大江山に巨大な鉄の楼閣を築き、平安京を襲っていたとされる。三大妖怪の一つとして知られる。
酒呑童子、酒天童子とも書かれる。


【酒顛童子(しゅてんどうじ)】

強大な力を持つ鬼として知られる。一丈八尺あり、昼は人、夜は鬼の姿に変じたと言う。酒顛は酒呑、酒天とも記されるが、大酒を飲んだ後に眠りにつく癖のあったこと、童子は髷などを用いない子供の髪型をしていたことに由来する。

酒顛童子の出生地は現在の新潟県*1である。母親の胎内には十六ヶ月いたとされ、分娩時には髪も歯も生え揃っていたという。一説では、母親は酒顛を産む前に死んだとも言い、死んだ母親の胎内から自ら這い出して来たとも伝わる。
子供の頃は美しい人間で、比叡山で修行をする童子であったと言う。父母は幼い頃に亡くなっており、穀物を食べて育っていなかったことから鳥の血を隠れて啜るようになった。終には人間の生血を吸うようになり、鬼稚児として恐れられ、それを察知した伝教大師によって比叡山を追われた。数年間を兵庫県の書写山で過ごし、そこで人々を喰らい完全に鬼の姿と変貌した。その後は奈良県の高野山、葛城山、吉野山を襲ったが弘法大師に祓われるなどしていずれも失敗し、京都府の大江山に籠もったと伝えられる。

伝教大師、弘法大師と時代を共にしていることを考えると、酒顛童子の生まれは平安時代初期であったと考えられる。

平安京をしばしば襲い、やがて絶世の美女として知られる池田中納言の姫を攫わせた。源頼光と藤原保昌によって大江山は討伐され、酒顛童子は首を刎ねられた。

酒顛童子の飲食

父母を失った幼い酒顛童子は、その出生の異常さから厭われ、山に捨てられたという*2。そのため、山の清水や野生の果実などが主な飲食であった。乳幼児期から少年期にかけて穀物を口にした機会が一切無かったことが、童子として入山した比叡山での飲食習慣への違和感の原因であったと言える。
幼い頃に母を亡くしているが、その際に亡骸の乳を吸いつづけ、やがて滲み出た血までも吸っていた。これが酒顛童子が生血の味に覚醒した端緒とも語られている。そのため、比叡山でも酒顛童子は血を吸う際には相手の乳を咬み、そこから生血を啜り取っていたと語られる。

酒顛童子の前歴

山に捨てられた酒顛童子は、八歳の頃に新潟県の楞権寺(りょうごんじ)の者に拾われて文字を学んだという*3。しかし暴力を振るったことなどから、国上寺の童子に出された。その頃、酒顛童子の身長は八尺近くに成長していたという。国上寺でも暴力沙汰を起こして寺を追い出され、染谷山で再び山暮らしをしていた。その後、山中で旅の僧にその長身怪力を見出され、比叡山に入った。

酒顛童子の本性

酒顛童子は、鬼では無く山塞に籠もった武将あるいは山賊を現わしていると考える学説なども古くから数多く存在するが、酒顛童子の明確な出自が比叡山の人間であることはじめ、伝教大師や弘法大師との攻防や、完全なる鬼の姿になったと伝えられる書写山など、仏教に関する事項が非常に多く見られる点から、第三の密教勢力が信仰していた存在では無いかと考えられる。
奈良から敗走して京都へやって来た当初、酒顛童子は愛宕山に籠もる計画を立てていたようである。『前太平記』には愛宕山の大天狗(太郎坊)によってそれを阻まれたとあり、ここにも仏教的側面が見られる。源頼光が大江山討伐の際に山伏に変装したというのも無関係では無い。

鬼子

歯が生えた状態で生まれて来る乳児を俗に鬼子と呼んだ。これは酒顛童子の故事に由来しており、広く忌まれていた。

【鉄の楼閣】

大江山の千丈嶽に築かれていたとされる。日本最大級の鬼の城である。
唐風の壮大な楼閣である点からも、高度な知識を所持している鬼が酒顛童子の元に集まっていたと言える。

【神便鬼毒酒(しんべんきどくしゅ)】

源頼光が大江山討伐に向かう際に神々から授けれた神酒。人間が口にすれ腕力を増大させるが、鬼が飲めば五体の活動が封じるという。

【茨木童子(いばらきどうじ)】

酒顛童子の参謀としても知られる鬼。平安京の羅生門で人々を襲っていたが、渡辺綱によって片腕を切られた。

大江山に籠もった際、酒顛は茨木に命じて数百の手下を集めたとあり、この頃から酒顛童子に従っていたようである。

羅生門

羅生門の楼閣上には平安時代初期に唐から伝えられた兜跋毘沙門天が王城鎮護を願って祀られたという。

ラショウモンカズラ

野草のラショウモンカズラ(羅生門葛)は、淡紫色の花の形が鬼の手に見えるという点から「羅生門」と名付けられている。

最終更新:2021年05月04日 21:48

*1 『名勝案内記』には越後国蒲原郡砂子塚村とある

*2 『名勝案内記』には父によって山に捨てられたが、そのまま生き延びていたので再び拾い育て寺へ入れたとある

*3 『名勝案内記』には酒顛童子を拾い直した父が寺に入れたとある