これまでのまとめとして年表を投下いたします。
1474年2月 シホールアンル帝国が120万の兵力を率いてレスタン王国に侵攻。
レスタン王国は3週間の戦闘で滅び、シホールアンル帝国の北大陸統一戦争が始まる。
1474年7月1日 バイスエ、シホールアンル帝国の軍門に下る。同月、治安軍としてシホールアンル軍40万が
同国内に進駐。
1474年8月5日 グルレノ、シホールアンル帝国の軍門に下る。同月、治安軍としてシホールアンル軍20万が
同国内に進駐。
1475年9月18日 デイレアに80万の兵力を持って侵攻。
1476年10月1日 ヒーレリ公国がシホールアンル帝国の軍門に下る。この事は北大陸の他の国にも影響を与えた。
1476年12月8日 ウェンステルに60万の兵力を持って侵攻。
1479年5月9日 ヒーレリ国内で反シホールアンル派が一斉蜂起するも、シホールアンル軍はこれを鎮圧。
反シホールアンル派は徹底弾圧され、死傷者は10万以上を数えた。
1480年10月31日 レイキ公国がシホールアンルの軍門に下る。
1481年1月28日 シホールアンル帝国内で秘密兵器である「鍵」が脱走、以降、追っ手を差し向けるも悉く
返り討ちに遭い、現在に至るも捕獲にはならず。
1481年3月1日 ウェンステルの最後の防衛線が突破される。ウェンステル正規軍が玉砕し、北大陸における戦闘が終結。
1481年3月5日 シホールアンル皇帝オールフェス・リリスレイ帝がウェンステル領において、北大陸の戦争終結宣言
を行う。以降、北大陸はシホールアンル帝国の完全支配下に置かれる。
1481年10月5日 シホールアンル帝国が南大陸支配地域に侵攻を開始。
1481年10月18日 バルランド王国ラウイースにおいて、バルランド、ミスリアル両国から編成された魔道士の
共同チームが極秘裏に異界からの召喚を開始する。
1481年(1941年)10月19日 アメリカ合衆国がF世界に出現。アメリカ合衆国は突然の転移によって混乱状態に陥る。
1481年10月30日 アメリカ政府は情報収集によって、この世界が元にいた世界とは違うと言う事を確信。
同日、ニューヨーク沖を航行していた不審船を海軍航空隊のカタリナが発見。これと接触する。
1481年11月3日 大西洋艦隊所属の軽巡洋艦サヴァンナが、駆逐艦2隻と共に不審船と接触を試みる。
不審船の船名はレゲイ号と判明、同船はシホールアンル帝国を名乗る国に所属しており、同乗している要人が
アメリカへの入国を希望する。
1481年11月4日 入国の許可を得たレゲイ号は3日中にバージニア州ノーフォークに到着。
その翌日、同乗していたグルレント・フレル国外相が、国務長官のコーデル・ハルと初の会談を行う。
しかし、フレル国外相の一方的な要求はハル国務長官に突っぱねられ、会談は決裂した。
1481年11月4日 太平洋艦隊所属の第8任務部隊が、サンディエゴ沖で別の不審船を発見。
太平洋艦隊司令部は第8任務部隊にこの不審船との接触を命じる。
1481年11月5日 第8任務部隊が不審船と接触。不審船の所属はバルランド王国と呼ばれる国であり、
船名はブランスゲル号。船に同乗していた7名の特使がアメリカ側との交渉を求める。
1481年11月9日 シホールアンル帝国所属の高速船レゲイ号がアメリカ本土から出国する。
1481年11月10日 サンディエゴで、南大陸と呼ばれる地域から入国した7名の特使が、ハズバンド・キンメル
太平洋艦隊司令長官と面会を行う。同日、特使団はアメリカ国務省の担当員との交渉に移るが、交渉は物別れに終わる。
1481年11月12日 レーフェイル大陸捜索に向かっていた、大西洋艦隊所属の第23任務部隊が、突如
シホールアンル帝国海軍のものと思しき艦隊の奇襲攻撃を受ける。
戦闘の結果、敵艦隊の巡洋艦2隻、駆逐艦2隻を撃沈するも、TF23も駆逐艦2隻が沈没し、空母ワスプ及び
軽巡セント・ルイス、駆逐艦2隻が大破。重巡ウィチタ以下も中小破するという大損害を受けた。
1481年11月14日 この日付のワシントンタイムス紙の朝刊に、先の海戦に関する報道と、大統領が行う
報道特別番組の時間枠が発表される。
同日、ルーズベルト大統領が演説により、シホールアンルに対して宣戦布告するという意志を国民に伝える。
この報道によって、アメリカ中にシホールアンル断固討つべしの声が広まり、アメリカは敵国となったシホールアンル及び
マオンドに対して本格的な戦争を開始する。
1481年11月20日 ボストン沖を哨戒中の潜水艦セイルがマオンド軍の大護送船団を発見。
翌21日、大西洋艦隊所属の機動部隊である第25、第27任務部隊が敵侵攻部隊阻止のため出撃。
1481年11月23日 空母ヨークタウン、レンジャーを主軸とする機動部隊が、ボストン沖で敵護送船団を
発見。このボストン沖海戦では、4次に渡る空襲と、後の潜水艦部隊による攻撃でマオンド軍は護衛艦艇、輸送船
合わせて84隻を喪失。損失人員3万名以上の大損害を出して後退する。
米側の損害は艦載機26機と潜水艦トリトンの喪失のみ。
1481年11月30日 アメリカ太平洋艦隊は、南大陸支援のため艦隊主力を派遣する事を決定。
その第1陣として、空母部隊である第8、第10、第12任務部隊がサンディエゴから出港する。
1481年12月4日 レイキ公国ベレンツア軍港から、戦艦5隻を主軸とする第6艦隊が、レースベルン公国沿岸を
砲撃するために出撃する。
1481年12月7日 潜水艦ノーチラスが、レアルタ島東海域を航行するシホールアンル艦隊を発見する。
同日午前8時30分、空母エンタープライズ、レキシントン、サラトガの3空母からシホールアンル艦隊へ向けて
第1次攻撃隊124機、その30分後に第2次攻撃隊108機が発艦し、史上初めての航空機対戦艦の対決が行われる。
このレアルタ島沖海戦では、シホールアンル第6艦隊は戦艦2隻と駆逐艦2隻を撃沈され、戦艦、巡洋艦、駆逐艦各1隻が大破。
米側は航空機43機を喪失したのみで、艦船には損傷が無かった。
この海戦の結果、戦艦は決して航空部隊には負けぬと言う定説が崩壊する。
1481年12月8日 カレアント公国ホリウングを攻撃していたシホールアンル軍に、米機動部隊から発艦した艦載機
が来襲。シホールアンル地上軍に対して一方的な戦闘を展開する。
米機動部隊はその後、シホールアンルの南大陸占領地に対して次々と攻撃を仕掛けた。
この影響で、シホールアンル軍前進部隊の進撃速度が緩み始める。
1481年12月17日 アメリカ太平洋艦隊が、バルランド王国ヴィルフレイングに前進基地を構える。
以降、ヴィルフレイングには太平洋艦隊の増援部隊が続々と来援する事になる。
1481年12月18日 ワシントンDCの海軍省で、アイオワ級戦艦、アラスカ級大型巡洋艦の細部設計変更並びに改装
が決定する。修正案では新アイオワ級戦艦案、アラスカ級巡洋戦艦案となり、各造船所に通達される。
1482年(1942年)1月4日 ヴィルフレイングに大西洋艦隊から回航された、空母ヨークタウンが到着。太平洋艦隊の指揮下に入る。
1482年1月19日 陸軍南大陸派遣部隊である南西太平洋軍が編成される。司令官にはドワイト・アイゼンハワー中将が任命された。
1482年2月3日 ヴィルフレイングの南太平洋部隊司令部で、シホールアンル軍根拠地であるガルクレルフ奇襲作戦が
各艦隊指揮官に通達される。
1482年2月8日 南大陸派遣特使団であるレイリー、ルィール、ヴェルプがロスアラモスに呼ばれ、アインシュタイン博士
に、魔法通信傍受機の共同開発を打ち明けられる。3人は快く快諾し、傍受機の開発がスタートする。
(後に、ヴェルプは本国の命令で帰還したため、レイリーとルィールがアメリカ本土に残った)
1482年2月10日 未明にガルクレルフ襲撃部隊である第2任務部隊、第15任務部隊、第16任務部隊が出撃。
1482年2月12日 ヴィルフレイング在中の太平洋艦隊主力が総力出撃。米艦隊出撃の報告を受けたガルクレルフの
シホールアンル艦隊は迎撃のため、第3艦隊のみを残して総力出撃する。
1482年2月14日 偵察ワイバーンがガルクレルフ近海で米機動部隊を発見。ガルクレルフから直ちに攻撃隊が発進し、
米機動部隊に襲い掛かるも、戦闘機の迎撃と対空砲火によって満足な戦果を挙げられずに撃退される。
この空襲で、アメリカ側は空母サラトガが爆弾2発を受けて小破したのみに留まる。
アメリカ側攻撃隊は、第1次攻撃隊、第2次攻撃隊計180機によってガルクレルフを空襲する。
その後、第2任務部隊の戦艦アリゾナ、ペンシルヴァニアを主力とする砲撃部隊によってガルクレルフの物資集積所を壊滅状態
に陥れた。
第2任務部隊は避退中に、たまたま近くにいたシホールアンル軍第3艦隊に捕捉され、交戦状態となるも、機動部隊からの支援と
第2任務部隊の奮戦によって敵第3艦隊を撃退。
米側は軽巡1、駆逐艦2沈没の他、戦艦アリゾナ、ペンシルヴァニア、重巡2、軽巡1駆逐艦3が大破し、他に6隻が中小破したが、
シホールアンル側の戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦6隻を撃沈し、戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦4隻を大破させるという戦果を得た。
この海戦は、後にガルクレルフ沖海戦、別名バレンタインデーの海戦と呼ばれた。
1482年2月15日 シホールアンル軍カレアント侵攻軍は、今後の補給線の維持を考慮して、全戦線で進撃をストップさせた。
1482年2月27日 陸軍航空隊所属の第3航空軍がカレアント公国の南部地区にあたるロゼングラップに駐留を開始。
駐留当初は第3航空軍配下の第34戦闘航空師団の戦闘機120機が飛行場に展開。
1482年3月3日 カレアント公国支配地域のシホールアンル軍が、ロゼングラップの第3航空軍に対して大空襲を敢行する。
しかし、アメリカ側はシホールアンル側の大編隊を基地に設置した対空レーダーで探知し、シホールアンル軍ワイバーン部隊を迎撃する。
この初の大規模空戦で、アメリカ側は35機を喪失するも、敵ワイバーン72騎を撃墜して撃退した。
1482年3月7日~29日 ロゼングラップのアメリカ軍航空基地壊滅を狙うシホールアンル軍は、執拗な空襲を仕掛けてくるが
アメリカ側は本国から続々と増援部隊を投入し、果敢に迎撃を続けた。
3月22日にはロゼングラップ飛行場が敵ワイバーン部隊によって完全破壊されるが、後方に新設されたブレーネンリ飛行場
にアメリカ側は迎撃機の一部を移しており、翌23日に、止めの空襲にやって来た敵ワイバーン部隊を残存戦力で迎撃し、
見事撃退した。
3月28日には、復旧成ったロゼングラップ飛行場に第3航空軍所属の双発爆撃機部隊が進駐し、翌28日にシホールアンル軍
前線基地に爆撃を敢行した。
この一連の航空戦で、アメリカ側は苦しい戦いを迫られ、300機以上の航空機を失ったが、シホールアンル軍は600騎以上の
ワイバーンを喪失し、あえなく敗北した。
1482年4月8日 ロゼングラップに進駐したB-17爆撃機の部隊がシホールアンル軍支配下のポリルオを空襲。
この空襲によってシホールアンル軍は第34空中騎士軍司令官であるベルゲ・ネーデンク中将が戦死するなどの大損害を被る。
アメリカ側の被害は敵の迎撃によってB-17を1機、P-38を3機失ったのみに留まった。
1482年4月25日 カレアント公国ループレングの前線で、シホールアンル軍が攻勢を開始する。
しかし、前線に配備されていたアメリカ軍第7歩兵師団や第1機甲師団の圧倒的な火力と機動力に押され、瞬く間に戦力を
喪失。攻勢開始から僅か1日で戦死者23000、負傷者22000、捕虜12000という膨大な損害を被り、止む無く攻勢を断念する。
戦闘終了後、第1機甲師団の師団長であるパットン将軍が、ふんぞり返る敵軍旅団長の尻を蹴り飛ばした事が後に広く知られた。
1482年5月5日 バルランド王国側が、アメリカ海軍に対して、グンリーラ島に取り残された友軍部隊救助を要請する。
協議の末、アメリカ海軍はこれを了承し、太平洋艦隊所属の空母部隊と臨時の護送船団をグンリーラ島に派遣する事を決定。
1482年5月16日 第16任務部隊司令官のウィリアム・ハルゼー中将が急性皮膚炎で入院。TF16の公認に第5巡洋艦戦隊
司令のレイモンド・スプルーアンス少将をキンメル太平洋艦隊司令長官に推薦する。
スプルーアンス少将は5月17日にTF16司令官として旗艦エンタープライズに着任した。
1482年5月19日 シホールアンル軍第22竜母機動艦隊が、グンリーラ島のバルランド軍殲滅の任を受ける。
1482年5月20日 グンリーラ島救出部隊がヴィルフレイングを出港。
1482年5月24日 グンリーラ島救出部隊の援護に当たる第16任務部隊が、シホールアンル軍第22竜母機動艦隊と遭遇。
世界海戦史上初の竜母対空母の戦闘が行われる。
この戦闘で、アメリカ側は駆逐艦1隻沈没。空母エンタープライズが大破され、航空機47機を失ったが、逆に敵竜母1隻撃沈、
1隻大破、巡洋艦1隻撃沈、2隻を大破させ、敵艦隊を撃退した。
この海戦の勝利で、救出部隊はグンリーラ島のバルランド軍残存部隊を全て救出させ、グンリーラ島撤収作戦は成功に終わった。
1482年6月4日 バルランド王国首都オールレイングで、グンリーラ島撤収作戦成功を祝う祝賀パーティーが開かれる。
太平洋艦隊の幕僚及び、TF16司令官スプルーアンス少将、TF15司令官ニュートン少将が招待される。
スプルーアンスは、このパーティーでミスリアル王国第4皇女ベレイス・ヒューリックと踊る事になるが、その後の貴族令嬢の
誘いはすっぱり断り、いつもの通り深夜までは起きなかった。
1482年6月18日 ノーフォークの大西洋艦隊司令部で、指揮下の空母機動部隊を用いたレーフェイル大陸奇襲作戦が
発表される。
1482年6月23日 急病に倒れたパイ中将に代わり、海軍省航海局長であったチェスター・ニミッツ中将が南太平洋部隊
司令官に任命される。同時に、第16任務部隊司令官であったスプルーアンス少将が、ニミッツ中将の希望によって南太平洋部隊
参謀長に抜擢された。
1482年6月25日 ノーフォークから大西洋艦隊指揮下の空母機動部隊が出撃。
参加部隊は正規空母4隻、軽空母1隻、戦艦3隻、巡洋戦艦1隻を主力に編成され、これらは3つの機動部隊に分けられて、
所定の海域に向った。
1482年6月29日 レーフェイル大陸西岸地区のマオンド共和国領エルケンラード並びにゲンタークルを米機動部隊から
発艦した攻撃隊が殺到。マオンド側は輸送船並びに艦船、ワイバーン部隊等に甚大な損害を被る。
1482年6月30日 マオンド共和国第2の都市グラーズレットに、第26任務部隊から発艦した夜間攻撃隊が襲撃を行い、
戦艦1隻、巡洋艦1隻、哨戒艇1隻を撃沈し、輸送船1隻を大破させた。
攻撃隊に参加した12機のソードフィッシュのうち、未帰還機はゼロ。負傷者が4人出たのみで、後に全快している。
翌7日午前0時5分、第26任務部隊の壊滅を狙うマオンド軍第2艦隊が捕捉。TF26は駆逐艦2隻と共に空母イラストリアス
を遁走させ、残る戦力でもって敵第2艦隊と交戦を開始。
戦闘の結果は、アメリカ側が戦艦レナウン、駆逐艦エスキモーが大破。戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦2隻、駆逐艦2隻が中破。
他に2隻が小破したのみで、戦果は戦艦2隻、巡洋艦2隻、駆逐艦5隻撃沈。戦艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦3隻を大破させた。
この海戦によって、マオンド軍第2艦隊は壊滅した。
同日、TF26を含む避退中の米機動部隊が、マオンド軍ワイバーン部隊の追撃を受ける。アメリカ側は敵編隊の接近をレーダーで
察知し、艦隊の手前で果敢な迎撃戦を展開する。
米側は、正規空母イラストリアスに爆弾11発を受けて中破させられ、他にも戦艦サウスダコタ、重巡ウィチタが損傷したが、
損害はこれだけであり、逆に敵ワイバーン多数を撃墜してマオンド側に大損害を与えた。
ストレートショック作戦は、米側の予想通りに終わり、マオンド側非占領国には反マオンド感情が生まれ始めた。
1482年7月11日 ウィリアム・ハルゼー中将が第16任務部隊司令官に復帰。
1482年8月15日 リリスティ・モルクンレル中将の第24竜母機動艦隊が、バルランド軍輸送船団の撃滅と
アメリカ機動部隊の殲滅を目的にエンデルドを出港。
1482年8月16日 この日未明、ジェリンファ沖を航行中のバルランド軍護送船団が、突如シホールアンル軍巡洋艦部隊
の急襲を受ける。バルランド側は護衛艦艇が奮戦しつつも、圧倒的火力を持つシホールアンル側巡洋艦に完敗。
護衛艦艇、輸送船団が文字通り全滅すると言う惨事が起きた。
1482年8月20日 バルランド軍上層部の要請を受け、アメリカ太平洋艦隊から第2任務部隊がバルランド軍輸送船の
護衛に当たるため、ヴィルフレイングを出港。
3日後には、空母部隊である第14、第17任務部隊がヴィルフレイングから出港した。
1482年8月23日 バルランド輸送船団を護衛中の第2任務部隊が、シホールアンル軍機動部隊の空襲を受ける。
第2任務部隊はロング・アイランドの艦載機と対空砲火によって応戦し、40騎ほどのワイバーンを撃墜。
しかし、奮戦空しく護衛空母ロング・アイランドと水上機母艦ラングレー、バルランド軍輸送船2隻がが被弾炎上する。
ラングレーはガソリン爆発を起こして爆沈し、ロング・アイランドは味方駆逐艦によって雷撃処分された。
この他に輸送船1隻が沈没、1隻が大破し、護衛についていた戦艦アリゾナとペンシルヴァニアも小破した。
この海戦は、後にジェリンファ沖海戦と呼ばれた。
1482年8月25日 バゼット半島南沖に展開したアメリカ機動部隊は、付近を跳梁していたシホールアンル軍機動部隊と交戦。
アメリカ側は敵ワイバーン部隊の攻撃によって空母レキシントンが大破、空母ヨークタウンが中破させられる。
アメリカ側攻撃隊は戦艦1隻、竜母3隻を大中破させ、シホールアンル側のワイバーン約60騎を撃墜する。
この後、攻撃続行を主張するモルクンレル司令官のもとに作戦終了を告げる魔法通信が入り、竜母部隊は戦闘海域から離脱。
正式名称第1次バゼット海海戦と呼ばれたこの海戦は、引き分けに終わった。
1482年8月30日 ノーフォーク軍港で、新鋭軽巡クリーブランドを使って新型砲弾「VT信管」の試射が行われる。
試射は成功裡に終わり、VT信管の有用性が証明された。
1482年9月10日 船団護衛用に編成された第13任務部隊が、当時、付近を荒らし回っていた凶暴な海洋生物「ラエンガ」
をレーダーで敵艦隊と誤認する。TF13はラエンガと分からずに全力射撃を行った。
その結果、レーダーに映ったラエンガは全滅したが、TF13の諸艦艇は弾薬搭載量が4割強から3割弱になるほどの猛射を
行い、あたらに弾薬を浪費するだけに終わった。
1482年9月12日 シホールアンル側が、ミスリアル国境付近に謎の円筒状の物体を仕掛け始める。この物体はミスリアル
国境を取り囲むように配置され、最終的に2万個が国境付近に置かれた。後に通信魔法妨害の術式を発動させる装置であると判明する。
1482年10月4日 大西洋艦隊から派遣された正規空母部隊をもって新機動部隊が設立される。
新機動部隊は正規空母5隻(当初は6隻の予定であった)を主軸とする空母部隊で、米側はこれを3つの任務部隊に分け、
来るべきシホールアンル軍の攻勢に備えた。
1482年10月16日 シホールアンル軍が夜半に、ミスリアル王国へ向けて侵攻を開始。総兵力70万の侵攻軍は、瞬く間に
国境地帯を蹂躙し、ミスリアル陸軍は応戦しつつも、西へ後退して行った。
1482年10月17日 シホールアンル軍の大侵攻を知ったベレイス・ヒューリック第4皇女は、部下を率いてバルランド王国
へ向けて伝令に向うが、途中シホールアンル軍特殊部隊の襲撃を受ける。部下とヒューリック皇女は奮戦するも、あえなく討ち死にとなる。
しかし、ベレイス皇女が密かに飛ばした鳥がバルランド王国に到着。兵が鳥の足にくくり付けられていた報告文を目にし、首都の
上層部に緊急の魔法通信を送った。
1482年10月17日 緊急の通信を受け取った太平洋艦隊司令部は、南太平洋部隊司令部に対して機動部隊によるミスリアル王国
救援を命じた。
1482年10月19日 ヴィルフレイングから太平洋艦隊所属の空母部隊がバゼット半島沖に向けて総力出撃する。
米側は空母5隻、戦艦3隻、巡洋艦18、駆逐艦40隻という大艦隊を出港させ、バゼット半島沖の制海権並びに制空権確保
を狙った。
1482年10月21日 シホールアンル軍は第22、第24竜母機動艦隊並びに第8、第12艦隊に守られた輸送船500隻
を出港させる。輸送船団には8万の上陸軍将兵が乗り組み、ミスリアル王国西部の上陸を企図していた。
1482年10月24日 バゼット半島西部リルネ岬沖を航行していた米機動部隊が、偵察機によってシホールアンル側の機動部隊を発見。
その少し後にシホールアンル側も偵察ワイバーンによって米機動部隊を捕捉する。
この時、アメリカ軍は5隻の空母から艦載機254機を発艦させる。シホールアンル側も艦載ワイバーン170騎を発艦させる。
また、米機動部隊発見の報を受け取った別働隊の第22竜母機動艦隊が、艦載ワイバーン102騎を発艦させた。
アメリカ側はシホールアンル側のワイバーンの攻撃で空母レンジャーと軽巡サンファンが撃沈され、空母ホーネットが大破。
空母ヨークタウンとエンタープライズが中破させられる。
空母部隊から発艦した艦載機は、敵の迎撃を跳ね除けながら敵竜母部隊を攻撃。竜母2隻を撃沈、3隻を大破させる。
夕刻前には、新たな敵機動部隊に向けて、ヨークタウンとワスプから第2次攻撃隊が発艦し、敵竜母1隻を撃沈させ、1隻を大破させた。
後に潜水艦ノーチラスが、大破したもう1隻の竜母に魚雷4本を撃ちこみ、2本が命中して(4本とも命中したが、2本は不発だった)
撃沈確実となった。
昼の空母戦闘が終了した後には、アメリカ側の輸送船団攻撃部隊と、シホールアンル側の船団護衛部隊との間で激しい砲撃戦が
展開された。この砲撃戦で、アメリカ側は巡洋艦サヴァンナ、ノーザンプトン及び駆逐艦3隻を喪失、戦艦ワシントン、ノースカロライナ、
サウスダコタ他、8隻が大中破するという損害を受けたが、敵戦艦3隻、巡洋艦5隻、駆逐艦18隻を撃沈。
砲撃や翌日の航空攻撃、並びに潜水艦の雷撃で撃沈、または大破させられた輸送船は294隻、損失人員は58000人以上を数えた。
(損失人員は、後にアメリカ側に救出された捕虜も含まれている)
この一連の大海戦は、第2次バゼット海海戦と呼ばれ、戦後、各国の歴史教科書に載るほどの有名な海戦となった。
1482年11月2日 戦力を回復したアメリカ機動部隊が、ミスリアル王国軍の航空支援を開始。
以降、バゼット半島北側の海域はヤンキー・ステーションと呼ばれ、シホールアンル軍が撤退するまで航空支援が続けられた。
1482年11月4日 ヴィルフレイングより出港したアメリカ海兵隊2個師団がミスリアル王国バジャウルンガに上陸。
以降、ミスリアル軍と共同でシホールアンル軍の討伐を行った。
1482年11月8日 新造した飛行場に第1海兵航空団の戦闘機、爆撃機が到着。同日午後には陸軍航空隊の双発爆撃機部隊
も到着し、シホールアンル軍ワイバーン部隊と交戦を開始する。また、この戦いでF4Uコルセアが前線に登場し、敵ワイバーン
部隊を驚かせた。
1482年11月12日 シホールアンル軍、攻勢から防御に転じる。以降、シホールアンル軍ミスリアル侵攻部隊は徐々に
撤退して行った。
1482年12月15日 ミスリアル王国首都レルケインツで、戦死したベレイス・ヒューリック第4皇女の国葬が執り行われる。
国葬にはアメリカ軍航空部隊が展示飛行を行い、全国民が若き皇女の死を惜しんだ。
葬儀には、ウィリアム・ハルゼー中将とレイモンド・スプルーアンス少将も参加した。
1482年12月23日 エセックス級航空母艦の1番艦であるCV-10エセックスが竣工する。
1483年(1943年)1月18日 南太平洋部隊司令部で、機動部隊による敵地並びに補給施設に対する爆撃が提案される。
それと同時に潜水艦部隊による海上補給線寸断が提案される。
1483年2月1日 シホールアンル帝国アルジア・マユで、シホールアンル初となる高速の戦闘飛空挺が初飛行した。
この新型飛空挺「ケルフェラク」は、皇帝オールフェス・リリスレイの見守る中で持ち前の高性能の発揮し、見事に制式採用された。
1483年2月3日 バルランド王国首都オールレイングで、連合軍首脳部、並びに前線軍司令官の作戦会議が行われた。
この会議で、バルランド王国の対シホールアンル討伐軍司令官インゲルテント大将は、早期反抗を強く訴えたが、アメリカ側
司令官の案が現実的と判断され、結局は9月1日を目処に反攻作戦が実施される事になった。
1483年2月中旬 この年の2月から、南大陸の留学生2万人が段階的にアメリカ本土に留学。それと並行して、北大陸から
流れて来た残存兵10万のうち、約5万人がアメリカ軍に志願入隊し、厳正な審査を経た上でアメリカ本土に移送された。
1483年3月2日 洋上で作戦行動中の空母エンタープライズで、夕食に初めてカレーライスが出される。
以降、米軍内で起こるカレーブームの先駆けとなった。
1483年4月1日 ヴィルフレイングに新鋭空母エセックス、軽空母インディペンデンスを初めとする機動部隊が到着。
のちに、太平洋艦隊は段階的に新鋭艦を配備していく事になる。
同日、シホールアンル帝国本土のアルブランパ軍港にも、新鋭正規竜母ホロウレイグが到着し、機動部隊戦力の拡充が
本格的に始動する。
この時期から、アメリカ海軍には戦時量産型の護衛空母が続々と揃い始めた。
1483年4月11日 第5航空軍所属のB-24爆撃機が、低空飛行訓練を開始する。
1483年5月1日 アリューシャン列島アムチトカ島で、新型艦上偵察機S1Aハイライダーの寒冷地飛行試験が始まる。
1483年5月23日 アリューシャン列島ウラナスカ島のダッチハーバーに、突如としてワイバーンの大編隊が襲来。
シホールアンル側は2次にわたる空襲で飛行場2箇所並びに港湾施設に甚大な被害を与え、停泊していた戦艦ネヴァダを初め、
護衛空母1隻、駆逐艦2隻並びに輸送船3隻を撃沈され、他に数隻が大破させる。
ダッチハーバーは辛うじて軍港機能を維持できたが、空襲後も、しばらく混乱は収まらなかった。
1483年5月25日 偶然ダッチハーバーを出港し、難を逃れていた第36任務部隊は、周辺の基地航空隊と共同して
敵機動部隊を攻撃する事を決断。同時に、アムチトカから発進したS1Aハイライダーが敵機動部隊を発見。
後に我に追いつくワイバーン無しという有名な電文を発しながら戦場を離脱。
シホールアンル側は偵察ワイバーンでTF36を発見し、攻撃隊を発艦させる。TF36は正規空母フランクリン並びに
軽空母プリンストンを中破させられたが、自身も事前に攻撃隊を発艦させていた。
シホールアンル機動部隊には、キスカ島から発進した陸軍航空隊の攻撃隊が第1次攻撃隊として、アムチトカと、TF36から
発進した攻撃隊が第2次攻撃隊として襲い掛かる。
来襲機数に対し、実質的な被害は駆逐艦1隻喪失で済んだが、アメリカ側の執拗な空襲に竜母を失う事を恐れたモルクンレル司令官
はアリューシャン列島からの撤退を決意し、シホールアンル機動部隊は間も無く撤退した。
1483年6月8日 ヴィルフレイングに待機していたB-24爆撃機300機が、ミスリアル王国の飛行場に移動する。
9日からは、同地で山脈の間を飛行する訓練や低空爆撃訓練が繰り返される。
1483年6月23日 アラスカ級巡洋戦艦1番艦であるCB-2アラスカが竣工する。
1483年6月23日 ミスリアル王国エスピリットゥ・サントに、ルベンゲーブ爆撃作戦の支援にあたるハルゼー中将指揮下の
第3艦隊が入港。9隻の空母を主力とする機動部隊は、25日の午前8時にエスピリットゥ・サントを出港した。
1483年6月25日 ルベンゲーブの仮説航空基地にケルフェラクで編成された第1戦闘飛行隊が飛来する。
1483年6月27日 米機動部隊ルテクリッピを空襲。シホールアンル側の反撃で正規空母イントレピッド、軽巡サンアントニオ
が損傷する。ワイバーン部隊の反撃にもかかわらず、米機動部隊はルテクリッピを反復攻撃し、同地を壊滅させた。
1483年6月28日 ミスリアル王国北西部の飛行場から、B-24爆撃機300機、P-51戦闘機48機が発進。
午前11時には洋上の機動部隊から発艦したF6Fと、先行したP-51がシホールアンル側迎撃隊と戦闘開始。
戦闘機隊がワイバーン隊を引き付けているうちにB-24は山脈の切れ目から低空飛行で侵入し、精錬工場に接近。
この意表を付いた侵入方法にシホールアンル側はパニックに陥るも、対空戦闘を開始。
しかし、B-24の大半は割り当てられた精錬工場を低空飛行で爆撃し、施設の約6割を破壊して工場機能を壊滅させた。
帰還中に新型飛空挺ケルフェラクの襲撃を受け、5機が撃墜されるも、P-51隊が助けに入った事で難を逃れた。
このストレートショック作戦で、アメリカ側は95機を失い、暗黒の木曜日とまで言われるほどの大損害を受ける。
しかし、作戦は成功に終わり、犠牲に見合う分の戦果は充分に得られた。
1483年7月16日 6月から東海岸付近で頻発していたマオンド側の生物兵器ベグゲギュスの襲撃に、大西洋艦隊は
全力を持ってベグゲギュスを封じ込める事を表明。
1483年7月17日 ユークニア島に司令部を置く第61特戦隊は、指揮官ハニジ・リゴル大佐の指示の下にベグゲギュスの
大量投入を決断。東海岸沖での戦果拡大を狙う。
1483年7月20日 アメリカ大西洋艦隊が、ベグゲギュスの大規模掃討作戦を開始。21日から23日の3日間で、
大西洋艦隊は正規空母1隻、護衛空母1隻、巡洋艦、駆逐艦計6隻を大中破させられ、駆逐艦2隻を撃沈されたが、
マオンド側は投入した70頭のベグゲギュスを全て喪失し、作戦は大失敗に終わる。
後にリゴル大佐は左遷され、ベグゲギュスはこれまで通り、小規模哨戒活動のみに使用された。
1483年8月1日 レイモンド・スプルーアンス少将が海軍中将に昇進する。同時に第3艦隊司令長官に任命される。
同日、第3艦隊旗艦である空母エンタープライズで、指揮官交代式が行われ、艦隊指揮官であるハルゼー中将から指揮権を移譲される。
その後、艦隊名称を第5艦隊に変更し、新たな旗艦に重巡洋艦インディアナポリスを定める。
1483年8月3日 バルランド王国側から、首都に出向したラウス・クレーゲル魔道士の代わりに、リエル・フィーミル、
ヴェルプ・カーリアンの両魔道士が連絡要員として第5艦隊司令部に着任。
1483年8月12日 ショールアンル帝国本国から、南大陸の前線部隊に撤退命令が下る。
1483年8月30日 ループレング前線軍に属する第20軍に、第32軍団司令部の魔道士が連合軍の反攻が近い事を
知らされる。この知らせは全軍に伝えられたが、もはや手遅れであった。
1483年9月1日 連合軍の総反攻が午前0時を持って開始された。ループレング戦線では、アメリカ軍砲兵部隊の猛砲撃
によって前線陣地を粉砕した。途中、シホールアンル側砲兵隊の反撃があったが、米側の砲撃によって沈黙に追い込まれる。
砲撃終了後は、米機甲師団がパンツァーカイル隊形で猛進し、シホールアンル軍前線陣地を次々と突破。
特にパットン将軍指揮下の第1軍団は目覚しい活躍を見せた。
この日から12月にかけて、連合軍の南大陸奪還作戦が続けられた。
同日、ガルクレルフ沖を航行中の第58任務部隊に、シホールアンル軍第10空中騎士軍が総力攻撃を仕掛ける。
この攻撃で駆逐艦1隻沈没。正規空母ボノム・リシャール、駆逐艦2隻大破。空母ランドルフ、エセックス、ヨークタウン、
軽巡3隻が中小破。
シホールアンル側は出撃したワイバーン500騎中、389騎を失って第10空中騎士軍は壊滅した。
1483年9月6日 米機動部隊がマルヒナス運河の東港、西港を空襲。港湾施設や集積物資、船舶に大損害を与える。
1483年9月28日 カレアント公国北部のイチョンツで、シホールアンル軍が収容所の捕虜523人を虐殺。
後にイチョンツ収容所虐殺事件として、関係者多数が軍事裁判で戦争犯罪人として起訴された。
1483年10月2日 マルヒナス運河へ補給物資を輸送する護送船団に、アメリカ海軍第6艦隊所属の第61任務部隊第3任務群
が襲い掛かるが、シホールアンル側護衛艦艇との戦いで戦力を消耗。
巡洋艦2隻、駆逐艦4隻を撃沈するも、TG61.3も軽巡1、駆逐艦2を喪失し、司令官エインスウォース少将が負傷したほか、
主力の軽巡全てが大中破し、あえなく撃退される。
夜明け後に、TF57から空母艦載機によって攻撃を行う旨が報告されるが、第5艦隊司令長官のスプルーアンス中将は、マルヒナス
地区に駐留するワイバーン部隊他、敵機動部隊の戦力とTF57の戦力を比較した上で攻撃を断念し、TF57を撤退させた。
1483年10月2日 ルーズベルト大統領が、連合国首脳との会談を考え始める。
1483年10月13日 アイオワ級戦艦1番艦である戦艦アイオワが竣工する。
1483年10月16日 巡洋戦艦アラスカがエスピリットゥ・サントに展開する第57任務部隊に編入される。
1483年10月27日 アメリカ側がシホールアンルが開発した鍵の存在を知る。これによって、アメリカはOSSに
鍵救出を命じる事になった。
1483年11月3日 シホールアンル帝国南部のドグルントで、陸上装甲艦レドルムンガ級3隻の訓練が、ギレイル陸軍元帥
の立会いの下行われる。その際、ワイバーンが魔法防御の試験のため、実際に陸上装甲艦に向けて爆弾を投下したが、爆弾は
魔法防御を貫けずにその場で爆発し、魔法防御の有用性が確認された。
1483年11月7日 アメリカ機動部隊に、新型艦上偵察機S1Aハイライダーが本格的に配備される。
1483年11月19日 南大陸各国の親善大使が、各国首脳に連合国首脳会談の開催についての説明が行われる。
各国首脳は、翌20日にアメリカ政府に対して首脳会談開催に賛成の意を示した。
1483年12月1日 マオンド共和国南岸沖を哨戒中の潜水艦ボーフィンが、突如、見慣れぬ亜人種と遭遇、後に保護。
後の調べで、ハーピィと呼ばれる亜人種である事が判明する。
ボーフィンはメリマと名付けられたハーピィを艦内に保護するも、マオンド軍の駆逐艦2隻に追跡される。
ボーフィンは、ハーピィのメリマの協力の下、マオンド駆逐艦2隻を雷撃し、1隻を轟沈させ、もう1隻を大破させた。
なお、ボーフィンは爆雷攻撃による損傷で3週間のドッグ入りを余儀なくされた。
ハーピィのメリマは、帰還後、ミスリアル王国から来た魔道士に事情聴取を受けた。
反攻作戦中に連合軍が受けた損害
戦死傷者18万人以上 航空機、ワイバーン喪失2498機
反攻作戦中にシホールアンル軍が受けた損害
戦死傷者、捕虜計25万人以上 喪失ワイバーン2192騎 喪失飛空挺97機
1483年12月18日 バルランド王国ヴィルフレイング沖を航行する戦艦アイオワの艦内で、初の連合国首脳会談が開かれる。
連合国首脳は、この会談で今後の北大陸侵攻に伴う政策について話し合った。
2時間半に渡る会談の後、連合国は6カ条の共同宣言を発表。後にヴィルフレイング宣言として知られる事になった。
1483年12月22日 シホールアンル帝国首脳部は、18日に発表されたヴィルフレイング宣言の事で緊急の会議を開いた。
会議の結果、シホールアンル帝国はヴィルフレイング宣言を黙殺する事を決めた。
1483年12月23日 ロスアラモス研究所で開発中であった魔法通信傍受機の試作機が完成。試運転中にシホールアンルから
マオンドに向けて放たれた魔法通信を傍受し、機密文の内容が、そのままアメリカ側に知られる。
1483年12月28日 アメリカ側はOSSの潜入班を使って、鍵を救出する事を決定。救出作戦には、カレアント軍から
魔道士であるエリラ・ファルマント軍曹が加わった。
1484年(1944年)1月4日 最新鋭戦略爆撃機B-29スーパーフォートレスが、ミスリアル王国の第5航空軍に
1個航空群派遣される。
1484年1月7日 ヴィルフレイング、エスピリットゥ・サントから第5艦隊の機動部隊が北ウェンステル領沿岸部、並びに
マルヒナス運河北岸の爆撃のため出撃する。
同日、ミスリアル王国から飛び立ったB-29爆撃機48機が、P-51戦闘機の護衛の下、ルベンゲーブ精錬工場爆撃に向かう。
途中、ワイバーン部隊の迎撃を受けるも、高度1万メートルを飛行するB-29に1騎も届かないという有様に陥る。
ルベンゲーブ手前では、戦闘飛空挺ケルフェラクが、B-29とほぼ同じ高度まで駆け上って迎撃したが、最新の火器管制装置
を備えたB-29の統制射撃の前に苦戦を余儀なくされ、戦果ゼロに終わる。
48機のB-29は高度1万メートルからルベンゲーブ精錬工場を爆撃、半数以上の爆弾は外れ弾となるが、残りが工場施設
に甚大な損害を与えた。この爆撃によってルベンゲーブ魔法石精錬工場は壊滅的打撃を被り、操業をストップせざるを得なかった。
1484年1月9日 ウェンステル中西部沿岸のルテクリッピに米機動部隊が襲来。シホールアンル側は米機動部隊に反撃するも、
巡洋戦艦アラスカ以下の護衛艦艇が放つ対空砲火により軽空母ベローウッド大破、正規空母イントレピッド中破の損害を与えたの
みに留まった。
同日、B-29爆撃機44機が、北ウェンステル領の辺境地帯ロイトラウヌを爆撃。7日にルベンゲーブ爆撃のような戦果は得られ
無かったが、B-29の長距離性能にシホールアンル帝国上層部は恐慌状態に陥った。
1484年1月10日 工作部隊が北ウェンステル領に侵入する。同日、北大陸侵攻部隊がエンデルドより出港開始。
1474年2月 シホールアンル帝国が120万の兵力を率いてレスタン王国に侵攻。
レスタン王国は3週間の戦闘で滅び、シホールアンル帝国の北大陸統一戦争が始まる。
1474年7月1日 バイスエ、シホールアンル帝国の軍門に下る。同月、治安軍としてシホールアンル軍40万が
同国内に進駐。
1474年8月5日 グルレノ、シホールアンル帝国の軍門に下る。同月、治安軍としてシホールアンル軍20万が
同国内に進駐。
1475年9月18日 デイレアに80万の兵力を持って侵攻。
1476年10月1日 ヒーレリ公国がシホールアンル帝国の軍門に下る。この事は北大陸の他の国にも影響を与えた。
1476年12月8日 ウェンステルに60万の兵力を持って侵攻。
1479年5月9日 ヒーレリ国内で反シホールアンル派が一斉蜂起するも、シホールアンル軍はこれを鎮圧。
反シホールアンル派は徹底弾圧され、死傷者は10万以上を数えた。
1480年10月31日 レイキ公国がシホールアンルの軍門に下る。
1481年1月28日 シホールアンル帝国内で秘密兵器である「鍵」が脱走、以降、追っ手を差し向けるも悉く
返り討ちに遭い、現在に至るも捕獲にはならず。
1481年3月1日 ウェンステルの最後の防衛線が突破される。ウェンステル正規軍が玉砕し、北大陸における戦闘が終結。
1481年3月5日 シホールアンル皇帝オールフェス・リリスレイ帝がウェンステル領において、北大陸の戦争終結宣言
を行う。以降、北大陸はシホールアンル帝国の完全支配下に置かれる。
1481年10月5日 シホールアンル帝国が南大陸支配地域に侵攻を開始。
1481年10月18日 バルランド王国ラウイースにおいて、バルランド、ミスリアル両国から編成された魔道士の
共同チームが極秘裏に異界からの召喚を開始する。
1481年(1941年)10月19日 アメリカ合衆国がF世界に出現。アメリカ合衆国は突然の転移によって混乱状態に陥る。
1481年10月30日 アメリカ政府は情報収集によって、この世界が元にいた世界とは違うと言う事を確信。
同日、ニューヨーク沖を航行していた不審船を海軍航空隊のカタリナが発見。これと接触する。
1481年11月3日 大西洋艦隊所属の軽巡洋艦サヴァンナが、駆逐艦2隻と共に不審船と接触を試みる。
不審船の船名はレゲイ号と判明、同船はシホールアンル帝国を名乗る国に所属しており、同乗している要人が
アメリカへの入国を希望する。
1481年11月4日 入国の許可を得たレゲイ号は3日中にバージニア州ノーフォークに到着。
その翌日、同乗していたグルレント・フレル国外相が、国務長官のコーデル・ハルと初の会談を行う。
しかし、フレル国外相の一方的な要求はハル国務長官に突っぱねられ、会談は決裂した。
1481年11月4日 太平洋艦隊所属の第8任務部隊が、サンディエゴ沖で別の不審船を発見。
太平洋艦隊司令部は第8任務部隊にこの不審船との接触を命じる。
1481年11月5日 第8任務部隊が不審船と接触。不審船の所属はバルランド王国と呼ばれる国であり、
船名はブランスゲル号。船に同乗していた7名の特使がアメリカ側との交渉を求める。
1481年11月9日 シホールアンル帝国所属の高速船レゲイ号がアメリカ本土から出国する。
1481年11月10日 サンディエゴで、南大陸と呼ばれる地域から入国した7名の特使が、ハズバンド・キンメル
太平洋艦隊司令長官と面会を行う。同日、特使団はアメリカ国務省の担当員との交渉に移るが、交渉は物別れに終わる。
1481年11月12日 レーフェイル大陸捜索に向かっていた、大西洋艦隊所属の第23任務部隊が、突如
シホールアンル帝国海軍のものと思しき艦隊の奇襲攻撃を受ける。
戦闘の結果、敵艦隊の巡洋艦2隻、駆逐艦2隻を撃沈するも、TF23も駆逐艦2隻が沈没し、空母ワスプ及び
軽巡セント・ルイス、駆逐艦2隻が大破。重巡ウィチタ以下も中小破するという大損害を受けた。
1481年11月14日 この日付のワシントンタイムス紙の朝刊に、先の海戦に関する報道と、大統領が行う
報道特別番組の時間枠が発表される。
同日、ルーズベルト大統領が演説により、シホールアンルに対して宣戦布告するという意志を国民に伝える。
この報道によって、アメリカ中にシホールアンル断固討つべしの声が広まり、アメリカは敵国となったシホールアンル及び
マオンドに対して本格的な戦争を開始する。
1481年11月20日 ボストン沖を哨戒中の潜水艦セイルがマオンド軍の大護送船団を発見。
翌21日、大西洋艦隊所属の機動部隊である第25、第27任務部隊が敵侵攻部隊阻止のため出撃。
1481年11月23日 空母ヨークタウン、レンジャーを主軸とする機動部隊が、ボストン沖で敵護送船団を
発見。このボストン沖海戦では、4次に渡る空襲と、後の潜水艦部隊による攻撃でマオンド軍は護衛艦艇、輸送船
合わせて84隻を喪失。損失人員3万名以上の大損害を出して後退する。
米側の損害は艦載機26機と潜水艦トリトンの喪失のみ。
1481年11月30日 アメリカ太平洋艦隊は、南大陸支援のため艦隊主力を派遣する事を決定。
その第1陣として、空母部隊である第8、第10、第12任務部隊がサンディエゴから出港する。
1481年12月4日 レイキ公国ベレンツア軍港から、戦艦5隻を主軸とする第6艦隊が、レースベルン公国沿岸を
砲撃するために出撃する。
1481年12月7日 潜水艦ノーチラスが、レアルタ島東海域を航行するシホールアンル艦隊を発見する。
同日午前8時30分、空母エンタープライズ、レキシントン、サラトガの3空母からシホールアンル艦隊へ向けて
第1次攻撃隊124機、その30分後に第2次攻撃隊108機が発艦し、史上初めての航空機対戦艦の対決が行われる。
このレアルタ島沖海戦では、シホールアンル第6艦隊は戦艦2隻と駆逐艦2隻を撃沈され、戦艦、巡洋艦、駆逐艦各1隻が大破。
米側は航空機43機を喪失したのみで、艦船には損傷が無かった。
この海戦の結果、戦艦は決して航空部隊には負けぬと言う定説が崩壊する。
1481年12月8日 カレアント公国ホリウングを攻撃していたシホールアンル軍に、米機動部隊から発艦した艦載機
が来襲。シホールアンル地上軍に対して一方的な戦闘を展開する。
米機動部隊はその後、シホールアンルの南大陸占領地に対して次々と攻撃を仕掛けた。
この影響で、シホールアンル軍前進部隊の進撃速度が緩み始める。
1481年12月17日 アメリカ太平洋艦隊が、バルランド王国ヴィルフレイングに前進基地を構える。
以降、ヴィルフレイングには太平洋艦隊の増援部隊が続々と来援する事になる。
1481年12月18日 ワシントンDCの海軍省で、アイオワ級戦艦、アラスカ級大型巡洋艦の細部設計変更並びに改装
が決定する。修正案では新アイオワ級戦艦案、アラスカ級巡洋戦艦案となり、各造船所に通達される。
1482年(1942年)1月4日 ヴィルフレイングに大西洋艦隊から回航された、空母ヨークタウンが到着。太平洋艦隊の指揮下に入る。
1482年1月19日 陸軍南大陸派遣部隊である南西太平洋軍が編成される。司令官にはドワイト・アイゼンハワー中将が任命された。
1482年2月3日 ヴィルフレイングの南太平洋部隊司令部で、シホールアンル軍根拠地であるガルクレルフ奇襲作戦が
各艦隊指揮官に通達される。
1482年2月8日 南大陸派遣特使団であるレイリー、ルィール、ヴェルプがロスアラモスに呼ばれ、アインシュタイン博士
に、魔法通信傍受機の共同開発を打ち明けられる。3人は快く快諾し、傍受機の開発がスタートする。
(後に、ヴェルプは本国の命令で帰還したため、レイリーとルィールがアメリカ本土に残った)
1482年2月10日 未明にガルクレルフ襲撃部隊である第2任務部隊、第15任務部隊、第16任務部隊が出撃。
1482年2月12日 ヴィルフレイング在中の太平洋艦隊主力が総力出撃。米艦隊出撃の報告を受けたガルクレルフの
シホールアンル艦隊は迎撃のため、第3艦隊のみを残して総力出撃する。
1482年2月14日 偵察ワイバーンがガルクレルフ近海で米機動部隊を発見。ガルクレルフから直ちに攻撃隊が発進し、
米機動部隊に襲い掛かるも、戦闘機の迎撃と対空砲火によって満足な戦果を挙げられずに撃退される。
この空襲で、アメリカ側は空母サラトガが爆弾2発を受けて小破したのみに留まる。
アメリカ側攻撃隊は、第1次攻撃隊、第2次攻撃隊計180機によってガルクレルフを空襲する。
その後、第2任務部隊の戦艦アリゾナ、ペンシルヴァニアを主力とする砲撃部隊によってガルクレルフの物資集積所を壊滅状態
に陥れた。
第2任務部隊は避退中に、たまたま近くにいたシホールアンル軍第3艦隊に捕捉され、交戦状態となるも、機動部隊からの支援と
第2任務部隊の奮戦によって敵第3艦隊を撃退。
米側は軽巡1、駆逐艦2沈没の他、戦艦アリゾナ、ペンシルヴァニア、重巡2、軽巡1駆逐艦3が大破し、他に6隻が中小破したが、
シホールアンル側の戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦6隻を撃沈し、戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦4隻を大破させるという戦果を得た。
この海戦は、後にガルクレルフ沖海戦、別名バレンタインデーの海戦と呼ばれた。
1482年2月15日 シホールアンル軍カレアント侵攻軍は、今後の補給線の維持を考慮して、全戦線で進撃をストップさせた。
1482年2月27日 陸軍航空隊所属の第3航空軍がカレアント公国の南部地区にあたるロゼングラップに駐留を開始。
駐留当初は第3航空軍配下の第34戦闘航空師団の戦闘機120機が飛行場に展開。
1482年3月3日 カレアント公国支配地域のシホールアンル軍が、ロゼングラップの第3航空軍に対して大空襲を敢行する。
しかし、アメリカ側はシホールアンル側の大編隊を基地に設置した対空レーダーで探知し、シホールアンル軍ワイバーン部隊を迎撃する。
この初の大規模空戦で、アメリカ側は35機を喪失するも、敵ワイバーン72騎を撃墜して撃退した。
1482年3月7日~29日 ロゼングラップのアメリカ軍航空基地壊滅を狙うシホールアンル軍は、執拗な空襲を仕掛けてくるが
アメリカ側は本国から続々と増援部隊を投入し、果敢に迎撃を続けた。
3月22日にはロゼングラップ飛行場が敵ワイバーン部隊によって完全破壊されるが、後方に新設されたブレーネンリ飛行場
にアメリカ側は迎撃機の一部を移しており、翌23日に、止めの空襲にやって来た敵ワイバーン部隊を残存戦力で迎撃し、
見事撃退した。
3月28日には、復旧成ったロゼングラップ飛行場に第3航空軍所属の双発爆撃機部隊が進駐し、翌28日にシホールアンル軍
前線基地に爆撃を敢行した。
この一連の航空戦で、アメリカ側は苦しい戦いを迫られ、300機以上の航空機を失ったが、シホールアンル軍は600騎以上の
ワイバーンを喪失し、あえなく敗北した。
1482年4月8日 ロゼングラップに進駐したB-17爆撃機の部隊がシホールアンル軍支配下のポリルオを空襲。
この空襲によってシホールアンル軍は第34空中騎士軍司令官であるベルゲ・ネーデンク中将が戦死するなどの大損害を被る。
アメリカ側の被害は敵の迎撃によってB-17を1機、P-38を3機失ったのみに留まった。
1482年4月25日 カレアント公国ループレングの前線で、シホールアンル軍が攻勢を開始する。
しかし、前線に配備されていたアメリカ軍第7歩兵師団や第1機甲師団の圧倒的な火力と機動力に押され、瞬く間に戦力を
喪失。攻勢開始から僅か1日で戦死者23000、負傷者22000、捕虜12000という膨大な損害を被り、止む無く攻勢を断念する。
戦闘終了後、第1機甲師団の師団長であるパットン将軍が、ふんぞり返る敵軍旅団長の尻を蹴り飛ばした事が後に広く知られた。
1482年5月5日 バルランド王国側が、アメリカ海軍に対して、グンリーラ島に取り残された友軍部隊救助を要請する。
協議の末、アメリカ海軍はこれを了承し、太平洋艦隊所属の空母部隊と臨時の護送船団をグンリーラ島に派遣する事を決定。
1482年5月16日 第16任務部隊司令官のウィリアム・ハルゼー中将が急性皮膚炎で入院。TF16の公認に第5巡洋艦戦隊
司令のレイモンド・スプルーアンス少将をキンメル太平洋艦隊司令長官に推薦する。
スプルーアンス少将は5月17日にTF16司令官として旗艦エンタープライズに着任した。
1482年5月19日 シホールアンル軍第22竜母機動艦隊が、グンリーラ島のバルランド軍殲滅の任を受ける。
1482年5月20日 グンリーラ島救出部隊がヴィルフレイングを出港。
1482年5月24日 グンリーラ島救出部隊の援護に当たる第16任務部隊が、シホールアンル軍第22竜母機動艦隊と遭遇。
世界海戦史上初の竜母対空母の戦闘が行われる。
この戦闘で、アメリカ側は駆逐艦1隻沈没。空母エンタープライズが大破され、航空機47機を失ったが、逆に敵竜母1隻撃沈、
1隻大破、巡洋艦1隻撃沈、2隻を大破させ、敵艦隊を撃退した。
この海戦の勝利で、救出部隊はグンリーラ島のバルランド軍残存部隊を全て救出させ、グンリーラ島撤収作戦は成功に終わった。
1482年6月4日 バルランド王国首都オールレイングで、グンリーラ島撤収作戦成功を祝う祝賀パーティーが開かれる。
太平洋艦隊の幕僚及び、TF16司令官スプルーアンス少将、TF15司令官ニュートン少将が招待される。
スプルーアンスは、このパーティーでミスリアル王国第4皇女ベレイス・ヒューリックと踊る事になるが、その後の貴族令嬢の
誘いはすっぱり断り、いつもの通り深夜までは起きなかった。
1482年6月18日 ノーフォークの大西洋艦隊司令部で、指揮下の空母機動部隊を用いたレーフェイル大陸奇襲作戦が
発表される。
1482年6月23日 急病に倒れたパイ中将に代わり、海軍省航海局長であったチェスター・ニミッツ中将が南太平洋部隊
司令官に任命される。同時に、第16任務部隊司令官であったスプルーアンス少将が、ニミッツ中将の希望によって南太平洋部隊
参謀長に抜擢された。
1482年6月25日 ノーフォークから大西洋艦隊指揮下の空母機動部隊が出撃。
参加部隊は正規空母4隻、軽空母1隻、戦艦3隻、巡洋戦艦1隻を主力に編成され、これらは3つの機動部隊に分けられて、
所定の海域に向った。
1482年6月29日 レーフェイル大陸西岸地区のマオンド共和国領エルケンラード並びにゲンタークルを米機動部隊から
発艦した攻撃隊が殺到。マオンド側は輸送船並びに艦船、ワイバーン部隊等に甚大な損害を被る。
1482年6月30日 マオンド共和国第2の都市グラーズレットに、第26任務部隊から発艦した夜間攻撃隊が襲撃を行い、
戦艦1隻、巡洋艦1隻、哨戒艇1隻を撃沈し、輸送船1隻を大破させた。
攻撃隊に参加した12機のソードフィッシュのうち、未帰還機はゼロ。負傷者が4人出たのみで、後に全快している。
翌7日午前0時5分、第26任務部隊の壊滅を狙うマオンド軍第2艦隊が捕捉。TF26は駆逐艦2隻と共に空母イラストリアス
を遁走させ、残る戦力でもって敵第2艦隊と交戦を開始。
戦闘の結果は、アメリカ側が戦艦レナウン、駆逐艦エスキモーが大破。戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦2隻、駆逐艦2隻が中破。
他に2隻が小破したのみで、戦果は戦艦2隻、巡洋艦2隻、駆逐艦5隻撃沈。戦艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦3隻を大破させた。
この海戦によって、マオンド軍第2艦隊は壊滅した。
同日、TF26を含む避退中の米機動部隊が、マオンド軍ワイバーン部隊の追撃を受ける。アメリカ側は敵編隊の接近をレーダーで
察知し、艦隊の手前で果敢な迎撃戦を展開する。
米側は、正規空母イラストリアスに爆弾11発を受けて中破させられ、他にも戦艦サウスダコタ、重巡ウィチタが損傷したが、
損害はこれだけであり、逆に敵ワイバーン多数を撃墜してマオンド側に大損害を与えた。
ストレートショック作戦は、米側の予想通りに終わり、マオンド側非占領国には反マオンド感情が生まれ始めた。
1482年7月11日 ウィリアム・ハルゼー中将が第16任務部隊司令官に復帰。
1482年8月15日 リリスティ・モルクンレル中将の第24竜母機動艦隊が、バルランド軍輸送船団の撃滅と
アメリカ機動部隊の殲滅を目的にエンデルドを出港。
1482年8月16日 この日未明、ジェリンファ沖を航行中のバルランド軍護送船団が、突如シホールアンル軍巡洋艦部隊
の急襲を受ける。バルランド側は護衛艦艇が奮戦しつつも、圧倒的火力を持つシホールアンル側巡洋艦に完敗。
護衛艦艇、輸送船団が文字通り全滅すると言う惨事が起きた。
1482年8月20日 バルランド軍上層部の要請を受け、アメリカ太平洋艦隊から第2任務部隊がバルランド軍輸送船の
護衛に当たるため、ヴィルフレイングを出港。
3日後には、空母部隊である第14、第17任務部隊がヴィルフレイングから出港した。
1482年8月23日 バルランド輸送船団を護衛中の第2任務部隊が、シホールアンル軍機動部隊の空襲を受ける。
第2任務部隊はロング・アイランドの艦載機と対空砲火によって応戦し、40騎ほどのワイバーンを撃墜。
しかし、奮戦空しく護衛空母ロング・アイランドと水上機母艦ラングレー、バルランド軍輸送船2隻がが被弾炎上する。
ラングレーはガソリン爆発を起こして爆沈し、ロング・アイランドは味方駆逐艦によって雷撃処分された。
この他に輸送船1隻が沈没、1隻が大破し、護衛についていた戦艦アリゾナとペンシルヴァニアも小破した。
この海戦は、後にジェリンファ沖海戦と呼ばれた。
1482年8月25日 バゼット半島南沖に展開したアメリカ機動部隊は、付近を跳梁していたシホールアンル軍機動部隊と交戦。
アメリカ側は敵ワイバーン部隊の攻撃によって空母レキシントンが大破、空母ヨークタウンが中破させられる。
アメリカ側攻撃隊は戦艦1隻、竜母3隻を大中破させ、シホールアンル側のワイバーン約60騎を撃墜する。
この後、攻撃続行を主張するモルクンレル司令官のもとに作戦終了を告げる魔法通信が入り、竜母部隊は戦闘海域から離脱。
正式名称第1次バゼット海海戦と呼ばれたこの海戦は、引き分けに終わった。
1482年8月30日 ノーフォーク軍港で、新鋭軽巡クリーブランドを使って新型砲弾「VT信管」の試射が行われる。
試射は成功裡に終わり、VT信管の有用性が証明された。
1482年9月10日 船団護衛用に編成された第13任務部隊が、当時、付近を荒らし回っていた凶暴な海洋生物「ラエンガ」
をレーダーで敵艦隊と誤認する。TF13はラエンガと分からずに全力射撃を行った。
その結果、レーダーに映ったラエンガは全滅したが、TF13の諸艦艇は弾薬搭載量が4割強から3割弱になるほどの猛射を
行い、あたらに弾薬を浪費するだけに終わった。
1482年9月12日 シホールアンル側が、ミスリアル国境付近に謎の円筒状の物体を仕掛け始める。この物体はミスリアル
国境を取り囲むように配置され、最終的に2万個が国境付近に置かれた。後に通信魔法妨害の術式を発動させる装置であると判明する。
1482年10月4日 大西洋艦隊から派遣された正規空母部隊をもって新機動部隊が設立される。
新機動部隊は正規空母5隻(当初は6隻の予定であった)を主軸とする空母部隊で、米側はこれを3つの任務部隊に分け、
来るべきシホールアンル軍の攻勢に備えた。
1482年10月16日 シホールアンル軍が夜半に、ミスリアル王国へ向けて侵攻を開始。総兵力70万の侵攻軍は、瞬く間に
国境地帯を蹂躙し、ミスリアル陸軍は応戦しつつも、西へ後退して行った。
1482年10月17日 シホールアンル軍の大侵攻を知ったベレイス・ヒューリック第4皇女は、部下を率いてバルランド王国
へ向けて伝令に向うが、途中シホールアンル軍特殊部隊の襲撃を受ける。部下とヒューリック皇女は奮戦するも、あえなく討ち死にとなる。
しかし、ベレイス皇女が密かに飛ばした鳥がバルランド王国に到着。兵が鳥の足にくくり付けられていた報告文を目にし、首都の
上層部に緊急の魔法通信を送った。
1482年10月17日 緊急の通信を受け取った太平洋艦隊司令部は、南太平洋部隊司令部に対して機動部隊によるミスリアル王国
救援を命じた。
1482年10月19日 ヴィルフレイングから太平洋艦隊所属の空母部隊がバゼット半島沖に向けて総力出撃する。
米側は空母5隻、戦艦3隻、巡洋艦18、駆逐艦40隻という大艦隊を出港させ、バゼット半島沖の制海権並びに制空権確保
を狙った。
1482年10月21日 シホールアンル軍は第22、第24竜母機動艦隊並びに第8、第12艦隊に守られた輸送船500隻
を出港させる。輸送船団には8万の上陸軍将兵が乗り組み、ミスリアル王国西部の上陸を企図していた。
1482年10月24日 バゼット半島西部リルネ岬沖を航行していた米機動部隊が、偵察機によってシホールアンル側の機動部隊を発見。
その少し後にシホールアンル側も偵察ワイバーンによって米機動部隊を捕捉する。
この時、アメリカ軍は5隻の空母から艦載機254機を発艦させる。シホールアンル側も艦載ワイバーン170騎を発艦させる。
また、米機動部隊発見の報を受け取った別働隊の第22竜母機動艦隊が、艦載ワイバーン102騎を発艦させた。
アメリカ側はシホールアンル側のワイバーンの攻撃で空母レンジャーと軽巡サンファンが撃沈され、空母ホーネットが大破。
空母ヨークタウンとエンタープライズが中破させられる。
空母部隊から発艦した艦載機は、敵の迎撃を跳ね除けながら敵竜母部隊を攻撃。竜母2隻を撃沈、3隻を大破させる。
夕刻前には、新たな敵機動部隊に向けて、ヨークタウンとワスプから第2次攻撃隊が発艦し、敵竜母1隻を撃沈させ、1隻を大破させた。
後に潜水艦ノーチラスが、大破したもう1隻の竜母に魚雷4本を撃ちこみ、2本が命中して(4本とも命中したが、2本は不発だった)
撃沈確実となった。
昼の空母戦闘が終了した後には、アメリカ側の輸送船団攻撃部隊と、シホールアンル側の船団護衛部隊との間で激しい砲撃戦が
展開された。この砲撃戦で、アメリカ側は巡洋艦サヴァンナ、ノーザンプトン及び駆逐艦3隻を喪失、戦艦ワシントン、ノースカロライナ、
サウスダコタ他、8隻が大中破するという損害を受けたが、敵戦艦3隻、巡洋艦5隻、駆逐艦18隻を撃沈。
砲撃や翌日の航空攻撃、並びに潜水艦の雷撃で撃沈、または大破させられた輸送船は294隻、損失人員は58000人以上を数えた。
(損失人員は、後にアメリカ側に救出された捕虜も含まれている)
この一連の大海戦は、第2次バゼット海海戦と呼ばれ、戦後、各国の歴史教科書に載るほどの有名な海戦となった。
1482年11月2日 戦力を回復したアメリカ機動部隊が、ミスリアル王国軍の航空支援を開始。
以降、バゼット半島北側の海域はヤンキー・ステーションと呼ばれ、シホールアンル軍が撤退するまで航空支援が続けられた。
1482年11月4日 ヴィルフレイングより出港したアメリカ海兵隊2個師団がミスリアル王国バジャウルンガに上陸。
以降、ミスリアル軍と共同でシホールアンル軍の討伐を行った。
1482年11月8日 新造した飛行場に第1海兵航空団の戦闘機、爆撃機が到着。同日午後には陸軍航空隊の双発爆撃機部隊
も到着し、シホールアンル軍ワイバーン部隊と交戦を開始する。また、この戦いでF4Uコルセアが前線に登場し、敵ワイバーン
部隊を驚かせた。
1482年11月12日 シホールアンル軍、攻勢から防御に転じる。以降、シホールアンル軍ミスリアル侵攻部隊は徐々に
撤退して行った。
1482年12月15日 ミスリアル王国首都レルケインツで、戦死したベレイス・ヒューリック第4皇女の国葬が執り行われる。
国葬にはアメリカ軍航空部隊が展示飛行を行い、全国民が若き皇女の死を惜しんだ。
葬儀には、ウィリアム・ハルゼー中将とレイモンド・スプルーアンス少将も参加した。
1482年12月23日 エセックス級航空母艦の1番艦であるCV-10エセックスが竣工する。
1483年(1943年)1月18日 南太平洋部隊司令部で、機動部隊による敵地並びに補給施設に対する爆撃が提案される。
それと同時に潜水艦部隊による海上補給線寸断が提案される。
1483年2月1日 シホールアンル帝国アルジア・マユで、シホールアンル初となる高速の戦闘飛空挺が初飛行した。
この新型飛空挺「ケルフェラク」は、皇帝オールフェス・リリスレイの見守る中で持ち前の高性能の発揮し、見事に制式採用された。
1483年2月3日 バルランド王国首都オールレイングで、連合軍首脳部、並びに前線軍司令官の作戦会議が行われた。
この会議で、バルランド王国の対シホールアンル討伐軍司令官インゲルテント大将は、早期反抗を強く訴えたが、アメリカ側
司令官の案が現実的と判断され、結局は9月1日を目処に反攻作戦が実施される事になった。
1483年2月中旬 この年の2月から、南大陸の留学生2万人が段階的にアメリカ本土に留学。それと並行して、北大陸から
流れて来た残存兵10万のうち、約5万人がアメリカ軍に志願入隊し、厳正な審査を経た上でアメリカ本土に移送された。
1483年3月2日 洋上で作戦行動中の空母エンタープライズで、夕食に初めてカレーライスが出される。
以降、米軍内で起こるカレーブームの先駆けとなった。
1483年4月1日 ヴィルフレイングに新鋭空母エセックス、軽空母インディペンデンスを初めとする機動部隊が到着。
のちに、太平洋艦隊は段階的に新鋭艦を配備していく事になる。
同日、シホールアンル帝国本土のアルブランパ軍港にも、新鋭正規竜母ホロウレイグが到着し、機動部隊戦力の拡充が
本格的に始動する。
この時期から、アメリカ海軍には戦時量産型の護衛空母が続々と揃い始めた。
1483年4月11日 第5航空軍所属のB-24爆撃機が、低空飛行訓練を開始する。
1483年5月1日 アリューシャン列島アムチトカ島で、新型艦上偵察機S1Aハイライダーの寒冷地飛行試験が始まる。
1483年5月23日 アリューシャン列島ウラナスカ島のダッチハーバーに、突如としてワイバーンの大編隊が襲来。
シホールアンル側は2次にわたる空襲で飛行場2箇所並びに港湾施設に甚大な被害を与え、停泊していた戦艦ネヴァダを初め、
護衛空母1隻、駆逐艦2隻並びに輸送船3隻を撃沈され、他に数隻が大破させる。
ダッチハーバーは辛うじて軍港機能を維持できたが、空襲後も、しばらく混乱は収まらなかった。
1483年5月25日 偶然ダッチハーバーを出港し、難を逃れていた第36任務部隊は、周辺の基地航空隊と共同して
敵機動部隊を攻撃する事を決断。同時に、アムチトカから発進したS1Aハイライダーが敵機動部隊を発見。
後に我に追いつくワイバーン無しという有名な電文を発しながら戦場を離脱。
シホールアンル側は偵察ワイバーンでTF36を発見し、攻撃隊を発艦させる。TF36は正規空母フランクリン並びに
軽空母プリンストンを中破させられたが、自身も事前に攻撃隊を発艦させていた。
シホールアンル機動部隊には、キスカ島から発進した陸軍航空隊の攻撃隊が第1次攻撃隊として、アムチトカと、TF36から
発進した攻撃隊が第2次攻撃隊として襲い掛かる。
来襲機数に対し、実質的な被害は駆逐艦1隻喪失で済んだが、アメリカ側の執拗な空襲に竜母を失う事を恐れたモルクンレル司令官
はアリューシャン列島からの撤退を決意し、シホールアンル機動部隊は間も無く撤退した。
1483年6月8日 ヴィルフレイングに待機していたB-24爆撃機300機が、ミスリアル王国の飛行場に移動する。
9日からは、同地で山脈の間を飛行する訓練や低空爆撃訓練が繰り返される。
1483年6月23日 アラスカ級巡洋戦艦1番艦であるCB-2アラスカが竣工する。
1483年6月23日 ミスリアル王国エスピリットゥ・サントに、ルベンゲーブ爆撃作戦の支援にあたるハルゼー中将指揮下の
第3艦隊が入港。9隻の空母を主力とする機動部隊は、25日の午前8時にエスピリットゥ・サントを出港した。
1483年6月25日 ルベンゲーブの仮説航空基地にケルフェラクで編成された第1戦闘飛行隊が飛来する。
1483年6月27日 米機動部隊ルテクリッピを空襲。シホールアンル側の反撃で正規空母イントレピッド、軽巡サンアントニオ
が損傷する。ワイバーン部隊の反撃にもかかわらず、米機動部隊はルテクリッピを反復攻撃し、同地を壊滅させた。
1483年6月28日 ミスリアル王国北西部の飛行場から、B-24爆撃機300機、P-51戦闘機48機が発進。
午前11時には洋上の機動部隊から発艦したF6Fと、先行したP-51がシホールアンル側迎撃隊と戦闘開始。
戦闘機隊がワイバーン隊を引き付けているうちにB-24は山脈の切れ目から低空飛行で侵入し、精錬工場に接近。
この意表を付いた侵入方法にシホールアンル側はパニックに陥るも、対空戦闘を開始。
しかし、B-24の大半は割り当てられた精錬工場を低空飛行で爆撃し、施設の約6割を破壊して工場機能を壊滅させた。
帰還中に新型飛空挺ケルフェラクの襲撃を受け、5機が撃墜されるも、P-51隊が助けに入った事で難を逃れた。
このストレートショック作戦で、アメリカ側は95機を失い、暗黒の木曜日とまで言われるほどの大損害を受ける。
しかし、作戦は成功に終わり、犠牲に見合う分の戦果は充分に得られた。
1483年7月16日 6月から東海岸付近で頻発していたマオンド側の生物兵器ベグゲギュスの襲撃に、大西洋艦隊は
全力を持ってベグゲギュスを封じ込める事を表明。
1483年7月17日 ユークニア島に司令部を置く第61特戦隊は、指揮官ハニジ・リゴル大佐の指示の下にベグゲギュスの
大量投入を決断。東海岸沖での戦果拡大を狙う。
1483年7月20日 アメリカ大西洋艦隊が、ベグゲギュスの大規模掃討作戦を開始。21日から23日の3日間で、
大西洋艦隊は正規空母1隻、護衛空母1隻、巡洋艦、駆逐艦計6隻を大中破させられ、駆逐艦2隻を撃沈されたが、
マオンド側は投入した70頭のベグゲギュスを全て喪失し、作戦は大失敗に終わる。
後にリゴル大佐は左遷され、ベグゲギュスはこれまで通り、小規模哨戒活動のみに使用された。
1483年8月1日 レイモンド・スプルーアンス少将が海軍中将に昇進する。同時に第3艦隊司令長官に任命される。
同日、第3艦隊旗艦である空母エンタープライズで、指揮官交代式が行われ、艦隊指揮官であるハルゼー中将から指揮権を移譲される。
その後、艦隊名称を第5艦隊に変更し、新たな旗艦に重巡洋艦インディアナポリスを定める。
1483年8月3日 バルランド王国側から、首都に出向したラウス・クレーゲル魔道士の代わりに、リエル・フィーミル、
ヴェルプ・カーリアンの両魔道士が連絡要員として第5艦隊司令部に着任。
1483年8月12日 ショールアンル帝国本国から、南大陸の前線部隊に撤退命令が下る。
1483年8月30日 ループレング前線軍に属する第20軍に、第32軍団司令部の魔道士が連合軍の反攻が近い事を
知らされる。この知らせは全軍に伝えられたが、もはや手遅れであった。
1483年9月1日 連合軍の総反攻が午前0時を持って開始された。ループレング戦線では、アメリカ軍砲兵部隊の猛砲撃
によって前線陣地を粉砕した。途中、シホールアンル側砲兵隊の反撃があったが、米側の砲撃によって沈黙に追い込まれる。
砲撃終了後は、米機甲師団がパンツァーカイル隊形で猛進し、シホールアンル軍前線陣地を次々と突破。
特にパットン将軍指揮下の第1軍団は目覚しい活躍を見せた。
この日から12月にかけて、連合軍の南大陸奪還作戦が続けられた。
同日、ガルクレルフ沖を航行中の第58任務部隊に、シホールアンル軍第10空中騎士軍が総力攻撃を仕掛ける。
この攻撃で駆逐艦1隻沈没。正規空母ボノム・リシャール、駆逐艦2隻大破。空母ランドルフ、エセックス、ヨークタウン、
軽巡3隻が中小破。
シホールアンル側は出撃したワイバーン500騎中、389騎を失って第10空中騎士軍は壊滅した。
1483年9月6日 米機動部隊がマルヒナス運河の東港、西港を空襲。港湾施設や集積物資、船舶に大損害を与える。
1483年9月28日 カレアント公国北部のイチョンツで、シホールアンル軍が収容所の捕虜523人を虐殺。
後にイチョンツ収容所虐殺事件として、関係者多数が軍事裁判で戦争犯罪人として起訴された。
1483年10月2日 マルヒナス運河へ補給物資を輸送する護送船団に、アメリカ海軍第6艦隊所属の第61任務部隊第3任務群
が襲い掛かるが、シホールアンル側護衛艦艇との戦いで戦力を消耗。
巡洋艦2隻、駆逐艦4隻を撃沈するも、TG61.3も軽巡1、駆逐艦2を喪失し、司令官エインスウォース少将が負傷したほか、
主力の軽巡全てが大中破し、あえなく撃退される。
夜明け後に、TF57から空母艦載機によって攻撃を行う旨が報告されるが、第5艦隊司令長官のスプルーアンス中将は、マルヒナス
地区に駐留するワイバーン部隊他、敵機動部隊の戦力とTF57の戦力を比較した上で攻撃を断念し、TF57を撤退させた。
1483年10月2日 ルーズベルト大統領が、連合国首脳との会談を考え始める。
1483年10月13日 アイオワ級戦艦1番艦である戦艦アイオワが竣工する。
1483年10月16日 巡洋戦艦アラスカがエスピリットゥ・サントに展開する第57任務部隊に編入される。
1483年10月27日 アメリカ側がシホールアンルが開発した鍵の存在を知る。これによって、アメリカはOSSに
鍵救出を命じる事になった。
1483年11月3日 シホールアンル帝国南部のドグルントで、陸上装甲艦レドルムンガ級3隻の訓練が、ギレイル陸軍元帥
の立会いの下行われる。その際、ワイバーンが魔法防御の試験のため、実際に陸上装甲艦に向けて爆弾を投下したが、爆弾は
魔法防御を貫けずにその場で爆発し、魔法防御の有用性が確認された。
1483年11月7日 アメリカ機動部隊に、新型艦上偵察機S1Aハイライダーが本格的に配備される。
1483年11月19日 南大陸各国の親善大使が、各国首脳に連合国首脳会談の開催についての説明が行われる。
各国首脳は、翌20日にアメリカ政府に対して首脳会談開催に賛成の意を示した。
1483年12月1日 マオンド共和国南岸沖を哨戒中の潜水艦ボーフィンが、突如、見慣れぬ亜人種と遭遇、後に保護。
後の調べで、ハーピィと呼ばれる亜人種である事が判明する。
ボーフィンはメリマと名付けられたハーピィを艦内に保護するも、マオンド軍の駆逐艦2隻に追跡される。
ボーフィンは、ハーピィのメリマの協力の下、マオンド駆逐艦2隻を雷撃し、1隻を轟沈させ、もう1隻を大破させた。
なお、ボーフィンは爆雷攻撃による損傷で3週間のドッグ入りを余儀なくされた。
ハーピィのメリマは、帰還後、ミスリアル王国から来た魔道士に事情聴取を受けた。
反攻作戦中に連合軍が受けた損害
戦死傷者18万人以上 航空機、ワイバーン喪失2498機
反攻作戦中にシホールアンル軍が受けた損害
戦死傷者、捕虜計25万人以上 喪失ワイバーン2192騎 喪失飛空挺97機
1483年12月18日 バルランド王国ヴィルフレイング沖を航行する戦艦アイオワの艦内で、初の連合国首脳会談が開かれる。
連合国首脳は、この会談で今後の北大陸侵攻に伴う政策について話し合った。
2時間半に渡る会談の後、連合国は6カ条の共同宣言を発表。後にヴィルフレイング宣言として知られる事になった。
1483年12月22日 シホールアンル帝国首脳部は、18日に発表されたヴィルフレイング宣言の事で緊急の会議を開いた。
会議の結果、シホールアンル帝国はヴィルフレイング宣言を黙殺する事を決めた。
1483年12月23日 ロスアラモス研究所で開発中であった魔法通信傍受機の試作機が完成。試運転中にシホールアンルから
マオンドに向けて放たれた魔法通信を傍受し、機密文の内容が、そのままアメリカ側に知られる。
1483年12月28日 アメリカ側はOSSの潜入班を使って、鍵を救出する事を決定。救出作戦には、カレアント軍から
魔道士であるエリラ・ファルマント軍曹が加わった。
1484年(1944年)1月4日 最新鋭戦略爆撃機B-29スーパーフォートレスが、ミスリアル王国の第5航空軍に
1個航空群派遣される。
1484年1月7日 ヴィルフレイング、エスピリットゥ・サントから第5艦隊の機動部隊が北ウェンステル領沿岸部、並びに
マルヒナス運河北岸の爆撃のため出撃する。
同日、ミスリアル王国から飛び立ったB-29爆撃機48機が、P-51戦闘機の護衛の下、ルベンゲーブ精錬工場爆撃に向かう。
途中、ワイバーン部隊の迎撃を受けるも、高度1万メートルを飛行するB-29に1騎も届かないという有様に陥る。
ルベンゲーブ手前では、戦闘飛空挺ケルフェラクが、B-29とほぼ同じ高度まで駆け上って迎撃したが、最新の火器管制装置
を備えたB-29の統制射撃の前に苦戦を余儀なくされ、戦果ゼロに終わる。
48機のB-29は高度1万メートルからルベンゲーブ精錬工場を爆撃、半数以上の爆弾は外れ弾となるが、残りが工場施設
に甚大な損害を与えた。この爆撃によってルベンゲーブ魔法石精錬工場は壊滅的打撃を被り、操業をストップせざるを得なかった。
1484年1月9日 ウェンステル中西部沿岸のルテクリッピに米機動部隊が襲来。シホールアンル側は米機動部隊に反撃するも、
巡洋戦艦アラスカ以下の護衛艦艇が放つ対空砲火により軽空母ベローウッド大破、正規空母イントレピッド中破の損害を与えたの
みに留まった。
同日、B-29爆撃機44機が、北ウェンステル領の辺境地帯ロイトラウヌを爆撃。7日にルベンゲーブ爆撃のような戦果は得られ
無かったが、B-29の長距離性能にシホールアンル帝国上層部は恐慌状態に陥った。
1484年1月10日 工作部隊が北ウェンステル領に侵入する。同日、北大陸侵攻部隊がエンデルドより出港開始。