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各海戦・作戦 - (2018/03/01 (木) 17:34:22) のソース
#CONTENTS ---- **レイテ沖海戦での栗田艦隊と米護衛空母群との砲撃戦で日本側の発射した砲弾が徹甲弾であったため命中したが爆発せず素通りしてダメージを与えられなかったという話を再三聞いたがいくらなんでもそれはないのでは? ありえます。 徹甲弾は、一般に硬いものに一番効力を発揮するものですが、護衛空母は一般的な商船の構造そのままを用いているので、 徹甲弾が威力を発揮する硬さの鋼材ではありません。 従って、徹甲弾が威力を発揮する前に突き抜けてしまうこともあります。 また、戦艦相手だと、装甲を突き破ってから内部で爆発するのが一番効果的なので、遅延信管を用います。 ところが、突き抜けてしまうので、外に出てから爆発し、至近弾程度しかダメージを与えられなかったようです。 こういった商船構造の船に対しては、榴弾でしかも触発信管の方が効果的だったのでしょうが、 「軍艦=装甲しているもの」という観念があったからか、頑迷なまでに徹甲弾を使っていたようです。 (大和の場合、三式通常弾24発に対して91式徹甲弾は100発も使っている) #right(){(20:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **「ミッドウエーのエース重松大尉のその後」について知っておられる方 ミッドウエー後の経過はわかりませんが、重松大尉は昭和19年7月、サイパン島で戦死なされたそうです。 #right(){(21:ベタ藤原 ◆94Ls6/3E)} **1945年7月に行われた釜石に対する艦砲射撃に関する日本側および連合軍側よりの戦闘/被害/戦果に関する資料が知りたいのですが 釜石艦砲射撃 http://www2u.biglobe.ne.jp/~yunta/06.htm おそらくそれほど詳細な資料は、現地に出向いて市役所や現地図書館で市史やその他 戦災関連資料を閲覧するしかないのでは? #right(){(36:679)} **南極観測船〈宗谷〉は、ミッドウェー海戦に一体何をしてたんですか? 測量と輸送任務ですね。 #right(){(44:961)} **第二次大戦中に日本の潜水艦がドイツに行ったらしいけど燃料とかどこで補給したんですか? マダガスカル島付近で洋上補給を受けています。 当時の航路は、インド洋からアフリカ南端の喜望峰を回り大西洋を北上してフランスをめざす 航路しかありませんでした。 たとえば伊30潜水艦は昭和17年6月30日に仮装巡洋艦報告丸・愛国丸から補給を受けて 一路フランスをめざし8月2日にフランスのビスケー湾に到達しています。 また伊8潜は昭和18年7月6日にマレー半島ペナン港を出発し、途中伊10潜から補給を受けて 約二ヶ月でブレストに到着しています。 #right(){(48:名無し軍曹)} **太平洋戦争の天王山はミッドウェー海戦ではなく、マリアナ沖海戦だったというのは本当ですか? 後世の評価は様様ですが、一方の当事者、[[日本海軍]]から見た場合。 ミッドウェイで損耗した空母機動部隊をなんとか建て直し数も揃えた。 練度に問題はあるが日本機の特徴である大航続距離というアドバンテージそのものは崩れていない。 小沢冶三郎中将は出撃前の訓示で「この戦いに負ければ海軍に存在意義は無い」と語ったそうです。 実際には諜報、集積戦力、燃料、防空システム、その他もろもろで惨敗しますが、 日本海軍が「戦争そのものに勝つつもりで米海軍に挑んだ」すなわち太平洋の覇権を 争う道具である空母機動部隊を用いた最後の機会だったわけです。 意気込みだけで戦争をするわけではありませんが日本海軍は間違いなく 「天王山」のつもりでいましたし、これを下した米海軍については、 この海戦以降は空母を起工していない…すなわち戦争の帰趨は決したと考えていたと思われます。 ですから主敵たる米軍側呼称「太平洋戦争」の「天王山」がマリアナ沖海戦であるという指摘は間違いではありません。 分析する視点によって変わるのは既に軍板住人諸兄姉の書き込み通りです。 #right(){(51:ふみ)} **結局栗田氏が反転した理由は何なんですか? 謎のまま。 研究者の間でも意見が分かれていて、定説と言えるほどのものはない。 #right(){(92:259)} 勝算の無い戦いで将兵を無駄死にさせたくなかったという説が有力 真相は私の曽祖父が知っています #right(){(92:260)} >もしそのまま行ってたら米軍をブチ倒すことはできたんですか? 上陸部隊の艦艇は壊滅、しかし栗田艦隊も全滅していただろう。 フィリピンを一時的に奪い返すことが出来ただけ。 #right(){(92:262)} 輸送艦と刺し違えるのがイヤだったから、という説が有力。 真相は栗田の霊が知っています。 #right(){(92:263)} 栗田健男元中将は1977年に死亡するまで、反転の理由を説明していませんの で、真相は不明です。 主な説を挙げておくと ・米軍の波状攻撃によりすでに多数の沈没・損傷艦を出しており、それ以上 の前進は将兵の命の浪費にしかすぎないと判断した。 ・北方に敵機動部隊ありの電報を受け、これの攻撃に向かった。 (この電報は存在しないとの説も有力。また、戦後明らかになったところで は、栗田部隊の北方で活動していた米機動部隊はない) ・小沢部隊の陽動作戦成功の報告が、栗田の元まで届かなかった。 #right(){(92:266)} 補足 >・北方に敵機動部隊ありの電報を受け、これの攻撃に向かった。 >(この電報は存在しないとの説も有力。また、 >戦後明らかになったところでは、栗田部隊の北方で活動していた米機動部隊はない) 米軍の偽電につられた、 偵察機が栗田艦隊自身を補足し、しかも北側に位置を間違って報告、という説もあり。 #right(){(92:267)} **ミッドウェイ海戦では、爆装と雷装の換装ミスが主たる敗因となりましたが、当時の陸用爆弾と魚雷では、艦船に対して与えられるダメージは、どの程度の差が出るのですか? ミッドウェー時に97式艦上攻撃機が積んでたのは30~80kg級の小型爆弾複数。 水平爆撃で運良く当っても甲板の掃除ができるくらい。 99式艦爆は陸用250kgだったけど触発信管だから飛行甲板上で爆発。 普通450kg三発喰らって生還した翔鶴よりは被害が少ないと思う。 #right(){(369:270)} **ミッドウェー作戦では、どうして戦艦部隊は後ろからついていったんですか? >敵艦隊の出現を警戒しているんなら、なるべく前に出て、哨戒機が敵艦隊を発見したら速やかに艦砲で反撃したほうがいいんじゃないですか? 艦隊決戦をするためです。 主力部隊はミッドウェー攻撃を知った米艦隊が真珠湾を出撃し、ミッドウェー来援に到着する頃に 同様に決戦海面に到着することを想定しています。 >日本海軍が、その主力部隊(戦艦部隊)を、わざわざ空母機動部隊の後方500kmに位置させた理由は何なのですか? 500kmという数字の意味をよく考えてください。 遠方に見えてわずか300浬弱。 18ノットの艦隊巡航速度で半日強で追いつける距離です(南雲部隊が同一海面に留まる前提ですが)。 これは後方と言えるほど後方ではないのです。 戦略単位として考えるなら半日強の時間差は部隊間距離として十分にアリです。 そもそも戦略機動力では南雲部隊も主力部隊も巡航速度は変わりません。 どちらも足は十分に速いのです。 もっとも実際の戦闘においても日本の戦艦部隊は25ノット前後の高速戦艦部隊であり、 空母部隊が30ノットで動いたとしてもその差は5ノットでしかないのです。 >それで、戦艦部隊の存在意義はあったのですか? あります。 米艦隊は戦艦の出撃も検討しており、 南雲艦隊は戦艦以外にも2隻の米空母(ヨークタウンは想定外)とミッドウェー航空隊を相手取らねばなりませんから、 それに対抗するのには完全に力不足です。 仮に米戦艦が現れないにしても、南雲艦隊の消耗を補うためにはやはり別の艦隊が必要なことに変わりはありません。 ミッドウェー作戦は、どの道南雲艦隊だけで完遂できるようなものではないのです。 #right{(518:ゆうか ◆9a1boPv5wk)} **陸軍はミッドウエー海戦の大敗北等の海軍の失態を把握していたんでしょうか? 少なくともミッドウェー海戦の敗北に関しては、直後に陸軍に伝えられています。 戦史叢書「大本営海軍部・聯合艦隊<3>昭和十八年一月まで」p10から転載 六月六日午前、軍令部第一課は参謀本部作戦課長以下の来部を求めて、戦況を説明するとともにF・S 作戦を延期すべき意見を述べた。その情況は左のとおりであった。 [出典:「井本日誌」 当時、参謀本部第二課部員井本熊男中佐(のち大佐)の業務日誌] 海軍ノ面持沈痛也 山本中佐より「ミッドウェー」方面ノ戦況ヲ説明ス 昨五日ヨリ本日ニカケ航空作戦ヲ 実施 戦況不利ニシテ赤城、加賀、蒼龍、飛龍ノ四隻沈没シ 聯合艦隊ハ戦を離脱シテ布哇西方約一千 浬ニ集結中也(中略)F・S作戦ハ一時中止 Fハ少クモ二ヶ月延期スルコトトナル(軍令部一課ノ意見) この敗戦は陸軍部にとっても、まさに青天の霹靂であり、田中作戦部長を「思いもかけぬ大敗北、太平洋 の覇業潰えたり」と嘆でしめ、杉山参謀総長は暗然として「永野総長の二年間の保証が破れた。屈敵の方 法を太平洋以外に選ばなければならなくなった」と述べた。 [出典:「田中新一中将業務日誌」 当時、参謀本部第一部長田中新一少将(のち中将)の業務日誌] #right{(526:918)} **マリアナ沖海戦においてなんですが、陸海軍の基地航空隊は米機動部隊を攻撃しなかったんでしょうか? ビアク方面で消耗していたため、戦力が残っていなかった。 一応出撃しているが、たいした効果がなかった。 2月23日の空襲で120機を喪失。 その後、なんとか600機を整備。 ビアク襲来に反撃のため相当数をパラオ方面へ移動し、その大半である400機以上を失う。 マリアナへの直前空襲で150機を失う。 反撃可能戦力約50機。 #right{(525:948)} **アリアナ沖海戦は七面鳥打ちとか一方的に負けてますが、どうしてなんですか? >陸戦・海戦を問わず「ここで負けたら後はない」という戦いだったのに マリアナの敗戦原因は以下が挙げられると思います 軍人官僚政府にありがちな人命軽視、シビリアンコントロール欠如 1)ミッドウェーで空母の安全欠陥が判明したが「軍の外からメスが入らなかった」 米国と違い、議会主導で軍部の外に「ミッドウェー敗戦原因究明委員会」を設けて抜本的に 軍艦の安全性の総点検をしなかった。従って「ミッドウェーで問題になった箇所」 しか安全欠陥が改善されず、別の箇所の安全欠陥が露呈して空母大鳳を失った 2)零戦が燃え易いなど安全性の欠陥があったが改善されなかった これは源田など不適切な人間を指導的地位に上げた「上司主観評価」人事制度の欠陥 と、上記のように「敗戦/問題の官僚組織外からの外部監査」が不徹底だったことによる また2.26/5.15のあと軍部を批判した勢力は殺される風潮が広がり、誰も軍部を批判できなくなった 米国なら戦闘機の防弾不足は新聞に叩かれ、政治家から軍部へ改善への強い指示があった筈 だが「戦前の日本は現在以上に民主主義国ではなかった」ため軍人の人命軽視文化が支配していた その結果、マリアナの頃には多数の熟練[[パイロット]]を失っていた 3)米国と違い、飛行艇によるパイロットの救出を行わなかった 4)米英独に比べ科学者の地位が低く、軍人の技術や試作の必要性への理解度が低かった また、官僚組織は減点主義なので、新兵器を多数試作して技術優位を掴もう とするより、会議でケチをつけて自分を賢く見せようする有害な連中が跋扈 する文化であった。(これは現在にいたるも大して変わっていない) 全般的に、マリアナでは、戦術的には比較的ミスも油断も(ELV覆った事以外)なかったが、日本は米国 より軍人官僚主義の弊害が大きく、この頃になると一気に噴出していたのが国力と並ぶ敗因でしょう 現在も、「飛行機墜落の場合のような原因究明・再発防止委員会」が議会主導で開かれないで 責任はうやむやにされることは多いです。年金問題も薬害問題もそうですね また現在も、他の先進国が戦車を犠牲にしてもAPC確保している一方で陸自はAPCの装備率が低いです 改革しないとまた同じような過ちを繰り返して恥ずかしい負け方をするであろうと思われ #right{(532:872)} **珊瑚海海戦のときに、日本艦隊の攻撃隊がアメリカ側に比べて少ないのは? >空母の数で上回っていて、日本では最大級の2隻も参加してるのに、どうして少なかったんでしょうか? 空母が3隻といっても1隻は軽空母の祥鳳で戦闘に参加する前に沈められました。 これで隻数は互角。 空母のほうですが翔鶴級よりもレキシントン、ヨークタウンのほうが搭載機数自体が 多かった。さらに航空機が減ってるのは、出撃して帰還時に損傷が大きいと判断された 機体は海中に投棄されてる為。 #right{(526:549)} もともと搭載してる数が少なかったんです。 翔鶴型はたしかに搭載能力が大きく、真珠湾攻撃時には常用72機が定数でしたが、 珊瑚海海戦の際には定数が54機に減らされてしまっていました。 搭乗員が足りなかったようです。 開戦後に空母も陸上航空部隊も増えてますし、よそから借りた乗員は返さなきゃいけないし。 そのうえ戦闘で消耗し、 翔鶴が損傷して2隻分収容せねばならないこともあって、 上のレスのとおり傷ついた機体はどんどん捨てたり。 おかげで昼間の攻撃隊の数も少ないですし、作戦終了時の残存戦力が激減してるんです。 #right{(526:553:◆yoOjLET6cE*一部改編)} **連合艦隊は、あ号作戦でサイパン上陸されるのを待ってノロノロし、地上戦開始後も上陸部隊輸送船団を放置して、沖の空母をウロウロ指向したそうですが、 >これは犯罪ではないですか 主攻撃目標が敵機動部隊だったから。 まず機動部隊を撃滅してから輸送船団を攻撃するという計画だった。 機密連合艦隊命令第76号 1 連合艦隊は(…)敵進攻兵力、就中敵機動部隊を覆滅し以て敵の反抗 企図を激摧せんとす 2 本作戦を「あ号作戦」と呼称し作戦要領を別冊第1乃至第3の通定む 別冊第1 「あ」号作戦要領 作戦方針 (…)本決戦は主として昼間強襲に依り敵機動部隊を攻撃撃滅す 機動部隊「あ」号作戦計画 機動部隊作戦方針 (…)敵進攻兵力、就中敵機動部隊を覆滅し以て敵の反抗企図を激摧す 第1機動艦隊戦策 戦闘方針 (…)航空部隊の全力を挙げ機先を制し先ず敵航空母艦を撃滅し 更に 艦隊の全力を挙げて残敵を追撃し之を殲滅するを本旨とす #right{(538:125)} **大和の沖縄特攻の際、航空機の援護がなかったのは、出さなかったのか、出せなかったのか、どちらなんでしょう? 別の任務、すなわち全力特攻を行っていた。 むしろ大和は囮任務だったのだよ。 菊水1号作戦は、水上特攻と航空特攻を組み合わせたもので、 航空部隊は同時に行われた航空特攻作戦に大半が投入されていた。 それでも、水上部隊には一応の護衛をつけることになっていたが、兵力不足から断念した。 鹿屋から航続距離ギリギリまで援護があったそうだが、なにしろ空母がいないからな。 沖縄はもうほとんど制空権をとられていたし。 #right{(363:326,327,334)} **サマール沖海戦で、カサブランカ級護衛空母は最高速でも20kt無かったはずですが、なぜ数時間も追撃しておきながら1隻沈めただけで取り逃がしてしまったのでしょうか? 空母から発艦した攻撃機が、日本艦隊を執拗に攻撃した。 航空機に攻撃された日本艦隊は、どうしても攻撃機に対して回避行動を取らなければならないから、 日本艦隊とアメリカ艦隊との距離は離れていった。 爆弾や魚雷を既に投下した攻撃機も、日本艦隊に何度も擬似反復攻撃を繰り返した為、アメリカ艦隊 との距離は益々離れていった。 アメリカ艦隊を護衛していた駆逐艦も日本艦隊が驚くほど勇敢に戦い、煙幕を張って空母を逃がし、 日本艦隊に突撃して、執拗に砲撃を加えた。 この海戦は、たとえ空母艦隊が戦艦群に襲撃されても、空母側が攻撃機を発艦できたら、ほぼ互角に 戦えることを証明した海戦でした。 #right(){(344:826)} **レイテ沖海戦では壊滅している海軍航空隊ではなく、陸軍航空隊に栗田艦隊の護衛とかは頼めなかったんでしょうか? 頼むことはできたでしょうけど、拒絶されるのが関の山。 そもそもフィリピンの航空戦で、手一杯。 #right(){(俺初質スレ430:656)} **坂井三郎氏の「ミッドウェー会戦での急降下爆撃による空母被弾は上空の備えを怠ったから」という指摘は妥当なのでしょうか? >「源田が悪い。空母の上に一機ずつでも戦闘機を上げて待機させておけば防げた。 たとえ一機だけでも、 >戦闘機は爆撃機にとって怖ろしい存在なのだから」というような発言をされてたように記憶しているのですが まあ、後知恵になるけど、考えは正しい。 当時の零戦に搭載していた無線機は劣悪で、ろくに会話もできなかったくらいなので、 効果的な迎撃ができなかった。ようはワーワーサッカーとおなじで、敵を見つけて、誰かが攻撃を始めると みんなそっちに行って母艦の上空待機に回る人の割り振りができなかったのも事実。 ミッドウェーでは雷撃隊の迎撃に全機が向かってしまい高空から近づいてきた急降下爆撃機に対応できなかった。 上げてた直援戦闘機隊は低空飛行しながら雷撃態勢に入ってたデヴァステーター隊を迎撃していた。 (デヴァステーターは全滅) なので空母の「上空」はガラ空きで、その隙を突かれた事は失態だが、雷撃機は無視できない脅威だから 一概に失策とも言えない。 ただやはり上空警戒機を残して置くべきであったとは思う。 #right(){(582:694,696)} **ミッドウェーの敗因は運がとにかく悪かった? と、よく言われるミッドウェーだが 一番の原因は、何より 「こうなったら、こうする」「そうなったら、そうする」「こうもそうもならなかったら、あぁする」 という事前の作戦の詰めがもうどうしようもないくらいに甘かったこと。 そもそも 「ミッドウェー諸島を攻略すれば敵機動部隊が出張って来るだろう。そうしたらそれを叩く」 という、 「一番肝心なところが相手任せ」 の”決戦”を挑んだ所からして根本が間違ってる。 真珠湾攻撃であれだけ事前に緻密に作戦を詰めた(もっともそれが後々裏目に出た訳だが)のに ミッドウェー攻略がこうも適当なのは何故だったのか? 考えるべきはそこのところで、「運が悪かった」ではないだろうな。 #right(){(582:704)} 作戦の実施前に潜水艦部隊と空母部隊よりそれぞれ、作戦延期の提案が出てる。 理由は、潜水艦部隊は作戦決定が急で、索敵線への潜水艦の展開が間に合わない。 空母部隊からは、インド洋から帰ったばかり、さらには、真珠湾作戦の関係で凍結していた人事異動を行ったため、 部隊の休養と再訓練ができてないことが理由。 #right(){(582:707)} **真珠湾での魚雷発射ですが水深12メートルで魚雷を投下し進ませるには海面より何メートル位で投下したのでしょうか >また魚雷投下の技術?は終戦まで同じようにいったのですか? 真珠湾での魚雷発射はうろ覚えだが、 魚雷が深く沈まないように抵抗板か何かを付けてたような気がする 雷撃の例 ①機首を敵艦の艦腹方向に向け、 ②高度20メートルほどで水平飛行に入り、 ③敵艦との距離が約1000メートルの地点で投下、 ④魚雷は一旦水深15メートルほどに潜ってから[[エンジン]]を始動。 水深6~7メートルほどの所を速力30~40ノットで直進、 ⑤敵艦に炸裂する! K(攻撃)501銀河飛行隊の例 攻撃目標に近づくまでは編隊は間隔をとり約3000メートルの中高度を飛ぶ。 オートパイロットを使いながら雲層直下を巡航していた。目標を発見した 直後、巡航高度より高速で迫る。それから各機は増槽(タンク)を捨て間隔 を詰め、時速556キロの緩降下高速で単列一文字に攻撃発起点へと侵入、そのまま 高速緩降下を続け水平巡航に入る。エアブレーキを適宜使いながら魚雷は速度 463キロ、高度50メートル、距離800メートルが基準である。 離脱は全速直進、最短の時間と距離で行うように訓練したが、敵対空砲火により 雷撃機は半数から4分の3を失った。 #right(){(584:835)} **栗田艦隊のヤキ1カ電とはなんですか? レイテ沖海戦で、最終的に栗田ターンをするきっかけになったとされる電文の通称。 いわゆる北方機動部隊の出現を、「南西方面艦隊」から通知したもので、 「ヤキ1カ」というのは、スルアン灯台5度113マイル地点を示す暗号。そこに敵がいると。 この情報を受けて、突入しないでその機動部隊を攻撃しようと進路を変えたと言われる。 結果から言うと「ヤキ1カ」に該当する機動部隊は実在せず、誤報だった。 ちなみに、この電文を打ったという記録が南西方面艦隊に残ってないようで、 受信記録はあるが発信元不明という風に言われてきた。 栗田さんは、南西方面艦隊からだったとはっきり言ってる。 (今は判明してるかもしれないが、最近のことはよく知らないので) #right(){(585:64)} **エンガノ岬沖海戦で、伊勢日向は適切な航空弾幕を張って敵機を寄せ付けなかったと聞きます。これの発想や指導は誰がしたのですか? 当時の戦隊司令が松田少将で彼は大和の艦長やってたころから 回避運動や対空射撃の研究をしていました。 ちなみに日本で最初にレーダー載せたのも彼です。載せたのは日向と伊勢でした。 かなりの航空機を割いたにもかかわらず大した損害も与えられなかった航空戦艦二隻に対して ハルゼー提督は忌々しく思っていたらしくレイテ沖海戦が終わった後にも撃沈しようと機動部隊で攻撃を仕掛けますが 日本本土への輸送任務で上手く攻撃を擦り抜けた為、代わりにと言ったら変ですが輸送船団が壊滅してます。 >大和特攻の際には、この戦訓は取り入れられなかったと思います。なぜですか? 条件がかなり違うよ。天候が違うし。 空母の護衛艦として戦艦が参加した作戦と、 戦艦が目的地にたどりつくための作戦では、 攻撃側(米艦載機)の集中度もかなり違うから、戦訓だけでは評価はできないよ #right(){(334:53,58)} **ミッドウェー作戦がずさんだったのはなぜ? >山本五十六は日米の戦力差が圧倒的になる前に、アメリカ軍の航空戦力を壊滅して早期講和に持ち込むため、 >ミッドウェー作戦を強行しましたが、それほど危機感を抱いていたわりに、無計画だったのはなぜでしょうか? 構想こそあったがが、具体化したのが東京初空襲に対抗してのドサクサまぐれだったから。 だから、機動部隊からインド洋作戦から戻り凍結されてた人事異動を行ったので再訓練の時間が欲しいとか、 潜水艦部隊から、哨戒線への潜水艦の展開が間に合わないから最低半月延期しろという要望はすべて却下 して実施したから。 #right(){(586:704)} ミッドウェー作戦が帝都空襲を受けて、政治的な要請から発起された作戦だし、 ミッドウェー島の戦略的価値はさほど無かったのは事実。 あくまでも敵の機動部隊をつり出して決戦を図るためのもの。 でも作戦自体は言うほどずさんじゃなかったと思うよ。 帝国海軍の戦力を集結し、米艦隊より大きな戦力でぶつかることに成功してるんだから。 負けたのは[[情報戦]]、判断のミス。あと確かに運も悪かった。 あと帝国海軍の決戦思想なんかもあるけど、普通に戦争が長引けば必ず負けるから投機的な作戦に打って出ざるを得ないというのもまた現実だな。 #right(){(586:モッティ ◆uSDglizB3o)} 珊瑚海海戦に参加した五航戦は 真珠湾攻撃のため開戦少し前に編成されたばかりで練度が比較的低く ミッドウェーに参加する二航戦航空隊からは「妾の子」呼ばわりされて侮られていた。 その「妾の子」ですら2対2の空母戦で勝てているんだから ミッドウェーは楽に勝てるという油断があった。 そして海軍は珊瑚海海戦で米空母2隻撃沈と報告を受けていたから ミッドウェーでは米空母が出てきても2隻が限度だと考えていた。 2隻+ミッドウェー基地航空隊なら、日本の4空母の航空戦力の方が優勢だから 怖るるに足らずという意識。 #right(){(588:264)} **坊ノ岬沖海戦で大和を含めた全10隻撃沈されなかったのは何故? >http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/BattleShip_Yamato14.htm 大和撃沈で米軍の作戦目敵を達成したからです。 あとの残敵掃討をやってると沖縄上陸軍の支援に支障をきたす事や、 残敵掃討中の隙を突いて特攻機が飛び込んでくる恐れがあったか らです。 #right(){(333:9)} **レイテ沖海戦では、第一遊撃部隊はブルネイからレイテまでの遠距離を踏破しなければいけないわけですが、駆逐艦等の小型艦の燃料が切れたら、戦艦から補給する予定だったんでしょうか? 問題になるとすれば一番航続力の短い松型かと思われますが、 16ノットで3500海里走れますので、ブルネイで燃料満載できれば問題ないかと思われます。 ブルネイ-レイテ-ブルネイの行程は目分量ですがだいたい1400海里程度かと。 戦闘行動その他を見越して航続距離を半分としても、少しばかり余裕があります。 #right(){(328:22)} **レイテ沖海戦時って日本艦艇の練度は低下していたんか? >面白いぐらい撃沈されてるし そのころには対艦兵器の攻撃力のインフレが凄まじかった。 たとえば航空魚雷は、マレー沖海戦で陸攻が用いたのが九一式改航空魚雷だったが これは弾頭炸薬量がTNT250kg相当(当時の英海軍の航空魚雷がTNT170kg相当)で、 POWやレパルスを数発の被雷で沈めたように戦艦を撃沈するのに十分な威力の魚雷だった。 英戦艦はロイヤルオークやバーラムが[[Uボート]]のTNT300kg相当の魚雷3~4発で轟沈しているから 当時の戦艦はTNT250~300kg相当の魚雷には全く無力だったというべき。 これがレイテ沖で米軍が使用した航空魚雷MK13になると トルペックス新式炸薬を弾頭に250kg用いたTNT換算400~500kgという 命中したら装甲を隔壁ごと破壊する凄まじいものになる。 潜水艦や艦船用の魚雷になるとさらに強力で、 日本は損傷を元にこれらの魚雷の破壊エネルギーを計算すると あまりの威力に「同一箇所に2発同時に命中した」んじゃないかと疑うほどだった。 #right(){(603:371)} **レイテ沖海戦で、何故大日本帝國海軍は、米上陸船団や輸送船団ではなく、主力艦隊を狙ったんですか? 作戦実施前に主目標が上陸部隊の輸送船とGF司令部から指令を受けてる。 もっともその際に、好機があれば米軍の主力艦を攻撃してもよいとの許可も与えてる。 主力部隊を追っかけたのは、上陸開始から時間がかなり経過してるので、上陸部隊の 輸送船はすでに荷揚げを終え、空船だからこれを攻撃するよりはと追っかけただけ。 ソロモン海戦なんかの失敗を繰り返さないために、連合艦隊司令部は珍しく? この点に 関しては気を使った。 もっとも豊田副武は栗田を信用してなかったこともあって艦隊出撃後も何度も「作戦目的について」 再三通信文で念を押し、栗田始め艦隊首脳部にウザがられたけど。 宇垣纏は日記に「過去の失敗を繰り返すなというのはわかるが執拗すぎる」「そんなに中央は現場を 信用していないのか」と何度も書いていたりする。 #right(){(609:252,269)} **パールハーバー奇襲で燃料補給タンクを破壊しなかったのが問題だったという説 アメリカとしては、空母と巡洋艦戦力が健在なので、たとえ燃料タンクが破壊されても 代替設備を建設する間、ハワイ諸島の他の泊地、港湾を利用して、そこにアメリカの 豊富なタンカーを回し、燃料タンク代わりにするだけなので、あまり意味がない。 またそもそも南雲艦隊が抱えていった爆弾の総量を考えても一部は破壊できても全部の破壊は無理。 何せ、破壊の検討をしたことが無いので、効果的な爆撃コースや目標の選定が出来ない。 さらに言うと第1次攻撃第1波、第2波で湾内が黒煙で爆撃目標確認が困難。 #right(){(609:247)} 「450万バーレルの根燃料が保存されていた燃料タンク基地が、手つかずのままで残った。これが破壊されていれば、 艦隊は本土西岸へ後退せざるをえなかったあろう。このほか、必要不可欠の修理施設が目こぼしにあずかり、 対日反抗の先陣をうけたまわることになる潜水艦の根拠地が敵の攻撃をまぬかれた」。 上記は、提督ニミッツ (1979年) [古書] (-) E.B.ポッター (著), 南郷 洋一郎 (翻訳)の一節です。 原著の発行元は、[[アメリカ海軍]]協会です。 著者は、アメリカ海軍兵学校歴史学部教授です。 450万バーレルの燃料の量の感覚が、霞ヶ浦の住人には掴めません。 検索してみて、日本海軍全体で1942年に消費して重油の約3分の1だと、分かりました。 下記、石油関連データの石油製品消費量推移(本土内、単位:1000バレル、1945年は4-9月)を参照ください。 http://www.geocities.jp/eiji96301045/oil.htm #right(){(609:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)} 当時保存されていたのは、450万バーレルです。 太平洋艦隊が保有していたタンカーは、7万バーレルです。 同じ量の燃料を蓄えるためには、64倍のタンカーを必要とします。 #right(){(611:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)} >開戦当初は、ドイツのUボートの活躍により、タンカー不足になっています。 シマロン級だけで8隻、他にT2型タンカーだけで10隻以上開戦と同時に海軍に買収されてます。 ようは、開戦時真珠湾にいたのが1隻だけだったという話でアメリカには、軍を除いても民間にタンカーが 存在しそれを順次海軍が買収しているので、史実以上に真珠湾の機能麻痺は望めません。 #right(){(611:192,210)} **真珠湾奇襲攻撃により沈められた米艦船は、その後修理されて戦列に復帰したそうですが、これは日本の想定内だったのでしょうか? 当然、範囲内。真珠湾の水深と港の使い勝手を考えると、引き揚げて放置するなり、 修理して使うなりは想定の範囲内。 あの三笠でさえ沈んだ後引き揚げて使ってたリサイクル戦艦だぞ。 #right(){(315:112)} **ミッドウェーでは索敵、偵察が不十分だったのがああなった原因の一つって聞いたんですけど、確か日本軍はわざわざ艦上偵察機作ってましたよね? >偵察にはそれなりに力入れてたんじゃないの? 索敵なら、巡洋艦、戦艦から、水上偵察機、空母から、艦攻と合計で、12機ほど出してる。 筑摩機がアメリカの空母を見逃し、[[カタパルト]]の不調から発進が遅れた利根機で索敵計画が狂った コースを進み偶然発見するも機動部隊の位置、構成を間違えて報告した、はっきり言って不運によるもの。 #right(){(641:610)} ミッドウェー海戦の敗北は「偵察が不十分だった」ってのは 宇垣連合艦隊参謀長が言ったことだが 敗北そのものは単純に偵察機を飛ばすのが不足してたってだけじゃなく 情報戦からして戦闘前に既に不利な状態にあったことが原因でもあり 同時にこの海戦の作戦自体、強引で無理があるのも指摘されてる そして、宇垣参謀長は同時に「程度は別としてわが企図が敵に判っていた疑いがある」 と述べており、日本軍の暗号が解読されて米軍に行動が筒抜けだったのも大きい あと、海戦の前にマーシャル諸島南方で空母を発見しているが これの所在位置についての判断を誤ったのもある また、潜水艦索敵網にも日本軍は不備があったし 空母艦載機を索敵に多用すると当然、攻撃機は不足する 偵察専用機を艦載すればやっぱり攻撃機はその分減るし同じ事 それに、元々日本海軍は空母艦載機の偵察機数より 巡洋艦からの水上機による偵察を主にしていたし、空母搭載艦上偵察機は重視して無い 彩雲は一時期思いついてとりあえず作ってみたけど、実際に艦上運用するのはやっぱり取りやめてしまったって事 #right(){(641:611)} **マレー沖海戦で英国軍が誇る新型の対空火器であるポムポム砲が、低速な上に防弾装備が貧弱な日本の双発爆撃機相手に、ほとんど威力を発揮できなかったのは何故なんでしょうか? 一般に言われてるのは、低速な雷撃機を想定してたせいで、 高速な雷撃機に対しての命中率が低かったからとか。 弾幕射撃は艦艇、砲の数が揃わないと効果が薄い。 マレー沖ではそのどちらも満たしていない。 後、ポムポム砲はでかいから追従性が悪い。 この砲は口径が40mmと一見、強力そうだが有効射程が短く、 弾道特性も悪いために実際は当らなかった。 さらに、射撃中に弾体と薬莢が分解して頻繁に弾詰まりを起こすと言う悪癖を持っていた。 主なデータではマレー沖海戦によるプリンス・オヴ・ウェールズ搭載のポムポム砲は一基だけで12回も故障を起こし、 もう一基も8回も射撃中止に陥った。 #right(){(303:522-529)} **ビスマルク沖海戦で100機も護衛機を付けてもらったのに輸送船は全滅、護衛駆逐艦の半分は喪失とは、木村昌福は無能では? ビスマルク沖海戦に関しては、事前に航空優勢を確保できなかったにも拘らず、 運任せで作戦を強行した杜撰な作戦計画が問題。 連合軍の航空戦力が圧倒的に優勢なあの状況なら、誰が輸送船団指揮しても全滅する。 木村昌福が名将と言われるのは、キスカとレイテとミンドロでの困難な作戦を成功させたことによる。 #right(){(645:875)} **真珠湾攻撃のときの南雲部隊の艦船攻撃なのですが、なぜ日本側の戦果確認の報告と米軍側の発表とが一致しないのですか? ・[[日本側]]の「確認」は、飛行中の航空機(しかも下方視界はそれほどよくない)からの目視によるもの であること ・米軍側は魚雷に関しては事後の修理の途中で確認が取れているものの、爆弾の投弾数に関しては正確 な記録など望むべくもないこと ・戦場に付きものの戦果誤認など を考え合わせれば、「どれが本当の数字か」なんて神様でもなけりゃ分かりません。まあ被雷数に関し て言えば米軍側がより信憑性が置けそうという程度でしょう。 (にしても被害程度の算出誤認による被雷数の数え間違いは当然あるはず) #right(){(301:264)} **長門はなんで大和と共に海上特攻をしなかったのですか? 何とか自力航行可能な状態ではあったが、とても戦闘可能な整備状態ではなかったよ。 無傷ってわけでもなく、中破に近い状況だったし。 戦後接収後の長門の写真は米軍撮影のものが残っているので、それを見てみれば終戦時期の 長門の状況は把握できるかと。 #right(){(298:890)} **ミッドウェー海戦では空母4隻沈められましたが、この時点で空母搭乗員の再養成は不可能でしたか? 不可能。てか、手遅れ。 日本海軍の予科練だと、最初は3年、短縮されて2年を養成に費やす。米海軍は12ヶ月で 空母搭乗員にしたらしいけど、あっちは自家用車を乗り回す大学生が大量に志願している のだから、教育の根本部分での手間数が違う。 予科練だと最初期は年間80名とかの養成人員で、開戦時に搭乗員がひっくるめても5000 名強の規模でしかない。昭和17年で8000名、昭和18年で4万4000名を募集しているが、同 時期に5万人以上のの練習生が在籍しているのに練習機が1000機に満たないとかで、養 成もへったくれもない。 昭和19年になると予科練で12万近い人数を集めているが、それに見合うだけの教育環境が 無い。練習飛行隊を19箇所に増やしても、1箇所あたりで練習生が5000人以上、どんなマン モス大学だよという話だし、増強されて帳簿上では1600機の練習機でも1機あたりで、70人と か80人になる。予科練出身なのに穴掘りしかしていなかったと語る人が多いのはそのため。 戦没者で見るなら、一般から集めた甲飛乙飛なら昭和17年までの入隊、海軍内部から丙飛 であれば昭和18年までが多く、それ以降の募集では極端に…6パーセントとか、0.5パーセン トとか…低くなる。戦場に出るだけの、あるいは特攻に出すだけの訓練でさえできていなかっ たことの証明ともなる。なので。 #right(){(669:ふみ ◆Y.QUKJBduY)} **ミッドウェーで受けたダメージはパイロット予備軍となる人材の絶対数が少なかった日本にとっては痛恨だった? >戦間期の航空産業従事者およそ5600人。英伊でもそれぞれ3万2千人だってのに 最近知られるようになってきましたがミッドウェーのパイロット損耗は100名程度で いかに日本軍であっても補充に苦労する数字ではありません。 決定的に問題だったのはやはり空母という動く飛行場をなくし 柔軟な作戦運用が不可能になったことです。 つまり、戦略的な主導権を握れなくなったのです。 以後の日本軍は歴史が示す通り、連合軍の動向に対応する「受身」の形でしか作戦を展開できなくなります。 #right(){(673:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)} **日本軍がパールハーバーにいると思われた米空母を全艦撃沈出来たとしたら、残りの米空母は何隻あったのでしょうか? そもそも太平洋艦隊所属の空母が、エンタープライズ、レキシントン、サラトガの3隻。 ハワイで活動してたのがエンタープライズとレキシントンの2隻。 大西洋艦隊に、ホーネット、ヨークタウン、ワスプ、レンジャーの4隻. というわけで、答えは5隻になります。 #right(){(291:476)} **FS作戦は1942年7月11日に中止が正式決定されたのですよね? FSは7月1日をもって「一時取止メ」となります。 具体的には7月6日の「作戦指導砲身変更ノ経緯説明覚」にあり 別紙第三 作戦指導方針 五 >F作戦はインド洋方面の積極的交通破壊戦終了し 「モレスビー」攻略後の「ニューギニヤ」方面航空戦進展の状況 >並に航空機増産の状況を見定め 且当時の敵情を考慮し概ね本年十二月以降之が開始を企図するものとし所要の作戦準備を促進す また >F作戦の必要性は将来減少することなしとの見解にして抜本的に豪州攻略の可能性生ぜざる限り之が攻略の企図は >飽迄も之を放棄せざるものなり として全く諦めてません。 当面はインド洋方面で攻勢を展開し、将来に備えてラバウル周辺の地歩を固めておく、構想の一環がガ島飛行場建設で、 このあたりの経緯・詳細は「SN作戦」を調べるとわかります。 その中でもガ島の飛行場は日本軍前進基地としてのツラギ泊地の防空と、連合軍艦隊への哨戒を主眼とした攻勢的な目的を有しています。 #right(){(673:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)} **ミッドウェーについて、加賀/蒼龍は雷撃処分だったのですか? 戦闘詳報の記述が正しいとすれば、加賀も蒼龍も引火爆発で沈んでおり、雷撃処分はしてません。 詳報そのものの信憑性が疑われている状態なので、 結論は検証を終えないと出そうにありません。 蒼龍の場合は、飛行長さんが何度か決死隊を組んで消火を試みたものの 救助した駆逐艦が認めなかったようです。 米軍記録も、ノーチラスの加賀雷撃など未確認戦果を載せてるあたり 詳報と同様に100%の信憑性はありません。あくまでも有力な情報の一つにすぎません。 #right(){(289:携帯鷂 ◆exxupUqotM)} **レイテ沖海戦において、日本側の潜水艦が不活発だった理由は何だったのでしょうか? >アメリカの潜水艦は重巡を2隻も撃沈したりして大きな戦果を挙げましたが 日本海軍の潜水艦運用に根本的な欠陥があったのが原因です。 わが海軍において潜水艦は敵艦隊の予想進路上に散開線をはり、敵艦隊の移動に合わせて 水上高速で進出して攻撃を反復する方法が取られていました。 しかしこの作戦は潜水艦の行動をすべて司令部が電報によりコントロールするように 定められており、他国の潜水艦のような艦長の裁量に任せた指揮が取れず 移動中の通信を傍受されて早々に撃沈される悲劇が相次ぐこととなりました。 さらにガ島方面での輸送任務により多数の潜水艦を喪失し、集中運用が難しくなっています。 レイテ沖海戦の際は14隻の潜水艦が参加しましたが、散開線配備方式は続いており、 戦果は伊41潜がルソン東方海面で軽巡レノを雷撃、大破させた程度で我が方は 6隻の潜水艦を喪失しています。 #right(){(288:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} 19年10月の保有数そのものが、伊号19隻(丁型除く)・呂号8隻しかありません。 実際にフィリピンへ出撃したのが伊号8隻・呂号6隻。 回天訓練中の3隻はともかく、残る8隻は老朽または損傷。 14隻でも目いっぱいの投資です。 そのうち伊号4隻・呂号1隻がフィリピン東海上で喪失。多くはDD・DEの戦果です。 ちなみに、無事に内地へ帰って次の作戦に出られたのは、伊号2隻・呂号5隻に過ぎません。 要は駒そのものが少なく、米軍の対潜能力が高すぎたのですね。 #right(){(288:携帯鷂 ◆exxupUqotM)} **真珠湾攻撃に置いて民間人が日本軍によって殺されたのは事実ですか? 誰も巻き添えが出ていないかどうかは不明。 ただし、当日真珠湾及び周辺の地域で発生した巻き添え被害のほとんどは 海軍艦艇や高射砲/対空機銃が見境無しにぶっ放した弾の流れ弾。 艦名は忘れたが、低空飛行する[[日本軍機]]を対空機銃水平撃ちしてた脇の艦に 銃撃されて上部構造物くまなく”縫われた”駆逐艦があったりして、米軍は 流れ弾で相当の被害を出している。 でもそれらは皆被害報告で「日本軍機の銃撃」とか「日本軍機の爆撃」と 処理されてるので、本当にどこまで日本軍機に攻撃されて被害が出たのかは 今だに不明なまま。 ホノルル市に落ちた不発弾てのも、高射砲のやつだしな #right(){(287:714-717)} **大和の特攻の時に、アメリカ海軍には戦艦同士のガチンコ勝負を行うよう命令があったけど、空母機動部隊にフライングされて妨害されたのですよね? さらに上の司令部から、 「戦艦部隊は間に合わないから、空母部隊が攻撃しろ」 という正式の命令が出ています。 #right(){(287:846)} **ソロモン海戦において、アメリカ側が新型戦艦を温存して豊富にある旧式戦艦を出動させる方針を取らなかったのはなぜ? 太平洋艦隊配備の旧式戦艦は改装中で新型戦艦しか投入出来なかったから。 #right(){(俺初質スレ2048:10)} ----