふる》わせながら云った。
「扱って頂きたいとは申しましたが、あんな詫びの仕方までお願いは致しませぬ。貴方《あなた》はあの方の勇気に恐れたのでございますか」
「恐れました」
牧之助は困ったように苦笑しながら、「……あの男は戦場往来の豪傑だし、なにしろ怪力で、これまで数々の乱暴|沙汰《ざた》は貴女《あなた》も聞いておいででしょう、下手な挨拶《あいさつ》をすれば、あの長いやつをきっと抜きますよ」
「それが怖くて、土下座なすったのですか」
「そのため無事に済んだとすれば、土下座くらいは安いものです」
「牧之助さま!」
「客を待たせてありますから」まだ非難し足りなそうな佐和を残して、牧之助は木戸の向うへ去って行った。
大崎半九郎。彼は去年、八千石を以《もっ》て新規お取立てになった、大崎|玄蕃《げんば》の甥《おい》であった、……玄蕃は福島正則の家臣で、鞆《とも》ノ城主として八千余石を領していたが、主家改易と同時に、村上彦右衛門、真鍋五郎右衛門らと共に紀伊|頼宣《よりのぶ》に迎えられ、八千石の高禄《こうろく》を以て随身したのである。……半九郎はその甥であるが、二十人力というその膂力《りょりょく》に加えて、剣と槍《やり》とを勝れてよく使い、大阪の陣には兜首《かぶとくび》八級を挙げて、正則から「鬼九郎」の名を貰った。
玄蕃は家来は十八人いるし、みなそれぞれ一騎当千の勇士であるが、半九郎は、先《ま》ずその中の随一であろう。しかし、……恐ろしく傲岸《ごうがん》粗暴の質《たち》で、和歌山へ来てから半年ほどの間に、もう幾十度となく腕力沙汰を演じていた。
これに対して家中の人々は、
――新規お召出しの諸士には鄭重《ていちょう》に応待し、仮にも侮蔑《ぶべつ》、軽率の振舞い無きよう。
という頼宣の重き布告があったので、残念ながら、眼をつぶっているより仕方がなかったのである。……こうなると半九郎だけではない、村上彦右衛門、真鍋五郎右衛門らの家来達も、大手を振って城下をのし[#「のし」に傍点]廻る様になった。
――これでは困る。
――元を糺《ただ》せば喪家の浪人ではないか、殿のお情けで食に有付いた恩も忘れ、あの傍若無人さは捨置けぬぞ。
――殿のお手当てが篤《あつ》すぎるのだ。
家中の人々のあいだには、いささか主君に対する不平さえ擡頭《たいとう》しかけていたのである。
「高田、居るか」その日の暮れ方、牧之助が夕食の膳《ぜん》に向おうとしていると、庭から大きく呼びかける者があった。
佐和の兄、長瀬|吉之丞《きちのじょう》であった。
「おう長瀬、いまお退《さが》りか」
「ちと用談がある、一緒に出てくれ」ひどく切口上だ。
吉之丞は佐和によく似た美男で、牧之助より二歳下の二十六になる、役目は同じ近習番《きんじゅばん》だし、幼い頃から隣同志に育ち、しかも妹佐和と牧之助とは早くから許嫁《いいなずけ》のあいだがらだったから、殆《ほとん》ど兄弟同様の仲であった。……しかし、いま牧之助を見上げている眼つきは、まるで人が違うかと思われるほど冷たく、鋭い光を帯びていた。
「出てもいいが、いま食事にかかろうと……」
「一食や二食ぬいても、命に別状はあるまい、急ぐ用事だから出てくれ」
「では……まいろう」
「いや、刀は持って来て貰おう」
「この儘《まま》ではいけないか」
「脇差《わきざし》一本で外へ出られまい、早く頼むぞ」
牧之助は大剣を取りに戻った。
外は凩《こがらし》の夕暮れだった、……和歌山は暖かい土地であるが、霜月の風はさすがに肌を刺す。屋敷を出た二人は黙って大手筋を歩いて行ったが、一歩|毎《ごと》に四辺《あたり》は黄昏《たそがれ》の色が濃くなり、枯木の枝がひょうひょうと寒く鳴りだした。
「何処《どこ》まで行くんだ」
「分らないか」吉之丞は足を緩めずに去った。
「貴公が武士なら、これから行く先は分っている筈《はず》だ、それとも拙者に云わせたいのか」
「……大崎半九郎か」
牧之助は、ぴたっと足をとめた。
「そうだ」
吉之丞も立止り、振返って射竦《いすく》めるように牧之助を睨《ね》めつけた。……牧之助はその眼を避けるように空を見上げながら、
「それなら拙者は行かぬぞ」
と云った。吉之丞は怒りを制して、
「いや、行かなくてはならん、貴公が若《も》し長瀬家の縁者になるのなら、佐和の良夫《おっと》になるつもりなら、……武士の面目を立てなくてはならん、拙者の申す意味が分るか」
「それは、御尊父も御同意の言葉か」
「あんな恥|曝《さら》しな話が父に聞かせられるか、いま云ったのは、拙者と妹の意見だ、長瀬家は武名を尊ぶぞ」
「拙者は行かぬ」
牧之助は、ぽつんとした調子で答えた。
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
「行かぬ、……どうしても行かぬか」
「下郎が無礼をした、だから拙者が代って詫《わ》びたのだ。それで事は済んでいる。貴公は土下座をした事が不服らしいが、詫びるべき落度があれば、方法に差別はないはずだ」
「差別はある。たとい謝罪するにしても、武士には自《おの》ずからその限度がある。限度を越した謝罪は臆病《おくびょう》未練の貶《そし》りを受けるぞ」
「そうかも知れない」
牧之助は静かに眼を伏せた。
「……だが、拙者は自分の仕方で詫びたのだ。それが限度を越えたとすれば、その責《せめ》は拙者にあるので、改めて大崎半九郎に面目を問う理由はない。それは筋が違う」
「筋目の論ではない。貴公の武名を云っているのだ、貴公の不面目は、やがて長瀬の家名に及ぶと云っているのだ」
「……吉之丞」
牧之助は、静かに眼をあげながら云った。
「拙者と佐和どのとは、親たちの許した許嫁だ、拙者は佐和どのを生涯の妻だと思っている。たとえどのような事情が起ろうと、佐和どのは拙者の妻だ。……しかし、大崎へは行かぬぞ」
「それが貴公の返辞だな※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「そうだ、これが拙者の返辞だ」
そう云うと共に、牧之助は踵《きびす》を返した。
――なんという変り方だ。
去って行く牧之助を見送りながら、吉之丞は呼止めることも忘れて、惘然《もうぜん》と嘆息した。
高田牧之助は、頼宣の愛臣の一人だった。
食禄《しょくろく》は五百石だが、水戸以来のお側《そば》去らずで、文学にも明るく武道にも達し、近習番では元より、家中きって秀才の名を謳《うた》われている人物だった。……それが、近頃どうしたわけか眼に見えて人柄が変って来た、怒ると「豹」になると云われた風貌も鈍重になり、勤め振りもなんとなく怠り勝ちである。以前はよく往来していた若手との交りも断ったし、ともすると家に籠《こも》って出ない。一体どうしたのかと思っている時に、今度の事が起ったのだ。
「あいつ、あれが本心なのか」
吉之丞は唇を噛《か》みながら呟《つぶや》いた。
「そうだとすれば。いや、……そうではあるまい、なにか理由があるのだ。仔細《しさい》もなくそう人間が変るものじゃない。これにはなにか訳があるのだ、なにか……」
強いて自分を宥《なだ》めるように、吉之丞は呟き呟き凩の道を家へ帰った。
「どうなりまして」
待ちかねていたのであろう、兄の帰りを出迎えた佐和はすり寄って訊《き》いた。
「……行かなかった」
「でもそれは」
「高田は行かぬというのだ」
吉之丞は居間へ入りながら、出て行く時とは違って、自分の気持までが何処かちぐはぐになっているのを感じた。
「では兄上さま、行かぬでお済ましあそばしたのですか」
「なにか仔細ありげだった。おまえも己《おれ》も幼少からの知己で、高田の気質はよく知っている。あの男がなんの理由もなく卑怯者《ひきょうもの》になる訳はない。云うだけのことを云ったうえどうしても行こうとしない高田の様子を見ると、……己にはなにか訳があるように思えてならぬのだ」
「その訳をお教え申しましょうか」
「……え?」
「わたくしは存じております」
吉之丞は、思わず妹の顔を見た。佐和の眼は冷やかに澄んで、鋭い光を帯びていた。……彼女はどちらかと云うと温和《おとな》しい、口数の寡《すくな》い娘である。しかし、それは表に現われた半面で、その気質には男勝りの烈《はげ》しいものをもって[#「もって」に傍点]いた、決して挙動や色には出さないが、なにか事に当ると吃驚《びっくり》するように冷静な判断力と、それを処理する勇気を示すのが例だった。……吉之丞は、妹の眼にいまその色を見た。
「知っているなら、聞こう、なんだ」
「牧之助さまは、百姓になるおつもりなのです」
「……馬鹿な」
「お上《かみ》から土地のお下渡しを受けました。場所は海士郡《あまぐん》外浜、そこで西瓜《すいか》作りをなさるとか、もうお住居も出来かかっているそうでございます」
「誰から聞いた、そんな話を何者が」
「父上さまから、いま伺ったばかりでございます」
「父上、……父上が仰有《おっしゃ》ったか」
「牧之助さまには、もう武名は御無用なのです、どんな恥を忍んでも危険を避けようとなすったのはそのためです。あの方は外浜の村に落着いて、生涯気楽に土いじりをあそばせば御本望なのです」
「……佐和!」吉之丞は屹《きっ》と向直った。「それでおまえ、縁組のことをどうする積りだ、父上はそれについてなにも仰有らなかったのか」
「わたくしは長瀬吉右衛門の娘でございます。兄上さまの妹でございます。たとえ父上さまからのお申付けでも、百姓の妻になることは出来ませぬ」
[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]
「よし!」
吉之丞は頷《うなず》いて云った。
「その覚悟があれば、事の始末は兄が引受けてやる。おまえはなにも云うな」
佐和は、黙って眼で頷いた。
噂《うわさ》には翼がある、牧之助が外浜村へ引込んで農夫になるという評判は、忽《たちま》ち家中の人々のあいだに弘《ひろ》まってしまった。……なにしろ、衆望を荷《にな》っていた人物だから、人々の驚きも大きく、その批評も好悪《こうお》相半ばしていた。しかしそのなかで、最も適切だと思われるもう一つあった。それは、牧之助が近頃の御家風に、不満を懐《いだ》いた結果だというのだ。
――あの新参共を見ろ、あの通り和歌山城下を我物顔にのさばり歩いているのに、お上の度を越えた恩命で、我々は指一本出すことも出来ぬ、これでは高田ならずとも、武士が嫌《いや》になるのは当然だぞ。
この説を聞いた者は、初めて牧之助の本心を突止めたように思った。
――そうだ、それに違いない。
――高田ほどの者が、大崎半九郎づれに土下座をしたというのも、恐らく御家風に対する無言の訴えであろう。
――この儘《まま》には捨置けんぞ。
それでなくとも、新参組の横行を肚《はら》に据え兼ねていた血気の人々は、これをきっかけとして日頃の不平を爆発させ、誰からともなく、
――城外の海雲寺へ集れ。
という檄《げき》が飛んだ。
吉之丞はその知らせを聞いて下城すると、支度も解かず牧之助を訪れた。……高田の屋敷は混雑していた、荷造りした家財は庭へ運び出されているし、既に一方では車へ積んでいる者もある、牧之助も家士《いえざむらい》や下人たちと共に、襷《たすき》がけで働いていた。
「やあ吉之丞か」彼は入って来た吉之丞を見ると、いつもの笑顔を見せながら立って迎えた。
「急に立退《たちの》くことになったのでな、この通り取散らしているが、……まあ上らないか」
「いや、此処《ここ》でいい」
吉之丞は庭に立ったまま、「……今宵《こよい》、城外の海雲寺へ若手の者が集ることになっている、新参組お労《いたわ》りの御家風について、みんなの意見を述べようというのだ、貴公の意見も聴きたいから来て呉れ」
「さあ、……行けるかどうか」
牧之助は左右をかえり見て、
「この通り、なにしろ引越し騒ぎで、まだなかなか片付きそうもないから」
「高田、この集りは貴公に最も関わりのあるものだぞ、貴公が太刀を捨てようとすることについて、家中の沙汰《さた》を聞いていない訳ではあるまい」
「拙者が刀を捨てる?……」
牧之助は、静かに頭を振った。
「それは違う、拙者は刀を捨てはしないよ」
「では外浜へ引込んで百姓をするというのは嘘《うそ》か」
「事実だ、西瓜を作って紀州の名産にするつもりでいる。けれどもそれは刀を捨てるという意味ではない」
「無益の問答は止《よ》そう!」
吉之丞は押被《おっかぶ》せるように、「……若し貴公が太刀を捨てず、武士の道を忘れていないなら、海雲寺の集りへは来て呉れるはずだ。新規お召抱えの多い近頃の御家風は、お家を思う若手の我々にとって見遁《みのが》すことのできぬ問題だぞ」
「…………」
「拙者は来て呉れるものと思っているぞ」
吉之丞はそう云うと、返辞を待たずに去って行った。
その夜、海雲寺へ集った人数は四十人に近かった。近習番が中心で、多くは旗本の若者であるが、中には、馬廻りの老人組も四五人みえていた。……合議が始っても、牧之助の来る様子はなかった、吉之丞はなんども玄関へ見に出ていたが、遂《つい》に諦《あきら》めて席に就いた。
中心になって語っていたのは、辺木《へぎ》五郎兵衛であった。
「色々と意見はあるが、拙者は各々《おのおの》の説をひっくるめて、もう少しはっきりと事情を突詰めてみたい」
五郎兵衛は、力のある声で続けた。
「……新参組の大崎半九郎はじめ、腕自慢の暴れ者がのし[#「のし」に傍点]廻るのは、お労りの御意があるだけのことではない。原因はその以前にある。つまり、彼等が過当な高禄を以てお取立てを受けた、それが増上慢の根だ」
[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]
「いったい、彼等は何者なんだ」
五郎兵衛は、声を励まして云った。
「大崎玄蕃は何者だ、村上、真鍋は何者だ、なるほど、彼等は豪勇の士であるかも知れない。豊家《ほうけ》の侍として、また改易された旧主、福島正則の家臣として、幾戦場に功名手柄をたてた雄傑であるかも知れない、……しかし、この紀伊のお家になんの功があった?」
一座の人々は、いずれも、
――云ったり五郎兵衛。
という表情で、眼を輝かした。
「水戸からの随身で、御馬前に働いた家中の者は多い、父や兄弟をお家のために喪《うしな》った人々も少くない、みんな三河以来の御恩顧人だ、……しかし、その譜代の者でも、いきなり、千石二千石の御加増という例はないぞ。……それを、お家のために馬草《まぐさ》を刈る功もなかった浪人者が、玄蕃は八千石、村上、真鍋はそれぞれ二千石という高禄を賜わっている。この過分なお手当にはどうした仔細があるのだ」
「御家風が紊《みだ》れている、老職が盲《めし》いているのだ。このままでは、真実心から御奉公する者がなくなるぞ!」
「それだ、それを云いたいのだ」
五郎兵衛は続けた、「……武士は俸禄に依《よ》って御奉公をするものではない。万石を戴《いただ》こうと一人|扶持《ぶち》の切米《きりまい》を戴こうと、武士として御奉公に身命を惜しまざる道は一つだ。しかし、このように、曾《かつ》てお家になんの功績もない者共が、譜代の者を飛越す高禄で召抱えられるようでは、やがて不惜身命《ふしゃくしんみょう》の御奉公をする者はなくなる道理だ。……お上にはまだお年若であり、勇士豪傑を召抱えようとの思召《おぼしめす》はよく分るが、これではお家万代のためにならん」
「そうだ、このまま見過すべきことではないぞ」
左右に嗷々《ごうごう》と声があがった。
「半九郎づれがのさばる肚は、自分が高禄で召抱えられたのを、家中にそれだけの人物なしと見ての振舞いだ」
「新参者を逐《お》わなくてはならん」
「でなければ、彼等に足軽の扶持を与えるべきだ」
一時にみんなが叫びだした。……すると、その騒ぎの中から、静かに立上って声をかけた者があった。喧々嗷々《けんけんごうごう》とした一座は、その声が静かな底力のあるものだっただけに、ぴったりと鎮《しずま》って一時に振返った。
立上ったのは、高田牧之助であった。
「御一統のお説はよく伺った」
彼はゆっくりとした、歯切れのいい調子で云いだした。
「しかし、失敬だが各々の思案は的外れだ。各々はいまお上の御意を論《あげつら》い、老職方を盲人だと云われたが、眼の見えぬのは各々の方だ」
「高田、……過言は許さんぞ」
「まあ聞け、いま五郎兵衛の云った通り、大崎、真鍋、村上の人々はお家になんの功もない、それは事実だ。お家になんの功もない浪人者に、八千石、乃至《ないし》二千石などという高禄を賜わった事も前例のない過分な御恩命だ」
「それだけ分っていたら、我々の意見を的外れだと云うところはあるまい」
「いや的外れだ、まるで外れている」
牧之助は、ぐっと声に力を入れて、
「各々は御恩命の過当な点だけを見て、どうして斯様《かよう》なお扱いがあるのかという点を考えていない。……一座の意見をつづめると、ただお上がお年若で、御分別が浅いためだというように思える、馬鹿な説だ」
「…………」
「お上には御分別がある。それも各々よりは、ひと桁《けた》もふた桁も違う深い御分別があるのだ。よく聞け。……大坂の陣が終って天下は御宗家のものとなった。しかし、まだ諸国には、豊家恩顧の大名が勢力の根を張っているのだぞ、どんな小さな隙《すき》があっても、どこの一角が崩れても、天下の乱に及ぶ危険はまだ去ってはいないのだ。……大崎玄蕃、村上彦右衛門、真鍋五郎右衛門、これらの人々はお家にはなんの功もない。しかし、一旦《いったん》事ある時は、いずれも三軍の将たるべき人物だ。言葉を変えて云えば、彼等は恐ろしい火薬と云えよう、……捨てて置けば、何処《どこ》へ行ってどんな爆発をせぬとも限らぬ、現に福島家改易の折には、諸方から召抱えの使者が殺到したという、その中で、紀伊に御随身申したのは、ただお上の過分なお手当があったからだ。……お上は天下のため、御宗家万代のために、恐るべき火薬を御自分の手に買取られたのだ」
みんな声をのんで黙した。牧之助は、声を低めながら続けた。
「これほどの御意が察せられず、お上にたいして兎角《とこ》う申上げるなどとは笑止極まる、貴公たちが盲いていると申しても過言ではあるまい。それでもなお疑わしかったら、試みに大崎玄蕃どのを訪ねてみるがいい、……さすがに人物だ、当の玄蕃どのは初めからお上の御真意をお察し申し、和歌山城の壕《ほり》の埋草になる覚悟を笑って居られた、拙者の申すことは、これだけだ」
牧之助はそう云うと、一座に軽く会釈《えしゃく》して退席しようとした。……すると向うから、
「高田氏、待たれい」
と五郎兵衛が呼び止めた。
[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]
「貴公の只今《ただいま》の説、まことに道理だ、我ら全く一言もない、しかし……改めて訊《き》くが、お上がそれほど天下の御為に大事をとって在《おわ》すという時、それを承知しながら貴公はなぜ刀を捨てるのだ、なんのためにお側を去って百姓などになるのだ」
「拙者は刀を捨てはしない」
牧之助は力を籠《こ》めて答えた。
「……捨てるどころか、むしろこれから本当に刀を執って起《た》つのだ。戦塵《せんじん》おさまってようやく三年、天下もお家もこれから泰平の世を築きあげる大切な時期に当面している、国の鎮《しず》めとして、また国をうち建てる力として、我らはいま新しい戦に向わなければならないのだ……この刀は」
と、彼は左手に提《ひっさ》げた刀を叩《たた》いてつづけた。
「この刀は戦場のお役に立つだけで能《よく》事《こと》足りるのではない、万民|安堵《あんど》の世を築く、新しい戦の守となるべきだ。……城を護《まも》るも刀、民たちの中へ入って、共に国土を築くも刀、この刀こそ国を護り、国を築あげる力なのだ。……三日乞食をすれば精根を喪《うしな》うと云う、戴く食禄で綺羅《きら》を飾り、徒食安居すれば刀は錆《さ》びる、武士に必要なのは困難と労苦だ、労苦に鍛える刀の精神だ。拙者は西瓜作りと成る、米も麦も作ろう、そして……土を耕す心で剣の魂を磨《みが》く決心だ、各々は域を護るよき楯《たて》となって呉れ、拙者は民たちの中へ入り、民たちと共に国土を築く捨石となる、国と民とが、一つに合する大きな力を養うために!」
牧之助の言葉が終っても、人々は息をのみ頭を垂れていた。……彼の言葉の余韻が、いつまでも人々の脳裡《のうり》に警鐘の如く、力強い響きを伝えていたからである。
その翌《あく》る朝のことだった。
まだ明けきらぬ時刻で、道の霜は鈍い銀色の針を立てていた。率然と、その霜を踏み砕きながら、城外矢場下にある大崎玄蕃の屋敷内で、けたたましく人の馳駆《ちく》する物音が起った。
「半九郎、起きろ!」
「起きろ、豹《ひょう》が来たぞ」
組長屋の表へ走《は》せつけた人々は、雨戸を割れるように叩きながら、
「高田牧之助が来たぞ」
「高田の豹が来たぞ、……みんな起きて来い」
と喚《わめ》きたてた。……声につれて、長屋の中からばらばらと十四五人、素槍、抜刀を持ってとび出して来た。大崎半九郎は着流しのまま、大剣を左手に一番後ろから現われたが、その眼はいきなり、吸い付けられるように向うの築地塀《ついじべい》の蔭《かげ》へ行った。
築地の蔭に、高田牧之助が唯《ただ》一人で立っていた。彼は旅支度で、草鞋《わらじ》を穿《は》き、笠《かさ》を冠《かぶ》っていたが、半九郎の姿を見ると、笠をとり、それから腰の大小をとって、笠と共に地面へ置きながら、
「半九郎、そんなに狼狽《うろた》えることはないぞ」
と大声に呼びかけた、「……そこにいる方々も物騒な得物は片付けるがいい、拙者もこの通り丸腰になっている」
「無用の舌を叩くな、なんの用で来た」
「そう呶鳴《どな》らないで聞け、拙者はこんど新しい仕事を始めることになった、海士郡外浜へ土地を頂いて、そこで西瓜作りをやる」
「そんな戯言《たわごと》を聞く要はない」
「まあいいから聞け。それについて人手が足りない、いずれ麦も米も作ろうと思うので、貴公の二十人力を借りたいと思うのだ。……貴公ほどの武士が」
「えい黙れ、黙らぬとこの刀が」
「待て、半九郎」
牧之助が片手を出した。
その身振が、みんなの網膜の上でぱっ[#「ぱっ」に傍点]と黒い飛礫《つぶて》に化した、牧之助が跳躍したのである。そして半九郎がどう躱《かわ》す隙もなく、牧之助の拳《こぶし》は的確に彼の鼻柱を突上げていた。……あっ[#「あっ」に傍点]という声と共に、半九郎の体は折れたかと思えるかたちで仰反《のけぞ》った、そして次の刹那《せつな》には、更に踏込んで突上げた牧之助の拳を喰《くら》って、ばりばりと凄《すさま》じく雨戸を押倒しながら、長屋の土間へと顛倒《てんとう》した。
あまりに神速な動きで、一瞬、呆然《ぼうぜん》としていた人々ははっ[#「はっ」に傍点]と我に返り、
「やったぞ」
「半九郎を討たすな」
「助勢しろ!」
わっと叫びながら詰寄せた。……しかしどう手出しが出来たであろう。そのとき半九郎は猛然と起上り、まるで獣のように咆《ほ》えながら牧之助へ襲いかかった。二人の体は相撃って鳴り、牧之助の体が毬《まり》の様に地面上へ叩きつけられた。
「やったぞ半九郎」
見ていた人々は思わず声をあげた。ところがその声の終らぬうち、牧之助の上へ跳びかかった半九郎が、その体勢のまま、もんどり[#「もんどり」に傍点]打って築地塀の際《きわ》まですっ飛んだ。
[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]
胸のすく[#「すく」に傍点]ような格闘である。……すっ飛んだ半九郎がようやく起上るところへ、跳りかかった牧之助がもう一撃、小気味のいい音を立てて強《したた》かに顎《あご》を突上げる。
「よし、掛れ、豹を逃がすな」
見ていた人々がとび出そうとした時、
「待て、動くとならんぞ」
と叫ぶ者があった。ぎょっとして振返ると、小鬢《こびん》の白くなった老人が一人、大きな眼で睨《ね》めつけながら此方へやって来た。……この屋敷の主人、大崎|玄蕃允長行《げんばのすけながゆき》である、それを見るなり、人々は手にした得物を隠しながら、ばらばらと長屋の蔭へと逃げだしてしまった。……それには眼もくれず、老人は微笑を含みながら、さも興ありげに争闘のさまを見守った。半九郎はもうへとへとだった。……いや、もう精根尽きて、自分の力では立っていることも出来ず、牧之助の腕へ倒れかかり、脹《ふく》れあがった顔はぐったりと、まるで内証話でもしかけるように、相手の肩へ載せられたまませいせい[#「せいせい」に傍点]と手負い猪《じし》のように喘《あえ》いでいた。
「やったなあ、半九郎」
牧之助も片眼を腫《は》らしていた。「……貴公の右手はいい突を持ってる、気持のいい拳だ、胸のつかえ[#「つかえ」に傍点]がさっぱりと下りた、もう止《よ》そうな、そして改めて相談だ」
そう云いながら、大小と笠を拾い、片手で身支度をすると、なんと! 半九郎の体をよいしょ[#「よいしょ」に傍点]とばかりに背負《しょ》いあげた。そして、玄蕃のいることなど気付かぬ様子で、
「いいか、さっきの話の続きだが、貴公ほどの武士が、こんな狭苦しい城下町にうろうろしていて、なんの益がある」話しながら、のっしのっしと歩きだした。橫庭から門へ、門を出て右へ、……ばりっ、ばりっと霜柱を踏み砕きながら歩いて行く。
「外浜へ行けば、山野は曠《ひろ》いぞ、ここでは邪魔になる貴公の二十人力も、彼処《あすこ》へ行けば役立つことが出来る、戦場で戦うばかりが武士ではない、世を泰平にするために、泰平の世を確固たるものにするために、民たちと一緒になって働くのも武士の役目だ」
「……おろして呉れ……」
「まあ聞け、我らは父祖の代から戦塵のあいだに功名をあげた、そして幾苦難を経てようやく天下は治《おさま》った、しかし、事はいよいよこれからだ、刃金は熱《や》けている、まだ赤い、いいか、この赤いうちに刃金を鍛えるのだ。民たちのなかへ入って、ゆるぎ[#「ゆるぎ」に傍点]のない国土をうち建てるのだ。……分るか半九郎、拙者がいつか、貴公の喧嘩《けんか》を買わなかったのは、いつか貴公とこうして語る折が来ることを知っていたからだ」
「……下ろせ、下ろせ、高田」半九郎は身をもだえた。
「向うから人が来る」
「心配するな、あれは外浜へ行く我々の行列だ」
牧之助は静かに半九郎を背から下ろした。そのとき……松並木の街道を此方へ、荷物を積みあげた車や、駄馬の群を曳《ひ》いて、一団の人々が近づいて来た。共に外浜へ行く二十余人の家来と小者たちだ、みんな元気で、活《い》き活きと、会釈《えしゃく》をしながら二人の前を通り過ぎた。するとその列の半ば頃から、一人の旅装の婦人が脱けだして来て笠をとり、
「牧之助さま、わたくし、まいりました」と低く頭《こうべ》を垂れた。佐和であった。
「昨夜、兄から精《くわ》しく聞きました。女のあさはかな思案から、これまで数々と……」
「沢山々々、人間はみんな色々な欠点を持っている、思い違いもするし、過《あやま》ちも犯す、けれどこれぞ大事という時に、正しく立直ることが出来ればそれでいいのだ」
「では、では……」佐和の面に鮮かな色が甦《よみが》えった。
「わたしをお赦《ゆる》し下さいますのね」
「初めから云っていたでしょう、どんな事情が起ろうとも、貴女は牧之助の妻だと、……さあ行列に後《おく》れます、おいでなさい」
「……嬉《うれ》しゅう存じます」
佐和のひと言は、泪《なみだ》と、熱い感動に顫《ふる》えていた。そしてその泪を隠すために、素早く会釈して小走りに列を追って行った。心たのしげな、いそいそとした足どりであった。
「半九郎、行くだろうな」
「……この装《なり》でか」
「外浜に必要なのは、力と、魂だ」
「……この面《つら》でか」
半九郎は自分の顔を仰《あおむけ》にした。……頬桁《ほおげた》は脹れ、目の周りは黒く、額にはすばらしく大きな瘤《こぶ》が、それも三つほど盛上っている。牧之助は思わず失笑《ふきだ》した。失笑しながら、
「己も同じだ、この眼を見ろ」
「や、あははははは、貴公もか」
「二人とも脹れているんだ、脹れるというのはいい幸先だ、そうだろう半九郎」
「あははははは、脹れた豹か」わはははと笑いだしたが、腫れ瘤だらけの顔は笑うために歪《ゆが》んで、なんとも奇妙至極な表情になった。牧之助も笑った、二人は笑いながら、……折から燦々《さんさん》と輝きだした朝日の道を、大股《おおまた》に行列を追って歩きだした。
[#地から2字上げ](「講談雑誌」昭和十五年十二月号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「講談雑誌」
1940(昭和15)年12月号
初出:「講談雑誌」
1940(昭和15)年12月号
※表題は底本では、「紀伊《きい》快男児」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ