地下妄の手記

大東京の地下400年 九層倍の嘘 和蘭編 乾の巻

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大東京の地下400年 九層倍の嘘 和蘭編 乾の巻


  10月19日京阪電鉄中之島(新)線が開業する。
  天満橋で、本線と分かれ地下で大川をくぐり中之島北岸沿いに西進し、なにわ橋、大江橋、渡辺橋、中之島の国際会議場までがこの新線となる。
  京阪は車内吊り、或いは駅広告に中之島線のポスターを掲げた。
  それは、歴史上の人物3人、豊臣秀吉、福沢諭吉、五代友厚に、上方落語の大人笑福亭仁鶴師が扮して、期待などを語ると言う趣向である。



  「あっ、京阪、秋庭さんと同じことをやってる。」
  これを見てそう思った。

  秀吉と五代は当たり障りのないキャプションなのだが、福沢諭吉はイケない。

         あの頃あったら、適塾通いも楽だった。 福沢諭吉

  北浜過書町(きたはまかしょちょう)の緒方洪庵の蘭学塾、適々斎塾に福沢諭吉が学んだことから取り上げたのだろう、福沢が中津藩の蔵屋敷に生まれたことも有名な話であるし、蔵屋敷は堂島にあり、これは中之島(新)線の沿線であるから、と言う認識で出来上がった話だと思う。
  しかし、福沢諭吉そんなこと言うんだろうか?これは、なにも、いつもの秋庭さんの伝で、当時の人間が言うはずも無いことを言っている、と言うだけのことでは無い。この広告のコンセプトは、もし現代に生きていたら、言ったかもしれないね、IFという話だから、例えば、秀吉のキャプションは、

         いざ、大阪経済復活の陣じゃ 太閤秀吉

と、当たり障りの無い絵空事、歴史的事実に根ざそうが根ざすまいがどうでもいいことなのだが。
  福沢諭吉、福翁自伝には、適塾の前半は屋敷から通ったとあるが、兄の急死で学業半ばで、一旦中津で福沢家を継がされ、医家の緒方の下で砲術を学ぶと言う奇妙な願いが藩官僚の形式主義で通って、福沢家当主として大阪に出ての適塾生活の後半は、緒方洪庵の言で、医者の家の食客生になった経緯があり、

    私は是れまで緒方の塾に這入らずに屋敷から通って居たのであるが、安政三年の十一月頃
   から塾に這入て内塾生となり、是れが抑も私の書生生活、活動の始まりだ。

との記述がある。後半は住込みで、通いではないのだ、適塾。

  では、蔵屋敷から通ったと言う、安政二年三月から三年九月はどうなのか、中之島線が通じていれば、使ったのか?
  中津藩蔵屋敷は、当時の堂島五丁目現在は朝日放送リバーサイドテラスの辺り、大阪市福島区福島一丁目にあった。緒方洪庵の適塾、適々斎塾は現大阪市中央区北浜三丁目に史跡として残っているから、京阪中之島線各駅の位置も含め、この間の地理的な関係はWeb上の地図サービスでも確認できると思う。
  福沢が通うとすると、蔵屋敷から渡辺橋まで歩き、渡辺橋駅から一駅大江橋駅下車、そこから適塾まで歩くこととなる。中之島線の乗車距離は全行程の三分の一以下、これを以って「楽だった」は無いんじゃないか、福沢諭吉絶対言わない台詞な訳だ。
  まぁ、これは宣伝広告の類だし、その人の業績を盗んだ挙句に蔑ろにしている訳でもない、心根に於いて秋庭さんと同じ嘘をやっているんだけれど、現代に置き換えて有り得ない事だけれど、世の人を惑わすことも無い。

  ところが秋庭さんは、その人の業績を盗んだ挙句に蔑にするだけじゃなく、その人の見い出した事象を歪曲し、論理に基づく結論をその人の業績を(盗み)用いながら否定すると言う非道を平気で繰り広げられます。

  さて、秋庭さんの得意技、無断複写、盗用。中でもその最大の被害者、(実は最大の被害者は4人以上いらっしゃるのですが)中村順平氏に、勝るとも劣らない被害者に、鈴木理生氏がある。
  私が秋庭本批判を徹底して行うことになったのも、この秋庭氏の鈴木氏の著書からの盗用が余りに酷いものだったからと言うことはここに書いたとおりです。
  以下は、そんな因縁深き、秋庭さんがやった業績盗みの手口の一席。


27」水路変更前の江戸の川床を現在の地下鉄が走るのは、なぜ?

 1614(慶長19)年の「天下普請」は9月の大阪冬の陣まで行なわれ、豊臣秀吉子飼い
の武将や秀吉に恩義のある大名を駆りだして、幕府に反抗する気力、財力を奪った。この
年に行なわれたのが「江戸の水路の変更」だった。
埋め立てられた日比谷入江に沿って、西の丸下(今の皇居外苑)を囲むように外濠がつく
られ、石垣が積み上げられた。日本橋川と汐留川はつながれ、外濠にリフォームされた。
今の飯田橋の東、小石川橋から昌平橋にかけて、本郷台地を2つに割るように新たな放
水路(今の神田川)がつくられ、近くを流れる平川や小石川、当時の江戸湊に流れこんでい
た石神井川は、隅田川につながった。いずれも最初は小さい水路を掘り、年数をかけて
徐々に幅を広げ、濠なら江戸城側に石を積み重ね、川なら護岸工事をしてつくられた。
このような江戸の河川の変遷を知る手がかりとなるのは、今の地下鉄だといわれる。
『江戸の都市計画』という著書で、鈴木理生氏は、江戸の川と今の地下鉄のルートを見比
べて興味深いデータを紹介している。たとえば、銀座線の上野から神田までは、水路が変
えられる前の石神井川左岸の土手の地下であり、神田から新橋までは当時の江戸前島の中
央部。赤坂見附から渋谷までは台地の下なので、銀座線で川の下を走るのは、新橋から赤
坂見附まで。外濠にリフォームされた汐留川の下だ。
丸ノ内線は、池袋から御茶ノ水までは本郷台地の下であり、御茶ノ水から銀座までは江
戸前島の地下で、霞ヶ関から新宿方向は再び地盤の堅い台地の下を走っている。軟弱なの
は銀座から霞ヶ関までの日比谷入江を埋め立てた約700メートルだけだ。
ところが、その後の地下鉄は、江戸の川の下を走ることが多くなる。千代田線の根津-
湯島は当時の石神井川のど真ん中だし、大手町から日比谷までは江戸前島の海岸線に沿っ
て走っている。日比谷線の入谷から秋葉原は谷筋にそって走っているそうだ。
都営三田線の千石から大手町は当時の小石川の真下だ。当時の平川を走るのが有楽町線
の東池袋から市ヶ谷までと東西線の飯田橋から大手町まで。都営新宿線の新宿三丁目から
市ヶ谷までは長延寺川の谷底を走っている。
このように、地下鉄が江戸時代の川の下を走っているのには理由がある。
玉川上水のつくられ方で紹介したように、江戸の初期には、川をせきとめて川幅いっぱ
いの木の枠を組み、土砂の壁で三方を囲んで地下道をつくるということが行なわれていた。
そこに水を流せば上水になり、水を流さなければ地下道になった。
上水や地下道の上は盛り土をして道路として使われた。上水のルートも地下道のあるこ
とも公表されなかったから、道路の下に地下道があるなんて誰にもわからなかった。この
道路が時を経て「公道」になり、公道の地下に地下鉄が走るようになったのだ。
地主がいない公道だから建設費も少なくすむ、それが地下鉄が公道の地下を走る理由な
のか、地下道がすでにあるからなのか、その両方なのかわからないが、江戸の川の下の地
下道は、誰かの手で地下鉄が走れるほどに大きく広げられた。

以上が、秋庭さんの典型的な盗みの手口です。本当はやるべきではないのですが、何をどう盗み、それが秋庭さんの嘘で、本来援用として、その真実性を持って自説の補強をしてくれるはずの他人の結論を如何に蔑にし、記述しないことで、歪曲の限りを尽くしているか。その盗用の実態を明らかにするため、以下に秋庭さんの援用(完全な盗用)元、鈴木理生氏の「都市のジャーナリズム 江戸の都市計画」(三省堂1988年刊)「Ⅶ江戸の都市計画 東京の地下鉄」全文を上げます。


東京の地下鉄

これまでたびたびかかげた、東京の原形をしめす地形図をみるとわかるように、江戸城から
北側の自然河川はいずれもほぽ北から南に向かって流れて海に注いでいた。それを改善したの
が第一次の平川のつけかえであり、つぎが石神井川を昌平橋から直角に東に放流させる神田川
の開削だった。そして最後が御茶ノ水の掘割りであって、この掘割りは同時に江戸城の外濠の
役目も果したのである。
このような原地形と河流の変遷を、視覚的に確認するもっとも良い教材は、営団地下鉄が毎
年だしている案内地図と、同じ図柄の美しい地図のカレンダーがある。
それでわかることは、最古の銀座線の上野-神田間は旧石神井川左岸の自然堤防の地盤を走
り、神田-新橋間は地盤の良い江戸前島の中央部を走る。そして新橋-赤坂見附間は汐留川の
河流(大部分が「溜池」になっていた)を走って、台地内の地下に入る。
丸ノ内線も御茶ノ水-銀座間は、地盤のよい江戸前島を走り、日比谷公園で約七百メートル
の日比谷入江を〝横切って〟霞が関の台地に入る。
ところが掘削技術が向上した時期につくられた地下鉄の路線の多くは、すっかり姿を消した
東京の川に沿って走るようになる。
千代田線の根津-湯島間は旧石神井川の流路そのものであり、大手町-日比谷間は江戸前島
の海岸線にそって走る。
日比谷線の入谷-秋葉原間は、昭和通りの下(地質学では道路の昭和通りを「昭和通り谷」と
呼ぶ)の谷筋にそって走り、岩本町-茅場町間は旧石神井川の河流に平行して走る。
都営三田線の千石-大手町間は、まったく小石川の下を走るもので、河床を利用した地下鉄
の典型的なものである。同じく有楽町線の東池袋-飯田橋間と、飯田橋-市ヶ谷間、東西線の
飯田橋-大手町間も「東京の川」平川とその支流の谷底を走る路線である。また都営新宿線の
新宿三丁目-市ヶ谷間もかつての長延寺川の谷底を走るものであることを、つけ加えなければ
ならない。
これに対して都営浅草線の浅草-人形町間は隅田川右岸の自然堤防を利用したもので、地盤
の良い部分をうまく選んで建設した例として挙げられる。
千代田線・都営新宿線・都営三田線でとりかこまれた本郷台地は、みごとにその等高線を浮
かびあがらせている。
東京を流れた川の原形が、地下鉄路線のあり方で再現されるのは、中山道や甲州街道のよう
な古い道路は、台地の尾根を通るが、近世都市江戸は、アヅミ族のように谷間に沿って内陸部
に拡大したため、この時期の主な道路は中小河川に沿ってつけられたことによる。地下鉄は建
設費節約のためその路線の大部分が公道の下を利用するが、それがかつての中小河川のあり方
を再現していることがおもしろい。


  以上のとおりです。mori-chi氏はここで、「鈴木理生さんの受け売り」と書かれていますが、実際は、秋庭さんは鈴木氏の記述を引用の扱いもしないで、盗用しておられます。

   『江戸の都市計画』という著書で、鈴木理生氏は、江戸の川と今の地下鉄のルートを見比
べて興味深いデータを紹介している。

と、書きながら、その後の文章は、何処から何処までが、鈴木氏の文なのか?それは正確に鈴木氏の記述を提示しているのか?そこから鈴木氏は何を主張したのか?それらを一切明示していません。鈴木氏は何故秋庭さんが「データ」と言う記述を「江戸の都市計画」でしているのか?それは鈴木氏が、その「データ」で何かを結論するために記述しているのであって、秋庭さんの利用に供するために書いている訳ではないのです。これを盗用と言うのです。
あまつさえ鈴木氏が「江戸の都市計画」の主題と視た、江戸前島と沖積地への拡大行動から得られた結論を、秋庭さんはきれいサッパリ抹殺されています。

  なお、秋庭さんはなんの断りもなく、しれっとして行われていますが、この項題「27」水路変更前の江戸の川床を現在の地下鉄が走るのは、なぜ?」の冒頭9行は、鈴木氏の「東京の地下鉄」の前の項「外濠の開削」、「天下普請の側面」の文句なしに完全な盗用です。

 1614(慶長19)年の「天下普請」は9月の大阪冬の陣まで行なわれ、豊臣秀吉子飼い
の武将や秀吉に恩義のある大名を駆りだして、幕府に反抗する気力、財力を奪った。この
年に行なわれたのが「江戸の水路の変更」だった。
 埋め立てられた日比谷入江に沿って、西の丸下(今の皇居外苑)を囲むように外濠がつく
られ、石垣が積み上げられた。日本橋川と汐留川はつながれ、外濠にリフォームされた。
 今の飯田橋の東、小石川橋から昌平橋にかけて、本郷台地を2つに割るように新たな放
水路(今の神田川)がつくられ、近くを流れる平川や小石川、当時の江戸湊に流れこんでい
石神井川は、隅田川につながった。いずれも最初は小さい水路を掘り、年数をかけて
徐々に幅を広げ、濠なら江戸城側に石を積み重ね、川なら護岸工事をしてつくられた。


  鈴木氏原文は以下のとおりです。


天下普請の側面

 図18-③の工事のうち、慶長十六年の分は西丸築城工事(現在の皇居)が中心で、御手伝大名
は主に東北日本の大名たちが動員されている。
 慶長十九年(一六一四)の工事は、九月の大坂冬の陣の直前まで行なわれた。この工事は主に
運河開削と石垣工事で、御手伝大名の大部分は西国筋の大名に割り当てられている。その多く
は「太閤子飼い」や「豊臣恩顧」の猛将・勇将たちだったのだが、この工事で彼等の財力は底
をついていて、大坂冬の陣で反徳川勢力にはなり得ない状況にあった。つまり天下普請は非常
に戦略的な効果をもっていたのである。
 この時期の工事の特徴は、いったん埋め立てられた日比谷入江に、西丸下(皇居外苑)を囲む
形に、ふたたび濠が掘られ現在もみられる石垣が築かれた。そして日本橋川と汐留川も外濠化
されると同時に、これらの濠(運河)で結ばれた。また江戸前島の東岸には櫛形の埠頭もつくら
れている。
 そして江戸湊に流れ込んでいた石神井川は、放水路の神田川によって直接隅田川に放流され
始めている。
図18・③は豊臣を倒して徳川の天下が確立してから五年目の、はじめて本格的な江戸城普請を
している状態をしめす。もっともこの工事の前に、初期の日光東照宮造営という大規模な天下
普請の時期をはさんでいる。
 江戸の水路について見ると、平川・小石川の水を石神井川と同じく隅田川に放流するため、
現在の飯田橋東方の小石川橋から、本郷台地を開削して昌平橋にいたる放水路をつくっている。
これが神田川であり別名御茶ノ水の掘割りと呼ばれる。この水路で切りはなされた本郷台他の
南端が駿河台である。このとき平川は③の点線のように小石川橋の南から九段下の堀留まで埋
め立てられて、堀留から下流の日本橋川は、外濠と運河を兼ねた水路に変った。
(以下略)


外濠の開削

日比谷入江を埋め立てたかわりに図18-②にみるように江戸前島の中央部に南北に通じる外濠
を掘った。現在の地名でいえば北から道三堀と日本橋川の合流点の呉服橋-〝鍛冶橋人〟が出土
した鍛冶橋-数寄屋橋-山下橋-幸橋を結ぷ線で、幸橋の南で汐留川に合流するものである(現
在はすべて埋め立てられて、鍛冶橋以南には高速道路がかぶさっている)。
 これは結果として外濠になったものだが、開削当時は築城資材運搬用の運河の役目を兼ねた
ものであって、この外濠兼用運河の機能は、太平洋戦争後の昭和二十三年六月まで城辺河岸の
名で不十分ながら残されていたものである。
 外濠のつくられ方は、はじめに小規模な水路を掘り、徐々にそれを拡げて行き、江戸城側に
石垣を積んでいったのだが、その石垣もかなりの年数をへだてて、二回ないし三回にわたって
積み重ねていったものだった。それは石垣の石の切り方や築き方に、御手伝大名たちの技術の
個性が歴然として残っていたことでもわかる。
 外濠に限らず小名木川でも、これからのべる関東地方の水路工事の場合でも、最初の形その
ままという例は少なく、水路も護岸も拡幅、績み重ねがくり返し行なわれていた点に、この時
 代の工事の特徴がみられる。


  ご覧の様に余所の人の業績の粗悪なダビングですから、

     日本橋川と汐留川はつながれ、外濠にリフォームされた。

とか
 
    濠なら江戸城側に石を積み重ね、川なら護岸工事をしてつくられた。

  などと、情報が欠け落ち捲くって、意味不明な文章になっています。デッドコピーのがまだましじゃぁ。

  重ねて言う、

  相変わらずの盗用三昧、出版事業者としてのコンプライアンスって、何なのか?秋庭本を出す人達には、そんなものは微塵も無い。
  洋泉社、新潮社、講談社、二見書房あんた等に、コンプライアンスや、社会的責任、公徳心、公共と言うことについて、他者を批判する資格は無い。

  重ねて言う、さっさと自裁しなさい。

 

 

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