『OP(再 構 成)』
(キャラ)松坂さとう、伊地知虹夏、神戸しお
──ザーッ……
──ザーッ……
……天気なんて、どうでもよかった。
晴れでも、雨でも、世界が終わりそうな台風の日でも。
今みたいに、この薄汚い世界がどれだけ濁って、泥水を撒き散らしていても。
──あの子がそこにいるなら、そこだけはいつだって、甘くて、美しくて、私の全部を満たしてくれるから。
「はっ……はぁ、っ……しおちゃん……!」
壊れたおもちゃが立てるノイズみたいに、不快な雨音まみれの街。
湿ったコンクリートのひどく冷たい匂い。
私は、知らない街の、どこにでもある薄汚い団地──その『333号室』目掛けて、廊下を駆ける。
……目に入るもの、全部が不快。でも、そんなの眉をひそめる価値すらなくて。
喉を焼く吐息も、体の疲れも、どうでもいい。
雨でグショグショになった靴の気持ち悪さも、どうでもいい。
肌にべったり張り付く制服も、冷たい髪も、あとでいくらでも乾かせばいい。
こんな、檻みたいな建物だって、私の中からこみ上げる『甘さ』への渇望の前には、なんのマイナスにもなりはしない。
……だって、そんなの。
帰ってしおちゃんと一緒にお風呂入れば、ぜんぶ綺麗に溶けちゃうんだし。
「待っててねぇ……しおちゃん……っ♡」
胸の奥が、きゅうって切なく甘くなる。
さっきまで握っていた、あの小さくて、やわらかい手。
私が『……ついた場所、LINEですぐに知らせてね?』って言った時の、“うんっ”って声。
不安そうに揺れてたいた、大きな瞳。
……あぁ、かわいい。かわいすぎる。
食べちゃいたいくらいかわいい……。
でも、食べたらなくなっちゃうから、私はずっと舐めるみたいに愛していたい……。
「……ふふっ!」
──ガチャッ
「しおちゃんっ!! ただいまぁ!! 遅くなってごめんねぇ~~!!」
「あ、さとちゃん~~!!」
……あぁ。
やっぱり、この子だけ。この子だけが私の特別。
この世界がどれだけ苦くて、どれだけ忌ま忌ましいルールに縛られていようと、そんなの関係ない。
──しおちゃんは、私がずっと舌の上で、
──大切に、大切に転がしていたい、
──世界に一つだけの『飴玉』だった……────。
「しおちゃんよかったぁ……っ。ほんと心配したんだから──」
「わたしもね! さとちゃん待ってたの! あのね、さとちゃんにずっと紹介したかったんだよ~!」
「え、紹介? フフ♪ なにをかなぁ?」
「うん! きっとさとちゃんも好きになってくれるよ! 紹介するね!!──」
「──『にっじー』! わたしの、あたらしいお友達!!」
「…………ん? 『にっじー』……?」
ちっちゃな、愛らしい指先。
家具も何もない、がらんどうな室内を突き刺す、その光の先を見た瞬間、
──ガタンって。
指から、カバンが転げ落ちた。
「あ、どうも~! お邪魔しちゃって……! 松坂さとうさん、ですよね? この子の面倒……ちょっと見てました!」
「にっじーはさ! とっても優しいんだよ! お菓子もくれたし、いっぱいお話してくれたの!」
「いやいや~、しおちゃんが可愛いからついね~! えへへっ!──」
……あぁ。
そっか。そっか。
「──私、伊地知虹夏っていいます! えーと、ひとまずは……よろしくね、さとうさん!」
「………………」
甘いものってさ、放っておくとすぐ溶ける。
で、気付いた頃には、決まって汚い虫が群がってるんだよね。
何歳になっても、見つけたら指で潰さずにはいられない、────哀れなアリンコ。
◆
◤ 𝗦𝗛𝗜𝗡・𝗕𝗔𝗧𝗧𝗟𝗘 𝗥𝗢𝗬𝗔𝗟𝗘 ◢
╔═════════════════════════════════════╗
— 𝗢𝗣𝗘𝗡𝗜𝗡𝗚 —
『 𝑾𝒉𝒂𝒕 𝑰𝒕 𝑴𝒆𝒂𝒏𝒔 𝒕𝒐 𝑩𝒆 𝑯𝒖𝒎𝒂𝒏 𝒕𝒐 “Satou Matsuzaka” 』
╚═════════════════════════════════════╝
◆
………
……
…
──ぽつ、
──ぽつ、ぽつ。
雨って、ほんとに我がままだよね。
勝手に泣いたり、急に怒ったり、何事もなかったみたいに静かになったり。情緒不安定すぎ。
薄暗い台所、古い換気扇の音、湿ってふやけた壁紙。
私はそこで、やかんから立ち上る蒸気をぼうっと見つめていた。
コンロの脇には、この部屋で比較的マシだったマグカップが二つ。
唯一、茶ばんで汚れていなかったこの器は、もうすぐ、どす黒い液体に満たされる。
コーヒーなんて、私にとっては一度も美味しいと思ったことのない、ただの苦汁を。
一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、
一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴、一滴。
「へ〜! わたしも書いてみたいな、しゃくようしょ!」
「ふぇっ!? だ、ダメダメダメっ!? あれはリョウ専用っていうか、書いたら人生終わるやつだからぁ……! ほらしおちゃん、お絵描きしよ、お絵描き!」
「うん! にっじ~~!」
──一滴。
──あの金髪の、女の、為だけ、に。
──こんな冷たい場所で、無言で火を眺め続ける。
「にっじー、なんか面白い遊びしよ! こわい遊びとか!」
「怖い遊び!? うわっ難題きたなぁ~~……!」
「………………」
“外が危険だから、しおちゃんの不安を必死に紛らわせたい”──とか、かな。
……あぁ、なるほど。『優しいお姉さん』。
背中越しに響く、リビングからの笑い声。
しおちゃんの声。……私の知らない声。
私といる時とも違う。あの時とも違う。
もっと、境界線がなくて。もっと、無防備で、もっと──楽しそうで。
金髪の女の隣で、嬉しそうにクレヨンを動かして。
知らない女の、安っぽい相槌に、また無邪気に笑って。
そのぜんぶが、私の大切な、綺麗で静かな世界を、泥だらけの靴で踏みにじって歩き回っているみたいで。
楽しげで、鋭い棘が背中に刺さるたび、頭の芯がグラって揺れる。
スプーンを持つ手元が狂って、インスタントコーヒーの黒い粉が、カップにぼたぼたと落ちすぎる。
……失敗した、
……苦しい、
……失敗した、苦しい、失敗した、苦い、失敗した、苦い、
「う~~ん……怖い遊び、怖い遊びねぇ~~……。よしっ! 『ひとりこっくりさん』とかどう?」
「おお~~~っ!」
──苦い。
その金髪、どこの誰が触ったかもわからない十円玉なんか取り出して。
明らかにしおちゃんの情操教育に悪いゲームを始めて、
──ぁぁぁ苦い。
「こっくりさん、こっくりさんっ! 良い子にしてたら甘いものをもらえる子は~~」
「おおおお~!!」
「だ~~れだ、っと!!」
──ピトッっていう、苦い音。
何百人もの強欲な指を渡り歩いてきた、菌の温床の硬貨が、しおちゃんの綺麗な、真っ白なおでこにくっつけられる音がして。
──あとで何千回、何万回、皮膚が赤くなるまでウェットティッシュで拭いてあげなきゃいけないかを考えたら、狂いそうなくらい苦い。
「おお~~っ! しおちゃんよかったね~~!! では稲荷の神様から、特別にご褒美を授けよう~~!!」
「わーいわーい!!」
──ただ聞いてるだけなのに、ずっと、ずっと苦い。
どこの安売りの店で買ったかもわからない、着色料の塊みたいな金平糖なんかを出して、野良犬に餌でもやるみたいにしおちゃんへ差し出して。
それなのに、しおちゃんは、なんの警戒もなくそのゴミを小さな口に含んで、
──苦い、苦い苦いッ。
「あ! にっじー、この曲いいね! アプリかな……?」
「そりゃアプリ! あと曲名より先に音楽アプリ情報!! ……ごめんね〜、これまだ配信とかの音源じゃないんだけどさ。でも、どうだった?」
「すごくよかったよ! ひゃくてん〜!!」
「わ、それは痛み入ります~~。喜んでもらえてよかった!」
………………ねえ、しおちゃんもさ、……違うでしょ?
なにが百点なの?
私、何回も失敗して、半熟のトロトロ、いっぱい練習して。
ケチャップの文字だって、崩れないように頑張って、朝ごはんにオムライス作ったことあるのに。
なのに、しおちゃんは“おいしい”だけで、採点する必要ないみたいな感じだったよね。
で、なんで?
なんで、たかが素人の鳴らした雑音なんか聴いて、そんな顔をしてるの?
ねえ、その、素性の知れない金髪の。
「にっじーも、そのおうた歌ってみてよ!」
「うぇっ?! ……えっと……ヒーツクパーツク、ツカツクパーツク♪」
「わ! ドラムのおと~~! すごい〜!」
「あははっ、うちのバンドの歌は喜多ちゃんっていう子がすっごく上手だからさ〜! 私はドラム! ほら、こうやってスティックを持って、体全体でリズムを叩くの!」
「うん!!」
…………だからしおちゃん、違うって言ってるよね?
パンパカパンパカ、トントントン、って……ねえ、何を嬉しそうに体を揺らして聴いてるの?
私はずっと、そういうのから遠ざけてきたよね。
前にもちゃんと教えたよね?
バンドマンがよく吸う『悪いおクスリ』って、とっても苦い味がするんだよって。
「ばんどって、楽しいんだね! ……お外に出るのはダメだけど、今度にっじーの演奏ききに行くね! さとちゃんと一緒に!!」
「お! いいねいいね~~、歓迎するよっ! ……あ、でもうちのベースのリョウって人からだけは、絶対にチケット買っちゃダメだよ!? 絶対ね!?」
「うん! わかった!──」
「──にっじー、さとちゃんくらいだいすき!!」
「あははは~~~! 短い時間ですっごい懐かれちゃったな~~もう~~~!」
……でさ、
『にっじー』って、なに。
“だいすき”って、なに…………?
「……………………」
コーヒーなんて、泥水を煮詰めただけの薄汚い麦茶。絶対に、一滴たりとも口にしたくない。
こんな石油を薄めてできたような漆黒の闇を、味覚の知識として私の脳内に入れたくない。汚らわしい。
「……」
ポチャン、
あぁ、足りない。
ぜんぜん、足りない。
「…………」
ポチャン、ポチャン、ポチャン、ポチャン。
何個、何十個角砂糖を入れても、この底なしのコーヒーには決定的に足りない。
「…………………………」
ガラスの瓶が空っぽになって、カップの縁からドロドロの塊が溢れ出しそうになっても、まだ足りない。
足りない、足りない、足りない、足りない。
ポチャン、ポチャン、ポチャン、ポチャン、
ポチャン、ポチャン、ポチャン、ポチャン、ポチャン、ポチャン、ポチャン、ポチャン
苦い、
ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、
ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、
ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、ニガイ、
「でさ~にっじー! 絵かけたから、みてみて~~!」
「んー? どれどれ~~?」
ィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ
────ガシャンッ
「え?」
「……さ、さとうさん?! え、大丈夫っ!!?」
「…………」
──あの金髪に肩を触れられる感触で、私はカップが砕け散ったことを認識した。
床へ散る破片、木目に染みこむ黒くて甘ったるい水たまり。その中で茶色くふやけた、無惨な角砂糖の死骸。
トコトコ近づいてくるしおちゃんと、ぜんぶ台無しの色。
「……はは」
……なにやってるんだろ、私。
「あ~~! さとちゃんジュースこぼれてる~~! ねぇにっじー、どうしよう……?」
「あ、えっとぉ~……さとうさん、ケガしてない!? 火傷とか! ……うん、わかるよ。不安だよね~やっぱり──」
「ううん、大丈夫。なんでもないの、ごめんね。──」
「──……ところで、虹夏さんさ。ちょっと耳、貸してくれる?」
「え?」
──カサリ、と。
彼女の耳元に口を寄せて、私は声を優しく、優しく、這わせる。
「……しおちゃんのことで。ちょっと、本人の前じゃ言えない『相談』があるの」
「え……?」
「少しだけ、向こうで。……いいかな?」
「……しおちゃんの相談? ……あ。う、うん、……分かったよ」
「うん、ありがと!──」
「──じゃ、しおちゃん、ちょっ~っとオハナシしてるから……いい子にして待っててね!」
「オハナシ? うん、わかった! ゆっくりしてってね、にっじー! さとちゃん!」
「………………」
床に広がった下水の掃除すら放棄して、私はそのまま、金髪の手首を掴み、リビングの外へと連れだした。
……向かう先? まぁ、『お風呂場』とか。
“ちょっと本人の前じゃ言えない『相談』”
──うん、嘘は言っていない。
………
……
…
◆
『体の傷はいつでも治るけど、心の傷はいつまでも残る』……よく聞くよね、そういうの。
ならさ、私はこれまで何人くらい、そういう『言葉の暴力』で殺してきたかなぁ、ってふと思う。
性観念の終わってる店長、気持ち悪いゲス教師、お城に近づこうとした薄汚い連中。
みんなみんな、グッサグサにしちゃったからさ、“……まぁ、ちょっとは可哀想なことしちゃったかな?”くらいは思うよ。
でもね、よくよく考えてみたらさ、私、そんな汚いのを誰一人として本当に『殺した』ことはないんだよね。
だって面倒だし。リスキーだし。汚れるし。
そもそも頭の中で何回も何回も解体して、それでだいたい満足できちゃうから。
だから、遺体って形になったのは、あの画家のお兄さん。……私の生涯において、たったその人だけになる。
……思っちゃうな。
「────って、わけ。……相談の内容は以上、理解できたかな? 虹夏さん」
「ぁ……はっ……ぁ…………っ、げほっ……! ゲッ……ほ……っ……」
──血溜まりの上で、小さく呼吸をしている金髪女。
……コイツはいま、何を考えてるんだろうな、って。
「…………ねぇ、理解できたかなぁって、聞いてるの」
「……っぅ…………! ……は、ぁ……、ぁ…………」
スラッパーってすごいね。
……一振りでだいぶ体力持っていかれちゃうから、あまり好きじゃないかも。
「ふふ、分かるよ? 私だって別にサイコパスとかじゃないからさ。虹夏さんの気持ち、すっごい分かる。──」
「──“なんでいきなり殴ってきたんだろ、このイカレ女。私はただ親切にしてあげただけなのに”……いま、頭の中でそう思ってるんでしょ?」
「……っ、ぁ……ぅ…………」
「でもさぁ、料理屋さんってネズミホイホイ置くよね? ネズミって結構かわいいっていうか、フワフワはしてるし小さいじゃん?──」
「──でも、みんな普通に駆除する。潰す。ゴミ扱いする」
「……、ぅ……あ、が……」
「……ねぇ、しおちゃんと何回笑った? 何回お話した? しおちゃん、優しいから勘違いしちゃった? ……で、楽しかったかな?──」
ぽちゃん、ぽちゃん──。……水滴の音か、外の雨の音かは、どうでもいいや。
……薄い。本当に、薄いよね。
殺したい理由としては。
「──……よかったね。ねえ、虹夏ちゃあん?」
「………………」
でもさ、しょうがないよね。
──口内に残り続ける毒々しさに、これ以上一秒たりとも耐えきれる気がしないから。
口がドロリとしたらうがいしたくなる。……それが人間だもん。
ふと鏡を見たら、赤い飛沫でベタベタ。
息も荒くてさ、髪が赤くぐっしょり濡れて、瞼をピクピクさせる──鏡の中の私と、足元のこの女。
今さらこんなのと目を合わせる意味なんてない。そう思って目をそらしたのに、視界の隅でぐちゃぐちゃの髪だけが残るからさ、……あー、もう流れちゃえって感じ。
洗って、甘いシャンプーで上書きして、泡ごと苦いものぜんぶ流して。真っ白な服を着て、いつもの私に戻る。
それだけ。
ただ、空白を水に流して白く戻すだけ。
「じゃ、私はそろそろ行くね。ありがとう、私のためにたくさん疲れさせてくれて」
「……ざ……っ、……とう……さっ……げほっ……! ……っ…………」
「うん。どういたしまして。……しおちゃん、心配してなきゃいいな~~」
「………………っ、……っ!」
甘くて、やさしくて、世界の誰にも、どんな虫にも汚されちゃいけない、私だけの帰るべき場所。
ただひたすらに、そこだけを目指して生きていくこと。
それだけが、私としおちゃんの、永遠の『ハッピーシュガーライフ』なんだから──。
「さとう……さっ、さと…………」
「フフ♪ しおちゃん~~しおちゃん~~♪」
「…………はぁ、ぁぁ……、…っッ!!!──」
「──さとう……さんっ! 大丈夫……だからっ…………!!」
──、
──、─────、
──。
それだけが、絶対のハッピーシュガーライフなはずなのに。
ぐらって、視界と世界が大きく揺れた。
温かい、気持ち悪い、理解できない。
誰かに強く抱きしめられているんだって理解するまでに、私の脳は少しだけ時間がかかった。
…………伊地知虹夏。
「え」
私の目を真っ直ぐに見つめていて、
顔なんかもう滅茶苦茶で、呼吸も止まりそうで、目だってまともに開いていないのに。
それなのに、私を包み込むその体温だけは、振り払いたかったのに振り払えなくて。
……彼女は。
「……だぃ、じょ……ぶ…………だから……っ」
「…………え」
「うっ……ぅ……っ……大丈夫……。だから、そんな顔……しないで……。──」
「──私は…………何とも思ってない、から…………、」
「え」
「──……だから……ちゃんと、笑って……あげて…………、──」
「──……しおちゃんに、ただいま、って…………。──」
「──……さとう、……さ…………………ん……」
──そう、言ったのを最期に。
虹夏……さんは、私の身体をすり抜けるみたいに、その場へ崩れ落ちた。
理解できなかった。
いや、違う。理解したくなかった。
……だって、おかしいじゃん。
私は殴った側で、この人は殴られた側なのに。
なんで最後まで、私のことなんか心配してるの。
「…………」
何か言わなきゃいけない気がした。
なのに、喉の奥に絡みついた何かが邪魔をして。
「……え」
小さく開いた口から零れたのは、──いつから口の中にあったのかも分からない角砂糖一つだった。
◆
──ザーッ……
──ザーッ……
……雨だと思った。
でも、違った。
リビングの汚いテーブルの上に、置きっぱなしにされたままのスマホ。
そこからただ静かに流れ続けている、ノイズ混じりの、あのバンドの配信音源。
周波数のズレた雑音が、耳じゃなくて網膜へ直接流れ込んでくるみたいだった。
「ねえ~さとちゃん~~! にっじは~~? にっじーはどこいっちゃったの~~? ねぇ、にっじーは~~?」
「……」
「ねえってば~~! にっじー呼ぼうよ~~! にっじーにオムライス作ってあげてよ~~!」
「……いこっか、しおちゃん」
「ええ~~~? やだ! にっじー待ってるもん〜!」
「…………」
小さくて、やわらかい手。
しおちゃんの指先が、私の見えない血に汚れた服を無邪気に掴む。
……いつもの私なら。“虹夏さんは先帰ったよ~”とか。“また今度ね~”とか。
適当に笑って、簡単に嘘つけたと思う。
なのに、今の私は。しおちゃんの手を優しく引いてあげようとしても、指先のひとつにすら、まるで力が入らなかった。
なんで、だろ。
今、会ったばかりの、知らない女の子なのに。
通っている学校も違う、年齢だって知らない。何が好きで、何が嫌いなのか、そんなこと何も知らない。
私としおちゃんの人生にとっては、ただの、完璧な、部外者の他人なのに。
なのに。
私の頭の中で、ずっと、
“大丈夫だから”
──その声だけが、味覚のいちばん嫌なところに引っかかってくる。
「あ、そうだ!! 出る前にね、さとちゃんに見せたいものあるの!」
「…………え?」
自分の舌先を思わず触ってしまった私。
そんな私の服の袖をグイグイと無邪気に引っ張るしおちゃん。
糸の切れたまま私は、しおちゃんが誇らしげに見せびらかすその指先へと、視線を動かした。
……見なきゃよかった。
「にっじーも喜んでたんだよ! だからきっと、さとちゃんも好きになるの!!」
しおちゃんが両手で掲げた、一枚の、くしゃくしゃになった『画用紙』。
色とりどりのクレヨン。はみ出したぐちゃぐちゃの線。子供が描いたみたいな、丸くて不器用な顔。
────そこには、私と、虹夏さん。
二人で仲良く笑い合って、ひとつの甘いケーキを分け合って食べている──そんな、無垢な絵があった。
「……え」
いつの間にか、しおちゃんの小さな手から、私の身体が離れていた。
気が付いたら、私はその絵を見て、人生で味わったことのない味覚が襲ってきた。
その味覚が『塩味』であることに気付いたのは、暫くしてやっとだった。
「さとちゃんもにっじーも、わたしは、だーーいすきだよ! これからもずっと、みんなで一緒にいようね!」
そして、その塩味を無理矢理にでも飲み込んだ時。
──『本当は欲しかった味』が溶け消えたことを、この【バトル・ロワイヤル】の舞台で知る。
◆
──数時間前。目が覚めたら、見覚えのない教室で、
『人は命に感謝しません。……何故でしょう? それは、皆さん、“明日も生きている”と、何の疑いもなく信じているからです』
──知らない、女教師が、私たち相手に、授業をして、
『まぁ当然でしょう。統計上、人間の死因の大半は慢性的疾患によるものです。つまり人は、ゆっくり死ぬことには慣れていても、突然死ぬことには慣れていないのです』
『事故、災害、あるいは殺人。……そういった、ある日突然訪れる予期せぬ死を、皆さんは心のどこかで“自分には関係のない、遠い世界の出来事”だと考えている』
『ですが、それは本当に幸せなことでしょうか』
──黒板に、チョークの鋭い音を響かせた。
『人は恐怖によってしか、命の価値を理解できません』
『ですから私は、身勝手で愚かな皆さんへ、これ以上ない特別な“命の授業”を行うことにしました』
──【BATTLE ROYAL】。
『起こしてみませんか。この閉ざされた島で、誰一人として逃れることのできない──“死因百パーセントの予期せぬ死”を』
──これは、私の人生を再構成させてくる、
──たった二日間だけの、狂おしいほどに長すぎる、歪んだ物語。
『──では、これより命の授業を始めます』
【主催者】
【森口悠子@告白】
【見せしめ】
【なし】
【バトル・ロワイヤル(命の授業)】
【AM.00:00を以て────】
【開始確認】
【伊地知虹夏@ぼっち・ざ・ろっく! 死亡確認】
【松坂さとう@ハッピーシュガーライフ】
[状態]:味覚の反転(喉の奥に残り続ける強烈な塩味と拒絶感)
[装備]:スラッパー
[道具]:基本支給品一式、不明支給品×1~3
[思考]:……『友達』をもう、失いたくない。
1:レール通りに動いた自分がおかしかった。
2:レールから少し離れていれば、今頃私“たち”は、美味しいお菓子を食べて、互いに勇気づけあえていた。
3:あの子と話している間だけ、苦さを忘れられた。
4:……そんな子を、私は壊した。
5:しおちゃんも、……もう。
【神戸しお@ハッピーシュガーライフ】
[状態]:さとうへの全面的信頼
[装備]:不明
[道具]:基本支給品一式、不明支給品×1~3、クレヨンの絵(さとう&虹夏)
[思考]:さとちゃんと、これから先もずーーっと、一緒にいたい。
1:お外は雨で危ないから、またあとで、さとちゃんと三人でいっぱいいっぱい遊びたいな!
2:にっじーはね、わたしに優しくしてくれて、お菓子をくれて、おでこにピトッてしてくれたの。とってもキラキラした、『てんしみたいなコ』なんだよ!
最終更新:2026年05月31日 13:23