附属池田小事件

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&font(#6495ED){登録日}:2012/04/17(火) 17:45:46
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附属池田小事件とは、2001年6月8日に大阪府池田市の大阪教育大学附属池田小学校で発生した無差別殺傷事件である。
本事件の犯人・宅間 守(たくま まもる)は小学校にて合計15人もの児童と教職員を殺傷した実行犯で、この事件は日本犯罪史上でも最悪と呼ばれている。
後に宅間は逮捕され、死刑判決を受けた後に2004年9月14日に刑が執行された。


■事件の概要

2001年6月8日、宅間は池田小学校に侵入。
犯行前には体育館東側地区にて宅間の姿が目撃されていたが、父兄だと思った教職員は会釈すらしていた。

まず、2年南組に入った宅間は、教室に残っていた児童5人を持っていた出刃包丁で無言で刺殺。
続いて東組に入り、そこでも4人の子供を襲い、止めようとした男性教諭にも重傷を負わせた。

そして再び南組に入り、黒板の近くにいた4人の児童を切りつけ、ここでようやく到着した校長と副校長により取り押さえられた。
警察に通報したのは近所のスーパーに逃げ込んだ少年だったという。

襲われた児童にとっての悪夢のような時間はそこで終わり、宅間は逮捕された。


■公判

裁判では度々「責任能力の有無」が問われたが、多少の疾患は認められたものの、最終的には「責任能力は十分にあり」との判断が成された。
そして、その疾患もいくつかは詐症であったという。


2003年8月28日、大阪地方裁判所にて。
宅間は口笛を吹きながら入廷、裁判中も不真面目な態度だったと言う。

「こんな結果のわかっとるおもろない裁判に、ようけこんな集まったるの~。アホやの~」

口笛を咎められた宅間の第一声だった。
更にその場に座ろうとした男に、立ったまま聞けと言う注意が入る。そして、判決の前に言いたい事はあるのかと聞かれ…

「えー、発言してもよろしいか?
 ……なら話すわ。まあ、まだ判決は出とらんのやけども、もうすぐ出るし、わかっとる事やから、最初に言うとく。
 どうも死刑にしてくれてありがとう、裁判長さん。感謝するわ! わし、もう早う死にたい思うてたから、ほんま助かる。
 やっと死ねるんやなーと思うとほっとしたわ」

傍聴席からは怒号が舞った。

「お前らに言われとうない! お前らの人生よりわしのが勝ち組や!
 今のは、誹謗とか批判ではのうて、純粋のわしの心から出たほんまの気持ち。わかってもらわんでもええ」

「言いたい事はまだある。それは、殺してしもうた子供達にや!
 わしが殺したガキどもは、わしの自殺の為の踏み台の為に、生きていたんやな!
 ほんま、感謝しとる。あのガキが8人死んでくれたから、俺が死ねるんやから感謝せなあかん。死んでくれてありがとう!
 ……でも、死刑になるだけやったら3人で十分やったな。残りの5人はおまけで感謝しといたる!」

遺族席が泣き声に包まれた。
耐えられず、退場する者も出る傍聴人。

そして、宅間に退廷が命じられた。

「おい、こらっ、なにするんじゃ、離せ! 喋りよう途中じゃ、おい、コラァ!! くそガキの親ども!
 お前らは、ほんなに偉いんか? お前ら、7500万円もらってホクホクやな! よろしいな。転がり込んだ7500万円よろしいな!?
 そやけど、お前らのガキの8人分の命はわし一人を殺して終わりの程度の価値やったんやぞ! エエ学校に行かせて偉そうにしとったから死んだんや!
 ガキどもが死んだ原因はお前らにあるんやぞ!
 せいぜい一生反省せいよ! あの世でもお前らの子供、追いかけ回して、しばき倒したるからな! あははははは! あははははははははははははははは」

そして、異例の「被告人不在」での判決の読み上げとなった。
もちろん、死刑である。
控訴はされたものの死刑を望んだ本人が取り下げたためそのまま死刑が確定した。


■宅間の生い立ち

宅間は1963年、池田市の西隣、伊丹市で生まれた。父と母、上には7歳違いの兄がいた。

幼い頃は元気で活発な少年であり頭も良かったらしく、近隣の人々からの評判は割りと上々だった様子。

しかし、気にくわない事があったりするとすぐに暴力を振るったり、
気の弱い子や体の不自由な子、小さな女の子をいじめるなど、弱者に対して残虐性を示す性質をこの頃から見せており、同級生の友達はいなかったと言う。

また、変にエリート嗜好があったらしく、「俺はIQが高い」などとのたまい、更に、小6の頃、附属池田中学校の入試を希望するが、模試が奮わず断念したという。
ちなみに成績は中の下ほどだった。

その後、地元中学を卒業後、工業高校に進学。卒業後は航空自衛隊に入ったり父の金で運送屋を開いたりしたがいずれも長続きせずに失敗したという。

この頃から、度々精神が不安定になり、
心療内科に通うなどしていたという。
また、この時期には主に婦女暴行の罪で少年院や刑務所にも出入りしていた。

精神的に疲弊していたためか家族に対してもより暴力的になっており、兄が真面目に働いて貯金し、購入した新車を角材でボコボコにするなどした。
それらの暴力や数々の犯罪に心を痛めた母親は後に精神異常を引き起こして入院し、兄は自殺している。

運送屋の失敗の後はバスの運転手やタクシー運転手などをやっていたが、
後部座席の女性に「香水の匂いがきついから席を移って」と言ったりホテルのベルボーイに口論の末暴力を振るうなど、かなり勤務態度に問題があったようだ。

また、彼はねるとんパーティが大好きで4人もの女性と結婚をしている(内一人は19歳年上の小学校時代の恩師)が、いずれも暴力により離婚している。

そして、最後に就職したトラック運転手の仕事も、信号待ちをしていた時に並んでいた車の女性に「目が合った」と因縁をつけ唾を吐きかけ退職させられた。

それらのトラブルを自分のせいとは思わず、周囲が自分を許容してくれないからだと世間を逆恨みした宅間は、腹いせと復讐のために大量殺人を思いついてしまった。

自分がかつて憧れ妬んでいた名門校をターゲットとして。


■死刑判決後

冒頭のような死刑判決後、彼は、死刑制度反対を訴えるグループ「アムネスティ・インターナショナル」の活動に参加していた1人の女性と手紙をやりとりし、
その末に獄中結婚を果たす。

度々騒ぎを起こしていた彼だが、面会に来た妻にだけは心を開き、穏やかな顔を見せていたという。

なお、女性に迷惑がかからないようにと、妻は元々の姓を名乗り、宅間も妻の姓を名乗っていた。

そして、刑確定から1年足らずで、宅間の死刑は執行された。
最後の言葉は、「僕がありがとうと言っていたと妻に伝えてください」だった。
その死に際して、妻だけが涙していたという。執行人は、「人間らしい最後でした」と述べている。
宅間が遺族に謝罪する事は遂になかった。

どの道死刑になるのならば、最低限人の心を取り戻し、自分の罪に苦しんだ上で死刑になるべきだっただろう。
宅間が最後にその境地に至ることができたのか、本当のところは残念ながら分からない。
ただ、犯罪者を守ろうとするなんて許せないという安い正義感で関係者を責め立てることは厳に慎むべきである。
誰からも見放されている人物に、そんな心境の変化なんて起こるはずはないのだから…


■事件のその後

その後、精神疾患を持った者に対しての責任能力の言及や犯罪経験者の出所後の監察などがかなり改められた。

また、全国の小中学校において、部外者の校舎への侵入がかなり警戒されるようになり、セキュリティの見直しが成された。
たとえ部外者であっても校舎に入ってしまえば教職員からは父兄と見分けが付きにくいため、
簡単に部外者でも校舎に入れてしまうそれまでの環境にはやはり問題があったと言わざるを得ない。
 



追記・修正はせめてこの事件を教訓とし、犯罪が抑止される事を願いつつお願いします。

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- 反対意見が無いことを確認した上でコメント欄をリセットしました。誹謗中傷、愚痴、口論は止めましょう。  -- 名無しさん  (2019-10-01 00:19:40)
- 犯人、怖い、ヤバい。  -- 名無しさん  (2019-11-21 08:27:56)
- 実は最近までこの事件知らなかったんだけどTVとかで特集されることのない事件なのか、特集されるけど地下鉄サリンや3億円みたいな覚えやすい事件名じゃないから覚えなかったかのどっちだろう?  -- 名無しさん  (2020-02-17 15:15:46)
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