ラ・カサミ級戦艦

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ラ・カサミ級戦艦」を以下のとおり復元します。
&font(b,#555){ら かさみきゅうせんかん}
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[[ムー]]の最新鋭戦艦。[[リグリエラ・ビサンズ社]]製。確認されている限りでは全5隻(6隻の可能性あり)。
日露戦争時に連合艦隊旗艦を務めた&link_wikipedia(戦艦三笠){敷島型戦艦「三笠」}とほぼ同等の性能を持つ。

&small(1){&font(Black){作中で似ているとされた大日本帝国海軍所属 敷島型戦艦四番艦「三笠」 呉入港 1905年2月}}
&image(Japanese_battleship_Mikasa.jpg)
&small(1){&font(Black){※原典:呉市海事歴史科学館所蔵品&br()日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。&br()1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。&br()1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。}}

|全長|>|131.7m|
|全幅|>|23.2m|
|基準排水量|>|15,140t|
|機関|>|ディーゼルエンジン(書籍版)&br()重油燃焼型機関(Web版、機関種別不明)&br()出力:15,000馬力|
|速力|>|最大18kt|
|兵装|主砲&br()口径:30.5cm|連装2基&br()4門|
|~|副砲&br()口径:15.2cm|単装14門|
|装甲|>|表面硬化装甲?(ちなみに三笠はクルップ製)|

**ラ・カサミ
[[日本>日本国]]外交使節団のムー訪問時に初登場。ムー海軍の象徴として紹介され、その時[[佐伯]]が「三笠にそっくり」と発言している。

続いての登場は1642年の[[先進11ヵ国会議]]でのこと。外交団護衛艦隊のうちの1隻として派遣された。
例年通り無事に任務を終えて帰路につく…と思われたが突如、[[カルトアルパス]]に[[グラ・バルカス帝国]]艦隊が押し掛け、これの相手をすることになる。
ムー艦隊で唯一、航空攻撃を中破でかいくぐり生き残り、「[[しきしま]]」の最期を目の当たりにするも果敢に[[敵艦>グレードアトラスター型戦艦]]へ向かっていく。しかし射程外から15.5cm砲弾が直撃し、操舵不能になった上に機関が暴走。そのまま岩礁に乗り上げ大破してしまった。
だが不幸中の幸いというべきか、座礁したおかげで''少なくとも撃沈は免れた。''また艦長[[ミニラル]]ほか生き残った乗員もグラ・バルカス帝国の捕虜にならずに済んだ。その後日本のドックに移され、修理を名目に改修が行われる。
この件に関し、みのろう氏はこのようにコメントを残している。
#blockquote(){船舶に関しては改修よか新造の方が早いし安上がりなんだよなぁ
みのろう    [2016年 12月 26日 07時 12分]
そう、安上がりですが、技術流出防止法が妨げるのです。
日本では、法解釈で非効率、非経済的な事が多々なされていますので、今回の描写もそれ故です。

  __ ∧ ∧
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Web版では機関は重油を燃焼させる機関としか言及がなく、後の日本国内のドックでの説明によると三笠とほぼ同じとのことで、外燃型のレシプロ機関の模様。
書籍版では蒸気機関では出力不足だったらしく、内燃機関と明言された。ただその際、重油を燃料とすることも明記された。
重油の質が軽油寄りのA型重油なのか、ほぼ残渣レベルのC型重油なのか不明だが、もしC重油なら、&bold(){フィルター技術が戦後日本並み}という脅威的技術レベルである。
なお、重油ディーゼルの特徴は、蒸気レシプロ機関よりも遥かに高効率・低燃料費・蒸気タービンと比べて高出力化に難点、の三つであり、恐らく内燃機関の発明が地球より早く、レシプロ機関は早々に時代遅れになった模様。

すこし話は逸れるが、グレートアトラスターにあっさりとやられたことと、地球では前弩級ということで過小評価されるが、実は三笠クラスの時点で、&bold(){装甲部材は第一次、第二次大戦時の弩級戦艦と大きく変わっていない}。
三笠が建造された時期はちょうど表面硬化装甲が開発されており、&bold(){"戦艦級の徹甲弾ですら装甲を貫通できない"}という事実が見られ、日本海海戦では撃沈された艦より榴弾による損傷による自沈ないし降伏が大半で、トドメが水雷艇の魚雷という結果も多く見られた時期である。
そしてこの表面硬化装甲で少なくとも地球での戦艦装甲技術は頂点に達し、あとは合金比率の調整による改良が主となっている。
つまり、この時点で少なくとも&bold(){グ帝艦艇に比して装甲技術には大きく差は開けられていない}のである。((ちなみに三笠の前級の富士型は甲板以外は装甲厚が大和型を上回っている。もっとも、大和より強固だとか防御重視とかではなく、表面硬化装甲発明直後のために木材と鋼鉄と錬鉄を使った旧式設計を流用したために結果的にそうなっただけ。しかも強いわけでなく、むしろ全て金属装甲になったせいでそのままだと実用に耐える排水量を超えてしまうため、甲板装甲や側面砲郭は薄くし、艦首と艦尾寄りはほぼ無装甲にせざるを得なかった。))
むしろ、&bold(){ガソリンエンジンより高圧縮に耐えうるディーゼル用大型シリンダー}を開発できることを考えると、ムーの治金技術は互角(艦艇用の15000hp級ディーゼルを運用していたのは&s(){第二次大戦時のドイツぐらいである}ドイツは''第一次世界大戦時に海軍が一度壊滅''しており、さらにヴェルサイユ体制による極端な軍備制限によって、軍艦・船舶建造技術が大きく後退していた。ドイツの高圧蒸気タービン機関は日本海軍が自信喪失状態になってしまうほどだったが、実は…………&bold(){まさにドイツもコイツもトラブルまみれ}((日本がうまく扱えなかったのではなく、ドイツ自身、日本の艦本式程の完成度に至れていなかったのだ。大和型・翔鶴型の160,000hp、戦時統合でほぼ1本に絞られた陽炎型駆逐艦の機関など、ドイツには見果てぬ夢だったのである。ちなみに、船舶用蒸気タービンの高圧・低圧の境目はほぼ50気圧だが、軍艦の場合ダメージコントロールを考えるとあまりの高圧のボイラー・タービンの採用は機関損傷時に傷口を拡げかねないということで、アメリカですら48気圧止まりである。この面においても、ドイツは第一次世界大戦の時点に取り残されていた。))((付け加えると、モーゼル MG151/20などはアメリカがコピーを作ろうとして失敗するほど精巧だった。また、日本の技術力を悲観的に見るときに出されるDB601のクランクシャフト用ローラーベアリングなど、そもそも無意味だったとすら言われている(往復運動を回転運動に変えるというその性質上、クランクシャフトは常に遍軸回転しており、その横圧でローラーベアリングが固渋していた。ユンカースは同クラスのJumo211ではこんなもの採用しておらず、ダイムラー・ベンツもイギリスのロールス・ロイス『グリフォン』のカウンターであるDB603では廃止している)。更に言うとDB601・Jumo211以降に採用されたガソリンエンジン用インジェクターなど、曲がりなりにもコピーできたのは日本だけ(但し、不良品発生率はお察し。ただ、[[震電>震電改]]にも搭載された三菱ハ43などはこれが前提だが、九州飛行機の技術者達は「(エンジンに)なにも不安は感じていなかった」という)である。つまり、「限界の技術」と「実用の技術」は別物なのである。))。故に''次善策として軍用としては過度に高度な''冶金技術を使ったディーゼルエンジンに走ったわけである。)。ムーの冶金技術の程を例えるなら、1970年頃の日本だろう((日本は1968年に「最大13連、機関車並みの12気筒30リットル級500psエンジンを各車に搭載、常時機関制動併用CLE電磁自動空気ブレーキを採用し営業最高速度120km/h」という、空前の特急形ディーゼル気動車「キハ181系」を登場させ、1970年から量産を開始した。ディーゼル特急は世界各国にあるが、そのほとんどが、「ディーゼルエンジンで発電して台車装荷のモーターを回す」という構造で、エンジンにそれほどの高回転を求めていなのに対し、日本の特急形気動車は「油圧式トルクコンバータを介してエンジンが直接動軸を駆動する」という、本来ローカル線区でせいぜい単行ないし4連程度の運用のための技術でこれを実現した。))。

ではなぜ第一次以降で轟沈する艦艇が増えたのか(そしてグ帝に圧倒されたのか)。それは徹甲弾が第一次前後で急速な進化を遂げたことと、火器管制の発達が5000m前後での撃ち合いから10000m以上の長距離砲撃を可能にし、結果、垂直装甲より薄い甲板装甲を撃ち抜く事例が増えたことにある。
また装甲の弱い上から攻撃できる航空機や魚雷の発達なども要因である。
ラ・カサミが副砲であっさり大破したのも、恐らく装甲よりも砲戦能力や弾頭技術において劣位にあったからだと想定される。

そもそもラ・カサミ級の設計思想が''第一次世界大戦レベルですらない''。大和型、アイオワ級、デューク・オブ・ヨークに至る「艦軸上の複数砲塔配置」は1906年に完成した、「H.M.S.ドレッドノート」によって実現したもので、世界各国がこの画期的な戦艦に衝撃を受けた((「超弩級戦艦」の「弩級」とは、「ドレッドノート級」の意味である。))。敷島型戦艦が参加した「日本海海戦」はその前年の1905年のことである。ドレッドノートの登場後に発生した大型戦艦建造ブームの中でも、日本は扶桑型に始まり八八艦隊計画に至るまでとにかく多数の砲塔を積みたがり、艦橋前方を向けることができない背負式にしてでも多数積みたがったが、これは要するに''日本海海戦の戦訓から来ている''((他国はどうかと言うと、イギリスのネルソン級、フランスのリシュリュー級など、思い切って艦橋後部の主砲塔を積まないという選択肢をとる場合もあった。))((じゃあ大和型はどういうことなのかと言うと、大和型は八八艦隊計画で設計された戦艦群の発展型……ではなく「青葉型(改古鷹型)重巡洋艦の拡大型」なのだ。計画30ノット超の段階で「速力で敵の頭を抑える」事を強く意識しており、これはまさに戦艦と言うよりも巡洋艦の運用法だった。この背景には、2度の軍縮条約により「多数の戦艦で行く手を塞いで敵を滅多打ち」という日本海海戦の戦訓に基づく運用に充分な戦艦の保有数を満たせなくなっていたという背景がある。))。
ところがムーは事情が特殊で、近代海軍の整備に取り掛かった頃には、[[パーパルディア皇国]]あたりがヤンチャしない程度の軍備でよく、日本海海戦といった戦艦の運用ドクトリンに衝撃を与えるような事象が発生していなかった。むしろ、全体的に前近代で留まっているはずのパ皇などがワイバーンを空中戦力として運用し始めたため、戦艦の改良よりこれを抑える航空戦力の拡充に迫られた。
つまり、ムー海軍は技術的にちぐはぐというより、''「ドレッドノートの登場より先に1941年12月8日を迎えた世界の産物」''なわけである。

もっとも更に突っ込むと、詳細なスペックが公開されていないので、この辺りは推測するしかないが……

[[そして、改修の結果…>ラ・カサミ改]]


&anchor(ラ・エルド){}
**ラ・エルド
ムー機動部隊旗艦として[[バルチスタ沖大海戦]]に参戦する。
日本の軍事資料を研究し、新たに20mm機関銃を多数増設している。
ただしそれでもグラ・バルカス帝国軍航空機に対して有効な対空兵装には及ばず、その後の第8打撃群との戦闘で、敵巡洋艦からの砲撃で前部主砲塔が大破・使用不能になる等の損害を被った。

[[空中戦艦パル・キマイラ>http://www65.atwiki.jp/jp-summons/pages/74.html]]の参戦により九死に一生を得た後は、神聖ミリシアル帝国海軍魔導連合艦隊からの連絡を受けて作戦終了、残存艦艇とともに帰投した。


#table_color(#aae){}
|~&big(){関連項目}|
|&bold(){[[兵器]]}|[[ムー]]|
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[[過去のコメント>コメント/ラ・カサミ級戦艦]]
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