地下妄の手記

大東京の地下400年 九層倍の嘘 狂瀾編

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大東京の地下400年 九層倍の嘘 狂瀾編


  さて、秋庭先生が、平成20年末に或いは明けて21年初に、「角川書店」から刊行されるとか仰っておられた、特に「東京方眼図」だかに拘られてとか、この「大東京の地下400年 99の謎」で、つまりライバル社の刊行物の宣伝をされたと言う、出てれば快挙になるのか、二見書房が徹底的に虚仮にされたのか、って新著。
  いつまで経っても、刊行される気配すら見えないのですが。
 
 この状況が、秋庭さんの、──他者著作を盗用し、改竄、歪曲、捏造しまくって妄想記事を書き倒す手法──に、角川の編集氏がギブアップされたものなら、もう、ご同慶の至りと申し上げるほかありません。
  中村克氏とサンクチュアリ・パブリッシング社の盗用手法に勝るとも劣らない秋庭先生と各社編集屋集団の跳梁跋扈がこれで止む事を切に念願する次第です。


  
一方、島田荘司先生の「正直言って、自信作です。」と仰る「帝都衛星軌道」が平成21年8月、めでたく「講談社文庫」で刊行されました。
  巻末には単行本、新書版と同様に従来通りな

「〈参考文献〉『帝都東京・隠された地下網の秘密』秋庭俊著洋泉社」

とのお書き込みが。

 ああっ可哀想な中村順平さん。
 その業績は最早、影も形もありません。
 なるほど、「東京を国民から隠された、何重もの環状の地下鉄道、地下道路網が走っている」との妄想は秋庭さんオリジナルかもしれませんが、秋庭さんの妄想の元となった中村順平さんの「東京の都市計画を如何にすべき乎」は、あの、島田さんご執心の余り、秋庭さんから三顧の礼を以ってして(まぁ手配したのは洋泉社と講談社の編集屋達ですが、)入手されたと言う、「都市計画図」は何処へ行ってしまったのでしょう?
 やはり、盗人は盗人のまま、推理小説よろしく、外国へ高飛びしたままなのでしょうか?

 ああっ可哀想な秋庭俊先生。
 島田先生が参考とされたと言う

『帝都東京・隠された地下網の秘密』

には、その参考とされた、「東京を国民から隠された、何重もの環状の地下鉄道、地下道路網が走っている」との妄想の記述が一切無いにもかかわらず。〈参考文献〉とされたご気分は如何許りのものでしょうか。そう、あの記述は、

『帝都東京・隠された地下網の秘密[2]』

と言う姉妹巻ではありますが、まったく別の本にある。「妄想」だと言うことですのに。
まぁ、地下本処女作
『帝都東京・隠された地下網の秘密』の【参考文献欄に、東京地下鉄道史乾坤二巻(ふたかん)を著者名と勘違いして「乾坤二 東京地下鉄道史」と記された秋庭先生のことですので、触発された島田先生の参考文献が、多少怪しげでも致し方ないのかもしれませんね。
 アホな編集者の手に掛かると、インチキな妄想が、更なるインチキな妄想を呼ぶと言う、好例がこの『帝都なんたら』なる本なのかもしれません。

  ところで、私の追及ですが、秋庭本が新たに世に出ないにしろ、当分続けるんことになるんでしょうね。
  秋庭さんと、彼を利用した編集屋、出版屋の皆さんが、盗用と、史料の改竄、事実の歪曲、事象の捏造を認められ、その責任をあからさまにして、謝罪されるまでは。

  それでは引き続き、盗用、改竄、歪曲、捏造の提示と是正を始めたいと思います。

以下の
46」地下鉄建設計画をめぐる私鉄と東京市の暗闘の謎

47」薩長支配を終わらせた平民宰相・原敬の地下鉄計画とは?
は切り分けたままだと、実際の時間軸の前後を動かす秋庭さんのワープ記法に騙されかねないので、後に年表、対比表置いて時間軸、事実関係を整理して記述していくこととしました。
なお、秋庭さんの記事或いは見解は従来どおり青字表記しています。


46」地下鉄建設計画をめぐる私鉄と東京市の暗闘の謎

 日本で地下鉄建設の動きが公に出はじめたのは、政府の建設計画が発表されるより3前、
1917(大正6
)年のことだ。
 寺内正毅内閣で内務大臣を務めていた後藤新平が内務省に都市計画課を創設し、東京を
空爆に耐えられる防空都市にするための対策の検討を、新たに立ち上げた東京市内外交通
委員会に命じている。


  相変わらず、チャンとした名称が書けないんですね、「東京市内外交通調査会」土木学会と帝国鉄道協会の合同調査、それぞれの会からの委員任命があり、委員会形式で実施しましたが、名称組織としては調査会でした。

東京を空爆に耐えられる防空都市にするための対策の検討を、新たに立ち上げた東京市
内外交通委員会に命じている。

  後藤新平そんなことは命じていないんですが、
ここ(
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/05-03.html
に調査委員の検討結果の報告「東京市内外交通に関する調査書」があります。その様なこと「
空爆に耐えられる防空都市にするための対策」など片言隻句もありません。

  秋庭さんは何か「後藤新平が・・・命じている。」証拠となる記録、記事をお持ちなんでしょうか?ところで、ここで言う

政府の建設計画

  とは、何を指されているのでしょうか?これが3年前から逆算すると、
── 
44」ドイツ軍の首都空襲
が東京に地下鉄を促した── の

「市区改正」のころから陸軍が膨大な予算を使って秘かに築いてきた東京の地下要塞や地
下道網は、その価値を半減させられたのだ、新たな対応を迫られることになった政府は、
1920(大正9)年、市区改正委員会に地下鉄建設を発表させた。

  これがそれに当たる様なんですけれど、以後の秋庭さんの文章には、「市区改正委員会に地下鉄建設を発表させた」と言うことはどこにも出てきません。あれは一体何処へ行ってしまったのでしょうか?
 一方、

「地下鉄の父」といわれる早川徳次の東京地下軽便鉄道が品川-浅草、上野-南千
住の2路線を申請したのも1917
年だ。
 2年後の1919(大正8)年1月には、今の小田急電鉄、当時の東京高速鉄道が地下鉄
計画を
申請している。日比谷公園の地下にターミナルを建設し、渋谷、新宿、池袋、上野
へ、4
路線を
敷設するというものだった。
 次いで2
月には、三井財閥を中心にしたグループの東京鉄道が神田須田町を拠点にして、
池袋、新宿、渋谷、五反田、新橋など山手線の11
の駅を地下鉄で結ぶ計画を申請している。
この2つの計画は、いずれも市電を地下に走らせる計画であった。


  東京地下鉄道史に拠れば、東京高速鉄道、東京鉄道いずれも目論見書に「集電方法」が「第三軌条式」となっています。簡易な集電方式ではありませんし、市電様の時速8マイル以下の低速な鉄道を目的としていません。「
いずれも市電を地下に走らせる計画であった。」は秋庭さんの捏造です。


 これに五島慶太を常務に迎えて、目黒-有楽町間に地下鉄建設を申請していた、今の東
急、当時の武蔵電鉄を加えた4社は、「まんじ巴と入り乱れて狂奔し、混乱状態を呈する

いたった」(『東京地下鉄道丸ノ内線建設史』より)といわれている。

  概観は下の年表を見ると判ると思いますが、上記で言えば、五島慶太が鉄道院を退官して武蔵電鉄に常務として迎え入れられたのは、路線免許後になります。
また、

4社は、「まんじ巴と入り乱れて狂奔し、混乱状態を呈するいたった
(『東京地下鉄道丸ノ内線建設史』より)


は、丸の内線建設史上巻13頁第一編建設小史第4章東京の地下鉄道建設「競願者の出現」では以下のように書かれています。

各社の発起人はまんじ巴と入り乱れて競奔し、混乱状態を呈するにいたった。」

実は、丸の内線建設史のこの言葉の原型が、「東京地下鉄道史 乾 115頁」にあります。

「上述の如く、東京地下鐵道外3社の競願となり、各社の發起人が卍巴と入り亂れて各方面に運動するやうになり、一種の混亂状態を呈する、」

 誰も「狂奔」なんかしていないんですね。引用文で誤っていて、それを自分の都合の良い場所に散りばめることを「盗用」と言わなければ、捏造による「印象操作」と言います。

 そんななかの6月、内務省の東京市内外交通委員会が、1
年にわたって研究したという
「高速鉄道建設計画」を発表した。
 高架と地下を併用した鉄道計画で、地下鉄は、浅草-新橋、目黒-白金-新橋、大塚-
白山-御徒町-新橋、渋谷-溜池-四谷、竹橋-飯田橋-早稲田-落合の5
路線が計画され
ていた。
 国の方針が絶対だった当時、この計画の発表で私鉄4社はガックリ肩を落とした、と伝

られている。


この高速鉄道建設計画の建設主体いわゆる「施主様」が決まっていないんですが、何で

私鉄4社はガックリ肩を落と

 さなければならなかったのでしょうか?
また、いつもの虚言の枕詞「と言われている」の親戚筋の「と伝えられている」が使われていますから、捏造なんでしょうね。
  民でやるか、官でやるか、そんなことは何にも決まっていませんでしたから、この発表では誰も肩を落としてなんかいないんですね。ガックリしたのに、申請を取り下げる会社が無いのも変でしょう?

 それに追い打ちをかけたのが7月の東京市の決定だった。東京市議会は小田急と三井財
グループの申請の不許可を決定。
9月には市電を地下に走らせる7路線の計画を発表し

のだ。東急の申請もその年の年末に不許可としている。

  さて、この「
東京市の決定」とやらに、何故、早川の地下鉄東京地下鉄道が含まれていないんでしょうか。
  そして、東京市は「
9月には市電を地下に走らせる7路線の計画を発表」を何故したんでしょうか。
  大正8年4月市区改正委員会に、
東京市内外交通調査会の5路線の報告案をもとに、これを7路線に分割した「高速度鉄道線路市区改正設計の件」が議題として上がりました。この案と、民間4社の動きなどに市会が動きます。
  何故なら、それは利権の塊ですし、当時の市会は地主や商工業者等、有産階級の利益代表でしたから、自身の選出地域への有産階級の利害で動きます。高速鉄道の計画、実施は東京市にさせるのが、自分たちの懐は痛まず、自分たちの主導の下で出来ますので議員と有産階級にとって、一番美味しかったからです。或いは、和製タマニーホールの残党利光以下の常盤会的な連中、つまり利権屋さん達にとっては取り敢えず免許まで持っていって、市や他の事業者に、権利や事業を高く売りつけるなんてことも、美味しい話だった訳です。市内路面電車の市営化の時の様に。
  そこで、まず、この市区改正委員会案を弄ろうとして、児玉電気局技師長に2路線の追加案を作らせて6月の市区改正委員会で7路線原案の調査を行っていた小委員会の一部委員に提案させますが、これは否決され、市区改正委員会は元案の7路線を設計に盛り込むことで議題第283号「高速度鉄道線路調査報告」として決着します。これが、
9月には市電を地下に走らせる7路線の計画を発表」の実質ですし、すなわち「市区改正委員会の設計案」そのもの、秋庭さんが── 44」ドイツ軍の首都空襲が東京に地下鉄を促した──で政府は、1920(大正9)年、市区改正委員会に地下鉄建設を発表させた。」と言う、「政府の建設計画」そのものなのですが、何で東京市の計画になっちゃうんでしょうか。
  と言うか、市会の思惑は横に置いといても、「政府の建設計画」すなわち東京市の計画だったんですが。
  しかも
これは、事業主体が民か官かなどと決めていませんでしたし、高架、地下、路下、普通の建設内容の区別もしていませんでしたので、以降東京市会は、市内交通一元化論で、鉄道の市内乗り入れを不許可にするよう府知事と内務省に意見具申する決議を繰り返していくのです。
  また、「市電を地下に走らせる」などと言う決めもしていません。これは高速度鉄道の設計なのです、上記の東京高速鉄道、東京鉄道、武蔵電鉄の計画が決して市電を地下に走らせる計画でなかったのと同様に、低速な市電様の鉄道計画ではありませんでした。市電云々は「都営軌道」だかの妄想に結び付けんがための、秋庭さんの捏造です。
   では、早川の地下鉄が、申請の不許可決議を免れ得たのはどうしてでしょうか?ひとつは申請が早かったため市会が不許可に傾く前に議題となったこと、もう一つは徹底して市会を初め、政財界に根回ししていたことによります。そうです、原首相まで、早川の東京地下鉄道の申請には異論がなかったというぐらいに。


 ところが、1920(大正9)年3月、内務省は一転して私鉄4社の申請を認可し、東京
市の申請を
却下したのだ。当時、地方自治体は内務省の傘下にあり、市議会の決定が覆さ
れても東京市
は如何ともできなかった。


  下表とおり東京軽便地下鉄道、つまり早川の地下鉄は大正8年11月に免許されています。大正9年3月に免許されたのは、武蔵電気鉄道、東京高速鉄道、東京鉄道の3社です。私鉄4社って何のことでしょうか。なお、下記の申請と、免許の比較表の通り、先行で免許された早川の東京地下鉄道の線路や、3社の路線が重ならない範囲で、各社は、
ほぼ申請通りに免許されています。
  ところで、内務省が却下したと言う「東京市の申請」と言うのは何を指すのでしょうか?

  「
東京市議会は小田急と三井財閥グループの申請の不許可を決定。

したんじゃないのですか。普通、「決定」したことを「申請」するとは言わないですよね、「申請」することを「決定」するのではないのでしょうか。でも、決定したことを申請しちゃうのが秋庭クオリティーなんでしょう。としか読めないんですが、あそこの部分では。

東京高速、東京鉄道、武蔵電気鉄道の免許申請を不許可にして欲しい
  
と言うことに市会は決定したから、と言う意見具申なので、却下されたと言いたいのでしょうけれど、意見具申だから内務大臣もその手前の東京府知事も、別に聞き置くだけで済むので、却下なんて意思表示はしてないんです。何の資料を以って「却下」と仰るのか、一度その根拠をお示しいただきたいものです。

 同じ内務省の東京市内外交通委員会の計画は、わずか9カ月で闇に葬られてしまった。
 なぜ、そうなったかの謎を解くには、米騒動による政変を見逃すわけにいかない。
 米騒動で寺内内閣が総辞職して、後藤新平も内務大臣の職を辞したのだ。そのため後藤
が指示してまとめられた東京市内外交通委員会が発表した地下鉄計画も、なかったことに
なってしまった。

 何の関係もない歴史的に大きな出来事を牽強付会して、地下妄と何か関係があるように書きたくるのは秋庭さんの得意技ですが、米騒動の寺内内閣瓦解も、下記の年表を見れば一目瞭然だと思います。
  米騒動って大正7年(1918年)年初からはじまった米の高騰に、各地で起こった暴動とかのことを言って、その収拾が出来なかったために大正7年9月に寺内内閣が瓦解し、原敬に組閣の大命が下ったと言うお話ですよね。
  その半年から一年後の大正8年(1919年)以降の出来事なんですけれど、「東京市内外交通調査会」の報告、「市区改正委員会」の高速鉄道線路の設計案。
  高速鉄道申請各社への免許に至っては、原内閣成立後一年以上経ってからになりますが、後藤新平が内務大臣を辞めたのは一体いつなんでしょうか?

そのため後藤が指示してまとめられた東京市内外交通委員会が発表した地下鉄計画も、
なかったことに
なってしまった。

  下に「東京市内外交通調査会」、「市区改正委員会」の計画の異同とを上げておきましたが、「東京市内外交通調査会」の案が「市区改正委員会」秋庭さんの言う「政府の計画」に反映されたこと。さらには民間4社の免許は、将に「東京市内外交通調査会」案の反映と言うことが明確に見て取れると思います。


同じ内務省の東京市内外交通委員会の計画は、わずか9カ月で闇に葬られてしまった。

がまったくの事実の改竄と歪曲で、どれだけいい加減に場当たり的に作られた嘘っぱちだかが判ろうと言うものです。


 
47」薩長支配を終わらせた平民宰相・原敬の地下鉄計画とは?

 寺内にかわって首相に就任した原敬は、国民による選挙で選ばれた議員から初めて首相
になった人物として知られているが、

  原が「国民による選挙で選ばれた議員から初めて首相になった人物」?頭に虫湧いてるのかこの人は。
  朝日カルチャークラブの皆さんって、好きですね、「国民」とか「選挙で選ばれた」とか、当時の「国民」って誰よ?制限選挙で、有権者約300万人、大正9年の我が国の総人口5,600万人の概ね20分の1強が「国民」だった訳だ。しかも25歳以上の♂だけが「国民」ね。
  で、その衆議院議員から初めて、大命降下つまり天皇から首相に任命されたことが、地下妄の説明上何の意味があるのかな?


後藤新平とは鉄道の線路の広軌化をめぐって、いわば「政敵」の間柄であった。
 後藤が広軌と決めたものを次の政権で原が狭軌に戻し、次の政権では後藤が再び広軌と
決めると、次の政権で原が覆したのだ。

 原と後藤は、「鉄道の線路の広軌化」をめぐって、いわば「政敵」の間柄であった。
  はぁ、未だにあの、愚論

実は「広軌」が安定がいいというのは、通常のケースに限られている。
(帝都東京・隠された地下妄の秘密 2002年洋泉社刊96頁)

  を引き摺っておられるのかしら?広狭論ってのはそもそもが、利益誘導型政党政治と、重点投資による富国強兵型官僚政治の相克の結果じゃなかったのかな?
  ケープゲージ(狭軌)の導入で始まった我が国の鉄道線路、この既存線路の広軌化を図り、車両の大型化と高速化による輸送力の拡大によって、基幹商工業、経済の強化を図ると言う民政党の「改主建従」。
  既存の狭軌の延長として低規格でも全国津々浦々に鉄道を敷く、孤立せず、中央と繋がっていることこそ地域の願い国民国家の統合、線路の延伸、鉄道網の拡大を図ると言う政友会の「建主改従」。
  後藤と原の思惑だけで広狭論は動いていた訳ではありません。
  つまり、

ここでも原は後藤の計画をひっくり返して私鉄
4
社に地下鉄の認可を与えた。

 「後藤の計画をひっくり返して」が有ったとしたい印象操作ですか?ひっくり返しとかそんなこと全然なかったし、原はそんなこと全然やってないんですが。
  下表の通り免許線は、秋庭さんが後藤の息の架かったと言う内務省の「東京市内外交通調査会」案、政府の計画と言う「市区改正委員会」の設計案の通りになっています。

 そのうえ、地下鉄建設の申請をしていた私鉄4
社のうちのひとつ、小田急の利光鶴松は、
原が総裁を務める立憲政友会の重鎮だった人物であり、三井財閥は政友会のスポンサー
った。

 利光はこの時最早、政友会のお荷物でした。東京市会での和製タマニーホールと言われた常盤会の行状が有権者の反発を買い、黒岩涙香辺りに襤褸糞に言われて、市会選挙で大敗、三多摩壮士森久保君なんかと並んで、敗退の戦犯扱いされていた時期です。
  原政友会内閣が三井の息が掛かった政権と言うなら、年表の通り、東京鉄道発起時以前から原内閣ですし。


 東急の五島は、原内閣の内務大臣が「経営
者を招きたい」という東急の要請に応えて、
鉄道院から送りこんだ人材だ。

五島慶太さんが武蔵電鉄に入られたのは、免許後9ヶ月も経ってからで、鉄道院が鉄道省に変わる同じ月でした。
   武蔵電鉄入社は三菱の郷誠之助からの鉄道省への要請ではなかったか。三鬼陽之助の五島の伝記と、五島本人が語ったと言う日経の「私の履歴書」では、往々にして事実について異なる記述があるので、軽々に三鬼だけの記事で妄想してもらっても困る。


 後藤の息のかかった東京市内外交通委員会
が小田急、三井の計画路線とは随所で交差
る計画を発表していたが、原敬はそれを黙殺
して、政友会を支持する小田急、三井に認可
を与えた。

  また、不思議なことを。高速鉄道を網として計画する場合に、交差して相互に接続する形になるのは当たり前のことではありませんか。第一に小田急、三井の免許路線って、秋庭さんはこの後で「
早川以外は、申請とは違った路線を与えられている。」と仰っておられますから、東京市内外交通調査会案と小田急、三井の申請時の計画路線とが随所で交差していたのとは、別の路線と言うことになりますね。
  また、早川の
東京地下鉄道は、東京市内外交通調査会の計画路線とは交差しないのかでしょうか?武蔵電鉄はどうでしょうか?下の表の通り、各社の免許線は東京市内外交通調査会の提案からも、市区改正委員会の設計からも外れていないのですが。、
  要するに、「
原敬はそれを黙殺してなんて事実は何処にも無いんですね。

 さらに、三井財閥とは宿敵の三菱財閥が支援する立憲同志会、中正会の大隈重信が牛耳
る東京市議会の決定も覆したのだ。内務省の
決定がすべてであった当時、東京市議会は
すすべがなかった。

 再々申し上げるが、「東京市議会の決定も覆した」と言う、東京市会の決定って何?秋庭さん1頁ほど前で、「東京市の申請」と書いておられたものとは違うんでしょうか?
  立憲同志会、中正会とも、1916年(大正5年)10月には憲政会に衣替えしていますし、どちらも大隈直系ではありません。内務省の決定とやらは、憲政会衣替えから4年後の、以下の通り、1920年(大正9年)3月のことではないのでしょうか?


 こうして1920(大正9)年に原敬内閣が認可した地下鉄は7路線。

 日比谷公園から新宿までの路線と日比谷公園から大塚までの路線を小田急に、新橋から
浅草までの路線と目黒から三田を経て日比谷までの路線、巣鴨から白山までの路線を三井
グループに、渋谷から新橋までの路線を五島に、品川から浅草までの路線と上野から南千

までの路線を早川に認可した。早川以外は、申請とは違った路線を与えられている。

 免許路線は下表の通りですが、
上記から、秋庭さんが路線と書いているものを、番号付けて並べてみますと、

◎小田急(東京高速鉄道
    ①日比谷公園―新宿
    ②日比谷公園―大塚
◎三井グループ(東京鉄道
    ③新橋―浅草
    ④目黒―日比谷
    ⑤巣鴨―白山
◎五島(武蔵電気鉄道
    ⑥渋谷―新橋
◎早川(東京地下鉄道)
    ⑦品川―浅草
    ⑧上野―南千住

  何か8路線あるんですけど。

 原敬は、私鉄4社に東京市内外交通委員会の計画にあったルートを分配することで、
前から「強度に問題あり」と地下道と地下鉄の交差を認めていなかった内務省の方針を貫き、
地下鉄を走らせたい私鉄には認可を与えて彼らの利益を確保したのだ。

だが、
1921(大正10)年、原敬は暗殺され、この地下鉄計画は実施されなかった。

秋庭さんは10行ほど前で

 後藤の息のかかった東京市内外交通委員会が小田急、三井の計画路線とは随所で交差
る計画を発表していたが、原敬はそれを黙殺
して、政友会を支持する小田急、三井に認可
を与えた。

と書いておられます。小田急、三井の計画路線と東京市内外交通調査会の計画線は別物の様に書いておられます。ところがここでは、

 原敬は、私鉄4社に東京市内外交通委員会の計画にあったルートを分配することで、

と、私鉄4社の免許線は東京市内外交通調査会の計画線に一致する、とされているのです。がしかし、

前から「強度に問題あり」と地下道と地下鉄の交差を認めていなかった内務省の方針を貫き、

  と、もう主語と述語が支離滅裂になってしまっています。

  内務省が、「以前から」?以前っていつ頃のことなのでしょうか?「強度に問題あり」って地下鉄の地の字も出てない時期に何を根拠に内務省は「地下道と地下鉄の交差を認めていなかった」のでしょうか。
  はい、勿論これは秋庭さんの捏造、でっち上げです。再々申し上げていますが、
東京市内外交通調査会、市区改正委員会いずれも、地下鉄ではなく、高速度鉄道についての提案、計画です。東京市内外交通調査会の提案は地下、高架、普通の線路の組み合わせであり、市区改正委員会の計画に至っては、高架、地下などは実施者が決めることとしています。
  大正13年に大阪市版の「内外交通調査会」が持たれ、この時は大阪市内の高速鉄道網に特化して提案がなされていますが、この時点でもまだ、高架と地下の折衷案でした。特に河川が多い大阪市内と言うことで、地下すなわち随道区間よりはるかに高架の多い提案でした。詳細は、

土木学会誌大正14年10月発行第十一巻五号

の記事のとおりですが、当時大阪は関一が市長になる以前でしたので、本来都市交通全般についての提言となるはずの、「内外交通調査会」案には御堂筋の影も形も無く、つまり「内外交通調査会」と言う権威ですら、未来への挑戦的な発想が出なかったのかと、この記事を見ると感慨深いものがあります。
  東京、大阪の一連のこれら調査報告を
はじめ、当時の雑誌などに発表された記事にあって、当時の状況、特に都市内の高速鉄道網建設の目的や、技術論的な問題において、その企画者であった内務省にとっては、「強度に問題あり」等と言う議論は皆無であり、そのような事が方針となった、との記述、記録は一切ありません。

地下鉄を走らせたい私鉄には認可を与えて彼らの利益を確保したのだ。

  訳が判りません。秋庭さん脳内の「内務省の方針」を尊重しつつ、4私鉄への免許と言うそれぞれに利益を図ると言うのが原の方針だった。 と仰りたかったようですが、 

だが、1921(大正10)年、原敬は暗殺され、この地下鉄計画は実施されなかった。

原が死んだことと、一連の4私鉄の内、東京地下と東京鉄道は合同していますから、実質東京高速と武蔵電鉄の2私鉄の免許が失効したことに、どんな因果関係が有るんでしょうか?確か失効は大正14年8月じゃなかったかしら、原の暗殺が4年後に利いて来るんですか?免許を受けた東京地下鉄道を除く各社が着工、敷設できなかった理由は、

1.資金の集金力が無かったか、恐慌と震災で金が廻ってこなかった。
2.東京地下鉄道に比べ、計画面、準備面でも杜撰で、鉄道、特に地下鉄道を作り上げる技術的な
  能力も大きく劣った。
3.利権や権利の売却、及び電気の需要先、或いは配電網の幹線造りが目的など、発起人が同床
  異夢で強力なオーガナイザーたり得なかった。

と言うことだったのだが。

結局、いつもの事ですが、秋庭さんは「原の(目的と意思の不明な)影響力」、つまり歴史的に善い者っぽい高名な人物の、行為と意思を、いつもの様に捏造して、この「地下妄」の歴史として、でっち上げたかったのだ。と言うことのようですね。


48」地下鉄建設申請ラッシュの裏に「軍管理の地下道払い下げ」あり
!?


 後藤新平が内務大臣として地下鉄建設の検討を始めたことがきっかけとなったように、
私鉄4社が次々と地下鉄建設の認可を申請。それまで時の統治者の手中にあった東京の
下が初めてビジネスの対象になったのは、画期的なことであった。

  後藤新平が内務大臣として検討を始めたのかどうか、も定かではありませんが、検討に付されたのは「地下鉄建設」ではなく、都市内の高速度鉄道の敷設計画でした。
  東京地下軽便鉄道が他に大きく先行し、「東京市内外交通調査会」の検討にかたちが見えた頃、即ち、都市交通において在来の市内軌道より高速なものに十分需要が見込める、との結論が見え出した頃に、他3社は高架、地下併用で申請を出しています。
  地下に特化したのは東京地下軽便鉄道のみ、他は、利光の東京高速鉄道と、三井の(と秋庭さんが言う)東京鉄道は、経験(鉄道建設そのものについては怪しいものでしたが、)のあった路面電車の延長線上に高架、地下併用の高速鉄道を企図し、武蔵電鉄はこれも郊外私鉄としての、ある程度高速大型な車両での、高架、地下併用での東京市内乗り入れが目的でした。したがって、「地下がビジネス」の対象ではなくて、都市市街の中での高速鉄道がビジネスの対象でした。

また、今までの本wikiでの批判の通り、「東京の地下」と言えるほどのものが、時の統治者(秋庭さんによると「
徳川幕府」、「明治政府」らしいのだけれど、)の手中にあったとは、事実を見る限り、全然言えそうも無いのですが。

 しかし、シールド工法で地下にトンネルを掘ることが可能になったとはいえ、鉄道建設

始まったばかり。路面電車も走りはじめたばかりの時代に、地下鉄を建設するには莫大
な資金が必要であったことは誰にも想像がつく。

  地下を、秋庭さん自身が今まで書いて来られた通りなら、別にシールド工法に拠らずともトンネルを掘ることは、既に江戸時代の技術(秋庭さん曰くところのオランダ渡りの技術)で可能だったと思われるのですが。秋庭印の在来工法でも、
単に断面積の規模を拡大するだけに過ぎないはずです。
  秋庭さん曰くところの江戸時代の技術とは、実際には大きく隔たったものですが、実際に東京地下鉄道、東京高速鉄道、或いは京成の上野延伸線、新京阪の京都地下線、大阪市営地下鉄、戦前の地下線は、殆ど開削工法、一部に、潜函、山岳工法に拠っている。つまり、開削などの規模の拡大や、路下で街路と言う重量物を支えることなどから、技術的困難は多々有ったでしょうが、江戸末期以来の既存の工法で出来上がっているのではありませんか?
 ここで言われている「地下鉄」には、シールド工法など無関係な技術です。何でシールドじゃなければ地下にトンネルを掘れないのでしょうか?

 1923(大正12)年に東京市長にな
た、後藤新平が発表した虎ノ門-竹橋間の地下鉄
建設計画の予算が700万円(現在の貨幣価値で約83
億円)以上といわれている。路線に
っては1000万円以上もかかった、と想像される。


  わざわざ、後藤新平を持ち出さずとも、資本主義の世界では、会社の起業には資本金と言うものがついて廻るのではありませんか?建設に着手する以前に、免許を申請する以前に、発起人が授権資本として或いは、起債として工費を想定し、出資予定者に公表しています。東京地下鉄道ですら、後藤新平が企図した地下鉄(臨時的な市電の地下化と言われている)の数倍の資本金、当初2千1百万円、後に4千万円を集めようとしています。
一方で、地上、地下併用の路線の方が建設費は安価だったと思われます。元々は高速鉄道の建設ですから、利光の東京高速、三井の東京鉄道は東京地下鉄道に比べてローコストで建設する予定だったと考えられます。
  ちなみに、東京高速鉄道の大正8年の目論見書では事業資金を6千万円としていますし、東京鉄道は当時の当初計画では第一期渋谷―南千住と新橋―須田町で5千万円、全5路線の事業資金1億6千万円としていました。
  なお、実際の建設費用は下記を参照下さい。

  秋庭算


 そんなコストのかかる事業に、鉄道事業者としては未成熟の、当時の私鉄各社が、どう
して争って乗り出そうとしたのか? ロンドンやパリでの地下鉄の発展、コルビュジェが
示した未来都市像などから将来性を感じたこともあっただろう。

  ですから、政府の計画とやらも、東京軽便地下鉄道を除く申請各社も、地下鉄に限定していません、地下鉄に特化している東京軽便地下鉄道、早川の東京地下鉄道が当時としては異例なのでした。
  ところで、コルビュジエの最初の都市計画案発表いつでしたかね?秋庭さんどっかで書いておられた様な。

   45」80年以上前、世界を驚かせた3層構造の地下鉄駅プランとは?

  ああこれこれ、「1922(大正11)年」とお書きですね。さて、各社の申請いつでしたっけか?4社ともコルビュジエの案見て将来性を感じることは不可能なんですが。

 しかし、私にはもうひとつ、決定的な要因があったと考えられる。それは、明治政府に
よる既存の地下道、地下トンネルの払い下げ、民間放出があったのではないだろうか?

  どうでも良いけれど、「大正時代」、秋庭さんが問題にする、航空爆撃が始まる第一次世界大戦も「大正時代」の出来事です。何で、その結果として生じたと主張する「既存の地下道、地下トンネルの払い下げ、民間放出」が明治政府によって大正時代に実行されるのでしょうか?明治政府は知ろうと思っても空爆何て戦争技術を知りようが無いんですが。明治時代に。
  まぁ、明治の前の元号を「江戸」と書く人ですから、しょうがないのかも知れませんが。


 大砲の射程距離が伸びて地下道、地下綱の改良を余儀なくされて、明治政府が「市区
正」事業の裏側で秘かに江戸の地下道の近代化を行なったことは、すでに述べた
とおりだ。

この妄想については

大東京の地下400年 九層倍の嘘 擾乱編 32」「市区改正」の裏側で、地下要塞計画が進められた!

を参照。江戸の地下道は存在しません。秋庭さんは存在の証拠を挙げた例がありません。当然に存在しないものの近代化など有り得ません。


 その努力を水の泡にしたのが、第一次世界大戦での爆撃機による空爆であった。
 大砲による攻撃を想定してつくられた既存の地下道や地下拠点は、大改造するか廃棄
るかの選択
を陸軍は迫られることになったに違いない。とくに「洞道」 になったような
いところにある地下道は使えなくなった。

この妄想については

大東京の地下400年 九層倍の嘘 濁乱編 44」ドイツ軍の首都空襲が東京に地下鉄を促した!

を参照。大正6年~9年頃は、第一次大戦の最中、或いは直後であり、空爆について、或いは、空軍戦術、空爆の効果と影響などについても、ろくに分析が出来ていない、国家としての対策など何処の国も立てていない時点。
  もっと言えば、何処の国にも存在しない、秋庭戦略理論(妄想)による、「大砲による攻撃を想定してつくられた既存の地下道や地下拠点」なるものすら、想定されていない時点に、しかも、侵略してくるであろう諸外国は元より、「国民」にも隠された地下妄、何処に有るのか判らない地下妄を、浅かろうが深かろうが、どうやったら砲撃や爆撃ができるんでしょうかね?存在しないものを大改造、あるいは廃棄しなきゃならない陸軍って何かな?
  大砲による攻撃って、秋庭さんも以前書いていたように、海上からの艦砲によるものしかないよね。船が継続的に陸上を攻撃できる要件は、2つ、「ひとつは制海権が確保されていること」、「もうひとつは、陸からの攻撃が脅威でないこと」。その様な条件を無効にする為に、都会の地下を走る地下道が何の役に立つのか解ってない陸軍。そりゃ、第二次世界大戦負けるわ。


 コルビュジェの地下駅にもあるように、ロンドンでもパリでも」市内を走る地下鉄は最も

浅いところを走っている。地上からのアクセスがよく利用しやすい、トンネル工事のコス
も人手も少なくてすむなど、地下鉄には地表に近いトンネルが適している。

  コルビュジエの地下駅って、地下と名が付きゃ何でも良いのかな?コルビュジエの都市計画と秋庭さんの地下妄は全然関係ないのに。
  軍事用と言う秋庭さんの地下道や地下拠点も、地下鉄と同様に、「
地上からのアクセスがよく利用しやすい、トンネル工事のコストも人手も少なくてすむ」、「地表に近いトンネルが適している。んじゃないんでしょうか。
  そんな便利な地下拠点や地下道。外の人や国には、何処に有るか、が知りようのない地下道や地下拠点、場所も判らないものをどうやったら爆撃、破壊できるのか。
  脅威が不確かなのに、何故廃棄しなきゃならないのか、の説明に全然なってないんだけれど、都市爆撃の脅威。
  艦砲射撃より爆撃の爆弾の方が、破壊深度が深いって説明も、深くなる根拠も、ちっとも説明できてないんですが。

 不要になる浅いところの地下道やトンネル、地下拠点を地下鉄に利用できないか。
内務
大臣だった後藤新平は東京市内外交通委員会に検討させたのではないだろうか。

再々言うよ、「東京市内外交通調査会」が検討したのは、高速鉄道であって、そもそもこの調査会は東京市の交通を総合的に調査分析して将来像を提言するものだったので、道路交通もそのための架橋も、河川や運河による水上輸送も、河川周辺の公園造成も調査検討している。地下鉄の検討なんぞは調査の10分の一にも満たない話し。何の証拠も提示できない、有りもしない後藤の命令の捏造は、後藤や、調査会の委員の業績に対する冒涜以外の何ものでもない。


地下のデ
ータは軍事機密で、陸軍にしかなかったから、どの地下道、トンネルを払い
下げるか、決
めるのは陸軍にしかできない。陸軍が出してきたデータを基礎に地下鉄
のルートを決める
重要な任務を任されたのが「東京市内外交通委員会」であったに違い
ない。

秋庭さんどっかで、東京の地下を軍部から取り戻すために、後藤は東京市長の時、及び山本内閣の内務大臣の時に、東京の都市計画を、震災復興計画を立てて、例えば「天皇の名前を付けた道路」とやらで、地下の秘密を明るみに出そうとした。
  とか、仰ってませんでした?上記は矛盾しませんか?「東京市内外交通調査会」は後藤の息がかかった組織と上で仰ってますよね。


陸軍が出してきたデータを基礎に地下鉄のルートを決める重要な任務を任されたのが
「東京市内外交通委員会」


これじゃぁ、地下の秘密の隠蔽に後藤一役買っているじゃありませんか。


 だから、原敬も同委員会の計画にあるルートを私鉄4
社に分配したのではないだろうか。
 私鉄4
社にも既存の地下道やトンネルが払い下げられ、そこに線路を敷き、駅をつくれ
ば電車を走らせることができることを知らせてあったのではないだろうか?

  これじゃぁ、原も後藤も、早川も利光も五島もみんなグルってことじゃありませんか?

  既存の地下道やトンネルって、線路を敷いて駅をつくればすぐに電車を走らせることができたんなら、


  早川や五島の悪戦苦闘ってなんだったんだ?東京地下鉄道史にある様な工事、道路掘り返して、開削でトンネル造ってる、あの工事は一体なんだったんだ?東京高速鉄道略史の大倉組とかの各工区の取り組み、あれは一体なんだったんだ?
  よくもそこまで、公共交通機関としての地下鉄、都市の発展、東京の発展に寄与した地下鉄の建設者達先人の労苦を愚弄できたものだ。自分の妄想を正当化するためなら、他者が成して来た事実としての労苦を、平気で貶めることができる。それも、他者の業績としての著作物を盗用し、そしてその盗用物の歪曲、改竄、ついには事実の捏造すら平気で為し、
妄説を垂れ流す。秋庭俊と編集屋、出版屋仲間と推理小説屋の他者の人格否定の所業の「最高峰がここにある」。


秋庭史と正史の対比年表

東京市高速鉄道建設計画の流れ 政権の状況
  時期不詳 内務省都市計画課設置 寺内内閣(大正5年10月9日~)
  時期不詳 東京市内外交通委員会立ち上げ 後藤内相(大正5年10月9日~)
大正6年 時期不詳 東京地下軽便鉄道2路線申請  
(1917年) 5月 東京市内外交通調査会組織  

7月 東京地下軽便鉄道2路線申請  
 

 
      寺内内閣(~9月29日)政党基盤無し
      後藤内相(~大正7年4月23日)
  5月 内務省都市調査会、都市計画課設置 水野内相(大正7年4月23日~9月
大正7年

29日)
(1918年)     米騒動による寺内内閣瓦解
      原内閣(9月29日~)立憲政友会
      床次内相(9月29日~)
  11月 武蔵電鉄申請 第一次世界大戦終結
       
  1月 東京高速鉄道日比谷起点の4路線申請 原内閣立憲政友会
  2月 東京鉄道申請 床次内相
  時期不詳 武蔵電鉄申請  
  4月 東京市内外交通調査会報告(4月14日市区  
    改正委員会で高速鉄道網7路線を設計に  
    盛り込む提案なされる。丸の内線建設史  
    にも4月本報告の市区改正委員会への  
大正8年   提案言及あり)  
(1919年)   都市計画法施行  
  6月 東京市内外交通委員会発表(土木学会誌  
 
6月刊付録のことらしい)  
  7月 市議会東京高速、東京鉄道申請不許可  
  9月 東京市7路線地下市電計画発表  
  11月 東京軽便地下鉄道株式会社免許  
      ①芝区高輪南町―浅草区公園広小路  
      ②下谷区車坂町―北豊島郡南千住町  
  年末 市議会武蔵電鉄申請不許可  
  1月 市区改正委員会高速鉄道路線網公布 原内閣立憲政友会
  3月 内務省私鉄4社7路線申請認可 床次内相
    ◎小田急(東京高速鉄道) 大正9年12月17日後藤新平
      ①日比谷公園―新宿 東京市長就任 (大正12年4月20
      ②日比谷公園―大塚 日迄)
    ◎三井グループ(東京鉄道)  
      ③新橋―浅草  
      ④目黒―三田―日比谷  
      ⑤巣鴨―白山  
    ◎五島(武蔵電気鉄道)  
      ⑥渋谷―新橋  
    ◎早川(東京軽便地下鉄道)  
      ⑦品川―浅草  
      ⑧上野―南千住  
    ???八路線???  
    米騒動による政変により東京市内外交通  
大正9年   委員会計画闇に葬らるる  
(1920年)   内務省高速鉄道申請3社免許  
    ◎武蔵電気鉄道株式会社  
      ①荏原郡目黒村より麹町区有楽町に  
       至る  
    ◎東京高速鉄道株式会社  
      ②内藤新宿より日比谷、万世橋を経て  
       大塚に至る  
    ◎東京鉄道株式会社  
      ③目黒より築地を経て押上に至る  
      ④池袋より高田馬場駅前、飯田橋、  
       大手町を経て洲崎に至る  
      ⑤巣鴨より万世橋に至る  
    はい、前年末免許の東京軽便地下鉄道  
    の2路線と合わせて7路線。  
  5月 五島慶太鉄道院退官  内閣鉄道院、鉄道省に昇格
      原内閣(~11月13日)立憲政友会
大正10年     床次内相
(1921年) 11月 原敬暗殺 高橋内閣(11月13日~)立憲
      政友会
      床次内相
      高橋内閣(~6月12日)立憲政友会
      床次内相(~6月12日)
大正11年     加藤友三郎内閣(6月12日~)
(1922年)     立憲政友会
      水野内相
       
  時期不詳 (原文のまま:大正12年に東京市長に 大正12年4月20日後藤新平
    なった、後藤新平が)虎ノ門―竹橋地下鉄 東京市長辞任
    計画発表 加藤友三郎内閣(~9月2日)立憲
大正12年     政友会
(1923年)     水野内相
      山本内閣(9月2日~)革新倶楽部
      (非政友会系)
      後藤内相
       

   東京地下鉄道史(東京地下鉄道刊)、東京地下鉄道丸の内線建設史・千代田線建設史、営団地下鉄70年史(以上帝都高速度交通営団刊)、東京都市計画資料集成明治・大正篇27東京市区改正委員会議事録(藤森照信監修1987年本の友社刊)、秋庭本種々より。

こちらの年表も参考とされたい。史料を丁寧に確認、整理すると言う手法で秋庭歪曲技法を粉砕された人達の記録。

「隠帝地秘の正誤表」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7622/1151998107/41


東京市内外交通調査会提案、市区改正委員会設計、免許結果対比表


東京市内外交通調査会 市区改正委員会 各社の出願(緑字)と免許(赤字)
 
第一の内、品川八ツ山―新橋 芝区高輪南町―芝区烏森町―下谷区



広小路―浅草区公園広小路(東京地



下鉄道)



芝区高輪南町―浅草区公園広小路



(東京地下鉄道)
  目黒・千住線 第一の内、品川八ツ山―新橋 芝区高輪南町―芝区烏森町―下谷区


       の一部と新橋― 広小路―浅草区公園広小路(東京地

秋庭さんの言う地下鉄        築地―両国橋西側 下鉄道)

①浅草―新橋        ―雷門 芝区高輪南町―浅草区公園広小路

②目黒―白金―新橋 第二の内、上野―雷門―南千 東京地下鉄道)


       住 上記線中下谷区車坂町―北豊島郡南


第五の全、目黒―新橋 千住(東京地下鉄道)



下谷区車坂町―北豊島郡南千住
1

(東京地下鉄道)



荏原郡目黒村上目黒―豊多摩郡渋



谷町―赤坂区―麹町区有楽町―官鉄



有楽町停車場(武蔵電気鉄道)



荏原郡目黒村―麹町区有楽町(武蔵



電気鉄道)



日比谷公園―数寄屋橋―常盤橋外



―本石町1丁目―浅草橋―蔵前通―



浅草公園―下谷区坂本町―上野駅



(東京高速鉄道)



五反田―三田―新橋―浅草橋―浅草



―向島中ノ郷(東京鉄道)



目黒―築地―押上(東京鉄道)



渋谷―新橋―日本橋―須田町―上野



―浅草―南千住(東京鉄道)



目黒―築地―押上(東京鉄道)
  浅草・向島線 第一の内、雷門―押上 芝区高輪南町―芝区烏森町―下谷区
2 浅草、向島
広小路―浅草区公園広小路(東京地



下鉄道)

渋谷・大塚線 第二の内、渋谷―霞町―新橋 芝区高輪南町―芝区烏森町―下谷区

渋谷、高樹町、六本木、        ―万世橋 広小路―浅草区公園広小路(東京地

葵橋、烏森、三十間掘、 第七の全、大塚―伝通院―万 下鉄道)

木挽町、日本橋、万世橋、        世橋際 芝区高輪南町―浅草区公園広小路

神田末広町、本郷三丁目、
(東京地下鉄道)

白山上、駕籠町、大塚
荏原郡目黒村上目黒―豊多摩郡渋谷



町―赤坂区―麹町区有楽町―官鉄有

秋庭さんの言う地下鉄
楽町停車場(武蔵電気鉄道)

③大塚―白山―御徒町
荏原郡目黒村―麹町区有楽町(武蔵

 ―新橋
電気鉄道)



日比谷公園―虎ノ門―溜池―六本木



―高樹町―渋谷(東京高速鉄道)



原宿―青山―新橋―東京駅前―須田
3

町―白山―巣鴨(東京鉄道)



内藤新宿―日比谷―万世橋―大塚



(東京高速鉄道)

秋庭さんの言う地下鉄 第六の全、原宿―青山一丁目 荏原郡目黒村上目黒―豊多摩郡渋谷

④渋谷―溜池―四谷      ―赤坂見附―桜田門 町―赤坂区―麹町区有楽町―官鉄有



楽町停車場(武蔵電気鉄道)



荏原郡目黒村―麹町区有楽町(武蔵電



気鉄道)



日比谷公園―虎ノ門―溜池―六本木



―高樹町―渋谷(東京高速鉄道)



荏原郡目黒村―麹町区有楽町(武蔵電



気鉄道)

葵橋線 第三の内、内藤新宿―四谷見 日比谷公園―霞ヶ関―平河町―麹町

新宿、市ヶ谷谷町、        付―桜田門 6丁目―四谷見附―四谷塩町―新宿

四谷伝馬町一丁目、伏見
追分(東京高速鉄道)

宮邸附近、弁慶橋、葵橋
内藤新宿―日比谷―万世橋―大塚



(東京高速鉄道)



内藤新宿―四谷見附―東京駅前―洲崎



(東京鉄道)
4

洲崎―大手町―飯田橋―高田馬場駅



前―池袋(東京鉄道)


第三の内、桜田門―万世橋― 日比谷公園―霞ヶ関―平河町―麹町


       巣鴨 6丁目―四谷見附―四谷塩町―新宿



追分(東京高速鉄道)



内藤新宿―日比谷―万世橋―大塚



(東京高速鉄道)



内藤新宿―四谷見附―東京駅前―洲



崎(東京鉄道)



巣鴨―万世橋(東京鉄道)

池袋・洲崎線 第四、池袋―高田馬場駅前― 日比谷公園―神田橋―神保町―本郷―

池袋、目白、江戸川橋、     飯田橋―大手町― 真砂町―小日向台町南側―音羽8丁目

大曲、飯田町、九段坂、     越中島 ―高田老松町―池袋(東京高速鉄道)
5 錦町三丁目、大手町、
目白―神楽坂―須田町―春日町―池袋

永代橋、洲崎
(東京鉄道)

秋庭さんの言う地下鉄
洲崎―大手町―飯田橋―高田馬場駅前

⑤竹橋―飯田橋―早稲田
―池袋(東京鉄道)

 ―落合





東京地下鉄道史(東京地下鉄道刊)より。

  上表、御覧の様に、市区改正委員会の高速鉄道設計はこの、調査会の報告に基づいて作られています。市区改正委員会の設計案が品川―新橋間を除くと、「東京市内外交通調査会」の「東京市内外高速鉄道計画線路表」の線に合致していることが見て取れます。


なお、上表でも一部示したが、秋庭さんの書く東京地下鉄道、東京高速鉄道、東京鉄道、武蔵電気鉄道の免許線と実際の免許線には例によって錯誤を誘う歪曲があるので、以下で正しておきます。


免許線秋庭式歪曲訂正表


秋庭式歪曲による免許線 正当な免許線(経由地詳細版) 解説
   ①日比谷公園―新宿   ①新宿―大塚 秋庭さんは分割して2路
東京高速鉄道
   (内藤新宿より日比谷、万 線の免許と言っているが、
(秋庭通称小田急)  ②日比谷公園―大塚    世橋を経て大塚に至る) 1路線の免許である。




    ③新橋―浅草   ②目黒―押上 秋庭さんは正当な1路線
 
   目黒より築地を経て押上 の免許線を日比谷、新橋
    ④目黒―三田―日比谷    に至る で2分割しかつ浅草―押
東京鉄道

上を勝手に短縮。
(秋庭通称三井
  ③池袋―洲崎 秋庭さんガン無視。
グループ)
   池袋より高田馬場駅前、 理由は免許線が市区
 
   飯田橋、大手町を経て 改正委員会案に則って
 
   洲崎に至る いる事を否定するため。

  ⑤巣鴨―白山   ④巣鴨―万世橋 上記と同様の理由で


   巣鴨より万世橋に至る 白山―万世橋を省略



歪曲。
    ⑥渋谷―新橋   ⑤目黒―有楽町 正当免許は経過地を、
武蔵電気鉄道
   荏原郡目黒村より麹町区 目黒より渋谷、赤坂、
(秋庭通称五島)
   有楽町に至る 麻布、芝を経て有楽町



に至る。としている。
    ⑦品川―浅草   ⑥高輪南町―浅草 別のところで、秋庭さん
 
   芝区高輪南町―浅草区 は、品川―浅草は上野


   公園広小路 を通らない現都営浅草

  ⑧上野―南千住   ⑦上野―南千住 線の経路で東京地下
東京軽便地下鉄道
   下谷区車坂町―北豊島 鉄道が申請したように
(秋庭通称早川)
   郡南千住町 書いているが、品川―



浅草の下谷車坂町から



分岐して南千住に向か



うと言う免許。すなわち



当初より品川―上野―



浅草の免許である。

  東京地下鉄道史(東京地下鉄道刊)、秋庭本種々(主に大東京の地下400年99の謎2008年二見書房刊)より。

 各社の順は秋庭さんの本文記述に従ったが、免許の時期は上表のとおり東京軽便地下鉄道が大正8年11月、東京高速鉄道他2社が、大正9年3月。

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