地下妄の手記

大東京の地下400年 九層倍の嘘 紊乱編

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大東京の地下400年 九層倍の嘘 紊乱編


  さて、以下延々と秋庭さんの wikipedia 等ネットからの孫引きなる日本全国戦国末期、兎に角「五角形」の城探し、歴史上の有名人の行為から飛躍する妄想による捏造の嵐が吹き荒れるわけだけれど。wikipedia 自体が、研究書や資料からの孫引きの類が多いからと言って、書きっぷりまで wikipedia そっくりってことは、元ネタの研究書や資料は読んでいないのが丸バレってことなんだけれど。

18」江戸城以外にもある「五角形の城」の謎

 五角形の城は、江戸城以外にも石川県の金沢城、愛媛県の宇和島城、新潟県の新発田城、
福井県の丸岡城などがある。江戸城によく似た水城もあれば、大坂城に似た城もあるが、
いずれもヨーロッパの築城術をどこからか学んだことを感じさせる。

  ここはオリジナルだな、「ヨーロッパの築城術をどこからか学んだ」なんて記事は流石のwikiにも載っていない。

 石川県金沢市にある金沢城は五角形だ。百間堀、白鳥路、大手堀、尾崎神社から県立体
育館付近、宮守堀と、不等辺五角形になっている。
小立野台地の先端を利用した、もともとの地形が原型になっているが、五角形にしたの
は佐久間盛政で、百間堀をつくって小立野台地から切り離したのが最初といわれる。さら
に前田利家、利長の時代に大手門側に敷地を広げたり、玉泉院丸などの増築で五角形にし
たりしたことがわかっている。江戸城建設より以前の話だ。
金沢城は、五角形のほかにも、本丸の前に広場があること、本丸の裏側に巨大な堀があ
ることなどが、豊臣秀吉の居城であった大坂城に似ている。それで大坂城がモデル、とい
われているが、ヨーロッパからやってきた宣教師から築城術を教わったのかもしれない。

  不等辺五角形って?ネタ元はここかな?何かと曰くのある北国新聞社

http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/chikujyo/chiku04.html

北國新聞夕刊(2000/02/05付)

●大坂城に原形
金沢城も五角形だ。(1)百間堀(2)白鳥路(3)大手堀(4)尾崎神社から県立体育館付近(5)宮守(いもり)堀―の不等辺五角形である。
小立野台地の先端を利用した尾山御坊以来の地形が原形としてあったことが第一だが、もともと五角形だったのではない。尾山御坊時代には小立野台と続いていたのを佐久間盛政時代に百間堀を掘削して台地から切り離したのが五角形造りの最初であった。さらに、前田利家・利長の築城で、大手門(尾坂(おさか)門)側に敷地を拡大し、玉泉院丸(県体育館付近の一角)などの増築で城域を拡大していく中、徐々に五角形に造り変えていったことが見てとれるのである。
「死角を少なくするため、知恵の限りを尽くしている」と金沢美大の山岸政雄教授(視覚デザイン)は、五角形の金沢城を分析する。人間の視覚や視野は左右に600メートルぐらい見える所が「納得のいく情報が届く範囲」であり、城の外周が四角よりも五角形、六角形になっていくのは当然で、「死ぬか生きるかの戦国の世に必死で考えたデザインは必然的にそう(五角形)なっていく」という。
五角形の平面プランを持つ金沢城は▽本丸の前に広場を持つこと▽本丸背後に巨大な水堀(金沢城の場合は百間堀)があることなど、豊臣秀吉時代の大坂城にその原形を求めることができるという。必要から生まれた機能的なデザインが長い時間をかけていくうち、自然なものに感じられるのは城の形に限らない。道具や兵器など、いくらも例はあるというのである。

  しかも、佐久間で最初の五角形じゃなくて、佐久間、前田利家、利長で「徐々に五角形に造り変えていった」とあるよね。元ネタには。
  秋庭さん下手に改竄するから全部インチキになっちまう。これが単なる盗用と言うだけでなく、原文の誠実性を破壊すると言う、もっと悪いことをしているんだと言うのが何故判らない?
  五角形ですっかり忘れているみたいだけれど、高い建物を構築しない、平地や低地に造ると言う、「オランダ式」だか「イタリア式」だか?の理屈から言うと、平城になるはずなんだが?金沢も次の宇和島も、丸岡も平山城で、本丸とか天主が高いとこにあるんだが?大丈夫か防御?

 愛媛県宇和島市にある宇和島城(別名鶴島城)も五角形だ。この城を建てたのは「築城の
名人」といわれ、江戸城建設でも重要な役割を果たした藤堂高虎だ。1596(慶長元)年
から5年がかりで建てたといわれているから、江戸城建設の直前だ。
当時の宇和島城は外郭の半分が海という「水城」で、今でも宇和島市の市街地は城を中
心に五角形の形をしている。オランダの水城と共通する点が多く、藤堂にとっては江戸城
建設のリハーサルになったのかもしれない。
同じ五角形でも金沢城とは地形的にも異なっており、築城したのが藤堂高虎となると、
もしかして高虎は「オランダ式築城術」を家康から、いや、ウイリアム・アダムスかヤ
ン・ヨーステンから学んだかもしれない。

  藤堂高虎が、宇和島城修築に着手したのは1596年。まだ秀吉存命で、縄張りは秀吉時代になるがね。城の完成は関が原後1602年だが、ここで書いたように、リーフデ号一行が豊後へ漂着するのは1600年、どうやったら、「ウイリアム・アダムスかヤン・ヨーステンから学」ぶことができるものやら。
  高虎は関が原の戦功で、伊予半国に加増されて、今治に居城を設け、1608年に完成した今治城に宇和島から本拠を移すんだけれど。この宇和島の後に手掛けた、今治の城は、真っ四角な城で五角形も六角形も何処にも無い。今治城の縄張りは「ウイリアム・アダムスかヤン・ヨーステンから学」べる時期なんだが、五角形の築城とやらを。
  何で真っ四角?

 新潟県の新発田城は、北に加治川が流れ、左右は深い沼沢、広い三角州の上に建てられ
ている。太田道灌の江戸城に似ている。
築城工事が行なわれたのは1598(慶長3)年とされているから、宇和島城とほほ同じころだ。
建てたのは豊臣秀吉の命令で越後に移封させられてきた溝口秀勝で、当時の新発田川の
本流と支流を利用して外濠をつくり、新たに今の新発田川を掘って城下町の防衛線にした
とされている。
よくできた水城だ。事あるときは、加治川の堤防を切って城を守った、という話も伝えられて
いる。

  秋庭さんには、城の出来不出来が判るらしいのだが、その出来の良さの説明が

    事あるときは、加治川の堤防を切って城を守った、という話も伝えられている。

  いつ「」があったんだろう。秀吉の命で溝口入府以来、明治維新を迎えるまで、溝口はこの地を所領しており、新発田城周辺で戦闘は無かったのだが。

 福井県の丸岡城は、1576(天正4)年、柴田勝家の甥、勝豊が築城した城で、石瓦で
葺かれた天守閣は現存するものでは日本最古といわれている。今の丸岡城は、17世紀のな
かごろというから、江戸城建設の後に、本多重能が改修したものといわれている。
本丸を中心に、北に二の丸、三の丸、東に東の丸を配した五角形の城で、周りを幅広い
堀で囲まれているのが特徴だ。五角形のなかに市街地こそないが、堀に囲まれた城は「水
城」の趣があった(残念なことに、今は堀が埋め立てられて、見ることができない)。
この城は、改修の時期から考えると、江戸城をモデルに改修された可能性がある。

  丸岡城はやはり平山城で本丸、天主は小高い丘の上。幅広い堀があっても、五角形でも、秋庭式築城のもう一つの要、砲撃に強い低い構築にはなっていませんが?改修の時期だけで、「江戸城をモデルとして」改修された可能性を言えるんだろうか?五角形も、構築の状況も、江戸城の縄張りとは似ても似つかないんだけれど。

  秋葉さん曰くところの五角形と、実際に構造が残っている城址についての五角形、それも正五角形ではなく、何となく五角形に見えるかなって言う物まで含めて、の五角形ですが、外濠レベルで五角形なものもあれば、総構で五角形なもの、本丸部分で五角形なものとか色々で「正五角形の砲術」に対抗する「何となく五角形の築城術」ってものが果たして術と言うような論理に基づいて存在したのかと言うことすら怪しいのだけれど。以下も同様に、「五角形な嘘」が続きますが。


19」伊達政宗は「イタリア式築城術」術入手しようとしていた!?

 1613(慶長18)年10月28日、仙台藩62万石の大大名、伊達政宗の命を受けた支倉常長
はサン・フアン・バウティスタ号で月の浦を出発。ヌエバ・エスパーニヤ(今のメキシコ)
の港アカプルコに向かった。
アカプルコから陸路を進み、大西洋側の町ベラクルスに出ると、そこから再び船でエス
パーニヤ(今のスペイン)へ。着いたのは1615(慶長20年1月。支倉は国王フェリペ3
世に謁見したが、派遣の目的であった通商(貿易)交渉は成功しなかった。
その後、最終目的地ローマに到着したのが同年11月だ。ドン・フィリッポ・フランシス
コという洗礼名を持つキリスト教徒であった支倉にとっては、このときローマ教皇(法王)
パウルス5世とも謁見したことが最大の収穫だったに違いない。
それから5年近くも経った1620(元和6)年9月、支倉は目的を果たせず、失意を抱
えて帰国したとされている。
しかし、彼が帰国したときにはすでにキリスト教の禁教令が出ていて、失意を抱えたま
まの帰国から2年後の8月に亡くなっている。
支倉の派遣は、1609(慶長14)年に台風で今の千葉県御宿町に漂着したエスパーニヤ
のフィリピン総督ドン・ロドリゴ一行に、家廉が三浦按針(ウイリアム・アダムス)が建造
した船を贈り、ヌエバ・エスパーニャに還したことから、実現したものだった。
その意味では、幕府からもそれなりの期待を受けていいはずだが、支倉がキリスト教徒
であったからだろうか、幕府は派遣を支援することはなかった。
支倉自身は、その功績に免じて処刑を免れたが、息子、常頼は召使がキリシタンである
ことの責任を問われて処刑され、支倉家はお家断絶の処分を受けている。

  ここまでは、完全に wikipedia からのパクリ。もちろん、 wikipedia 自体は、一応参考文献や資料を記事末に挙げていたりしていますが、 wikipedia 記事を引いて記述した場合、「 wikipedia 」よりとすると、本来の引用元、出典が消えてしまい、記述の中で少なくとも「 wikipedia 」の何と言う項目から引いてきたものかを書かない限り、オリジナルを追えなくなります。秋庭さんの場合はその出典すら書いてません。ああ、巻末の参考文献一覧の中に「ウエブ情報」とやら称して「フリー百科事典ウィキペディア」とか書いてますけど、そこから記述の結果を持ってくるのは、引用にすら当たらない、孫引きのパクリです。第一に、 wikipedia は名称は「フリー百科事典」と称していますが実際にはフリーではありません。元々のライセンスの中での許容の拡大による実質的な著作権フリーと言う理念は、現実には、万国著作権条約、並びに各国の著作権法規類と競合し、著作権保護のためのそれらの制限をクリアできず、法違反から自由にすらなっていない運動だからです。ですから、 wikipedia が主張する改変などの二次使用の自由も、商業利用の自由も、実際にはわが国著作権法の制限を受けるものです。
  そして、故意や過失による引用元の記事改変が無いとの保証すらない、その記事改変による著作者人格権の侵害がないという保証すらないのがウィキペディアの実態です。
  目安としての調べ物には有効ですが、裏取りをしなければ、安心して使えません。ですから、その記事を元に、事実を歪曲したり、改竄し、以下のような行動や事象を捏造した場合、一般にその記述を妄想と言います。

 当時の大大名で、外国の事情にも目を向ける文化人でもあった伊達政宗が、キリスト教
徒の支倉を派遣したのには裏があると、私は思う。エスパーニヤとの通商交渉は表向きの
目的で、政宗の目的はローマにあったのではないだろうか。
伊達政宗ならともかく、一大名の家臣にすぎなかった支倉にはエスパーニヤとの通商交
渉は荷が重すぎる。しかし、ローマ教皇に謁見するとなればキリスト教徒の支倉が最適任
者であったことは私にも想像がつく。

   意味が繋がらない、受け売りのわずかな情報量だけで、何らかの結論を無理にこじつけようとするから、意味不明になる。幕府および仙台藩の主導であったが、慶長遣欧使節の正使はフランシスコ会の神父ルイス・ソテロつまりカトリックの坊さん。また使節の目的は、スペイン国王とヌエバ・エスパーニャ副王とは、通商交渉であり、ローマにおいては、仙台への宣教師の派遣と言われていることから、仙台藩側の責任者は、信者から適任者を出す方が妥当でしょ。ならば、正宗のリエゾンと言うかアタッシェとも言うべきか、折衝ごとに通じ南蛮のプロトコルにも通じている支倉君適任じゃん。
  大名の家臣ったって、元は1200石取り、養家の実子に半分渡したといえ、600石取りって家格は藩重役の家ですよ支倉家。決して荷が重過ぎるということはなかったと思うぞ。
  徳川の御船手奉行向井正監の手のものが、サン・フアン・バウティスタ号の建造にも関わり、ヌエバ・エスパーニャ貿易にも絡んでいたわけですから、その辺の折衝とか、堺の商人まで居たと言われている180人の使節団のまとめとしても常長君適任だったんでしょ。現代でいえば、松村謙三の役回りをこなしてるわけだもの。


 秀吉の死後、家康に取り入って大大名のひとりとなった伊達政宗に天下取りの野望がな
かったとしても、江戸城が「オランダ式築城術」で建設されていることは知っていたはず
だ。となれば、当時のヨーロッパの築城術に大きな関心を持っていたに違いない。
支倉をローマに派遣した目的は、「イタリア式築城術」についての情報を集めることで
はなかったのだろうか。
そこに家康を打倒する秘術が隠されていないか、そんな思いも支倉に託したかもしれな
い。しかし、支倉がどんな土産を持ち帰ったかはわかっていない。

  伊達政宗は、秀吉の死ぬ前から大大名でしょ?じゃなかったら支倉常長の文禄・慶長の役従軍はなかったはずでしょ。
  家康は「オランダ式築城術」なるものを江戸に居ながらに手に入れたのに、正宗は、使いをわざわざローマにまで送り出して、「イタリア式築城術」?何それなものを手に入れなければならないのかな?ああそうか、スペイン人や、ポルトガル人はやってきていたけど、イタリア人は「イタリア」なんて国無いから、やって来てなかったんだ日の本には。そして、スペイン人にも、ポルトガル人にも、「イタリア式築城術」なるものが承知されていなかったわけね。当たり前だね、「イタリア」なんて国名無いんだもの。秋庭さん式で言えば、「ヨーロッパの中央」だったっけ「イタリア」?
  歴史上の有名人の行動を wikipedia あたりのネット情報から収集して、それを自己の都合のために牽強付会して改竄・捏造するのやめたら?
  

20」広島城もオランダ式築城術で建てられたのか?

 16世紀の後半にオランダのシモン・ステヴィンという数学者が残した理想都市図にある
都市計画の原理と「毛利輝元のもとに1589年の築城に続いて建設された広島城下町計
画に、ある類似部分がある」と、杉本俊多・広島大学大学院工学系研究科(社会環境システ
ム専攻)教授が、ホームページに書いている。

2007年4月から更新されていないようなのですが、こちらが杉本先生の該当記事のURLです。

http://home.hiroshima-u.ac.jp/tsugi/K_Nedell_RN.htm

  以下の事どもについて、杉本先生は、これからの研究テーマかな?と思ってはいらっしゃるようですが、2007年4月現在では何の憑拠もお持ちではないと仰っています。秋庭さんと違って、学者が仮説を立て、今、何の憑拠無いという場合は、本当に「何にも判っていません。」と言うことです。なによりも、「シモン・ステヴィン」と言う低地地帯の人が残したのは「理想都市図」つまりペーパープラン、しかも杉本先生自身の、言っている事がはっきりしない「シモン・ステヴィン」自身のプランの話なのか、彼のバックボーンである北方ルネッサンス(この言い方自体も本件に関しては怪しいのだが)の文化の総和としての諸技芸の中の話しなのか、好い加減なのだけれど。書きっぷりからいうと、杉本先生は「シモン・ステヴィン」の「理想都市」がそのまま伝播したのではなく、バックボーンの北方ルネッサンスが当時の日本に伝播したんじゃないかと言う趣旨に見えるんだけどね。だって、杉本先生自身が、

     シモン・ステヴィン(Simon Stevin, 1548-1620)とか

     シモン・ステヴィンの理想都市計画案(構想1590頃、死後、息子による作画、出版)

と書いておられるように、「理想都市」が何時描かれたものかは判らないけど、とても、毛利輝元の広島城下建設には伝播が間に合わないと思われるからなんだけどね。

 また、16世紀初頭のウイレムシュタッドというオランダの都市の計画図を見て、「大規
模にすれば広島城下町計画に共通するものがある」とも書いている。教会堂を中心にした
七角形の町で、中心軸は水路ではないが、港と裏手に引きこみ線のような水路がある。
広島市は、毛利輝元が築城した広島城を中心にした城下町だ。城は3重の堀に囲まれ、
武家町は堀を隔てた北と東に、町人は南側の西国街道沿いに集まって暮らしていた。その
都市づくりが当時のオランダの都市づくりに似ているのだという。
なぜオランダの都市が広島と似ているかについては明確な答えを出していないが、スペ
インやポルトガルの船でやってきたオランダ人から何らかの情報が毛利輝元に流れてきた
のではないかと、杉本教授は推測している。

  それから、人の話を受け売りする時は、正しく記述してください。杉本先生の話を好い加減に要約と言うか、理解しないで書き散らしているから、アンタの書きようでは、何処が似ているのかすら分からない。本当に正しい引用すらできてないんだからどうしようもない。杉本先生は、ウィレムシュタッド(一般にはヴィレムシュタット)の実際の姿から言ってるんであって、都市の計画図を見て決め付けているわけじゃないんだけど。杉本先生は「城は3重の堀に囲まれ、」ってどこに書いてるのかな?

  それはさておき、この「400年本」35頁に、ウィレムシュタッド、同名のオランダ領アンティル諸島の街について、杉本先生と違うことを書かれているんだけれど、これは何?

 リーフデ号が寄港したインドネシアのバタビアでは五角形の城が、ベネズエラのウィリ
アムスタッドでは七角形の城が建てられており、築城術が輸出されたことをうかがわせる。
もしかして、日本にも武器と築城術を売りに来たのかもしれない。そして、家康との商
談が成立し、江戸城の設計にオランダ式築城術が採用されたのではないだろうか?

  いったい七角形の城はどこにあるんだろうね?
  
 16世紀末に築城術を完成させたオランダは、世界に大砲とそれに耐える城づくりの理論
を売り回った。
そのひとつがオランダ商船リーフデ号だと思っていることはすでに述べた。この時期、
カトリックの宣教師をはじめ異国人が数多く日本にやってきている。
広島城の築城はリーフデ号漂着の直前だから、杉本教授が推測されているように、何ら
かの方法でオランダの築城術を広島の城主、毛利輝元が耳にした可能性はじゅうぷん考え
られる。当時の広島は港町であり、商人の町であった。
大坂城を中心につくられた城下町・大坂も水路と海を巧みに生かした町であり、毛利輝
元が豊臣秀吉の命令を受けて朝鮮征伐に出かけていることから、広島城を秀吉の発案とか
秀吉の命を受けた人間がプランをつくったという説もあるが、どうだろうか?

  「秀吉発案説」も杉本先生が仰っていることで、杉本先生の推測の範囲の中のこと。先生は検討すべき課題としてあげておられる様に読んだんだが?「説」?ですか?

 私は、偶然知った「オランダ式築城術」から広島の町に適合するものだけをピックアッ
プして、毛利輝元がプランをつくったという説を支持したい。

  支持したいも何も、説になっていないものをどうやって支持するんだろう。ひょっとして、応援するってこと?まぁ、杉本先生の言ってることも、学問的には、根も葉もない「ていげい」なことではあるんでしょうけどね。

 江戸城との違いは、天下人となった家康と一大名にすぎなかった毛利輝元の違いで、た
とえ輝元が考えていたとしても江戸城を広島に建てることは不可能であった。

  何でここで江戸城が出てくるんだろう?
  「江戸城を広島に建てることは不可能
  そりゃあそうだろう、広島に建てたら広島城。ってか、江戸城のような「秋庭式」築城理論に基づいたものを広島に建てることは、たとえ毛利輝元が考えていたとしても不可能だとでも言いたいんだろうけど、それでも相当に、論理的な説得力無いぜ。しかも、杉本先生は江戸城になんて言及してませんし。
  杉本先生の広大のサイトって、秋庭さんが涎を垂らして喰い付きそうなことばかり書いてあるんだけど、全部、「気になること」って言うタイトルで、仮説、推論が書かれていて、学問的には上記のとおり、まだ、何の手掛かりも掴めていないものの様なんだけど。
  ところで、杉本先生のサイトのここに、

http://home.hiroshima-u.ac.jp/tsugi/K_pentagon.htm

  五角形の都市計画みたいな記事が書かれているんだが。何で秋庭さんこれに喰い付かないんだろう。理由は2つ、「杉本先生の理屈がよくわからないんで、消化不良を起しそうだから。」ってのと、「自分より上手に料理されているみたいで、そのまま持ってきたら、正真正銘パクリって言われそうだから。
  私、陸壱玖は、「自分より上手に料理されているみたいで、そのまま持ってきたら、正真正銘パクリって言われそうだから。」と言う説を支持したい(笑


21」幕府の命令で函館の五稜郭はつくられたが…?

 ペリー来航を受けて国防政策の見直しを迫られた徳川幕府は、東京湾ばかりでなく全国
1000カ所に砲台の建設を命じている。その代表的な砲台が1866(慶応2)年にでき
た函館の五稜郭だ。初期設計図を見ると、五稜郭の中核は五角形になっていて、そこから
ギザギザが外に突き出している。このギザギザの先に砲台があり、攻めてくる敵船に十字
砲火を浴びせるしくみになっていた。城壁は3重構造になっていて内側の城壁にも砲台が
ある。
このきわめて複雑な構造は、オランダ、ナールデンの初期設計にそっくり。オランダの
築城術をそっくりコピーしたような設計だ。しかし、資金不足もあって計画は縮小されて、
「オランダ式築城術」 のよさがなくなったといわれている。
たとえば、本来なら2重3重に砲台を設けるべきなのに、つくられたのは大手口の1カ
所だけ。また、本来高い建物は標的になるので建ててはいけないのだが、函館開港時に函
館奉行所がおかれている。
砲弾のショック吸収するため土塁を築くのが常識だが、冬に凍った土が春に溶けて崩
壊するという寒冷地ならではの問題があって、石垣を築いた上に土を盛っている。
最大の問題、大砲を据えての攻撃でなく小銃を用いた攻撃を前提にした、時代遅れの
代物だったことだ。
1868(明治元)年の戊辰戦争では、佐幕派が五稜郭を占領したものの7カ月で明治新
政府軍に敗れ、明け渡した話はよく知られている。
一時、陸軍の要塞兼練兵場として陸軍に使われたこともあるが、1914(大正3)年に
公園として一般に開放された。今は、高さ107メートルの五稜郭タワーが建っていて、
往時の面影はない。

  この項のほとんどは、wikipedia の五稜郭の項等からのコピペ、しかも、「五稜郭」自体も「砲台」、各「稜堡」それも「半月堡」のことも「砲台」とかいっておられて、相変わらず味噌も何とかも一緒。築城だの何だのと利いた風なことを書き倒しておられるけれど、軍事工学、軍事土木、その目的や手段、戦略の変遷、戦術の変遷、何も調べてない事が丸分かりじゃないですか。

まぁ、オリジナルの妄想がないわけでもない。冒頭のこの辺、

 ペリー来航を受けて国防政策の見直しを迫られた徳川幕府は、東京湾ばかりでなく全国
1000カ所に砲台の建設を命じている。その代表的な砲台が1866(慶応2)年にでき
た函館の五稜郭だ。初期設計図を見ると、五稜郭の中核は五角形になっていて、そこから
ギザギザが外に突き出している。このギザギザの先に砲台があり、攻めてくる敵船に十字
砲火を浴びせるしくみになっていた。城壁は3重構造になっていて内側の城壁にも砲台が
ある。

  へっ?「五稜郭」は沿岸砲台を用途とする要塞だったわけ?現在の函館港からでも2キロ以上内陸に入った場所が?しかも五芒星の一辺が約200メートルしかない五稜郭が?秋庭式築城術「適当な五角形の築城術」で言う、砲台と砲台の間隔が400メートルに満たない、五稜郭が?どうやって、

 攻めてくる敵船に十字砲火を浴びせる

のかな? 

 このきわめて複雑な構造は、オランダ、ナールデンの初期設計にそっくり。オランダの
築城術をそっくりコピーしたような設計だ。

  ここは完全に秋庭さんのオリジナル、「帝都東京 隠された地下網の秘密〔2〕」以来の嘘っぱちですけどね。どの辺が嘘かはこの辺に書いておきましたが。

  で、ここからが、wikipedia とかからのパクリ部分

しかし、資金不足もあって計画は縮小されて、

「オランダ式築城術」 のよさがなくなったといわれている。(この部分は秋庭オリジナル)

 たとえば、本来なら2重3重に砲台を設けるべきなのに、つくられたのは大手口の1カ
所だけ。また、本来高い建物は標的になるので建ててはいけないのだが、函館開港時に函
館奉行所がおかれている。
砲弾のショック吸収するため土塁を築くのが常識だが、冬に凍った土が春に溶けて崩
壊するという寒冷地ならではの問題があって、石垣を築いた上に土を盛っている。
最大の問題、大砲を据えての攻撃でなく小銃を用いた攻撃を前提にした、時代遅れの
代物だったことだ。
1868(明治元)年の戊辰戦争では、佐幕派が五稜郭を占領したものの7カ月で明治新
政府軍に敗れ、明け渡した話はよく知られている。
一時、陸軍の要塞兼練兵場として陸軍に使われたこともあるが、1914(大正3)年に
公園として一般に開放された。今は、高さ107メートルの五稜郭タワーが建っていて、
往時の面影はない。

  お手軽なもんですな、 wikipedia から引っ張ってくるだけで、四百字詰めペラ何枚か稼げるんだから。
  五稜郭の嘘については、上記の様に、この辺に書いておきましたので御照覧のほど。

 

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