各文 | 解釈 |
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この世は人々の内に秘められし 無数の渇望と数多の界によって成り立つ。 |
人間が生きる世界とその他神の世界などを指すと解釈されている。「人々の内に秘められし」の部分の解釈は法学者によって異なり、ルドラス派の聖列信仰に基づく元としてこの項目を否定する者も居れば、多神教の地域性や主観性を個々人にまで演繹したものとして理論的な表現が素朴な言辞によって表されているだけとして肯定する者も居る。 |
渇望とは、すべての世に照らされし 人々の夢の光なり。 |
世界の合目的性を指す表現であると理解されているが、法学者によっては解釈が異なる。個々人の渇望が人間である個人に対して聖化されることによって、信仰の対象になっている(*1)ルドラス派に対して、ブルシェク派は聖化の対象化が神話的存在になっているのであり、世界観の構造は単純に同じであると考える者も居る。 |
夢の光は、創造主の試練によりて 約束された命の川の楽園なり。 |
「夢の光」をナーシャクによる安定した社会と生活を指すと考える事が多い。詳しくは下行の解釈を参照のこと。 |
命の川とは、人々のたゆまぬ祈りによりて 築かれし奇跡の道筋なり。 |
神話のことであると考えることが多い。歴史的な祈りの蓄積によって、紡がれてきた歴史が「奇跡」と表現されているのであるが、ナーシャクの根本の都合上ではこれを肯定的には捉えず、あくまで中立的な観点から捉えているのが特徴である。その末に夢の光があると上行で書かれていることが確認されるが、この解釈だとナーシャクによる安定した今の社会と生活を指すと見ることが多い。 |
すべての聖人は古き人々の渇望によりて顕現せり。 我らの神なり。 |
聖人信仰を示す行であるため、行を丸ごと否定的に捉える法学者が多い。肯定的に考えるのは神の存在が肯定される点くらいだが、そんなことは宗教一般的に肯定されることなので、前述の通り意味のある行と捉えられないようだ。 |
古き世の神々は古き人々に試練を与えたり。 一人の男が渇望し、創造主となりぬ。 |
創造主の議論であり、ブルシェク派の教義上ではアルヴェファーンを指す記述として解釈される。イ・ボラの神話に基づき、古き世の神々が与えた試練は「モネアスの轟き」のことであると解釈され、こうして解釈するとブルシェク派のアヴァクシャンとプラヴァクシャンの対立――つまり、ナリヴェトヴェを維持するための対立の始まりを示した記述と読み取れる。 |
創造とは、この世のすべてを震わせる 渇望の源にして、全ての始まりなり。 |
上行の解釈より、モネアスの轟きを「創造」と呼び習わすものであると解釈される。これにより、ブルシェク派はルドラス派の歴史観が偏狭であるとする批判材料として挙げられている。 |
主の咆哮は更なる光を生み出し、 その光もまた命の川を創造せり。 |
上行の解釈を総合して解釈すると「モネアスの轟の後、アルヴェファーンによる秩序の中でナーシャクが生み出され、ナーシャクがまた安定した社会と生活を生み出す」と読める。 |
夢の力は川の恵みをもたらし、 人々に命の実りをもたらすべし。 |
神話的異術や呪術の話題であると解釈される。儀式などを通して、「命の川」つまりブルシェク派としての解釈での神話からのナーシャクに現実性を与えるということの大切さを説いていると解釈する。 |
魔の試練を恐るることなかれ。 それはこの世を照らす大いなる渇望の源なり。 |
アヴァクシャンとプラヴァクシャンの対立によって起こるモネアスの轟きのような人類界への影響を示す。それがその先に示す渇望――世界の合目的性を引き起こし、ナリヴェトヴェに至るということが一括した世界観の包括的な説明になるのであり、この一文にこそ前行で述べた世界のシステムの全体観を示すものであると解釈するのである。 |
各文 | 解釈 |
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新たなる命は男女の営みによりて生まる。 この世を繋ぐ神聖なる儀式なり。 |
男女の交わりを肯定的に捉えるということであると解釈しているとされる。コミュニティの維持のためには連綿に世代が続いていくという基盤が必要であり、先に述べた世界観と並立する人間観の基礎であると捉える。 |
死せる命を糧とし、新たなる命が芽吹く。 この一組の流れを命の川といふ。 |
「命の川」は世界観にも登場する語であるが、先の解釈をここで適用すると解釈が通らない。人間社会の営みが生死を境に循環することによって先の解釈での「神話」の前提条件となっていると捉えると、第一行を含めこれらの記述は世界観と素朴な人間観の橋渡し的な記述ではないかという考え方もあるが、この記述の解釈は結局は法学者によって解釈が大きく異なっている。 |
不必要なる殺生を行ふことなかれ。 その行ひは命の川を損なふゆえなり。 |
先の解釈を元に、生死の循環を以て社会のホメオスタシスが行われていると考えた場合、その自然の摂理を超えての殺害は恒常性のバランスに影響を与えると考える。 |
殺すよりも生かすことを考へよ。全てを成し遂げし時、 原初の主は列聖の一柱たる神としての地位を与え給ふ。 |
列聖に関する明確な記述があるため、解釈が大きく分かれる。原初の主が神としての地位を認めて、神となりうるというのはブルシェク派でも共通するが、ブルシェク派ではそれ自体が神化したり、上位神の子として生まれることによって神が発生することもあるため、この点でも差異がある。「殺さず、生かせ」という記述は先の一文と関係があるが、殖やせとは述べてないことから、正の方向でのバランスの破壊を意味するのではないと解釈する。 |
死せる者を許せ。その者は新たなる命の糧となるゆえなり。 | 生死を境とする現世の社会の運行において、悪徳の概念を絡めたものであると解釈する。罪は現世におけるものであり、死にゆくものは罪を異界に持ちゆくことはない。故に悪徳は現世に打ち捨てられてしまうのである。これゆえに現世における賞罰の必然性が導かれるのであり、また、ブルシェク派としての死生観における「死者の清浄」としてルドラス派と同じセトルラームとしての観点を共有するものである。 |
生活観 | |
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各文 | 解釈 |
早く起き、早く寝て、規則正しく過ごせ。 その者は壮健なる肉体を得るべし。 |
前述の人間社会の運行に影響を期す行動は教徒としては避けられる。このために宗教は健康的な生活の規範を示すべきであるとの考え方がブルシェク派にあり、基本的な理念としては賛同されている。 |
正しき食事を続けよ。 その者は良き費やす者となり、健勝にあり続けん。 |
規則正しい食事の観念は先に述べた通り、ブルシェク派では宗教家が規範を示すものである。また、食は経済や環境に影響するため、人間生活の運行の総合的な観念で影響を受ける。 |
日々入浴し、歯を磨き、他者への礼に努めよ。 その姿、その振る舞ひ、その匂ひは、その者の本質を表すなり。 |
健康的な生活の規範は宗教家が示すものであり、その中でも最も重要なのは立ち居振る舞いの清貧さである。善悪のバランスを取ることによって、この世界が成り立つと考えるブルシェク派はその清貧さの中にもバランスがあると考え、それは生活の中の衛生観念のような日常のルーティーンにも重視されるものがあると考える。このため、この文にも特に批判があることはない。 |
日々自らを鍛へ、自らを識れ。 さすれば列聖の恩寵を得られん。 |
「自らを識る」ということは、ブルシェク派のナーシャクの考え方に近いものがある。真に世界の姿を理解することができれば、生のあるうちに如何に生きるべきかを識ることが出来る。それは、その人間が死んだり、神性のある者に連れ去られて異界へと向かったときに意味を成すと考える。このため、ブルシェク派はこの一文を宗教的研鑽と捉えることが多い。 |
日光を浴びよ。 その者の肉体は強靭となり、世に活力を与ふべし。 |
「日光を浴びよ」を秩序的生活の転呼と捉える。これはアルヴェファーンが世界の創造の後に秩序を与えたとすることから、規則正しい天体の運動からこれを例えたものである。規則正しい生活はアルヴェファーンの与えた世界法則に従って、暮らすこととなり、それ自体が徳となると考える。 |
日々学べ。その者の知識はやがて叡智となり、 創造の糧となるべし。 |
宗教的研鑽が生きるべき規範を示すということは先に述べたとおりであり、基本的にはそれと同じ解釈をする。しかし、末尾の「創造の糧となるべし」に関しては法学者によって解釈が異なる。保守層では世界の正しい見方を創造的に見出すための糧として、有効な知識を指すものとして解釈する。しかし、「回帰への春」世代の宗教家たちは、世界の正しい見方が一辺倒化している保守層の考え方はナーシャクや相互星辰のバランスを重視した信仰から逸脱しており、真のナーシャクは個々人に実現するそれぞれの世界の仕組みの理解にあると考える。 |
労働観 | |
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各文 | 解釈 |
行き過ぎたる労苦は命の川を損なふ。 搾取もまた同じなり。 |
神話の前提条件を規定する生死観における「命の川」を毀損することは「死者の清浄」に基づく罪として見ることが出来る。それはナーシャクによって世界の真の姿を知り、受け入れ、自らのふさわしい生き方を識ることを妨げるからである。このため、過重労働や搾取を咎めるこの文は肯定的に捉えられる。第一行及び第二行における記述は、基本的にはブルシェク派からは同様の意味として捉えられるが、後者に「命の川」の言及が無いことに関しては法学者ごとに解釈の大きな乖離がある。「回帰への春」世代の宗教家達は、文の自主性に基づいて「自ら英雄になること」つまり「自殺的に利益を得るような行為」を咎めることが第二行の主要な意義であると解釈し、同様の意味として解釈することをしない。 |
養生なき労働は奪ふことに等しく、 自制されるべき行ひなり。 |
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強欲は可能性を奪ふことに等しく、 力を損なふ大罪なり。 |
下記にも出現するとおり、「死者の清浄」に基づく賞罰の条件において、労働によって生産されたものを過剰に消費するとき、それは現世から異界への道を見出すためのナーシャクにふさわしくなく、バランス性に欠けるということになる。ブルシェク派はこの一文をバランスの欠如を咎めるものとして解釈する。 |
働きに対しては十分なる褒美を与へよ。 その者は救はるべし。 |
「死者の清浄」に基づく賞罰の条件は、それだけでは作動せず、「根源」を要する。人間の労働は、人間が現世において賞罰を受ける根源となるものであり、ブルシェク派ではこの意味で人間が生きる意義としての労働生産に重きを置く。世界の仕組みとして、個々が賞罰を受けるのは死ぬまでの間である。その生に意味を持ち、異界へ行った後に意義のあるようにするためには、この「労働」がどのようなものであるかに重要な視点が向けられるのである。故にこれら文はその文脈で捉えられる。労働に対する報酬が重要視されるのも、人間社会を秩序だって構成するための要素であり、全ては有機的に繋がっていると考えられている。 |
生み出されたる創造物は費やされん。 費やされたる創造物はその者にとっての褒美となるべし。 |
社会観 | |
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各文 | 解釈 |
働く者を讃へよ。 その者は数多の命を救ひ、生み出すべし。 |
前述の通り、ブルシェク派において労働は重要な観念の一つである。そして、それは各人の現世での生から異界へと向う魂の道筋にて利益をもたらす。しかし、それだけではない。人間社会の運行において有意義な労働によって生み出されたものは、また別の個に有益な影響をもたらすことになる。ブルシェク派ではこのような「徳」概念を説いているものであると解釈することが多い。 |
費やす者を讃へよ。 その者は更なる褒美を与ふべし。 |
労働によって生産されたものを有意義に消費する者もまた「徳」の保持者である。このような「徳」の経済とも言える関係性によって、人間社会の運行がより有意義になり、これまで述べてきた世界のシステムが円滑に回るようになると考える。しかし、「回帰への春」世代の法学者はこのような経済性を述べているのではなく、「消費もまた労働の一種である」として保守層よりも広い意味で「労働」の意義を捉えてこの文を解釈している。 |
公は一切の区別なく、全ての者に還せ。 それが世の発展に繋がるなり。 |
世界の法則は、その人間の貴賤を問わずに適用されてしまう。ブルシェク派は、そのような現実から秩序を守り、より良く生きるための考えなのである。これを破り、教徒として同じ生を生きる者を理由なく排したりすることは「徳」の無い行為であり、更にブルシェク派における経済論としては将来的な消費者を失うことによって、自ら秩序だった環境の利益を減じていると考えるべき行為なのである。このため、ブルシェク派の多くの宗教家はこの文を「教徒としての社会への心構え」として捉えている。 |
創造し、費やし、還せ。 さすれば救はれ、新たなる生命が芽吹くべし。 |
労働観に通ずるものであり、その総合的な説明をしていると考えられている。しかし、「回帰への春」世代の宗教家は、保守層の古典的な経済論を嫌うために現世から異界へと向う魂の道筋であるとは考えず、現世の人間社会の運行の説明であると考えている。 |
弱き者を許せ。 その者は費やす者となり、新たなる活力の源となるべし。 |
前述の通り、社会を構成する生する者の一部を排する行為自体が、神話的な世界の構造を理解せず行う不経済な行動であると考える。第三行と同じように、ブルシェク派においても弱者に厳しいということは、徳のない行動なのである。 |
*1 cf. 五原則1-5