大衆社会党(たいしゅうしゃかいとう)は、かつて日本に存在した
国政政党である。
概説
1949年、
地方統一選挙での協力によって
大衆党と
社会新党が合流を決定。当然、支持母体には、
全国労働組合総評議会や
官公庁労働者全国組合連合会が名を連ねた。合併前の党の規模としては、大衆党の方が組織的には大きかったが、党の影響力としては社会新党の方が大きかったため、社会新党による大衆党合併というのが大方の見方であった。
党は最終的に、旧社会新党勢力を中心とする執行部によって、
社会党へと組織を改めた。
組織
顧問
党における常設の役員審議組織である。
議席
議席変動
日付 |
衆 |
参 |
± |
備考 |
1949.4.12 |
57 |
11 |
|
大衆社会党結党 |
1949.10.9 |
51 |
11 |
-6 |
第15回衆議院総選挙 |
1951.6.10 |
51 |
43 |
+32 |
第2回参議院通常選挙・23名当選 |
1952.1 |
115 |
52 |
+73 |
民主党から参加(衆64・参9) |
1952.3 |
136 |
57 |
+26 |
協同党を吸収(衆21・参5) |
1952.5.11 |
192 |
57 |
+56 |
第16回衆議院総選挙 |
1954.6.13 |
192 |
96 |
-39 |
第3回参議院通常選挙・55名当選 |
1955.5 |
0 |
0 |
|
社会党へ党名変更 |
選挙結果
党史
結党
下条高矢(
大衆党代表)は、
第1回地方統一選挙での
社会新党との共闘に関して、友党関係の構築を目指していた。しかし、大衆党に所属する国会議員らの判断によって、急速な合併が提案される。一方の
上之章太(社会新党委員長)は、党の合併に関しては非積極的だった。社会新党は、衆参両院での統一会派設立を持ちかけていたが、
第1回参議院通常選挙での惨敗から党勢の安定化に方針を一転させる。その施策の一つとして、社会新党側から大衆党への対等合併を提案し実現した。所属議員数では、大衆党の方がわずかに上回っていたものの、組織力の面で社会新党が圧倒的に上回っており外面的には一方的な合併となっていた。一部の反対する議員が合併に参加しなかったため、1949年4月に衆院57議席、参院11議席でスタートした。
長田秀三が、
民主党を放棄して
保守党に復帰したため、
第2次長田内閣が総辞職。当時、115議席を有していた大衆社会党は、21議席を有する
協同党との院内共闘体制(136議席)を発足。
田中形堂(
協同党党首)を統一首班候補として指名することを条件に、改革路線を展開する
田中内閣を発足させる。田中内閣は、あくまで予算管理を行うためのつなぎ役であり、次の
衆議院総選挙を勝つための存在であった。1952年3月、協同党は、党員総会において大衆社会党との合併を目指す決議案を可決。通常国会の終幕後に、法律上の組織統一を決定し、吸収される形で政界の地図から姿を消した。田中内閣は、その後の衆議院解散時期を見据えて、1952年5月11日の
第16回衆議院総選挙を迎えることとなる。
大衆社会党は、衆院において単独で過半数を超える192議席を獲得し単独与党の地位を得ることとなる。常任幹事会は、
渡辺幹太(党顧問)を首班候補として指名することを決定し
渡辺内閣を組閣する。日本初の本格的な左派革命路線を取った内閣が発足した。1954年6月13日の
第3回参議院通常選挙において、参議院における第一党の地位を獲得。衆参両院において第1党となった。1955年5月の衆院解散に伴って、法律上の党名を変更した。
最終更新:2025年03月19日 11:55