遡ること今からおよそ二千年前、現在のイスラエルの地にひとりのユダヤ人が現れた。彼の名は「ナザレのイエス」。のちに「イエス・キリスト」と呼ばれることになるキリスト教の創唱者である。
このイエス・キリストの「キリスト」とは、メシア(救世主の意)のギリシア語訳だ。『真・女神転生2』にもメシア・プロジェクトなど、さまざまな場面でこの言葉が使われている。しかし伝説に曰く、救世主であるイエスは、十字架に架けられ、処刑されてしまったという。このページではイエスの生涯とキリスト教の歴史を簡単に振り返ってみることにする。
イエスは紀元前四年ごろ、大工の父ヨセフと母マリアの間に生まれ、ナザレという土地で育ったとされる。12歳の頃にはエルサレムの神殿で学者たちを相手に門答を交わし、その聡明さに人々は驚愕したという逸話もある。イエスは父と同じく大工として働いていたが、30歳の頃に洗礼者ヨハネより洗礼を受け、荒野で40日間の修行を経たのち、独自の教えを説き始めたという。
イエスは「神の国が近づいた」として、人々に悔い改めるよう説き、また病人を癒すなど数々の奇跡を起こしたとされる。福音書ではイエスが死者さえもよみがえらせたと記している。これら数々の奇跡を見た民衆は、「彼こそがメシアだ」として、イエスを熱烈に支持した。こうしたイエス支持の背景には、この当時ユダヤがローマ帝国の植民地下にあり、ローマの支配からユダヤ人を救ってくれるメシアの出現を心待ちにしていたという理由もある。
ところが、イエスはユダヤ人が待ち望んでいた意味でのメシアではなかった。というのも、イエスが説いたのは「神の愛による魂の救済」であり、ローマの圧政から人々を救済しようとしたわけではなかったからだ。そのためイエスを支持していた民衆の期待は裏切られ、反動でイエスを憎む者すら出てきたとされる。
またイエスはユダヤ教の学者や、ユダヤ教パリサイ派の指導者からも危険視された。戒律の厳守を主張する彼らに対し、イエスは批判的な立場を取っていたからだ。さらにローマ帝国の権力者と結託して利権を保っていたサドカイ派(ユダヤ教の宗派のひとつ。貴族や祭司など、富裕層が多い)からも、イエスは危険視されていくようになる。
やがてイエスは弟子のひとりであるユダの裏切りにあい、神の子を騙った罪で捕らえられる。そしてローマ総督ポンティウス・ピラトゥスの前に引き出され、帝国への反逆者として、裁判にかけられた。その結果イエスは、ユダヤ人の救世主だと称した罪状のもとに磔刑を宣告されてしまう。彼は茨の冠をかぶされて十字架を背負い、民衆の嘲笑と侮蔑の中を歩き、ゴルゴダの丘で処刑された。紀元30年ごろの出来事とされる。以上が、イエスの生涯だ。
さて、イエスの生涯が分かったところで、キリスト教とユダヤ教の関係について見ていくことにする。『真・女神転生2』に登場するメシア教は、ストーリーの設定からしてもこの両宗教をもとに設定されていると思われるが、このふたつの宗教にはどのような共通点と違いがあるのだろうか。この点を確認しておくことは、ゲームをより深く理解するうえで、重要なことになるのではないかと思う。
まず、キリスト教というのはユダヤ教を土台にしたものである。イエス自身もユダヤ人で、少年時代からユダヤ教の律法を学んで入る。しかし、イエスの教えは既存のユダヤ教の宗派には属していなかった。
キリスト教徒ユダヤ教の大きな違いには、ユダヤ教がユダヤ人と神との間に成立した宗教であるのに対し、イエスの教えはユダヤ人だけに向けられたものではないことが挙げられる。イエスはたとえローマ人でも悔い改める者はすべてが来るべき「神の国」に入ることができ、神の愛によって救われると説いたのである。またイエスは、律法の遵守に固執するパリサイ派の主張にも公然と対立し、「安息日のために人があるのではなく、人のために安息日があるのだ」と述べて、形骸化した律法を痛烈に批判している。
一方ユダヤ教は先述したとおり、ユダヤ人と神との間の契約であるため、ユダヤ人の民族的アイデンティティーの意味合いが強い。これは「選民思想」という言葉に置き換えてもいい。つまりユダヤ教を極端に説明すると、「神との契約を守るユダヤ人=神に選ばれた民」であり、それはつまり神に選ばれた民だけが救われる考えで、祖国喪失や民族離散などの苦難の連続であったユダヤ人の精神的支柱である(しかしこの選民思想が、反ユダヤ感情を生み、偏見や迫害を招く原因となっていった面もある)。
以上がキリスト教とユダヤ教の決定的な違いなのだが、『真・女神転生2』のメシア教と比べてみた場合、メシア教の性格というのは、このふたつの宗教に見れる大きな要素だけをピックアップし、ゲームの都合に合うようほどよく混ぜ合わせたのではないかと、感覚的に理解できる。しかしまだそれだけですべてを語れるほど単純な話ではない、ということも、同時に言えるように思う。ただ単に「キリスト教」と「ユダヤ教」というふたつのキーワードだけでは、メシア教は説明できないのではないか、ということだ。まだ何かが足りない。そこで次は、キリスト教の分裂に、メシア教の性格を求めてみようと思う。
「普遍的」を意味する。“国籍、人種、性別に関係なく、すべての人々に愛を与える”という考え。
「抗議する者」を意味する。資金集めのために免罪符を発行していたカトリック教会のやり方に抗議したことから。
同じキリスト教でありながら、信仰理念の違いから袂を分かちあったのがカトリックとプロテスタントである。両者の違いは上の表を見てもらえば一目で分かるだろう。この二派の相違点を見ながら、『真・女神転生2』のメシア教を考察してみよう。
ローマ・カトリック教会とは、“世界三大宗教”のページでも説明したとおり、言わずと知れた世界最大規模の宗教団体である。神と人との間を仲介する存在として神父が位置づけられ、その頂点に君臨するのがローマ教皇である。
一方、カトリックと宗教改革以降に袂を分かったのが、カトリック・東方教会と並んでキリスト教の巨大勢力であるプロテスタントだ。ルーテル教会やカルヴァン派諸教会、バプテスト系諸教会など数多くの教派がある。
プロテスタントという名称は、文字通り「抗議する人」の意味で、十六世紀のドイツ国会でルターの宗教改革を支持した人々が、カトリック派に対して抗議したことに由来する。カトリックが「旧教」と呼ばれるに対し、プロテスタントは「新教」と呼ばれる。同じキリスト教なので、崇拝する『神』も同じだ。では何が違うのかというと、それはプロテスタントの信仰理念を見るとよく分かる。
カトリックがミサ(儀式)や善行を重視するのに対し、プロテスタントでは信仰のみが魂を救済すると説いて、ミサはおこなわない。次にプロテスタントは信仰の拠りどころは聖書のみとし、聖書以外の宗教的権威は否定する聖書至上主義である。また聖職者の特別な宗教的権威も無意味だとし、ローマ教皇も一般信徒も神の下では平等という万人祭司説をとる。カトリックが聖母マリアを崇拝するのに対し、プロテスタントはそうではないという点も異なっている。そのほか、結婚と離婚に対する考え方や、神父と牧師の違いなど、大小いくつもの相違がある。
さてこうして見てみると、『真・女神転生2』のメシア教は、キリスト教とユダヤ教をミックスしたとするよりは、“カトリックとユダヤ教をミックスした”という整理の仕方がより正確かもしれない。階級制を意識させる描写や伝承のとおりに救世主を誕生させるべく計画されたメシア・プロジェクトなどは、カトリック・プロテスタントの構図でわけて見た方が、メシア教の宗教的な性格の何たるかを理解しやすいのではないかと思う。
メシア教はどちらかと言えばカトリック的なイメージが強いようにも思えるが、ではプロテスタント的なイメージがストーリーにまったく組み込まれていないのかと言えば、そうとも言えないと思う。ゲームの終盤、なぜセンターにいる神父やメシア教徒らがエデンの地へ選ばれず、神に見放されたのか……それはルターの宗教改革にひとつの答えを求めることができるのではないだろうか。
十六世紀初頭、金銭と引き換えに免罪符を発行し、収入増を図った教会に対し、ルターは、「苦罰と罪の許しは、ただ神の意思にある」として、人は善行ではなく信仰によってのみ魂を救われると説き、宗教改革をスタートさせた。教皇庁の搾取、聖職者の腐敗、封建制の重圧で不満が鬱積していた民衆は、このセンセーショナルな提唱に共感し、やがてはプロテスタントという大きな勢力を生み出した。
つまり、『真・女神転生2』のストーリーの根底にあるのは、ユダヤ教やカトリックといった部分ではなく、むしろこうしたプロテスタントの信仰理念にあるのではないか――などと考えてみるのだが、どうだろう。この予想はカトリックとプロテスタントを簡単に分類した上での理屈でしかないので、もっと深く宗教理念を調べていけば、また違った答えが出てくるのかもしれないが、それはそうとして、このページで書いたことがゲームをプレイするにあたって、なにかひとつの参考になれば幸いである。