地下妄の手記
序章?前相撲にも成れぬ 論外コード
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序章?前相撲にも成れぬ 論外コード
序章? 序の口どころか、番付にも上がれぬ前相撲、それにも上がれぬ新弟子検査落ちの様なお話。
森鷗外の「帝都地図」
序章「鷗外コード」
森鷗外が作った地図の謎
文豪・森鷗外は一九〇九(明治四十二)年、左のような地図を発表している。タイトルは「東
京方眼図」、左上に「森林太郎立案」とある。林太郎は鷗外の本名である。
だが、鷗外が地図を作っていたということは、あまり知られていないと思う。また、鷗外の作
品だけに、すでに多くの人に研究され、評価も解釈も確定しているかというと、そんなこともな
いようだ。左の地図には多くの謎があるにもかかわらず、いまもその謎はほとんど解明されてい
ないのである。
まず、「森林太郎立案」とあるものの、地図を緯度、経度の方眼で表すという手法は、江戸時
代の伊能忠敬のころから用いられていたもので、とくに鷗外が立案したとは考えられないのであ
る。それでは、このとき鷗外は何を立案したのだろうか。
また、この地図は北が上、つまり方位は正しく描かれているにもかかわらず、右下をご覧いた
だきたい、方位マークのようなものが書かれているが、そのマークは大きく左に傾いているので
ある。
文字や記号の謎については、これから順次、紹介していくが、この地図では上野公園に「上」
の字がなく、「野公園」とある。馬場先門には「門」の字がなく、「馬場先」である。「い六」の
方眼には「新橋」という字が上下逆さに善かれていて、しかも、そこは「新橋」ではないのである。
さらに、白山神社や日枝神社には赤い鳥居のマークがあるが、根津神社や東照宮には鳥居がな
い。この地図には赤丸や赤い三角、赤い×や旗のようなマークまであるが、それは地図記号には
存在しないもので、しかもどこにも説明がないのである。
(森鷗外の「帝都地図」 4頁)
「左のような地図」と5ページ目に挙っているのがこれ。
で、何か気になるこの白線、
前項で挙げた、坂崎氏の「一葉からはじめる…」附録の「東京方眼図」全体を愚生が写真で撮ったものを見ると、
矢印部分折り目の位置が、白線と一致しちゃいました(笑
どういう事かは言うまでもありませんね。
繰り返し言います。
坂崎氏の「一葉からはじめる…」(2004年刊)、秋庭さんの「森鷗外の…」(2011年刊)です。
だが、鷗外が地図を作っていたということは、あまり知られていないと思う。また、鷗外の作
品だけに、すでに多くの人に研究され、評価も解釈も確定しているかというと、そんなこともな
いようだ。
鷗外全集とかにこのことは載ってますし、秋庭さんも書いていますが、主人公が東京方眼図を使う鷗外の「青年」の話は有名ですね。
すでに多くの人に研究され、評価も解釈も確定しているかというと、そんなこともな
いようだ。
そりゃ秋庭さんの様なけったいな解釈をする人は他におりませんが、森林太郎立案と言うことの「立案」については評価も解釈も定まってますけれど。
文字や記号の謎については、これから順次、紹介していくが、この地図では上野公園に「上」
の字がなく、「野公園」とある。馬場先門には「門」の字がなく、「馬場先」である。「い六」の
方眼には「新橋」という字が上下逆さに善かれていて、しかも、そこは「新橋」ではないのである。
さらに、白山神社や日枝神社には赤い鳥居のマークがあるが、根津神社や東照宮には鳥居がな
い。
「上野公園」の「上」の字は描き漏らしちゃったんだと思われます。「馬場先門」ですが、この地図のできる4年前、明治38年に撤去されていますので、「馬場先」で正しいかもしれませんね。「い」の「六」の新橋については、後の項で秋庭さんが複写した図が出てきますのでその時にでもふれたいと思います。赤い鳥居のマークとかは、神社には社格というものや、由来が有りますので「暗号」だのへったくれだのでは無く、明治42年当時の状況で判断する必要があるんじゃないでしょうか?「東京10社」に含まれていても、官幣社でないからとか、根津と東照宮の本来の祭神は権現だったりとか、場所的にランドマークにならないからと言うような、もっと単純なことが理由かもしれませんし。
まぁ、6~7頁ここからが佳境というか、病膏肓と言うか(笑
地図のルールから外れた地図
左は地図の中心、旧江戸城周辺である。矢印①の先に「天神ハシ」とある。そこから「平河
橋」へと細い矢印が延びている。この矢印は鴎外が書いたものだが、この地図には何も説明がな
く、その後の鴎外研究でも意味は説明されていない。「ハシ」とカタカナで書かれている理由も
わかっていないという。
矢印②の先には 「北白川御銅像」 とある。つまり、北白川宮の 「宮」がないのである。ここ
で明治という時代について、いまさら私が説明する必要はないと思う。こういうことが単なるミ
スではすまなかった時代である。また、ほとんどの読者は「御銅像」という言葉を初めて目にし
たのではないだろうか。ふつうは、銅像に「御」はつけないものだからである。
矢印③には「近衛歩兵第一旅団司令部」とある。しかしながら、鴎外はこれを「近衛歩」で改
行し、以下、「兵第一」「旅団司」「令部」という、不思議な改行をくりかえしている。なぜ、最
後の行にまとめて「司令部」と書かないのだろう。しかも当時、そこにあったのは旅団司令部で
はなく、近衛師団司令部だったのである。
また、矢印④の先には 「愛生」とあるが、当時、そこにそのような町は存在せず、それ以前も
以後もそのような町はなかった。つまり、それは鴎外が作った架空の町名である。その右には
「梨本宮」「宮内大臣」などとあるが、通常、地図では「梨本宮邸」「宮内大臣邸」などと記すも
のである。しかも、その邸宅の建物どころか、位置を示すポイントもないから、どこにその邸宅
があるのかもわからない。つまり「東京方眼図」は、地図の決まりにのっとっていない 〝地図″
なのである。
(森鷗外の「帝都地図」 6頁)
「左は地図の中心、旧江戸城周辺である。」
矢印①の先に「天神ハシ」とある。そこから「平河橋」へと細い矢印が延びている。
この矢印は鷗外が書いたものだが、この地図には何も説明がなく、その後の鴎外研究でも意味は説明
されていない。
と仰るのがこの図です。
でっ、仰るところの、矢印なるものを、秋庭さんの附録で見てみるとこんな感じ。
7頁の白黒の図より、「矢印」とやらボヤけてませんか?とても、同じものとは思えない。そこで、坂崎氏の縮小版「東京方眼図」を見てみると、
何か、こっちの方が鮮明で、7頁の図に近い様な(笑 というかそっくり(笑
この矢印は鷗外が書いたものだが、
だそうですので、オリジナルの明治42年春陽堂刊行「森林太郎立案 東京方眼圖」現物を当たってみた。
大阪府立中央図書館蔵「東京方眼圖」(明治42年春陽堂刊)部分
どこに鷗外の書いた矢印があるんでしょうか?
さて、秋庭さんも次項でお書きの通り、この明治42年刊の東京方眼圖が昭和46年頃から昭和60年頃まで、何度か「日本近代文学館」から復刻刊行されています。その復刻版の該当部分がこれだ。
大阪市立中央図書館蔵日本近代文学館復刻「東京方眼圖」(昭和50年ほるぷ社刊)部分
インクが散ったものか、明治42年版に無い汚れの様な点が、ついてますね。
どうやら、坂崎氏の複製元が明らかになったようです。「日本近代文学館」の復刻版ですね。坂崎氏判型としては4割位、図としては実質2割程度の縮小掛けちゃったものだから、曲線と少し離れていた、日本近代文学館復刻版の汚れが印刷の潰れで、曲線と接するように矢印に見えなくも無い様な、くっ付き方をしてしまった訳ですね。
まぁ、秋庭さんのやることはこんなもんですが、坂崎氏もこんな調子で、出典を書かないわ、勝手に改版(縮小)して地図の比率を変えちまうわじゃ、オリジナルは保護期間が切れたとは言え、復刻版の著作権やオリジナルと復刻版の著作者人格権をどう考えているのやら?
どうなんでしょうかね?自称編集者さん?
この、──森鷗外の「帝都地図」隠された地下網の秘密──で使われている自称「森林太郎原案(発表)東京方眼図」の図版は、ほとんど(9割)が坂崎重盛著「一葉からはじめる東京町歩き」(実業之日本社2004年刊)の附録からのコピーです。つまりパクリ。残りの1割は、図書館からパクった日本近代文学館復刻「東京方眼圖」(昭和50年ほるぷ社刊)の部分複製です。秋庭さんと洋泉社の面目躍如ってところですかね(笑
ところで、「森林太郎立案 東京方眼圖」は、秋庭さんが後の項で示されるように、一枚物の地図と、174頁の索引部と26枚の一枚物地図を分割して綴り込んだ冊子からなっています。秋庭さんは一枚物地図と冊子は別立ての様に書かれていますが、一体不可分なものです。なので、その冊子に綴り込まれた分割された「平河橋」、「天神ハシ」部分「ほ」の「三・四・五」を、日本近代文学館復刻「東京方眼圖」から挙げておきます。
大阪市立中央図書館蔵日本近代文学館復刻「東京方眼圖」(昭和50年ほるぷ社刊)冊子「ほ」の「三・四・五」
ご覧の通り、あれは矢印ではありません。お濠と土手の彩色ミスですね。一枚物地図には似た様な漏れ欠けが結構ありますが、冊子の分割図では相当に補正がなされています。そんな一枚物図上の漏れ欠けが、秋庭さんの「暗号」とやらのネタ元になってるんですけどね。
矢印②の先には 「北白川御銅像」 とある。つまり、北白川宮の 「宮」がないのである。ここ
で明治という時代について、いまさら私が説明する必要はないと思う。こういうことが単なるミ
スではすまなかった時代である。また、ほとんどの読者は「御銅像」という言葉を初めて目にし
たのではないだろうか。ふつうは、銅像に「御」はつけないものだからである。
「北白川御銅像」が「北白川宮」のことだとどうして判るのか?
矢印③には「近衛歩兵第一旅団司令部」とある。しかしながら、鴎外はこれを「近衛歩」で改
行し、以下、「兵第一」「旅団司」「令部」という、不思議な改行をくりかえしている。なぜ、最
後の行にまとめて「司令部」と書かないのだろう。しかも当時、そこにあったのは旅団司令部で
はなく、近衛師団司令部だったのである。
なんで、師団司令部と旅団司令部の位置の違いが判るのか?
「梨本宮」「宮内大臣」などとあるが、通常、地図では「梨本宮邸」「宮内大臣邸」などと記すも
のである。しかも、その邸宅の建物どころか、位置を示すポイントもないから、どこにその邸宅
があるのかもわからない。
なんで、──「梨本宮邸」「宮内大臣邸」などと記すもの──「邸」が付くものだと判ったんだろう?
ひょっとして、この秋庭さんが大好きな「小林又七謹製」内務省の地図でもご覧になったのかしら。
明治44年番地界入東京全図(東京逓信管理局製作著作 小林又七発行)
でも、これをご覧になっていたのなら。
いや、絶対ご覧になっていますよね(笑
だって、秋庭さんの書いておられる司令部の位置とか「宮」とか、「邸」とかの「情報、状況」が判る地図資料って、「番地界入東京全図」の他にないじゃありませんか(笑
また、矢印④の先には 「愛生」とあるが、当時、そこにそのような町は存在せず、それ以前も
以後もそのような町はなかった。つまり、それは鷗外が作った架空の町名である。
なんてお馬鹿なことは普通はお書きにならないはずですよね。だって、「愛生」って病院名ですものね。
それが何で?「それは鷗外が作った架空の町名である。」になるんでしょうか?
〝鷗外コード〟を読み解く
すなわち、この地図は特別な目的のために作られている、と考えられるのである。かつてレオ
ナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」などに残した暗号が〝ダ・ヴィンチ・コード〟なら、こ
の地図の多くの謎は〝鷗外コード″と呼べるのではないだろうか。本書は、そのコードを解き明
かそうというものである。
本書付録としてカラーの「東京方眼図」がある。鷗外がわざわざカラーで印刷していることか
ら、赤い色にテーマがあると想像できる。道路の上に延びている赤い筋は、当時開通したばかり
の路面電車、のちの都電のルートである。筋の途中にある赤丸は、都電の停留所があったところ
だ。ここで、左の図の銀座周辺をご覧いただきたい。
都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中
には都電の停留所を示す赤丸もある。だが、路面電車が水の中を走るはずもなければ、水の中に
停留所があるわけもない。こういうとき、この筋は地下鉄のルートを表していると解釈されると
思う。常識をもって考えれば、ほかには解釈が存在しないだろう。東京には戦前の早い時期から
地下鉄が走っていたのである。
つまり、この地図は東京の地下を描くという、特別な目的のために作られていた。それは当然
のことながら〝公式の歴史″とは異なっているが、本書はかつて江戸という都市がどのように築
かれ、明治時代にその地下がどう改造され、また、鷗外がそれにどうかかわっていて、なぜ、鷗
外がこのような地図を作るに至ったかということを、歴史上の文書、資料、法律などから解明し
ようというものである。
(森鷗外の「帝都地図」 8頁)
以前にも申し上げたけれど。〝ダ・ヴィンチ・コード〟なんて言葉が出てきた時点で、お話の信憑性が格段に落ちるから〝ダ・ヴィンチ・コード〟云々何てお止めなさいと。
ましてや、原本からじゃない、坂崎重盛著「一葉からはじめる東京町歩き」の附録から秋庭さんが得意技で「駄ビング」しまくった地図、即ち同一性が保証されていない図版資料で「地下妄」を〝鷗外コード″たらと言われて語られても、そりゃあもう、“論外コード”だよねと言うしかないんですが。
本書付録として──坂崎重盛著「一葉からはじめる東京町歩き」からパクって来た──カラーの「東京方眼
図」がある。
(中略)
ここで、左の図の銀座周辺をご覧いただきたい。
都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中
には都電の停留所を示す赤丸もある。だが、路面電車が水の中を走るはずもなければ、水の中に
停留所があるわけもない。こういうとき、この筋は地下鉄のルートを表していると解釈されると
思う。常識をもって考えれば、ほかには解釈が存在しないだろう。
と仰る「左の図」なるもの、帝国ホテルの東側まで外濠が来ているとされる、本文の9頁に挙げられているこの図です。
上で説明しましたが、「森林太郎立案 東京方眼圖」は、一枚物の地図と、174頁の索引部と26枚の一枚物地図を分割して綴り込んだ冊子か
らなっています。一枚物地図と冊子は一体不可分なものです。なので、その冊子に綴り込まれた分割された秋庭さん曰くところの「銀座周辺」を、明治42年“発表”(笑 の「東京方眼圖」から挙げておきます。
画像が小さくてよく判らないかもしれないので、
都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中
には都電の停留所を示す赤丸もある。
と秋庭さんが主張される該当部分、帝国ホテルの東側をもう少し拡大してお目に掛けます。
はて?「ほ」の「七」方眼のどの辺に
都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中
には都電の停留所を示す赤丸もある。
が、あるものやら?
OP:平成24年2月14日