半田南吉

半田南吉(はんだなんきち)〈1926.8-1993.9〉は、日本の経営者。ハンナングループ総帥、北海道政財界の支配者として北海道経済の発展にその人生をささげた。

来歴

幼少期

現在の兵庫県神戸市に生まれる。両親は判別とせず、幼いころから神戸市内の幼児支援施設の保護を受けていた。神戸市内の小学校を卒業。12歳の若さで神戸市内の食品会社で見習いの職工として食肉加工業に従事。

軍隊生活

15歳になると、陸兵教育の年限に達したため、神戸に駐屯していた第118歩兵連隊に入営。陸兵教育支隊にて半年間に及ぶ基礎教育を受けて、陸兵として任官。第1軍隷下第118歩兵連隊歩兵小隊に配属され、南方戦線に出征。1945年1月1日付で陸軍上等兵へ昇進。幸運の重なりもあって、無傷のまま終戦を迎える。1946年2月、極寒の神戸港に復員。神戸県庁復員局の推薦で、神戸市内の海運倉庫で仕分け業などに従事。

食肉の道へ

かつて、食肉加工をしていた物覚えもあって、1947年の5月に神戸食肉株式会社へ入社。食肉の加工職人として第一歩を歩むことになる。しかしながら、勤めていた工場が暴力団の縄張り争いに巻き込まれて休止したため失職。会社自体も暴力団の乗っ取りに遭って1950年の初頭に倒産する。失職した後、退職金代わりの東京行きのチケットを使って上京。1947年12月、食肉の卸売業を営む佐藤五俵の個人商店で住み込みの職工として勤める。佐藤は、東京都食肉職人産業組合の理事長を務めた経験もある食肉のプロであったが、同じ陸軍第118歩兵連隊で親父のように世話を受けた人物であった。半田にとって生涯唯一の親父となる。1951年8月に佐藤が倒れたため、佐藤の妻である佐藤アキとともに商店を続ける。1952年1月、アキの親戚にあたる福室亜紀と結婚する。当時日本人協会でタイピストとして勤めていた優秀な女性であり、恩師と呼ぶ間柄にもなった。1954年に、首都圏整備法施行に伴って店の閉業を迫られると、行政からの収用資金を手に北海道に渡る。

半田南吉食品工業社設立へ

1955年3月、十勝平野に膨大な土地を購入し自宅兼本社のあばら小屋で食品会社「半田南吉食品工業社」を創業。従業員は、東京時代からの事務員2名と営業マン1名、妻、母と慕う佐藤アキであった。地域の畜産農家を1軒ずつ訪問して人脈を構成し、地元の農協との知古を得た。創業から時間をかけず、解体から出荷までを一貫して行う体制を発足。特に、食品加工に重点を置き、国産のハムやソーセージ流通を目標に定める。1962年4月、自社ブランド「ハンナンジー」を発売。このころには、養豚から流通の一貫した経営モデルを確立し、従業員100人規模の食品加工の本社工場を設立した。

ハンナングループ

1963年12月、佐藤アキが鬼籍に入ると、空席のまま設置していた代表取締役社長に就任。東京での流通網拡大を目的として、東京ハンナンフーズ株式会社の社長として妻の半田亜紀を派遣した。流通に力を入れる目的で、東京と北海道を往復する生活を続けた。1964年には、会社名義で十勝空港に社用機を購入し、頻度が上昇。この飛行機は、商談でも使われた。特に、米国流通の趨勢を決めたといわれる、ウェルズ・ハイトマン(米国通商代表部食糧担当事務官)やジェームズ・キャヴェンディッシュ(エターナマート創業者)などの接待で用いられた。1964年10月の「東京五輪」に際して、選手村への食料品供給を担当。

北海道都市銀行設立

五輪の反動景気で、北海道内の中小企業が倒産の憂き目にあうと、北海道内最大の取扱銀行だった「東日本拓殖銀行」も経営赤字を計上。道内の金融関係業者が集まった東日本拓殖銀行経営再建委員会非常勤委員に名を連ねる。背景としては、メインバンクだった十勝信用金庫副理事長を有期で引き受けていたため、推薦を受けることになった。1968年4月、東日本拓殖銀行経営再建委員会は遂に経営安定化を放棄する委員会文書を公表、この公表に最後まで反対したのが半田であった。これに対して、大蔵省を中心に北海道内の経済に影響を持つ大企業が共同で資本出資する新しい都市銀行の設立が求められた。大蔵省は、半田南吉に一番最初に声をかけ、北海道都市銀行設立調査会の副会長を任命した。会長は、知古の中であった本田信広(日本海上保険社社長)だった。新銀行は、東日本拓殖銀行の保有株式を売却した資金を運転原資として、人員を削減したうえで採用することなどを決めた。1972年、北海道都市銀行が開設。開設式には、来賓の1人として参加した。

幕引きと支配

1967年、銀行再編の最中で「本業に専念できない」としてハンナン株式会社代表取締役を辞職。同年12月に、知古の本田信広(日本海上保険社社長)の勧めから資産管理団体である財団法人ハンナン財団を設立し理事長に就任。自身の保有株式や不動産などの多くを管理する。1970年には、ハンナン財団を中心に経営赤字が続く道内の孤児園や児童養護施設を買収し、運営母体の公益法人学苑を設立して理事長に就任。管理する組織は、道外へも広がっていく。

北海道文化放送会長

1970年、東日本拓殖銀行が保有していた北海道文化放送の32%に及ぶ株式をハンナン財団として取得。社内の要職には、ハンナン株式会社系列の役職者が就任していった。自身も、北海道文化放送株式会社取締役会長に就任した。1973年4月、北海道食品産業協会会長・北海道商工会議所会頭に就任。1975年から、自らもハンナン株式会社の販路拡大に努めるべく国鉄に接触。地元の十勝である北海道3区選出の衆議院議員である榛葉幹哉(元国鉄官僚・自由党代議士)に近づいて国鉄へのパイプ役を依頼した。榛葉は、初当選した第22回衆議院総選挙からハンナングループの莫大な支援を受けてきた。1977年、国鉄の北海道における最大の食品供給会社である北海フーズハンナンを設立。

北海道経済の支配者

北海道経済の掌握を目指した半田は、北海道の主要企業数社の株式取得を目指して北海道政界に接近する。自由党の支援者となって莫大な寄付金を毎年納入。第26回衆議院総選挙以降、自由党北海道の貴重な資金源として機能を果たす。その見返りとして、北海道経済に影響を持つ主要企業の株式公開買い付けを裏ルートから行うことになった。しかし1989年、北海道政財界における影響力を持ちながら、道半ばということろで病魔に襲われる。1991年の年始には、会話もままならないほど進行しており、生命維持装置でやっとということろだった。1993年9月、自身が代表を務める北海道洞爺湖記念病院で生涯の幕を閉じた。

役職歴

親族

  義娘:深田久子(日本大学副学長兼事務局長・メディパルHD取締役の深田加津哉の二女)
  義娘:秋山幸香(白瀬商事常務取締役の秋山信也の一女)
  孫:半田雄史(ハンナン国際勧業代表、森・半田奨学財団創設者)
  孫:秋山和樹(日本大学学術機構理事長)
  孫:並河太郎(衆議院議員農林大臣)
  義娘:森佳江(帝都高速鉄道創業者森喜早のひ孫、森アークてくと創業者の森照宗の二女)
  孫:森加絵(森美術館代表理事・森保証人組合代表)
  孫:森正澄(森国際留学財団会長)
  義子:並河卓也(青森さんさんテレビ代表取締役社長、衆議院議員並河弥彦の三男)
最終更新:2025年06月06日 12:13