馬謖

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馬謖」を以下のとおり復元します。
&font(#6495ED){登録日}:2010/06/10(木) 00:09:16
&font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s)&new3(time=24,show=NEW!,color=red)
&font(#6495ED){所要時間}:約 16 分で読めます

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**&font(b,#66cc33){&ruby(ばしょく){馬謖}}
 とは、後漢末期から三国時代にかけての人物。字は「幼常」。
荊州の名門豪族である馬家の出身であり、字に「常」が付く&bold(){「馬氏五常」}の一人。
なお、この五人のうちの四人目(馬謖のすぐ上)の兄が&bold(){「白眉」}の語源である&bold(){[[馬良]]}である。
&font(#0000ff,u){&font(#ffffff){馬良と馬謖以外は名前すら分からないが}}


&bold(){[[諸葛亮]]}の第一回北伐の折り、兵法に固執して山頂に布陣し、北伐失敗の直接の引き金となったことから一部では、
「登山家」「Mr.生兵法」「三国版趙括」などと呼ばれているとかいないとか。


**【出仕】 
&bold(){[[赤壁の戦い]]}後のどさくさに紛れて、&bold(){[[劉備]]}は一度は&bold(){[[曹操]]}の勢力下にあった荊州南部を平定。
劉備一味はこの時期までは土地なしの傭兵部隊に過ぎず、内政や外交ができる人材の確保は急務であった。
また、荊州をまともに統治するにあたっては、実際に人民を束ね、徴税や徴兵の権限を握っている&bold(){地方豪族たち}((武陵蕃など、異民族勢力を含む。))を味方につける必要があった。

かつて荊州を統治していた&font(b,#00bfff){劉表}は、最初赴任した際に豪族たちの反抗にあって&font(b,#00bfff){荊州に入ることすらできず}、
その後&bold(){蔡瑁・蒯越}らが「豪族間の抗争に勝つために」劉表を迎え入れたために、やっと荊州を収めることができた――といえば、この時期の豪族の強さがわかるだろうか。

その蔡瑁と蒯越はすでに魏国で出世街道を進んでいたが、劉備たちとしては荊州統治にあたって豪族の支援は欠かせない。
諸葛亮や&bold(){[[龐統>ホウ統(三国志)]]}といった一部は味方に加えていたが、まだ足りないのだ。
そこで劉備が目を付けたのが、&font(b,#66cc33){荊州の大豪族だった馬氏}である。
それに諸葛亮はもともと馬氏の支援を受けていたらしく((余談だが、諸葛亮は蔡瑁とも縁戚である。))、馬良とは義兄弟の契りも結んでいたらしい。

劉備は徐州の陳登、荊州の蔡瑁など、これまでは大豪族にそっぽを向かれ続けていたが、今回はついに馬一族という大豪族との契約に成功。
馬良・馬謖を傘下に加えることに成功し、特に馬良は劉備にも気に入られ、重用されることになっている。


**【劉備時代】
劉備が[[益州へと兵を進める>益州侵攻戦]]と、馬謖もこれに随行。
無事に益州を平定すると、政府の首脳となった&bold(){諸葛亮}は馬謖の才気に大いに期待し、&font(b,#66cc33){各地の県令や太守などを歴任}させた。
馬謖自身もやはり自信と能力はあったようで、任地においては&font(b,#66cc33){よく統治することができていた}。


しかし馬謖が越雋郡の太守を任されていたとき、南蛮地方で反乱が多発し、それが彼の治めていた越雋郡にも飛び火した。
それで南蛮の長である&bold(){高定}が反乱を起こして領内を荒らしまわった。
この知らせを受けた馬謖は、&font(b,#66cc33){防衛よりも軍議を優先}。
なんとか撃退に成功するも、劉備は眉をひそめたらしい。

ただ越雋郡は馬謖以前から反乱が多発し、またかなり後年になっても治まったり乱れたりを繰り返していた。
そのため、馬謖が無能だったというよりも&bold(){誰であっても治められない難地であった}というほうが的確((蜀のみならず魏や呉も、領土に対して実効支配はロクにできていなかったらしい。))である。

だが、このあたりで劉備は何か思うところがあったのか、夷陵の戦いで敗走し、白帝城にて諸葛亮らに後事を託すに及んで、わざわざ馬謖に言及している。
しかもそれは&font(b,#458f25){「馬謖は大言壮語の癖があるからあまり重用するな」}というもので、諸葛亮の人物眼をけなし、その右腕というべき人物を批判するものであった。

 
**【諸葛亮時代】
しかし、結果として諸葛亮はこの言葉を拒み、馬謖を&font(b,#66cc33){参軍}に取り立てて昼夜を問わず語り合ったとされるほどに重用。
これは、一つには荊州統治にあたっては依然として&font(b,#66cc33){馬氏の協力は必要}であり、今更切れないという事情や、
蜀漢内部における荊州グループの一員である諸葛亮にとって、馬謖は政治的には&font(b,#66cc33){スポンサー}であり、権力的には&font(b,#66cc33){後ろ盾}でもあったという事情もある。

しかし、諸葛亮にとっては劉備への反発、という思いもあったではあろう。
劉備の遺言の場面では、劉備はわざとらしく&font(b,#458f25){「[[劉禅]]がダメなら君が国を乗っ取れ」}などと、わざわざ群臣の前で言い残している。
だが普通に考えて諸葛亮は「はいそうします」とは言えない。まして、その場には&bold(){「丞相」と同じ権力を持つ「尚書令」李厳}もいたのだ。
馬謖を槍玉に挙げたのも、圧倒的な権力を握ることが目に見えていた諸葛亮を警戒し、群臣の前であえてその人物眼をけなすことで、諸葛亮の権威を削る意図があった――とみることも可能だろう((後世の我々と違い、この当時の劉備たちに、諸葛亮が謀反を起こさないという保証はない。また、関羽も張飛も亡き後、諸葛亮が蜀漢の全権を握ると、後漢における曹操や魏における司馬昭のような結果になりかねない。劉備にとっては必要な警戒であった。))。

それら全てを知っていた諸葛亮が、劉備への反発もあって馬謖を用いた--と考えても、不思議はない。
もっとも、それらを無視しても諸葛亮を中心とした体制を支えるという意味で&font(b,#66cc33){馬謖の存在は依然大きく}、彼の腹心として存在感を増していく。



劉備の死後、[[南蛮>南蛮(三国志)]]が度々反乱を起こすようになる。
上述したとおり、これまでも南蛮はことあるごとに反乱を繰り返しており、今回諸葛亮はいよいよ本格的な征伐を考えていた。
一つには、かつての荊州喪失や夷陵の大敗で、蜀漢は軍事体制そのものの変革を余儀なくされており、南蛮の戦力を吸収して、新たな兵源を確保する意味もあった。

馬謖はかつて南蛮の反乱を経験していたこともあり、諸葛亮は彼を招いて意見を聞いた。
そこで馬謖は&font(b,#66cc33){「蛮族に対し、力でぶつかってもダメです。彼らの『心』を攻めれば、反乱も起きなくなるでしょう」}と進言した。
これを聞いた諸葛亮は喜んで彼のプランを聞き入れ、&bold(){七縱七擒}の戦略で南蛮の王・&bold(){猛獲}を心服させ、南征に成功する。
兵力の確保にも成功しこれ以降の蜀軍では、南蛮の兵士たちがかなり活躍したらしい。

もっとも、その&font(b,#ff0000){南蛮平定の成果をある意味で叩き潰すのが、}&font(b,#66cc33){ほかならぬ馬謖その人}であろうとは、この時は知る由もなかった……


**【北伐】
南方が安定して後顧の憂いがなくなり、また戦力の再編にも成功したことで、諸葛亮は劉禅にかの有名な「出師の表」を上奏。
&bold(){第一次北伐}を開始する。
魏国に寝返っていた孟達の再度の寝返りもあったが、これは&bold(){[[司馬懿]]}に鎮圧されてしまう。

一方、諸葛亮本隊も当初は快進撃を続けたが、救援として派遣された名将・&bold(){[[曹真]]}が立ちはばかる。
その曹真は、交通の要衝であり北伐軍の機先を制する&bold(){街亭}に向けて、官渡決戦以来の百戦錬磨の名将・&bold(){張郃}を差し向けた。
他方、諸葛亮は街亭の守備に馬謖を起用し、大軍を預けて急行させ、「城に拠って街道を堅守せよ」と厳命した。
馬謖の部隊は張郃に先んじて&font(b,#66cc33){街亭に到着}することに成功する。&bold(){到着するところまでは。}


街亭についた馬謖は、その土地を見渡して、&font(b,#ff0000){諸葛亮からの指示を無視して}&font(b,#66cc33){近くの山の上に布陣}&font(b,#ff0000){してしまったのだ}。


実はこの時諸葛亮幕下の諸将は、馬謖ではなく、経験豊富な&bold(){[[魏延]]}や&bold(){[[呉懿]]}を街亭に送るよう推薦していた。
だが、諸葛亮はここで我意を通してしまう。
それでも諸葛亮は大事な一幕ということもあって、慎重さで鳴る&font(b,#339999){王平}を副官につけていたが、これもまた裏目に出た。
王平は卑賤な生まれから昇進した叩き上げだったが、&font(b,#339999){「益州グループ」「異民族生まれ」「文字の読み書きができなかった」}などのあたりが、
&font(b,#66cc33){「荊州グループ」「名門出のエリート」「諸葛亮肝いりの謀臣」}という馬謖のプライドをやたらと刺激したらしく、
馬謖は王平の再三の諫めを拒絶し、街道を外れる上に水もない山上に布陣してしまう。
その他の部下として張休や李盛、黄襲などもいたが、彼らも馬謖を止められなかった。

馬謖としては&font(b,#66cc33){山の上から猛攻をかけて魏軍を大破するつもり}だったようだが、馬謖は一人で北伐をしていたわけではない。
攻撃は諸葛亮の本隊に任せて、あくまで街亭を防ぐことに徹していればよかったはずである。
しかも、相手は百戦錬磨の張郃であり、さらにその張郃を背後の曹真が支援する体制であった。
半端な攻撃をしていい相手ではないし、包囲されたことを考えると単純な兵数でも魏軍の方が大幅に上回っていたと考えられる。
逆に言うと、寡兵で張郃という大ゴマと配下の大軍を釘づけにしておくだけでも戦略的な意義はあったはずだった。
張郃の大軍を相手に守り切るならともかく、寡兵で撃破することなど馬謖どころか魏延でも五虎将軍でも無理な相談であろう。

確かに戦闘において、「高所からの攻撃が有利」なのは自明の理であり、兵法の基本ではある。
しかしそれはあくまで「基本」に過ぎず、布陣には他の様々な要因(天候、補給などの兵站、地形的な守り易さ攻め易さ、見通しや連絡の便の良さ…などなど)を考慮した上でやらなければならない。
馬謖のそれは、そういった様々な要因を考慮しているとは言い難いものであった。

張郃はこれらの弱点を見抜き&font(b,#66cc33){山に登ったままの}&bold(){馬謖軍を包囲}。
馬謖の上った山には水源がふもとにしかなく、馬謖軍は猛烈な喉の渇きに襲われてしまった。
包囲されてから早期に総攻撃をかければ、「高所からの攻撃が有利」である以上、まだ多少の勝機はあったかもしれない。
だが、水源を失ったことに気づくのが遅れたか決断が鈍かったのか、&font(b,#ff0000){馬謖の軍はほとんど戦わずに戦意を喪失}。
さらに時宜を見計らった張郃が総攻撃を仕掛けたことで、馬謖の部隊は壊滅。馬謖自身は戦場から脱出できたが、街亭は占領されてしまう。
事前に大ゲンカして別行動をとっていた王平だけが奮戦し、伏兵を偽装するなどして張郃の追撃を防いだものの、北伐のプランそのものが破綻してしまった事実は覆しようがなかった。

これは上記の越雋郡の太守時代において防衛よりも軍議(撃退)を優先して劉備に眉をひそめられた時と同じ状況であった。
現代の我々にとって劉備の意図は知る由もないが、&font(b,#458f25){皮肉にも劉備の警告は的中した形となってしまったのだ}。


**【処刑】
結局、この街亭の敗戦によって勝機を失った蜀軍は撤退。
その直接原因を作った馬謖は、&font(b,#66cc33){責任を取って}&font(b,#ff0000){斬首}という結末になった。
この際、彼は&font(b,#66cc33){「[[舜が鯀を処刑しても、その子の禹を起用した>尭/舜/禹]]ように、一族を用いていただければ幸いです」}と遺言し、諸葛亮も遺族を処刑することはしなかった。

諸葛亮にとっては大事な愛弟子であり、右腕であり、また義兄弟だった馬良の弟でもあったということで悲しみは大きかったし、できれば斬りたくもなかった可能性が高い。
だが、蜀は荊州出身者と益州出身者で派閥があったといわれ、諸葛亮も馬謖も荊州出身である。
そんな派閥抗争を法治国家として公平に治めることで、地盤的にも前の統治者を強制的に排除したという負い目がある中やってきた国である。
『これほどの大事に対し、法を守らず曲げて解釈してしまえば、益州派閥に荊州派閥が突き上げられて派閥抗争が激化し、最悪国が瓦解しかねない』危険性を孕んでいた、というのも考慮しなければならない。

また正史「向朗伝」によると、敗北した馬謖は&font(b,#66cc33){逃亡を計ったらしい}。
仲の良かった向朗は見逃してやるものの、結局馬謖は捕まってしまった。
なお、この見逃そうとしたことが原因で向朗は罷免の憂き目にあってしまう。

ただ、馬謖が死んだのは間違いないのだが、正史においても死刑にしたという記述と獄死したという記述があったりしてその最期は意外と混乱している。
諸葛亮としては、馬謖は敗戦の責任を問うものの死刑にするつもりまではなく、処罰を受けさせてみそぎをさせたら再度登用しようと考えていたのに、
向朗伝にある通り、馬謖が逃げたために本当に死刑にするしかなくなったのではないかという説もある。

実際、李厳などは食糧輸送をきちんと行わず、しかもそれを覆い隠そうと嘘をついて蜀軍を撤退に追い込むという、
本人どころか三族皆殺しレベルの暴挙を行って、成果を上げていた北伐をつぶしたのに、庶民に落とされただけで死刑にはならなかった((ただし李厳については単純に馬謖と比べられない複雑怪奇な事情がある。例えば、「庶民降格」という明らかにヌルすぎる処罰にさえ、諸葛亮は大臣の半数の署名を集めてやっと持ち込んだとか、そもそも「皇帝と丞相の離間を図った」のに劉禅が処罰しなかったとか……これを述べると項目一つ分くらい必要になるのでやめるが、とりあえず馬謖にも処刑されない可能性ぐらいはあった。))。

馬謖が本当に有能であったかはともかくとして、「有能な人材をなくしてでもけじめをつけるのを優先する」か、「けじめにとらわれた結果有望な人材を失うのを惜しむべき」かは、常に難しい。
ただでさえ人材不足な蜀の場合、なおのこと人材を惜しむべきだったという後世の批判もある。
とはいえ、当時の馬謖は&font(b,#66cc33){三十八歳}。「これからの成長を待つ」には、当時の感覚としては年を取りすぎていた面もあるだろう。

戦いに参加した武将は困難な状況の中物資を無事に持ち帰った趙雲すら降格処分となった。((ただし諸葛亮は物資を持ち帰った趙雲を評価し労ったとされる。))
諸葛亮自身も、この敗戦の責任を取って丞相を辞任、右将軍への降格処分となっている。
ベテラン起用説を蹴って私人に近い腹心を使い、その結果が国の命運を断ちかねない大失敗では、さすがに処罰は避けられなかった。
ほかに人材がいないため、後に戦果を挙げて丞相に復帰するまでの間も丞相代行を続けてはいたのだが。

街亭の戦いに参加した部下の将校も多くが死罪や軍権剥奪などの厳罰に処されたが、馬謖を再三諫め、戦場でも僅かな兵で敵を足止めした王平だけは、特別に昇進している。
また、馬謖の参謀に&bold(){陳寿の父親がいた}が、上司の馬謖が街亭の敗戦で処刑という結果になったため、連座(というかおそらくは補佐よろしきを得ずという罪)で&bold(){髪を切り落とす刑}となった((蒼天航路で劉備が呂布にやられた「イカした髪型」である。))。
髪を切るなんて軽いと思うかもしれないが、「身体髪膚、これを父母に受く」、肉体を髪の毛さえ大事にする中国人にとって、この刑はなかなか辛いものなのだ。((三国志演義では、曹操が自らを罰する意味で「死罪に代えて」髪を切って見せたり、呉の周魴が二心がないことを示す意味で髪を切るなど、髪を切ることが冗談では済まされない行為でなければ成り立たないエピソードがある。))
陳寿について「諸葛亮が嫌い(それで偏向した)」という疑惑があるのは、この父が受けた屈辱が原因ではないかと推察されることがある。
ただし、記述からして陳寿の諸葛亮への評価は別段低いものではなく、馬謖についても「諸葛亮の節度に背いた」とはっきり書いている。
父のために曲筆する気なら諸葛亮の指示ミスや馬謖の判断ミスと書けばよく、あえて諸葛亮の節度に反したと書く必要はないはずである。
また陳寿の父親が馬謖の参謀であるという出典は正確性に疑問が多いとされる「晋書」であることは留意しておこう。


**【三国演義における馬謖】
史実の活躍とほぼ変わらないが、南蛮征伐の折、怪獣&bold(){兀突骨}が指揮する藤甲兵について火で焼き払う助言をしている。
また、北伐直前には&bold(){[[司馬懿]]}に対する流言を流していったん失脚させるという功績も上げさせている。

しかしのちの展開まで考えると、これはむしろ&bold(){「馬謖を調子づかせる」「諸葛亮をして目を曇らせ、馬謖を重用させる」「謀略には長けても実践能力とは別であるというジレンマを抱かせる」}という壮大なフラグであったといえる。
実際、街亭直前には&font(b,#66cc33){「諸葛亮の腰巾着」「実戦を知らない」}という陰口を叩かれ、それを&font(b,#66cc33){本人も気にしている}という、馬謖の心理状況も描かれている。
このあたりは羅漢中の手腕とみるべきだろう。

また、諸葛亮が馬謖処刑に涙する理由が変更されており、「愛した腹心を切った」から「先帝の言葉に背いて用いた結果、国家の大事を誤ったことが悔しい。己がふがいない」ということになっている。

一方、馬謖を街亭に派遣するにあたって、諸葛亮は王平のみならず&bold(){高翔}((史実では遠方の列柳城にて郭淮と交戦している。))や魏延を抑えに派遣しているが、
先鋒で暴れてナンボと考えていた魏延が馬謖「ごとき」の支援に回されて不愉快になるという場面が加えられており、馬謖大敗の裏で、のちの諸葛亮と魏延の相克のフラグを立てるという、&bold(){なかなか器用な展開ともなっている}。



**【その他の馬謖】
・コーエー三国志
史実や演技の描写の割には高能力であり、スキルが孔明とマッチする作品もあって比較的優遇気味。
とはいえ、能力値そのものは魏延や&bold(){[[姜維]]}といった一流どころには明らかに及ばず。
よく補佐できる二級武将といったところか?


・コーエー英傑伝
上記とは打って変わって冷遇気味。
英傑伝(無印)では、能力こそ高いものの''就いているクラスが士気回復しかできない軍楽隊''の為、そのままだとほぼ戦力外。クラス変更アイテムがあるので、それを使い他のクラスになることでカバーすることは一応可能。

孔明伝では「主人公である諸葛亮の側近」という重要な立場にあるにも関わらず&bold(){能力が落とされ、クラスも歩兵隊(物理、策略ともに微妙)にされる}など、どうあがいても戦力外になるような調整がされた。
オマケに''姜維加入後は役割を奪われ''、''たとえ街亭で戦力差を覆して司馬懿を蹴散らしても、敗戦扱いで処刑されそうになり(コンシューマー版だと不問になるが)''、''しかも処刑の方がメリットが大きい(孔明以外のキャラ全員のLVが5上がる。攻略本でも「馬謖は殺そう」的な台詞が出ている)''…と、露骨に冷遇されている。

曹操伝では敵として登場、生意気だが迂闊な面が強調されている。
ルートしだいでは''孔明や姜維と共に劉禅を見捨てて逃亡する''と言う展開になり、曹操に敗れて死亡した劉禅を姜維と共に罵倒すると言う描写がある(流石に孔明は二人を嗜めるが…)。
劉禅が不甲斐ないのは事実だとしても''「劉禅に徹底抗戦を示唆しておきながら逃げ出したお前達が言うな」''であるが。

・横山光輝三国志
出番少。

・[[蒼天航路]]
ウザい感じのイケメン。劉備に冷たい目で見られる。まあそれを言うと諸葛亮のほうはもっとだが……
 
・三国志大戦
Ver1
コスト2弓
伏
武4知7
計略は士気を3消費して自分が撤退する代わりに士気が6上昇する(実質3上昇する)泣斬馬謖
計略は強力だがスペックがカス。

Ver2
コスト2弓
伏
武4知7
計略は士気を5消費して自分が撤退する代わりに士気が8上昇する(実質3上昇する)泣斬馬謖

前verで活躍しすぎたのか計略の消費士気が変更された。

Ver3
コスト1.5槍
伏
武5知7
計略は範囲内の敵を引き寄せる挑発。
良スペックで計略も使いやすい良カード。

軍師:転身再起(天)・%%山頂布陣%%回復奮陣(人)
3より導入された軍師システムの軍師カードとしても登場。
癖はあるが状況によっては強力な転身再起と範囲内の味方武将の兵力を徐々に回復する回復奮陣を所持してるなかなかの強カード。
特に回復奮陣は開幕に高武力武将を集めた前出しデッキや中盤以降に士気を回しながら長時間敵陣に居座るデッキが猛威を奮い、
バージョンによっては覇権を取れたほどの強さを誇った。

Ver3.59
コスト1.5弓
軍
武4知2
計略は士気を5消費して自分が撤退する代わりに士気が8上昇する(実質3上昇する)泣斬馬謖

ただし戦闘中一回しか使う事が出来ない。
ビックコミックスピリッツとのコラボカードであり、
〇〇アフロ田中とのコラボなためアフロになっている。

・白井式三国志
顔が面白すぎる。

・[[BB戦士三国伝]]
外伝にて登場。
独自に項羽ターンXに接触し、翔を裏切って独自勢力「楚」を興すという史実や演義もビックリな行動に出る。
案の定三国全てにフルボッコにされ、山頂に布陣するというお約束の行動に出た後「四面楚歌」で楚は滅びた。
こちらでは脱出しており、死にはしなかったものの以後の消息は不明。
公式が病気で有名な公式サイトの「今週の武将」コーナーにて、
[[劉備ガンダム]]に「馬謖が山頂に陣を敷き、項羽の周りから楚の歌が聞こえ始めたんだ。ヤバい臭いがプンプンしてるだろう?」と言われている。

・反三国志
前線でバリバリ戦うタイプではなく、荊州方面を担当する内政官僚扱い。
大活躍というほどではなかったが、善政を布いてしっかりと呉を牽制する程度の働きはしていた。



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- 演義だと一度の失敗で身を滅ぼした秀才的な惜しまれる人材だけど正史の記述みると割とどうしようもない奴。  -- 名無しさん  (2013-10-15 22:27:51)
- 孔明が大泣きしながら襲い来る馬謖の群れを片っ端から斬り倒すゲーム「泣いて馬謖をkill」とか作ったら売れるんじゃないかとずっと考えてる  -- 名無しさん  (2013-12-02 17:49:36)
- ↑ネタゲーにしたってシュール過ぎるわwww  -- 名無しさん  (2013-12-02 17:56:36)
- ガンダムセンチネルにも、ヒースロウなる馬謖のような指揮官がいたな。  -- 名無しさん  (2013-12-17 10:50:23)
- よく馬謖を処刑したのは人材のいない蜀では早計だった  -- 名無しさん  (2014-03-15 17:21:48)
- ↑とか言われてるけど命令無視で要地失って無用の負けを招いたとあっては擁護できんだろ  -- 名無しさん  (2014-03-15 17:28:18)
- ↑3 元ネタは一応、伊藤博文らしいけど、中身は確かに馬謖だね。日本史でいうと、幕府陸軍の大鳥圭介や古屋佐久左衛門など語学万能で原典で兵学書が読めて塾で兵学を学生に教えるけど、実戦経験がないので、マニュアルがない出来事に対して応用力がなく、しばしばミスを犯すタイプ。馬謖はその犯したミスがデカ過ぎたの。  -- 名無しさん  (2014-03-15 17:34:45)
- こいつがヘマをしなけりゃ歴史は変わっていたのだろうか?  -- 名無しさん  (2014-08-01 22:42:18)
- ↑根本的に国力差がある以上、どこかで無理が出た可能性が高いんじゃないかなぁ。第1次北伐自体、序盤上手くいってたのは魏が油断してたからだし。  -- 名無しさん  (2014-08-01 23:34:10)
- 蒼天でも冷たい目で見られていたんか蜀取りの時に見事な連携を見せていた記憶があったんだが  -- 名無しさん  (2014-08-01 23:42:07)
- コーエーで出てた孔明伝だと処刑する事で孔明以外のレベルが5も上昇すると言うとても美味しい効果があった。 実際の能力?役立たず以外の何だとでも?  -- 名無しさん  (2015-03-15 20:11:38)
- 一騎当千の馬謖が可愛すぎてヤバい  -- 名無しさん  (2015-03-15 20:56:22)
- ↑×6 銀英伝で言うところのシュターデンタイプというわけね  -- 名無しさん  (2015-03-15 21:22:17)
- 要するに「型にはまった」モノだけでなく、あらゆる状況にも対応できるようにしなさいという教訓だと思う とゆうかせっかく道や城があるのに山頂に(麓に水路)構えるのはないと思うの  -- 名無しさん  (2015-03-16 11:31:15)
- こいつがちゃんと言いつけを守っていれば、諸葛亮の悲願だった中原攻略は成っていただろうに……。  -- 名無しさん  (2015-03-16 12:26:36)
- 無双ではその立ち位置からかモブながら出番や台詞が多く、ムービー出演率も高い  -- 名無しさん  (2015-03-16 12:54:07)
- 最後の例の失敗は擁護出来ないけど一概にただの無能とは言い切れない。  -- 名無しさん  (2015-03-16 13:07:09)
- そりゃ諸葛亮に長い間相談相手として重用されていたんだから、知能が低かったはずは無い。ただ理論家として優秀である人間が、現場の実行者として優秀であるとは限らない。たかが一戦敗北した程度で部下を置いて逃げちゃうようなチキンは実行者としては完全に不適格で、つまり諸葛亮の使い方が悪かったとしかいえない。  -- 名無しさん  (2015-03-17 13:22:53)
- 街亭の件って、先に馬ショクのほうから、「私にお任せあれ」って言ってきたんだっけ?  -- 名無しさん  (2015-03-17 13:36:26)
- 馬謖じゃなくて姜維を出陣させれば勝てていたのに。何のために姜維を獲得したのやら。  -- 名無しさん  (2015-03-17 15:18:32)
- ↑2 三国志演義ではそう。馬謖が志願したので諸葛亮が訓告を与えて許した。逆に現実の歴史では「魏延や呉懿みたいなベテランの方がいいんじゃない?」という周囲の進言を押し切って、諸葛亮の方が馬謖を起用した。  -- 名無しさん  (2015-03-17 15:33:46)
- 学者タイプだったんだろうな、大将じゃなくて参謀の一人として従軍させるなら活躍してたかもしれん  -- 名無しさん  (2015-03-30 05:06:05)
- 文官くさいくせに、野望はやたらと高いんだよね。コーエーの三國志2とか駆虎の計とか掛かりまくるし。  -- 名無しさん  (2015-03-30 17:07:28)
- バショクをkill(w それナイス!ぜひとも作ってほしい!!  -- 名無しさん  (2016-01-10 11:14:03)
- もう一つ言わせてくれ。あまりにおかしすぎて、読者のほうが(笑い)泣きしたじゃないか!どうしてくれる!  -- 名無しさん  (2016-01-10 11:15:52)
- 逆に孔明死亡で、ホウ統とか法正が生き残ってたパターンだとどう扱われたんだろうか  -- 名無しさん  (2016-01-10 11:59:13)
- 「丞相の腰巾着、現場に出ない若造」とか陰口叩かれまくってて功名心に走った面もあったのかな?  -- 名無しさん  (2016-02-17 15:34:03)
- ↑8 一年も前のコメントに返すにもナンセンスだけど書く。 どこの馬鹿が降伏してきたばっかの元敵将に、戦略上の重要な拠点を任せるんだよ  -- 名無しさん  (2016-03-29 20:03:03)
- 続き まさか孔明が後継者にするために、無理してスカウトしてきたとか、姜維が漢朝復興の大義に賛同したとかの、演義のヨタ話を信じる訳じゃないだろうな?  -- 名無しさん  (2016-03-29 20:06:00)
- しかも相手は歴戦の張郃。どんだけ姜維を過大評価してるか知らんけど、ロクに実戦経験もない若造が勝てる相手じゃない  -- 名無しさん  (2016-03-29 20:12:25)
- 一番↑ 俺も「たった1度の失敗で…」と思ってたがこの時点で40前なんだよね。そりゃあ今後更生も無理だろうと納得した  -- 名無しさん  (2016-07-29 14:47:25)
- もし、あの「HARAKIRI」に登場していたら、武田勝頼同様に城守が壊滅的で守備側大将にしてはいけないパラメータ設定になっていたのだろう。  -- 名無しさん  (2016-09-03 10:19:53)
- 一度きりの失敗で評価が落ちてるのはコイツではなく孔明。ここ以外に目立った人事的失敗はないのに人物眼なし扱いなのだから。  -- 名無しさん  (2017-04-11 18:58:45)
- 諸葛亮が馬謖を重用し続けたのは、劉備に遺言で「国を取っていいよ」なんて水向けられて「そんなことはしません」と言わざるを得なかったうえに弟子まで酷評されて、その反発と嫌味と対抗心からだったと安能先生が言っていた。  -- 名無しさん  (2017-04-11 19:50:54)
- なお山頂布陣は兵法の常道(戦では高所が有利)、補給線の確保も基本だから教科書通り戦術なら当然やっているはずで、張コウがどんな作戦で水源を奪ったのか気になる  -- 名無しさん  (2017-06-09 07:12:21)
- それが教科書(韜略孫呉)のどこを見ても「陣地建設にあたっては水源を確保せよ」とは書いてないのだね。当たり前すぎて。その当たり前が出てこない未経験者をいきなり指揮官にした諸葛亮の罪は重いが、しかし普通なら熟練の部下がフォローするのも事実。その助言を聞かなかったのか、あるいはできない雰囲気にしてしまっていたのか、いずれにせよ馬謖の責任も軽くはない。  -- 名無しさん  (2017-06-09 17:29:14)
- 魏延とかはどっちかというと劉備を慕ってきた人物で蜀という国にいうほど忠誠があるわけではない。後継者育成も含めて若手を使いたかった発想はわかる  -- 名無しさん  (2017-06-25 08:58:24)
- 処刑寸前で撤退して、「あれは部下がへましたからだ俺は悪くないなのに俺を処刑した諸葛亮&蜀許せん」と、魏に寝返って、蜀の宿敵になる……って二次創作がなんかで出てきそうだw  -- 名無しさん  (2017-10-20 15:49:13)
- ↑3 馬謖の指示は煩雑を極めたというから、まず指揮官としての適性がなかったんだろうね。集団を動かす時は命令はシンプルにが鉄則  -- 名無しさん  (2017-11-22 18:44:21)
- マニュアル化っちゅーか、いくつか対策考えておいて状況で使い分けてく・・・・ってのが理想なんだけどな、総指揮者に些事の采配まで握らせると全体が疎かになる  -- 名無しさん  (2017-12-02 20:08:18)
- ドーンと加筆  -- 修正者  (2018-05-06 16:46:37)
- 荊州閥、益州閥みたいな実態すら怪しいものを王平の諌めを聞かなかった理由としての上げるのは正直どうかと思うが  -- 名無しさん  (2018-10-27 14:00:53)
- 天地を喰らう2(FC版)ではなかなか使える奴だったな。  -- 名無しさん  (2019-02-08 19:48:07)
- 単純に文官としては有能だったけど武将としては無能だったというだけのような。  -- 名無しさん  (2019-04-18 05:32:38)
- 諸葛亮の責任ねえ・・・馬謖の起用は馬氏と諸葛亮が近い関係にあってぶっちゃけただのコネなんだが、この時既に馬氏の五常は3人死亡1人魏で隠遁だから馬良を立ていくより他なかったんだよな  -- 名無しさん  (2019-04-18 06:41:06)
- 記事本文にもあるけど、史実の足跡のわりにゲームでは優遇されてるんだよね。光栄三国志11では高知力な上に「百出」なんてチート特技まで持ってるしな。  -- 名無しさん  (2019-05-28 15:06:28)
- 斬れない馬謖をテーマにしたSF短編が最近出た  -- 名無しさん  (2019-05-28 15:23:42)
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