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羽織
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羽織
徳田秋声
徳田秋声
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)舞踊《ぶよう》
(例)舞踊《ぶよう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)年|見《み》
(例)年|見《み》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「ぐうたら」に傍点]
(例)[#「ぐうたら」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)づる/\
(例)づる/\
外人の舞踊《ぶよう》を見《み》に行つた晩《ばん》であつた。
『舞踊《ぶよう》なら私も見《み》たい』と好《よし》子もいふし、融《とほる》もその団体《だんたい》の舞踊《ぶよう》を去《きよ》年|見《み》て、ちよつと浅《あさ》い淡泊《さつぱり》した味《あぢ》のものなので、感《かん》じがよかつたところから、見《み》に行《い》きたいと思《おも》つてゐた。
融《とほる》は今でも彼女をつれて歩《ある》くのに、気がさしたけれど、大|体《たい》美《うつく》しいものをすきな彼は次第にそれに馴《な》らされていつた。一人で表《おもて》を歩《ある》いても、誰《だれ》もさう自分を注《ちう》目するものはない。名の知《し》れた作家であらうが何であらうが、巷《ちまた》の群衆《ぐんしゆう》にとつては何でもない貧弱《ひんじやく》な一人の男にすぎなかつた。それが自分であることをおもふと、群衆《ぐんしゆう》のなかにまぎれこんでゐる一人の人間としてのまづ何よりも気|軽《がる》であつた。彼は何うかすると、名もない、貧《まづ》しい一人の市民でありたいと希《こひねが》ふことがあつた。何等かの意味《いみ》で、文学|好《ず》きな青《せい》年などに顔《かほ》を見《み》られることなしに、社会の底《そこ》にもぐつてゐた方が、どんなに気|楽《らく》で安|易《い》だらうと思《おも》つた。
彼はかつてある不|思議《しぎ》な大学生の運命《うんめい》を見《み》たことがあつた。性格《せいかく》のどこかにぐうたら[#「ぐうたら」に傍点]なところがあつたために、学|資《し》を貢《みつ》いでゐた叔《を》父などからも見放《みはな》されて、いつとはなし学校もづる/\に休《や》めてしまつて、どこかへ姿《すがた》を隠《かく》してしまつた。友人はみな彼を気の毒《どく》に思《おも》つてゐた。いくらか心|配《ぱい》して、叔父《をぢ》とのあひだに斡旋《あつせん》したり、物|質《しつ》上の心|遣《つか》ひをしてくれたものもあつた。しかし彼の行方については、誰《だれ》も知《し》るものはなかつた。すると或る時、土工のなかへ交《まじ》つて、泥《どろ》まみれになつて働《はたら》いてゐる彼の姿《すがた》を、ふと深《ふか》川の場末《ばすゑ》で見《み》たものがあつた。彼は到頭《たうとう》労働《らうどう》者の群《むれ》へ陥《お》ちて行つたのであつた。それは少し極端《きよくたん》な例《れい》かも知《し》れない。しかし人間には向《かう》上|性《せい》があると同時に、堕落性《だらくせい》もあるものと見《み》るのが至|当《たう》かも知《し》れないのであつた。それは水に溺《おぼ》れたものが、抵抗《ていかう》する力がなくなると、楽《らく》々と波《なみ》の底《そこ》に沈《しづ》んで、静《しづ》かに死を待《ま》つと同じやうな気|持《もち》であつた。
融《とほる》の性格《せいかく》がたとひ何んなに弱《よわ》いものであるにしたところで、まさかそんな風《ふう》ではなかつた。しかし今のやうな運命《うんめい》に到達《たうたつ》するまでにはよくもあんな危《あやふ》いところを通《とほ》つて来たものだと、後から考《かんが》へると、慄然《ぞつ》とするやうな危《あぶな》いところを平気で渡《わた》つて来たものであつた。そして少しづゝ彼の努《ど》力が酬《むく》はれるやうになつても、彼は屡《しば/\》その運命《うんめい》に脊《せ》中を向《む》けて、安|易《い》な傍道《わきみち》へそれて行きたいやうな怠《なま》け魂情《こんじやう》にひかれるのであつた。融《とほる》にもし妻《さい》子がなかつたり、いゝ友人がなかつたら、彼は何うなつて行つたかも知《し》れないのであつた。
それは兎《と》も角《かく》として、好《よし》子と一|緒《しよ》に劇場《げきぢやう》へなんか入るときの彼は、人々から好意的《かういてき》の、もしくはいくらか冷笑的《れいせうてき》の目を四方から向《む》けられるのが、何といつても恥《はづ》かしかつた。しかし好《よし》子は芸術家《げいじゆつ》にさういつた特権《とくけん》が恵《めぐ》まれてゐるやうにいふのであつた。そして彼女のやうな魅《み》力のある若《わか》い美《うつく》しい女が、彼について歩《ある》くことは、普通《ふつう》の若《わか》い美《うつく》しい男女同|士《し》が一|緒《しよ》に歩《ある》くよりも、美《うつく》しくはないまでも、少くとも人目にはいぢらしく映《うつ》るものと考《かんが》へてゐるらしかつた。
『私をもつてゐることを、十分|誇《ほこ》つてゐていゝのよ』とさういふ風《ふう》にはいはないまでも、融《とほる》のやうに卑《ひ》下する必要《ひつえう》は少しもないと思《おも》つてゐた。
勿論《もちろん》融《とほる》の気|持《もち》にも矛盾《むじゆん》があつた。しかし彼には打|算《さん》はなかつた。正|直《ぢき》なところ心|持《もち》にしつくりしない或ものを感《かん》ずると同時に、わざとづうづうしく構《かま》へてゐるところもあつた。
その時も上の子|供《ども》の芳雄《よしを》を加|担《たん》させた。若《わか》いものを一人加へるのが、新時代の空《くう》気のなかへ入つて行く場《ば》合、彼に取つても安|易《い》だつたし、好《よし》子に取つても新らしい気分と折《をり》合つて行くのに適当《てきたう》であつた。
時間はまだ早《はや》かつた。融《とほる》たちは芳雄《よしを》に取らせた場《ば》所へ入つて行つた。
『こゝぢや近《ちか》すぎやしないこと?』好《よし》子はその場《ば》所が余《あま》り舞台《ぶたい》に近《ちか》いので、座席《ざせき》の前に立つたまゝ呟《つぶや》いた。
『少し近《ちか》すぎるね。』
『さうですか。こゝならまあ好《い》い方ですよ。』
兎《と》に角《かく》揃《そろ》つて椅《い》子についた。広《ひろ》間も二階《かい》も椅《い》子が所々塞《ふさ》がつてゐるだけであつた。開演《かいえん》には三十分も間があつた。黄昏《たそがれ》の色《いろ》に似《に》た薄暗《うすくら》さの底《そこ》に三人はしばらくプログラムを見《み》てゐた。
『少し出ようか。』
融《とほる》が煙草《たばこ》を吸《す》ひに廊《らう》下へ出て行くと、後の二人も続《つゞ》いた。そしてようその辺《へん》を行つたり来たりしてゐるうちに、廊《らう》下の傍《わき》にある婦《ふ》人の休|憩室《けいしつ》へと入つて行つた。
『ちよつと可いな、この位の部《へ》屋が一つあると。』芳雄《よしを》は赤《あか》い縞《しま》の壁《へき》紙にぱつとした、しかしドアや窓《まど》や椅《い》子なんかの何|処《こ》かどつしりした感《かん》じのする部《へ》屋を見《み》まはしながらいつた。
『二|階《かい》のホールを御|覧《らん》になりましたか。』芳雄《よしを》は父にいつた。
『さあ何うだつたかな。』
『それあ綺麗《きれい》ですよ。こゝでは彼処《あすこ》が一番|好《い》い。』
『さう、見《み》たい。』好《よし》子は疲《つか》れたやうな顔《かほ》に、融《とほる》のものだといつた女らしい気分に甘《あま》へるやうにいつた。
「行つて見《み》ませんか。』
『先生は。』
『行つておいで。』
『いらつしやらない!』好《よし》子はねだるやうにいつた。
『いゝぢやないか。行つておいで。』
『さう。ぢや行つて見《み》ませう。』
融《とほる》は独《ひと》りで煙草《たばこ》をふかしてゐたが、彼もあまりぢつとしてはゐられない方であつた。彼は休|憩室《けいしつ》を出て廊《らう》下をぶら/\した。そして暫《しばら》く行つたり来たりしてゐるうちに、知《し》つた顔《かほ》でも見《み》えるかと思《おも》つて、入口のホールの方へと出て行つた。
そこで多|勢《せい》の人が動《うご》いてゐたが、まだそんなに込《こみ》合つてはゐなかつた。果《はた》してこの劇場《げきぢやう》と多少|関係《くわんけい》のある旧知《きうち》の一人の顔《かほ》をそこに発|見《けん》した。思《おも》ひがけない青《せい》年作家の一人からも挨拶《あいさつ》された。融《とほる》は恐《おそ》ろしく健忘性《けんぼうしやう》になつてゐた。接触面《せつしよくめん》の狭《せま》い若《わか》い時代にそんなでもなかつたが、この七八年ばかり世間との交渉《かうせふ》が、或|意味《いみ》では広《ひろ》く、浅《あさ》くなつてゐるところから、劇場《げきぢやう》の廊《らう》下などで偶《たま》に行き逢《あ》つても、それが誰《たれ》であるかを薩張《さつは》り思《おも》ひだせなかつたり、飛《と》んだ感違《かんちが》ひをしたりしてひどく狼狽《らうばい》することが度々であつた。
円|形《けい》のクシヨンに腰《こし》かけて、兎角《とかく》こゝの廊《らう》下で落《おち》合ふ機《き》会の多い、その一人の旧知《きうち》と友人たちの噂《うはさ》などしてゐると、そこへまた劇《げき》文学に関《くわん》して薀蓄《うんちく》の深《ふか》い一人の知《ち》人に逢《あ》つて、近状《きんじやう》を語《かた》り合つたりした。
融《とほる》は好《よし》子と離《はな》れてゐるのが、どこか安|易《い》でもあつたが、何か物|足《た》りない感《かん》じもしないことはなかつた。廊《らう》下の人|込《こ》みを二人で歩《ある》くのは気が差《さ》したが、そんな場《ば》所で一人でおかれることは、また場《ば》所|馴《な》れない彼女に取つて頼《たよ》りない思《おも》ひであることは、彼にも解《わか》つてゐた。
するとその時、ふと右手の方を見《み》ると、そこに階段《かいたん》をおりて来る好《よし》子と芳雄《よしを》の姿《すがた》が目に入つた。二人はちやんと爪《つま》先をそろへて、いくらか硬《かた》くなつたやうな表情《へうじやう》で、そろ/\と降《お》りて来た。融《とほる》は見《み》ては悪《わる》いものをでも見《み》たやうな気がして、そのまゝ目をそらせた。
何の気もつかずに、二人はやがて三間ばかり離《はな》れた彼の目の前をそろり/\通《とほ》つていつた。好《よし》子は絶《た》えず俯《うつむ》いてゐたが、芳雄《よしを》の目がちらと父を見《み》かけたやうに融《とほる》は微《かす》かに感《かん》じたのであつた。
大分たつてから融《とほる》が座席《ざせき》へ帰《かへ》つたときには、彼等もそこに坐《すわ》つてゐた。
『どこへ行つていらしたの?』好《よし》子が尋《たづ》ねた。
融《とほる》はその言葉《ことば》が、別《べつ》に白々しく耳《みゝ》に響《ひゞ》いた訳《わけ》ではなかつたが、まだそんなに人もゐないのに、階段《かいたん》から一目に見《み》える円いクシヨンに腰《こし》かけてゐた融《とほる》の姿《すがた》に二人とも気づかないのが、可笑《をか》しく思《おも》へた。
『今あすこにゐたぢやないか。』
『さうどこに。』
『どこにたつて、階段《かいたん》をおりて来るところを、私は見《み》たんだもの。あすこの円いソフアのところで。あれが目に入らないなんて……。』融《とほる》は少し怒《いか》つたやうにいつた。
彼は好《よし》子と子|供《ども》と一|緒《しよ》になることに別《べつ》に不|快《くわい》を感《かん》ずる理由《りいう》は
なかつた。むしろ彼等が親《した》しくあることに一|種《しゆ》の安心があつた。しかし若《も》し好《よし》子が、対象《たいしやう》が芳雄《よしを》でないまでも、兎《と》に角《かく》融《とほる》と生|活《くわつ》を共にしてゐることを少しでも窮窟《きうくつ》に感《かん》ずるなら、それが本|当《たう》に少しでも傍《そば》を離《はな》れてほしくないやうにいひもし、してもゐる彼女の言葉《ことば》や態《たい》度を信《しん》じてゐる彼の気|持《もち》を裏切《うらぎ》るものだといふやうな――それほど明白ではないまでも、さういつた感《かん》じがその瞬《しゆん》間、彼女を遠《とほ》く離《はな》して見《み》るやうな気分にならせたのであつた。この場《ば》合に限《かぎ》らず、総《すべ》てさういつた気|持《もち》の現《あら》はれるとき、好《よし》子は信《しん》じきつて愛《あい》することのできない彼を、いつも利己《りこ》主|義《ぎ》だといふのであつた。融《とほる》は好《よし》子を信《しん》じてゐたけれど、何うかすると離《はな》れて彼女を見《み》るやうな気|持《もち》になるのは、彼としては是非《ぜひ》もないことであつた。
好《よし》子は怒《おこ》つてゐる融《とほる》の語《ご》気を感《かん》じた。
『私たちは貴方《あなた》を捜《さが》してゐたのよ。こちらへ帰《かへ》つてみると、貴方《あなた》がいらつしやらないものだから、どこへいらしたのかと思《おも》つて、方々お捜《さが》ししてゐたのよ。』
『私があすこにゐたのに気がつかないのは可笑《をか》しいぢやないか。』
『どこに?』
『まあ可い。』
『そんな事《こと》をいはれちや迷惑《めいわく》だわ。私ちつとも気がつかなかつたんですもの。』好《よし》子はさういつて、真剣《むき》になつて弁解《べんかい》しはじめた。融《とほる》は少し困《こま》つて来た。
『まあ、可《い》い。そんな事《こと》はどうでも可《い》いんだ。』
『可《よ》くはないわ。ダンスを見《み》る気分が、すつかり破《こは》れてしまつたわ。』
ぢり/\と幕《まく》のベルが鳴《な》つた。廊《らう》下にゐた人達《たち》が、ぞろ/\座席《ざせき》へ入つて来た。前の方の正|面寄《めんよ》りのところに、若《わか》い令嬢《れいぢやう》たちの一|群《むれ》が、ちよつと見《み》に、ひどく派《は》手々々しい服装《ふくさう》をして並《なら》んでゐた。
『あれが現《げん》代だよ。』融《とほる》は好《よし》子にさゝやいた。彼は今夜は好《よし》子の服装《ふくさう》が、何となく引立たないやうに感《かん》じてゐた。
『えゝ、さうね。』好《よし》子もその方を見《み》やりながら、その一人の服装《ふくさう》に特《とく》に目を注《そゝ》いだ。
『私さつきから気づいてゐるのよ。あの黒《くろ》つぽい羽織《はおり》着た人。しみつとしてゐて可《い》いわ。』
そこへ又一人小|柄《から》な女か、つい目の前の椅《い》子へ来て腰《こし》かけるのが目についた。ちよつと古|風《ふう》な友|禅模《ぜんも》様の着ものに半|襟《えり》をかけて、同じやうな羽織《はおり》を着て、頭髪《あたま》を無|雑《ざう》作に束《つく》ねてゐた。
『意《い》気な作りぢやないか。』
『これが意《い》気? これ洋妾《ラシヤメン》よ。私ちやんと睨《にら》んでゐるのよ。宝《はう》石や何かで。』
『いや……。』
『さうよ、先生の趣味《しゆみ》も私わかつたわ。』好《よし》子は不|満《まん》さうにいふのであつた。
兎《と》に角《かく》好《よし》子は気分がこはれて、期待《きたい》したほど興味《きようみ》がなかつたといつて、後で不|満《まん》を訴《うつた》へてゐた。
『あんな時は先生も、可《よ》し行かうといつてきて下さると可《い》いのよ。愛《あい》人としてそのくらゐの気|持《もち》はもつものよ。』好《よし》子はいふのであつた。
『可《よ》し、さうしよう。』融《とほる》も笑《わら》つてゐた。
『舞踊《ぶよう》なら私も見《み》たい』と好《よし》子もいふし、融《とほる》もその団体《だんたい》の舞踊《ぶよう》を去《きよ》年|見《み》て、ちよつと浅《あさ》い淡泊《さつぱり》した味《あぢ》のものなので、感《かん》じがよかつたところから、見《み》に行《い》きたいと思《おも》つてゐた。
融《とほる》は今でも彼女をつれて歩《ある》くのに、気がさしたけれど、大|体《たい》美《うつく》しいものをすきな彼は次第にそれに馴《な》らされていつた。一人で表《おもて》を歩《ある》いても、誰《だれ》もさう自分を注《ちう》目するものはない。名の知《し》れた作家であらうが何であらうが、巷《ちまた》の群衆《ぐんしゆう》にとつては何でもない貧弱《ひんじやく》な一人の男にすぎなかつた。それが自分であることをおもふと、群衆《ぐんしゆう》のなかにまぎれこんでゐる一人の人間としてのまづ何よりも気|軽《がる》であつた。彼は何うかすると、名もない、貧《まづ》しい一人の市民でありたいと希《こひねが》ふことがあつた。何等かの意味《いみ》で、文学|好《ず》きな青《せい》年などに顔《かほ》を見《み》られることなしに、社会の底《そこ》にもぐつてゐた方が、どんなに気|楽《らく》で安|易《い》だらうと思《おも》つた。
彼はかつてある不|思議《しぎ》な大学生の運命《うんめい》を見《み》たことがあつた。性格《せいかく》のどこかにぐうたら[#「ぐうたら」に傍点]なところがあつたために、学|資《し》を貢《みつ》いでゐた叔《を》父などからも見放《みはな》されて、いつとはなし学校もづる/\に休《や》めてしまつて、どこかへ姿《すがた》を隠《かく》してしまつた。友人はみな彼を気の毒《どく》に思《おも》つてゐた。いくらか心|配《ぱい》して、叔父《をぢ》とのあひだに斡旋《あつせん》したり、物|質《しつ》上の心|遣《つか》ひをしてくれたものもあつた。しかし彼の行方については、誰《だれ》も知《し》るものはなかつた。すると或る時、土工のなかへ交《まじ》つて、泥《どろ》まみれになつて働《はたら》いてゐる彼の姿《すがた》を、ふと深《ふか》川の場末《ばすゑ》で見《み》たものがあつた。彼は到頭《たうとう》労働《らうどう》者の群《むれ》へ陥《お》ちて行つたのであつた。それは少し極端《きよくたん》な例《れい》かも知《し》れない。しかし人間には向《かう》上|性《せい》があると同時に、堕落性《だらくせい》もあるものと見《み》るのが至|当《たう》かも知《し》れないのであつた。それは水に溺《おぼ》れたものが、抵抗《ていかう》する力がなくなると、楽《らく》々と波《なみ》の底《そこ》に沈《しづ》んで、静《しづ》かに死を待《ま》つと同じやうな気|持《もち》であつた。
融《とほる》の性格《せいかく》がたとひ何んなに弱《よわ》いものであるにしたところで、まさかそんな風《ふう》ではなかつた。しかし今のやうな運命《うんめい》に到達《たうたつ》するまでにはよくもあんな危《あやふ》いところを通《とほ》つて来たものだと、後から考《かんが》へると、慄然《ぞつ》とするやうな危《あぶな》いところを平気で渡《わた》つて来たものであつた。そして少しづゝ彼の努《ど》力が酬《むく》はれるやうになつても、彼は屡《しば/\》その運命《うんめい》に脊《せ》中を向《む》けて、安|易《い》な傍道《わきみち》へそれて行きたいやうな怠《なま》け魂情《こんじやう》にひかれるのであつた。融《とほる》にもし妻《さい》子がなかつたり、いゝ友人がなかつたら、彼は何うなつて行つたかも知《し》れないのであつた。
それは兎《と》も角《かく》として、好《よし》子と一|緒《しよ》に劇場《げきぢやう》へなんか入るときの彼は、人々から好意的《かういてき》の、もしくはいくらか冷笑的《れいせうてき》の目を四方から向《む》けられるのが、何といつても恥《はづ》かしかつた。しかし好《よし》子は芸術家《げいじゆつ》にさういつた特権《とくけん》が恵《めぐ》まれてゐるやうにいふのであつた。そして彼女のやうな魅《み》力のある若《わか》い美《うつく》しい女が、彼について歩《ある》くことは、普通《ふつう》の若《わか》い美《うつく》しい男女同|士《し》が一|緒《しよ》に歩《ある》くよりも、美《うつく》しくはないまでも、少くとも人目にはいぢらしく映《うつ》るものと考《かんが》へてゐるらしかつた。
『私をもつてゐることを、十分|誇《ほこ》つてゐていゝのよ』とさういふ風《ふう》にはいはないまでも、融《とほる》のやうに卑《ひ》下する必要《ひつえう》は少しもないと思《おも》つてゐた。
勿論《もちろん》融《とほる》の気|持《もち》にも矛盾《むじゆん》があつた。しかし彼には打|算《さん》はなかつた。正|直《ぢき》なところ心|持《もち》にしつくりしない或ものを感《かん》ずると同時に、わざとづうづうしく構《かま》へてゐるところもあつた。
その時も上の子|供《ども》の芳雄《よしを》を加|担《たん》させた。若《わか》いものを一人加へるのが、新時代の空《くう》気のなかへ入つて行く場《ば》合、彼に取つても安|易《い》だつたし、好《よし》子に取つても新らしい気分と折《をり》合つて行くのに適当《てきたう》であつた。
時間はまだ早《はや》かつた。融《とほる》たちは芳雄《よしを》に取らせた場《ば》所へ入つて行つた。
『こゝぢや近《ちか》すぎやしないこと?』好《よし》子はその場《ば》所が余《あま》り舞台《ぶたい》に近《ちか》いので、座席《ざせき》の前に立つたまゝ呟《つぶや》いた。
『少し近《ちか》すぎるね。』
『さうですか。こゝならまあ好《い》い方ですよ。』
兎《と》に角《かく》揃《そろ》つて椅《い》子についた。広《ひろ》間も二階《かい》も椅《い》子が所々塞《ふさ》がつてゐるだけであつた。開演《かいえん》には三十分も間があつた。黄昏《たそがれ》の色《いろ》に似《に》た薄暗《うすくら》さの底《そこ》に三人はしばらくプログラムを見《み》てゐた。
『少し出ようか。』
融《とほる》が煙草《たばこ》を吸《す》ひに廊《らう》下へ出て行くと、後の二人も続《つゞ》いた。そしてようその辺《へん》を行つたり来たりしてゐるうちに、廊《らう》下の傍《わき》にある婦《ふ》人の休|憩室《けいしつ》へと入つて行つた。
『ちよつと可いな、この位の部《へ》屋が一つあると。』芳雄《よしを》は赤《あか》い縞《しま》の壁《へき》紙にぱつとした、しかしドアや窓《まど》や椅《い》子なんかの何|処《こ》かどつしりした感《かん》じのする部《へ》屋を見《み》まはしながらいつた。
『二|階《かい》のホールを御|覧《らん》になりましたか。』芳雄《よしを》は父にいつた。
『さあ何うだつたかな。』
『それあ綺麗《きれい》ですよ。こゝでは彼処《あすこ》が一番|好《い》い。』
『さう、見《み》たい。』好《よし》子は疲《つか》れたやうな顔《かほ》に、融《とほる》のものだといつた女らしい気分に甘《あま》へるやうにいつた。
「行つて見《み》ませんか。』
『先生は。』
『行つておいで。』
『いらつしやらない!』好《よし》子はねだるやうにいつた。
『いゝぢやないか。行つておいで。』
『さう。ぢや行つて見《み》ませう。』
融《とほる》は独《ひと》りで煙草《たばこ》をふかしてゐたが、彼もあまりぢつとしてはゐられない方であつた。彼は休|憩室《けいしつ》を出て廊《らう》下をぶら/\した。そして暫《しばら》く行つたり来たりしてゐるうちに、知《し》つた顔《かほ》でも見《み》えるかと思《おも》つて、入口のホールの方へと出て行つた。
そこで多|勢《せい》の人が動《うご》いてゐたが、まだそんなに込《こみ》合つてはゐなかつた。果《はた》してこの劇場《げきぢやう》と多少|関係《くわんけい》のある旧知《きうち》の一人の顔《かほ》をそこに発|見《けん》した。思《おも》ひがけない青《せい》年作家の一人からも挨拶《あいさつ》された。融《とほる》は恐《おそ》ろしく健忘性《けんぼうしやう》になつてゐた。接触面《せつしよくめん》の狭《せま》い若《わか》い時代にそんなでもなかつたが、この七八年ばかり世間との交渉《かうせふ》が、或|意味《いみ》では広《ひろ》く、浅《あさ》くなつてゐるところから、劇場《げきぢやう》の廊《らう》下などで偶《たま》に行き逢《あ》つても、それが誰《たれ》であるかを薩張《さつは》り思《おも》ひだせなかつたり、飛《と》んだ感違《かんちが》ひをしたりしてひどく狼狽《らうばい》することが度々であつた。
円|形《けい》のクシヨンに腰《こし》かけて、兎角《とかく》こゝの廊《らう》下で落《おち》合ふ機《き》会の多い、その一人の旧知《きうち》と友人たちの噂《うはさ》などしてゐると、そこへまた劇《げき》文学に関《くわん》して薀蓄《うんちく》の深《ふか》い一人の知《ち》人に逢《あ》つて、近状《きんじやう》を語《かた》り合つたりした。
融《とほる》は好《よし》子と離《はな》れてゐるのが、どこか安|易《い》でもあつたが、何か物|足《た》りない感《かん》じもしないことはなかつた。廊《らう》下の人|込《こ》みを二人で歩《ある》くのは気が差《さ》したが、そんな場《ば》所で一人でおかれることは、また場《ば》所|馴《な》れない彼女に取つて頼《たよ》りない思《おも》ひであることは、彼にも解《わか》つてゐた。
するとその時、ふと右手の方を見《み》ると、そこに階段《かいたん》をおりて来る好《よし》子と芳雄《よしを》の姿《すがた》が目に入つた。二人はちやんと爪《つま》先をそろへて、いくらか硬《かた》くなつたやうな表情《へうじやう》で、そろ/\と降《お》りて来た。融《とほる》は見《み》ては悪《わる》いものをでも見《み》たやうな気がして、そのまゝ目をそらせた。
何の気もつかずに、二人はやがて三間ばかり離《はな》れた彼の目の前をそろり/\通《とほ》つていつた。好《よし》子は絶《た》えず俯《うつむ》いてゐたが、芳雄《よしを》の目がちらと父を見《み》かけたやうに融《とほる》は微《かす》かに感《かん》じたのであつた。
大分たつてから融《とほる》が座席《ざせき》へ帰《かへ》つたときには、彼等もそこに坐《すわ》つてゐた。
『どこへ行つていらしたの?』好《よし》子が尋《たづ》ねた。
融《とほる》はその言葉《ことば》が、別《べつ》に白々しく耳《みゝ》に響《ひゞ》いた訳《わけ》ではなかつたが、まだそんなに人もゐないのに、階段《かいたん》から一目に見《み》える円いクシヨンに腰《こし》かけてゐた融《とほる》の姿《すがた》に二人とも気づかないのが、可笑《をか》しく思《おも》へた。
『今あすこにゐたぢやないか。』
『さうどこに。』
『どこにたつて、階段《かいたん》をおりて来るところを、私は見《み》たんだもの。あすこの円いソフアのところで。あれが目に入らないなんて……。』融《とほる》は少し怒《いか》つたやうにいつた。
彼は好《よし》子と子|供《ども》と一|緒《しよ》になることに別《べつ》に不|快《くわい》を感《かん》ずる理由《りいう》は
なかつた。むしろ彼等が親《した》しくあることに一|種《しゆ》の安心があつた。しかし若《も》し好《よし》子が、対象《たいしやう》が芳雄《よしを》でないまでも、兎《と》に角《かく》融《とほる》と生|活《くわつ》を共にしてゐることを少しでも窮窟《きうくつ》に感《かん》ずるなら、それが本|当《たう》に少しでも傍《そば》を離《はな》れてほしくないやうにいひもし、してもゐる彼女の言葉《ことば》や態《たい》度を信《しん》じてゐる彼の気|持《もち》を裏切《うらぎ》るものだといふやうな――それほど明白ではないまでも、さういつた感《かん》じがその瞬《しゆん》間、彼女を遠《とほ》く離《はな》して見《み》るやうな気分にならせたのであつた。この場《ば》合に限《かぎ》らず、総《すべ》てさういつた気|持《もち》の現《あら》はれるとき、好《よし》子は信《しん》じきつて愛《あい》することのできない彼を、いつも利己《りこ》主|義《ぎ》だといふのであつた。融《とほる》は好《よし》子を信《しん》じてゐたけれど、何うかすると離《はな》れて彼女を見《み》るやうな気|持《もち》になるのは、彼としては是非《ぜひ》もないことであつた。
好《よし》子は怒《おこ》つてゐる融《とほる》の語《ご》気を感《かん》じた。
『私たちは貴方《あなた》を捜《さが》してゐたのよ。こちらへ帰《かへ》つてみると、貴方《あなた》がいらつしやらないものだから、どこへいらしたのかと思《おも》つて、方々お捜《さが》ししてゐたのよ。』
『私があすこにゐたのに気がつかないのは可笑《をか》しいぢやないか。』
『どこに?』
『まあ可い。』
『そんな事《こと》をいはれちや迷惑《めいわく》だわ。私ちつとも気がつかなかつたんですもの。』好《よし》子はさういつて、真剣《むき》になつて弁解《べんかい》しはじめた。融《とほる》は少し困《こま》つて来た。
『まあ、可《い》い。そんな事《こと》はどうでも可《い》いんだ。』
『可《よ》くはないわ。ダンスを見《み》る気分が、すつかり破《こは》れてしまつたわ。』
ぢり/\と幕《まく》のベルが鳴《な》つた。廊《らう》下にゐた人達《たち》が、ぞろ/\座席《ざせき》へ入つて来た。前の方の正|面寄《めんよ》りのところに、若《わか》い令嬢《れいぢやう》たちの一|群《むれ》が、ちよつと見《み》に、ひどく派《は》手々々しい服装《ふくさう》をして並《なら》んでゐた。
『あれが現《げん》代だよ。』融《とほる》は好《よし》子にさゝやいた。彼は今夜は好《よし》子の服装《ふくさう》が、何となく引立たないやうに感《かん》じてゐた。
『えゝ、さうね。』好《よし》子もその方を見《み》やりながら、その一人の服装《ふくさう》に特《とく》に目を注《そゝ》いだ。
『私さつきから気づいてゐるのよ。あの黒《くろ》つぽい羽織《はおり》着た人。しみつとしてゐて可《い》いわ。』
そこへ又一人小|柄《から》な女か、つい目の前の椅《い》子へ来て腰《こし》かけるのが目についた。ちよつと古|風《ふう》な友|禅模《ぜんも》様の着ものに半|襟《えり》をかけて、同じやうな羽織《はおり》を着て、頭髪《あたま》を無|雑《ざう》作に束《つく》ねてゐた。
『意《い》気な作りぢやないか。』
『これが意《い》気? これ洋妾《ラシヤメン》よ。私ちやんと睨《にら》んでゐるのよ。宝《はう》石や何かで。』
『いや……。』
『さうよ、先生の趣味《しゆみ》も私わかつたわ。』好《よし》子は不|満《まん》さうにいふのであつた。
兎《と》に角《かく》好《よし》子は気分がこはれて、期待《きたい》したほど興味《きようみ》がなかつたといつて、後で不|満《まん》を訴《うつた》へてゐた。
『あんな時は先生も、可《よ》し行かうといつてきて下さると可《い》いのよ。愛《あい》人としてそのくらゐの気|持《もち》はもつものよ。』好《よし》子はいふのであつた。
『可《よ》し、さうしよう。』融《とほる》も笑《わら》つてゐた。
四五日たつた或朝、二人が床《とこ》を離《はな》れて、『今日は勉強《ベんきやう》しようね』などゝ、ちやうど好《よし》子も患部《くわんぶ》の痛《いた》みのないときで、顔《かほ》が晴《はれ》々してゐた。彼女は近《ちか》いうち、田舎《ゐなか》から母|親《おや》が出て来次第に、入|院《ゐん》して手|術《じゆつ》を受《う》けることになつてゐた。もう疾《とつ》くに入|院《ゐん》するつもりで、大分前から人にも話《はな》してゐるのであつたが、矢張《やつは》り思《おも》ひきつて入いるといふ日が来なかつた。子|供《ども》の冬仕度に編《あ》みものもしなければならなかつたし、入いるまでに書《か》いておかなければならない原稿《げんかう》もあつた。それに家の方の経済《けいさい》や何かも、心|細《ほそ》くないやうにしておかなければならなかつた。
『私丈夫になつたら、先生のお家のお話《はなし》もしますわ。介抱《かいはう》ばかりしていたゞいて、何にもしておあげしないで、御|免《めん》なさいね。』
好《よし》子は心からさういふこともあつたが、何うかすると又、融《とほる》が自分の家|庭《てい》や子|供《ども》だけの幸福《かうふく》と安|全《ぜん》について、ちやんとしたやり方をしておきながら、二人の子|供《ども》をかゝへて、病《びやう》気や生|活《くわつ》について、人の知《し》らない苦労《くらう》をしてゐる自分の内|面《めん》に立入つて、少しも愛《あい》人らしい世|話《わ》をしてくれない融《とほる》が、ひどく自我主|義《ぎ》の男のやうに思《おも》はれて、幾《いく》分の荒《あら》けてくるのを何うすることも出来なかつた。さうかといつて、多|勢《せい》の子|供《ども》をもつて、働《はたら》くのに精根《せいこん》を疲《つか》らせてゐる融《とほる》の苦《くる》しみを感《かん》じない訳《わけ》ではなかつたので、物|質《しつ》上の保護《ほご》を事実《じじつ》要求《えうきう》しようとも思《おも》つてゐなかつた。
二|階《かい》にはうら/\と日が差《さ》してゐた。融《とほる》もこれでは仕方がないと思《おも》ひながら、毎《まい》日々々愛《あい》に耽《ふけ》つて暮《くら》すやうなことが多かつた。お互《たが》ひはお互《たが》ひの生|活《くわつ》の邪魔《じやま》をしてゐることが、痛《いた》いほど判《わか》つてゐた。悔《く》ひが悔《く》ひに続《つゞ》いた。
『お掃除《さうぢ》して、先生もお書《か》きなさい。もうどこへも出ないから。』
『うむ、書《か》かう。』
さういひながら、二人で散《ち》らかつた机《つくゑ》のまはりを片《かた》づけてゐた。
やがて彼女は下へおりて、髪《かみ》や顔《かほ》を直《なほ》しにかゝつた。そして起《お》き出した子|供《ども》に、洋服《やうふく》を着せたりした。
融《とほる》も下へおりて行つた。
『先生、少しこゝにお坐《すわ》りになつて。今すぐオートミルができてよ。』
『さう。それでも可いよ。』
『今日おちついて勉強《べんきやう》することにしませうね。私|芸術慾《げいじゆつよく》が湧《わ》いて来た。』
『さう。』
融《とほる》は台《たい》所へ出て、ざつと顔《かほ》を洗《あら》つて来た。身《み》じまひをした好《よし》子は、箪笥《たんす》の前に立つてゐた。女中もそこにゐた。朝|飯《めし》がやがて始《はじ》まつた。
融《とほる》が二|階《かい》の部《へ》屋にゐると、好《よし》子も上つて来た。食事《しよくじ》をしてゐる間に、女中が掃除《さうぢ》をしてくれたので、いくらか綺麗《きれい》になつてゐた。秋|晴《は》れの空《そら》が高く澄《す》んでゐた。爽《さわや》かな風《かぜ》が、手擦《すり》ぎわに幹《みき》をくねらせてゐる、桜《さくら》の枝葉《えだは》を軽《かる》く戦《そよ》がせてゐた。
『先生、貴方《あなた》おこらないで!』
好《よし》子述不意《い》に彼の傍《そば》へ来ていつた。にこにこしてゐた。
『何を……。』
『この間|舞踊《ぶよう》を見《み》に行つたとき、先生が私の着附に不|満《まん》だつたでせう。』
『そんな事《こと》はない。』
『私が惨《みぢ》めに見《み》えたのね。』
『いや、そんな訳《わけ》でもない。それによく見《み》ると、あの目にたつた連《れん》中の服装《ふくさう》だつて、みんな落《おち》着のないものぢやないか。』
『さうよ。でも私の服装《ふくさう》をけなしたぢやありませんか。』
『非《けな》したわけぢやない。どこにゐても、注《ちう》目されるもんだから、出来ることなら、あまり変《へん》におもはれない程《てい》度の趣味《しゆみ》があつた方がいゝとおもつて。』
『さうでせう。私にもわかる。』
『あれだつて立|派《は》なものさ。』
『駄《だ》目よ、でね、先生……、あなた怒《おこ》らないで。私また羽織《はおり》を一|枚《まい》作つたのよ。』
『また?』
『いゝぢやないの。』
『それあ可いさ。』融《とほる》は苦笑《くせう》してゐた。
『先生に行つて見《み》てもらはうと思《おも》つたんだけれど、二人で行くと、却《かへ》つて孰《どつち》つかずの中|途《と》半|端《は》になつて行けないと思《おも》つたから、三四日前に一人で買《か》つて来たの。それが昨夜出来て来たの。怒《おこ》らないで。』
『可いぢやないか。どんなの。』
『貴方《あなた》がまた非《けな》すから厭《いや》。でも見《み》て下さる?』
『見《み》たいね。』
二人で下へおりて行つた。好《よし》子はそれを出して見《み》せた。深《ふか》いお上品な緑色《みどりいろ》のものであつた。その色《いろ》が裾《すそ》で中ほどぼかされてゐた。裾《すそ》は又一|段薄《たんうす》くなつてゐた。細い模《も》様が飛《と》んでゐた。模《も》様はそんなにも感《かん》心はしなかつたけれど、でも悪《わる》くはなかつた。色《いろ》はよかつた。
『いゝぢやないか。シヤルムーズ?』
『シヤルムーズの種類《しゆるゐ》でせうか知《し》ら。でもちよつと違《ちが》ふのよ。上等よ。』
『高いだらう。』
『うゝん、そんなでもない。』
でも矢張《やはり》お安くはなかつた。
『その位|奮《ふん》発しないと、やつぱり駄《だ》目なんだね。』
『さうよ。』
『着てごらん。』
好《よし》子は不|断《だん》寝衣《ねまき》にしてゐる錦紗《きんしや》の長|襦袢《じゆばん》のうへに、そつと羽織《はお》つて見《み》せた。
『どう?、をかしい?』
『をかしかない。』
『私こゝに訪問《はうもん》着のお襲《かさ》ねがあるんだけれど、派《は》手すぎるから、何かに染《そ》めかへさうとおもふの。でも、少し派《は》手でもいゝか知《し》ら。』
『見《み》せてごらん。』
好《よし》子は抽斗《ひきだし》から取出して見《み》せた。
『成|程《ほど》、少し派《は》手のやうだな。でもいゝかも知《し》れないよ。体《からだ》にかけてごらん。』
好《よし》子は着て見《み》た。淡《うす》い藤色《ふぢいろ》の矢絣《やかすり》のぼかされた地に、可なり大きな模《も》様が、前の方一|面《めん》に出てゐた。扇《あふぎ》ぢらしのやうなものであつた。色《いろ》がそんなにぱつともしないので、着て着られないことはなかつた。
『駄《だ》目ね。物はずゐぶん好《い》いんだけれど。』
『それも北海|道《だう》?』
『さう。』
『訪問《はうもん》着でも不|断《だん》着のやうに着こなせるものよ。一つ新しく拵《こしら》へてもいゝの。』
『さうだね。』
融《とほる》は彼女に贅沢《ぜいたく》はさせたくはなかつた。
それが彼女を不|幸《かう》にすることを恐《おそ》れた。しかしいくらか派《は》手にもしたかつた。
『好《い》いものばかり作らないで、不断《ふだん》着もこしらへなさい。散《さん》歩なんか銘仙《めいせん》で沢《たく》山だ。』
『そんなものが似《に》合はない人なのよ私は。それに古いものを卸《おろ》していけば、その方がかへつて経済《けいざい》なのよ。』
『兎《と》に角《かく》その羽織《はおり》は好《い》い。』
『よかつた。また先生にけなされるかと思《おも》つたら。』好《よし》子は鏡台《けふだい》の前に立つて見《み》たりした。
『わたし何|処《こ》かへゆきたくなつた。』
『さうだね。』
『新しいものは、ちよつと着こなしておかないと、更《あらた》まつていけないものよ。ちよつと出ないこと。』
それがもう十一時ごろであつた。[#地付き](昭和2年1月1日「週刊朝日」)
『私丈夫になつたら、先生のお家のお話《はなし》もしますわ。介抱《かいはう》ばかりしていたゞいて、何にもしておあげしないで、御|免《めん》なさいね。』
好《よし》子は心からさういふこともあつたが、何うかすると又、融《とほる》が自分の家|庭《てい》や子|供《ども》だけの幸福《かうふく》と安|全《ぜん》について、ちやんとしたやり方をしておきながら、二人の子|供《ども》をかゝへて、病《びやう》気や生|活《くわつ》について、人の知《し》らない苦労《くらう》をしてゐる自分の内|面《めん》に立入つて、少しも愛《あい》人らしい世|話《わ》をしてくれない融《とほる》が、ひどく自我主|義《ぎ》の男のやうに思《おも》はれて、幾《いく》分の荒《あら》けてくるのを何うすることも出来なかつた。さうかといつて、多|勢《せい》の子|供《ども》をもつて、働《はたら》くのに精根《せいこん》を疲《つか》らせてゐる融《とほる》の苦《くる》しみを感《かん》じない訳《わけ》ではなかつたので、物|質《しつ》上の保護《ほご》を事実《じじつ》要求《えうきう》しようとも思《おも》つてゐなかつた。
二|階《かい》にはうら/\と日が差《さ》してゐた。融《とほる》もこれでは仕方がないと思《おも》ひながら、毎《まい》日々々愛《あい》に耽《ふけ》つて暮《くら》すやうなことが多かつた。お互《たが》ひはお互《たが》ひの生|活《くわつ》の邪魔《じやま》をしてゐることが、痛《いた》いほど判《わか》つてゐた。悔《く》ひが悔《く》ひに続《つゞ》いた。
『お掃除《さうぢ》して、先生もお書《か》きなさい。もうどこへも出ないから。』
『うむ、書《か》かう。』
さういひながら、二人で散《ち》らかつた机《つくゑ》のまはりを片《かた》づけてゐた。
やがて彼女は下へおりて、髪《かみ》や顔《かほ》を直《なほ》しにかゝつた。そして起《お》き出した子|供《ども》に、洋服《やうふく》を着せたりした。
融《とほる》も下へおりて行つた。
『先生、少しこゝにお坐《すわ》りになつて。今すぐオートミルができてよ。』
『さう。それでも可いよ。』
『今日おちついて勉強《べんきやう》することにしませうね。私|芸術慾《げいじゆつよく》が湧《わ》いて来た。』
『さう。』
融《とほる》は台《たい》所へ出て、ざつと顔《かほ》を洗《あら》つて来た。身《み》じまひをした好《よし》子は、箪笥《たんす》の前に立つてゐた。女中もそこにゐた。朝|飯《めし》がやがて始《はじ》まつた。
融《とほる》が二|階《かい》の部《へ》屋にゐると、好《よし》子も上つて来た。食事《しよくじ》をしてゐる間に、女中が掃除《さうぢ》をしてくれたので、いくらか綺麗《きれい》になつてゐた。秋|晴《は》れの空《そら》が高く澄《す》んでゐた。爽《さわや》かな風《かぜ》が、手擦《すり》ぎわに幹《みき》をくねらせてゐる、桜《さくら》の枝葉《えだは》を軽《かる》く戦《そよ》がせてゐた。
『先生、貴方《あなた》おこらないで!』
好《よし》子述不意《い》に彼の傍《そば》へ来ていつた。にこにこしてゐた。
『何を……。』
『この間|舞踊《ぶよう》を見《み》に行つたとき、先生が私の着附に不|満《まん》だつたでせう。』
『そんな事《こと》はない。』
『私が惨《みぢ》めに見《み》えたのね。』
『いや、そんな訳《わけ》でもない。それによく見《み》ると、あの目にたつた連《れん》中の服装《ふくさう》だつて、みんな落《おち》着のないものぢやないか。』
『さうよ。でも私の服装《ふくさう》をけなしたぢやありませんか。』
『非《けな》したわけぢやない。どこにゐても、注《ちう》目されるもんだから、出来ることなら、あまり変《へん》におもはれない程《てい》度の趣味《しゆみ》があつた方がいゝとおもつて。』
『さうでせう。私にもわかる。』
『あれだつて立|派《は》なものさ。』
『駄《だ》目よ、でね、先生……、あなた怒《おこ》らないで。私また羽織《はおり》を一|枚《まい》作つたのよ。』
『また?』
『いゝぢやないの。』
『それあ可いさ。』融《とほる》は苦笑《くせう》してゐた。
『先生に行つて見《み》てもらはうと思《おも》つたんだけれど、二人で行くと、却《かへ》つて孰《どつち》つかずの中|途《と》半|端《は》になつて行けないと思《おも》つたから、三四日前に一人で買《か》つて来たの。それが昨夜出来て来たの。怒《おこ》らないで。』
『可いぢやないか。どんなの。』
『貴方《あなた》がまた非《けな》すから厭《いや》。でも見《み》て下さる?』
『見《み》たいね。』
二人で下へおりて行つた。好《よし》子はそれを出して見《み》せた。深《ふか》いお上品な緑色《みどりいろ》のものであつた。その色《いろ》が裾《すそ》で中ほどぼかされてゐた。裾《すそ》は又一|段薄《たんうす》くなつてゐた。細い模《も》様が飛《と》んでゐた。模《も》様はそんなにも感《かん》心はしなかつたけれど、でも悪《わる》くはなかつた。色《いろ》はよかつた。
『いゝぢやないか。シヤルムーズ?』
『シヤルムーズの種類《しゆるゐ》でせうか知《し》ら。でもちよつと違《ちが》ふのよ。上等よ。』
『高いだらう。』
『うゝん、そんなでもない。』
でも矢張《やはり》お安くはなかつた。
『その位|奮《ふん》発しないと、やつぱり駄《だ》目なんだね。』
『さうよ。』
『着てごらん。』
好《よし》子は不|断《だん》寝衣《ねまき》にしてゐる錦紗《きんしや》の長|襦袢《じゆばん》のうへに、そつと羽織《はお》つて見《み》せた。
『どう?、をかしい?』
『をかしかない。』
『私こゝに訪問《はうもん》着のお襲《かさ》ねがあるんだけれど、派《は》手すぎるから、何かに染《そ》めかへさうとおもふの。でも、少し派《は》手でもいゝか知《し》ら。』
『見《み》せてごらん。』
好《よし》子は抽斗《ひきだし》から取出して見《み》せた。
『成|程《ほど》、少し派《は》手のやうだな。でもいゝかも知《し》れないよ。体《からだ》にかけてごらん。』
好《よし》子は着て見《み》た。淡《うす》い藤色《ふぢいろ》の矢絣《やかすり》のぼかされた地に、可なり大きな模《も》様が、前の方一|面《めん》に出てゐた。扇《あふぎ》ぢらしのやうなものであつた。色《いろ》がそんなにぱつともしないので、着て着られないことはなかつた。
『駄《だ》目ね。物はずゐぶん好《い》いんだけれど。』
『それも北海|道《だう》?』
『さう。』
『訪問《はうもん》着でも不|断《だん》着のやうに着こなせるものよ。一つ新しく拵《こしら》へてもいゝの。』
『さうだね。』
融《とほる》は彼女に贅沢《ぜいたく》はさせたくはなかつた。
それが彼女を不|幸《かう》にすることを恐《おそ》れた。しかしいくらか派《は》手にもしたかつた。
『好《い》いものばかり作らないで、不断《ふだん》着もこしらへなさい。散《さん》歩なんか銘仙《めいせん》で沢《たく》山だ。』
『そんなものが似《に》合はない人なのよ私は。それに古いものを卸《おろ》していけば、その方がかへつて経済《けいざい》なのよ。』
『兎《と》に角《かく》その羽織《はおり》は好《い》い。』
『よかつた。また先生にけなされるかと思《おも》つたら。』好《よし》子は鏡台《けふだい》の前に立つて見《み》たりした。
『わたし何|処《こ》かへゆきたくなつた。』
『さうだね。』
『新しいものは、ちよつと着こなしておかないと、更《あらた》まつていけないものよ。ちよつと出ないこと。』
それがもう十一時ごろであつた。[#地付き](昭和2年1月1日「週刊朝日」)
底本:「徳田秋聲全集第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「週刊朝日」
1927(昭和2)年1月1日
初出:「週刊朝日」
1927(昭和2)年1月1日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「週刊朝日」
1927(昭和2)年1月1日
初出:「週刊朝日」
1927(昭和2)年1月1日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ