地下妄の手記
一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その7
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619metro
一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その7
秋庭さんが鉄ちゃんで無いことはこの項で判る。
31」[赤坂見附駅]戦後開通の丸ノ内線が戦前のトンネルを走る謎
中略
なぜここだけ、こうなのだろう。設計士がこんなことをするわけがない。私は、ヤード
法をメートル法に換算した数字じゃないだろうか、と閃いた。
手元にあった手帳を開き換算表で確認してみると、「182・881メートル」はヤー
ド法の「200ヤード」であることがわかった。日本でヤード法が使われていた時代は限
られている。
戦前、それも明治から大正までの時期にさかのぼらなければならない。ということは
このトンネルがそんな昔に造られたもの、ということになるのだろうか?
専門家に聞くと、建設業界では、鉄道を建設するときだけマイル、ヤード、インチのヤ
ード法を長く使っていた、という。このカーブは「戦前に地下鉄を走らせるために造られ
た」ことが確かになった。
鉄は、「ヤード」が殆ど使われなかったことを知っている。不確かだが、レールの斤量に文字通りのヤード・ポンドが使われていたようなくらいしか、ヤードについては私の記憶には無い。
秋庭さんは「専門家」に聞いたらしい。過去の彼の書き物には、この「専門家」氏の発言なるものが見当たらないので、最近出会われた幽霊さんなんだと思われる。
秋庭さんによると
一九二四年(大正一三)、鉄道にメートル法が施行された。
この間にメートル法が徹底されたのだろうと年表を探していくと、五・一五事件が
このなかにあった。
ちなみに、五・一五事件は1932年(昭和7年)の出来事でありますな。
さ て、まず我が国では明治24年から度量衡法によって尺貫法との併用が始まり、大正10年(1921年)4月に尺貫法が廃され度量衡がメートル法に統一さ
れている。秋庭さんの言う1924年(大正13)は何かと言うと、1921年の10月に我が国はメートル法の改正国際条約に調印(批准かな)していて、こ
れの実施(履行)が1924年ということなんだが。
鉄は、昭和5年(1930年)まで、また、昭和20年からの占領下において、鉄道では、哩 や、鎖や、呎や、吋が使われていたことを知っている。大正13
年以降も軌道法、地方鉄道法で鉄道事業の申請をする書面、所管部署に回付される写しなど、つまり公文書の類に起点から終点までの距離が哩、鎖、呎で表され
ていたものが多数存在する。軌間や車両の大きさも呎と吋で表されていた。つまり、メートル法移行には相当な移行期間が法に定められていた訳だ。別に
軍事政権の誕生ということか。ドイツ人設計士に突然メートルを強制できたのも、
やはり、帝国陸軍だったからかもしれなかった。
だった訳ではないと言うことだ。
鉄分の薄い鉄でもこの程度のことは知っている。したがって、秋庭さんが尋ねた「専門家」が、何を専門としているのかは判らないのだ。何故なら、専門家は「碼を使っていた」とは言わないし、時期を違える事も無いだろう。
この話の元ネタ、秋庭さんの話は全部、「2ちゃんねる」で言う「ネタ」なので、敢えて「元ネタ」と言おう、この話の元ネタは「帝都東京・隠された地下網の秘密」単行本157頁、文庫版208頁にあるのだが、以下のような変遷を辿っている。
単行本
また、戦前の建設業界では、鉄道を建設するときだけマイル、ヤード、インチを使っていた。
文庫版
また、戦前の建設業界では、鉄道を建設するときだけフィートを使っていた。
何なんですかね?これは?
その「帝都東京・隠された地下網の秘密」ではこの記述の数ページ後、単行本では167頁、文庫版では221頁に当るところに「銀座線カーブ一覧表」を乾
坤二(笑)「東京地下鐵道史」からパクって来られているのだが。この正確には「曲線表」の「半径R」とされた欄には、端数のついた「呎」の曲線が其処此処
にある。しかも、メートルに直しても限が良いとは限らない半径が。
これって、秋庭さんの論拠、メートルで端数が出るが、碼、実際には呎に換算したら限の良い数字になるから、その曲線、秋庭さんの言う「カーブ」が戦前に
造られたとは限らないってことなんじゃないのかな?秋庭さん諸作の度量衡についてはここに書いてあるのであわせて御覧になられたい。
そういえば、丸ノ内線には他にも、戦前に造られたと私には思えるところがある。3つ
の〝設計の限界を一度に超える坂〟があったり、駅のカープが逆さまを向いていたり、天
井の高さが違っていたりしているのだ。
これも、「帝都東京・隠された地下網の秘密」では、単行本30頁、文庫版36頁で項題そのものになるのだが、
「限界破りの駅」
だ。
3つの〝設計の限界を一度に超える坂〟
など、今までの「秋庭さんの丸ノ内線」にすら存在しなかったものだ。後段の『34」[国会議事堂前駅]この駅が戦前からあったことを物語る証拠とは?』に自ら三つの内の二つの限界について書いておられるが、そのうちの一つは、
それだけではない。駅構内の線路は電車とホームのあいだが広く空かないように
半径500メートルを限界としていたが、この駅のカープは半径300メートルで、限界を
超えている。
となっている。これは「坂」ではなく「駅」のことだ。自著、しかも同一の書中において、あとの項題で再使用するネタすらまともに捏造できないらしい。
32」[赤坂見附駅]戦前、壁の奥に、丸ノ内線のトンネルが隠されていた?
これについては、こことか、ここに詳述しているので、ここではそのまま火に焼べるだけにする。
敢えて言えば、
『東京高速鉄道略史』が嘘を書くわけはない。
まぁ、秋庭さんが嘘を吐いていると言うことは間違いの無い事実でありますな。
地下鉄に詳しい人から聞いたところでは、地下鉄新宿線は戦前に開通しており、
赤坂見附駅の仮の壁の向こうにはそのトンネルがあったはずだ、という。
ただ、国民には極秘にされていただけなのだ。
「地下鉄に詳しい人」って誰?また幽霊?それとも嘗ての友人「中川」氏?丸ノ内線の線路が敷かれていると、端数のある「工施」、から暴いたのは彼じゃなかったかな?その後、とんとお名前をお見掛けしないんですが、どこへ行かれたんですかね?
33」[赤坂見附駅]日枝神社の鳥居に秘められた丸ノ内線トンネルの謎
丸ノ内線建設史下巻第1編土木工事第13節日枝(「ひえい」とルビあり)神社鳥居受工事の全文が載った166頁を挙げておく。元の字が薄いのと縮小で読み難いかも知れないが、
『東京地下鉄道丸ノ内線建設史』を読むと、営団(今の東京メトロ)が山王
日枝神社の鳥居を造ったと書かれている。
などとは一言半句も書かれていない事が判る。
この鳥居のすぐ下を丸ノ内線が走っている。神社の鳥居というと木で造られて
いると考えるのが常識だが、ここの鳥居は鉄筋コンクリート製だ。
その理由は、というと、鳥居の下の地盤が軟弱で地震などで倒れないように頑
丈な鉄筋コンクリート製にしたという。もちろん、その下を地下鉄が走ることも当然
考慮されたはずだ。
鉄筋コンクリートであることと、軟弱な地盤は関係ないことが「第13節日枝神社鳥居受工事」を読むとわかる。原文はこうだ。
第13節 日枝神社鳥居受工事
赤坂見附の都電軌道に面した参道入口に日枝神社の鉄筋コンクリート造りの
大鳥居(高さ11.5m,幅8m)がある。(図113)これは長い木杭基礎の上に
基礎コンクリートを打って建てられたものであるが,この付近は地盤が非常に
軟弱な上,不安定な構造物なので,これに接近して隧道構築を造るに当り,
影響を防ぐため次のような工法を採用した。
まず、こんなところから、秋庭さんの改竄ははじまる。次に秋庭さんは、
地面を掘ってコンクリートのべ夕基礎をまず造り、鉄筋コンクリートの鳥居
をそこに載せ、鉄杭でしっかり固定しているという。こうした工事を丸ノ内線
建設のときに営団が行なったと記されている。
しかし、この付近のトンネルは戦前に造られた、と考えている私は、トンネル
工事が行なわれたとき同時に鳥居も造られたと信じている。
基本的には、この、丸ノ内線建設史166頁を秋庭さんは読んでいる。だから、「営団が鳥居を造った」などとどこにも書かれていないことも承知している。だから、彼はこう書く。
トンネル工事が行なわれたとき同時に鳥居も造られたと信じている。
建設史に「営団が鳥居を造った」と明記されているなら、「信じるも信じないも無い」、鳥居は「営団」が造ったと言うのが事実と言う事になるんじゃなかろうか?別に信じる必要も無い。
ここのところの、原文はこうなっている。
すなわち図114のように鉄筋コンクリートのベタ基礎を作り,これを鉄杭で下受し,
頭部に4本の鋼索(径18mm)で支線を取り,更に(径25cm)の松丸太で支えた。
施工の結果は極めて良好であった。
図を見れば判るだろう、丸ノ内線隧道工事期間中の対策で、「頭部に4本の鋼索(径18mm)で支線を取り,更に(径25cm)の松丸太で支えた。」こんな不細工な姿を恒久的に鳥居にさせる訳ではないことが。
34」[国会議事堂前駅]この駅が戦前からあったことを物語る証拠とは?
赤坂見附駅を出た丸ノ内線は、国会議事堂前駅の前後で車体が大きく揺れる。この揺れ
は線路が急カーブをしているために起こるものだが、調べてみると、国会議事堂前駅の手
前に半径160メートルのカーブがあり、霞ヶ関方向に半径170メートルのカープがあ
ることがわかった。
地下鉄では、立っている乗客の足元がグラリとくるカープが半径200メートルといわ
れているから、ここのカーブはそれよりかなり急なカープといえる。
『丸ノ内線建設史』 によると、著者である設計士は地下鉄が将来、都民の足になることを
すでに予想していて、乗客の安全と快適さを考えて急カーブや急坂を造らない設計を目指
していた。
カープの限界も決めていたが、将来の私鉄乗り入れを考えて200メートルのカープよ
り急な、一般の私鉄なみの180メートルを限界としていた。しかし、その限界も超えて
いることについて、設計士はなぜか何も説明
していない。
得々と、カーブについて書かれているが、どこから拾ってきたネタなんだろう?丸ノ内線の諸規格及び設計の基準、秋庭さん言うところの「限界」は確かに実
際の丸ノ内線の施工設計を行った人々に拠って決められたものではない。「東京地下鉄道丸ノ内線建設史下巻」第1編土木工事第1章諸規格及び設計の基準第1
節設計基準の冒頭に
地下鉄技術委員会の答申等を参考として,昭和22年規格設定委員会において次の設計基準を決定した。
と書かれている。以下、
1.軌間、2.電気方式、3.車両、4.車両定規、5.建築規程と基本的な項目について書かれていき、6.最小曲線半径という項目となる。
6.最小曲線半径
本線を160m,乗降場に沿うものを500mとした。これは高速度運転のため多少の工事費増額を認めて,
最小曲線半径を銀座線の場合より大きく制限したものである。(銀座線の最小曲線半径は120m,上野駅付
近に特例として91.440m)
注 実施に当っては種々の理由によりやむをえず西銀座駅付近で半径140mの曲線を使い,
また乗降場に沿うものも西銀座,国会議事堂前の両駅では半径300m,赤坂見附駅では
半径400mの曲線を使った。
おやぁ?
一般の私鉄なみの180メートルを限界としていた。
どこにそんなことが書いてあるんだろう?「本線を160m」と書いてあるが。
国会議事堂前駅の手前に半径160メートルのカーブがあり、霞ヶ関方向に
半径170メートルのカープ
ノープロブレムじゃーないのかな?歪曲?改竄?ご苦労様。限界超えていないんだから、当然説明は無い。
なんか、注記はあるが、本線の最小曲線半径は西銀座駅付近で使いましたと。
それだけではない。駅構内の線路は電車とホームのあいだが広く空かない
ように半径500メートルを限界としていたが、この駅のカープは半径300メートル
で、限界を超えている。
これは限界を超えているが、「西銀座駅」も「赤坂見附駅」も限界を超えてるよと注記にある。赤坂見附駅の乗降場に沿う部分の最小曲線半径がメートルで限の
良い数字になっているのは、戦後作り直された証拠ではないのか?戦前造られたものが限の良い碼たら呎たらで記録されているように。
国会議事堂前~霞ヶ関のあいだでは急坂の限界も破られている。
2パーミルの差って大きいのか?
7.最急勾配
本線を33/1000停車場内を10/1000とした。
なお、隧道部においては乗降場部以外は排水の関係から最緩勾配を2/1,000とした。
注 国会議事堂前駅付近並びに四ッ谷駅付近に特例として35/1,000を使った。
以上の項目、限界を超えていない本線の最小曲線半径以外、全部「丸ノ内線建設史」に注記されているもので、秋庭さんが線路平面図縦断面図を眺めて実際に
発見したのは、その注記に無いつまり限界を超えていない国会議事堂前駅の前後の170mと180mの曲線だけ。注記が無ければ、他は気付かなかったと思わ
れる。何故なら秋庭さんは日比谷線東銀座~銀座間の記述(地下鉄道99の謎45」「東銀座駅」戦前の幻の地下鉄「新宿線」のトンネルを改造)でも判る様
に、未だに勾配の意味がよく判っていないのだから。
何の理由もなく、その設計士が自ら決めた限界を自ら破るだろうか? 私には理解でき
ない。この駅は、他の人間が設計した図面で造られたのではないだろうか。
だから、限界は設計士(アーいやな響きだ)が自ら決めたわけじゃないって。
昭和22年規格設定委員会において次の設計基準を決定した。
なので、規格外れは戦前の誰とかさんじゃなくて、戦後、実際に丸ノ内線の施工設計を行った人々が設計したわけ。
よって前述──31」[赤坂見附駅]戦後開通の丸ノ内線が戦前のトンネルを走る謎──の「3つの〝設計の限界を一度に超える坂〟」は、存在しない。あるのは
①限界を超えていない本線の曲線半径
②限界を超えた「乗降場(駅)に沿う」曲線半径
③限界を2‰超えた「本線の最急勾配」の坂
その後、この駅の図面にだけ「國會」「議員會館」というように旧漢字が使われている
ことを私は発見した。これも駅が戦前からあったことを示す資料である。
なるほど、駅の図面一枚に舊漢字が使われていることが、戦前からあったことを示す資料となるのなら、これ何ぞは差し詰め池袋・御茶ノ水間が戦前に造られていたことを示す資料ってことになるか。「凡例」には「単亘線」の「單」や、「国電」の「國」の字があるが。
次章は一項目を以って章立てをすることとしたので、項番を調整するため、本項に2月17日付で以下を追加することとしました。
秋庭さんの記述の特長というか、嘘の造り込みの仕方として、
1.似て非なる事象を歪曲、改竄、捏造に拠って似たように装う。
2.地域等を括る言葉などを鍵となる言葉のように勝手に歪曲して関連付けし、何かの表象であるかのように装う
3.まるっきり無関係な事象や、事実などを並べて、特に理屈付けることもなく、並べることに拠って相互に関連があるかのように装い、自己の妄説の
憑拠と言いたてる。
以下はそんな作法の例である。
35」[霞ヶ関駅]戦前、日比谷公園の地下に線路が敷かれていた?
丸ノ内線は、霞ヶ関駅を出ると日比谷公園を少し左にカープしながら横切り、帝国ホテ
ルの北側の道路から大きくカーブして数寄屋橋の銀座駅に達する。
日比谷公園の造園工事がスタートしたのは1900(明治33)年で、最大の話題は帝国
ホテルあたりにあった樹齢300年といわれた大イチョウを日比谷公園の中央に移動する
ことだった。
公園内に現在もあるレストラン松本楼まで450メートルの線路を敷き、大イチョウを
立ったまま運ぶという、当時としては奇想天外のアイディアに反対の声もあがったが、責
任者だった本多清六(林学の専門家)が「私の首をかけよう」といって押し切った。
移動は1日約18メートル、25日をかけて無事終了し、今も日比谷公園に大イチョウは生
きつづけており、樹齢は400年を超えているはずである。
この移転作業で私に理解できないのは、1日に約18メートルしか大イチョウを移動して
いないことだ。1日に100メートルでも200メートルでも移動できたはずなのに、ど
うしてなのだろう。できなかったのか、しなかったのか──
当時の東京市の資料には何の説明もされていない。それからおよそ半世紀後に、大
ョイチウが移動したところの地下を丸ノ内線が走るようになった。なぜ、同じルートが選
ばれたのだろう?
日比谷公園の造園工事にあたっての最大の話題は、大イチョウの移動だったのでしょうか?
まず、移動前の大イチョウの在った位置ですが、
帝国ホテルあたりにあった
わけではありません。日比谷御門の辺り、現在の日比谷交差点辺りにありました。帝国ホテルから北に三〇〇メートル弱行ったところです。
このことは2ちゃんねる辺りでも書いたと思いますが、秋庭さん自身が語るに落ちたところで、本項でも
公園内に現在もあるレストラン松本楼まで450メートルの線路を敷き、
と書いておられますけれども、松本楼と帝国ホテル間は直線距離で凡そ250メートルくらいしかありません。距離が合わないのです。
一方、日比谷交差点付近から現大イチョウの場所まで、直線で400メートル位、心字池があるので、直線で日比谷交差点から南西へ向かえませんから、これを避けたのでしょう450メートル頃合の距離が出ますね。
これはどう言う事かと言うと、丸ノ内線は、「大イチョウが移動したところ」の地下を走っていない、同じルートを選んでいないと言うことです。
地下鉄の歴史をひもとくと、大正時代に日比谷公園を拠点とした地下鉄計画の申請が出
されている。
「地下鉄の歴史をひもとくと、」と言う書き出しは、秋庭さんの場合、今から嘘を吐きますと言うキーワードです。
今の小田急電鉄の創立者、利光鶴松によるもので、帝国ホテルの前、現在、丸ノ内線が
千代田線、都営三田線と交差しているあたりに地下駅を造り、平均時速30キロの電車(1
両編成で100人運べる)を走らせる計画だった。
上記が、利光が大正8年1月に行った、次の様な軽便鉄道法による高架地下併用式電気鉄道の申請のことなら、
東京高速鉄道敷設免許申請書
私共儀今般東京市内ニ於ケル交通便益ノ為メ日比谷公園東隅ヲ起点トシ
鉄道院線渋谷、新宿、池袋、上野ノ各停車場附近ニ到ル区間ニ軽便鉄道
法ニ拠り高架線電気鉄道ヲ架設シ地勢ニヨリテハ一部分地下式トシ以テ
旅客運輸ノ業ヲ営ミ度ク候間右敷設ノ儀免許被成下度起業目論見書、敷
設費用概算書、運送営業上ノ収支概算書、線路予測図並ビニ仮定款謄本
柑添へ此段申請候也
大正八年一月八日
東京高速鉄道株式会社創立発起人
利 光 鶴 松
川 田 鷹
渡 邊 亨
以下略
「小田急電鉄二十五年史」
起点は「日比谷公園東隅を起点として」とありますので、帝国ホテルの前ではなく、日比谷交差点の辺りとなります。帝国ホテルなら、東隅ではなく、東辺となるはずではないでしょうか?
しかし、日比谷公園の地下を走らず、公園の外周に沿って西に走り、日比谷シティのと
ころで直角に曲がって霞ヶ関に向かうルートに変更された。
霞ヶ関駅は今の千代田線霞ヶ関駅がある場所に造られ、ここで1号線は虎ノ門から渋谷
へ、2号練は麹町を経て四谷から新宿へ向かう計画だった。
なんで、「しかし、日比谷公園の地下を走らず、・・・・・・霞ヶ関に向かうルートに変更された。」なんでしょう、まるで何か、公園の地下を走る計画が最初にあったように書かれていますが、上記のように最初から、日比谷公園の地下を走る計画に何ぞなっていませんでした。
小田急電鉄二十五年史では上記のように、この「日比谷公園東隅ヲ起点」として新宿、渋谷、池袋、上野へ向かう四本の幹線について利光が申請していることが書かれています。秋庭さん自身も唐突に、
ここで1号線は虎ノ門から渋谷へ、2号線は麹町を経て四谷から新宿へ向かう計画だった。
と利光の計画が複数の路線を持つものだと言うことを書いておられます。
この計画は1920(大正9)年に認可が下りたが、中身が変わった。
2号線は起点が新宿に変更されて地下鉄新宿線と呼ばれることになり、日比谷公園前の
地下駅がなくなって、霞ヶ関の海軍省の下に新たに駅が設けられ そこから日比谷公園を
左に大きくカープして、現在の日比谷線日比谷駅あたりに出るルートになっている。
「2号線は起点が新宿に変更されて」、2号線だけでなく、利光の申請した全線、4幹線と1支線合わせた軽便鉄道について、実質それの代わりに、新宿起点、終点は日比谷公園や霞ヶ関で無く、「鉄道院線大塚に至る」。地方鉄道線として認可された訳なので、「地下鉄新宿線」なんてもんじゃなくて、旧「東京高速鉄道」線なわけで。しかも「日比谷公園前の地下駅がなくなって、」ないのです。秋庭さんが、海軍省がどうたらと言う「利光送電図」でも、日比谷公園東隅に丸印残ってましょう?この駅の名はなんと言うんでしょう?さて、経路ですが、秋庭さんが書いているような、「日比谷公園を左に大きくカープして、現在の日比谷線日比谷駅あたりに出るルート」は、ライバルだった東京地下鉄道が現した「東京地下鉄道史」の附図類にはそんな風に描かれていますが、肝心の本家本元「小田急五十年史」の認可図では、晴海通りをそのまま桜田門の方に抜けていて、日比谷公園の地下なんぞ通っていません。
それらの図については、ここを参照ください。「東京高速鉄道計画路線図」の認可線の日比谷駅がどの辺りにあるかも確認してみてください。
利用者の多い日比谷公園前から海軍省の下に、なぜ変更されたのかよくわからないが、
工事はまったくされず、この計画も実現しなかった、という。
ところが、東京の地下には「まったく建設されていない」とされる施設やトンネルがた
くさんあることを知った私は、日比谷公園の下に地下鉄の線路が敷設されなかった、とい
われても「はい、そうですか」と簡単に認めるわけにいかない。
ウーンッ「利用者の多い日比谷公園前」って、出来てもいない駅の利用者が多いか少ないか?どうしたらわかるのやら。帝国ホテルの前の駅は利用者が多いと何を根拠に曰われるのだろうか?
そして、「利光送電図」よく見ると、霞ヶ関の駅とやら、「海軍省」よりも一区画北の司法省とか、大審院の在った辺りに描かれているんですけれど。
秋庭さん何を根拠に「海軍省の下」などと仰るのか?
「ところが」と言う接続詞自体、使い方がおかしく意味不明ですが、それに続く文も時制と、「てにをは」と、人称がおかしいために、更に意味が不明になってしまっています。何なんですかねこれは?