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長州陣夜話
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長州陣夜話
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)家茂《いえもち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)川|家茂《いえもち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
慶応元年(一八六五)五月、徳川|家茂《いえもち》は自ら旗下の兵を率いて長州再征の軍を発し、先《ま》ず総督|紀伊大納言《きいだいなごん》をして芸州に牙営《がえい》を進め、毛利家の出城《でじろ》佐和野城を攻略せしめた。
城主|林右馬頭《はやしうまのかみ》は善戦したが、幕軍は怒濤《どとう》の如《ごと》く殺到、六月初旬|遂《つい》に佐和野城下に迫って完全に包陣を布《し》いた。城兵は食糧物資に困窮しつつも、包囲軍に対して城下の周囲に厳重な柵《さく》を結《ゆ》い、堀をめぐらして、山口城よりの援軍来る迄《まで》は、幕軍を一歩も入れじと防備怠らなかった。
斯《か》くて対陣月余、七月はじめの或る朝のことである――。
未《ま》だ明けきらぬ城下町は、乳色の濃い霧に閉ざされて、樹立《こだち》も屋並もひっそりと霞《かす》んでいる。――この時刻に、山伏町のとある古びた屋敷の庭では、さっきから頻《しき》りに凄《すさま》じいい気合の声が聞えていた。
「えーイ、やっ、えーイッ」
立罩《たちこ》めた霧の中で、元気いっぱいに叫びながら、一人の娘が甲斐々々《かいがい》しく裾《すそ》をからげ、襷《たすき》汗止めをして大|薙刀《なぎなた》を振っているのだ。
凛《りん》とした美しい頬は活々《いきいき》と燃え、上背のある肉置《ししおき》の豊《ゆたか》に緊《し》まった体には、若い血潮が脈々と跳《おど》っている。――佐和野城下の郷士聞こえた名家、矢崎家の長女で小弓と云う、今年|二十《はたち》の娘盛りであるが、父も母も死んだあと、十一歳になる弟の棋一郎《きいちろう》を、手一つに守育《もりそだ》てている健気《けなげ》さ。然《しか》も毎日未明に起出《おきい》でて、女ながらも怠らず武道を励み、
――さすがは矢崎家の娘だ。
と評判をとった女丈夫であった。
「やあ! えーイッ」
今朝も斯《こ》うして、熱心に稽古《けいこ》を続けていた時である。
庭の裏木戸が音もなく明いて、小具足の上から陣羽織を着た若い武士が一人、すーっと内庭へ入ってきた。そして、霧をすかしながら、暫《しばらく》くのあいだ、昵《じっ》とその稽古ぶりを見戍《みまも》っていたが、――やがて何事か独り頷《うなず》きながら腰の大剣を抜く、足音を忍んで小弓の背後へ廻ると、いきなり、
「えイーッ!」
裂帛《れっぱく》の気合をかけた。
「はっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
刹那《せつな》、娘は燕《つばめ》のように左へ、身を翻《ひるが》えしざま向直って大薙刀を下段に構えた。
「お美事、お美事でござる」
若武者は大剣を納めて、微笑しながら霧の中を近づいてきた。
「まあ信次郎さま」
「折角お稽古のところ、驚かせ申して済みませんでした。――然しこれで拙者も安心してお別れができます」
「別れ――?」
小弓の美しい眉《まゆ》がさっと曇った。
「実は昨夜、大番頭《おおばんがしら》から命令が出て、拙者もいよいよ陣中へ詰める事になったのです。役目は北の木戸五番組の組頭、今日から任役に定《き》まったのでござる」
「まあそれは急な……」
「ひと眼会ってお別れ申上げようと、来てみると薙刀のお稽古、失礼ながら心得の程を拝見致し度《た》くなり、思わず無礼を仕《つかまつ》ったが、思いの外のお腕前にて心強く出陣が出来ます」
「いいえほんの真似事、お恥かしゅう存じます。ではあの……お急ぎでもございましょうが、ちょっとお寄り遊ばして粗茶など召上って下さりませぬか」
「それではお縁先まで」
小弓は支度を直して家へ入った。
若武者の名は館川《たてかわ》信次郎、大番組で二百五十石を取る。小弓とは早くから親同志が許した許嫁《いいなずけ》の間柄で、去年婚礼を挙げるところだったが、卒如として起った幕府第一回の長州遠征に会し、そのまま延びて今日に及んだのであった。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
広縁に腰を下して、待つ程もなく小弓が茶道具を運んで来る、それと一緒に弟の棋一郎も出て来た。――眼のくりくりとした、如何《いか》にも悪戯《いたずら》そうな少年である。
「館川のお兄様、お早うございます」
「や、棋一郎か」
信次郎はにっこりしながら、「貴様、姉上が早くから薙刀のお稽古をしているのに、いつまで寝坊をしていては駄目だぞ」
「だって僕はいつもお姉さまの済んだ後でするんだぜ、僕の剣術はとても筋が良いんだってさ」
「なんです、その言葉は」
小弓が強く叱《しか》った、「町家の者の口真似をしてはなりませんと云ってあるでしょう」
「はっはっは、それみろ、姉上に叱られるではないか、それに僕などと云う事をどこで覚えた」
「皆が云ってますよ、御本城の奇兵隊ではみんな僕、僕って云うんだって、僕も大きくなったら奇兵隊に入って暴れてやるんだ、高杉晋作なんか家来にしてやる」
信次郎も小弓も思わず微笑した。
是《これ》が一生の別れになるかも知れぬ、遽《あわただ》しい袂別《べいべつ》に何のもてなしも無い粗茶、小弓が心を籠《こ》めて淹《い》れる一服を静かに喫して、
「さて、棋一郎」
と信次郎は向直った。「拙者は今日から出陣と定り、北の木戸詰めとなった。おまえも知っている通り、佐和野城下は幕軍の包囲陣に孤立して、いつ決戦となるか知れぬ有様だ。今度砲火があがればとても生きて還《かえ》る事は覚束《おぼつか》ない、そこで――改めて申聴《もうしき》かせるが、其方《そのほう》は矢崎家を継ぐべき身上、今後ともよく姉上の言葉を守って立派な人物にならなければいかんぞ」
「はい、よく分りました」
「小弓どの、御旗をお持ち下さい」
信次郎が振返って云う、小弓は頷いて立ったが、間もなく一旒《いちりゅう》の古びた旗を取出してきた、白竜の雲を巻いて天上する相《すがた》が描いてある――信次郎はそれを片手に捧《ささ》げて、
「棋一郎、この旗を存じて居るか」
「知ってます」
少年はさすがにきっと衿《えり》を正した、「矢崎家の御先祖様が、戦場の功に依《よ》って毛利|大膳太夫《だいぜんのだいぶ》様から頂戴《ちょうだい》した品です」
「そうだ、毛利家に白竜の旗ありと、関東にまで聞えた名誉ある御旗だ。其方はこの白竜を受継ぐべき重い責任のある体だぞ、それを忘れずにきっと立派な武士になれ、宜《よ》いか」
「はい、必ず偉い武士になります」
「それを聞けば最早思い残す事はない」
信次郎は旗を小弓に返すと、
「それではお別れ申す」
と腰をあげた。
「もうお立ち遊ばしますか」
小弓は微《かす》かに残り惜しげな眼をあげた、「どうぞ御武運めでたく」
「小弓どのにも御健固で」
信次郎はひたと娘の眼を見た。小弓も無量の想《おも》いを籠めて男を見上げた。女丈夫と云われても娘である――ふっと睫《まつげ》に露が溢《あふ》れる。
「――さらば」
と云って信次郎は、強く外向くとその儘《まま》、足早に霧の中を立去って行った。――小弓は暫《しば》しその後姿を見送っていたが、やがて心を執り直すと、
「棋一郎、いま館川様の仰《おお》せられた事、決して忘れてはなりませぬぞ」
「お姉さま、大丈夫です」
「私は女の身、少年ながらそなた[#「そなた」に傍点]は矢崎家の主人です、若《も》し館川様が……御戦死遊ばすようなこともあらば、私は生涯――有髪の尼となってそなた[#「そなた」に傍点]を護立《まもりた》てる覚悟、その積《つもり》でそなた[#「そなた」に傍点]も父上の子として恥かしくない武士になってお呉《く》れ、お分りですね」
「大丈夫ですとも」
棋一郎は肩をつきあげた、「お姉さまだって心配しなくても宜いですよ、館川のお兄さまが討死したら、僕がきっとお姉さまを慰めてあげますよ」
「まあ、出陣の朝に討死などと云うものではありません。さあ――」
と小弓は立上った、「御旗を納《しま》って来ますから、そなたは撃剣の支度をなさい」
「合点《がってん》です」
「またそんなことを」
小弓は睨《にら》んで、「そんな野卑なことを云ってはなりません、何処《どこ》でそんな言葉を覚えて来るのですか」
棋一郎は困って頭を掻《か》きながら、
「も、もう大丈夫ですよ、もう云いません、あいつが、仙公が悪いんだ……」
半分は口の内で呟《つぶや》きながら、そこそこに庭へとび下りて行った。
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
「そら、行くぞ大弾丸《おおだま》、仏蘭西《フランス》渡りの加農《カノン》砲二十|斤《きん》の強薬《つよぐすり》だ、来い――野郎」
「なにを、此方《こっち》は石火箭《いしびや》だい」
「糞《くそ》を喰《くら》え、石火箭なんか周防灘《すおうなだ》へぶっ飛ばして瘤鯛《こぶだい》の餌食《えじき》に呉れてやらあ」
城下町のとある裏地で、十人ばかりの少年達が円陣をつくってやかましく喚《わめ》きたてていた。半年ほど前から流行《はや》り始めた鉄輪独楽《てつわごま》の遊びが、戦時の荒い気風に唆《そそ》られて、賭《か》け勝負を争うようになったのである。
「ざまあ見ろ」
勝負が定った、「また加農砲の勝ちだ、賭けた十文はおいら[#「おいら」に傍点]の物だぜ、へっへ」
伝法に笑ったのは、悪たれ仲間の大将で仙太という少年だった。
この群の中で、棋一郎がさっきから羨《うらや》ましそうに勝負を見ていた。姉が機織《はたおり》をして僅《わずか》に生計を立てている暮しでは、とても鉄輪独楽を買って貰《もら》うことは出来なかったし、まして賭け銭などある筈《はず》がない。
――僕もやってみ度いなあ。
遊び度い盛りの年である、勢いよく廻る独楽、叩《たた》きつけられて飛ぶ鉄輪、ちゃらちゃらと鳴る青銭の音にも幼い胸はわくわくと躍った。
やがて勝負が終って、皆ちりぢりになった時である、例の仙太が棋一郎を認めて、
「おや、矢崎の坊ちゃん」
と声をかけた、「おめえ今日も見に来ていたのかい。どうして遊ばなかったんだ」
「だって独楽がないし……」
棋一郎は気恥かしげに、「それに、僕、賭けの銭だって持ってないもの」
そう云って歩き出した。
仙太は佐多浜の漁師の孤児で今年十四になる。預けられた伯父の家にも居つかず、城下町の悪童達と勝手放題に暴れ廻る悪戯小僧だったが、不思議にいつも小銭を持っていて、気前よく仲間の者を潤《うるお》すので、少年達には大きな人気と勢力をもっていた。
仙太は棋一郎の言葉に仔細らしく頷いて、
「なにしろ幕軍に包囲されているという始末だからなあ、何処の子供だって小遣いなんか貰えねえ訳さ――だけど、独楽ぐれえ無《ね》えって法はねえ」
と勿体《もったい》ぶって云ったが、やがて歩みを止めて振返った。
「坊ちゃん、おめえに独楽や賭銭を儲《もう》けさせてやろうか」
「本当にかい?」
「本当だとも、今まで誰にも内証にしていたんだが、坊ちゃんだけに教えてやるんだ、それはな……柵《さく》の外へ薯《いも》掘りに行くんだ」
仙太はぐいと声をひそめた。
食糧物資に窮乏している佐和野城下に、畑地の底まで掘返されている状態だったが、結柵《ゆいさく》の外にはまだ荒されていない畑がある、仙太はそこへ行って薯を掘って来ると云うのだ――仙太は事々しく四辺《あたり》を見廻しながら、
「どうだ、今夜おいら[#「おいら」に傍点]と一緒に二の木戸から出ねえか。おめえにも分前《わけまえ》を遣るぜ、そうすれば独楽も買えるし賭銭も出来らあ」
「でも――」
棋一郎はこくりと唾《つば》をのんだ。「でも、柵から出れば敵に射たれやしない?」
「だから夜になって行くのさ。もう何度も試しているけど一度だって狙《ねら》われた事あねえ、それとも、おめえ幕兵が怖《こえ》えのか」
「嘘《うそ》だ、幕軍なんか怖かないや」
棋一郎は辱《はずかし》められたように肩を挙げた。仙太は狡《ず》るく笑って、
「そうだろう、坊ちゃんは武士の子だ、怖くねえに違えねえや、だから一緒に行こうぜ、今夜五ツ過ぎに大松の処《ところ》で待っていらあ、来いよ、なあ?」
「うん、行く、行くよ」
十一歳の少年に、厚輪のすばらしい独楽や豊《ゆたか》な賭銭はのっぴきならぬ誘惑だった。棋一郎の頷くのを見て仙太は、
「だけど、こりゃ内証だぜ、誰にも云っちゃいけねえぜ、他の奴に儲けられちゃあつまらねえからな。宜《い》いか」
「うん、大丈夫だよ」
「それから木戸を脱ける時、おいら[#「おいら」に傍点]番士の人に坊ちゃんを弟だと云うからその積《つもり》で旨《うま》く頼むぜ、こいつあ大事だからな」
「いいよ、うまくやる」
棋一郎は粘る舌でようやく答えた。
[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]
その夜のことである。
東の柵にある『二の木戸』は五十人組の詰場であったが、今夜はどうした事か人数が眼立って多く、隠し篝火《かがりび》に映る物具|揃《ぞろ》えも、ひどく殺気立って見えた。
五ツを少し廻った頃であった、木戸を守っていた番士が、闇《やみ》を縫って来る二人の少年をみつけて、
「こら、何処へ行くか」
と呶鳴《どな》った。立止った少年の一人は仙太、一人は姉の寝た間に家を脱けて来た棋一郎である。
「荒井《あらい》の畑へ薯掘りに行くんです」
仙太が左の腕へかけた手籠《てかご》を見せた、「二三日前にも通して貰いました」
「薯掘りだ?」
「そうなんです、父さんは去年の合戦に足軽組へ加わって討死しちゃったし、母さんは病気で寝たっきりだから、食べる物もなくなって困っているんです。それで弟と一緒に薯を掘って来て、ようやく飢えを凌《しの》いで……」
仙太は腕でぐいと眼を横撫《よこな》でにした。番士も思わず誘われて、
「そうか。この戦争では城下の者ばかりでなく、我々も兵粮《ひょうろう》が乏しくなって困っているのだ。おまえ達もさぞ辛《つら》かろうな、――宜し宜し、通してやるから薯を掘って来い、だが敵軍にみつからぬようにしろよ」
「大丈夫です、もう何度も出た事があるんですから」
勇んで出ようとするのを、
「ああちょっと待て」
と番士が呼止めた、「それから今夜|子《ね》の刻《こく》になると、糺《ただす》の森の敵陣へ総攻めをかける、その為に味方の主力が此処《ここ》へ集っているから、総攻めのかからぬ内に帰って来いよ」
「子の刻に、糺の森へ総攻め……?」
仙太はそう云って、隠し篝火の彼方へちらと怖《おそ》ろしそうな一瞥《いちべつ》をくれたが、
「分りました、大急ぎで掘って来ます」
「気をつけて行け」
番士の言葉を後に二人は柵から出た。
父は去年の戦争に討死、母は病床にあるなどと、あんな嘘を云って宜いのかしら。棋一郎は何となく気を咎《とが》められたが、黙って仙太について歩いた。
柵を出て半丁も来ると、四辺《あたり》は砲弾に抉《えぐ》られた穴や土崩れの多い荒地になった。仙太は時々身を跼《かが》めて、土塊《つちくれ》や雑草を掴《つか》み取っては手籠の中へ入れながら進む、――段々と寄手《よせて》の陣へ近くなって来た。
「何処まで行くの――?」
「黙っているんだ」
仙太は強く制した、「おいら[#「おいら」に傍点]の云う通りになってれば宜い、さあ駈《か》けよう――頭をさげて駈けるんだぜ」
そう云うと、仙太は身を跼めながらたったっと走りだした。棋一郎も見失っては大変だから続いて走ったが、四五丁ばかり行くと灌木《かんぼく》の茂みの蔭《かげ》へとび込んで、
「蹲《しゃが》め蹲め、頭を出すと射たれる」
と云って棋一郎を引据えた。
二人とも息をはずませながら、灌木の蔭にじっと身をひそめている。やがて仙太は、懐中から燧石《ひうちいし》を取出して、東の方へ向けてかちかち[#「かちかち」に傍点]と二三度打った。――不思議な事をすると、棋一郎が見ていると、三丁ほど先の闇へ、ちらちらと赤い火が二三度明滅した。信太はにやりと笑って、
「上首尾と来やがった」
と立上った、「坊ちゃん、おいら[#「おいら」に傍点]直《じき》に戻って来るから此処を動かずに待っていねえよ」
「どうするの、薯を掘るんじゃないの」
「黙ってろよ、今すばらしい薯を掘って来てやるんだ、何処へも行かずに待っているんだぜ」
そういい残して、仙太は赤い火の見えた方へ小走りに走って行った。
「早く来てね――」
棋一郎はそう云いながら灌木の蔭にじっと蹲んでいたが、仙太の足音が聞えなくなると、にわかに闇が濃くなったように思われ、恐ろしい不安が体を犇々《ひしひし》と緊めつける――仙太は何をしに行ったんだろう、何の為に燧石を打ったのか?
後から後からと湧上《わきあが》ってくる疑惑と不安に迫られ、じっとしていられなくなった棋一郎は、堪《たま》らなくなって仙太の去った方へと忍び足で出掛けて行った。――二丁あまりも来た時である、闇の中に話声が聞えるので、はっと足を止め、地面へ身を伏せて前方をすかし見にすると、十間ばかり先に仙太が……一人の鎧《よろい》武者と何か話していた。
その二人の立っている二三十間先には、弾丸除《たまよ》けの※[#「土へん+朶」、第3水準1-15-42]《あずち》が築いてあり、篝の余光に動き廻る軍兵の姿もかすかに見える。
「幕軍の陣営だ――」
棋一郎は身慄《みぶる》いしながら呟いた。
[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]
驚くべき事はそれだけではなかった。棋一郎が聞いているとも知らず、仙太は敵方の鎧武者に向って、探り出して来た城中の模様を巨細《こさい》に内通しているのだ、――一語々々が棋一郎の耳へ針のように鋭く聞えて来る。
「それから」
と仙太は語を継いで、「今夜子の刻に、糺の森の陣地へ総攻めをかけると云って、いま東の柵へ主力が集まっていますよ」
「糺の森へ総攻め?」
鎧武者は驚いた様子で、「そうか、其《それ》は良い報知《しらせ》を持って来た。宜し――城方が主力を東の柵へ集結したとあれば、北の法輪寺口はがら空きに相違ない。では此方《こっち》から子の刻直前に手薄の法輪寺口へ不意討をかけてやろう、それでは是で別れる……さあ、褒美[#「ほうび」に傍点]の銀《かね》だ」
「有難うございます」
「また何かあったら知せて呉れ、――」
そこ迄聞くと、棋一郎は這《は》うようにして元の場所へ戻って来た。
「大変だ、大変な事になった」
少年ながら事態の重大さは分った。不思議にいつも小銭を持っていた仙太の、薯掘りに出るとは偽り、実は幕軍の諜者《ちょうじゃ》を勤めていたのであった。
「おい、何処だ」
仙太はすぐに走って来た、「やあ居たな。早かったろう、もう用は済んだから帰ろう――そら、今夜の分前だ」
「僕は要らない」
さあと云って差出す一掴みの銭を、棋一郎はぐいと押返した。仙太は呆《あき》れて、
「どうしたんだい、坊ちゃん」
「僕は、僕は聞いたよ、おまえは幕軍の諜者をしているんじゃないか、僕は……帰ったら番士の人に話してやる」
「なんだと?」
仙太はぎらりと眼を光らせた。
「そうか。へっへっへ、聞いちゃったのか、そんなら仕方あねえ」
ふてぶてしく嘲笑《あざわら》ったが、「だがの、おめえ番士に話すなら覚悟しなくちゃならねえぜ、今夜の事ぁおめえも同志だ、木戸の番士を騙《だま》しておいら[#「おいら」に傍点]と一緒に脱けて出た、罪あひとつだ。承知だろうな?」
「だって、僕ぁ……知らずに――」
「そんな言訳が通ると思ってるのか。へ! どうせおいらあ無頼《やくざ》の孤児だから、お仕置になったって誰一人泣く者あ有りやしねえ。だが、おめえは落魄《おちぶ》れても矢崎様の御子息だぜ、その棋一郎様が諜者の罪で、磔刑柱《はりつけばしら》へ架けられたらさぞ評判になるだろう――第一おめえの姉さんの顔が見てえや」
少年の口から出るとは思えぬ鋭い威嚇《いかく》だった。
――武士として最も忌《い》むべき諜者の汚名、磔刑柱、姉の悲嘆……恐ろしい幻想が次々と襲いかかって、棋一郎は身動きのならぬ絶望の淵《ふち》へ叩きこまれるのを感じた。
仙太は威嚇の成功を慥《たしか》めて、
「なあ坊ちゃん」
と急に声を柔げた、「そんなつまらねえ考えは止《よ》しねえ、黙っていれば誰にも知られずに済むんだ。なあ、是だけあれば上等の独楽も買えるし、二日三日の賭銭にゃあ困らねえぜ」
「どうして……僕を伴《つ》れて来たの?」
棋一郎はそれが怨《うら》めしいと云うように泣声で訊《き》いた。
「そりゃおめえ、おいら[#「おいら」に傍点]一人じゃ番士が疑いをかけるからよ、弟伴れとなればまるで信用が違わあな……さあ取って置きねえ」
仙太は放心したような棋一郎の手へ、幾許《いくばく》かの銭を握らせると、土塊や雑草を掴み込んであった手籠を腕に、柵の方へと歩きだした。棋一郎は最早、穢《けがら》わしいと思いながらも其の銭を拒む元気もなく、仙太に跟《つ》いてとぼとぼと柵の内へ戻って来ると、――鉄砲組屋敷の角のところで仙太と別れて、そっと自分の家へ帰った。
「若し姉上が起きていたら……?」
慄えながら裏口から忍び込む。
足音を忍ばせて、闇の中を寝間へ入ってみると、燈火は消えたままで微かに姉の寝息が聞えている。棋一郎はほっとして、そこへ慄えながら坐《すわ》って了《しま》った。
是からどうしたら宜いだろう――幼い頭の中は暴風雨のように混乱していた。自分は知らなかったとは云え、明かに味方を売ったのだ、人間として最も卑《いやし》むべき、最も卑劣なる事をして了ったのだ。あの親切な番士も、館川の兄さんも、城下の人達も――今夜敵軍のかける法輪寺口の不意討に、どんな惨虐《ざんぎゃく》な蹂躪《じゅうりん》を受けるかも知れない。
「ああ困ったなあ」
少年の小さな胸には包みきれぬ不安と恐怖と悔恨に、思わず呻《うめ》き声をあげた時、
「――誰?」
不意に姉が呼んだ、「棋一郎かえ」
ぎょっとして棋一郎は跳ねあがり、自分の寝床へ潜り込もうとした。――と気が上ずっていたから物に躓《つまず》いて※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》とのめる、同時に手に握っていた銭がざらざらと飛び散った。
小弓は怪しい物音に、素早く起き直って行燈《あんどん》に燈を入れる、棋一郎が狼狽《ろうばい》して銭を掻《か》き集めようと、畳の上へ這った時――ぼうっと行燈が点《とも》った。
「どうしたのです、棋一郎」
「な、なんでも、なんでもありません」
がたがた慄えながら見返る顔は、まるで紙のように血気《ちのけ》がない、訝《おか》しい――と見戍《みまも》る小弓の眼は、きらきら光る小粒銀の金が、夥《おびただ》しく散乱しているのをみつけた。
「まあ、お金」
小弓は愕然《がくぜん》と色を喪《うしな》った、「どうしたのです棋一郎、そのお金は……」
「――お姉さま、赦《ゆる》して!」
引裂けるように、やっと泣きながら少年は姉の前へ身を投出した。
[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]
「僕、知らなかったんです」
棋一郎は泣きながら凡《すべ》てを告白した。
「本当に何も知らなかったのです、お姉さま。どうか堪忍《かんにん》して下さい、もう独楽もなんにも欲しくありません、これから温和《おとな》しくして立派な人になります、今度だけどうか堪忍して下さい、お姉さま!」
「おまえは、おまえは、なんということを……」
小弓は胸も潰《つぶ》れんばかりに聞いていたが、罪こそ憎けれ、悪戯《いたずら》ざかりの子供が玩具《おもちゃ》欲しさに過《あやま》ってした事を、今更なんと云って叱《しか》る術《すべ》があろう。――それより先に為《な》すべき事はあるのだ。
小弓は健気《けなげ》にも心を決め、次の間へ行って手早く二通の書面を認《したた》めたが、すぐに戻って来て、一通を棋一郎に渡し、
「おまえは此《こ》の手紙を持って、今から波庭村の婆《ばあ》やの家へおいで」
「堪忍して下さいお姉さま」
「棋一郎」
小弓は弟の肩へ手を置いた、「おまえ本当に悪かったと思いますか」
「僕、僕、切腹しましょう……」
「お待ち、今になって切腹しても、諜者の汚名は消えません。それより其《そ》の覚悟を忘れずに再びこんな過ちをせず、婆やの里へ行ったらよく勉強して、今夜の罪を償うだけの立派な武士になるのです」
「では、堪忍して下さるんですね」
「私は堪忍してあげます。でも御先祖様はおまえが立派な人物になるまでは決して堪忍なさいません、分りますか」
「はい――」
「では其のお手紙を持って、すぐ波庭村へいらっしゃい」
「お姉さまは?」
「私は、私は――後から行きます」
是《これ》が今生の別れになる、そう思うと小弓の胸は張り裂けるように苦しかった。然し――大事な刻《とき》は迫っている、
「早くおいで、道は分っていますね」
「分ってます。お姉さまはいつ来るの?」
「棋一郎……」
小弓は思わず弟を抱き寄せたが、「後で――後ですぐ行きます。ああ提燈《ちょうちん》を」
涙を隠して提燈を取出し、燈を入れて持たすと思い切りよく弟を送り出した。――見送る暇も惜しく、小弓は仏間に入って、両親の位牌《いはい》の前にぴたりと手をついた、
「お赦し下さいませ父上様、女手の貧しさから独楽も買ってやれず、その為にこんな過ちが出来ました。みんな小弓の至らぬ罪でございます。矢崎の家から諜者を出しました恥辱は、これから私が立派に雪《そそ》ぎますゆえ、どうぞ黄泉《よみ》より御覧遊ばして下さりませ」
生ける人に云う如《ごと》く、声涙ともに下ることしばし。やがて小弓は立上ると、手早く家内を取片付けて、納戸《なんど》から父が遺愛の鎧櫃《よろいびつ》を取出す、垢《あか》の着かぬ肌着に換え、緋色《ひいろ》の下着の上へ鎧下を着込むと、馴《な》れぬ手ながらしっかりと鎧を着け、厳重に身拵《みごしら》えをした。
女でこそあれ、日頃から武芸に錬《きた》えた上背のある体、黒髪を束ねて垂れ、腹帯をきりりと緊《し》めて大|薙刀《なぎなた》を右手に、家宝白竜の旗を左手にしぼってすっくと立上がった姿は絵のような武者振り。――仏前にもう一度|額《ぬか》ずいて仏壇の扉を閉すと、兜《かぶと》を衣《つけ》て行燈の燈を消し、そのまま小弓は家を出た、時まさに四ツである。
足を早めて東の柵へ来る、木戸を守る番士に近寄って、男声につくり、
「一大事でござります」
と大きく呼びかけた、「子《ね》の刻|糺《ただす》の森へ総攻めをかける事、仔細あって敵方に洩《も》れ聞かれました」
「なに、何と云われる」
「寄手《よせて》は、城方の本勢東の柵に集ると知り、糺の森を払って主力を集め、法輪寺口へ夜襲をかける手筈《てはず》との事、一刻も早くお手配下さるよう、お係りへお申伝え下さい」
「それは真《まこと》か」
「斯う云う内にも後れては大事、どうぞ早くお係りへ――あ、暫《しばら》く」
行こうとする番士を呼止め、「御迷惑ながらこの書面、北の木戸五番頭、館川信次郎様にお渡し下さい」
「お手前は?」
「お渡し下されば分りまする」
手紙を受けた番士が宙を飛ぶように走り去るのを、篤《とく》と見済した小弓は素早く木戸を脱け出て闇《やみ》の中へ――糺の森をめざして唯《ただ》一人、敢然と大股《おおまた》に進んで行った。
一方、番士の齎《もたら》した急報は城軍を震撼させた。なかにも北の木戸に在った信次郎は、小弓の手紙を披《ひら》くなり仰天、
「うーむ」
と思わず呻《うめ》き声をあげたのである。
美しい走り書きの文字は、弟棋一郎の犯した始末を精しく認めて、一刻も早く敵の奇襲に備える事を乞《こ》い、――筆を改めて、
「少年の無思慮とは申しながら、諜者の罪を犯した棋一郎、その姉とあれば罪は同じことに候《そうろう》。かかる穢《けが》れた身を以て御許《おんもと》さまの許嫁《いいなずけ》たること思いもよらず即《すなわ》ち今宵《こよい》限りお約束を辞退申上げ候。女の身の細腕ながら、これより敵陣へ斬込《きりこ》み、恥辱の万分の一を雪いだうえ、亡《な》き父母の許へ参る所存、何卒《なにとぞ》々々御許様には御武運長久にて――未練ながら、お眼もじ致さぬが何よりの心残り」
と読みも終らず、
「馬を曳《ひ》け」
と叫んで信次郎は立上る、「小弓、待て、待って呉れ」
と心の内にいいながら、番士の曳いて来た馬にとび乗りざま、信次郎は東の柵へまっしぐらに駆け去った。
[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]
小弓の警報は功を奏した。
城兵の主力は東の柵に集結したものとのみ信じた寄手が、主軍を移動せしめ法輪寺口へ強襲をかけようとする、その出端《でばな》へ、突如として城兵の尖鋭《せんえい》隊が不意討ちをかけた。
寄手の狼狽は云うまでもない、一刻あまりにして中央を突破され、本軍を両断されて大混乱に陥り、此の夜の大将佐々木信濃守は身を以て大鷹山へ逃げのびた。然し――野山口を固めていた勇将橋本|但馬守《たじまのかみ》は、手勢を叱咤《しった》しつつ敢然と攻撃し、深入りした城兵を孤立せしめて一気に勝ちを制そうと、無二無三に突進、馬上に剣をふるって、
「関東武士の死場所ぞ、一歩も退くな、死ねや、死ねや」
と喚《わめ》き喚き奮戦した。
闇を劈《つんざ》いて閃《ひら》めく刃、槍《やり》、斬りつ、斬られつ、怒濤《どとう》の如き雄叫《おたけ》び、銃声、遠|篝火《かがりび》に濛々《もうもう》と闇を塗る土埃《つちぼこり》の中で、いずれも決死の武者ここを先途と斬結んだ。
然し、先《ま》ず虚を衝かれて陣構えの崩れた寄手の勢は、白い腕章をつけ、指揮進退全く整然とした城兵の猛撃を耐え得る筈がなく、東天ようやく白み初《そ》める頃には、橋本但馬の手勢もさんざんに斬り崩されて、遂に、
「糺の森まで退け」
と云う命令を発するに至った。
館川信次郎は五番組の組頭として、馬上に大槍をふるいつつ奮戦したが、心のうちは小弓の身を気遣う思いでいっぱいだった。――其処《そこ》で斬られはせぬか、彼処《あそこ》で討たれはせぬかと縦横に戦場を馳駆《ちく》しつつ捜し求めたが、遂にみつけ出す事が出来なかった。
ところが、明けかかる光のなかを、橋本但馬の手勢が糺の森へ退き始めた時である、先頭がまさに森口へかかった刹那《せつな》、さっと灌木《かんぼく》の茂みの中から、一旒《いちりゅう》の旗が現われた。
「あっ――」
と驚いて見ると、音に聞こえた長州毛利家の白竜である。退却して来た但馬勢は、
「やや、糺の森も既に城兵が占領しているぞ、戻れ、戻れ」
と崩れたつ、面前へ、
「見参――」
と叫んで、森の中から鎧武者が一人、大薙刀を抱込《かいこ》んで立現われた。
「佐和野の住人、矢崎棋一郎」
喝然と名乗って迫る。だが――白竜の旗を望んで森の中に伏勢ありと見た但馬勢は、浮足だって雪崩《なだれ》のように、
「芸州口へ逃げろ、芸州へ、芸州へ」
と先を争って敗走した。
糺の森へ退くと見えた敵兵が、にわかに混乱して芸州口へと遁走《とんそう》し始めたから、不審に思って馬上に伸び上がった信次郎――未明の森に朝風を受けて白竜一旗、翩翻《へんぽん》と翻《ひるがえ》えるのを見る。
「おお白竜の旗」
狂気して鞍《くら》を打つ、「小弓がいた」
喚くとそのまま、馬腹を蹴《け》って、だーっと、宙を飛ぶ如く、真一文字に駆って行った。
小弓は逃げ行く敵兵の殿《しんが》りの群へ、まさに必死の斬死にをかけようと、呼びかけ呼びかけ追い討ちに出る。一騎と見て、殿りの兵の五六名が立戻って、
「青武者の痩《や》せ腕、討って取れ」
と取巻いた。小弓は薙刀を執り直し、
「いざ参れ!」
とばかり斬り込んだ。
敗軍とは云え敵も名だたる関東武者、左右前後から犇々《ひしひし》と取詰めて、一挙に討って取ろうとする、小弓は薙刀の秘術を尽して、先ず一人の高腿《たかもも》を斬放す、
「うぬ、洒落《しゃれ》た事を――」
と右の武者の突き出す槍、ひっ外して真向をさっと払う。刹那、鋭く返して脇壺《わきつぼ》の具足はずれを強《したた》かに薙ぎ放した。
「ひー!」
悲鳴をあげて二人めが倒れる。ところへ引返して来た殿り兵の一人が、
「退け退け」
と叫んで銃をぴたりとつけた、「手間どっては面倒、拙者が一発で仕止める」
「卑怯《ひきょう》!」
小弓が歯噛《はが》みをして跳び退いた、敵兵は銃を狙《ねら》い定めて引金に指をかけようとする、――とたんに風を切って跳び来たった大槍一筋、まさに引金を落そうとした敵兵の、高胸、具足はずれへぐさっ[#「ぐさっ」に傍点]とばかり突刺さった。
「ぎゃ――っ」
だあん! 弾丸は空へ飛んで、血煙倒れる銃兵。
意外な出来事に、思わず振返ると、馬を煽《あお》って来た信次郎、馬上の投槍に危機を救った勢いに乗じて、大剣を抜放ちながら、
「己れ、一人も遁《にが》さんぞ」
と殺到した。
思わぬ助勢に敵兵はどっと逃足を誘われたが、それと見て殿りの銃隊が十五六人、ばらばらと引返して来る、――その前面へ、小弓が敢然と突進した、此処で死のう! と云う決死の容子《ようす》、
「危い! 待たれい」
信次郎は馬を近寄せて、「此の上の死に急ぎは乱心でござるぞ、退かれい!」
と呶度鳴りざま、金剛力に小弓の体を引寄せる、藻掻《もが》くのを抑えつけて、鞍の前壺へかき乗せると、素早く馬首を回した。
だだだーん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
遠木魂《とおこだま》して轟《とどろ》く銃声、びゅ! びゅん※[#感嘆符二つ、1-8-75] と左右をかすめる弾丸。信次郎は馬腹を蹴ってだーと駈けだした。再び、三度《みたび》、銃声は二人を追ったが、弾丸は左右に外れて一発も当らなかった。
まっしぐらに糺の森へ馬を乗入れた信次郎、最早大丈夫と見て、孤《ひと》り朝風に翻えっている白竜の旗の下へ馬を停める、先ずひらりと自ら馬を下りて、同乗の相手をも援《たす》け下す。
「小弓どの……」
と手を差出した。
小弓は静かに兜を脱《と》る、しっとり汗を帯びて、血気輝くばかりの面を振仰ぐと、張切った弓弦の切れるように、
「信次郎さま」
と叫びながら、男のひろげた腕の中へ、崩れるように凭《もた》れかかった。
信次郎は力任せに引緊めた、小弓は男の胸へ頬をすりつけながら、つきあげて来る悦《よろこ》びに声を顫わせながら欷《すすりな》いた。最早なんの言葉ぞ、――二人は無言のまま、犇々と互いに抱緊めたまま、暫くは火のような愉悦にひたっていた。
「小弓どの」
信次郎がやがて云った、「昨夜のお手紙、あれはお返し申しますぞ」
「――はい」
「棋一郎の罪は立派に償われた。見られい、佐和野城外、今は幕軍の一兵も留めぬ大勝利でござる」
慎二郎の指さす方を、振返った小弓の眼に、燦《さん》として佐和野城の天守の上へさし昇る旭日の光が映った。
弟の罪は償われた、矢崎家の汚名は雪《そそ》がれた。明るく活々《いきいき》と甦《よみがえ》る小弓の耳へ、遠雷のような勝鬨《かちどき》の声が聞えて来る――さ霧たちこむる森の中に、白竜一旗、誇らかにひらめいていた。
[#地から2字上げ](「キング」昭和十一年八月号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「キング」
1936(昭和11)年8月号
初出:「キング」
1936(昭和11)年8月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)家茂《いえもち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)川|家茂《いえもち》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
慶応元年(一八六五)五月、徳川|家茂《いえもち》は自ら旗下の兵を率いて長州再征の軍を発し、先《ま》ず総督|紀伊大納言《きいだいなごん》をして芸州に牙営《がえい》を進め、毛利家の出城《でじろ》佐和野城を攻略せしめた。
城主|林右馬頭《はやしうまのかみ》は善戦したが、幕軍は怒濤《どとう》の如《ごと》く殺到、六月初旬|遂《つい》に佐和野城下に迫って完全に包陣を布《し》いた。城兵は食糧物資に困窮しつつも、包囲軍に対して城下の周囲に厳重な柵《さく》を結《ゆ》い、堀をめぐらして、山口城よりの援軍来る迄《まで》は、幕軍を一歩も入れじと防備怠らなかった。
斯《か》くて対陣月余、七月はじめの或る朝のことである――。
未《ま》だ明けきらぬ城下町は、乳色の濃い霧に閉ざされて、樹立《こだち》も屋並もひっそりと霞《かす》んでいる。――この時刻に、山伏町のとある古びた屋敷の庭では、さっきから頻《しき》りに凄《すさま》じいい気合の声が聞えていた。
「えーイ、やっ、えーイッ」
立罩《たちこ》めた霧の中で、元気いっぱいに叫びながら、一人の娘が甲斐々々《かいがい》しく裾《すそ》をからげ、襷《たすき》汗止めをして大|薙刀《なぎなた》を振っているのだ。
凛《りん》とした美しい頬は活々《いきいき》と燃え、上背のある肉置《ししおき》の豊《ゆたか》に緊《し》まった体には、若い血潮が脈々と跳《おど》っている。――佐和野城下の郷士聞こえた名家、矢崎家の長女で小弓と云う、今年|二十《はたち》の娘盛りであるが、父も母も死んだあと、十一歳になる弟の棋一郎《きいちろう》を、手一つに守育《もりそだ》てている健気《けなげ》さ。然《しか》も毎日未明に起出《おきい》でて、女ながらも怠らず武道を励み、
――さすがは矢崎家の娘だ。
と評判をとった女丈夫であった。
「やあ! えーイッ」
今朝も斯《こ》うして、熱心に稽古《けいこ》を続けていた時である。
庭の裏木戸が音もなく明いて、小具足の上から陣羽織を着た若い武士が一人、すーっと内庭へ入ってきた。そして、霧をすかしながら、暫《しばらく》くのあいだ、昵《じっ》とその稽古ぶりを見戍《みまも》っていたが、――やがて何事か独り頷《うなず》きながら腰の大剣を抜く、足音を忍んで小弓の背後へ廻ると、いきなり、
「えイーッ!」
裂帛《れっぱく》の気合をかけた。
「はっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
刹那《せつな》、娘は燕《つばめ》のように左へ、身を翻《ひるが》えしざま向直って大薙刀を下段に構えた。
「お美事、お美事でござる」
若武者は大剣を納めて、微笑しながら霧の中を近づいてきた。
「まあ信次郎さま」
「折角お稽古のところ、驚かせ申して済みませんでした。――然しこれで拙者も安心してお別れができます」
「別れ――?」
小弓の美しい眉《まゆ》がさっと曇った。
「実は昨夜、大番頭《おおばんがしら》から命令が出て、拙者もいよいよ陣中へ詰める事になったのです。役目は北の木戸五番組の組頭、今日から任役に定《き》まったのでござる」
「まあそれは急な……」
「ひと眼会ってお別れ申上げようと、来てみると薙刀のお稽古、失礼ながら心得の程を拝見致し度《た》くなり、思わず無礼を仕《つかまつ》ったが、思いの外のお腕前にて心強く出陣が出来ます」
「いいえほんの真似事、お恥かしゅう存じます。ではあの……お急ぎでもございましょうが、ちょっとお寄り遊ばして粗茶など召上って下さりませぬか」
「それではお縁先まで」
小弓は支度を直して家へ入った。
若武者の名は館川《たてかわ》信次郎、大番組で二百五十石を取る。小弓とは早くから親同志が許した許嫁《いいなずけ》の間柄で、去年婚礼を挙げるところだったが、卒如として起った幕府第一回の長州遠征に会し、そのまま延びて今日に及んだのであった。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
広縁に腰を下して、待つ程もなく小弓が茶道具を運んで来る、それと一緒に弟の棋一郎も出て来た。――眼のくりくりとした、如何《いか》にも悪戯《いたずら》そうな少年である。
「館川のお兄様、お早うございます」
「や、棋一郎か」
信次郎はにっこりしながら、「貴様、姉上が早くから薙刀のお稽古をしているのに、いつまで寝坊をしていては駄目だぞ」
「だって僕はいつもお姉さまの済んだ後でするんだぜ、僕の剣術はとても筋が良いんだってさ」
「なんです、その言葉は」
小弓が強く叱《しか》った、「町家の者の口真似をしてはなりませんと云ってあるでしょう」
「はっはっは、それみろ、姉上に叱られるではないか、それに僕などと云う事をどこで覚えた」
「皆が云ってますよ、御本城の奇兵隊ではみんな僕、僕って云うんだって、僕も大きくなったら奇兵隊に入って暴れてやるんだ、高杉晋作なんか家来にしてやる」
信次郎も小弓も思わず微笑した。
是《これ》が一生の別れになるかも知れぬ、遽《あわただ》しい袂別《べいべつ》に何のもてなしも無い粗茶、小弓が心を籠《こ》めて淹《い》れる一服を静かに喫して、
「さて、棋一郎」
と信次郎は向直った。「拙者は今日から出陣と定り、北の木戸詰めとなった。おまえも知っている通り、佐和野城下は幕軍の包囲陣に孤立して、いつ決戦となるか知れぬ有様だ。今度砲火があがればとても生きて還《かえ》る事は覚束《おぼつか》ない、そこで――改めて申聴《もうしき》かせるが、其方《そのほう》は矢崎家を継ぐべき身上、今後ともよく姉上の言葉を守って立派な人物にならなければいかんぞ」
「はい、よく分りました」
「小弓どの、御旗をお持ち下さい」
信次郎が振返って云う、小弓は頷いて立ったが、間もなく一旒《いちりゅう》の古びた旗を取出してきた、白竜の雲を巻いて天上する相《すがた》が描いてある――信次郎はそれを片手に捧《ささ》げて、
「棋一郎、この旗を存じて居るか」
「知ってます」
少年はさすがにきっと衿《えり》を正した、「矢崎家の御先祖様が、戦場の功に依《よ》って毛利|大膳太夫《だいぜんのだいぶ》様から頂戴《ちょうだい》した品です」
「そうだ、毛利家に白竜の旗ありと、関東にまで聞えた名誉ある御旗だ。其方はこの白竜を受継ぐべき重い責任のある体だぞ、それを忘れずにきっと立派な武士になれ、宜《よ》いか」
「はい、必ず偉い武士になります」
「それを聞けば最早思い残す事はない」
信次郎は旗を小弓に返すと、
「それではお別れ申す」
と腰をあげた。
「もうお立ち遊ばしますか」
小弓は微《かす》かに残り惜しげな眼をあげた、「どうぞ御武運めでたく」
「小弓どのにも御健固で」
信次郎はひたと娘の眼を見た。小弓も無量の想《おも》いを籠めて男を見上げた。女丈夫と云われても娘である――ふっと睫《まつげ》に露が溢《あふ》れる。
「――さらば」
と云って信次郎は、強く外向くとその儘《まま》、足早に霧の中を立去って行った。――小弓は暫《しば》しその後姿を見送っていたが、やがて心を執り直すと、
「棋一郎、いま館川様の仰《おお》せられた事、決して忘れてはなりませぬぞ」
「お姉さま、大丈夫です」
「私は女の身、少年ながらそなた[#「そなた」に傍点]は矢崎家の主人です、若《も》し館川様が……御戦死遊ばすようなこともあらば、私は生涯――有髪の尼となってそなた[#「そなた」に傍点]を護立《まもりた》てる覚悟、その積《つもり》でそなた[#「そなた」に傍点]も父上の子として恥かしくない武士になってお呉《く》れ、お分りですね」
「大丈夫ですとも」
棋一郎は肩をつきあげた、「お姉さまだって心配しなくても宜いですよ、館川のお兄さまが討死したら、僕がきっとお姉さまを慰めてあげますよ」
「まあ、出陣の朝に討死などと云うものではありません。さあ――」
と小弓は立上った、「御旗を納《しま》って来ますから、そなたは撃剣の支度をなさい」
「合点《がってん》です」
「またそんなことを」
小弓は睨《にら》んで、「そんな野卑なことを云ってはなりません、何処《どこ》でそんな言葉を覚えて来るのですか」
棋一郎は困って頭を掻《か》きながら、
「も、もう大丈夫ですよ、もう云いません、あいつが、仙公が悪いんだ……」
半分は口の内で呟《つぶや》きながら、そこそこに庭へとび下りて行った。
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
「そら、行くぞ大弾丸《おおだま》、仏蘭西《フランス》渡りの加農《カノン》砲二十|斤《きん》の強薬《つよぐすり》だ、来い――野郎」
「なにを、此方《こっち》は石火箭《いしびや》だい」
「糞《くそ》を喰《くら》え、石火箭なんか周防灘《すおうなだ》へぶっ飛ばして瘤鯛《こぶだい》の餌食《えじき》に呉れてやらあ」
城下町のとある裏地で、十人ばかりの少年達が円陣をつくってやかましく喚《わめ》きたてていた。半年ほど前から流行《はや》り始めた鉄輪独楽《てつわごま》の遊びが、戦時の荒い気風に唆《そそ》られて、賭《か》け勝負を争うようになったのである。
「ざまあ見ろ」
勝負が定った、「また加農砲の勝ちだ、賭けた十文はおいら[#「おいら」に傍点]の物だぜ、へっへ」
伝法に笑ったのは、悪たれ仲間の大将で仙太という少年だった。
この群の中で、棋一郎がさっきから羨《うらや》ましそうに勝負を見ていた。姉が機織《はたおり》をして僅《わずか》に生計を立てている暮しでは、とても鉄輪独楽を買って貰《もら》うことは出来なかったし、まして賭け銭などある筈《はず》がない。
――僕もやってみ度いなあ。
遊び度い盛りの年である、勢いよく廻る独楽、叩《たた》きつけられて飛ぶ鉄輪、ちゃらちゃらと鳴る青銭の音にも幼い胸はわくわくと躍った。
やがて勝負が終って、皆ちりぢりになった時である、例の仙太が棋一郎を認めて、
「おや、矢崎の坊ちゃん」
と声をかけた、「おめえ今日も見に来ていたのかい。どうして遊ばなかったんだ」
「だって独楽がないし……」
棋一郎は気恥かしげに、「それに、僕、賭けの銭だって持ってないもの」
そう云って歩き出した。
仙太は佐多浜の漁師の孤児で今年十四になる。預けられた伯父の家にも居つかず、城下町の悪童達と勝手放題に暴れ廻る悪戯小僧だったが、不思議にいつも小銭を持っていて、気前よく仲間の者を潤《うるお》すので、少年達には大きな人気と勢力をもっていた。
仙太は棋一郎の言葉に仔細らしく頷いて、
「なにしろ幕軍に包囲されているという始末だからなあ、何処の子供だって小遣いなんか貰えねえ訳さ――だけど、独楽ぐれえ無《ね》えって法はねえ」
と勿体《もったい》ぶって云ったが、やがて歩みを止めて振返った。
「坊ちゃん、おめえに独楽や賭銭を儲《もう》けさせてやろうか」
「本当にかい?」
「本当だとも、今まで誰にも内証にしていたんだが、坊ちゃんだけに教えてやるんだ、それはな……柵《さく》の外へ薯《いも》掘りに行くんだ」
仙太はぐいと声をひそめた。
食糧物資に窮乏している佐和野城下に、畑地の底まで掘返されている状態だったが、結柵《ゆいさく》の外にはまだ荒されていない畑がある、仙太はそこへ行って薯を掘って来ると云うのだ――仙太は事々しく四辺《あたり》を見廻しながら、
「どうだ、今夜おいら[#「おいら」に傍点]と一緒に二の木戸から出ねえか。おめえにも分前《わけまえ》を遣るぜ、そうすれば独楽も買えるし賭銭も出来らあ」
「でも――」
棋一郎はこくりと唾《つば》をのんだ。「でも、柵から出れば敵に射たれやしない?」
「だから夜になって行くのさ。もう何度も試しているけど一度だって狙《ねら》われた事あねえ、それとも、おめえ幕兵が怖《こえ》えのか」
「嘘《うそ》だ、幕軍なんか怖かないや」
棋一郎は辱《はずかし》められたように肩を挙げた。仙太は狡《ず》るく笑って、
「そうだろう、坊ちゃんは武士の子だ、怖くねえに違えねえや、だから一緒に行こうぜ、今夜五ツ過ぎに大松の処《ところ》で待っていらあ、来いよ、なあ?」
「うん、行く、行くよ」
十一歳の少年に、厚輪のすばらしい独楽や豊《ゆたか》な賭銭はのっぴきならぬ誘惑だった。棋一郎の頷くのを見て仙太は、
「だけど、こりゃ内証だぜ、誰にも云っちゃいけねえぜ、他の奴に儲けられちゃあつまらねえからな。宜《い》いか」
「うん、大丈夫だよ」
「それから木戸を脱ける時、おいら[#「おいら」に傍点]番士の人に坊ちゃんを弟だと云うからその積《つもり》で旨《うま》く頼むぜ、こいつあ大事だからな」
「いいよ、うまくやる」
棋一郎は粘る舌でようやく答えた。
[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]
その夜のことである。
東の柵にある『二の木戸』は五十人組の詰場であったが、今夜はどうした事か人数が眼立って多く、隠し篝火《かがりび》に映る物具|揃《ぞろ》えも、ひどく殺気立って見えた。
五ツを少し廻った頃であった、木戸を守っていた番士が、闇《やみ》を縫って来る二人の少年をみつけて、
「こら、何処へ行くか」
と呶鳴《どな》った。立止った少年の一人は仙太、一人は姉の寝た間に家を脱けて来た棋一郎である。
「荒井《あらい》の畑へ薯掘りに行くんです」
仙太が左の腕へかけた手籠《てかご》を見せた、「二三日前にも通して貰いました」
「薯掘りだ?」
「そうなんです、父さんは去年の合戦に足軽組へ加わって討死しちゃったし、母さんは病気で寝たっきりだから、食べる物もなくなって困っているんです。それで弟と一緒に薯を掘って来て、ようやく飢えを凌《しの》いで……」
仙太は腕でぐいと眼を横撫《よこな》でにした。番士も思わず誘われて、
「そうか。この戦争では城下の者ばかりでなく、我々も兵粮《ひょうろう》が乏しくなって困っているのだ。おまえ達もさぞ辛《つら》かろうな、――宜し宜し、通してやるから薯を掘って来い、だが敵軍にみつからぬようにしろよ」
「大丈夫です、もう何度も出た事があるんですから」
勇んで出ようとするのを、
「ああちょっと待て」
と番士が呼止めた、「それから今夜|子《ね》の刻《こく》になると、糺《ただす》の森の敵陣へ総攻めをかける、その為に味方の主力が此処《ここ》へ集っているから、総攻めのかからぬ内に帰って来いよ」
「子の刻に、糺の森へ総攻め……?」
仙太はそう云って、隠し篝火の彼方へちらと怖《おそ》ろしそうな一瞥《いちべつ》をくれたが、
「分りました、大急ぎで掘って来ます」
「気をつけて行け」
番士の言葉を後に二人は柵から出た。
父は去年の戦争に討死、母は病床にあるなどと、あんな嘘を云って宜いのかしら。棋一郎は何となく気を咎《とが》められたが、黙って仙太について歩いた。
柵を出て半丁も来ると、四辺《あたり》は砲弾に抉《えぐ》られた穴や土崩れの多い荒地になった。仙太は時々身を跼《かが》めて、土塊《つちくれ》や雑草を掴《つか》み取っては手籠の中へ入れながら進む、――段々と寄手《よせて》の陣へ近くなって来た。
「何処まで行くの――?」
「黙っているんだ」
仙太は強く制した、「おいら[#「おいら」に傍点]の云う通りになってれば宜い、さあ駈《か》けよう――頭をさげて駈けるんだぜ」
そう云うと、仙太は身を跼めながらたったっと走りだした。棋一郎も見失っては大変だから続いて走ったが、四五丁ばかり行くと灌木《かんぼく》の茂みの蔭《かげ》へとび込んで、
「蹲《しゃが》め蹲め、頭を出すと射たれる」
と云って棋一郎を引据えた。
二人とも息をはずませながら、灌木の蔭にじっと身をひそめている。やがて仙太は、懐中から燧石《ひうちいし》を取出して、東の方へ向けてかちかち[#「かちかち」に傍点]と二三度打った。――不思議な事をすると、棋一郎が見ていると、三丁ほど先の闇へ、ちらちらと赤い火が二三度明滅した。信太はにやりと笑って、
「上首尾と来やがった」
と立上った、「坊ちゃん、おいら[#「おいら」に傍点]直《じき》に戻って来るから此処を動かずに待っていねえよ」
「どうするの、薯を掘るんじゃないの」
「黙ってろよ、今すばらしい薯を掘って来てやるんだ、何処へも行かずに待っているんだぜ」
そういい残して、仙太は赤い火の見えた方へ小走りに走って行った。
「早く来てね――」
棋一郎はそう云いながら灌木の蔭にじっと蹲んでいたが、仙太の足音が聞えなくなると、にわかに闇が濃くなったように思われ、恐ろしい不安が体を犇々《ひしひし》と緊めつける――仙太は何をしに行ったんだろう、何の為に燧石を打ったのか?
後から後からと湧上《わきあが》ってくる疑惑と不安に迫られ、じっとしていられなくなった棋一郎は、堪《たま》らなくなって仙太の去った方へと忍び足で出掛けて行った。――二丁あまりも来た時である、闇の中に話声が聞えるので、はっと足を止め、地面へ身を伏せて前方をすかし見にすると、十間ばかり先に仙太が……一人の鎧《よろい》武者と何か話していた。
その二人の立っている二三十間先には、弾丸除《たまよ》けの※[#「土へん+朶」、第3水準1-15-42]《あずち》が築いてあり、篝の余光に動き廻る軍兵の姿もかすかに見える。
「幕軍の陣営だ――」
棋一郎は身慄《みぶる》いしながら呟いた。
[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]
驚くべき事はそれだけではなかった。棋一郎が聞いているとも知らず、仙太は敵方の鎧武者に向って、探り出して来た城中の模様を巨細《こさい》に内通しているのだ、――一語々々が棋一郎の耳へ針のように鋭く聞えて来る。
「それから」
と仙太は語を継いで、「今夜子の刻に、糺の森の陣地へ総攻めをかけると云って、いま東の柵へ主力が集まっていますよ」
「糺の森へ総攻め?」
鎧武者は驚いた様子で、「そうか、其《それ》は良い報知《しらせ》を持って来た。宜し――城方が主力を東の柵へ集結したとあれば、北の法輪寺口はがら空きに相違ない。では此方《こっち》から子の刻直前に手薄の法輪寺口へ不意討をかけてやろう、それでは是で別れる……さあ、褒美[#「ほうび」に傍点]の銀《かね》だ」
「有難うございます」
「また何かあったら知せて呉れ、――」
そこ迄聞くと、棋一郎は這《は》うようにして元の場所へ戻って来た。
「大変だ、大変な事になった」
少年ながら事態の重大さは分った。不思議にいつも小銭を持っていた仙太の、薯掘りに出るとは偽り、実は幕軍の諜者《ちょうじゃ》を勤めていたのであった。
「おい、何処だ」
仙太はすぐに走って来た、「やあ居たな。早かったろう、もう用は済んだから帰ろう――そら、今夜の分前だ」
「僕は要らない」
さあと云って差出す一掴みの銭を、棋一郎はぐいと押返した。仙太は呆《あき》れて、
「どうしたんだい、坊ちゃん」
「僕は、僕は聞いたよ、おまえは幕軍の諜者をしているんじゃないか、僕は……帰ったら番士の人に話してやる」
「なんだと?」
仙太はぎらりと眼を光らせた。
「そうか。へっへっへ、聞いちゃったのか、そんなら仕方あねえ」
ふてぶてしく嘲笑《あざわら》ったが、「だがの、おめえ番士に話すなら覚悟しなくちゃならねえぜ、今夜の事ぁおめえも同志だ、木戸の番士を騙《だま》しておいら[#「おいら」に傍点]と一緒に脱けて出た、罪あひとつだ。承知だろうな?」
「だって、僕ぁ……知らずに――」
「そんな言訳が通ると思ってるのか。へ! どうせおいらあ無頼《やくざ》の孤児だから、お仕置になったって誰一人泣く者あ有りやしねえ。だが、おめえは落魄《おちぶ》れても矢崎様の御子息だぜ、その棋一郎様が諜者の罪で、磔刑柱《はりつけばしら》へ架けられたらさぞ評判になるだろう――第一おめえの姉さんの顔が見てえや」
少年の口から出るとは思えぬ鋭い威嚇《いかく》だった。
――武士として最も忌《い》むべき諜者の汚名、磔刑柱、姉の悲嘆……恐ろしい幻想が次々と襲いかかって、棋一郎は身動きのならぬ絶望の淵《ふち》へ叩きこまれるのを感じた。
仙太は威嚇の成功を慥《たしか》めて、
「なあ坊ちゃん」
と急に声を柔げた、「そんなつまらねえ考えは止《よ》しねえ、黙っていれば誰にも知られずに済むんだ。なあ、是だけあれば上等の独楽も買えるし、二日三日の賭銭にゃあ困らねえぜ」
「どうして……僕を伴《つ》れて来たの?」
棋一郎はそれが怨《うら》めしいと云うように泣声で訊《き》いた。
「そりゃおめえ、おいら[#「おいら」に傍点]一人じゃ番士が疑いをかけるからよ、弟伴れとなればまるで信用が違わあな……さあ取って置きねえ」
仙太は放心したような棋一郎の手へ、幾許《いくばく》かの銭を握らせると、土塊や雑草を掴み込んであった手籠を腕に、柵の方へと歩きだした。棋一郎は最早、穢《けがら》わしいと思いながらも其の銭を拒む元気もなく、仙太に跟《つ》いてとぼとぼと柵の内へ戻って来ると、――鉄砲組屋敷の角のところで仙太と別れて、そっと自分の家へ帰った。
「若し姉上が起きていたら……?」
慄えながら裏口から忍び込む。
足音を忍ばせて、闇の中を寝間へ入ってみると、燈火は消えたままで微かに姉の寝息が聞えている。棋一郎はほっとして、そこへ慄えながら坐《すわ》って了《しま》った。
是からどうしたら宜いだろう――幼い頭の中は暴風雨のように混乱していた。自分は知らなかったとは云え、明かに味方を売ったのだ、人間として最も卑《いやし》むべき、最も卑劣なる事をして了ったのだ。あの親切な番士も、館川の兄さんも、城下の人達も――今夜敵軍のかける法輪寺口の不意討に、どんな惨虐《ざんぎゃく》な蹂躪《じゅうりん》を受けるかも知れない。
「ああ困ったなあ」
少年の小さな胸には包みきれぬ不安と恐怖と悔恨に、思わず呻《うめ》き声をあげた時、
「――誰?」
不意に姉が呼んだ、「棋一郎かえ」
ぎょっとして棋一郎は跳ねあがり、自分の寝床へ潜り込もうとした。――と気が上ずっていたから物に躓《つまず》いて※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》とのめる、同時に手に握っていた銭がざらざらと飛び散った。
小弓は怪しい物音に、素早く起き直って行燈《あんどん》に燈を入れる、棋一郎が狼狽《ろうばい》して銭を掻《か》き集めようと、畳の上へ這った時――ぼうっと行燈が点《とも》った。
「どうしたのです、棋一郎」
「な、なんでも、なんでもありません」
がたがた慄えながら見返る顔は、まるで紙のように血気《ちのけ》がない、訝《おか》しい――と見戍《みまも》る小弓の眼は、きらきら光る小粒銀の金が、夥《おびただ》しく散乱しているのをみつけた。
「まあ、お金」
小弓は愕然《がくぜん》と色を喪《うしな》った、「どうしたのです棋一郎、そのお金は……」
「――お姉さま、赦《ゆる》して!」
引裂けるように、やっと泣きながら少年は姉の前へ身を投出した。
[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]
「僕、知らなかったんです」
棋一郎は泣きながら凡《すべ》てを告白した。
「本当に何も知らなかったのです、お姉さま。どうか堪忍《かんにん》して下さい、もう独楽もなんにも欲しくありません、これから温和《おとな》しくして立派な人になります、今度だけどうか堪忍して下さい、お姉さま!」
「おまえは、おまえは、なんということを……」
小弓は胸も潰《つぶ》れんばかりに聞いていたが、罪こそ憎けれ、悪戯《いたずら》ざかりの子供が玩具《おもちゃ》欲しさに過《あやま》ってした事を、今更なんと云って叱《しか》る術《すべ》があろう。――それより先に為《な》すべき事はあるのだ。
小弓は健気《けなげ》にも心を決め、次の間へ行って手早く二通の書面を認《したた》めたが、すぐに戻って来て、一通を棋一郎に渡し、
「おまえは此《こ》の手紙を持って、今から波庭村の婆《ばあ》やの家へおいで」
「堪忍して下さいお姉さま」
「棋一郎」
小弓は弟の肩へ手を置いた、「おまえ本当に悪かったと思いますか」
「僕、僕、切腹しましょう……」
「お待ち、今になって切腹しても、諜者の汚名は消えません。それより其《そ》の覚悟を忘れずに再びこんな過ちをせず、婆やの里へ行ったらよく勉強して、今夜の罪を償うだけの立派な武士になるのです」
「では、堪忍して下さるんですね」
「私は堪忍してあげます。でも御先祖様はおまえが立派な人物になるまでは決して堪忍なさいません、分りますか」
「はい――」
「では其のお手紙を持って、すぐ波庭村へいらっしゃい」
「お姉さまは?」
「私は、私は――後から行きます」
是《これ》が今生の別れになる、そう思うと小弓の胸は張り裂けるように苦しかった。然し――大事な刻《とき》は迫っている、
「早くおいで、道は分っていますね」
「分ってます。お姉さまはいつ来るの?」
「棋一郎……」
小弓は思わず弟を抱き寄せたが、「後で――後ですぐ行きます。ああ提燈《ちょうちん》を」
涙を隠して提燈を取出し、燈を入れて持たすと思い切りよく弟を送り出した。――見送る暇も惜しく、小弓は仏間に入って、両親の位牌《いはい》の前にぴたりと手をついた、
「お赦し下さいませ父上様、女手の貧しさから独楽も買ってやれず、その為にこんな過ちが出来ました。みんな小弓の至らぬ罪でございます。矢崎の家から諜者を出しました恥辱は、これから私が立派に雪《そそ》ぎますゆえ、どうぞ黄泉《よみ》より御覧遊ばして下さりませ」
生ける人に云う如《ごと》く、声涙ともに下ることしばし。やがて小弓は立上ると、手早く家内を取片付けて、納戸《なんど》から父が遺愛の鎧櫃《よろいびつ》を取出す、垢《あか》の着かぬ肌着に換え、緋色《ひいろ》の下着の上へ鎧下を着込むと、馴《な》れぬ手ながらしっかりと鎧を着け、厳重に身拵《みごしら》えをした。
女でこそあれ、日頃から武芸に錬《きた》えた上背のある体、黒髪を束ねて垂れ、腹帯をきりりと緊《し》めて大|薙刀《なぎなた》を右手に、家宝白竜の旗を左手にしぼってすっくと立上がった姿は絵のような武者振り。――仏前にもう一度|額《ぬか》ずいて仏壇の扉を閉すと、兜《かぶと》を衣《つけ》て行燈の燈を消し、そのまま小弓は家を出た、時まさに四ツである。
足を早めて東の柵へ来る、木戸を守る番士に近寄って、男声につくり、
「一大事でござります」
と大きく呼びかけた、「子《ね》の刻|糺《ただす》の森へ総攻めをかける事、仔細あって敵方に洩《も》れ聞かれました」
「なに、何と云われる」
「寄手《よせて》は、城方の本勢東の柵に集ると知り、糺の森を払って主力を集め、法輪寺口へ夜襲をかける手筈《てはず》との事、一刻も早くお手配下さるよう、お係りへお申伝え下さい」
「それは真《まこと》か」
「斯う云う内にも後れては大事、どうぞ早くお係りへ――あ、暫《しばら》く」
行こうとする番士を呼止め、「御迷惑ながらこの書面、北の木戸五番頭、館川信次郎様にお渡し下さい」
「お手前は?」
「お渡し下されば分りまする」
手紙を受けた番士が宙を飛ぶように走り去るのを、篤《とく》と見済した小弓は素早く木戸を脱け出て闇《やみ》の中へ――糺の森をめざして唯《ただ》一人、敢然と大股《おおまた》に進んで行った。
一方、番士の齎《もたら》した急報は城軍を震撼させた。なかにも北の木戸に在った信次郎は、小弓の手紙を披《ひら》くなり仰天、
「うーむ」
と思わず呻《うめ》き声をあげたのである。
美しい走り書きの文字は、弟棋一郎の犯した始末を精しく認めて、一刻も早く敵の奇襲に備える事を乞《こ》い、――筆を改めて、
「少年の無思慮とは申しながら、諜者の罪を犯した棋一郎、その姉とあれば罪は同じことに候《そうろう》。かかる穢《けが》れた身を以て御許《おんもと》さまの許嫁《いいなずけ》たること思いもよらず即《すなわ》ち今宵《こよい》限りお約束を辞退申上げ候。女の身の細腕ながら、これより敵陣へ斬込《きりこ》み、恥辱の万分の一を雪いだうえ、亡《な》き父母の許へ参る所存、何卒《なにとぞ》々々御許様には御武運長久にて――未練ながら、お眼もじ致さぬが何よりの心残り」
と読みも終らず、
「馬を曳《ひ》け」
と叫んで信次郎は立上る、「小弓、待て、待って呉れ」
と心の内にいいながら、番士の曳いて来た馬にとび乗りざま、信次郎は東の柵へまっしぐらに駆け去った。
[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]
小弓の警報は功を奏した。
城兵の主力は東の柵に集結したものとのみ信じた寄手が、主軍を移動せしめ法輪寺口へ強襲をかけようとする、その出端《でばな》へ、突如として城兵の尖鋭《せんえい》隊が不意討ちをかけた。
寄手の狼狽は云うまでもない、一刻あまりにして中央を突破され、本軍を両断されて大混乱に陥り、此の夜の大将佐々木信濃守は身を以て大鷹山へ逃げのびた。然し――野山口を固めていた勇将橋本|但馬守《たじまのかみ》は、手勢を叱咤《しった》しつつ敢然と攻撃し、深入りした城兵を孤立せしめて一気に勝ちを制そうと、無二無三に突進、馬上に剣をふるって、
「関東武士の死場所ぞ、一歩も退くな、死ねや、死ねや」
と喚《わめ》き喚き奮戦した。
闇を劈《つんざ》いて閃《ひら》めく刃、槍《やり》、斬りつ、斬られつ、怒濤《どとう》の如き雄叫《おたけ》び、銃声、遠|篝火《かがりび》に濛々《もうもう》と闇を塗る土埃《つちぼこり》の中で、いずれも決死の武者ここを先途と斬結んだ。
然し、先《ま》ず虚を衝かれて陣構えの崩れた寄手の勢は、白い腕章をつけ、指揮進退全く整然とした城兵の猛撃を耐え得る筈がなく、東天ようやく白み初《そ》める頃には、橋本但馬の手勢もさんざんに斬り崩されて、遂に、
「糺の森まで退け」
と云う命令を発するに至った。
館川信次郎は五番組の組頭として、馬上に大槍をふるいつつ奮戦したが、心のうちは小弓の身を気遣う思いでいっぱいだった。――其処《そこ》で斬られはせぬか、彼処《あそこ》で討たれはせぬかと縦横に戦場を馳駆《ちく》しつつ捜し求めたが、遂にみつけ出す事が出来なかった。
ところが、明けかかる光のなかを、橋本但馬の手勢が糺の森へ退き始めた時である、先頭がまさに森口へかかった刹那《せつな》、さっと灌木《かんぼく》の茂みの中から、一旒《いちりゅう》の旗が現われた。
「あっ――」
と驚いて見ると、音に聞こえた長州毛利家の白竜である。退却して来た但馬勢は、
「やや、糺の森も既に城兵が占領しているぞ、戻れ、戻れ」
と崩れたつ、面前へ、
「見参――」
と叫んで、森の中から鎧武者が一人、大薙刀を抱込《かいこ》んで立現われた。
「佐和野の住人、矢崎棋一郎」
喝然と名乗って迫る。だが――白竜の旗を望んで森の中に伏勢ありと見た但馬勢は、浮足だって雪崩《なだれ》のように、
「芸州口へ逃げろ、芸州へ、芸州へ」
と先を争って敗走した。
糺の森へ退くと見えた敵兵が、にわかに混乱して芸州口へと遁走《とんそう》し始めたから、不審に思って馬上に伸び上がった信次郎――未明の森に朝風を受けて白竜一旗、翩翻《へんぽん》と翻《ひるがえ》えるのを見る。
「おお白竜の旗」
狂気して鞍《くら》を打つ、「小弓がいた」
喚くとそのまま、馬腹を蹴《け》って、だーっと、宙を飛ぶ如く、真一文字に駆って行った。
小弓は逃げ行く敵兵の殿《しんが》りの群へ、まさに必死の斬死にをかけようと、呼びかけ呼びかけ追い討ちに出る。一騎と見て、殿りの兵の五六名が立戻って、
「青武者の痩《や》せ腕、討って取れ」
と取巻いた。小弓は薙刀を執り直し、
「いざ参れ!」
とばかり斬り込んだ。
敗軍とは云え敵も名だたる関東武者、左右前後から犇々《ひしひし》と取詰めて、一挙に討って取ろうとする、小弓は薙刀の秘術を尽して、先ず一人の高腿《たかもも》を斬放す、
「うぬ、洒落《しゃれ》た事を――」
と右の武者の突き出す槍、ひっ外して真向をさっと払う。刹那、鋭く返して脇壺《わきつぼ》の具足はずれを強《したた》かに薙ぎ放した。
「ひー!」
悲鳴をあげて二人めが倒れる。ところへ引返して来た殿り兵の一人が、
「退け退け」
と叫んで銃をぴたりとつけた、「手間どっては面倒、拙者が一発で仕止める」
「卑怯《ひきょう》!」
小弓が歯噛《はが》みをして跳び退いた、敵兵は銃を狙《ねら》い定めて引金に指をかけようとする、――とたんに風を切って跳び来たった大槍一筋、まさに引金を落そうとした敵兵の、高胸、具足はずれへぐさっ[#「ぐさっ」に傍点]とばかり突刺さった。
「ぎゃ――っ」
だあん! 弾丸は空へ飛んで、血煙倒れる銃兵。
意外な出来事に、思わず振返ると、馬を煽《あお》って来た信次郎、馬上の投槍に危機を救った勢いに乗じて、大剣を抜放ちながら、
「己れ、一人も遁《にが》さんぞ」
と殺到した。
思わぬ助勢に敵兵はどっと逃足を誘われたが、それと見て殿りの銃隊が十五六人、ばらばらと引返して来る、――その前面へ、小弓が敢然と突進した、此処で死のう! と云う決死の容子《ようす》、
「危い! 待たれい」
信次郎は馬を近寄せて、「此の上の死に急ぎは乱心でござるぞ、退かれい!」
と呶度鳴りざま、金剛力に小弓の体を引寄せる、藻掻《もが》くのを抑えつけて、鞍の前壺へかき乗せると、素早く馬首を回した。
だだだーん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
遠木魂《とおこだま》して轟《とどろ》く銃声、びゅ! びゅん※[#感嘆符二つ、1-8-75] と左右をかすめる弾丸。信次郎は馬腹を蹴ってだーと駈けだした。再び、三度《みたび》、銃声は二人を追ったが、弾丸は左右に外れて一発も当らなかった。
まっしぐらに糺の森へ馬を乗入れた信次郎、最早大丈夫と見て、孤《ひと》り朝風に翻えっている白竜の旗の下へ馬を停める、先ずひらりと自ら馬を下りて、同乗の相手をも援《たす》け下す。
「小弓どの……」
と手を差出した。
小弓は静かに兜を脱《と》る、しっとり汗を帯びて、血気輝くばかりの面を振仰ぐと、張切った弓弦の切れるように、
「信次郎さま」
と叫びながら、男のひろげた腕の中へ、崩れるように凭《もた》れかかった。
信次郎は力任せに引緊めた、小弓は男の胸へ頬をすりつけながら、つきあげて来る悦《よろこ》びに声を顫わせながら欷《すすりな》いた。最早なんの言葉ぞ、――二人は無言のまま、犇々と互いに抱緊めたまま、暫くは火のような愉悦にひたっていた。
「小弓どの」
信次郎がやがて云った、「昨夜のお手紙、あれはお返し申しますぞ」
「――はい」
「棋一郎の罪は立派に償われた。見られい、佐和野城外、今は幕軍の一兵も留めぬ大勝利でござる」
慎二郎の指さす方を、振返った小弓の眼に、燦《さん》として佐和野城の天守の上へさし昇る旭日の光が映った。
弟の罪は償われた、矢崎家の汚名は雪《そそ》がれた。明るく活々《いきいき》と甦《よみがえ》る小弓の耳へ、遠雷のような勝鬨《かちどき》の声が聞えて来る――さ霧たちこむる森の中に、白竜一旗、誇らかにひらめいていた。
[#地から2字上げ](「キング」昭和十一年八月号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「キング」
1936(昭和11)年8月号
初出:「キング」
1936(昭和11)年8月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ