登録日:2011/05/28 (土) 03:43:49
更新日:2024/09/21 Sat 22:10:12
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浪士組とは、征夷大将軍徳川家茂上洛に合わせて結成された将軍警護のための組織。
文久2年(1862)10月18日、幕府講武所剣術教授方•
松平忠敏が浪士の利用を建白書に記して幕府に提出した。
この建白書が提出された社会的背景は、幕府に攘夷を催促する京都の
孝明天皇から勅使が派遣され、江戸に向かっている時だった。
日本政府という看板を背負う徳川幕府としては、欧米諸国と通商条約を結んでいる以上、戦争は避けたいのだが、孝明天皇のご機嫌取りで攘夷をしますと約束して、ダブスタな顔が出ていた。
松平忠敏の建白書は、ダブスタを解消しようという中味、出された時期が絶妙だった。
孝明天皇の勅使派遣は文久2年(1862)に入ってから2度目。
1度目は6月に薩摩島津家の国父•
島津久光が勅使•
大原重徳を擁して江戸に着き、幕府人事へ介入し、
安政の大獄で政治活動を止められていた前一橋家当主•
一橋慶喜を
田安慶頼に変えて将軍後見職に、前越前福井松平家当主•
松平慶永を政事総裁職に就任させる体制を実現した。
島津久光は帰りの道中で生麦事件に遭遇した。
久光は亡き兄•
斉彬がやりたかった幕政改革を実現したが、長州毛利家と土佐山内家の攘夷派は久光に
『
没!企画が弱い!』
『
キャラが立ってない!』
と酷評し、
『
オレたちが本当の勅使を見せてやる!』
と
三条実美、
姉小路公知が攘夷を催促する勅使になった。
松平忠敏は建白書でこの様な事態になったのは攘夷派浪士が薩摩島津家、長州毛利家、土佐山内家を刺激して、孝明天皇や側近の公卿に近づき、幕府に圧力を掛けるからだ。
逆に攘夷派浪士を幕府が取り込み、孝明天皇の意向を尊重して政策を実現し(=公武合体で攘夷をする)、攘夷派浪士を配下にして活用すれば、幕府の下がった支持率も上がり、一石二鳥ですよね〜と記した。
松平と書いたが、実際に裏で筋書きを書いているのは出羽庄内酒井家郷士・
清河八郎と剣術の同門で親友の講武所剣術世話心得・
山岡鉄舟で松平忠敏は看板に使われた意味合いが強い。
こんな回りくどいやり方をしたのは、清河が江戸に滞在していた頃、幕府の町奉行所の探索網に引っ掛かり、捕り方の岡っ引きを切り殺してしまったのだが、大規模な探索網で逃したため、幕府のメンツが丸潰れとなり、「無辜の町人」を切り殺したと話をすり替えて広めた為、清河はお尋ね者になってしまった。
庄内にある清河の実家も出羽庄内酒井家によって封鎖されるなど、笑えない事態になってきた。
文久2年(1862)11月12日、尊王攘夷思想集団「虎尾の会」の盟主清河八郎は「急務三策」(攘夷の断行、大赦の発令、英材の教育)を政事総裁職・松平慶永に提出。
幕府は清河の献策を受け、浪士組召抱えを決定。
上洛予定の征夷大将軍徳川家茂の警護を目的として年齢、身分、前歴を問わず人材を募集。
17歳から63歳まで、様々な人物が浪士組に志願した。
集まった参加者の中には、昌平坂学問所で学んだ殿内義雄、千葉周作に北辰一刀流を学んだ根岸友山、水戸玉造組(のちの天狗党)で活動した芹沢鴨、
天然理心流四代目宗家近藤勇、侠客の祐天仙之助らがいた。
当初、浪士取扱(浪士組の責任者)は講武所剣術教授方松平忠敏であったが辞任、
安政の大獄で左遷され隠居状態であった鵜殿鳩翁が後任となる。
1863年2月5日、鵜殿は浪士組参加者を小石川伝通院に召集、編制を発表。
2月8日、再び小石川伝通院に集まった浪士組は江戸を出発。清河も同行。
2月23日、京都の壬生村に到着。
同日、清河は新徳寺に浪士を集合させ、朝廷への献言を提案。
2月24日、清河は浪士組全員の署名が記された尊王攘夷の建白書を朝廷に提出。
そして、清河の行動が歴史を動かす。
2月29日、清河は新徳寺にて
江戸へ帰還した上での攘夷を宣言。
当初の目的である将軍警護を果たさずに東帰することに、芹沢、近藤らが猛反対する。
子飼いの
池田徳太郎も
「君の首すじも細くなったなあ・・・」
と反対したが。
3月3日、浪士組に帰還命令が出されるが、芹沢、近藤らは京への残留を希望。
池田徳太郎は故郷の広島に帰った。
3月4日、徳川家茂が入京。
3月8日、鵜殿は残留希望の浪士の取りまとめを殿内義雄と家里次郎に任せる。
3月10日、芹沢や近藤らは連名で会津藩に嘆願書を提出。
3月12日、芹沢、近藤らは会津藩御預かりとなり京に残留。
(壬生浪士組、後の
新選組)
同日、芹沢と近藤は清河の暗殺を謀るが、山岡鉄太郎(のちの山岡鉄舟)らが浪士組募集の朱印状を首から下げた状態で清河の護衛についていたため未遂に終わる。
3月13日、清河八郎らが率いる浪士組は京を出発し江戸へ向かった。
4月13日、清河は麻布一ノ橋で斬殺。
幕府は浪士組を新たに「
新徴組」と名付けて江戸市中取締役の庄内藩預かりとした。
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最終更新:2024年09月21日 22:10