序言(p.3-5)
○本書の目的:「人間存在の構造契機としての風土性」を明らかにすること
⇒「主体的な人間存在にかかわる立場」から、「主体的な人間存在の表現」としての(「自然環境」としてではない)風土的形象を問題とする
⇔「対象と対象との間の関係を考察する立場」
“自然環境と人間生活との関係を考える”というときには、その「自然環境」も「人間生活」も対象化されている。
“自然環境と人間生活との関係を考える”というときには、その「自然環境」も「人間生活」も対象化されている。
第一章 風土の基礎理論(p.9-28)
一 風土の現象(p.9-18)
「風土」:ある土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観の総称
⇒人間を取り巻くこれらの「日常直接の事実としての風土」は、「その現象そのものが根源的に自然科学的対象」であるといえるか?
○「志向性」と「間柄」
- 我々が「寒さ」を感じるとき、その「寒さ」は独立した存在としてあるものではなく、「我々が寒さを感じる」という関係(「志向的関係」)において初めて見いだされる。
我れ===========>寒さ ←志向的関係・志向的体験
(志向性) (志向対象)
(志向性) (志向対象)
- このとき我々は寒さの「感覚」を感じるのではなく直接に「寒気」を感じる。つまり志向的体験において志向対象としての「寒さ」は「主観的なもの」ではなく「客観的なもの」である。
- よって主観と客観、「我々」と「寒気」の区別はひとつの誤解である。寒さを感じるとき、「我々自身はすでに外気の寒冷のもとに宿っている」、つまり「寒さの中へ出ている」。この意味で我々自身の在り方はハイデガーのいう「外に出ているexsistere」こと(志向性)を特徴とする。
- 「外に出る」こと=志向性は我々自身の構造の根本的規定である。寒さを感じるという志向的体験において、我々は「寒さ自身のうちに自己を見いだ」し、外に「出ている己れを見る」。
- 以上は個人におけるのみではなく、「我々は同じ寒さを共同に感ずる」。「外に出る」という構造は、「他の我れの中に出るということ」に特徴付けられれ、これは志向的関係ではなく「間柄」である。
我れ<==========>我れ ←間柄
(志向性)
(志向性)
⇒このような「寒さ」を含む気候、それら全体としての「風土」において、我々は「間柄としての我々自身を」見いだし、「我々自身を了解する」。
○風土における自己了解の仕方
- 衣食住や文化の手段や方法
Ex)着物、花見、堤防、家の構造、・・・
- 風土の諸現象との、「祖先以来の永い間の了解の堆積」=歴史
→文芸、美術、宗教、風習等あらゆる人間生活の表現
⇒「風土における人間の自己了解の表現」
◎真の風土の現象は人間存在や歴史を抜きにしては見られない
(⇔風土を「自然環境として観照する立場」)
(⇔風土を「自然環境として観照する立場」)
二 人間存在の風土的規定(p.18-28)
○「人間」の構造と風土的規定
(一)人間存在の二重性:
「人間」は個人的でありまた同時に社会的である。人間の本質を捉えるにはこの二重構造を踏まえる必要がある。(アントロポロギーや社会学はそれぞれ一面のみを捉えるもので不足)
「人間」は個人的でありまた同時に社会的である。人間の本質を捉えるにはこの二重構造を踏まえる必要がある。(アントロポロギーや社会学はそれぞれ一面のみを捉えるもので不足)
(二)空間性・時間性の相即不離:
人間存在の分裂(個人)と合一(共同態)の運動は「主体的な身体」があって初めて起こるものである。したがって空間性・時間性、その「相即不離」がこの運動の根源をなす。
人間存在の分裂(個人)と合一(共同態)の運動は「主体的な身体」があって初めて起こるものである。したがって空間性・時間性、その「相即不離」がこの運動の根源をなす。
(三)人間の連帯性:
さまざまな共同態・結合態は一定の秩序において内的に展開する、「動的な運動の体系」であり、この運動が歴史を形成する。
さまざまな共同態・結合態は一定の秩序において内的に展開する、「動的な運動の体系」であり、この運動が歴史を形成する。
(四)人間存在の風土性・歴史性
歴史性と風土性はともに社会的存在(「人間」)の構造であり、二つの合一において「歴史は肉体を獲得する」。
「人間の歴史的、風土的二重構造においては、歴史は風土的歴史であり、風土は歴史的風土である。それぞれに孤立せしめられた歴史と風土とは、[…]具体的地盤からの抽象物に過ぎない。」
歴史性と風土性はともに社会的存在(「人間」)の構造であり、二つの合一において「歴史は肉体を獲得する」。
「人間の歴史的、風土的二重構造においては、歴史は風土的歴史であり、風土は歴史的風土である。それぞれに孤立せしめられた歴史と風土とは、[…]具体的地盤からの抽象物に過ぎない。」
○アントロポロギーにおける肉体の問題との相似
アントロポロギー:
「人間」から個人性のみを抽出し間柄から遊離した「人」を、身心の二重性格から分析
「人間」から個人性のみを抽出し間柄から遊離した「人」を、身心の二重性格から分析
⇒精神論・肉体論に分裂(肉体=「物体」)
肉体は単なる「物体」ではない→「肉体の主体性」
◎「身心関係の最も根源的な意味は[…]歴史と風土との関係をも含んだ個人的・社会的な身心関係に」ある。→「風土の主体性」
⇒人間存在の構造は①間柄、②歴史性、③風土性のすべての分析を必要とする
○風土的規定の性質
- 風土は「主体的な人間存在が己を客体化する契機」→道具
「ための連関」:道具の本質的構造
Ex)槌は靴を作るためのもの、靴は歩くためのもの、…
Ex)槌は靴を作るためのもの、靴は歩くためのもの、…
⇒風土的な自己了解が「ための連関」の最初の契機
- 風土における自己発見性
気持、気分、機嫌=単なる心理状態ではなく存在の仕方←風土的負荷
Ex)「さわやかな気分」
Ex)「さわやかな気分」
- 「人間の自己了解の型」
人間の負荷的性格・自由の性格→歴史性
⇒風土の型=人間の自己了解の型
⇒風土の型=人間の自己了解の型
○風土の具体的把捉
以上の人間存在の風土的規定は人間の構造一般の問題であり、具体的な人間の存在の仕方(風土的・歴史的特殊構造)を理解するためには、
①存在的認識:歴史的・風土的な現象の直接的な理解
②存在論的認識:人間の自己了解の型、人間の自覚的存在の表現としての風土という理解
の二重の認識を持つ必要がある。
感想と論点
○和辻の「人間」についての理解の仕方
和辻の「人間」に関する理解は多いに共感できる。「人間」という語はもともと「よのなか・世間」の意味であり、個人としての「人」とは区別されていたが、「人間」を本来社会的かつ個人的な性質を併せ持つものだとする日本人の理解から、歴史的に混同されたのだという(『人間の学としての倫理学』第一章二)。近代の人間理解がこの片方を抽出してそれに固執してきたことの弊害を和辻が指摘するのは最もなことだろう。
この二重性に、さらに歴史性・風土性を含めて「人間」の構造を分析することは、現実の存在としての人間を理解するために必要なとても重要な視点であると思う。
この二重性に、さらに歴史性・風土性を含めて「人間」の構造を分析することは、現実の存在としての人間を理解するために必要なとても重要な視点であると思う。
しかし問題は、和辻の言う「間柄」の内実である。「間柄」とは具体的にどのような関係なのか、あるいはどのような関係が望ましいのか。このことについて『風土』においてはほとんど触れられていない。特に現代の日本のような「間柄」が省みられないよのなかでは、これが明らかにされなければ風土の議論も意味をなさなくなる。
○「主観・客観」と「主体・客体」という言葉
随所に「主観・客観」と「主体・客体」ということばが用いられているが、『人間の学としての倫理学』でもその具体的な意味は述べられていない。「寒さの現象」に関する論述がかなり分かり難いのもこの語の曖昧さにあると思う。
ベルクは、「主体性とは主体の質であり、主観性とは主観的であるという事実である」と注意した上で、和辻の風土類型における誤りを「分析する民族の主体性を自己の主観性と混同し、その民族の主体性を愚弄してしまったところにある」という(『風土学序説』注275)。これは現象学の問題なのか。
ベルクは、「主体性とは主体の質であり、主観性とは主観的であるという事実である」と注意した上で、和辻の風土類型における誤りを「分析する民族の主体性を自己の主観性と混同し、その民族の主体性を愚弄してしまったところにある」という(『風土学序説』注275)。これは現象学の問題なのか。
亀山(2005)が指摘するように、客観的に存在する自然を認めなくては風土の現象を記述することはできない。そのことは必ずしも和辻が非難するような、風土を「単なる自然現象として観照する立場」に立つことにはならないのではないだろうか。
亀山純生『環境倫理と風土―日本的自然観の現代化の視座』大月書店2005
オギュスタン・ベルク、中山元訳『風土学序説―文化をふたたび自然に、自然をふたたび文化に』筑摩書房2002
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波文庫2007
オギュスタン・ベルク、中山元訳『風土学序説―文化をふたたび自然に、自然をふたたび文化に』筑摩書房2002
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波文庫2007