地下妄の手記
第二章 足元に広がる嘘 ⑤
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第二章 足元に広がる嘘 ⑤ 地下が機密になった日
要塞本63~64頁
地下が機密になった日
「一〇年経っても未着工」「全然見込みなし」
東京日日新聞と時事新報は大々的にそう伝えていたが、以後、市区改正に関する報道は一歩
も前に進まなかった。
一〇年経っても未着工なら、一〇年分の予算が消えたことになる。予算はどこに消えたのか、
誰がその責任をとるのか、今後、着工できる見込みはあるのかなど、まだまだ取材できることは
あるはずだが、最後までそのような報道はなかった。その理由は、記者の能力不足でも、真相が
わからなかったからでもなく、軍機保護法という法律によるものではないだろうか。
秋庭さんの能力不足か、真相を歪曲していることによるものではありませんか?
「『一〇年経っても未着工』『全然見込みなし』東京日日新聞と時事新報は大々的にそう伝えていた」
いつの、東日と新報が伝えていたのだろうか?市区改正旧設計が出たのが明治23年だから、その10年後、明治33年頃の記事だろうか?
「大々的にそう伝えていた」どういう伝え方なんでしょう?新聞現物ご覧になってます?なんだかどこかの都市計画史本からの無断複写臭いですね?複写した原本に「大々的に」という記述あったんですか?
「その日のニュースは新宿三丁目一色でした。」と丸ノ内線の新宿駅開業時の様子を、公式ホームページの2005年1月5日付近況報告にお書きになっておら れたので、私確かめて、前に2ちゃんスレに書いたけど、全然そんなことが無かったんですね。三越と伊勢丹が一段の四分の一位で新聞広告出してただけでした よね。
それと同じ話だったんでしょうか。「大々的」=「一色」。
「市区改正」の経過、結果に関しての確定説は以下のようなものです。
1 市区改正とその成果
東京の都市計画は、明治21年に公布された「市区改正条例」とそれに基づき明治22年に告示された「市区改正設計(旧設計)」に始まる。
この市区改正設計による計画は、区部(旧15区の範囲)の区域を対象としたもので、その内容は道路・河川・橋梁・鉄道・公園・市場・火葬場・墓地からなり、明治23年に上水道の計画が追加された。
財源難もあって、市区改正事業が大幅に遅れる中で、最低限の項目を選ぶ形で明治36年に「市区改正新設計」が告示された。
(1)上水道の整備
当初の市区改正事業は、度重なる大火と伝染病の流行に対処するために、近代的な東京の水道を整備することが重点事業となった。第1期水道改良事業は、明治24年に事業を開始し明治32年に完成した。
(2)道路の整備
123路線、延長約175kmが計画され、その大部分が大正7年までに整備されたが、そのほとんどに市街鉄道(路面電車)が敷設された。最初の市街鉄道は明治36年に開通したが、市区改正事業による道路整備もそれを意識したものとなっている。
(3)市街地の整備
市区改正事業の一環として丸の内地区の整備が進み、皇居の堀端の道路整備、日比谷公園の開設などがあり、「一丁ロンドン」と呼ばれる西洋風のオフィス街もつくられた。東京駅は、大正3年に開業した。
<出典元>
東京都都市整備局 http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/index.html
PLANNING OF TOKYO http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/plan/pl_index-j.html
東京の都市計画の変遷http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/plan/pj-02.htm
上記の説明では「港湾」が抜けておりますが、少なくとも、上水道の整備に関しては、「一〇年経っても未着工」「全然見込みなし」は該当しないことになります。
また、道路についても、市街鉄道の運行が可能なように拡幅することが主眼となっていたことから、最初の市街鉄道の開通までに施工されたものがあると思われますし。
要塞本60・62頁
市区改正当初、ここには唯一の道路が敷設されていた。
と、秋庭氏自らも語っておられますから、「道路」も未着工、全然見込みなしと言われる筋合いはなさそうですね。
じゃあ、何なんでしょうね。前掲のとおり「いつの、東日と新報が伝えていたのだろうか?」と言う時期と言うか、出典、この場合は何について、「市区改正」 全体なのか、「道路・河川・橋梁・鉄道・公園・市場・火葬場・墓地、そして上水道」のいずれなのか、あるいは特定の構造物なのか、明らかにしてくださいま せんので。何が、「一〇年経っても未着工」「全然見込みなし」なのか、ちっとも判りません。
過去の、秋庭氏の言説から推定すれば、「日比谷公園」の話かな?とも思いますがそれだって推定です。
斯様に秋庭氏の推論は意味不明な出発をします。しかも続く文章が
「以後、市区改正に関する報道は一歩も前に進まなかった。」
以降の報道において、「市区改正」の情報が報道がされないことを言っているのか?それとも、この「一〇年経っても未着工」「全然見込みなし」の記事に詳述がないことを言っているのか?
「一〇年経っても未着工なら、一〇年分の予算が消えたことになる。」
何故そう言えるのか?予算に対する決算書で該当分の消失が認められるのか?
予算があると言うことは、金が使えると言うことだが、金を使ったと言うことではないでしょう。レトリックですね。言葉の上では、合っていることになりますが、以下の意味で。
「一〇年経っても未着工なら、その予算額が流用費消されない限り、一〇年間、毎年毎年予算が未消化だったことになる。」だけの話です。
「一〇年経っても未着工なら、一〇年分の予算が他に費消された。」となるためには、予算と決算での対比資料が必要ですが、示されていません。
ですから、以下の文章は意味不明ですね。
予算はどこに消えたのか、
誰がその責任をとるのか、今後、着工できる見込みはあるのかなど、まだまだ取材できることは
あるはずだが、最後までそのような報道はなかった。その理由は、記者の能力不足でも、真相が
わからなかったからでもなく、軍機保護法という法律によるものではないだろうか。
以上の事が全部判っちゃう、「市区改正」に関しての事業結果を総括する報告があります。
「東京市区改正事業誌」(東京市区改正委員会編纂 大正8年=復刻「東京都市計画資料集成(明治・大正編)第33巻 監修藤森照信 本の友社刊 1988年)
「第二項 實 施」に明治22年度からの
「多 年の宿題たりし東京市区改正事業は、機関己に具わり、大体の設計また定まり、明治二十二年一月一日を以って実施期に入る、(中略)爾来引続き市区改正事業 は施行せられ、専ら道路の新設、及び下水の新設を為し、傍ら河川の改修新削に及び、明治廿二年度において参拾五萬余圓、」以下明治32年までの費用実績が 書かれています。
明治22年度 35万余円
明治23年度 56万余円
明治24年度 37万余円
明治25年度 42万余円
明治26年度 32万余円
明治27年度 33万余円
明治28年度 34万余円
明治29年度 43万余円
明治30年度 47万余円
明治31年度 54万余円
明治32年度 50万余円
合計463万円端数見ても470万円てとこでしょうね。11年間で。さて、東京府、東京市は「市区改正」の臨時事業として上水道改良に明治24年、公債1000万円を予算として、着手しますが、明治32年のこれの実績は次のとおりです。
明治24年度 1万6千余円
明治25年度 58万余円
明治26年度 62万余円
明治27年度 86万余円
明治28年度 91万余円
明治29年度 167万余円
明治30年度 160万余円
明治31年度 146万余円
明治32年度 64万余円
合計835万6千円、端数見て840万円が予算に対する実績。1000万や、840万円がどんな金額か現代の我々にはピンと来ませんが、臨時事業の上水道 の方が、「爾来引続き市区改正事業は施行せられ、専ら道路の新設、及び下水の新設を為し、傍ら河川の改修新削に及び、」とする本業の、ほぼ倍の費用が上水 道工事の一応の落成をみる明治32年までに費やされています。
「従いて、明治二十二年一月より三十二年の末に至る十一年間殊に明治二十五年度よりの八年間に於ける市区改正事業は、臨時施行の水道改良事業寧ろ主位に居り、道路其の他の改正事業は、却って第二位に立つの感なき能わざりき」という状態だったんですね。
もし、上記470万円が他へ流用されていたとして、それで、ちゃんと地下が掘れるんでしょうかね?
「予算はどこに消えたのか」別にどこにも消えていません。まず、予算の財源を何に求めたか、からして、上記上水道予算のように、ちゃんと本書には書かれています。
また具体的な支出についても「道路改正費及附帯費年度別調」等に明治22年から大正5年までの使途が書かれています。
もし、秋庭氏が「10年分の予算が消えた」と仰りたいのなら、本書の中で、10年間の予算額を抽出され、それに見合う実績がないことを立証してからにしていただきたいものです。
「軍機保護法」何ですかそれ?