□2010年度に行った学会発表
●題目「環境思想史における農業の位置づけの再検討 ―〈食べる身体〉を中心として―」
2010年度共生社会システム学会大会,2010年7月14日,宇都宮大学
(同題目にて「共生社会システム研究 vol.5」に投稿予定)
2010年度共生社会システム学会大会,2010年7月14日,宇都宮大学
(同題目にて「共生社会システム研究 vol.5」に投稿予定)
●題目「環境倫理学における生態学の位置づけの検討― B.Nortonの「収束仮説」批判を中心に ―」
唯物論研究協会第33回大会,2010年10月14日,一橋大学
(同題目にて「唯物論研究年誌第16号」に投稿予定)
唯物論研究協会第33回大会,2010年10月14日,一橋大学
(同題目にて「唯物論研究年誌第16号」に投稿予定)
□2011年度に行う研究の予定
私は修士・博士課程において、「形式的な統合性から外れたものを、どのように許容したり拒んだりするか?」、「普遍的=客観的価値を設定することなく、適切な判断をどのようにくだすか?」という問いへの解答を試みている。これは、「人間中心的/非人間中心的」、「加害者/被害者」等の環境問題に関する議論において散見される二項対立図式の安易な使用、及び、異論に対する(ときに暴力的な)非寛容さが、議論の生産性を損なっているという意識にもとづいている。
私は修士・博士課程において、「形式的な統合性から外れたものを、どのように許容したり拒んだりするか?」、「普遍的=客観的価値を設定することなく、適切な判断をどのようにくだすか?」という問いへの解答を試みている。これは、「人間中心的/非人間中心的」、「加害者/被害者」等の環境問題に関する議論において散見される二項対立図式の安易な使用、及び、異論に対する(ときに暴力的な)非寛容さが、議論の生産性を損なっているという意識にもとづいている。
修士論文では、環境プラグマティストであるノートンと、仏教思想の実践的側面を強調した和辻哲郎の理路をふまえたうえで問いの検討を行った。しかし、以下の二つの問いを看過したために充分な検討がなされなかった。一つは、和辻哲郎の理路において私たちに倫理の実践を駆動させるものが何であると位置づけられているのか、そしてそれは環境倫理、農業とどのように連関しうるのか。もう一つは内在的価値論が様々な批判を受けているにもかかわらず、なおも支持者を失わず魅力的であるのはなぜか、である。
最初の問題について、私は「食う」という行為のなかで、たとえ農業生産に直接携わることのない生活者においても、逃れがたく農業と身体的な連関を持つことを指摘した。また、「私たちは食べ続けなければ生きていけない」という本態的な脆弱性の焦点化、および「いずれ死ぬ私は、なぜ殺してまで食べているのか?」という問いの立体化を通じ、有責性にもとづく倫理の駆動を構想した。
二点目の問題については、アメリカの環境倫理学(ベアード・キャリコットら)と環境プラグマティズム(アンドリュー・ライトら)は「形而上学から実践へ」という図式で一般的に理解されている。しかし、むしろ後者による前者の批判点は、後者の排他的態度である。この歴史的背景に、もともと環境プラグマティストらが批判する自然の内在的価値論が、1960年代から1970年代中頃までアメリカにおいて主流だった生態系生態学の機械論的自然観への批判的視座としてはじまったこと、また環境プラグマティズムの政策重視の傾向も保全生物学が1980年代後半になって急速に一つの分野として制度化に成功した事例を成功体験としていることを調査した。そのなかで、環境プラグマティズムの「収束仮説」が結果的に保全生態学をイデオロギー装置として使ってしまっているという理論的欠点、およびキャリコット(そしてリン・ホワイト、ディープエコロジスト)の議論にはあった宗教的諸相の捉えなおしという観点が脱落し、長期的ヴィジョンが描けない、環境保護活動家でない人に向けての訴求性が低いなどの実践的欠点を指摘した。
以上、修士論文で行えなかった二つの検討をふまえ、「食べる身体」が農業と環境倫理学を不可分なものとする枠組みを幾つか提示したい。
修士論文で扱いきれなかった事項の検討をふまえ、「食う身体」が農業と環境倫理学を不可分なものとする枠組みを試作することが本年度の研究内容である。「普遍的=客観的価値を設定することなく、適切な判断をどのようにくだすか?」という問いへの解答が修士のテーマであったが、これは環境問題に関する議論において散見される二項対立図式の安易な使用、及び、異論に対する極端な非寛容さが、議論の生産性を損なっているという意識にもとづいている。しかし修士論文では、①私たちに倫理の実践を駆動させるものが何であるか、②内在的価値論が様々な批判を受けているにもかかわらず、なおも魅力的であるのはなぜか、という二つの問いを看過したため考察が不十分であった。
最初の問いについて、私は「食う」という行為のなかで、たとえ農業生産に直接携わることのない生活者においても、逃れがたく農業と身体的な連関を持つことを指摘した。そして「いずれ死ぬ私は、なぜ殺してまで食べているのか?」という問いの立体化を通じ、本態的な脆弱性と有責性にもとづく倫理の駆動を構想した。
二点目の問いについては、環境プラグマティズムによるアメリカの環境倫理学の批判が、後者の排他的態度であることをふまえ、この歴史的背景に、自然の内在的価値論が、1960年代から70年代中頃までアメリカにおいて主流だった生態系生態学の機械論的自然観への批判的視座としてはじまったことを調査した。その過程で、環境プラグマティズムの諸理論においてCallicott及びディープエコロジストにおいて課題とされていた宗教的諸相の捉えなおしという観点が脱落し、長期的ヴィジョンが描けない、環境保護活動家でない人に向けての訴求性が低いなどの実践的欠点が指摘された。
修士論文で扱いきれなかった事項の検討をふまえ、「食う身体」が農業と環境倫理学を不可分なものとする枠組みを試作することが本年度の研究内容である。「普遍的=客観的価値を設定することなく、適切な判断をどのようにくだすか?」という問いへの解答が修士のテーマであったが、これは環境問題に関する議論において散見される二項対立図式の安易な使用、及び、異論に対する極端な非寛容さが、議論の生産性を損なっているという意識にもとづいている。しかし修士論文では、①私たちに倫理の実践を駆動させるものが何であるか、②内在的価値論が様々な批判を受けているにもかかわらず、なおも魅力的であるのはなぜか、という二つの問いを看過したため考察が不十分であった。
最初の問いについて、私は「食う」という行為のなかで、たとえ農業生産に直接携わることのない生活者においても、逃れがたく農業と身体的な連関を持つことを指摘した。そして「いずれ死ぬ私は、なぜ殺してまで食べているのか?」という問いの立体化を通じ、本態的な脆弱性と有責性にもとづく倫理の駆動を構想した。
二点目の問いについては、環境プラグマティズムによるアメリカの環境倫理学の批判が、後者の排他的態度であることをふまえ、この歴史的背景に、自然の内在的価値論が、1960年代から70年代中頃までアメリカにおいて主流だった生態系生態学の機械論的自然観への批判的視座としてはじまったことを調査した。その過程で、環境プラグマティズムの諸理論においてCallicott及びディープエコロジストにおいて課題とされていた宗教的諸相の捉えなおしという観点が脱落し、長期的ヴィジョンが描けない、環境保護活動家でない人に向けての訴求性が低いなどの実践的欠点が指摘された。