地下妄の手記
一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その3
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一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その3
13」[京橋駅]八重洲通りを東西に走る地下鉄計画の痕跡とは?
京橋駅の7番出口から地上に出て、日本橋方向に300メートルほど銀座通りを歩くと
「八重洲地下街」の入り口に達する。左に折れればJR東京駅八重洲口が見え、八重洲通
りの下には賑やかな地下街がある。
逆に横断歩道を渡って右に進むと昭和通りで、地下に都営浅草線が走っている。こちら
の地下に「幻の地下鉄ホーム」があり、「実際に見たことがある」という人の話を聞いて
調べてみると、『東京地下鉄道史』 に明確に書かれていた。
「日本橋区通三丁目においては将来、他系線が当社線日本橋及び京橋停留所の中間、
品川起点7420メートルで当社線の直下を十字交差するので、他日ここに他系線の停車場
に連絡する当社停車場を設け得るよう準備として……」
と、銀座四丁目とともに、乗り換えに便利なトンネル造りをしたことが書かれている。
エッ?
逆に横断歩道を渡って右に進むと昭和通りで、地下に都営浅草線が走っている。こちら
の地下に「幻の地下鉄ホーム」があり、「実際に見たことがある」という人の話を聞いて
「こちら」というのは、──昭和通りの地下を走る都営浅草線に「幻の地下鉄ホーム」がある──ってこと?
それとも、──八重洲通りと中央通の間に「幻の地下鉄ホーム」がある──ってこと。
調べてみると、『東京地下鉄道史』 に明確に書かれていた。
でっ、『東京地下鉄道史』 って、東京地下鐵道株式会社の(地下鉄銀座線浅草-新橋間建設)記録ですから、
「日本橋区通三丁目においては将来、他系線が当社線日本橋及び京橋停留所の中間、
品川起点7420メートルで当社線の直下を十字交差するので、他日ここに他系線の停車場
に連絡する当社停車場を設け得るよう準備として……」
明確に書かれているのは、中央通の銀座線上に停車場を設け得るように準備をしたという記述になりますが。昭和通りと浅草線にどんな関係があるんでしょうか?
中略
同様に、日本橋駅と京橋駅の中間にも、ほぼ同時期に他系線の駅の建設が行なわれたと
しても不思議はない。
いま、日本橋駅と京橋駅の中間にあるのは都内最大、全国でも2位という広い売り場面
積を持つ「八重洲地下街」である。
JR東京駅八重洲口前の広場の地下と、東に延びる八重洲通りの地下に、約200店舗
が営業している。地下2階には広大な駐車場があり、八重洲通りの地下には、地下鉄が
走るのに充分なトンネルが存在している。
既に、営業している商店街とか、広大な地下駐車場(八重洲地下街株式会社地下駐車場)が「地下鉄が走るのに充分なトンネル」なんですか?
穴が掘ってありゃ地下鉄が走れる、なんてのは秋庭さんの妄想です。地下鉄が走れるトンネルってのは、地下街と違うそれなりのつくり込みが必要なんです。
「八重洲地下街」は銀座線と交差する手前で終わっているが、トンネルは銀座線と交差し
て東へ延びているはずである。地図で調べてみると、東に地下通路が昭和通りまで延びて
いることがわかる。
「地下通路」では無く、「東京都八重洲駐車場」と言う地下駐車場が昭和通りまで八重洲通りの地下に広がっておりますが。何か?
「京橋と宝町のあいだにあった」という証言もあり、ここに地下鉄の駅があったのではな
いかと、私は考えている。
一体、どこに地下駅があるのでしょうか?
八重洲通りと中央通の交差点付近の銀座線上(下)?
銀座線京橋と宝町間の鍛冶橋通り下?
鍛冶橋通りの下には既に京葉線のトンネルがありますが、駅など存在しませんし、銀座線を下受けするような浅さではありませんが。
14」[日本橋駅]新設ホームの壁の向こうに〝謎の地下道〟?
銀座線日本橋駅には2つのホームがある。対抗式ではなく島式に新しいホームを加えた
形で、浅草行きが古いホーム、渋谷行きが新しいホームを利用している。この新しいホー
ムは古いホームに比べると、まるで手抜きでもしたかのように階段の数が少ない。
古いホームには4つあるが新しいホームには2つしかないのだ。そのため、浅草から来
ると混雑しているときは乗り換えに時間がかかる。なぜ、階段を少なくしたのだろうか?
新しいホーム、と言っても充分に古いけど、これと東西線ホームとの直接の連絡階段と通路は無視なんですか?
古いホームには東西線と直結する階段が無かったんでは?4本の階段は全部一旦1階上のコンコースに出てから東西線のホームへの階段を下りるんじゃなかったっけ?どっちが手抜きよ?
そんな疑問を抱きながら、戦後GHQが作った地図を見ていて、面白いことに気づいた。
日本橋駅は、台東区役所と港区役所を結んだラインの上にあったのだ。
秋 庭さんは、戦後GHQが作った地図には「麹町區」とか、23区制になった以前の大東京35區当時の区名が入っているとか仰ってましたけれど、「台東区役 所」とか「港区役所」ってその地図に載ってたんですか?何でそこだけ35區じゃなくて戦後なんですか?台東区役所って昭和22年以降で出来たんじゃなかっ たっけ?港区役所って元芝区役所の場所にあるし。
東京の区役所はなぜか、かつて地下道の拠点となっていた場所にあり、そこから地下
道がたくさん延びていたはずである。2つの区役所を結ぶラインの上にあるということは、
日本橋駅のすぐそばを地下道か地下鉄のトンネルが昔から通っていたと考えられる。
「東京の区役所はなぜか、かつて地下道の拠点となっていた場所にあり、」今まで、一つも憑拠を挙げられたことないし、事実を見せてくださったことも無いんですけど。秋庭さん以外の誰が、そんなこと言ってましたっけ?
新しいホームは、混雑する総武線、中央線のバイパスとして1967(昭和42年に建設
された東西線からの乗り換え客の増加に対応するため、1984(昭和59年に造られたこ
とになっている。
その通りです。だから新しいホームには東西線ホームに直結する階段とその階段に辿り着くための通路があります。
15」[三越前駅]唯一、デパートの名前が駅名になったのは、なぜ?
丸ノ内線銀座駅の改札口を出て銀座線銀座駅につながる地下1階のプロムナードを歩い
ていると、ほぼ中間ぐらいのところに「地下鉄の父」早川徳次の胸像がある。昭和初期の彫
刻家・朝倉文夫の作品で、戦後、この地下プロムナードができたとき、時の首相・佐藤栄
作が「あの胸像はどこにあるのだ? 見つけてここに立てろ」と命じて設置された、という。
「という」は捏造の合言葉と言うことで、
時の首相・佐藤栄作が「あの胸像はどこにあるのだ? 見つけてここに立てろ」と
命じて設置された、
は捏造です。
早川の胸像が地下鉄銀座駅に置かれたのは1977年の地下鉄開業50周年の時で、秋庭さんのだぁ~い好きな「東京地下鉄道千代田線建設史」の308頁に、
東京地下鉄道50年記念行事はつぎのとおりである。
1.早川徳次氏の胸像の移設と除幕式
日本の地下鉄生みの親、早川徳次氏の胸像は、それまで新橋駅の一隅にあり、比較的
目立たぬ場所であったので、地下鉄網の中心的銀座駅(日比谷線中二階メトロプロムナード
中央部)に移設し、昭和52年12月6日午前10時30分から同所において除幕式を行った。
と1977年の出来事として書かれてますが。佐藤栄作は1975年6月に亡くなっております。
銀座総合駅は1964年8月開業、メトロプロムナードも大成建設のサイトに拠れば1964年竣工となっておりますが。
何と、第一次佐藤内閣は1964年11月発足。
早川は、80年前、わが国初の地下鉄を上野~浅草間に走らせた人物である。しかし、地
下鉄建設には莫大な資金が必要で、早川はその資金調達に苦労した。
五島慶太が渋谷~新橋間を3年半で開通させたが、早川は浅草~新橋聞の開通に6年半
もかかっていることは、すでに述べた。その間、彼はあの手この手を使ってお金を集めて
いる。
資金調達に苦労したと言うのは確かですが、以下に言われる商法は建設資金の捻出と言う
より、それの返済と言うか、調達後の営業収支の改善策、向上策ではありますまいか?
たとえば、神田駅に日本初の地下街を造って、これまた日本初の均一セール(いろんな商
品を同じ価格で売る販売方法)を行なって、地下鉄利用客をアッと驚かせた。
地下鉄の車内に吊り広告を設けて広告主から金を集めたのも、早川が最初。都電が美人
車掌を揃えたと聞くと、美少年を集めて各駅に配置した。
「逢って浅草、別れて上野、またの逢瀬は新橋で」といった歌詞の歌謡曲も作っている。
それが地下鉄のCMソングとは知らずにカラオケで歌っている演歌フアンもいるらしい。
居るんですか?そんな人。「カラオケで歌っている演歌ファン」?
80年も昔のこととは思えない斬新なアイディアに驚かされるが、こうして得た資金を早川
は地下鉄建設に注ぎこんだ。
そんな早川も神田駅を造ったところで、とうとう資金が底をついた。ここで捻り出した
秘策が、駅名に「三越」の名を入れるかわりに駅の建設費を三越に出させることだった。
今ではドーム球場やサッカースタジアムで冠名を企業に売るのは珍しくないが、当時は
「仰天の秘策」だったに違いない。
秋庭さん「秘策」好きですネェ。早川の「秘策」、後藤の「秘策」。あと好きな言葉は「巨大な」? 子供かオメェは?
幸いにも三越が提案を受け入れて、早川の地下鉄は、またひとつ線路を延ばしたのであ
る。前に進むことしか考えていない地下鉄建設にかけた早川の執念を、「三越前」という
駅名から感じるのは、私だけではないだろう。
なるほど、命名権はなかったものの、「日本橋」への路線の延長は高島屋と白木屋の金。すると銀座は「松屋・三越前」とアナウンスするから三越と松屋ですか?じゃあ「京橋」は明治屋の金で?
明治屋も含め、実際に駅の構築に対してそれぞれ金を出してはいるようですね。
じゃあ新橋は?新橋の烏森三業組合かな?
そもそもの話は、上野広小路の松坂屋に始まるんじゃないんですか?物の本によると、松坂屋が先か?三越が先か良く判らないところがあるんですけれど。先に出来ているのが上野広小路の駅ですので、松坂屋が先だと思われるんですが。
当初早川は、上野広小路に駅を作るつもりは無かった、また、神田-日本橋間にも駅を作るつもりは無かった。理由は上野と上野広小路、神田、三越前と日本橋、駅間が極めて短いから。
で、三越が先か?、松坂屋が先か?百貨店側から金出すから駅を作って欲しいとの申し出があって、乗客確保のために承知したと言うことらしいんですね。
松坂屋名前を付けなかったのは、三越ほど厚かましくなかったから。でも、駅名に「松坂屋前」併記されてますよね。
これ、早川の「秘策」と言うより百貨店の「秘策」じゃなかったんでしょうか?
16」[神田駅]異常に低い地下通路の上に何が隠されているのか?
神田駅は、他の地下鉄の駅と造り方が違っている。ホームに下りた乗客は階段を上るこ
とも下ることもなく、ホームの突き当たりにある改札口に向かう。
改札口を出ると階段を上り、さらに狭い地下通路を歩くことになる。この通路の天井が
異常に低くて「ご注意ください」というメッセージが常に流されている。JRの線路の下
あたりまで来ると右手に階段が見え、それを上るとJR神田駅の改札口である。
地下2階にあるホームから地下通路につながるあたりの、頭の上(地下1階)に何が隠さ
れているのだろう? 地下1階に何もなくて地下2階にホームを造る理由はないはずだ。
初めて神田駅を訪れたとき、その謎で私は頭がいっぱいになったことがある。
ま ず、東京メトロ神田駅のホーム上の地下一階部分には、東京メトロの変電所があります。これは「東京地下鉄道史 坤」すなわち技術誌の巻にも立派な設備図 と東京地下鉄道の社章の入った堂々たる地下鉄電車が描かれています。以降戦後に刊行された営団の各「東京地下鉄道○○線建設史」の電力系統図でも「神田」 の変電所の存在は記述されています。
秋庭さんは「マイル法」とやらの話しの時に、東京地下鉄道の曲線表をこの「東京地下鉄道史 坤」から引っ張り出されているので、当然これは御覧になっているはずと思いますが。
なにしろ、原点たる「地下網の秘密」の参考文献欄で「東京地下鉄道史 乾 坤二」と「乾坤二巻」を著者名と勘違いされている方ですから。読んでないのかもしれませんね。
早川徳次が浅草から造ってきたトンネルは中央に鉄骨が並んでいるが、神田駅では鉄骨
がコンクリートの柱と壁に変わつている。ホームも上り下り別々だったのがひとつになっ
ている。このことに気づくと、なぜ変わったのかが知りたくなった。
「地下鉄道99の謎」の底本「地下99の謎」159頁では、この点をこのようにお書きになったますが?何か?
69」プラットホームの「島式」と「対抗式」を比べると?
現在、東京の地下鉄の駅は、「島式」と呼ばれる形式のものが多い。「島式」とは、ふた
つの線路にはさまれるような形でホームが設置されている形式の駅で、上下線のどちらを
利用する乗客も同じホームに立って電車を待つことになる。
これに対し、ふたつの線路を中央に並べ、その両側に別々のホームが設置された形を
「対抗式」(または相対式)と呼ぶ。島式と対抗式のどちらがよいのかということは、一概
にはいえない。いまでこそ、島式が主流だが、地下鉄草創期の頃はすべての駅が対抗式だ
った。
この後に、島式ホームと対向式(競い合っちゃいけませんぜ)ホームについての思い付きを並べてらっしゃいますが、
ホームも上り下り別々だったのがひとつになっている。
と言うことは、神田駅の特殊性を説明したことにならないんじゃないでしょうか?
だって、
東京地下鉄道で言うならば、相対式は浅草から末広町まで6駅。
神田以降新橋まで6駅は全部島式ですよ。
新橋以東、幻の新橋駅を含め渋谷まで東京高速は全部相対式。
(正確には赤坂見附は島式になる)
東京高速より先に出来た、日本で二番目に開業の「大阪市営地下鉄
梅田・なんば間」島式なんですが。
(wiki「地下網の手記 ♪ 重ね重ね 盗用は続くよどこまでもぉ」より一部修整して引用)
だから、その答えを此処から導き出そうとすることが出来るのかどうか?疑問じゃないですかね?
その答えを私は、終戦後GHQが作った地図「AMS L-774」 に見つけた。
前ページの図をご覧いただきたい。JR山手線の東京~神田~秋葉原の線路のあたりに
「TOKYO SUBWAY RAILROAD(東京地下鉄道)」とある。この当時、山手
線の線路の下を地下鉄が走っていたのではないだろうか?
秋庭さんが「AMS L-774」と同様に「重宝な地図」としてよくお使いになる「AMS L-874」には、「TOKYO SUBWAY RAILROAD」の文字は影も形も無いんですよね。こちらの方が縮尺が大きいにも拘らず。

かつて地下鉄が走っていたと考えると、神田駅の謎は解ける。神田駅は特殊な2段重ね
構造で、地下1階にはもうひとつのホームがあったとすれば、これを支えるためにより強
靭なコンクリートの柱と壁でトンネルを支える構造が必要になる。改札口をホームの端に
して、JRへの乗り換えに長い地下通路を造らざるをえなくなったのも、同じ理由からで
はないだろうか?
上野から来た線路はここで分岐して、ひとつは今の銀座線の日本橋方面に、ひとつは東
京駅方面につながっていて、さらに新橋から品川までつづいていたようだ。
東京駅方面につながる線路は戦時中、政府が軍事用に使っていたらしいが、戦後は秘密
のベールに隠されたままである。
前記の通り神田駅の地下一階部分には「変電所」が入っていますので、別の地下鉄が走る余地はありません。秋庭さんは何の証拠も示さず、印象と出自定かならざる「AMS L-774」と言う地図の標記のみを頼りに、勝手に神田駅地下一階に地下線を構築されているのです。
な お、「東京地下鉄道史」の神田駅の図と地上からの土被り等を勘案すると、もし、神田駅地下一階に地下線を構築された場合、極めて天井高の低い隧道構築と なり、第三軌条方式の鉄道線でも相当扁平な車両が走ることになりますが、秋庭さんの仰る東京駅方面への地下鉄ってそうなんですか?
17」【萬世橋駅】駅が消えたのに、線路がつながっているのは、なぜ?
神田駅を出ると、銀座線は須田町交差点付近で不自然に右カーブして万世橋を渡り、ま
っすぐ末広町駅に向かう。
地図で見るとわかるが、末広町駅に向かうなら、もう少し手前からゆるやかなカーブを
描きながら曲がったほうがスムースだ。
なぜ、そうしなかったのだろう? そう考えていたとき、神田駅が消えた萬世橋駅のほ
うを向いていることに気づいた。神田駅~萬世橋駅~末広町駅のルートが考えられていた
のではないだろうか?
萬世橋駅は、1930(昭和5)年1月1日に仮駅として設置され、翌年の11月21日神田
駅開業と同時に廃止されている駅である。秋葉原電気街の一角、ラオックス本店の前の歩
道に地下鉄の換気口がある。
下に地下鉄が走ってもいないので不思議に感じるが、この下にはかつて萬世橋駅があっ
た。ここは同駅の地上出人口で、利用客はここから階段を下りて地下鉄に乗っていたのだ
という。のぞいてみると、今でも階段が見える。
また、秋庭さん例によって現地取材していないんじゃないですか?地図だけ見て、そして他の人の著作か、ネットの記事か何かの聞き齧りで、地下鉄の換気口の位置を見誤っているか、歪曲しているんじゃありませんか?
ラオックス本店前の歩道と言うのは、東京都千代田区外神田1-2-9のオノデン本館とラオックス本店の間の路地のことではありません。中央通りの歩道のこ と です。また、換気口の正確な位置は、ラオックス本店並びの石丸電気家電生活館の前で、換気口とはこの四枚の格子蓋のことです。

下に地下鉄が走ってもいないので不思議に感じるが、この下にはかつて萬世橋駅があっ
た。ここは同駅の地上出人口で、利用客はここから階段を下りて地下鉄に乗っていたのだ
という。のぞいてみると、今でも階段が見える。
下、銀座線走ってますよ。電車の走行音と排気がありますよ。銀座線ですから相当頻繁に。
そして、格子の密度が高く、滑り止め状になっていますので中は結構暗く、中を覗くには相当な光源の光量が要ります。立ったままで透かして覗くなんてのは 難しいでしょう。「何やってるんだあいつは」との視線の中で屈むか、四つん這いになって覗かないと「階段」なんて見えやしないですよ。
浅草から上野、末広町と地下鉄を延ばしてきた早川徳次の東京地下鉄道は、ここで一時
延伸を中断する。
萬世橋が架け替え中で、その完成を待ったとされている。しかし、神田川の川底の下に
トンネルを掘るには、橋の改築が完成するあとより同時に行なったほうがやりやすいので
はないだろうか? 上にのっかる橋の重さや構造を考えると、同時に造ったほうが橋をし
っかり支えられるトンネルが造りやすいはずだ。
ましてこの工事は関東大震災後の帝都復興事業で、萬世橋を大地震でも壊れないコンク
リート製のアーチ橋に架け替えることだった。当時の政府が、その橋の下に地下鉄のトン
ネルを完成したあとに掘らせるだろうか? 帝都復興事業と称して地下東京のマスタープ
ランを作成し、実施していた当時の政府が早川の計画を知れば、それを呑みこんで橋の改
築と同時に密かにトンネルを造ったとしても不思議ではない。
ここのところは mori-chiブログをご覧ください。卵が先か、鶏が先かちゃんと書いてあります。
それまで道路を掘ってトンネルを造る「オープン・カット工法」を使ってきた東京地下
鉄道としては、初めてのシールド工法で慎重になっただろう。どうしようか? 悩んでい
るときに飛びこんできたのが、萬世橋の改築工事の話ではなかったのだろうか? 渡りに
舟と、この話に東京地下鉄通が乗っかり、結果、銀座線は須田町交差点で不自然なカープ
をする路線になった、と私は考えている。
万世橋下の銀座線神田川越えのトンネルは「山岳工法」と言う、山をくり貫く工法、正確には山の地山の保持力を利用して横穴を掘っていく、などの在来工法的なトンネルを掘る掘り方で掘られました。シールド工法ってどこから引っ張ってこられたんだか?
大体、秋庭説では東京地下鉄道(早川)はあっちこっちで、人知れず地下鉄が掘れるシールドトンネルを既に掘っていたはずじゃないんですか?万世橋がはじめてのシールド工法なら、それ以前の早川が、或いは他の人が掘ったとされる地下鉄、地下道は何工法で掘ったんですか?
<補足と訂正> 平成20年1月21日
今般改めて東京地下鉄道史坤の巻を読み返しましたところ、万世橋下の川底部分は mori-chi さんの記述の通、万世橋と一体で造られ、神田川の該 当部分を一旦干上げて開削工法で隧道部分を構築し、上に万世橋の構体が乗せられている事が確認できました。山岳工法、東京地下鉄道史では隧道工法と書かれ ていますが、これは川底隧道部分への取り付け部分に使われたことが書いてありましたので、本文を持って、上記の記述の訂正とします。
秋庭さんどうしても、万世橋駅の位置を現銀座線上ではなく、中央通から外れた元の萬世橋警察署の在った付近にしたくてしょうがないようですね。でも以下 の文章はmori-chi氏指摘の 通り支離滅裂です。「万世橋の架け替え工事がながなければ、神田駅~萬世橋駅~末広町駅のルートに線路が敷かれたはず」 と言うことは、万世橋の架け替え工事があったから、「神田駅~萬世橋駅~末広町駅のルート」は敷かれていないわけですが。なのに、「線路は撤去されず 1979(昭和54)年3月まで神田駅折り返し用に使われていた」線路が敷かれているんですよね。
もし、萬世橋の架け替え工事がなければ、神田駅~萬世橋駅~末広町駅のルートに線路
が敷かれたはずである。でなければ、廃止されるとすぐに木造のホームは壊されたにもか
かわらず、線路は撤去されず1979(昭和54)年3月まで神田駅折り返し用に使われてい
たというのは理解できない。仮駅ならこんなに長く使用できる線路を敷く必要はなかった
はずだ。
私には秋庭さんの
線路は撤去されず1979(昭和54)年3月まで神田駅折り返し用に使われていたというのは理解できない。
と言う記述が理解出来ません。神田駅折り返し用の引揚線として使われていたと言うことはどこから仕入れられたのでしょうか?
秋庭説の通りとするなら、もう1本神田駅側から万世橋の下を潜る現銀座線とは別に、万世橋を外れた位置で神田川を潜る隧道が必要になりますし、神田駅折 り返しの、つまり銀座線には1979年まで、神田駅始発の仕業があったことになりますが。そのスジに関する記録どこにあるんでしょうか?相当多くの人がこ の線路の存在を知っていたことになりますよね。幻の新橋駅のように。
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