普遍性の二つの概念(p.134~p.143)
「普遍的」という言葉が真理と結びつくニュアンスで使われるとき、この言葉には二つの側面がある。この二つの側面を、「場所的普遍性」「時間的普遍性」という言葉で表現したい。
1.場所的普遍性の論理
普通私たちは、場所的普遍性という意味で普遍性という言葉を使っているような気がする。
→ 「普遍的な思想」と言うとき、一般的には、どこでも通用する思想を意味する。
例えば「マルクス主義や社会主義は普遍的な理論である」、「ヨーロッパから発生してきた近代社会の原理、フランス革命やイギリスの清教徒革命以降の市民社会原理、つまり自由、平等、民主主義、人権というような考え方は普遍的である」という言われ方がなされるとき、普遍的という言葉は、世界中どこの国へ行っても通用する、という意味合いを持っている。
→ 「普遍的な思想」と言うとき、一般的には、どこでも通用する思想を意味する。
例えば「マルクス主義や社会主義は普遍的な理論である」、「ヨーロッパから発生してきた近代社会の原理、フランス革命やイギリスの清教徒革命以降の市民社会原理、つまり自由、平等、民主主義、人権というような考え方は普遍的である」という言われ方がなされるとき、普遍的という言葉は、世界中どこの国へ行っても通用する、という意味合いを持っている。
2.時間的普遍性の論理
普遍性にはもうひとつ「時間をこえて普遍的なもの、いつの時代でも通用する」という意味での時間的普遍性がある。しかし、近代以降の社会になると、時間的に普遍的なものは重視されず、場所的普遍性だけが普遍性であるかのように考えられ始める。
→ 変化すること、発達していくことが正常であるという感覚のため。
近代以降に生み出されたもので唯一時間的な普遍性を持っているものがあるとすれば、おそらく自然科学だけだろう。しかし、自然科学がみつけ出した「真理」は時間的普遍性をもっているとも言えるし、そのすべてがもっていたわけではないという言い方もできる。
ニュートン力学がアインシュタインの相対性理論により否定され、その相対性理論もまた熱理学の台頭で時代遅れのものとなった。生物学においては、進化論をめぐって、何が「真理」なのか判らないような状況が生まれている。
現代においても時間的普遍性をもっているものとして、宗教があげられる。宗教の教義は時代が少々変わったからと言って、変わるということはない。
例えば浄土真宗などでは、問題が生まれてくると、「親鴬に戻れ」という言葉が言われる。つまり原点に戻ろうとする。
→ 変化すること、発達していくことが正常であるという感覚のため。
近代以降に生み出されたもので唯一時間的な普遍性を持っているものがあるとすれば、おそらく自然科学だけだろう。しかし、自然科学がみつけ出した「真理」は時間的普遍性をもっているとも言えるし、そのすべてがもっていたわけではないという言い方もできる。
ニュートン力学がアインシュタインの相対性理論により否定され、その相対性理論もまた熱理学の台頭で時代遅れのものとなった。生物学においては、進化論をめぐって、何が「真理」なのか判らないような状況が生まれている。
現代においても時間的普遍性をもっているものとして、宗教があげられる。宗教の教義は時代が少々変わったからと言って、変わるということはない。
例えば浄土真宗などでは、問題が生まれてくると、「親鴬に戻れ」という言葉が言われる。つまり原点に戻ろうとする。
3.近代主義の原理としての場所的普遍性の論理の克服
場所的普遍性を肯定し時間的普遍性を否定する精神は、資本制商品経済の論理とうまく合致している。
- 資本制経済と場所的普遍性
資本制生産様式とは自然を手段にしてしまう、すなわち自然それ自体がもっている時間的普遍的な価値を無視する生産様式だということがある。
近代産業は国境・地域・気候条件などを越えて同一の生産形態をもつ。しかし、自然のもっている力をいかして生産をしていこうとすれば、そう簡単に国境や地域をこえられるはずはなかった。
近代的な生産活動、経済活動が、場所的普遍性の論理を体現していたことがわかる。
近代産業は国境・地域・気候条件などを越えて同一の生産形態をもつ。しかし、自然のもっている力をいかして生産をしていこうとすれば、そう簡単に国境や地域をこえられるはずはなかった。
近代的な生産活動、経済活動が、場所的普遍性の論理を体現していたことがわかる。
- 近代社会の原理と市場制経済
場所的普遍性の論理が確立されていくのは、近代社会以降ではないか。
① 生産の場所で自然の力を無視することができるようになったこと。
② そのために資本制生産様式は、国境をこえて、全世界に広まることができた。
この経済活動の形態と、ヨーロッパの生みだした近代市民社会の原理は、相互補完的な関係を取り結んでいた。その結果、自由、平等、人権、民主主義といった近代社会の統治原理も、国境をこえて拡がっていった。マルクス主義でさえこの近代的統治原理を否定したわけではなく、この原理が、資本制社会のもとでは不十分にしか実現されないと批判したのであって、マルクスはその完全な実現をめざすなかに社会主義社会を構想していたのである。
筆者はこれらのなかに、普遍的なものとは場所的普遍性をもったものだと考える人間の精神をつくりだした基盤があったのではないかと考えている。人間が自然の力を生かして生産をする、自然を生かした生産にもとづいた社会をつくろうとするときには、近代的な場所的普遍性の論理は大きく制約されざるをえない。
① 生産の場所で自然の力を無視することができるようになったこと。
② そのために資本制生産様式は、国境をこえて、全世界に広まることができた。
この経済活動の形態と、ヨーロッパの生みだした近代市民社会の原理は、相互補完的な関係を取り結んでいた。その結果、自由、平等、人権、民主主義といった近代社会の統治原理も、国境をこえて拡がっていった。マルクス主義でさえこの近代的統治原理を否定したわけではなく、この原理が、資本制社会のもとでは不十分にしか実現されないと批判したのであって、マルクスはその完全な実現をめざすなかに社会主義社会を構想していたのである。
筆者はこれらのなかに、普遍的なものとは場所的普遍性をもったものだと考える人間の精神をつくりだした基盤があったのではないかと考えている。人間が自然の力を生かして生産をする、自然を生かした生産にもとづいた社会をつくろうとするときには、近代的な場所的普遍性の論理は大きく制約されざるをえない。
- 時間的普遍性の回復
これから私たちが重視しなければならないものは時間的普遍性の論理の回復なのではないか。
① 自然の力を生かして人間が生きようとすれば、私たちは自然と人間が共生する時間普遍的な関係はどうあるべきかを考えざるをえない。
② 労働のなかの時間的普遍性を、つまり時間的に普遍的な労働の質を取り戻していかなくてはならない。そして、労働の質のなかに自然との時間普遍的な関係が取り戻されるとともに、時代が変わっても変わらない価値を包み込むことのできるような社会原理が、つかみとられていかなければいけない。
① 自然の力を生かして人間が生きようとすれば、私たちは自然と人間が共生する時間普遍的な関係はどうあるべきかを考えざるをえない。
② 労働のなかの時間的普遍性を、つまり時間的に普遍的な労働の質を取り戻していかなくてはならない。そして、労働の質のなかに自然との時間普遍的な関係が取り戻されるとともに、時代が変わっても変わらない価値を包み込むことのできるような社会原理が、つかみとられていかなければいけない。
ぼくは、このような時間普遍的なものを取り戻そうという欲求は、おそらく無自覚のうちに、人間にはあるのだと思っています。つまり、いまの社会のように、場所的普遍性だけがあって、時間的なものはどんどん発展し、変化していくのが正常だとする社会では、私たちはつねに、変化を求める時間感覚に追いまくられていくことになってしまう。それを苦痛として感じている人たちはたくさんいる。おそらくその人たちを、精神的に救済しているのが宗教だろうという気がします。ですから今日の新興宗教ブームなどもでてくる。最近の新興宗教はオカルト的な色彩が強い、つまり、人間の霊魂や守護霊への信頼のようなものを強くもっているのですが、その信者たちは、新興宗教へ入ることによって、はじめて時間的に変わらないものへの信頼を自らのものにすることができたのではないでしょうか。つまり、時間的普遍性をはじめて回復することができるようになった。だから、ぼくは、こういう動きを批判する気持にはなれない。というより、ぼくは、時間的普遍性を人間の手に回復していけるような社会変革の思想が未成立であるという、私にとっての原点に戻って物事を考えていこう。
論点
- なぜ時間的「普遍性」という語句を使うのか?
→ 『共同体の基礎理論』において述べられるとおり、「精神の古層」を、共同体を成立させる概念として提起したいと考えているから。
- 「普遍」と「不変」を、内山は混同していないだろうか?
→ 時間的普遍性といったときに、不変を想定してしまうこと。
- 「場所的普遍性」と「時間的普遍性」はトレードオフの関係ではないはず。「場所的普遍性」と「時間的普遍性」を併せ持つような概念はあるのか?
→ 重要なのは、「場所的普遍性」があるのではなく、「場所的普遍性を帯びている愛や自由や人権という諸々の概念」があるということである。内山はあたかも「場所的普遍性」というひとつのものがあるような書き方をするが、重要なのは、諸々の概念のほうで、それらのどれが、ベン図の重なり合いに入りうるのか、あるいは入らないのかがわからないということである。
- 目的論的な「発展」と、非-目的論的な「発展」を分けなくてはならない。
科学は目的論的な発展であるだろうか? そうは言いがたい。個々人が「真理を目的として」作業を続けているのではなく、システムのほうが考えていくのだから。
科学と科学者をわけて考えなくてはならないということ。
科学と科学者をわけて考えなくてはならないということ。
- なぜ「質から量への転換」を内山は目指しているのか?
ファシズム批判のために。フロム『自由からの逃走』。
しかし、本当に内山の言う「貨幣価値にもとづく論理」によって、「不安な大衆」は生まれたのだろうか?
しかし、本当に内山の言う「貨幣価値にもとづく論理」によって、「不安な大衆」は生まれたのだろうか?