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人あれば餌あり

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【人あれば餌あり】

「人あれば餌(え)あり」という言葉がある。
人にはそれぞれ見合った餌の量がある、という意味らしい。
いくら腹が減ったからと言ってバケツに10杯の飯は喰えない。
人間が一度に食べられる食事の量は、どんな空腹のときでも、
平素の食事量と、大した差はない。
それだから、人間の社会生活は成り立っている。
月給20万円の人間は、天が月20万円の生活で足りるように、
その人間の方を作っているのである。自分が月40万円の生活に
ふさわしいように変わらなければ、収入がそれに見合って上がったりはしないものだ。
ところが、われわれのようなフリーの職業は、自分が変わらないうちに、
収入の方がボコボコ変わることがあるから困る。
特にマンガ家はこの収入の変動が著しい。
どうみても、せいぜい月に30万〜40万円の人間的価値しかない者が、
数百万円の収入を得たりする。こうなると、収入と人格のあいだで軋みが生じ、
結果、グズグズと人格の方が崩壊するのである。
hideやねこぢるがそうだったとは言わない。
しかし、ねこぢるの訃報を数人の同業者に伝えたとき、
皆が口々に言ったのが「仕事しすぎたんじゃないのかなあ」という言葉だった。
手塚・石ノ森クラスの売れっ子時代の忙しさを見れば、
ねこぢるの忙しさなんざ、と思うが、彼女にとっては、
マンガは余技くらいにして、インドあたりを放浪しているのが自分に似合っている、
と思っていたのでは、と想像できる。
バブル時期に自分の餌の適量を心得ないで、
オカシクなってしまった人物をいっぱいみている。
hideやねこぢるの死は悲劇だが、自分の餌の適量を越えた時点で、
今度のことのレールは既に敷かれていたのではないだろうか。
裏モノの神様』(幻冬舎文庫)P.122〜123

発端は、「人あれば餌あり」という言葉は本当にあるのかという疑問からだったんだけど、
そんな言葉は、辞書・辞典にも見つからなければ、ネットの検索でも引っかからない。

字面として近いのは、開高健『最後の晩餐』の「華夏、人あれば食あり」くらいか。

で、この唐沢俊一の独自ことわざであるらしい「人あれば餌あり」は、
かなりトンデモない内容で、唐沢の説明によると、
「人あれば餌あり」とは、「人にはそれぞれ見合った餌の量がある」という意味で、
そこから「人間的価値」や「人格」にふさわしい「月給」「収入」があるという話を展開する。

年功序列と能力評価による昇給のことならば、
「天が月20万円の生活で足りるように、その人間の方を作っているのである」と、
会社などではなくいきなり「天が」でてくるのがわけがわからないし、
「天が」介入しているというのならば、フリーの職業であっても、
「30万〜40万円の人間的価値しかない者が、
数百万円の収入を得たりする」ような事態が発生しないでもよさそうなものだが。

そもそも収入を、能力や成果ではなく、
人間的価値や人格にリンクさせようというのが無理がある。
マンガ家のような職業ならば、成果によって収入は大きく変動し、
それにともなう生活水準の変化に本人が適応するのが難しい
ということはあるかもしれない。

しかし、それを「30万〜40万円の人間的価値しかない者が、数百万円の収入」とか
「収入と人格のあいだで軋みが生じ、結果、グズグズと人格の方が崩壊」と表現し、
故人である「hideやねこぢる」を貶めるのは、あんまりだろう。

唐沢俊一の文章では、
いったんは「hideやねこぢるがそうだったとは言わない」と書いていたので安心していたら、
結局は「hideやねこぢるの死は悲劇だが、自分の餌の適量を越えた時点で、
今度のことのレールは既に敷かれていた」としてしまっている。
つまり、彼ら 2 人とも「自分の餌の適量を心得ないで、オカシクなってしまった人物」であり、
人間的価値や人格に見合わない高収入を得ていたのが悲劇の原因という結論なのだ。

(ちなみに、スレへの書き込みには
hide 関係のツッコミや唐沢俊一は音楽関係に弱いという指摘も多い。
これについては、別エントリを後日立てる方がよいかも)。

「人あればここに土(ど)あり、土あればここに財あり」 (大学) にしても、
「生物には餌あり」(講談・清水次郎長、落語・能狂言の他、落語家の円丈とか)にしても、
唐沢俊一の書いた「人あれば餌あり」とは違って、
他人のことを「人間的価値や人格に見合わない高収入」だの人格崩壊だのと、
僻み根性丸出しで攻撃するための言葉ではないことは確かなようだが。


最終更新:2017年05月20日 21:23