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戦中関連3 - (2012/04/24 (火) 00:36:17) の1つ前との変更点

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#contents ---- **手榴弾による自決は存在したんですか? 光人社の戦記物読むと、脱落兵の手榴弾自殺は頻繁にあったことがわかります。 #right(){(54:421} **シンガポール攻略の際の山下中将の態度はどんなものだったんでしょうか。 パージバルが降伏に際して色々要求を出しごねたらしく 山下将軍が「イエスかノーかどちらなのか?」と返答したところを マスコミが大げさに書いたのです。 #right(){(57:669)} **旧日本軍におけるブービートラップ使用の実態はどうだったのでしょうか? トラップの類は正規の記録には殆ど載らないので、戦記あたりから類推することが多くなりますが、 日本軍によるブービートラップの使用は、連合軍側の記録にはかなりよく見られます。 ただ、パンツァーファウストの様な簡易対戦車兵器は日本には無いですから、 自分が知る範囲では、もっぱら爆薬による物です。 日本軍の手榴弾は発火方式の都合で、このような使い方にはあまり向いていませんが、 爆弾や地雷を改造したものを使用したとの記述もあります。 ttp://www.pacificwrecks.com/provinces/png_alexishafen.html 捕獲した米英の手榴弾も、利用されたかもしれません(この部分は想像)。 アメリカ兵の戦利品コレクション癖に気付いた日本軍は、 彼らが喜ぶ日本刀や日の丸に、よくトラップを仕掛けたそうです。 友軍の死体に爆薬を仕掛けると言うのは、欧米人には理解し難い事だったようですが、 当時はキリスト教的道徳観のない日本軍の方が、米英兵よりもトラップの類を多く用いたというような話も聞きます。 #right(){(57:590)} **戦中の食糧不足に関して教えて下さい。 大井篤氏の海上護衛戦・文庫版第八章-30 空腹・降伏より転載 戦前から、日本内地は食料所要量(国民一人当たり2165カロリー平均として)の約八割を国内生産でまかなうことができただけで、 残りの二割の分は海外からの輸入に依存していた。 ところが戦時中の船舶の損失によって輸入食料は減少の一途をたどった。 (ここで表、一部のみ書く。食料輸入量14・4~15・3:2793→18・4~19・3:1871→19・4~20・3:1188 以上1000kg単位) この輸入減を国内生産の増加によってまかなうなどという事は、もちろん、出来るはずも無い。 戦争中の食糧生産量は次のB表(省略)の通りで、昭和十九年までは、大きな減少もないが、増加もなかった。 (中略) 輸入減によって減らされる部分は、食料の生産者で無い都会地の住民に多くかぶってくる。 日本の食料統制はドイツやイギリスに比べると拙劣だったから、それが闇を刺激し、それからそれへと悪循環を生んだ。 (中略) われわれの記憶に新しいように、食糧事情は昭和十八年の夏には相当既に悪化していた。 翌十九年には闇が深刻化してきた。 十九年の全国食糧消費から計算すると、国民一人一日当たりのカロリー摂取量は1900平均に落ちていた 以上p431-432 七月上旬の閣議で、主食の一割減配が議論された。 食料輸入の前途は真っ暗どころか、壁に突き当たった格好だ。 オガクズやモミガラで粉食をつくって食べねばならぬところまで来ている p419-420 #right(){(205:933)} ・戦後の混乱期は食料不足に苦しんだが,当時は食料を生産する農村のほうが  都市に比べて食料の入手に恵まれており,栄養水準は上位にあった. ・終戦直後は食料生産の低下や外地からの引揚げ等による人口増により,全国  的に飢餓と栄養失調が蔓延し,極めて深刻な食料不足になった. ttp://www.f4.dion.ne.jp/~eisan/koushuueiyou.htm 公衆栄養学という学問で教えている「歴史」ね。 #right(){(205:ふみ)} うちの母方は大阪近郊で空襲に遭い、焼け出されたのだが、経営していた会社からの 支援があったので、路頭に迷うことが無かった。 ちなみに、当時の西宮は阪急から北についてはほぼ農業地帯だったので、食料は十分 にありました。 但し、うちの曾祖父は、贅沢三昧が祟り、配給では食っていけなくなったので、結核を患い、 敗戦の翌年には亡くなっています。 後、清沢洌の暗黒日記(3巻P.164~東京大空襲の件) 「甥の笠原貞夫は出征しており、その妻が三人の子供を抱えて焼け出されたのは先にも書いたが、  修司が区役所に行くと、「縁故疎開の外はどうにもならぬ」と一向に受け付けない。  貰ったのが、五日分の食料切符と汽車無賃乗車券のみである。  仕方がないから丸ビルの地下室に連れてきて、信州に送るという。  布団二枚を自転車に積んで連れてきた。  国家の羅災者救助というのは、五日分の米と醤油だけだ。」 これが東京の状況。 神戸や大阪も同様だったかと思います。 後、流言・投書の太平洋戦争の第五章辺り興味深いですよ。 >野坂は飢えがひどくて犬殺して食ったらしいけどな。同じ神戸でもえらい違いだな そりゃ、技能を持ってたり、資本や工場を持ってたりする人々と、それが無い人々との生活の差は戦時下には 結構ありますが、一概には言えんでしょう。 例えば、父方の曾祖父は医者でしたから、開業医として近隣の農家の人々を診ていました。 なので、その御礼というか、薬代代わりに食料を得ることも可能ですし、元居た会社から、部下や世話をした 人が南方からの土産品として、バナナとか甘味料を持ってきてくれ、それを近隣の農家に分けて、代わりに 食料を補填してましたし。 母方の方は会社が重要会社だったので、その辺から手を回して、配給だけは途切れさせなかったですし。 それらが無い、または無くなった人々は大変な生活になっているのではないか、と思いますよ。 例によって蛇足ですが、戦略爆撃調査団の調査で、「個人的に戦争継続を望まなかった理由」の中に、「消費物資欠乏のため」 を言う回答選択肢があります。 この回答では、大規模な爆撃で高度に破壊された大都市の住民の場合、14%の人がその選択肢を選択しています。 同じように破壊された中小都市ではこの比率は11%、軽度に破壊された中小都市で9%、意外に、東京が8%と低く、 小規模爆撃があったか、爆撃を受けなかった都市では13%、田園共同体で19%、都市疎開者では14%となっています。 このアンケートを見る限り、東京の住民は消費物資の欠乏に苦しめられてた感じではなかったりします。 東京は首都であり、交通の結節点であり、統制経済の中心であることから、意外に物資の集積が行われたのではないか、 と言う話もあります。 一方で、田園共同体、即ち、田舎の方では物資を都会に供出したことで、相当物資不足に苦しんだと言う話もあります。 例えば、子供に対する加配はなく、学校給食もないので、子供一人当たりの配給量は一日当たり米一合ほど東京より少なく、 油、酒の配給は東京の1/3、魚、海苔、豆腐の配給はなく、況や、薪炭の配給もないと言う話もあったりします。 #right(){(205:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **戦時中の労働者の給料はどれぐらいだったんでしょう? 20歳未満の航空機産業従事者で、男性は平均時給26.1銭、女性は22.7銭。 30歳以上となると、男性が50銭以上、女性は33.7銭。 ちなみに厚生省が定めた最低時間割賃金は、航空機産業で20歳未満の第三級労務者(非熟練工)で、男性13.3銭、女性10.6銭。 ただ、固定給部分が低く抑えられ、加給部分が大きいから格差は更に拡大。 男性なら加給率200%も珍しくない。 ちなみに、挺身隊員の場合は、給与ではなく謝金とされ、最初の三ヶ月は8時間労働で日給0.75円~1.15円だった。 #right(){(しょうもない知識を披露するスレ10:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **戦時中の日本は金属回収をやってたそうですが、どんな金属が回収されたの? 金属回収で、エレベータの鉄の籠まで供出したりしたのは結構有名。 他に、金の供出、銀製品の回収、白金回収もやっていた。 このほか、木炭を包んだ俵、それを縛った紐、棕櫚の皮も回収の対象。 茶殻は馬糧にする運動も行われている。 更に、1944年末以降、綿製品、特に布団類の回収と言うのも行われている。 これは、綿火薬の原料にするためだったりする。 1945年からはアルミ貨の回収も進んだり。 ・金属製品家庭等回収実施要領(長野県の場合) 回収の対象…官庁、公共団体、一般家庭及び非指定施設の保有するアルミニウム(アルマイトを含む)製品、 鉄鋼製品、銅製品、鉛製品、アンチモン製品、錫製品など全金属製品に付き廃品は不要、 不急品代替容易なるものを主とするも、現用品も極力圧縮回収す。 回収物件…鉄鋼、銅、鉛、アンチモン、錫などにして従来の回収物件の残存物件全部。 アルミニウム製品は、戦時家庭生活の維持に必要なる最低量の器具を除き、全部供出。  アルミニウムに関する供出物件 全量回収 → 喫煙用器具、文房具、化粧用品、花器、電灯笠、茶器、置物他装飾品、 玩具、箸、箸箱、帽子掛、押板、蹴板、階段滑止め、ローソク立、盆、コップ、其の他廃品類 仕様を極力圧縮して供出 → 鍋釜類、湯沸、弁当箱、水筒、其の他厨房用品  対価(但し献納を妨げず)    アルミニウム → 1貫(3.75kg)に付15円    鉄        → 同 2円    銅及び銅合金 → 同 20円    鉛、アンチモン → 同 20円    錫及び錫合金 → 同 50円 こうして回収された金属製品だったが、その対価の支払いは、戦力増強用の貯金に回され、 各人の手に渡ることがなかった。 #right(){(しょうもない知識を披露するスレ10:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **本土決戦のために弓矢を装備した部隊があったそうですが。 1945年の末期的症状の日本。 西部軍は本土上陸を想定した場合、待ち伏せ襲撃、夜間襲撃、破壊活動を行うために700~800名の兵士からなる、 70~80のゲリラ戦部隊を確保していた。 既に民間の防衛団に対し、200本の弓、800本の矢を引渡し、更に800本の矢を司令部にて保管していた。 その威力を確かめるべく、1945年8月10日、連合国側兵士8人の処刑の際、1人に対して矢を15本用いたが、 失敗し、結局、袈裟懸けした後、斬首をせざるを得なかった。 なお、本土上陸に対抗するため、弓矢を用いるほかに、一般人を装って空手で敵軍兵士に攻撃を加えると言う ことも考えられ、この処刑の際に、2名に対して1人は6名が空手で、残りの1人は10名が空手で攻撃を掛けたが、 これにも失敗して、結局2人とも斬首せざるを得なかった。 #right(){(しょうもない知識を披露するスレ11:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **戦時経済について知りたいです。 >財政と戦争の観点から太平洋戦争を論んじた本てあるの? >日本が戦争で勝っていても国債と軍票の払い戻しで超インフレは免れず、国は潰れていただろうと思うんだけど。 昭和財政史がありますけど、お手軽なのは、多田井喜生氏の著書でしょう。 東洋経済新報社から1997年に出版された、「大陸に渡った円の興亡」、PHP新書で2002年に 出版された、「朝鮮銀行-ある円通貨圏の興亡」なんか、その辺の事を分かり易く記しています。 軍票は占領地域に於ける軍人軍属の棒給以外に、現地人への一時的な支払いに充てる為に使用されたので、 占領が一定期間に及ぶと回収されます。 例えば、満州では、満州中央銀行券、華北では、日華事変当初は朝鮮銀行券、後には河北銀行券を経て、 中国連合準備銀行券、華南では軍票から中央儲備銀行券、フィリピン、インドネシア、マラヤ、北ボルネオでは、 軍票から南方開発金庫券、インドシナでは、印度支那銀行券ピアストル貨、タイでは、泰国銀行バーツ貨と なっています。 軍票がほぼずっと使用されていたのは、華中地域で、最初は日銀券が使われ、以降は軍票が使用されました。 占領区域では、各地域毎の独立会計として、日本の財政とは切り離され、財政の自立を図っています。 租税は占領前を基準に課税し、不足分は南方開発金庫からの借り入れと、臨時軍事費からの補給金に拠って 補填されています。 これに加えて、現地での作戦費用に関しても、日本の財政に直接影響を与えないようになっています。 例えば、南方開発金庫は、営業資金を臨時軍事費特別会計から借り入れますが、それは各地域の現地通貨表示の 軍票で借り入れ、これを資源開発事業や現地日本側銀行を通じて貸し付け、企業は軍に納品したものを軍票で受取、 南方開発金庫に返済、南方開発金庫は、これを臨時軍事費特別会計の借り入れ返済に充てていました。 中国地域でもこれは同じで、日本銀行から、正金銀行を経由して臨時特別費特別会計が支出されると、 朝鮮銀行東京支店に送金されます。 引き替えに、朝鮮銀行東京支店は、同額の国債を日銀から購入します。 これで、収支は相償い、朝鮮銀行東京支店は、北京支店にこの日銀から支出された軍事費を送金します。 朝鮮銀行北京支店には、中国連合準備銀行名義の預金口座があり、送金を受けた金額を、預金口座に貸記します。 中国連合準備銀行にも、朝鮮銀行名義の預金口座があり、送金額と同額を預金口座に貸記します。 これで、現金が動くことなく、いわば架空預金の遣り取り(預け合い契約)となっていました。 でもって、現地軍は、中国連合準備銀行にある、朝鮮銀行の預金口座から、連銀券で支払いを受ける、と。 つまり、円は全然発行されず、連銀券だけが無闇に発行されるという仕組みです。 これと同じ契約は、横浜正金銀行と中央儲備銀行との間、朝鮮銀行と正金銀行との間に結ばれており、 中国地域のインフレ進行は加速された訳です。 敗戦間際の1945年、外資金庫が設立されます。 これは、大蔵省次官を理事長、主計局長、外資局長、日銀、正金、鮮銀、南発の代表者を理事として、 本店を大蔵省外資局内に置き、代理店を正金銀行上海支店、張家口支店内、朝鮮銀行北京支店内、 南方開発金庫各支店内に置いた上、本店業務は大蔵省外資局が行いました。 これは、実態のない帳簿上の金融機関で、臨時軍事費特別会計中の物件費支払いの際、予算金額 では、現地がインフレの為に到底間に合わないので、予算の10~30倍、最終的には130倍近くに上る 差額を価格調整金の名目で、支払う為に、作られた金融機関です。 Bubble崩壊後のRSECですっけ、そんな香具師の嚆矢でつね。 この金額決済は、例によって、預け合いで最終的に5,000億円を決済しました。 これらの清算は最終的に、正金銀行が、天津相場を基準にして、上海に持っていた金塊約50トンを売り抜け て、日本側の債務を全て弁済したことにしています。 これで、戦後の大陸のインフレをモロに被らなくて済んだ訳です。 要は高い時に借りた金を、安くなって現地通貨が紙くずと化しつつある時に返済した、と言う訳です。 ちなみに、日本人の認識では、「我が国に皇室のおわします限り、幾ら紙幣を増発してもインフレにならぬ」 とか、「公債の発行は無限に出来る」と言う「皇国国債観」、と言うのが罷り通っていたり。 無茶苦茶で御座いますわな。 #right(){(軍票スレ:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **石油不足に対して日本はどんな代替燃料を使用していたの? J・B・コーヘン著「戦時戦後の日本経済」より引用。 「大豆油、落花生油、椰子油、及びひまし油が産業用に使用された。  メタノール、エタノール及びアセトンがガソリンに代用された。  ブタノールはイソオクタン原料としても使われ、また直接ガソリンに混用された。  潤滑油は各種の植物油又は脂肪から造られた。  民間の馬鈴薯、砂糖、酒等のストックはアルコール燃料として引き上げられた。  生ゴムから油を採ることも行われた。  絶望的になった海軍は夢想的な松根油計画に着手した。  『二百の松根は一機を一時間飛ばすことが出来る』というスローガンの下に全国民を  松根堀に駆り出した。  約34,000の釜や蒸留器や小さな蒸留装置が準備され、各一日3~4ガロンの粗油を  出すように計画された。  これに要する労力は驚くべきものであった。  松根油1ガロンの生産に2.5日の労力が要った。  この計画の絶頂では一日当たり12,000バレルの粗油を予定していたから、一日当たり  125万人を要するはずであった。  1945年6月には、松根粗油の月産は70,000バレルに達していたが、精製上の難点は解決  されていなかった。  終戦時までに航空機用の予定で生産されたガソリンは3,000バレルに過ぎず、それも実際  に飛行機に実用した形跡は無かった。  合衆国陸軍が試験的にジープで使ってみると、数日にしてエンジンが止まって使い物に  ならなくなった。」 毛沢東の村営溶鉱炉を我々は笑えんです。 #right(){(泣ける話@軍事板第4章::眠い人 ◆ikaJHtf2)} ----
#contents ---- **手榴弾による自決は存在したんですか? 光人社の戦記物読むと、脱落兵の手榴弾自殺は頻繁にあったことがわかります。 #right(){(54:421} **シンガポール攻略の際の山下中将の態度はどんなものだったんでしょうか。 パージバルが降伏に際して色々要求を出しごねたらしく 山下将軍が「イエスかノーかどちらなのか?」と返答したところを マスコミが大げさに書いたのです。 #right(){(57:669)} **旧日本軍におけるブービートラップ使用の実態はどうだったのでしょうか? トラップの類は正規の記録には殆ど載らないので、戦記あたりから類推することが多くなりますが、 日本軍によるブービートラップの使用は、連合軍側の記録にはかなりよく見られます。 ただ、パンツァーファウストの様な簡易対戦車兵器は日本には無いですから、 自分が知る範囲では、もっぱら爆薬による物です。 日本軍の手榴弾は発火方式の都合で、このような使い方にはあまり向いていませんが、 爆弾や地雷を改造したものを使用したとの記述もあります。 ttp://www.pacificwrecks.com/provinces/png_alexishafen.html 捕獲した米英の手榴弾も、利用されたかもしれません(この部分は想像)。 アメリカ兵の戦利品コレクション癖に気付いた日本軍は、 彼らが喜ぶ日本刀や日の丸に、よくトラップを仕掛けたそうです。 友軍の死体に爆薬を仕掛けると言うのは、欧米人には理解し難い事だったようですが、 当時はキリスト教的道徳観のない日本軍の方が、米英兵よりもトラップの類を多く用いたというような話も聞きます。 #right(){(57:590)} **沖縄戦で、米軍に降伏する際に使用したと思われるビラ(旗?)について知りたいのですが 大戦末期は、白旗を振ったり、手を頭の上に乗せるだけでは、米軍、英軍は信用しなかったそうです。 日本軍の、白旗を振って投降をする振りをして攻撃するという手法を取った為だそうです。 後、投降しようとした兵士は、反対する兵士に殺されたりしたそうです。そういった戦死は、戦った戦死では無く、軍旗違反による処刑なので非常に不名誉で死後も近 隣の住民から冷たい待遇をされたりしたので、投降を試みる者も少なかったとの事です。 大抵は白旗を振るか、武器を敵前に投げ込み自分たちはその場に残り一人ずつ投降すると言う手法を取ったらしい。 ↓こんな感じに   ↓戦車や機銃 . . ○○  ↓米兵士↓ ○○○○○○ ○.  .    .○←投降する兵士が通過間際に危険が無いか確認する役。射殺できるように機銃などで武装している。 .   . ●←投降する日本兵 #right(){(58:871)} **戦中の食糧不足に関して教えて下さい。 大井篤氏の海上護衛戦・文庫版第八章-30 空腹・降伏より転載 戦前から、日本内地は食料所要量(国民一人当たり2165カロリー平均として)の約八割を国内生産でまかなうことができただけで、 残りの二割の分は海外からの輸入に依存していた。 ところが戦時中の船舶の損失によって輸入食料は減少の一途をたどった。 (ここで表、一部のみ書く。食料輸入量14・4~15・3:2793→18・4~19・3:1871→19・4~20・3:1188 以上1000kg単位) この輸入減を国内生産の増加によってまかなうなどという事は、もちろん、出来るはずも無い。 戦争中の食糧生産量は次のB表(省略)の通りで、昭和十九年までは、大きな減少もないが、増加もなかった。 (中略) 輸入減によって減らされる部分は、食料の生産者で無い都会地の住民に多くかぶってくる。 日本の食料統制はドイツやイギリスに比べると拙劣だったから、それが闇を刺激し、それからそれへと悪循環を生んだ。 (中略) われわれの記憶に新しいように、食糧事情は昭和十八年の夏には相当既に悪化していた。 翌十九年には闇が深刻化してきた。 十九年の全国食糧消費から計算すると、国民一人一日当たりのカロリー摂取量は1900平均に落ちていた 以上p431-432 七月上旬の閣議で、主食の一割減配が議論された。 食料輸入の前途は真っ暗どころか、壁に突き当たった格好だ。 オガクズやモミガラで粉食をつくって食べねばならぬところまで来ている p419-420 #right(){(205:933)} ・戦後の混乱期は食料不足に苦しんだが,当時は食料を生産する農村のほうが  都市に比べて食料の入手に恵まれており,栄養水準は上位にあった. ・終戦直後は食料生産の低下や外地からの引揚げ等による人口増により,全国  的に飢餓と栄養失調が蔓延し,極めて深刻な食料不足になった. ttp://www.f4.dion.ne.jp/~eisan/koushuueiyou.htm 公衆栄養学という学問で教えている「歴史」ね。 #right(){(205:ふみ)} うちの母方は大阪近郊で空襲に遭い、焼け出されたのだが、経営していた会社からの 支援があったので、路頭に迷うことが無かった。 ちなみに、当時の西宮は阪急から北についてはほぼ農業地帯だったので、食料は十分 にありました。 但し、うちの曾祖父は、贅沢三昧が祟り、配給では食っていけなくなったので、結核を患い、 敗戦の翌年には亡くなっています。 後、清沢洌の暗黒日記(3巻P.164~東京大空襲の件) 「甥の笠原貞夫は出征しており、その妻が三人の子供を抱えて焼け出されたのは先にも書いたが、  修司が区役所に行くと、「縁故疎開の外はどうにもならぬ」と一向に受け付けない。  貰ったのが、五日分の食料切符と汽車無賃乗車券のみである。  仕方がないから丸ビルの地下室に連れてきて、信州に送るという。  布団二枚を自転車に積んで連れてきた。  国家の羅災者救助というのは、五日分の米と醤油だけだ。」 これが東京の状況。 神戸や大阪も同様だったかと思います。 後、流言・投書の太平洋戦争の第五章辺り興味深いですよ。 >野坂は飢えがひどくて犬殺して食ったらしいけどな。同じ神戸でもえらい違いだな そりゃ、技能を持ってたり、資本や工場を持ってたりする人々と、それが無い人々との生活の差は戦時下には 結構ありますが、一概には言えんでしょう。 例えば、父方の曾祖父は医者でしたから、開業医として近隣の農家の人々を診ていました。 なので、その御礼というか、薬代代わりに食料を得ることも可能ですし、元居た会社から、部下や世話をした 人が南方からの土産品として、バナナとか甘味料を持ってきてくれ、それを近隣の農家に分けて、代わりに 食料を補填してましたし。 母方の方は会社が重要会社だったので、その辺から手を回して、配給だけは途切れさせなかったですし。 それらが無い、または無くなった人々は大変な生活になっているのではないか、と思いますよ。 例によって蛇足ですが、戦略爆撃調査団の調査で、「個人的に戦争継続を望まなかった理由」の中に、「消費物資欠乏のため」 を言う回答選択肢があります。 この回答では、大規模な爆撃で高度に破壊された大都市の住民の場合、14%の人がその選択肢を選択しています。 同じように破壊された中小都市ではこの比率は11%、軽度に破壊された中小都市で9%、意外に、東京が8%と低く、 小規模爆撃があったか、爆撃を受けなかった都市では13%、田園共同体で19%、都市疎開者では14%となっています。 このアンケートを見る限り、東京の住民は消費物資の欠乏に苦しめられてた感じではなかったりします。 東京は首都であり、交通の結節点であり、統制経済の中心であることから、意外に物資の集積が行われたのではないか、 と言う話もあります。 一方で、田園共同体、即ち、田舎の方では物資を都会に供出したことで、相当物資不足に苦しんだと言う話もあります。 例えば、子供に対する加配はなく、学校給食もないので、子供一人当たりの配給量は一日当たり米一合ほど東京より少なく、 油、酒の配給は東京の1/3、魚、海苔、豆腐の配給はなく、況や、薪炭の配給もないと言う話もあったりします。 #right(){(205:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **戦時中の労働者の給料はどれぐらいだったんでしょう? 20歳未満の航空機産業従事者で、男性は平均時給26.1銭、女性は22.7銭。 30歳以上となると、男性が50銭以上、女性は33.7銭。 ちなみに厚生省が定めた最低時間割賃金は、航空機産業で20歳未満の第三級労務者(非熟練工)で、男性13.3銭、女性10.6銭。 ただ、固定給部分が低く抑えられ、加給部分が大きいから格差は更に拡大。 男性なら加給率200%も珍しくない。 ちなみに、挺身隊員の場合は、給与ではなく謝金とされ、最初の三ヶ月は8時間労働で日給0.75円~1.15円だった。 #right(){(しょうもない知識を披露するスレ10:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **戦時中の日本は金属回収をやってたそうですが、どんな金属が回収されたの? 金属回収で、エレベータの鉄の籠まで供出したりしたのは結構有名。 他に、金の供出、銀製品の回収、白金回収もやっていた。 このほか、木炭を包んだ俵、それを縛った紐、棕櫚の皮も回収の対象。 茶殻は馬糧にする運動も行われている。 更に、1944年末以降、綿製品、特に布団類の回収と言うのも行われている。 これは、綿火薬の原料にするためだったりする。 1945年からはアルミ貨の回収も進んだり。 ・金属製品家庭等回収実施要領(長野県の場合) 回収の対象…官庁、公共団体、一般家庭及び非指定施設の保有するアルミニウム(アルマイトを含む)製品、 鉄鋼製品、銅製品、鉛製品、アンチモン製品、錫製品など全金属製品に付き廃品は不要、 不急品代替容易なるものを主とするも、現用品も極力圧縮回収す。 回収物件…鉄鋼、銅、鉛、アンチモン、錫などにして従来の回収物件の残存物件全部。 アルミニウム製品は、戦時家庭生活の維持に必要なる最低量の器具を除き、全部供出。  アルミニウムに関する供出物件 全量回収 → 喫煙用器具、文房具、化粧用品、花器、電灯笠、茶器、置物他装飾品、 玩具、箸、箸箱、帽子掛、押板、蹴板、階段滑止め、ローソク立、盆、コップ、其の他廃品類 仕様を極力圧縮して供出 → 鍋釜類、湯沸、弁当箱、水筒、其の他厨房用品  対価(但し献納を妨げず)    アルミニウム → 1貫(3.75kg)に付15円    鉄        → 同 2円    銅及び銅合金 → 同 20円    鉛、アンチモン → 同 20円    錫及び錫合金 → 同 50円 こうして回収された金属製品だったが、その対価の支払いは、戦力増強用の貯金に回され、 各人の手に渡ることがなかった。 #right(){(しょうもない知識を披露するスレ10:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **本土決戦のために弓矢を装備した部隊があったそうですが。 1945年の末期的症状の日本。 西部軍は本土上陸を想定した場合、待ち伏せ襲撃、夜間襲撃、破壊活動を行うために700~800名の兵士からなる、 70~80のゲリラ戦部隊を確保していた。 既に民間の防衛団に対し、200本の弓、800本の矢を引渡し、更に800本の矢を司令部にて保管していた。 その威力を確かめるべく、1945年8月10日、連合国側兵士8人の処刑の際、1人に対して矢を15本用いたが、 失敗し、結局、袈裟懸けした後、斬首をせざるを得なかった。 なお、本土上陸に対抗するため、弓矢を用いるほかに、一般人を装って空手で敵軍兵士に攻撃を加えると言う ことも考えられ、この処刑の際に、2名に対して1人は6名が空手で、残りの1人は10名が空手で攻撃を掛けたが、 これにも失敗して、結局2人とも斬首せざるを得なかった。 #right(){(しょうもない知識を披露するスレ11:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **戦時経済について知りたいです。 >財政と戦争の観点から太平洋戦争を論んじた本てあるの? >日本が戦争で勝っていても国債と軍票の払い戻しで超インフレは免れず、国は潰れていただろうと思うんだけど。 昭和財政史がありますけど、お手軽なのは、多田井喜生氏の著書でしょう。 東洋経済新報社から1997年に出版された、「大陸に渡った円の興亡」、PHP新書で2002年に 出版された、「朝鮮銀行-ある円通貨圏の興亡」なんか、その辺の事を分かり易く記しています。 軍票は占領地域に於ける軍人軍属の棒給以外に、現地人への一時的な支払いに充てる為に使用されたので、 占領が一定期間に及ぶと回収されます。 例えば、満州では、満州中央銀行券、華北では、日華事変当初は朝鮮銀行券、後には河北銀行券を経て、 中国連合準備銀行券、華南では軍票から中央儲備銀行券、フィリピン、インドネシア、マラヤ、北ボルネオでは、 軍票から南方開発金庫券、インドシナでは、印度支那銀行券ピアストル貨、タイでは、泰国銀行バーツ貨と なっています。 軍票がほぼずっと使用されていたのは、華中地域で、最初は日銀券が使われ、以降は軍票が使用されました。 占領区域では、各地域毎の独立会計として、日本の財政とは切り離され、財政の自立を図っています。 租税は占領前を基準に課税し、不足分は南方開発金庫からの借り入れと、臨時軍事費からの補給金に拠って 補填されています。 これに加えて、現地での作戦費用に関しても、日本の財政に直接影響を与えないようになっています。 例えば、南方開発金庫は、営業資金を臨時軍事費特別会計から借り入れますが、それは各地域の現地通貨表示の 軍票で借り入れ、これを資源開発事業や現地日本側銀行を通じて貸し付け、企業は軍に納品したものを軍票で受取、 南方開発金庫に返済、南方開発金庫は、これを臨時軍事費特別会計の借り入れ返済に充てていました。 中国地域でもこれは同じで、日本銀行から、正金銀行を経由して臨時特別費特別会計が支出されると、 朝鮮銀行東京支店に送金されます。 引き替えに、朝鮮銀行東京支店は、同額の国債を日銀から購入します。 これで、収支は相償い、朝鮮銀行東京支店は、北京支店にこの日銀から支出された軍事費を送金します。 朝鮮銀行北京支店には、中国連合準備銀行名義の預金口座があり、送金を受けた金額を、預金口座に貸記します。 中国連合準備銀行にも、朝鮮銀行名義の預金口座があり、送金額と同額を預金口座に貸記します。 これで、現金が動くことなく、いわば架空預金の遣り取り(預け合い契約)となっていました。 でもって、現地軍は、中国連合準備銀行にある、朝鮮銀行の預金口座から、連銀券で支払いを受ける、と。 つまり、円は全然発行されず、連銀券だけが無闇に発行されるという仕組みです。 これと同じ契約は、横浜正金銀行と中央儲備銀行との間、朝鮮銀行と正金銀行との間に結ばれており、 中国地域のインフレ進行は加速された訳です。 敗戦間際の1945年、外資金庫が設立されます。 これは、大蔵省次官を理事長、主計局長、外資局長、日銀、正金、鮮銀、南発の代表者を理事として、 本店を大蔵省外資局内に置き、代理店を正金銀行上海支店、張家口支店内、朝鮮銀行北京支店内、 南方開発金庫各支店内に置いた上、本店業務は大蔵省外資局が行いました。 これは、実態のない帳簿上の金融機関で、臨時軍事費特別会計中の物件費支払いの際、予算金額 では、現地がインフレの為に到底間に合わないので、予算の10~30倍、最終的には130倍近くに上る 差額を価格調整金の名目で、支払う為に、作られた金融機関です。 Bubble崩壊後のRSECですっけ、そんな香具師の嚆矢でつね。 この金額決済は、例によって、預け合いで最終的に5,000億円を決済しました。 これらの清算は最終的に、正金銀行が、天津相場を基準にして、上海に持っていた金塊約50トンを売り抜け て、日本側の債務を全て弁済したことにしています。 これで、戦後の大陸のインフレをモロに被らなくて済んだ訳です。 要は高い時に借りた金を、安くなって現地通貨が紙くずと化しつつある時に返済した、と言う訳です。 ちなみに、日本人の認識では、「我が国に皇室のおわします限り、幾ら紙幣を増発してもインフレにならぬ」 とか、「公債の発行は無限に出来る」と言う「皇国国債観」、と言うのが罷り通っていたり。 無茶苦茶で御座いますわな。 #right(){(軍票スレ:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **石油不足に対して日本はどんな代替燃料を使用していたの? J・B・コーヘン著「戦時戦後の日本経済」より引用。 「大豆油、落花生油、椰子油、及びひまし油が産業用に使用された。  メタノール、エタノール及びアセトンがガソリンに代用された。  ブタノールはイソオクタン原料としても使われ、また直接ガソリンに混用された。  潤滑油は各種の植物油又は脂肪から造られた。  民間の馬鈴薯、砂糖、酒等のストックはアルコール燃料として引き上げられた。  生ゴムから油を採ることも行われた。  絶望的になった海軍は夢想的な松根油計画に着手した。  『二百の松根は一機を一時間飛ばすことが出来る』というスローガンの下に全国民を  松根堀に駆り出した。  約34,000の釜や蒸留器や小さな蒸留装置が準備され、各一日3~4ガロンの粗油を  出すように計画された。  これに要する労力は驚くべきものであった。  松根油1ガロンの生産に2.5日の労力が要った。  この計画の絶頂では一日当たり12,000バレルの粗油を予定していたから、一日当たり  125万人を要するはずであった。  1945年6月には、松根粗油の月産は70,000バレルに達していたが、精製上の難点は解決  されていなかった。  終戦時までに航空機用の予定で生産されたガソリンは3,000バレルに過ぎず、それも実際  に飛行機に実用した形跡は無かった。  合衆国陸軍が試験的にジープで使ってみると、数日にしてエンジンが止まって使い物に  ならなくなった。」 毛沢東の村営溶鉱炉を我々は笑えんです。 #right(){(泣ける話@軍事板第4章::眠い人 ◆ikaJHtf2)} ----

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