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旧友
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旧友
徳田秋声
徳田秋声
【テキスト中に現れる記号について】
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(例)庄司《しやうじ》
(例)庄司《しやうじ》
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(例)一|緒《しよ》
(例)一|緒《しよ》
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(例)てん/\
(例)てん/\
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庄司《しやうじ》はA―海岸《かいがん》に滞在《たいぎい》してゐるのを幸《さいは》ひ、同《おな》じ海岸線《かいがんせん》の西《にし》の方《はう》にあるK―市《し》にゐる、旧友《きういう》の木下《きのした》を訪《たづ》ねやうと思《おも》ひ立《た》つた。
庄司《しやうじ》はその時《とき》所用《しよよう》があつて久振《ひさしふり》でO―市《し》へ来《き》てゐたのであつたが、どこか落着《おちつ》いて仕事《しごと》の出来《でき》るやうな場所《ばしよ》をと思《おも》つたけれども、ちよつと適当《てきたう》らしい処《ところ》が見《み》つからなかつた。何処《どこ》も大《たい》した変《かは》りがないのであつたがいそして事実《じじつ》はどこでも好《よ》い訳《わけ》であつたが、さう云《い》ふことには甚《ひど》く不決断《ふけつだん》な彼《かれ》のことゝて、到頭《たうとう》兄《あに》の勧《すゝ》めに従《したが》つて兄《あに》の養子夫婦《やうしふうふ》の住《すま》つてゐるA―海岸《かいがん》へ、とにかく落着《おちつ》くことになつたのであつた。そこは六甲山《ろくかふさん》の下《した》の方《はう》で、少《すこ》し東《ひがし》へ寄《よ》つたところの山《やま》の上《うへ》に、近年《きんねん》開拓《かいたく》された××園《ゑん》といふ酒落《しや》れたところもあつた。庄司《しやうじ》は兄《あに》と一|緒《しよ》にそこへも行《い》つて見《み》たのであつたが、何《なん》だか寂《さび》しすぎて長《なが》くはゐられないやうな気《き》がした。そんな処《ところ》へ落着《おちつ》いて、澄《すま》してゐるのが、若《わか》い夫婦《ふうふ》に悪《わる》いやうにも感《かん》じられた。それに庄司《しやうじ》は、余《あま》り孤独《こどく》に成《な》り切《き》つてしまふと、又《また》それに馴《な》れてしまつて、何《な》にもしないで幾日《いくにち》でもぽかんとしてゐるやうな変《へん》な癖《くせ》があつた。
その家《いへ》の座敷《ざしき》の一つに、彼《かれ》はとにかく御輿《みこし》を据《す》ゑた。青葉《あをは》の頃《ころ》で、その海岸《かいがん》では月見草《つきみさう》などが生茂《おひしげ》つて、やがて花《はな》の咲《さ》く夕闇《ゆふやみ》の頃《ころ》の散歩《さんぽ》などが楽《たの》しまれるのであつたが、朝晩《あさばん》の山《やま》おろしは寒《さむ》かつた。荒《あら》い海風《うみかぜ》に草木《くさき》のそよぐ朝《あさ》などの爽《さわ》やかさが、彼《かれ》には殊《こと》に快適《くわいてき》であつた。
庄司《しやうじ》は一日二日を机《つくゑ》に向《むか》ひながら無駄《むだ》に過《すご》してゐたが、O―市《し》へ来《く》る度《たび》に思出《おもひだ》してゐながら訪《たづ》ねる機会《きくわい》の、なかつた木村《きむら》が、すぐ鼻《はな》の先《さ》きのK―市《し》の学校《がくかう》に勤《つと》めてゐて、夜《よ》は又《また》N―村《むら》の家《いへ》にゐることゝ思《おも》ふと、急《きふ》に逢《あ》つて見《み》たくなつた。
『これからちよつとK―にゐる友達《ともだち》を訪《たづ》ねてこようかと思《おも》ふんですがね。』庄司《しやうじ》は嫂《あによめ》の姪《めひ》にあたる主婦《しゆふ》の梅代《うめよ》に声《こゑ》かけた。彼《かれ》はその時《とき》漸《やつ》と仕事《しごと》に手《て》をつけかけてゐたが、ちよつと其《そ》の息苦《いきぐる》しい気分《きぶん》をそらしたいやうに思《おも》つて、遽《にはか》に思《おも》ひ立《た》つたのであつた。
『さうですか。此《こ》のあひだ言《い》つておいでの方《かた》ですな。』
『ちよつと厄介《やくかい》になつた男《をとこ》でね、もう十|幾年《いくねん》と逢《あ》ふ機会《きくわい》がなかつたのでね。』
『やつぱり先生《せんせい》ですか。』
『いや、事務《じむ》ですよ。尤《もつと》もF―さんが、あの学校《がくかう》にゐる間《あひだ》は、時々《とき/″\》様子《やうす》を聞《き》いたがね。』
F―は矢張《やはり》O―の親類《しんるゐ》の一人《ひとり》で、梅代《うめよ》には従兄《いとこ》にあたる青年《せいねん》であつた。F―が未《ま》だあの学校《がくかう》の生徒《せいと》であつた頃《ころ》、庄司《しやうじ》は木村《きむら》のことを聞《き》いてみた。
『あゝ、あの人《ひと》叔父《をぢ》さんの友人《いうじん》ですか。気《き》のさつぱりした好《よ》い人《ひと》ですぜ。あの人《ひと》近頃《ちかごろ》は大分《だいぶん》工合《ぐあひ》が好《よ》いやうです。』F―は言《い》つてゐた。
庄司《しやうじ》は東京《とうけう》を出《で》るときから、今度《こんど》こそは訪《たづ》ねようと思《おも》つて、少《すこ》し許《ばか》り土産物《みやげもの》も用意《ようい》して来《き》てゐたけれど、それは梅代《うめよ》の実家《じつか》の家《いへ》において来《き》た鞄《かばん》の中《なか》に仕舞《しま》つてあるので、気紛《きまぐ》れな彼《かれ》の今《いま》の思立《おもひたち》には間《ま》に合《あ》はなかつた。
『お早《は》やうお帰《かへ》り。』梅代《うめよ》はさう言《い》つて送出《おくりだ》した。
庄司《しやうじ》は東京《とうきやう》へ出《で》たとき、大分《だいぶん》木村《きむら》の世話《せわ》になつた。木村《きむら》の下宿《げしゆく》が足溜《あしたま》りであつたばかりでなく、庄司《しやうじ》の志《こゝろざ》してゐるものを何《ど》うにかして与《あた》へてやらうと苦心《くしん》した。そして庄司《しやうじ》はそつちこつちを転々《てん/\》した果《はて》に、木村《きむら》の親類《しんるゐ》の一人《ひとり》が経営《けいえい》を引受《ひきう》けることになつた、小規模《せうきば》の或《あ》る予備校《よびかう》に英語《えいご》の先生《せんせい》として紹介《せうかい》された。勿論《もちろん》その校主《かうしゆ》の家庭《かてい》に寄食《きしよく》して、書生《しよせい》として何《なに》かの事《こと》を足《た》す傍《かたは》ら、さう多《おほ》く教師《けうし》を傭《やと》ふ余裕《よゆう》のない、その予備校《よびかう》の英語《えいご》の或《あ》る部分《ぶぶん》を担当《たんたう》させられることになつたのであつたが、それだけでも庄司《しやうじ》に取《と》つては、ちよつと息《いき》がつげたのであつた。彼《かれ》は毎日《まいにち》一|時間《じかん》づゝリンカルンか誰《たれ》かの伝記《でんき》だつたと思ふが、ちよつと一|遍《へん》下読《したよ》みをしてから、教壇《けうだん》へ上《あが》つて行《ゆ》くのであつたが、ミーニングは彼《かれ》にも興味《きようみ》があつたので、おとなしい多勢《おほせい》の生徒《せいと》が目《め》を聳《そばた》てるくらゐ調子《てうし》づいて雄弁《ゆうべん》に弁《しやべ》つたものであつた。勿論《もちろん》何《ど》うせ長《なが》くそんな事《こと》はしてゐられる筈《はず》もなかつたし、本統《ほんとう》に教壇《けうだん》に立《た》つつもりなら、資格《しかく》も得《え》なければならないので、ほんの一|時《じ》凌《しの》ぎの足場《あしば》に過《す》ぎないのであつたが、生徒達《せいとたち》の目《め》には、異様《いやう》なこの年少《ねんせう》の先生《せんせい》が随分《ずゐぶん》調子《てうし》はづれに思《おも》はれたに違《ちが》ひなかつた。庄司《しやうじ》は学校《がくかう》にゐるとき、読書力《どくしよりよく》の余《あま》り豊《ゆた》かでない英語《えいご》の先生《せんせい》を、何《ど》うかすると窘《くる》しめるのが面白《おもしろ》くて、何《なに》かと意固地《いこぢ》に捻《ひね》くつたものだつたが、それに比《くら》べると此処《ここ》の生徒《せいと》は少《すこ》しも青年《せいねん》らしい元気《げんき》のないのが頼《たよ》りないやうな気《き》がした。最初《さいしよ》の日《ひ》、庄司《しやうじ》が高《たか》い調子《てうし》で直訳《ちよくやく》をやつてゐると、廊下《らうか》の方《はう》にふと人影《ひとかげ》が差《さ》したので、振向《ふりむ》いてみると目《め》のおそろしく光《ひか》る、色《いろ》の黒《くろ》い校主《かうしゆ》がそつと足音《あしおと》を忍《しの》んで、彼《かれ》の教授振《けうじゆふり》を聞《き》きに来《き》てゐることに気《き》がついた。
庄司《しやうじ》は又《また》月謝《げつしや》の催促状《さいそくじやう》を書《か》くくらゐの事務《じむ》も執《と》つたりしたが、今《いま》の校主《かうしゆ》が引受《ひきう》けることになつた時《とき》には、その学校《がくかう》の経営《けいえい》も大分《だいぶん》怪《あや》しくなつてゐるらしかつた。
庄司《しやうじ》はやがて生活《せいくわつ》の空虚《くうきよ》を感《かん》じて苛苛《いらいら》してゐた。校主《かうしゆ》の夫人《ふじん》は毎朝《まいあさ》俥《くるま》で一《ひと》つ橋《はし》の学校《がくかう》へ出《で》て行《い》つたが煉瓦造《れんぐわつく》りの其建物《そのたてもの》の中《なか》の幾箇《いくこ》かの部屋《へや》の一《ひと》つに前《まへ》の校主時代《かうしゆじだい》からの関係《くわんけい》か何《なに》かで、美《うつく》しい若《わか》い夫婦《ふうふ》が棲《す》まつてゐて、その男《をとこ》も毎朝《まいあさ》弁当《べんたう》をもつて、どこかへ通勤《つうきん》してゐた。官吏《くわんり》あがりの校主《かうしゆ》は、外《ほか》に何《なに》か仕事《しごと》をやつてゐるらしかつた。怠屈《たいくつ》な日《ひ》が二月もつゞいた果《は》て、庄司《しやうじ》は到頭《たうとう》或《あ》る大《おほ》きな出版屋《しゆつぱんや》に口《くち》を求《もと》めて、彼等《かれら》と別《わか》れることになつたのであつたが、何《なん》の当《あ》てもなしに盲目的《まうもくてき》に東京《とうきやう》へ出《で》て来《き》た庄司《しやうじ》が、そこまで取《と》りついて行《い》くまでには、善良《ぜんれう》で親切《しんせつ》な木村《きむら》の好意《かうい》が何《ど》のくらゐ役立《やくた》つたかしれないのであつた。木村《きむら》が弁護士《べんごし》の試験《しけん》を受《う》ける時分《じぶん》に、庄司《しやうじ》も少《すこ》しは彼《かれ》を助《たす》けることはできたけれど、木村《きむら》から受《う》けた好意《かうい》に比《くら》べると、それは物《もの》の数《かず》でもなかつた。木村《きむら》はしかし二|度目《どめ》か三|度目《どめ》に受《う》けた、その試験《しけん》も思《おも》はしく行《ゆ》かなかつた。それに段々《だん/\》年《とし》も取《と》つてゐて、間《ま》もなく細君《さいくん》を迎《むか》へたり、子供《こども》ができたりした。彼《かれ》は志望《しばう》を抛《なげう》つて、K―市《し》へ赴任《ふにん》することになつた。
『女房《にようばう》や子供《こども》があつては、もう迚《とて》も勉強《べんきやう》はできん。』木村《きむら》は言《い》つてゐた。
ちやうど其《そ》の時《とき》庄司《しやうじ》は大学《だいがく》にゐる友人《いうじん》が毎月《まいつき》の学資《がくし》にするつもりで、借家《しやくや》を建《た》てたところで、庄司《しやうじ》はその一|軒《けん》に入《はい》つて世帯《しよたい》をもつことになつたので、木村《きむら》は立《た》ちかけに其《そ》の世帯道具《しよたいだうぐ》を庄司《しやうじ》に譲《ゆづ》ることになつた。それは米櫃《こめひつ》とかお鉢《はち》とか茶棚《ちやたな》だとか云《い》ふやうなものであつたが、その中《なか》で赤《あか》い丼《どんぶり》などが今《いま》でも彼《かれ》の餉台《ちやぶだい》のうへに、時々《とき/″\》総菜《そうさい》などを盛《も》られて、懐《なつ》かしいその時分《じぶん》のことを思《おも》ひ出《だ》させるのであつた。
『これは木村《きむら》からのお譲《ゆづ》りものだ。』庄司《しやうじ》は時々《とき/″\》子供《こども》の前《まへ》なぞで言ひ出した。
『ずゐぶん古《ふる》いものですね。』庄司《しやうじ》の妻《つま》も苦笑《くせう》してゐたが、彼女《かのぢよ》には寧《むし》ろその家《いへ》の持主《もちぬし》であるところの、その頃《ころ》の大学生《だいがくせい》、今《いま》の羽振《ばふり》のいゝ××県知事《けんちじ》であるところの中野《なかの》のことが、余計《よけい》思出《おもひだ》されるのであつた。勿論《もちろん》彼女《かのぢよ》は木村《きむら》をよく知《し》らなかつた。七八|年前《ねんぜん》に彼《かれ》も一|度《ど》上京《じやうきやう》して、庄司《しやうじ》の妻《つま》も初《はじ》めて逢《あ》つたのであつたが、それきり前後《ぜんご》に交渉《かうせふ》もなかつたのであつた。
庄司《しやうじ》はその時《とき》所用《しよよう》があつて久振《ひさしふり》でO―市《し》へ来《き》てゐたのであつたが、どこか落着《おちつ》いて仕事《しごと》の出来《でき》るやうな場所《ばしよ》をと思《おも》つたけれども、ちよつと適当《てきたう》らしい処《ところ》が見《み》つからなかつた。何処《どこ》も大《たい》した変《かは》りがないのであつたがいそして事実《じじつ》はどこでも好《よ》い訳《わけ》であつたが、さう云《い》ふことには甚《ひど》く不決断《ふけつだん》な彼《かれ》のことゝて、到頭《たうとう》兄《あに》の勧《すゝ》めに従《したが》つて兄《あに》の養子夫婦《やうしふうふ》の住《すま》つてゐるA―海岸《かいがん》へ、とにかく落着《おちつ》くことになつたのであつた。そこは六甲山《ろくかふさん》の下《した》の方《はう》で、少《すこ》し東《ひがし》へ寄《よ》つたところの山《やま》の上《うへ》に、近年《きんねん》開拓《かいたく》された××園《ゑん》といふ酒落《しや》れたところもあつた。庄司《しやうじ》は兄《あに》と一|緒《しよ》にそこへも行《い》つて見《み》たのであつたが、何《なん》だか寂《さび》しすぎて長《なが》くはゐられないやうな気《き》がした。そんな処《ところ》へ落着《おちつ》いて、澄《すま》してゐるのが、若《わか》い夫婦《ふうふ》に悪《わる》いやうにも感《かん》じられた。それに庄司《しやうじ》は、余《あま》り孤独《こどく》に成《な》り切《き》つてしまふと、又《また》それに馴《な》れてしまつて、何《な》にもしないで幾日《いくにち》でもぽかんとしてゐるやうな変《へん》な癖《くせ》があつた。
その家《いへ》の座敷《ざしき》の一つに、彼《かれ》はとにかく御輿《みこし》を据《す》ゑた。青葉《あをは》の頃《ころ》で、その海岸《かいがん》では月見草《つきみさう》などが生茂《おひしげ》つて、やがて花《はな》の咲《さ》く夕闇《ゆふやみ》の頃《ころ》の散歩《さんぽ》などが楽《たの》しまれるのであつたが、朝晩《あさばん》の山《やま》おろしは寒《さむ》かつた。荒《あら》い海風《うみかぜ》に草木《くさき》のそよぐ朝《あさ》などの爽《さわ》やかさが、彼《かれ》には殊《こと》に快適《くわいてき》であつた。
庄司《しやうじ》は一日二日を机《つくゑ》に向《むか》ひながら無駄《むだ》に過《すご》してゐたが、O―市《し》へ来《く》る度《たび》に思出《おもひだ》してゐながら訪《たづ》ねる機会《きくわい》の、なかつた木村《きむら》が、すぐ鼻《はな》の先《さ》きのK―市《し》の学校《がくかう》に勤《つと》めてゐて、夜《よ》は又《また》N―村《むら》の家《いへ》にゐることゝ思《おも》ふと、急《きふ》に逢《あ》つて見《み》たくなつた。
『これからちよつとK―にゐる友達《ともだち》を訪《たづ》ねてこようかと思《おも》ふんですがね。』庄司《しやうじ》は嫂《あによめ》の姪《めひ》にあたる主婦《しゆふ》の梅代《うめよ》に声《こゑ》かけた。彼《かれ》はその時《とき》漸《やつ》と仕事《しごと》に手《て》をつけかけてゐたが、ちよつと其《そ》の息苦《いきぐる》しい気分《きぶん》をそらしたいやうに思《おも》つて、遽《にはか》に思《おも》ひ立《た》つたのであつた。
『さうですか。此《こ》のあひだ言《い》つておいでの方《かた》ですな。』
『ちよつと厄介《やくかい》になつた男《をとこ》でね、もう十|幾年《いくねん》と逢《あ》ふ機会《きくわい》がなかつたのでね。』
『やつぱり先生《せんせい》ですか。』
『いや、事務《じむ》ですよ。尤《もつと》もF―さんが、あの学校《がくかう》にゐる間《あひだ》は、時々《とき/″\》様子《やうす》を聞《き》いたがね。』
F―は矢張《やはり》O―の親類《しんるゐ》の一人《ひとり》で、梅代《うめよ》には従兄《いとこ》にあたる青年《せいねん》であつた。F―が未《ま》だあの学校《がくかう》の生徒《せいと》であつた頃《ころ》、庄司《しやうじ》は木村《きむら》のことを聞《き》いてみた。
『あゝ、あの人《ひと》叔父《をぢ》さんの友人《いうじん》ですか。気《き》のさつぱりした好《よ》い人《ひと》ですぜ。あの人《ひと》近頃《ちかごろ》は大分《だいぶん》工合《ぐあひ》が好《よ》いやうです。』F―は言《い》つてゐた。
庄司《しやうじ》は東京《とうけう》を出《で》るときから、今度《こんど》こそは訪《たづ》ねようと思《おも》つて、少《すこ》し許《ばか》り土産物《みやげもの》も用意《ようい》して来《き》てゐたけれど、それは梅代《うめよ》の実家《じつか》の家《いへ》において来《き》た鞄《かばん》の中《なか》に仕舞《しま》つてあるので、気紛《きまぐ》れな彼《かれ》の今《いま》の思立《おもひたち》には間《ま》に合《あ》はなかつた。
『お早《は》やうお帰《かへ》り。』梅代《うめよ》はさう言《い》つて送出《おくりだ》した。
庄司《しやうじ》は東京《とうきやう》へ出《で》たとき、大分《だいぶん》木村《きむら》の世話《せわ》になつた。木村《きむら》の下宿《げしゆく》が足溜《あしたま》りであつたばかりでなく、庄司《しやうじ》の志《こゝろざ》してゐるものを何《ど》うにかして与《あた》へてやらうと苦心《くしん》した。そして庄司《しやうじ》はそつちこつちを転々《てん/\》した果《はて》に、木村《きむら》の親類《しんるゐ》の一人《ひとり》が経営《けいえい》を引受《ひきう》けることになつた、小規模《せうきば》の或《あ》る予備校《よびかう》に英語《えいご》の先生《せんせい》として紹介《せうかい》された。勿論《もちろん》その校主《かうしゆ》の家庭《かてい》に寄食《きしよく》して、書生《しよせい》として何《なに》かの事《こと》を足《た》す傍《かたは》ら、さう多《おほ》く教師《けうし》を傭《やと》ふ余裕《よゆう》のない、その予備校《よびかう》の英語《えいご》の或《あ》る部分《ぶぶん》を担当《たんたう》させられることになつたのであつたが、それだけでも庄司《しやうじ》に取《と》つては、ちよつと息《いき》がつげたのであつた。彼《かれ》は毎日《まいにち》一|時間《じかん》づゝリンカルンか誰《たれ》かの伝記《でんき》だつたと思ふが、ちよつと一|遍《へん》下読《したよ》みをしてから、教壇《けうだん》へ上《あが》つて行《ゆ》くのであつたが、ミーニングは彼《かれ》にも興味《きようみ》があつたので、おとなしい多勢《おほせい》の生徒《せいと》が目《め》を聳《そばた》てるくらゐ調子《てうし》づいて雄弁《ゆうべん》に弁《しやべ》つたものであつた。勿論《もちろん》何《ど》うせ長《なが》くそんな事《こと》はしてゐられる筈《はず》もなかつたし、本統《ほんとう》に教壇《けうだん》に立《た》つつもりなら、資格《しかく》も得《え》なければならないので、ほんの一|時《じ》凌《しの》ぎの足場《あしば》に過《す》ぎないのであつたが、生徒達《せいとたち》の目《め》には、異様《いやう》なこの年少《ねんせう》の先生《せんせい》が随分《ずゐぶん》調子《てうし》はづれに思《おも》はれたに違《ちが》ひなかつた。庄司《しやうじ》は学校《がくかう》にゐるとき、読書力《どくしよりよく》の余《あま》り豊《ゆた》かでない英語《えいご》の先生《せんせい》を、何《ど》うかすると窘《くる》しめるのが面白《おもしろ》くて、何《なに》かと意固地《いこぢ》に捻《ひね》くつたものだつたが、それに比《くら》べると此処《ここ》の生徒《せいと》は少《すこ》しも青年《せいねん》らしい元気《げんき》のないのが頼《たよ》りないやうな気《き》がした。最初《さいしよ》の日《ひ》、庄司《しやうじ》が高《たか》い調子《てうし》で直訳《ちよくやく》をやつてゐると、廊下《らうか》の方《はう》にふと人影《ひとかげ》が差《さ》したので、振向《ふりむ》いてみると目《め》のおそろしく光《ひか》る、色《いろ》の黒《くろ》い校主《かうしゆ》がそつと足音《あしおと》を忍《しの》んで、彼《かれ》の教授振《けうじゆふり》を聞《き》きに来《き》てゐることに気《き》がついた。
庄司《しやうじ》は又《また》月謝《げつしや》の催促状《さいそくじやう》を書《か》くくらゐの事務《じむ》も執《と》つたりしたが、今《いま》の校主《かうしゆ》が引受《ひきう》けることになつた時《とき》には、その学校《がくかう》の経営《けいえい》も大分《だいぶん》怪《あや》しくなつてゐるらしかつた。
庄司《しやうじ》はやがて生活《せいくわつ》の空虚《くうきよ》を感《かん》じて苛苛《いらいら》してゐた。校主《かうしゆ》の夫人《ふじん》は毎朝《まいあさ》俥《くるま》で一《ひと》つ橋《はし》の学校《がくかう》へ出《で》て行《い》つたが煉瓦造《れんぐわつく》りの其建物《そのたてもの》の中《なか》の幾箇《いくこ》かの部屋《へや》の一《ひと》つに前《まへ》の校主時代《かうしゆじだい》からの関係《くわんけい》か何《なに》かで、美《うつく》しい若《わか》い夫婦《ふうふ》が棲《す》まつてゐて、その男《をとこ》も毎朝《まいあさ》弁当《べんたう》をもつて、どこかへ通勤《つうきん》してゐた。官吏《くわんり》あがりの校主《かうしゆ》は、外《ほか》に何《なに》か仕事《しごと》をやつてゐるらしかつた。怠屈《たいくつ》な日《ひ》が二月もつゞいた果《は》て、庄司《しやうじ》は到頭《たうとう》或《あ》る大《おほ》きな出版屋《しゆつぱんや》に口《くち》を求《もと》めて、彼等《かれら》と別《わか》れることになつたのであつたが、何《なん》の当《あ》てもなしに盲目的《まうもくてき》に東京《とうきやう》へ出《で》て来《き》た庄司《しやうじ》が、そこまで取《と》りついて行《い》くまでには、善良《ぜんれう》で親切《しんせつ》な木村《きむら》の好意《かうい》が何《ど》のくらゐ役立《やくた》つたかしれないのであつた。木村《きむら》が弁護士《べんごし》の試験《しけん》を受《う》ける時分《じぶん》に、庄司《しやうじ》も少《すこ》しは彼《かれ》を助《たす》けることはできたけれど、木村《きむら》から受《う》けた好意《かうい》に比《くら》べると、それは物《もの》の数《かず》でもなかつた。木村《きむら》はしかし二|度目《どめ》か三|度目《どめ》に受《う》けた、その試験《しけん》も思《おも》はしく行《ゆ》かなかつた。それに段々《だん/\》年《とし》も取《と》つてゐて、間《ま》もなく細君《さいくん》を迎《むか》へたり、子供《こども》ができたりした。彼《かれ》は志望《しばう》を抛《なげう》つて、K―市《し》へ赴任《ふにん》することになつた。
『女房《にようばう》や子供《こども》があつては、もう迚《とて》も勉強《べんきやう》はできん。』木村《きむら》は言《い》つてゐた。
ちやうど其《そ》の時《とき》庄司《しやうじ》は大学《だいがく》にゐる友人《いうじん》が毎月《まいつき》の学資《がくし》にするつもりで、借家《しやくや》を建《た》てたところで、庄司《しやうじ》はその一|軒《けん》に入《はい》つて世帯《しよたい》をもつことになつたので、木村《きむら》は立《た》ちかけに其《そ》の世帯道具《しよたいだうぐ》を庄司《しやうじ》に譲《ゆづ》ることになつた。それは米櫃《こめひつ》とかお鉢《はち》とか茶棚《ちやたな》だとか云《い》ふやうなものであつたが、その中《なか》で赤《あか》い丼《どんぶり》などが今《いま》でも彼《かれ》の餉台《ちやぶだい》のうへに、時々《とき/″\》総菜《そうさい》などを盛《も》られて、懐《なつ》かしいその時分《じぶん》のことを思《おも》ひ出《だ》させるのであつた。
『これは木村《きむら》からのお譲《ゆづ》りものだ。』庄司《しやうじ》は時々《とき/″\》子供《こども》の前《まへ》なぞで言ひ出した。
『ずゐぶん古《ふる》いものですね。』庄司《しやうじ》の妻《つま》も苦笑《くせう》してゐたが、彼女《かのぢよ》には寧《むし》ろその家《いへ》の持主《もちぬし》であるところの、その頃《ころ》の大学生《だいがくせい》、今《いま》の羽振《ばふり》のいゝ××県知事《けんちじ》であるところの中野《なかの》のことが、余計《よけい》思出《おもひだ》されるのであつた。勿論《もちろん》彼女《かのぢよ》は木村《きむら》をよく知《し》らなかつた。七八|年前《ねんぜん》に彼《かれ》も一|度《ど》上京《じやうきやう》して、庄司《しやうじ》の妻《つま》も初《はじ》めて逢《あ》つたのであつたが、それきり前後《ぜんご》に交渉《かうせふ》もなかつたのであつた。
K―市《し》についた庄司《しやうじ》は、造船場《ざうせんぢやう》の煙突《えんとつ》から濛々《もう/\》と吐出《はきだ》される煤煙《ばいえん》の立迷《たちまよ》ふ坂《さか》をだら/\上《のぼ》つて、やがて木村《きむら》の勤《つと》めてゐる学校《がくかう》に彼《かれ》を訪問《はうもん》した。下駄《げた》を小使《こつかひ》にあづけて、長《なが》い廊下《らうか》を通《とほ》つて行《ゆ》くと、昔《むかし》東京《とうきやう》でも、同《おな》じ種類《しゆるゐ》の学校《がくかう》に事務《じむ》を執《と》つてゐた木村《きむら》を、何《なに》かと言《い》つては訪《たづ》ねて行《い》つた頃《ころ》の遣瀬《やるせ》ない気持《きもち》や光景《くわうけい》が、まざ/\彼《かれ》の目《め》に再現《さいげん》するのであつた。
事務所《じむしよ》へ入《はい》ると、直《す》ぐそこの窓《まど》のところの卓上《テーブル》の前《まへ》に、彼《かれ》は木村《きむら》を見出《みいだ》した。彼《かれ》はさう変《かは》つてゐなかつた。頭《あたま》も白《しろ》くはなつてゐなかつたが、しかし矢張《やは》り変《かは》つてゐた。
『やあ』と木村《きむら》は嬉《うれ》しさうに微笑《びせう》して、
『新聞《しんぶん》でこつちへ来《き》てゐることは知《し》つてゐたが、よく来《き》て呉《く》れました。いつも盛《さか》んで、家内《かさい》と噂《うはさ》して蔭《かげ》ながら悦《よろこ》んでゐるよ。』
『どうも御無沙汰《ごぶさた》ばかりで済《す》まないんです。しかし余《あま》り変《かは》りませんね。』庄司《しやうじ》はぢろ/\彼《かれ》を見《み》ながら言《い》つた。
『さう、自分《じぶん》ぢやさう変《かは》らんつもりだが、しかしもう年《とし》を取《と》つた。』
『A―海岸《かいがん》にゐるもんだから……何《ど》うせ今度《こんど》訪《たづ》ねるつもりだつたけれど、今日《けふ》急《きふ》に思《おも》ひついたので。』
木村《きむら》は机《つくゑ》の上《うへ》に散《ち》らかつた書類《しよるゐ》を片着《かたつ》けながら『ちよつと待《ま》つて下《くだ》さい。直《ぢ》き一|緒《しよ》に帰《かへ》るから。』
庄司《しやうじ》はそこにゐる木村《きむら》の同僚《どうれう》にも紹介《せうかい》されたが、するうち日本服《にほんふく》を着《き》た卒業生《そつげふせい》らしい青年《せいねん》が一人《ひとり》入《はい》つて来《き》て、昨年度《さくねんど》の遠洋航海《ゑんやうかうかい》の経費《けいひ》のことを取調《とりしら》べに来《き》たので、木村《きむら》は書棚《しよたな》の中《なか》から、帳簿《ちやうぼ》を取出《とりだ》して見《み》せながら、何彼《なにか》と説明《せつめい》してゐたが、その青年《せいねん》が出《で》て行《い》つて間《ま》もなく、可《か》なり汚《よご》れた制服姿《せいふくすがた》の、小躯《こがら》の生徒《せいと》が一人《ひとり》つかつか入《はい》つて来《き》て、庄司《しやうじ》の前《まへ》に立《た》つてお辞儀《じぎ》をした、ところで木村《きむら》はにつこり笑《わら》つて、
『これが長男《ちやうなん》だ。』と紹介《せうかい》した。
庄司《しやうじ》は幼《をさな》いをりの彼《かれ》を知《し》つてゐたが、それが今《いま》制服姿《せいふくすがた》で前《まへ》に現《あら》はれたので、
『あゝ、さうか』と云《い》ふ気《き》がして何《なん》となく安心《あんしん》させられたやうに感《かん》じた。
『成程《なるほど》、こんなになつてゐるんだね。』
『もう今年《ことし》卒業《そつげふ》でね。』木村《きむら》はまた嬉《う》れしさうに言《い》つた。
『さう、それぢや安心《あんしん》だ。』庄司《しやうじ》は答《こた》へた。
『家《いへ》へ帰《かへ》つたら、庄司《しやうじ》さんと一|緒《しよ》に帰《かへ》るから、何《なに》か、御馳走《ごちそう》もないが、少《すこ》し用意《ようい》しとくやうに。』木村《きむら》は子供《こども》に吩咐《いひつ》けた。
『いや、町《まち》で一|緒《しよ》に飯《めし》を食《く》ふつもりだから。』間《ま》もなく庄司《しやうじ》は木村《きむら》と一|緒《しよ》に校門《かうもん》を出《で》た。
『それぢや諏訪山《すはやま》へでも上《のぼ》つて見《み》ようか。そして帰《かへ》つて行《ゆ》けばちやうど可《い》い。』
二人《ふたり》は話《はな》しながら、海《うみ》に迫《せま》つた窮屈《きうくつ》な傾斜面《けいしやめん》に横長《よこなが》く発展《はつてん》された町《まち》を、上《うへ》へ上《うへ》へと歩《ある》いて行《い》つた。町《まち》はどこへ行《い》つてもからりとしてゐたけれど、淡《あは》い煤煙《ばいゑん》の匂《にほ》ひはどこまでもついてゐた。でも山手《やまて》の方《はう》は比較的《ひかくてき》澄《す》んでゐて落着《おちつ》きがあつた。石《いし》を敷詰《しきつ》めた坂《さか》を折曲《をれまが》つて上《のぼ》つて行《ゆ》くと、そこが諏訪山《すはやま》で、こちや/\した町《まち》と初夏《しよか》の長閑《のどか》な海《うみ》とが一目《ひとめ》に見下《みお》ろされた、木村《きむら》は尽頭《はづれ》にある四阿屋《あづまや》のベンチに腰《こし》かけて、あれが淡路島《あはぢしま》だとか、あすこが西《にし》の宮《みや》だとか言《い》つて説明《せつめい》したが、生活《せいくわつ》が懸離《かけはな》れすぎてゐるので、是《これ》といふ話《はなし》もなかつた。そして間《ま》もなくそこをおりると、又|静《しづ》かな高台《たかだい》の町《まち》を通《とほ》つて、下町《したまち》の方《はう》へおりて行《い》つた。
『こちらの牛肉《ぎうにく》でも食《た》べようかと思《おも》ふが、どこか好《い》い家《いへ》がありますか。』庄司《しやうじ》が言《い》ひ出《だ》したので、木村《きむら》は『それなら、さうしても可《い》い』と言《い》つて、やがて一|軒《けん》の牛肉屋《ぎうにくや》へ彼《かれ》を案内《あんない》した。
『こゝは生徒《せいと》たちの来《き》つけの家《いへ》でね、K―ではまあ好《い》い方《はう》だ。』木村《きむら》はちんまりした静《しづ》かな部屋《へや》に落着《おちつ》いたとき、さう言《い》つて食物《しよくもつ》を誂《あつら》へた。酒《さけ》も少《すこ》し取《と》つた。
子供《こども》の話《はなし》がとにかく二人《ふたり》の生活《せいくわつ》に共通《きようつう》であつたが、そこを出《で》て来《き》た頃《ころ》には、二人《ふたり》とも好《い》い加減《かげん》酔《ゑ》つてゐた。
庄司《しやうじ》はやがて湊川神社《みなとかはしんしや》などへ案内《あんない》された。そして其《そ》の前《まへ》で、煎餅《せんべい》などを買込《かひこ》んで阪神電車《はんしんでんしや》に乗《の》つた。
木村《きむら》の家《いへ》は酒《さけ》で知《し》られたN―町《ちやう》のはづれにあつた。こちや/\した町《まち》つゞきを通《とほ》りぬけると、やがてそこの郊外《かうぐわい》の住宅地《じうたくち》が開《ひら》けてゐて、K―市《し》の勤先《つとめさき》から帰《かへ》つてくる若《わか》い会社員《くわいしやゐん》などの洋服姿《やうふくすがた》が、ぞろ/\続《つゞ》いた。ちよつと体裁《ていさい》の好《い》い門《もん》の前《まへ》へ来《く》ると、木村《きむら》は『こゝだ』と言《い》つて庄司《しやうじ》を案内《あんない》した。昔《むか》しながらの素朴《そぼく》な細君《さいくん》が玄関《げんくわん》へ出《で》て来《き》た。
『これあ好《い》い家《いへ》だ。』庄司《しやうじ》はからりとした二階《にかい》の一|室《しつ》へ通《とほ》されたとき、廻《まは》り縁《えん》の手摺《てす》りにもたれて、四辺《あたり》を見廻《みま》はしながら言《い》つた。遠《とほ》いところを通《とほ》つて行《ゆ》く、明《あか》るい電車《でんしや》が見《み》えた。
『まあ日当《ひあた》りと空気《くうき》の流通《りうつう》だけは好《い》いんでね、夏《なつ》の晩《ばん》など、こゝに寝転《ねころ》んでゐると、暑《あつ》さ知《し》らずだ。』
庄司《しやうじ》はF―から、木村《きむら》が最近《さいきん》家《いへ》を建《た》てたことを聞《き》いたやうでもあつたが、それがさうだと思《おも》ふと、旧友《きういう》の生活《せいくわつ》も彼《かれ》が東京《とうきやう》にゐて気《き》にかけてゐたやうでもなかつた。
『それになか/\確《しつか》りしてもゐるし、間数《まかず》も多《おほ》い。よくこんな家《いへ》を建《た》てましたね。』
『いや、迚《とて》もさう金《かね》はなかつたのだが、何《ど》うにかかうにか皆《み》んなのお蔭《かげ》でね。もうこの年《とし》になつて、今更《いまさ》ら悶※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》く気《き》もないのでこゝに墓穴《はかあな》を掘《ほ》つたやうなものさ。』
庄司《しやうじ》は勧《すゝ》められて、一《ひ》ト風呂《ふろ》入《はい》つてくると、そこにお膳《ぜん》が出《で》てゐて、細君《さいくん》が酒《さけ》をついでくれたりした。
『召食《めしあが》らないで入《いら》して下《くだ》されば可《よ》かつたんですのに。何《ど》うか何《な》にもございませんけれど、少《すこ》しでも箸《はし》をおつけ下《くだ》すつて。』
そして彼女《かのぢよ》はさも懐《なつ》かしさうに、子供達《こどもたち》のことなどを語《かた》り出《だ》すのであつた。八十ばかりになる、頭髪《とうはつ》の真白《まつしろ》な、彼女《かのぢよ》の父親《てゝおや》も出《で》て来《き》て、彼《かれ》と久闊《きうくわつ》を叙《じよ》した。
庄司《しやうじ》はしかし直《ぢき》に此《こ》の訪問《はうもん》の終《をは》りの来《き》たことを感《かん》じてやがて暇《いとま》を告《つ》げた。木村《きむら》は電車《でんしや》まで送《おく》つてくれた。庄司《しやうじ》は長《なが》いあひだ何《なに》かしら気《き》にかゝつてゐた木村《きむら》の生活《せいかつ》が、老後《ろうご》の彼《かれ》の安定《あんてい》のために用意《ようい》されてあることを知《し》つて安心《あんしん》と同時《どうじ》に、後《あと》を振顧《ふりかへ》ることをさへ許《ゆる》されないやうな自分《じぶん》の生活《せいかつ》のあはたゞしさを、今更《いまさら》のやうに思《おも》ひ返《かへ》した。
狂気《きちがひ》じみた響《ひゞ》きを立《た》てゝ、電車《でんしや》はひた走《はし》りに走《はし》つてゐた。[#地付き](大正13[#「13」は縦中横]年8月「週刊朝日」)
事務所《じむしよ》へ入《はい》ると、直《す》ぐそこの窓《まど》のところの卓上《テーブル》の前《まへ》に、彼《かれ》は木村《きむら》を見出《みいだ》した。彼《かれ》はさう変《かは》つてゐなかつた。頭《あたま》も白《しろ》くはなつてゐなかつたが、しかし矢張《やは》り変《かは》つてゐた。
『やあ』と木村《きむら》は嬉《うれ》しさうに微笑《びせう》して、
『新聞《しんぶん》でこつちへ来《き》てゐることは知《し》つてゐたが、よく来《き》て呉《く》れました。いつも盛《さか》んで、家内《かさい》と噂《うはさ》して蔭《かげ》ながら悦《よろこ》んでゐるよ。』
『どうも御無沙汰《ごぶさた》ばかりで済《す》まないんです。しかし余《あま》り変《かは》りませんね。』庄司《しやうじ》はぢろ/\彼《かれ》を見《み》ながら言《い》つた。
『さう、自分《じぶん》ぢやさう変《かは》らんつもりだが、しかしもう年《とし》を取《と》つた。』
『A―海岸《かいがん》にゐるもんだから……何《ど》うせ今度《こんど》訪《たづ》ねるつもりだつたけれど、今日《けふ》急《きふ》に思《おも》ひついたので。』
木村《きむら》は机《つくゑ》の上《うへ》に散《ち》らかつた書類《しよるゐ》を片着《かたつ》けながら『ちよつと待《ま》つて下《くだ》さい。直《ぢ》き一|緒《しよ》に帰《かへ》るから。』
庄司《しやうじ》はそこにゐる木村《きむら》の同僚《どうれう》にも紹介《せうかい》されたが、するうち日本服《にほんふく》を着《き》た卒業生《そつげふせい》らしい青年《せいねん》が一人《ひとり》入《はい》つて来《き》て、昨年度《さくねんど》の遠洋航海《ゑんやうかうかい》の経費《けいひ》のことを取調《とりしら》べに来《き》たので、木村《きむら》は書棚《しよたな》の中《なか》から、帳簿《ちやうぼ》を取出《とりだ》して見《み》せながら、何彼《なにか》と説明《せつめい》してゐたが、その青年《せいねん》が出《で》て行《い》つて間《ま》もなく、可《か》なり汚《よご》れた制服姿《せいふくすがた》の、小躯《こがら》の生徒《せいと》が一人《ひとり》つかつか入《はい》つて来《き》て、庄司《しやうじ》の前《まへ》に立《た》つてお辞儀《じぎ》をした、ところで木村《きむら》はにつこり笑《わら》つて、
『これが長男《ちやうなん》だ。』と紹介《せうかい》した。
庄司《しやうじ》は幼《をさな》いをりの彼《かれ》を知《し》つてゐたが、それが今《いま》制服姿《せいふくすがた》で前《まへ》に現《あら》はれたので、
『あゝ、さうか』と云《い》ふ気《き》がして何《なん》となく安心《あんしん》させられたやうに感《かん》じた。
『成程《なるほど》、こんなになつてゐるんだね。』
『もう今年《ことし》卒業《そつげふ》でね。』木村《きむら》はまた嬉《う》れしさうに言《い》つた。
『さう、それぢや安心《あんしん》だ。』庄司《しやうじ》は答《こた》へた。
『家《いへ》へ帰《かへ》つたら、庄司《しやうじ》さんと一|緒《しよ》に帰《かへ》るから、何《なに》か、御馳走《ごちそう》もないが、少《すこ》し用意《ようい》しとくやうに。』木村《きむら》は子供《こども》に吩咐《いひつ》けた。
『いや、町《まち》で一|緒《しよ》に飯《めし》を食《く》ふつもりだから。』間《ま》もなく庄司《しやうじ》は木村《きむら》と一|緒《しよ》に校門《かうもん》を出《で》た。
『それぢや諏訪山《すはやま》へでも上《のぼ》つて見《み》ようか。そして帰《かへ》つて行《ゆ》けばちやうど可《い》い。』
二人《ふたり》は話《はな》しながら、海《うみ》に迫《せま》つた窮屈《きうくつ》な傾斜面《けいしやめん》に横長《よこなが》く発展《はつてん》された町《まち》を、上《うへ》へ上《うへ》へと歩《ある》いて行《い》つた。町《まち》はどこへ行《い》つてもからりとしてゐたけれど、淡《あは》い煤煙《ばいゑん》の匂《にほ》ひはどこまでもついてゐた。でも山手《やまて》の方《はう》は比較的《ひかくてき》澄《す》んでゐて落着《おちつ》きがあつた。石《いし》を敷詰《しきつ》めた坂《さか》を折曲《をれまが》つて上《のぼ》つて行《ゆ》くと、そこが諏訪山《すはやま》で、こちや/\した町《まち》と初夏《しよか》の長閑《のどか》な海《うみ》とが一目《ひとめ》に見下《みお》ろされた、木村《きむら》は尽頭《はづれ》にある四阿屋《あづまや》のベンチに腰《こし》かけて、あれが淡路島《あはぢしま》だとか、あすこが西《にし》の宮《みや》だとか言《い》つて説明《せつめい》したが、生活《せいくわつ》が懸離《かけはな》れすぎてゐるので、是《これ》といふ話《はなし》もなかつた。そして間《ま》もなくそこをおりると、又|静《しづ》かな高台《たかだい》の町《まち》を通《とほ》つて、下町《したまち》の方《はう》へおりて行《い》つた。
『こちらの牛肉《ぎうにく》でも食《た》べようかと思《おも》ふが、どこか好《い》い家《いへ》がありますか。』庄司《しやうじ》が言《い》ひ出《だ》したので、木村《きむら》は『それなら、さうしても可《い》い』と言《い》つて、やがて一|軒《けん》の牛肉屋《ぎうにくや》へ彼《かれ》を案内《あんない》した。
『こゝは生徒《せいと》たちの来《き》つけの家《いへ》でね、K―ではまあ好《い》い方《はう》だ。』木村《きむら》はちんまりした静《しづ》かな部屋《へや》に落着《おちつ》いたとき、さう言《い》つて食物《しよくもつ》を誂《あつら》へた。酒《さけ》も少《すこ》し取《と》つた。
子供《こども》の話《はなし》がとにかく二人《ふたり》の生活《せいくわつ》に共通《きようつう》であつたが、そこを出《で》て来《き》た頃《ころ》には、二人《ふたり》とも好《い》い加減《かげん》酔《ゑ》つてゐた。
庄司《しやうじ》はやがて湊川神社《みなとかはしんしや》などへ案内《あんない》された。そして其《そ》の前《まへ》で、煎餅《せんべい》などを買込《かひこ》んで阪神電車《はんしんでんしや》に乗《の》つた。
木村《きむら》の家《いへ》は酒《さけ》で知《し》られたN―町《ちやう》のはづれにあつた。こちや/\した町《まち》つゞきを通《とほ》りぬけると、やがてそこの郊外《かうぐわい》の住宅地《じうたくち》が開《ひら》けてゐて、K―市《し》の勤先《つとめさき》から帰《かへ》つてくる若《わか》い会社員《くわいしやゐん》などの洋服姿《やうふくすがた》が、ぞろ/\続《つゞ》いた。ちよつと体裁《ていさい》の好《い》い門《もん》の前《まへ》へ来《く》ると、木村《きむら》は『こゝだ』と言《い》つて庄司《しやうじ》を案内《あんない》した。昔《むか》しながらの素朴《そぼく》な細君《さいくん》が玄関《げんくわん》へ出《で》て来《き》た。
『これあ好《い》い家《いへ》だ。』庄司《しやうじ》はからりとした二階《にかい》の一|室《しつ》へ通《とほ》されたとき、廻《まは》り縁《えん》の手摺《てす》りにもたれて、四辺《あたり》を見廻《みま》はしながら言《い》つた。遠《とほ》いところを通《とほ》つて行《ゆ》く、明《あか》るい電車《でんしや》が見《み》えた。
『まあ日当《ひあた》りと空気《くうき》の流通《りうつう》だけは好《い》いんでね、夏《なつ》の晩《ばん》など、こゝに寝転《ねころ》んでゐると、暑《あつ》さ知《し》らずだ。』
庄司《しやうじ》はF―から、木村《きむら》が最近《さいきん》家《いへ》を建《た》てたことを聞《き》いたやうでもあつたが、それがさうだと思《おも》ふと、旧友《きういう》の生活《せいくわつ》も彼《かれ》が東京《とうきやう》にゐて気《き》にかけてゐたやうでもなかつた。
『それになか/\確《しつか》りしてもゐるし、間数《まかず》も多《おほ》い。よくこんな家《いへ》を建《た》てましたね。』
『いや、迚《とて》もさう金《かね》はなかつたのだが、何《ど》うにかかうにか皆《み》んなのお蔭《かげ》でね。もうこの年《とし》になつて、今更《いまさ》ら悶※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》く気《き》もないのでこゝに墓穴《はかあな》を掘《ほ》つたやうなものさ。』
庄司《しやうじ》は勧《すゝ》められて、一《ひ》ト風呂《ふろ》入《はい》つてくると、そこにお膳《ぜん》が出《で》てゐて、細君《さいくん》が酒《さけ》をついでくれたりした。
『召食《めしあが》らないで入《いら》して下《くだ》されば可《よ》かつたんですのに。何《ど》うか何《な》にもございませんけれど、少《すこ》しでも箸《はし》をおつけ下《くだ》すつて。』
そして彼女《かのぢよ》はさも懐《なつ》かしさうに、子供達《こどもたち》のことなどを語《かた》り出《だ》すのであつた。八十ばかりになる、頭髪《とうはつ》の真白《まつしろ》な、彼女《かのぢよ》の父親《てゝおや》も出《で》て来《き》て、彼《かれ》と久闊《きうくわつ》を叙《じよ》した。
庄司《しやうじ》はしかし直《ぢき》に此《こ》の訪問《はうもん》の終《をは》りの来《き》たことを感《かん》じてやがて暇《いとま》を告《つ》げた。木村《きむら》は電車《でんしや》まで送《おく》つてくれた。庄司《しやうじ》は長《なが》いあひだ何《なに》かしら気《き》にかゝつてゐた木村《きむら》の生活《せいかつ》が、老後《ろうご》の彼《かれ》の安定《あんてい》のために用意《ようい》されてあることを知《し》つて安心《あんしん》と同時《どうじ》に、後《あと》を振顧《ふりかへ》ることをさへ許《ゆる》されないやうな自分《じぶん》の生活《せいかつ》のあはたゞしさを、今更《いまさら》のやうに思《おも》ひ返《かへ》した。
狂気《きちがひ》じみた響《ひゞ》きを立《た》てゝ、電車《でんしや》はひた走《はし》りに走《はし》つてゐた。[#地付き](大正13[#「13」は縦中横]年8月「週刊朝日」)
底本:「徳田秋聲全集第15巻」八木書店
1999(平成11)年3月18日初版発行
底本の親本:「週刊朝日」
1924(大正13)年8月
初出:「週刊朝日」
1924(大正13)年8月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
1999(平成11)年3月18日初版発行
底本の親本:「週刊朝日」
1924(大正13)年8月
初出:「週刊朝日」
1924(大正13)年8月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ