地下妄の手記
第二章 足元に広がる嘘 ④
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第二章 足下に広がる嘘 ④ 開運坂の謎
開運坂の謎 要塞本57頁
坂下通りの交番を左に曲がると開運坂である。開運坂も坂下通り同様、市区改正の事業でつく
られている。坂の中腹の立て札には次のようにある。
開運坂
坂名の由来についてはよくわからないが、運を開く吉兆を意味するめでたい名をつけたも
のであろう。
ということである。
開運というのは運を開くことで、当然、めでたい名には違いないが、その程度のことなら、誰
でも立て札がなくてもわかる。この立て札は「何もわかりません」といっているのと変わらない
のではないだろうか。本来、市区改正は東京市の事業で、東京市がこの坂をつくったことになっ
ているが、当の東京都の立て札は「坂名の由来はよくわからないが」などと他人事のようであ
る。とはいえ、先の東京市議会の発言からもわかるとおり、実際にこの坂つくったのは陸軍
で、東京市は何もしていなかったのだろう。
まず、秋庭氏は「開運坂」の位置を明確にされていませんので、同氏が「明治前期・昭和前期 東京都市地図 2 東京北部」 66頁(明治42年測図明治四 十四年刊 大日本帝国陸地測量部1万分の1「早稲田」の1996年柏書房復刻刊)より無断複写された上図に赤マーカーで位置を示させて頂きます。
さて、
「開運坂も坂下通り同様、市区改正の事業でつくられている」
そんな記録は何処にもありません。旧設計、新設計いづれの「市区改正全図」にも「坂下通り」は計画線たるを示す朱引きであっても、開運坂の朱引きはありませんが、計画もなしに、どうして市区改正で造成されるのでしょうか?
「とはいえ、先の東京市議会の発言からもわかるとおり、実際にこの坂つくったのは陸軍で、東京市は何もしていなかったのだろう。」
前掲の通り大正半ばの「東京市議会の発言」は、明治中期の「陸軍」の行動の何をも示しておりません。何を持って陸軍が「開運坂」を造ったと言えるのか?何の証拠もありませんが?
もしや砲台があったとする妄想を、憑拠とされるのでありましょうか? 以下に拠れば、どうもその様ですね。
要塞本58頁
そんなことを考えながら立て札の文句を書き写していると、
「このあたりのことをお調べですか」
と声を掛けられた。
振り向くと、日傘をさした女性が立っていた。坂を上ってきたところらしく、左手でオレンジ
色のカートを引いている。
「ええ」
と答えると、
「木下順庵さんはこの上に住んでいたそうです」
日傘が坂の上を指した。
「そうですか」
と答えたものの、そのときは江戸の儒学者のことは何も知らなかった。
上記について 「隠された地下網の正誤表」風に書くと
058ページ◆今も江戸の儒学者のことは何も知らない。
×--「木下順庵さんはこの上に住んでいたそうです」
○--「木下順庵さんはこの上に棲んでいるそうです」
解説-江戸前期の儒者木下順庵は幕府儒者として江戸出府に際し、神田雉(子)橋(千代田区一ツ橋、一ツ橋と宝田橋の間に有ります)に居を定め臨終まで他に住まう事はありませんでした。
では何故、木下順庵の名が出たか。開運坂の南200メートルほど、吹上稲荷の北西裏に「大塚先儒墓所」があるからです。
http://www.city.bunkyo.lg.jp/cgi-bin/kview.cgi?ID=6
この、吹上稲荷に管理されている儒葬による墓所には、文京区のサイトにあるように木下順庵も含め儒者、その家族64墓がねむりについています。
日傘の女性(にょしょう)の発言、秋庭氏の誤認か捏造かは定かならざるところではありますが、少なくとも、取材結果の裏取りを一切行っておられないか、承知で嘘を書かれているかの何れかが生み出した嘘でしょう。
たぶん目指されたのは、この日傘の女性の信憑性の向上。誰かさんがよく仰る「印象操作」ってやつですな。
元々はこの地に邸を構えていた「人見卜幽(道生)」が死後邸内に葬られたことを以って、以降幕府はこの地を儒葬の墓所としました。室鳩巣、柴野栗山、古賀 精里等が埋葬され、儒学の盛衰を踏まえ一時は「儒者の捨場」等と揶揄されながら衰退荒廃したものが明治末から大正にかけ復興されたものです。
木下順庵さんは池上本門寺に埋葬されていましたが、こちらの墓所も荒廃したため大正4年に「大塚先儒墓所」に改葬されたと、「叢書 日本の思想家 7 木下順庵 雨森芳洲」(竹内弘行 上野日出刀著 平成3年明徳出版社刊)にあります。
まぁ、戦前、大正以降確かに「木下順庵さんはこの上に棲んでいらっしゃいます」
「この上」って言っても開運坂から200メートル南にありますし、開運坂側からは入れませんが。
「そのときは江戸の儒学者のことは何も知らなかった。」
今もってご存じないようですね。
要塞本58~60頁
文句を書き写してたし
かめていると、
「明治になってからは、××先生がそこに住んでいたそうです、柔道の。その頃、このあたりに
はヒマラヤ杉が植えられましてね、一面が杉林になって、先生のお宅も林のなかになってしまっ
たそうです」
と言われ、
「ヒマラヤ杉ですか!」
ノートを閉じて私は女性を振り返った。日傘の奥にメガネの赤いフレームが見えた。
『日本築城史』には「植樹は先ずもって実施すべきものである」とあった。砲台の偽装には黒松
や赤松などの常緑樹とあったが、ヒマラヤ杉もあったかもしれない。この坂の下にはレンガづく
りの弾薬庫らしき建物があった。距離は三〇〇~四〇〇メートルだった。
「いまは北国銀行の寮になってますけれど、そのあたりには戦争直前までヒマラヤ杉がありまし
てね、××先生はその杉林から地下道に入って、毎日、講道館まで通われていたんだそうです」
「地下道ですか!」
私は驚いて大きな声を出していた。
「そうです。おもしろい話でしょ」
女性が笑った。日傘が傾いて顔が見えた。
「講道館まで地下道で通っていたんですか」
「そうです」
「あの柔道の講道館ですか」
「ええ」
講道館がある所は、後楽園である。戦前、後楽園には陸軍の砲兵本廠(武器工場)があった。
とはいえ、開運坂と後楽園は、直線距離にしても三キロ以上ある。ロクな機械もない時代に、三
キロを超える地下道がつくられていた。
なぜ、「××先生」と伏字にされるのでしょうか。小石川大塚坂下町114番地、まさに開運坂沿いの北側、および大塚坂下町116番地開運坂のドン突き「北 国銀行の(独身)寮」があるその場所には嘉納治五郎先生の居宅が有った事は、「柔道大辞典」(柔道大辞典編集委員会編 アテネ書房 1999年刊)や、当 時の人名録などでも明らかなことですのに。
「そのあたりには戦争直前までヒマラヤ杉がありましてね、××先生はその杉林から地下道に入って、毎日、講道館まで通われていたんだそうです」
ああ、それで「××先生」、まさか、「嘉納先生はその杉林から地下道に入って、毎日、講道館まで通われていたんだそうです」何て書いた日には、信憑性ゼロですものね。
ところで、嘉納治五郎先生は明治36年でしたか?この開運坂に居を定められてから、昭和13年欧州からの帰路氷川丸船上で卒されるまで、同地より講道館に通われた訳ですが、どこの講道館に地下道で通われたのでしょうか?「後楽園」?
講道館は明治二十七年麹町上二番町から下富坂町(現講道館と春日通を挟んで北側の地)に移ります。造兵廠東京工廠の塀の外、北側ですね。
そして、明治四十年この下富坂町に大道場が完成し、旧道場は大塚坂下町の嘉納邸内に移築され、「開運坂道場」となります。明治四十二年講道館は財団法人となり、嘉納邸が本部に、下富坂町道場が「講道館第一道場」、開運坂道場が「講道館第二道場」となりました。
「昭和前期日本商工地図集成 第一期 東京、神奈川、千葉、埼玉」 1987年 柏書房刊 小石川区より
上図の坂下通りの上に×印交番がありますがそこが「開運坂の入口」開運坂の北沿いに「講道館」とあるのが見えると思います。この地図は住宅地図の先駆けと も言うべき商工地図(東京交通社 昭和三年刊)小石川の部分を拡大したものですが、同じ地図の下富坂町にも「講道館」が有ります。
「昭和前期日本商工地図集成 第一期 東京、神奈川、千葉、埼玉」 1987年 柏書房刊 小石川区より
昭和八年、水道橋畔に講道館水道橋道場が完成し、ここが講道館本部道場になり、下富坂町の道場と開運坂道場がこの水道橋道場に統合されました。この頃には造兵廠東京工廠は十条へ、光ヶ丘へ、大阪へとほぼ移転が完了した頃ですね。
以後昭和三十三年現在地に移るまで続くのです。これが講道館が今もなお、「水道橋の講道館」と言われる由縁なのです。
「大東京三十五区詳細図(昭和16年) 地形社版日本統制地図刊」を元に復刻の「古地図・現代図で歩く 戦前昭和東京散歩 人文社2004年刊」より
下富坂町から水道橋畔までは、南にほぼ800メートルほどの距離があります。地下道どうされたんでしょうね?
要塞本60・62頁
──ここには砲台があった
私はそう確信していた。
市区改正当初、ここには唯一の道路が敷設されていた。明治期の弾薬庫のような建物がいまも
残っている。立て札に「坂名の由来はわからないが」とあったのは、この坂をつくったのが陸軍
だったからだ。大砲の射程距離が伸び、開運坂から東京湾まで砲弾が届くようになっていた。
このあたりでは開運坂が最も標高が高い。東京湾のみならず、三六〇度、全方位をにらんで砲
台の場所を選定すれば、はじめに開運坂があげられても不思議はなかった。陸軍が住民のために
坂をつくるはずがなかった。砲兵本廠のあった後楽園から何のために三キロ以上離れた所まで地
下道がつくられていたかといえば、それはここに砲台があったからとしか考えられなかった。
「市区改正当初、ここには唯一の道路が敷設されていた。」
のだそうですが、「市区改正当初」って、いつのことなんでしょうか?
「ここには唯一の道路が敷設されていた。」
唯一の道路であった憑拠は何処に書かれているのでしょうか?
「明治期の弾薬庫のような建物」ご自分で仰ってましたよね、「要塞本」の54頁辺りで
近所の方に話をうかがうと、この建物はずっと昔からここにあるが、何の
建物か、持ち主は誰か、何もわからないそうである。
少し先の交番でも何もわからず、ゼンリンの住宅地図でも真っ白だった。
何か良く判らないものを、「弾薬庫のような」って何故言えるのでしょうか。
「このあたりでは開運坂が最も標高が高い。」
独立標高点でもあるのかな?富士見坂上がったところ、大塚仲町(大塚三丁目の交差点)辺りも似た様な標高ですが。
「東京湾のみならず、三六〇度、全方位をにらんで砲台の場所を選定すれば」
何で内陸部を射界に?列強の艦隊は大宮方面から侵攻してくるのかしら?射程が50キロの砲台は、陸戦と対船舶戦闘では相手となる戦闘単位がまったく異なります。関東平野における陸戦では、兵器としては、ほとんど意味が無いのではないでしょうか?ですから、
「全方位をにらんで砲台の場所を選定すれば、はじめに開運坂があげられても不思議はなかった。」
まるで意味を成していません。
「砲兵本廠のあった後楽園から何のために三キロ以上離れた所まで地下道がつくられていたかといえば、
それはここに砲台があったからとしか考えられなかった。」
さて、もう一度このページの最初の図、秋庭氏が「陸軍陸地測量部製作・坂下通り周辺地図1909年」と称される図を見てみましょう。開運坂の突き当たりにある宅地に学校を表す、(文)の地図記号と「宏文学院」と校名らしきものがあります。
これこそが、教育者嘉納治五郎の真骨頂、1901年から、約9年間の短い期間でしたが、我が国が外国からの留学生を受け入れると言う、その嚆矢と言っても良いでしょう、清国留学生の受け入れ教育機関として、嘉納が自邸の中に造った「宏文学院」です。
まさに、「××先生はその杉林から地下道に入って、毎日、講道館まで通われていた」その場所に、仮想敵国の留学生の学校が建っているわけです。
さぞかし、砲兵(造兵廠)工廠の保安管理の責任者は、「辮髪に青竜刀を振り回して、地下道から続々現れる清国人に工廠を占拠される」と言う悪夢に夜毎悩まされた事でありましょう。
砲台に気付かない?余程の間抜けな留学生か?そんなはずはありますまい、留学生は清国の俊才達でありましたから。
また、この弘文学院の御蔭で、もちろん、帝大、高等師範をはじめ、当時有数の教育機関が都心に向けて並んでいたこともありましょうが、神田界隈まで沢山の留学生や商人など、清国の人々が生活をしていたのです。
「本屋の小僧が片言の中国語で留学生と商談をしていた。」などと言われていたそうです(この部分の記述秋庭さんみたいで自己嫌悪ですね)。
そんなところに、「砲台」?「地下道」?ですか?
要塞本62~63頁
「その杉林のなかに地下道の入口があったんですね」
「そうです」
「その入口をのぞいたことは」
「ええ」
女性がうなずいた。
「そうすると、地下道をご覧になった」
「ええ」
最近、私はこのときほど驚き、感激したことはなかった。東京の地下を調べはじめてそろそろ
五年になるが、戦前の地下道を見たという人に会ったことがなかった。このような形で話が聞け
るとは思ってもいなかった。
「五年になるが、戦前の地下道を見たという人に会ったことがなかった。」
えっ!そうだったんですか?今までに会われたと仰る、地象の専門家の方とか、都営地下鉄のOB氏とか、其の他有象無象、皆、戦後に在っても戦前の地下道を御覧になった事無かったんですか?
「どのくらいの大きさでした、その地下道は」
「普通ですね、人が一人か二人歩けるくらいの」
日傘を持ったまま女性が両手を広げた。それより少し広いらしかった。
「そうしますと、横幅二メートルくらいですね」
「ええ。もう少しあったかな」
「高さも二メートルくらいですか」
「そうですね。もう少し高かったかもしれません。それで、実は、その地下道は私の家にもつな
がっていたんですけれど、家ではそこに植木を出したり、金魚鉢を置いたりしていましてね、空
襲のときに入ったことはありましたけれど、戦後はかえって物騒だということになりまして、す
ぐに閉めてしまいました」
品のいい笑い声が耳に響いた。
驚き、感激を通り越して、呆気にとられてしまった。東京には戦前から知られざる地下道が数
多くあったはずだと思ってはいたが、植木を出すとか、金魚鉢を置くなどということは、一度も
想像したことがなかった。不適切ないい方かもしれないが、事実の持つ迫力に圧倒された。
地下道に植木鉢や金魚鉢を出すと何かご利益が有るのでしょうか?陽に当てるとか、外の風に晒すとかのために、日常の中に、露地に出すとか、露台に出すとか と言う行為がありますが、そのことから、一般性を得させようと、「地下道を日常に使ってましたよっ」てことで思いつかれたのかな?
地下の風に当てるとか何かそんな意味があるんでしょうか?
ところで、秋庭さん、以上の日傘の女性の発言、何を持って「事実」と認定されたのでしょうか?何処にも事実としての再現性が無いんですけど。このお話。
(平成18年9月3日追加)
だって、放って置くと、こんな人まで出てくるんだもの。新聞社の人って、必ず記事の裏取りをするものとばかり思ってましたけど、何事にも例外と言うものがあるんですね。
毎日新聞「本と出会う─批評と紹介」 2006年7月23日(日)朝刊
「新説 東京地下要塞」 秋庭俊著(講談社・1470円)
戦前に開通していた地下鉄は銀座線だけではない──02年の「帝都東
京・隠された地下網の秘密」以来、東京の地下の闇解明に執念を燃やす著
者の探究は続く。
すべて軍関係者や政財界の一部にしか知られない極秘の地下網である。
鉄道だけでなく、他の用途の通路も縦横に走っていたという。
そんなバカなと思う。しかし、以前の作同様、妙に説得力のある傍証に
困惑する。例えば池袋の東、サンシャインシティの地下。巣鴨プリズン
の跡地だが、ここに戦前から巨大な地下施設があり、戦後処理の大問題
だったという。その仮説の当否はともかく、「戦前、付近に住む柔道家
が後楽園の講道館まで(約3キロを)地下道で通っていた」との証言を得
る場面にはゾクッときた。(和)
開運坂の謎 要塞本57頁
坂下通りの交番を左に曲がると開運坂である。開運坂も坂下通り同様、市区改正の事業でつく
られている。坂の中腹の立て札には次のようにある。
開運坂
坂名の由来についてはよくわからないが、運を開く吉兆を意味するめでたい名をつけたも
のであろう。
ということである。
開運というのは運を開くことで、当然、めでたい名には違いないが、その程度のことなら、誰
でも立て札がなくてもわかる。この立て札は「何もわかりません」といっているのと変わらない
のではないだろうか。本来、市区改正は東京市の事業で、東京市がこの坂をつくったことになっ
ているが、当の東京都の立て札は「坂名の由来はよくわからないが」などと他人事のようであ
る。とはいえ、先の東京市議会の発言からもわかるとおり、実際にこの坂つくったのは陸軍
で、東京市は何もしていなかったのだろう。

まず、秋庭氏は「開運坂」の位置を明確にされていませんので、同氏が「明治前期・昭和前期 東京都市地図 2 東京北部」 66頁(明治42年測図明治四 十四年刊 大日本帝国陸地測量部1万分の1「早稲田」の1996年柏書房復刻刊)より無断複写された上図に赤マーカーで位置を示させて頂きます。
さて、
「開運坂も坂下通り同様、市区改正の事業でつくられている」
そんな記録は何処にもありません。旧設計、新設計いづれの「市区改正全図」にも「坂下通り」は計画線たるを示す朱引きであっても、開運坂の朱引きはありませんが、計画もなしに、どうして市区改正で造成されるのでしょうか?
「とはいえ、先の東京市議会の発言からもわかるとおり、実際にこの坂つくったのは陸軍で、東京市は何もしていなかったのだろう。」
前掲の通り大正半ばの「東京市議会の発言」は、明治中期の「陸軍」の行動の何をも示しておりません。何を持って陸軍が「開運坂」を造ったと言えるのか?何の証拠もありませんが?
もしや砲台があったとする妄想を、憑拠とされるのでありましょうか? 以下に拠れば、どうもその様ですね。
要塞本58頁
そんなことを考えながら立て札の文句を書き写していると、
「このあたりのことをお調べですか」
と声を掛けられた。
振り向くと、日傘をさした女性が立っていた。坂を上ってきたところらしく、左手でオレンジ
色のカートを引いている。
「ええ」
と答えると、
「木下順庵さんはこの上に住んでいたそうです」
日傘が坂の上を指した。
「そうですか」
と答えたものの、そのときは江戸の儒学者のことは何も知らなかった。
上記について 「隠された地下網の正誤表」風に書くと
058ページ◆今も江戸の儒学者のことは何も知らない。
×--「木下順庵さんはこの上に住んでいたそうです」
○--「木下順庵さんはこの上に棲んでいるそうです」
解説-江戸前期の儒者木下順庵は幕府儒者として江戸出府に際し、神田雉(子)橋(千代田区一ツ橋、一ツ橋と宝田橋の間に有ります)に居を定め臨終まで他に住まう事はありませんでした。
では何故、木下順庵の名が出たか。開運坂の南200メートルほど、吹上稲荷の北西裏に「大塚先儒墓所」があるからです。
http://www.city.bunkyo.lg.jp/cgi-bin/kview.cgi?ID=6
この、吹上稲荷に管理されている儒葬による墓所には、文京区のサイトにあるように木下順庵も含め儒者、その家族64墓がねむりについています。
日傘の女性(にょしょう)の発言、秋庭氏の誤認か捏造かは定かならざるところではありますが、少なくとも、取材結果の裏取りを一切行っておられないか、承知で嘘を書かれているかの何れかが生み出した嘘でしょう。
たぶん目指されたのは、この日傘の女性の信憑性の向上。誰かさんがよく仰る「印象操作」ってやつですな。
元々はこの地に邸を構えていた「人見卜幽(道生)」が死後邸内に葬られたことを以って、以降幕府はこの地を儒葬の墓所としました。室鳩巣、柴野栗山、古賀 精里等が埋葬され、儒学の盛衰を踏まえ一時は「儒者の捨場」等と揶揄されながら衰退荒廃したものが明治末から大正にかけ復興されたものです。
木下順庵さんは池上本門寺に埋葬されていましたが、こちらの墓所も荒廃したため大正4年に「大塚先儒墓所」に改葬されたと、「叢書 日本の思想家 7 木下順庵 雨森芳洲」(竹内弘行 上野日出刀著 平成3年明徳出版社刊)にあります。
まぁ、戦前、大正以降確かに「木下順庵さんはこの上に棲んでいらっしゃいます」
「この上」って言っても開運坂から200メートル南にありますし、開運坂側からは入れませんが。
「そのときは江戸の儒学者のことは何も知らなかった。」
今もってご存じないようですね。
要塞本58~60頁
文句を書き写してたし
かめていると、
「明治になってからは、××先生がそこに住んでいたそうです、柔道の。その頃、このあたりに
はヒマラヤ杉が植えられましてね、一面が杉林になって、先生のお宅も林のなかになってしまっ
たそうです」
と言われ、
「ヒマラヤ杉ですか!」
ノートを閉じて私は女性を振り返った。日傘の奥にメガネの赤いフレームが見えた。
『日本築城史』には「植樹は先ずもって実施すべきものである」とあった。砲台の偽装には黒松
や赤松などの常緑樹とあったが、ヒマラヤ杉もあったかもしれない。この坂の下にはレンガづく
りの弾薬庫らしき建物があった。距離は三〇〇~四〇〇メートルだった。
「いまは北国銀行の寮になってますけれど、そのあたりには戦争直前までヒマラヤ杉がありまし
てね、××先生はその杉林から地下道に入って、毎日、講道館まで通われていたんだそうです」
「地下道ですか!」
私は驚いて大きな声を出していた。
「そうです。おもしろい話でしょ」
女性が笑った。日傘が傾いて顔が見えた。
「講道館まで地下道で通っていたんですか」
「そうです」
「あの柔道の講道館ですか」
「ええ」
講道館がある所は、後楽園である。戦前、後楽園には陸軍の砲兵本廠(武器工場)があった。
とはいえ、開運坂と後楽園は、直線距離にしても三キロ以上ある。ロクな機械もない時代に、三
キロを超える地下道がつくられていた。
なぜ、「××先生」と伏字にされるのでしょうか。小石川大塚坂下町114番地、まさに開運坂沿いの北側、および大塚坂下町116番地開運坂のドン突き「北 国銀行の(独身)寮」があるその場所には嘉納治五郎先生の居宅が有った事は、「柔道大辞典」(柔道大辞典編集委員会編 アテネ書房 1999年刊)や、当 時の人名録などでも明らかなことですのに。
「そのあたりには戦争直前までヒマラヤ杉がありましてね、××先生はその杉林から地下道に入って、毎日、講道館まで通われていたんだそうです」
ああ、それで「××先生」、まさか、「嘉納先生はその杉林から地下道に入って、毎日、講道館まで通われていたんだそうです」何て書いた日には、信憑性ゼロですものね。
ところで、嘉納治五郎先生は明治36年でしたか?この開運坂に居を定められてから、昭和13年欧州からの帰路氷川丸船上で卒されるまで、同地より講道館に通われた訳ですが、どこの講道館に地下道で通われたのでしょうか?「後楽園」?
講道館は明治二十七年麹町上二番町から下富坂町(現講道館と春日通を挟んで北側の地)に移ります。造兵廠東京工廠の塀の外、北側ですね。
そして、明治四十年この下富坂町に大道場が完成し、旧道場は大塚坂下町の嘉納邸内に移築され、「開運坂道場」となります。明治四十二年講道館は財団法人となり、嘉納邸が本部に、下富坂町道場が「講道館第一道場」、開運坂道場が「講道館第二道場」となりました。

「昭和前期日本商工地図集成 第一期 東京、神奈川、千葉、埼玉」 1987年 柏書房刊 小石川区より
上図の坂下通りの上に×印交番がありますがそこが「開運坂の入口」開運坂の北沿いに「講道館」とあるのが見えると思います。この地図は住宅地図の先駆けと も言うべき商工地図(東京交通社 昭和三年刊)小石川の部分を拡大したものですが、同じ地図の下富坂町にも「講道館」が有ります。

「昭和前期日本商工地図集成 第一期 東京、神奈川、千葉、埼玉」 1987年 柏書房刊 小石川区より
昭和八年、水道橋畔に講道館水道橋道場が完成し、ここが講道館本部道場になり、下富坂町の道場と開運坂道場がこの水道橋道場に統合されました。この頃には造兵廠東京工廠は十条へ、光ヶ丘へ、大阪へとほぼ移転が完了した頃ですね。
以後昭和三十三年現在地に移るまで続くのです。これが講道館が今もなお、「水道橋の講道館」と言われる由縁なのです。

「大東京三十五区詳細図(昭和16年) 地形社版日本統制地図刊」を元に復刻の「古地図・現代図で歩く 戦前昭和東京散歩 人文社2004年刊」より
下富坂町から水道橋畔までは、南にほぼ800メートルほどの距離があります。地下道どうされたんでしょうね?
要塞本60・62頁
──ここには砲台があった
私はそう確信していた。
市区改正当初、ここには唯一の道路が敷設されていた。明治期の弾薬庫のような建物がいまも
残っている。立て札に「坂名の由来はわからないが」とあったのは、この坂をつくったのが陸軍
だったからだ。大砲の射程距離が伸び、開運坂から東京湾まで砲弾が届くようになっていた。
このあたりでは開運坂が最も標高が高い。東京湾のみならず、三六〇度、全方位をにらんで砲
台の場所を選定すれば、はじめに開運坂があげられても不思議はなかった。陸軍が住民のために
坂をつくるはずがなかった。砲兵本廠のあった後楽園から何のために三キロ以上離れた所まで地
下道がつくられていたかといえば、それはここに砲台があったからとしか考えられなかった。
「市区改正当初、ここには唯一の道路が敷設されていた。」
のだそうですが、「市区改正当初」って、いつのことなんでしょうか?
「ここには唯一の道路が敷設されていた。」
唯一の道路であった憑拠は何処に書かれているのでしょうか?
「明治期の弾薬庫のような建物」ご自分で仰ってましたよね、「要塞本」の54頁辺りで
近所の方に話をうかがうと、この建物はずっと昔からここにあるが、何の
建物か、持ち主は誰か、何もわからないそうである。
少し先の交番でも何もわからず、ゼンリンの住宅地図でも真っ白だった。
何か良く判らないものを、「弾薬庫のような」って何故言えるのでしょうか。
「このあたりでは開運坂が最も標高が高い。」
独立標高点でもあるのかな?富士見坂上がったところ、大塚仲町(大塚三丁目の交差点)辺りも似た様な標高ですが。
「東京湾のみならず、三六〇度、全方位をにらんで砲台の場所を選定すれば」
何で内陸部を射界に?列強の艦隊は大宮方面から侵攻してくるのかしら?射程が50キロの砲台は、陸戦と対船舶戦闘では相手となる戦闘単位がまったく異なります。関東平野における陸戦では、兵器としては、ほとんど意味が無いのではないでしょうか?ですから、
「全方位をにらんで砲台の場所を選定すれば、はじめに開運坂があげられても不思議はなかった。」
まるで意味を成していません。
「砲兵本廠のあった後楽園から何のために三キロ以上離れた所まで地下道がつくられていたかといえば、
それはここに砲台があったからとしか考えられなかった。」
さて、もう一度このページの最初の図、秋庭氏が「陸軍陸地測量部製作・坂下通り周辺地図1909年」と称される図を見てみましょう。開運坂の突き当たりにある宅地に学校を表す、(文)の地図記号と「宏文学院」と校名らしきものがあります。
これこそが、教育者嘉納治五郎の真骨頂、1901年から、約9年間の短い期間でしたが、我が国が外国からの留学生を受け入れると言う、その嚆矢と言っても良いでしょう、清国留学生の受け入れ教育機関として、嘉納が自邸の中に造った「宏文学院」です。
まさに、「××先生はその杉林から地下道に入って、毎日、講道館まで通われていた」その場所に、仮想敵国の留学生の学校が建っているわけです。
さぞかし、砲兵(造兵廠)工廠の保安管理の責任者は、「辮髪に青竜刀を振り回して、地下道から続々現れる清国人に工廠を占拠される」と言う悪夢に夜毎悩まされた事でありましょう。
砲台に気付かない?余程の間抜けな留学生か?そんなはずはありますまい、留学生は清国の俊才達でありましたから。
また、この弘文学院の御蔭で、もちろん、帝大、高等師範をはじめ、当時有数の教育機関が都心に向けて並んでいたこともありましょうが、神田界隈まで沢山の留学生や商人など、清国の人々が生活をしていたのです。
「本屋の小僧が片言の中国語で留学生と商談をしていた。」などと言われていたそうです(この部分の記述秋庭さんみたいで自己嫌悪ですね)。
そんなところに、「砲台」?「地下道」?ですか?
要塞本62~63頁
「その杉林のなかに地下道の入口があったんですね」
「そうです」
「その入口をのぞいたことは」
「ええ」
女性がうなずいた。
「そうすると、地下道をご覧になった」
「ええ」
最近、私はこのときほど驚き、感激したことはなかった。東京の地下を調べはじめてそろそろ
五年になるが、戦前の地下道を見たという人に会ったことがなかった。このような形で話が聞け
るとは思ってもいなかった。
「五年になるが、戦前の地下道を見たという人に会ったことがなかった。」
えっ!そうだったんですか?今までに会われたと仰る、地象の専門家の方とか、都営地下鉄のOB氏とか、其の他有象無象、皆、戦後に在っても戦前の地下道を御覧になった事無かったんですか?
「どのくらいの大きさでした、その地下道は」
「普通ですね、人が一人か二人歩けるくらいの」
日傘を持ったまま女性が両手を広げた。それより少し広いらしかった。
「そうしますと、横幅二メートルくらいですね」
「ええ。もう少しあったかな」
「高さも二メートルくらいですか」
「そうですね。もう少し高かったかもしれません。それで、実は、その地下道は私の家にもつな
がっていたんですけれど、家ではそこに植木を出したり、金魚鉢を置いたりしていましてね、空
襲のときに入ったことはありましたけれど、戦後はかえって物騒だということになりまして、す
ぐに閉めてしまいました」
品のいい笑い声が耳に響いた。
驚き、感激を通り越して、呆気にとられてしまった。東京には戦前から知られざる地下道が数
多くあったはずだと思ってはいたが、植木を出すとか、金魚鉢を置くなどということは、一度も
想像したことがなかった。不適切ないい方かもしれないが、事実の持つ迫力に圧倒された。
地下道に植木鉢や金魚鉢を出すと何かご利益が有るのでしょうか?陽に当てるとか、外の風に晒すとかのために、日常の中に、露地に出すとか、露台に出すとか と言う行為がありますが、そのことから、一般性を得させようと、「地下道を日常に使ってましたよっ」てことで思いつかれたのかな?
地下の風に当てるとか何かそんな意味があるんでしょうか?
ところで、秋庭さん、以上の日傘の女性の発言、何を持って「事実」と認定されたのでしょうか?何処にも事実としての再現性が無いんですけど。このお話。
(平成18年9月3日追加)
だって、放って置くと、こんな人まで出てくるんだもの。新聞社の人って、必ず記事の裏取りをするものとばかり思ってましたけど、何事にも例外と言うものがあるんですね。
毎日新聞「本と出会う─批評と紹介」 2006年7月23日(日)朝刊
「新説 東京地下要塞」 秋庭俊著(講談社・1470円)
戦前に開通していた地下鉄は銀座線だけではない──02年の「帝都東
京・隠された地下網の秘密」以来、東京の地下の闇解明に執念を燃やす著
者の探究は続く。
すべて軍関係者や政財界の一部にしか知られない極秘の地下網である。
鉄道だけでなく、他の用途の通路も縦横に走っていたという。
そんなバカなと思う。しかし、以前の作同様、妙に説得力のある傍証に
困惑する。例えば池袋の東、サンシャインシティの地下。巣鴨プリズン
の跡地だが、ここに戦前から巨大な地下施設があり、戦後処理の大問題
だったという。その仮説の当否はともかく、「戦前、付近に住む柔道家
が後楽園の講道館まで(約3キロを)地下道で通っていた」との証言を得
る場面にはゾクッときた。(和)