日本人・日本人論・比較文化論に関するもの
とにかく、民主主義以上の制度がないなんていうのは大嘘だし、アメリカのように、民主主義というペニシリンを打てば、どんな病気も一発で治るなんて考えでいるから、かえってアレルギー反応を起こして病状を悪化させてしまうようなケースが後を絶たないのです。日本の民主主義だって、本当に成功しているのかといわれたら、疑わしいところがないわけじゃありません。民主主義には、半人前にも一人前の口を利く自由を認めてしまうという悪しき一面があります。
日本とアメリカの社会での人間と法令の関係の違いを刃物にたとえるならば、 アメリカにおける法令は「文化包丁」のようなものだと言えましょう。
日頃から研いで手入れをして、いざというときにすぐに取り出して使いこなすのです。
一方、日本は神棚の中に祭った「伝家の宝刀」のようなものです。同じ刃物でも
伝家の宝刀は物を切るためには使いません。神棚の中に存在していることに意味があるわけです。(中略)
法令に対する日本人の姿勢は、「何も考えないで、そのまま守る」というものです。
日本人は、漠然としたイメージだけで、「感性」という言葉を大事にしすぎているように思う。
何かわからないながらも、とにかく大事にしなくてはいけないと包みこんで棚にあげて祀って
しまい、結局、みんなその実体がわからないままになっている、そんな感じがある。(p29)
中国人は、伝統を伝統のままに生かすことはない。踏襲にすぎないと考えるからだ。
伝統をそのまま踏襲するだけでは、それはやがて死に絶えていくと考える。(中略)
日本人は取り入れる能力は高い。だが、伝統というのは手を加えてはいけないものだと考える。
創意工夫などするべきではないとする考えが強い。(p145)
日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から他国を領導することが問題になると思考停止に陥る。・・・そのようなことをしたら日本人はもう日本人ではなくなってしまうとでも言うかのように。(p89)
私たち日本人は学ぶことについて世界でもっとも効率のいい装置を開発した国民です。(p148)
「{私は本書の中でアメリカの政治、アメリカの文化、アメリカの社会構造を
辛辣に批判するけれども、それは「こんなことを言ってもアメリカ人は歯牙にもかけないだろう」
という「弱者ゆえの気楽さ」がどこかにあることで成立する種類の辛辣さである。<中略>
日本人はアメリカに対して実に多様な感情を抱くけれど、
決して日本人がアメリカ人に対して抱くことがないのが、
この「保護者の責務の感覚」である。(p28-29)
日本が欧米を説教したことは未だにありません。
帝国主義、共産主義、新自由主義、最近ではTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)など、
常に欧米の決定したドグマに乗るか乗らないかを選択するのみです。
自ら新らしいドグマを提出することも、提示されたドグマを粉砕することもしません。
謙虚の表われとも言えますが、日本人の価値観を高く掲げ、迫力を持って欧米を説得説教する、
ということを決してしようとしないのは、日本の宿痾とも言えます。(p225)
「世界」とは個々の対戦相手やその集合体ではなく、イメージであるようだ。
実体のない想像上の概念である「世界」は、つねに日本より上の存在として描かれる。
不思議な話だが、日本はここでいう「世界」の一部ではない。
地理的にいえば日本は世界の一部のはずなのに、イメージとしての「世界」は日本の外側にある。(p156)
少年時代に他者の不幸に悲しみを感じ涙を流すという経験をするのを排除して、「明るく、楽しく、強く」という価値観だけを押しつけると、その子の感性も感情生活も乾いたものになってしまうと、私は考えているからだ。そこで気づいたのは、日本の高度成長期以降の歴史は、大人の世界でも子どもの世界でも「明るく、楽しく、強く」「泣くな、頑張れ」ばかりが強調され、「悲しみ」あるいは「悲しみの涙」を排除し封印してきた歴史ではなかったか(p142-143)
「どんな生活ができるか」より「ここから何を始めようか」(p26)
「日本人は問題が起きると、じっくり検討しなければいけないと思い、とても長い時間考え続けるため、決断という最終目的にたどり着けないのです。(p60、イギリス人ジャーナリストのことば)
イギリスでは、もし誰かが死んでも、その人の通帳から葬儀代、税金などもろもろの支払いを済ませ、最後にプラスマイナス・ゼロになれば、それが幸せな人生の証だと言われる。(p217)
友人のさなえさんに言われました。日本人の会話にも言葉のキャッチボールは多いのだけど、あなたがそれに調子を合わせられないだけなのよ、と。要は、相手の波長に合わせて、相手の気持ちをすっかり受けとめればいいのだそうです。なぜ、会話はいつも新しい考え方を触発するようなものでなければいけないの、とさなえさんはため息をつきます。なぜいろいろな考え方にいちいち自分の立場を明らかにする必要があるの、と言うのです。(p57「日本人との対話」)
だが日本人は総じて、深く考え、真剣に心を込めて話そうとする。
だからできない。
だいたい、ホスピタリティーなどというものは、心を入れないでやるもので、だから何度でも平気で頭を下げられるのである。(p158「軽みの文化」)
日本では、一緒に遊ぶとき、混ぜてくれって言いますよね。
混ぜるという動詞は、英語ではミックスです。
これは、もともと液体を一緒にするときの言葉です。
外国、特に欧米では、人間は、仲間に入れてほしいとき、ジョインするんです。
混ざるのではなくて、つながるだけ・・・・・・。
つまり、日本は、液体の社会で、欧米は固体の社会なんですよ。
日本人って、個人がリキッドなのです。
流動的で、渾然一体になりたいという欲求が社会本能的に持っている。
欧米では、個人はソリッドだから、けっして混ざりません。
どんなに集まっても、必ずパーツとして独立している・・・・・・。
ちょうど、土壁の日本建築と、煉瓦の西洋建築のようです。(p430)
断食して祈れ。そうすればきっとよくないことが起こる。(レバノン)(p27)
もしも本当に敵を悩ませたいと思うなら、何も言わずに彼を一人にしておけ。(アラブ)(p44)
死ぬ予感は、死そのものより悪い。(アラブ)(p49)
水を節約するようにと言われた途端に、誰もが水を飲み始める。(アラブ)(p80)
すべてことが終わった時に後悔するのは、死ぬより悪い。(アラブ)(p186)
日本人は信じるという言葉を、無考えに美徳として使っていると私はかねがね思っている。信じるということは、疑うという操作を経た後の結果であるべきだ。疑いもせずに信じるということは、厳密に言うと行為として成り立たないし、手順を省いたという点で非難されるべきである。(p92)
日本人は自由を叫び選択を当然のこととするが、彼らは選択こそ難しいことを知っているのである。(p123)
日本人は、社会的価値が上昇するに従い、言葉遣いを次第にぞんざいなものに変えていくという習慣を持っている。(p324)
ヨーロッパ的なディベート文化というか、対立をいとわない文化の根には
「真理は必ず普遍化する」「正しい主張はいつかは必ず全員に受けいれられる」
という抜きがたい真理信仰があると思うんです。(p45)
なんでもいやなことをじっと耐え忍ぶ。
家庭で親の説教を聞く時も、学校で授業を受けている時も、
子どもってずっとそう教えられるでしょう。
「黙ってうつむいて、嵐が過ぎるのを待つ」という危機処理の仕方を
子どもの時から組織的に刷り込んでいる。
コミュニケーション不全は現代日本の風土病ですよ。(p68 )
「対話的な精神」とは、異なる価値観を持った人と出会うことで、
自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度のことである。
あるいは、できることなら、異なる価値観を持った人と出会って議論を重ねたことで、
自分の考えが変わっていくことに喜びさえも見い出す態度だと言ってもいい。<中略>
とことん話しあい、二人で結論を出すことが、何よりも重要なプロセスなのだ。(p103-104)
日本語には対等な関係で褒める語彙が極端に少ない。
上に向かって尊敬の念を示すか、下に向かって褒めてつかわすような言葉は豊富にあっても
対等な関係の褒め言葉があまり見つからないのだ。<中略>
だが、ここに一つだけ、現代日本語にも、非常に汎用性の高い褒め言葉がある。
「かわいい」<中略>
「対等な関係における褒め言葉」という日本語の欠落を「かわいい」は、一手に引き受けて補っているといってもいい。(p116)
最終更新:2013年12月28日 17:07