蟻通勘吾(新選組)

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蟻通勘吾(新選組) - (2025/03/18 (火) 20:40:02) のソース

&font(#6495ED){登録日}:2011/05/21 (土) 18:50:18
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蟻通勘吾(1839年~1869年)は、讃岐国高松(現在の[[香川県]]高松市)出身の[[新選組]]隊士。


入隊以前の経歴は不明。
1863年6月頃、壬生浪士組([[新選組]]の前身)に入隊。八月十八日の政変に出動。
1864年6月5日の池田屋事件の際には井上源三郎隊に属し出動。屋内での戦闘に参加し、愛刀の播磨住昭重の帽子が折れる激闘を見せた。
1866年9月12日の三条制札事件、1867年12月7日の天満屋事件にも出動。
行軍録では一番隊に配属。沖田総司の次に名が記されている。
[[新選組]]が幕臣となった際には、平士として見廻組並御雇の格を受ける。


戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いに参加。
その後寛永寺で謹慎中の徳川慶喜の警護をつとめる。
[[新選組]]が甲陽鎮撫隊と名を変え甲府へ進軍すると、蟻通も従った。甲州勝沼の戦いに敗れた後は会津に転戦。
1868年5月1日、白河口黒川の戦いで、会津藩兵とともに3名で一番槍を入れる活躍をするが、被弾。
&font(#ff0000){敵兵が死骸と思い捨て置くほどの重傷}を受けながら、[[刀]]を[[杖]]にして味方の陣地に辿り着いた。


[[新選組]]が蝦夷へ渡航する際には蟻通も従ったが、箱館病院に入院し戦いに参加することは出来なかった。
1869年2月には、ついに重体。
[[新選組]]の隊士たちは「自分たちで看病したい」と病院に申し入れ、蟻通を退院させて旅宿に移した。


そして、蟻通は奇跡の回復を遂げる。


1869年5月11日、新政府軍による箱館総攻撃が行われた。
蟻通は、戦場に身を置いていた。
蟻通の戦いぶりは伝わっていない。
確かなことは、数少ない[[新選組]]の生き残りとして、[[新選組]]最期の戦いに立ち会ったということのみである。
蟻通は散った。
最期の地は箱館山とも、弁天台場とも伝わる。


壬生浪士組時代から在籍し、箱館まで転戦した[[新選組]]隊士は、土方歳三、島田魁、尾関雅次郎、そして蟻通勘吾のみである。
また、古参隊士でありながら&font(#ff0000){平隊士の地位に留まり続けた}稀有な人物である。


追記・修正よろしくお願いします。

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