浪士組

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浪士組 - (2017/05/09 (火) 04:13:20) のソース

&font(#6495ED){登録日}:2011/05/28 (土) 03:43:49
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浪士組とは、征夷大将軍徳川家茂上洛に合わせて結成された将軍警護のための組織。


1862年11月12日、尊王攘夷思想集団「虎尾の会」の盟主清河八郎は「急務三策」(攘夷の断行、大赦の発令、英材の教育)を政事総裁職松平慶永に提出。
幕府は清河の献策を受け、浪士組召抱えを決定。
上洛予定の征夷大将軍徳川家茂の警護を目的として年齢、身分、前歴を問わず人材を募集。
17歳から63歳まで、様々な人物が浪士組に志願した。
集まった参加者の中には、昌平坂学問所で学んだ殿内義雄、千葉周作に北辰一刀流を学んだ根岸友山、水戸玉造組(のちの天狗党)で活動した芹沢鴨、
天然理心流四代目宗家近藤勇、侠客の祐天仙之助らがいた。


当初、浪士取扱(浪士組の責任者)は講武所剣術教授方松平忠敏であったが辞任、安政の大獄で左遷され隠居状態であった鵜殿鳩翁が後任となる。
1863年2月5日、鵜殿は浪士組参加者を小石川伝通院に召集、編制を発表。
2月8日、再び小石川伝通院に集まった浪士組は江戸を出発。清河も同行。
2月23日、京都の壬生村に到着。
同日、清河は新徳寺に浪士を集合させ、朝廷への献言を提案。
2月24日、清河は浪士組全員の署名が記された尊王攘夷の建白書を朝廷に提出。


そして、清河の行動が歴史を動かす。


2月29日、清河は新徳寺にて&font(#ff0000){江戸へ帰還した上での攘夷}を宣言。
当初の目的である将軍警護を果たさずに東帰することに、芹沢、近藤らが猛反対する。
3月3日、浪士組に帰還命令が出されるが、芹沢、近藤らは京への残留を希望。
3月4日、徳川家茂が入京。
3月8日、鵜殿は残留希望の浪士の取りまとめを殿内義雄と家里次郎に任せる。
3月10日、芹沢や近藤らは連名で会津藩に嘆願書を提出。
3月12日、芹沢、近藤らは会津藩御預かりとなり京に残留。
(壬生浪士組、後の新選組)
同日、芹沢と近藤は清河の暗殺を謀るが、山岡鉄太郎(のちの山岡鉄舟)らが浪士組募集の朱印状を首から下げた状態で清河の護衛についていたため未遂に終わる。
3月13日、清河八郎らが率いる浪士組は京を出発し江戸へ向かった。


4月13日、清河は麻布一ノ橋で斬殺。
幕府は浪士組を新たに「[[新徴組]]」と名付けて江戸市中取締役の庄内藩預かりとした。


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