やしきたかじん

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やしきたかじん - (2017/08/13 (日) 22:28:04) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2017/08/12 Sat 08:47:45
更新日:2024/01/26 Fri 08:52:43
所要時間:約 2 分で読めます




関西を中心に活躍した歌手・司会者・ラジオパーソナリティ。
関西を代表するローカルタレントの一人と紹介されるが、一時期は東京でも活動していた。
ちなみに「やしきたかじん」というのはれっきとした本名であり、漢字だと「家敷隆仁」と書く。

概要

1949年10月5日生まれ、大阪府出身。

本業は歌手だが、当初はなかなか売れず、なんとかして客の気を引くために磨き上げたトークの面白さが評価され、次第にラジオ番組のパーソナリティや情報バラエティ番組のMCに抜擢されるようになる。
トークの面白さに定評がある歌手は少なくないが、たかじんのそれは、もはや歌とトークの比重が完全に逆転し、歌手である事すら忘れられてしまうほどであった*1
その後、知名度が上がるにつれて本業の歌手活動も再評価されるようになり、以後は歌手と司会業の二足の草鞋を履くようになり芸能界でも一目置かれる重鎮となる。

芸能界でも人脈の広さは有数であり、同業者は勿論のこと政治家にも友人・知人がいた。ただし普段の言動や行動から嫌われることも多かった。

バラエティ番組に出ているときは芸人にしか見えないのに、歌手をやっているときは同じ人物とは思えないほど美しい声でラブソングを歌い上げる凄まじいギャップを持つ。
このことから、しばしば「スズムシの声を持ったゴキブリ」と評される。

人物

在日韓国人の父と日本人の母の間に生まれる*2。父は在日韓国人であるものの日本の国粋主義者であり*3、また現在に続く事情からか事実婚の関係だった。下の兄弟に教頭にまで出世した教職員がおり、兄の問題行動に常に困らされていたという。

派手好き、遊び好き、豪胆な毒舌家として知られる一方で繊細な一面もあり、ステージではストレスから来るプレッシャーで何度も倒れそうになっていたとされ、本当は小心者で寂しがり屋でもあった。
歌手としても、繊細な持ち味の曲を得意としていた。

典型的なイッチョカミ体質*4で、自宅に設置してある大量のビデオデッキやHDDレコーダーでテレビ番組を片っ端から録画し、トークのネタにするための情報収集に励んでいた。
話題の守備範囲は幅広く、トークのジャンルは芸能界の構図、政治・経済、キャバクラなど風俗の裏事情、ハワイ観光のノウハウなど多岐に及ぶ。

学歴は桃山学院高校卒業、桃山学院大学中退(後に龍谷大学に再入学するも、そこも中退している)。
高校時代に所属していた新聞部はコンクール受賞の実績を残しているが、たかじんの暴走によって廃部へと追い込まれたらしい。
以来、桃山学院高校では、在校生が文化祭のゲストとして彼を呼ぼうとした時も教員側が断固拒否するなど、やしきたかじんの存在をすっかり黒歴史化してしまった。

暴走気味の行いから引き起こされた騒動は数知れず、機嫌を損ねると収録中でも帰ってしまうことがあり、スタッフや共演者は戦々恐々としていた。かつて仲良く共演していた間柄のタレントと敵対関係(大竹まこと、トミーズ雅など)になっていることも珍しくなく、ファンや高く評価してくれていた人とは知らずに誹謗中傷してしまったがために共演を拒否されることもあった(桑田圭祐など)。

大阪ローカルタレントとして不動の地位を築いたたかじんは、90年代に東京に進出したこともあるが、彼自身の問題もあり失敗。
以降は東京を嫌い続けるスタンスを貫いていた。

政治的には保守、極右のスタンスであり、よみうりテレビ『そこまでいって委員会』ではその傾向は非常に顕著になっており、それ以外の自身の看板バラエティ番組でも政治色が強くなっている。それによってたかじんを評価するものもいれば逆に嫌う視聴者も増えていた。*5

若い頃からNHKを非常に嫌い、後に朝日放送も嫌うようになる。*6

大のハワイ好き・競馬好きでありハワイは1年の1/4から1/3を過ごすほど、競馬は10頭の馬主を経験するほど。ただ馬主を経験する中、バカ馬に当たったこともある。*7

歌手としての作風

デビュー当初はいわゆるフォークのような楽曲を歌っており、レパートリーは本人による自作曲が中心であった。主な代表曲は、デビュー曲の「ゆめいらんかね」など。
その後、レコード会社をキングレコードからビクターに移し、自作曲よりも本業の作詞家・作曲家から提供された歌謡曲がレパートリーの中心となる。「やっぱ好きやねん」はこの時期に歌われた曲である。
ちなみに、機動戦士ガンダムの「砂の十字架」を歌うことになったのはちょうどこの過渡期にあたる。

死去

酒や遊びなど、お世辞にも健康的とは言いがたい生活を送っていたのが災いしてか、2012年にとうとう食道がんを患い、以後療養生活に入った。復活を目指し、2013年3月に一旦復帰するも同年5月に再び休養生活入り。その後も復活を目指していたが、2014年1月3日にこの世を去った。享年64歳。その死は関西を中心に冠番組が放送されていた地域では衝撃を持って受け入れられた。

死去が公表されたのは1月7日のこと。これは生前「めでたい気持ちで迎えている正月に、自分の訃報で多くの人に悲しい思いをさせたくない」という本人の意向から。

彼の死後も冠番組はそのまま続いていたが、テレビ大阪の『たかじんNOマネー』以外は番組名から「たかじん」を外し、NOマネーも2015年に放送を終了した。

死去後、百田尚樹の『殉愛』で一騒動起きたのは周知の事実。*8

生前のエピソード

  • 大相撲大阪場所開催期間中、多くの幕内力士と飲みに出たが飲みに行った幕内力士がただ一人の例外もなく、全員怪我で休場に追い込まれた。
  • 話のタネにと訪れたぼったくりバーに入店したものの、予想以下のものだったために激昂して相手の要求額を大幅に上回る金額を支払い、店側をドン引きさせている。
  • あるホテルのディナーショーの形式に不満を持ち、キャンセルをしたが違約金600万円を請求された。これに対して「上等やないか!」とホテルに乗り込み「600万でええんやな。ディナーショーやめさせてもらうわ」と札束を投げ出し帰った。この対応にホテル側は大慌て。対応策を示して何とかディナーショーを開催することが出来た
  • 京都会館でコンサートを開いた時のこと。ステージ上にはタバコと水割りを用意し、水割りが無くなるとボーイが取りに行くという形式で、代表曲が殆どなかった当時は延々としゃべり続けた。その状況が延々と続いたために演奏中に京都会館の人間に電源を切られ、楽器の音と照明が消えると最後には緞帳を強制的に下ろされ、数年出入り禁止になった。
  • 自身のレギュラーラジオ番組にて、音楽グループ「ECHOES」がゲスト出演した際、ボーカルの辻仁成の横柄でやる気のない態度(質問されても無視したり、「CD買ってもらえば分かります」としか答えない等)に、「そんなんやったらわざわざここへ来んと、CDだけ売っとったらええやろ!」ブチ切れて、録音を強制終了させ譜面台を投げつける等、騒然となった。
  • 東京進出の際に、深夜番組『M10』にて番組スタッフのミスが原因とはいえ常軌を逸したレベルで激昂して番組を破壊した過去がある。*9

歌手としての代表曲


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