地下妄の手記
小川裕夫さん 支離滅裂「都電跡を歩く」参
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619metro
支離滅裂さ更に更に続きます。
迷走する道路行政
1系統は 【銀座四丁目】を抜けると、銀座の中心地からは遠ぎかっていくことになりま
す。それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。
現在、都電が消えた中央通りでは、週末・祝日の昼間に歩行者天国を実施しています。
自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは
近年になって路面電車が復活しつつあります。道路とは自動車ものものではなく、人間の
ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機
関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。
歩行者天国が導入された背景は、トランジットモール同様に歩行者を優先する概念から
始まりました。歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日
本初といわれています。都電1系統が廃止されたわずか三年後のことです。都電を撤去し
て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か
らはずれています。都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当
時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。
都電に限らず、当時は各地の路面電車が廃止された時期でもありました。道路に溢れる
自動車は、高度成長期の象徴的アイテムでした。そんな経済成長の流れに政府や地方自治
体は逆らえなかったのです。かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。
(43頁1行目~44頁2行目)
地理感覚も、地誌感覚もボロボロですね。
1系統は 【銀座四丁目】を抜けると、銀座の中心地からは遠ぎかっていくことになりま
す。それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。
雑踏を以って銀座と言うのか?雑踏を言うなら銀座の中心は、四丁目交差点ではなく、数寄屋橋からの晴海通りの方が「にぎわ」ってい
ますが。
松屋デパートのすぐ北側、ティファニーもあるメルサもある、そんな二丁目。歩いても四丁目交差点からたった200メートル先、そんなアッ
と言う間の距離で
……それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。
どれだけ狭いんだ?銀座エリア。
実際に「都電跡をお歩きになった」上での感想ならば、個人の感覚を云々しても始まりませんが。
銀座発祥の地碑って、二丁目にありませんでしたか?
現在、都電が消えた中央通りでは、週末・祝日の昼間に歩行者天国を実施しています。
中央通の規制は、東西が晴海通りのみ中央通を横断可能となっているので、柳通り、マロニエ通り、松屋通り、みゆき通り、交詢社通り、花椿
通り等々中央通を横断できない部分については、実質規制状態ですね。自転車も乗車は規制なので、かつて規制時間帯に、新橋方面から京橋
の明治屋へ自転車で行くのに往生した記憶があります。
自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは
近年になって路面電車が復活しつつあります。
本当にそうなのでしょうか?また、小川氏の言う原因
自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、
はヨーロッパの路面電車の廃止?と同様なのでしょうか?
……、ヨーロッパでは
近年になって路面電車が復活しつつあります。
近年とはいつのことでしょうか?
鉄道雑誌などでよく取り上げられるのがフランスの低床式路面電車ですが、その導入時期は
ナント──1985年専用線化で再生低床化は後年
グルノーブル──1987年
パリ・イル・ド・フランス──1992年
グルノーブル25年前、四半世紀前ですよ。ドイツはそれ以前からですよね。
欧州の都市内交通としての路面電車は高速鉄道(地下鉄や高架鉄道)やバスとの競争に敗れて一旦衰微して行ったのではないでしょうか。
我が国の都市交通としての路面電車も基本は、他の都市内交通機関との競争に敗れて衰微して行ったのではないでしょうか。
ある程度の大型車両、元をただせば、馬車による大量交通を可能にした道路設備と、歩車の分離が相当に進んでいた欧米に比べ、道路
状況が相当に貧弱であった我が国ではありましたが、
自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれ
た訳ではありません。交通機関としての競争に負け、公共交通機関としての必要性と税金で支えきれるかとのバランスが取れなくなった結果
での廃止だったのではないのでしょうか?
……、ヨーロッパでは
近年になって路面電車が復活しつつあります。
路面電車が見直されているのでしょうか?都市域内で、高速鉄道などの本格的鉄道と路面電車を含むコミュニティー内の乗り物の間を埋め
るものとして、中間的な鉄道システムが見直されてきているのではないのでしょうか?
そして、復活と言うからには、コミュニティー内の乗り物として従来あり、1930年頃から1950年代に掛けて一旦廃止されたものについて、
道路容量に余裕があるなどの条件が既に整っていた関係で、高速鉄道などの本格的鉄道と路面電車を含むコミュニティー内の乗り物の間を
埋める需要が出てきた結果、復活できたのではないかと思われますが。
単に省エネであるとか、環境問題によるとか、では無い合理的なニーズ、半径の小さい曲線区間の多い市内(コミュニティー内)の併用軌道
から専用軌道(日本で言う新設軌道)、さらには高速鉄道の高規格線への乗り入れが可能であるとか、それらとプラットホームを介して乗降連
絡が容易であることと、信用乗車制度の普及とあいまっての交通機関としてのシームレス性であるとかによって復活しているのではないかと考
えられています。
決して、
……道路とは自動車ものものではなく、人間の
ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機
関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。
などと言う、「人間復権」のような怪しげなお題目によっているわけではありません。
LRTの様な中間的な鉄道システムの中での従来の路面電車的部分を理由にして、
……、ヨーロッパでは
近年になって路面電車が復活しつつあります。
な訳ではありません。
実際、各地の中間的な鉄道の沿線に「トランジットモール」なるものが占める割合は如何許りのものでしょうか?その「トランジットモール」内
での時間当たりの運転本数は如何許りのものなのでしょうか?
自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは
近年になって路面電車が復活しつつあります。道路とは自動車ものものではなく、人間の
ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機
関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。
交通体系をめぐる都市形態、都市計画を、安物の感情論的な、道路は歩行者のもの、歩行者優先とする正義感で語るべきではないと考え
ます。
歩行者天国が導入された背景は、トランジットモール同様に歩行者を優先する概念から
始まりました。歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日
本初といわれています。
本当に同様なものでしょうか?
歩行者を優先する概念
とは何でしょう?
大まかに言って「歩行者を優先する」こと
あるいは、
歩行者を優先すると言う大まかな考え方
ってことでしょうか?
トランジットモールと歩行者天国、どちらも道路において歩行者を優先すると言う考え方のものではありませんし、夫々の仕組みも違います。
トランジットモール──「(自動車の侵入を制限し、公共交通機関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)」とお書きになって
おられますが、「モール」って単純に道路って意味ですか?「散歩道」とか、特に米国の「モール」大規模な「商店街」
とかじゃあ無いんでしょうか?「散歩道」とか「商店街」に歩行者優先って変ですよね。本来は人が行き来するため
に存在する道なのではないんですか?それで歩行者優先って何ですか。
元来が、買物客、遊興客が移動交通し易い場所として設定されていると言う意味で、トラムやバスなどの交通機関
が人車区分されたレーンに存在しているので、歩行者優先の概念など関係しません。
歩行者天国────本来車両が通行する車道を規制し、車両の通行を臨時に遮断することで、車道と歩道の区別無く歩行者を往来させ
ること。遮断であるので、歩行者が往来を占有しているが、これも歩行者優先の概念など関係しません。
……歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日
本初といわれています。
日本で最初の「歩行者天国」すなわち道路からの自動車の締め出しは、大規模なものとしては昭和44年(1969年)8月に旭川市の国道
40号線の内駅 前からの総延長1キロメートルわたって8月6日から17日まで実施された「国道閉鎖」実験を嚆矢とするのではないでしょうか?
また、昭和45年(1970年)8月2日に実施れた東京都の歩行者天国は銀座他新宿、池袋、浅草で同日に実施されています。
「歩行者天国」と言う名称での実施ならば、この東京都の実験が最初ではありましょうが、これをしも、朝日新聞1966年の「歩行者の天国」
と言う危ない表現が嚆矢ではありますし、旭川の実験以前にも小規模な自動車の遮断は各地で実施されていた訳で、1970年直前になって、
具体的になってきた言葉であり、それこそ概念的には
歩行者天国は昭和44年(1969年)8月に実施された、旭川が日本初と言われています。
ではないでしょうか。
都電1系統が廃止されたわずか三年後のことです。都電を撤去し
て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か
らはずれています。都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当
時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。
どうも日本語になっていないようなのですが、
……都電を撤去し
て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か
らはずれています。
都電の撤去とトランジットモールに何か関係があるのでしょうか?
都電の撤去の目的は、〝歩ける街づくり〟だったのでしょうか?
……都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当
時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。
都電の廃止と歩行者天国の実験との間に何か関係性があったのでしょうか?
道路を整備して、急増する自動車交通の通行の円滑化を図る政策という道路行政、最終的には道路の新設増強、既存道路の拡幅等を
実施していく政策を具体化していく道路行政は一貫していました。その文脈の中に、財政再建団体となった都電を廃止撤去して東京都交通
局の財政を健全化する計画がありました。
一方で、光化学スモッグ等自動車に起因する都市公害等に対応していると言わんがためのパフォーマンスと、休日の商業地域の活性化
対策。安保改定期での実質的なデモ、集会規制の一つの手段として、土・日・祝の都心道路の交通量が著しく閑散となる時期に自動車を遮
断する「歩行者天国」は道路行政として何の矛盾をも生みだしていません。
恒常的なものと、限定的に実施しているものは極めて大きな差異があります。小川氏は小川氏の脳内で理念が同じならば、
歩行者天国とトランジットモールは同一のものである
と仰っておられるのです。
些事ですが、銀座四丁目の交差点を東西に横切る、8系統、9系統、11系統、36系統が運行されていた築地線は昭和46年(1971年)の
廃止だったかと思いますが、銀座歩行者天国実施の時、この系統はどうしていたんでしょうか?当日運行されていたのならば、小川氏の様に
トランジットモール=歩行者天国ならば、アクセスの一つとして広場への進入が果たされていたことになりますし、一方当日運休ならば、トラン
ジットモールと歩行者天国は別物と言うことになりませんか。
都電に限らず、当時は各地の路面電車が廃止された時期でもありました。道路に溢れる
自動車は、高度成長期の象徴的アイテムでした。そんな経済成長の流れに政府や地方自治
体は逆らえなかったのです。かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。
道路に溢れる自動車は路面電車の廃止を含めた道路の整備によってその問題点を解消して行こうとするのが、政府や地方自治体の政策
でした。現実に有効な施策でした。モータリゼーションと言う内需の拡大と自動車産業として外貨を稼ぐベースを、整備されていく道路が支え、
路面電車に代わる高速鉄道や新交通システムが整備され、路面電車を廃して整備された道路環境と相まって、今日我々が享受している高度
経済成長によってもたらされた果実は、1990年代に比べ絞り粕となっているかもしれないけれど、この政策によって得られているのではあり
ませんか?
かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。
自動車、バス、トラック、乗用車、商用車、貨物車、特殊車両には人が乗り、貨物が積まれ、移動させ流通させ作業させるために、道路は
自動車の走る空間になっているのではありませんか?
なるほど、
かくして道路は、ただ人が歩行し、路面電車の走る空間となりました。
にしたいんですね。
それが道路行政なんですか?項題を、こうお変えになったらいかがですか?
(小川裕夫が)妄想する道路行政
続いての一項は文章としては些細な本末転倒ですが、小川氏のインチキな文章の構成法がよく判るパラグラフです。
東海道を通る一系統
【銀座二丁目】を通りすぎると【京橋】です。そこから、さらに五〇〇メートルほど北上
したところが【通三丁目】になります。不思議な電停名に感じられる【通三丁目】は、
中央通りが八重洲通りと交わるところにありました。そのため、八重洲通りと誤解されや
すいのですが、この〝通〟は「東海道」のことです。
ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな
く江戸時代から整備されてきた東海道です。前に述べたとおり、これが明治時代になっ
て、一号国道に指定され、栄えある都電1系統が走る道路となります。
(44頁3行目~10行目)
【銀座二丁目】を通りすぎると【京橋】です。そこから、さらに五〇〇メートルほど北上
したところが【通三丁目】になります。
京橋-通三丁目間400メートルしかないですけど、電停の位置とかを、〝電車何たら図〟で見ただけで書いてませんか?
不思議な電停名に感じられる【通三丁目】は、
中央通の左右に亘って、日本橋から(町域変更後)、南へ通一、二、三丁目と言う地名がそもそもあったから【通三丁目】の電停名が後に
起こったわけで、不思議なのは電停名ではなく、町名なんじゃないでしょうか?
この〝通〟は「東海道」のことです。
通一、二、三、四丁目の由来となった〝通〟は、北へは日本橋を通り過ぎて、筋交い辺りまでを「通」と呼んでいませんでしたか?
現日本橋に、通一~四丁目が在った様に、現日本橋大伝馬町に通旅篭町、通油町、通塩町と言う町名がありました、これは御成(日光)
街道が由来であったようですが、同じ日本橋界隈にしかも中央通沿いではなく日光、奥州街道沿いにも通を冠した町があったということは、
この〝通〟は「東海道」のことです。
とは必ずしも言い切れなくなるのではありませんか?
しかも、旧町域で言うと、〝通〟は東海道の起点であろう日本橋と直接繋がって通一丁目があるのではなく、日本橋との間に、北西部分
で西河岸町、北東部分で元四日市町が〝通〟の左右に存在します。〝通〟が東海道なら通1~4丁目は日本橋直接に連なっているので
はないのでしょうか?
ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、
第一京浜、中央通り、おまけで銀座通りは「国道15号線」の通称で、話の便宜上、小川氏によって
ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた
のであって、別に国道15号線とだけ表現してこられてもよかったんです。
ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな
く江戸時代から整備されてきた東海道です。前に述べたとおり、これが明治時代になっ
て、一号国道に指定され、栄えある都電1系統が走る道路となります。
「国道15号線」偶々東海道と重なっただけでしょ。第一京浜の前は京濱國道だったんじゃないんですか?
……江戸時代から整備されてきた東海道です。
少なくとも〝通〟は東海道として整備されてきたわけではありません。江戸のメインストリート、東海道、中山道、日光街道、奥州街道(に
通じる道)として府内交通の中心と位置づけられた道です。
第一、「中央通り」筋違から北、広小路まで「中央通り」ですし。
……栄えある都電1系統が走る道路となります。
主客転倒なのではないでしょうか。
後出しの系統番号が1番で、元東海道筋を走ってるからとこじつけて、
……栄えある
って、何か意味があるんですか?
そんなご立派なものなら、何で、
栄えある廃止系統第一号
になっちゃったんでしょうね。
「明日、日本橋八つ正刻集合な」とか、東海道を京へ上る時とか、皆さん必ず、「お江戸日本橋七つ立ち」、されたんですかね?大名参勤交
代するときも、あたかもそこに始発駅が存在するが如く、日本橋からお国入りに向かわれたんでしょうか?それなら、
ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな
く江戸時代から整備されてきた東海道です。
は、まあそうかもしれないと思いますけど、江戸屋敷から直接各木戸とか、品川、内藤新宿、千住等の宿駅を目指したんじゃないんでしょうか。
上京とかに使われないんなら、〝通〟とかの整備は東海道だからと言うことにはなりませんね。
OP.2013.10.06