やしきたかじん

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やしきたかじん - (2017/08/13 (日) 23:00:50) の1つ前との変更点

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&font(#6495ED){登録日}:2017/08/12 Sat 08:47:45 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 2 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- 関西を中心に活躍した歌手・司会者・ラジオパーソナリティ。 関西を代表するローカルタレントの一人と紹介されるが、一時期は東京でも活動していた。 ちなみに「やしきたかじん」というのはれっきとした本名であり、漢字だと「家敷隆仁」と書く。 **概要 1949年10月5日生まれ、大阪府出身。 本業は歌手だが、当初はなかなか売れず、なんとかして客の気を引くために磨き上げたトークの面白さが評価され、次第にラジオ番組のパーソナリティや情報バラエティ番組のMCに抜擢されるようになる。 トークの面白さに定評がある歌手は少なくないが、たかじんのそれは、もはや歌とトークの比重が完全に逆転し、歌手である事すら忘れられてしまうほどであった((彼と似たような歌手で同じく大阪出身の円広志がおり、共演の機会も多かった))。 その後、知名度が上がるにつれて本業の歌手活動も再評価されるようになり、以後は歌手と司会業の二足の草鞋を履くようになり芸能界でも一目置かれる重鎮となる。 芸能界でも人脈の広さは有数であり、同業者は勿論のこと政治家にも友人・知人がいた。ただし普段の言動や行動から嫌われることも多かった。 バラエティ番組に出ているときは芸人にしか見えないのに、歌手をやっているときは同じ人物とは思えないほど美しい声でラブソングを歌い上げる凄まじいギャップを持つ。 このことから、しばしば「スズムシの声を持ったゴキブリ」と評される。 **人物 在日韓国人の父と日本人の母の間に生まれる((このことは死後初めて公表された))。父は在日韓国人であるものの日本の国粋主義者であり((息子に「隆仁」という名前を付けたときも、「たかひと」だと天皇家を想起させて畏れ多いため「たかじん」という読み方にしたと言われている。))、また現在に続く事情からか事実婚の関係だった。下の兄弟に教頭にまで出世した教職員がおり、兄の問題行動に常に困らされていたという。 派手好き、遊び好き、豪胆な毒舌家として知られる一方で繊細な一面もあり、ステージではストレスから来るプレッシャーで何度も倒れそうになっていたとされ、本当は小心者で寂しがり屋でもあった。 歌手としても、繊細な持ち味の曲を得意としていた。 典型的なイッチョカミ体質((大阪弁で「何にでも口をはさむ人、首を突っ込みたがる人」の意。))で、自宅に設置してある大量のビデオデッキやHDDレコーダーでテレビ番組を片っ端から録画し、トークのネタにするための情報収集に励んでいた。 話題の守備範囲は幅広く、トークのジャンルは芸能界の構図、政治・経済、キャバクラなど風俗の裏事情、ハワイ観光のノウハウなど多岐に及ぶ。 学歴は桃山学院高校卒業、桃山学院大学中退(後に龍谷大学に再入学するも、そこも中退している)。 高校時代に所属していた新聞部はコンクール受賞の実績を残しているが、たかじんの暴走によって廃部へと追い込まれたらしい。 以来、桃山学院高校では、在校生が文化祭のゲストとして彼を呼ぼうとした時も教員側が断固拒否するなど、やしきたかじんの存在をすっかり黒歴史化してしまった。 暴走気味の行いから引き起こされた騒動は数知れず、機嫌を損ねると収録中でも帰ってしまうことがあり、スタッフや共演者は戦々恐々としていた。かつて仲良く共演していた間柄のタレントと敵対関係(大竹まこと、トミーズ雅など)になっていることも珍しくなく、ファンや高く評価してくれていた人とは知らずに誹謗中傷してしまったがために共演を拒否されることもあった(桑田圭祐など)。 大阪ローカルタレントとして不動の地位を築いたたかじんは、90年代に東京に進出したこともあるが、彼自身の問題もあり失敗。 以降は東京を嫌い続けるスタンスを貫いていた。 政治的には保守、極右のスタンスであり、よみうりテレビ『そこまでいって委員会』ではその傾向は非常に顕著になっており、それ以外の自身の看板バラエティ番組でも政治色が強くなっている。それによってたかじんを評価するものもいれば逆に嫌う視聴者も増えていた。((彼の尽力で安倍晋三が再登板、復活することとなったり、橋下徹が大阪府知事、後に市長になる等、政治面でも影響力を出してしまっている。たかじん死後も関西の彼の影響を受けた極右傾向の番組はいまだ健在であり、またたかじん経営の番組制作会社製作の『ニュース女子』等、極右系統の政治番組を増やす影響を残している。)) 若い頃からNHKを非常に嫌い、後に朝日放送も嫌うようになる。((ただ、個人的関係という点で評価する者を嫌いまではせず、朝日放送局アナだった宮根誠司のフリー転身の手助けをしている。)) 大のハワイ好き・競馬好きでありハワイは1年の1/4から1/3を過ごすほど、競馬は10頭の馬主を経験するほど。ただ馬主を経験する中、バカ馬に当たったこともある。((ある馬は閉所恐怖症、ある馬は負けん気が強すぎてレース中に別の馬に噛み付く、ある馬は虚弱体質。)) **歌手としての作風 デビュー当初はいわゆるフォークのような楽曲を歌っており、レパートリーは本人による自作曲が中心であった。主な代表曲は、デビュー曲の「[[ゆめいらんかね]]」など。 その後、レコード会社をキングレコードからビクターに移し、自作曲よりも本業の作詞家・作曲家から提供された歌謡曲がレパートリーの中心となる。「やっぱ好きやねん」はこの時期に歌われた曲である。 ちなみに、機動戦士ガンダムの「砂の十字架」を歌うことになったのはちょうどこの過渡期にあたる。 ビクター時代のそれは、バラード系ポップスでありながらもどこか演歌のような味わいも兼ね備えており、「自分の夢をどこまでも追いかけようとする男」と「ひどい目に遭わされながらも、そんな男を信じて愛し続ける女」という構図の曲が多い。 たかじん本人の音楽の好みは保守的な部類に入り、シンセサイザーに頼った音楽や、詩的な表現を廃した話し言葉中心の歌詞などは嫌っていた。 そのことから、まだ若手だった頃の秋元康は「アンタの作る歌詞は『詞』ではなくてただの文章や」と手酷いダメ出しを喰らったことがあるという。 その後、皆の知るとおり秋元康は大物作詞家・プロデューサーとなったため、自分の先見性のなさを恥じていたたかじんだったが、ある企画がきっかけで歌詞を提供してもらうことになり、ついでに当時詐欺事件の渦中にいた小室哲哉にも再起の機会を与えるべく作曲を依頼。 その結果、作詞が秋元康、作曲が小室哲哉というトンでもない布陣による「そのときの空」という曲が誕生し、たかじん後期の代表曲となった。 **死去 酒や遊びなど、お世辞にも健康的とは言いがたい生活を送っていたのが災いしてか、2012年にとうとう食道がんを患い、以後療養生活に入った。復活を目指し、2013年3月に一旦復帰するも同年5月に再び休養生活入り。その後も復活を目指していたが、2014年1月3日にこの世を去った。享年64歳。その死は関西を中心に冠番組が放送されていた地域では衝撃を持って受け入れられた。 死去が公表されたのは1月7日のこと。これは生前「めでたい気持ちで迎えている正月に、自分の訃報で多くの人に悲しい思いをさせたくない」という本人の意向から。 彼の死後も冠番組はそのまま続いていたが、[[テレビ大阪]]の『たかじんNOマネー』以外は番組名から「たかじん」を外し、NOマネーも2015年に放送を終了した。 死去後、[[百田尚樹]]の『殉愛』で一騒動起きたのは周知の事実。((たかじん自身の家族問題はかねてから劣悪そのものであり、その結果百田に食い物にされたといえる。自業自得極まりである。)) **生前のエピソード -大相撲大阪場所開催期間中、多くの幕内力士と飲みに出たが飲みに行った幕内力士が&bold(){ただ一人の例外もなく、全員怪我で休場に追い込まれた。} -話のタネにと訪れたぼったくりバーに入店したものの、予想以下のものだったために激昂して相手の要求額を大幅に上回る金額を支払い、店側をドン引きさせている。 -あるホテルのディナーショーの形式に不満を持ち、キャンセルをしたが違約金600万円を請求された。これに対して「上等やないか!」とホテルに乗り込み&bold(){「600万でええんやな。ディナーショーやめさせてもらうわ」}と札束を投げ出し帰った。この対応にホテル側は大慌て。対応策を示して何とかディナーショーを開催することが出来た -京都会館でコンサートを開いた時のこと。ステージ上にはタバコと水割りを用意し、水割りが無くなるとボーイが取りに行くという形式で、代表曲が殆どなかった当時は延々としゃべり続けた。その状況が延々と続いたために演奏中に京都会館の人間に電源を切られ、楽器の音と照明が消えると最後には緞帳を強制的に下ろされ、数年出入り禁止になった。 -自身のレギュラーラジオ番組にて、音楽グループ「[[ECHOES]]」がゲスト出演した際、ボーカルの[[辻仁成]]の横柄でやる気のない態度(質問されても無視したり、「CD買ってもらえば分かります」としか答えない等)に、&bold(){「そんなんやったらわざわざここへ来んと、CDだけ売っとったらええやろ!」ブチ切れて、録音を強制終了させ譜面台を投げつける}等、騒然となった。 -東京進出の際に、深夜番組『M10』にて番組スタッフのミスが原因とはいえ常軌を逸したレベルで激昂して番組を破壊した過去がある。((後に味の素騒動と呼ばれる。)) **歌手としての代表曲 -[[やっぱ好きやねん]] -[[ゆめいらんかね]] -[[大阪恋物語]] -[[東京]] -[[最初から今まで(「冬のソナタ」の主題歌の和訳カバー)]] -[[そのときの空]] -&font(l){[[砂の十字架]]} 追記・修正は指し棒でモニターをバシバシしながらお願いします #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,1) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - ぼったくりバーで話のネタにならんからもっとぼったくれって切れる人 -- 名無しさん (2017-08-12 16:48:59) - 味の素ブチギレ事件すき -- 名無しさん (2017-08-12 17:09:34) - よくまぁ芸能界で最後までやっていけたな。 -- 名無しさん (2017-08-12 19:10:20) - そんな破天荒な彼も晩年は病気も関係していたのか、殉愛の騒動の原因となった女性と…… -- 名無しさん (2017-08-13 01:31:05) - ↑2 横山やすしの破天荒さに比べたら大したことないからやっていけるだろ。 -- 名無しさん (2017-08-13 13:47:36) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2017/08/12 Sat 08:47:45 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 2 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- 関西を中心に活躍した歌手・司会者・ラジオパーソナリティ。 関西を代表するローカルタレントの一人と紹介されるが、一時期は東京でも活動していた。 ちなみに「やしきたかじん」というのはれっきとした本名であり、漢字だと「家敷隆仁」と書く。 **概要 1949年10月5日生まれ、大阪府出身。 本業は歌手だが、当初はなかなか売れず、なんとかして客の気を引くために磨き上げたトークの面白さが評価され、次第にラジオ番組のパーソナリティや情報バラエティ番組のMCに抜擢されるようになる。 トークの面白さに定評がある歌手は少なくないが、たかじんのそれは、もはや歌とトークの比重が完全に逆転し、歌手である事すら忘れられてしまうほどであった((彼と似たような歌手で同じく大阪出身の円広志がおり、共演の機会も多かった))。 その後、知名度が上がるにつれて本業の歌手活動も再評価されるようになり、以後は歌手と司会業の二足の草鞋を履くようになり芸能界でも一目置かれる重鎮となる。 芸能界でも人脈の広さは有数であり、同業者は勿論のこと政治家にも友人・知人がいた。ただし普段の言動や行動から嫌われることも多かった。 バラエティ番組に出ているときは芸人にしか見えないのに、歌手をやっているときは同じ人物とは思えないほど美しい声でラブソングを歌い上げる凄まじいギャップを持つ。 このことから、しばしば「スズムシの声を持ったゴキブリ」と評される。 **人物 在日韓国人の父と日本人の母の間に生まれる((このことは死後初めて公表された))。父は在日韓国人であるものの日本の国粋主義者であり((息子に「隆仁」という名前を付けたときも、「たかひと」だと天皇家を想起させて畏れ多いため「たかじん」という読み方にしたと言われている。))、また現在に続く事情からか事実婚の関係だった。下の兄弟に教頭にまで出世した教職員がおり、兄の問題行動に常に困らされていたという。 派手好き、遊び好き、豪胆な毒舌家として知られる一方で繊細な一面もあり、ステージではストレスから来るプレッシャーで何度も倒れそうになっていたとされ、本当は小心者で寂しがり屋でもあった。 歌手としても、繊細な持ち味の曲を得意としていた。 典型的なイッチョカミ体質((大阪弁で「何にでも口をはさむ人、首を突っ込みたがる人」の意。))で、自宅に設置してある大量のビデオデッキやHDDレコーダーでテレビ番組を片っ端から録画し、トークのネタにするための情報収集に励んでいた。 話題の守備範囲は幅広く、トークのジャンルは芸能界の構図、政治・経済、キャバクラなど風俗の裏事情、ハワイ観光のノウハウなど多岐に及ぶ。 学歴は桃山学院高校卒業、桃山学院大学中退(後に龍谷大学に再入学するも、そこも中退している)。 高校時代に所属していた新聞部はコンクール受賞の実績を残しているが、たかじんの暴走によって廃部へと追い込まれたらしい。 以来、桃山学院高校では、在校生が文化祭のゲストとして彼を呼ぼうとした時も教員側が断固拒否するなど、やしきたかじんの存在をすっかり黒歴史化してしまった。 暴走気味の行いから引き起こされた騒動は数知れず、機嫌を損ねると収録中でも帰ってしまうことがあり、スタッフや共演者は戦々恐々としていた。かつて仲良く共演していた間柄のタレントと敵対関係(大竹まこと、トミーズ雅など)になっていることも珍しくなく、ファンや高く評価してくれていた人とは知らずに誹謗中傷してしまったがために共演を拒否されることもあった(桑田圭祐など)。 大阪ローカルタレントとして不動の地位を築いたたかじんは、90年代に東京に進出したこともあるが、彼自身の問題もあり失敗。 以降は東京を嫌い続けるスタンスを貫いていた。 政治的には保守、極右のスタンスであり、よみうりテレビ『そこまでいって委員会』ではその傾向は非常に顕著になっており、それ以外の自身の看板バラエティ番組でも政治色が強くなっている。それによってたかじんを評価するものもいれば逆に嫌う視聴者も増えていた。((彼の尽力で安倍晋三が再登板、復活することとなったり、橋下徹が大阪府知事、後に市長になる等、政治面でも影響力を出してしまっている。たかじん死後も関西の彼の影響を受けた極右傾向の番組はいまだ健在であり、またたかじん経営の番組制作会社製作の『ニュース女子』等、極右系統の政治番組を増やす影響を残している。)) 若い頃からNHKを非常に嫌い、後に朝日放送も嫌うようになる。((ただ、個人的関係という点で評価する者を嫌いまではせず、朝日放送局アナだった宮根誠司のフリー転身の手助けをしている。)) 大のハワイ好き・競馬好きでありハワイは1年の1/4から1/3を過ごすほど、競馬は10頭の馬主を経験するほど。ただ馬主を経験する中、バカ馬に当たったこともある。((ある馬は閉所恐怖症、ある馬は負けん気が強すぎてレース中に別の馬に噛み付く、ある馬は虚弱体質。)) **歌手としての作風 デビュー当初はいわゆるフォークのような楽曲を歌っており、レパートリーは本人による自作曲が中心であった。主な代表曲は、デビュー曲の「[[ゆめいらんかね]]」など。 その後、レコード会社をキングレコードからビクターに移し、自作曲よりも本業の作詞家・作曲家から提供された歌謡曲がレパートリーの中心となる。「やっぱ好きやねん」はこの時期に歌われた曲である。 ちなみに、機動戦士ガンダムの「砂の十字架」を歌うことになったのはちょうどこの過渡期にあたる。 ビクター時代のそれは、バラード系ポップスでありながらもどこか演歌のような味わいも兼ね備えており、「自分の夢をどこまでも追いかけようとする男」と「ひどい目に遭わされながらも、そんな男を信じて愛し続ける女」という構図の曲が多い。 たかじん本人の音楽の好みは保守的な部類に入り、シンセサイザーに頼った音楽や、詩的な表現を廃した話し言葉中心の歌詞などは嫌っていた。 そのことから、まだ若手だった頃の秋元康は「アンタの作る歌詞は『詞』ではなくてただの文章や」と手酷いダメ出しを喰らったことがあるという。 その後、皆の知るとおり秋元康は大物作詞家・プロデューサーとなったため、自分の先見性のなさを恥じていたたかじんだったが、ある企画がきっかけで歌詞を提供してもらうことになり、ついでに当時詐欺事件の渦中にいた小室哲哉にも再起の機会を与えるべく作曲を依頼。 その結果、作詞が秋元康、作曲が小室哲哉というトンでもない布陣による「そのときの空」という曲が誕生し、たかじん後期の代表曲となった。 **死去 酒や遊びなど、お世辞にも健康的とは言いがたい生活を送っていたのが災いしてか、2012年にとうとう食道がんを患い、以後療養生活に入った。復活を目指し、2013年3月に一旦復帰するも同年5月に再び休養生活入り。その後も復活を目指していたが、2014年1月3日にこの世を去った。享年64歳。その死は関西を中心に冠番組が放送されていた地域では衝撃を持って受け入れられた。 死去が公表されたのは1月7日のこと。これは生前「めでたい気持ちで迎えている正月に、自分の訃報で多くの人に悲しい思いをさせたくない」という本人の意向から。 彼の死後も冠番組はそのまま続いていたが、[[テレビ大阪]]の『たかじんNOマネー』以外は番組名から「たかじん」を外し、NOマネーも2015年に放送を終了した。 死去後、[[百田尚樹]]の『殉愛』で一騒動起きたのは周知の事実。((たかじん自身の家族問題はかねてから劣悪そのものであり、その結果百田に食い物にされたといえる。自業自得極まりである。)) **生前のエピソード -大相撲大阪場所開催期間中、多くの幕内力士と飲みに出たが飲みに行った幕内力士が&bold(){ただ一人の例外もなく、全員怪我で休場に追い込まれた。} -話のタネにと訪れたぼったくりバーに入店したものの、予想以下のものだったために激昂して相手の要求額を大幅に上回る金額を支払い、店側をドン引きさせている。 -あるホテルのディナーショーの形式に不満を持ち、キャンセルをしたが違約金600万円を請求された。これに対して「上等やないか!」とホテルに乗り込み&bold(){「600万でええんやな。ディナーショーやめさせてもらうわ」}と札束を投げ出し帰った。この対応にホテル側は大慌て。対応策を示して何とかディナーショーを開催することが出来た -京都会館でコンサートを開いた時のこと。ステージ上にはタバコと水割りを用意し、水割りが無くなるとボーイが取りに行くという形式で、代表曲が殆どなかった当時は延々としゃべり続けた。その状況が延々と続いたために演奏中に京都会館の人間に電源を切られ、楽器の音と照明が消えると最後には緞帳を強制的に下ろされ、数年出入り禁止になった。 -自身のレギュラーラジオ番組にて、音楽グループ「[[ECHOES]]」がゲスト出演した際、ボーカルの[[辻仁成]]の横柄でやる気のない態度(質問されても無視したり、「CD買ってもらえば分かります」としか答えない等)に、&bold(){「そんなんやったらわざわざここへ来んと、CDだけ売っとったらええやろ!」ブチ切れて、録音を強制終了させ譜面台を投げつける}等、騒然となった。 -東京進出の際に、深夜番組『M10』にて番組スタッフのミスが原因とはいえ常軌を逸したレベルで激昂して番組を破壊した過去がある。((後に味の素騒動と呼ばれる。)) **歌手としての代表曲 -[[やっぱ好きやねん]] -[[ゆめいらんかね]] -[[大阪恋物語]] -[[東京]] -[[最初から今まで(「冬のソナタ」の主題歌の和訳カバー)]] -[[そのときの空]] -&font(l){[[砂の十字架]]} 追記・修正は指し棒でモニターをバシバシしながらお願いします #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,1) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - ぼったくりバーで話のネタにならんからもっとぼったくれって切れる人 -- 名無しさん (2017-08-12 16:48:59) - 味の素ブチギレ事件すき -- 名無しさん (2017-08-12 17:09:34) - よくまぁ芸能界で最後までやっていけたな。 -- 名無しさん (2017-08-12 19:10:20) - そんな破天荒な彼も晩年は病気も関係していたのか、殉愛の騒動の原因となった女性と…… -- 名無しさん (2017-08-13 01:31:05) - ↑2 横山やすしの破天荒さに比べたら大したことないからやっていけるだろ。 -- 名無しさん (2017-08-13 13:47:36) - むしろ これくらいでないと芸能界は生き残れないだろうな -- 名無しさん (2017-08-13 23:00:50) #comment #areaedit(end) }

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