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戦前関連 - (2010/12/21 (火) 19:25:47) の1つ前との変更点

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#CONTENTS ---- **日本がWW2前に行った資源目的の侵攻は他の国でもやってた事であり非難に値しないのでは? ヴェルサイユ条約やワシントン条約,国際連盟規約の制定によって「領土保全」が定められ,それ以前のように「植民地切り取り」は事実上禁止となった. 故にWW1以降の植民地戦争は国際法上は違法となる. イギリスやフランスが日本の植民地主義を非難するのは「道徳」的観点からおかしいというのは事実かも。 **なぜ日本は南部仏印進駐を行ったのか?  その主目的は日華事変の処理にあったが,米英に対して攻勢防御の態勢をとる狙いもあった.  しかし,この攻勢防御の思想の底には,南部仏印は南方進出のための足場であるとの考えが潜んでいた事は否定できない.  また,資源確保の狙いもあったという. **日本の南部仏印進駐を,なぜアメリカは重大視したのか?  アメリカは大変な錯覚をしたのだ,と京都産業大学教授・須藤眞志は述べる. 「日本の南部佛印進駐は,大東亜共栄圏の思想に基づく東南アジア一帯を支配する第一歩であり,やがてその勢力は自国のテリトリーである,フィリピンにまで及ぶものと解釈した」のだという. **なぜ青森には2つも陸軍師団があったのですか?(戦前) 漏れの推定だけど…。 青森県は明治以前は二つの大名がいました。 弘前を中心とした津軽家と、盛岡を中心とした南部家の二つです。 その支配地は、青森の日本海側が津軽家、太平洋側が南部家になっています。 で、元々青森は中小勢力が多数居ましたが、概ね南部家の威令が及んでいました。 ところが、戦国末期、その南部家の重臣の一人であった大浦為信が反乱を起こし、 津軽地方から南部勢力を一掃します。 これに対して、南部は対抗しようとしますが、その動きを察した為信は小田原攻め の途上にあった豊臣秀吉の陣営にいち早く参上して朱印状を貰い、支配権を確立しました。 これを南部氏は非常に恨み、江戸時代には津軽藩主の狙撃事件まで起こしています。 明治時代になっても、津軽家は勤王側に立ち、南部家は佐幕側に立ち、津軽側の勝利に終わりました。 この300年以上の反目により、旧津軽家支配地の住民と、旧南部家支配地の住民 も互いに争うようになってしまい、陸軍師団も津軽系の弘前と、南部系の青森の二つ の師団が出来てしまったのでしょう。 (ちなみに、今でも津軽の住民と南部方面の住民は仲が良くありません) #right(){(14:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **第2次世界大戦のバトル・オブ・ブリテンを、日本軍はどのように研究、分析したのでしょうか? >まだそのころはアメリカ、イギリスと戦争をする前だったので、ロンドンには駐在武官とかいたと思うのですが、 >防空体制はこう築くべきだとか、或いは逆に空爆する時はこうすべきだとか、バトル・オブ・ブリテンでどういう教訓を得たのでしょうか? >もしかして、ノモンハンみたいになにもしなかったのでしょうか? 当時は防空演習も盛んに行われており、防空や対空についての関心は高く、 政府機関からも国民向けに様々な情報提供を行っています。 1940年10月には、ロンドン空襲について爆撃痕などの写真が掲載されると共に、 日本の都市が空爆されたらと言うシミュレーションが国民向けに宣伝されています。 例えば、敵の250kg爆弾が百貨店の一角と路面電車の正面道路上に命中した場合、 百貨店は滅茶苦茶に破壊され、自動車は百貨店4階まで吹き上げられ、水道管、ガス管、 通信線も破壊され、百貨店内並びに道路上の人々も無残な死を遂げると言う結論が出て います。 一方で、焼夷弾による火災は軽視し、10kg級油脂焼夷弾については、消防ポンプを使わずに、 バケツリレーで消火すると言う楽観的な見通しが考えられています。 で、その結果として空襲対策には防空壕を建設すべしと言う結論に持って行っています。 空襲を阻止すると言う点においては、「そうむざむざと、我が国上を敵機の蹂躙に任す様な事は 無い」としながらも、各都市の空襲の例を見ると、「侵入する敵機を全部捕捉撃滅することは不可能」 であるとし、普段の防空訓練と、「我が国土は我が手で護るという決意」が大切であると言う精神論に なっています。 1938年当時は、国民の安全を考え、空襲時の避難方法とか毒ガスから身を守る方法が考えられて いましたが、1941年になると、空襲から逃げずに消火活動をせよ、防空壕は身を潜める場所ではなく、 積極的な防護活動をするための待機所である、となっています。 因みに、この方針転換は、1941年11月の防空法第一次改正から行われたもので、BoBやモスクワ空襲など の影響も如実に受けていると言えるでしょう。 また、従来は毒ガス弾対策が考えられていましたが、欧州の空襲ではその様なものが使われなかった事から、 焼夷弾対策に重点を移しているのも特徴です。 #right(){(初心者スレ486:534,眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **戦前の日本が、戦い敗れた兵士が降伏する、あるいは生還してくることについて否定的な意識を持っていたのはなぜなのでしょうか >戦陣訓が出される以前、既に日清日露のころですら、公式的には「日本兵の捕虜などいない」となっていたようですが、 >逆に戦国や幕末には寝返りも降参もなんでもありです。 >この間に、神道か何かの思想が建設途上の近代日本に影響を及ぼしたということなのでしょうか? 一点だけ。 >日清日露のころですら、公式的には「日本兵の捕虜などいない」となっていた というのは誤りです。 日露戦争時には、ロシア側から通知された捕虜については、日本側でも官報や新聞で一般国民に公開し、 捕虜宛の慰問品などの発送方法についての注意書きも発表しています。 実際にロシア国内の捕虜収容所で励ましの手紙や慰問品を受け取った例も確認されています。 もっとも、この当時から、捕虜の家族が村八分にされるといった現象があったのも事実です。 日清戦争頃の泉鏡花の小説にも、帰還捕虜が市民に非難される場面が出てきます。 #right{(501:553)} **戦前の日本のナチスやヒットラーへのイメージはどのようなものだったのですか? ヒトラーが首相と大統領を兼任したときから独裁者という認識はあった。 ただ当時は独裁者=悪というイメージではない。 また、ナチスドイツへのイメージは時期によって異なる。 1930年代前半にはナチスやヒトラーへの批判記事が日本の新聞に載っている。 ベルリンオリンピックの前後から親ヒトラー的な報道が増え、 米英への反発からたが日独の軍事同盟を望む世論が沸いた。 その後、ノモンハン事件の最中に独ソ不可侵条約が結ばれたことにより ヒトラーおよびナチスドイツへの不信感が広まった。 だが、ポーランド戦の勝利以降は、日本国内の政治家への不信感とあいまって ヒトラーおよびナチスへ憧れともいえるイメージを持った。 #right{(504:272)} **日本軍はノモンハンでT-26やBT-5、7といったソ連戦車を捕獲できたのでしょうか? 一台、二台くらいの鹵獲ならあったかもしれませんが、M3軽戦車のように 小隊やら中隊を構成できるくらいの戦力には成ってなかったと思います。 鹵獲しても輸送する手段はなかったでしょうし、精々、戦力分析用と言うのが関の山だとお思います。 あるいは現地部隊がそのまま員数外の兵器として使用して撤退時に破壊するのがオチでしょうか。 #right(){(32:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **ノモンハン事件のとき、日本軍は火炎瓶でソ連の戦車を撃退したという記事を読んだことがありますが、信じられません。本当なんでしょうか? 本当です。運良くエンジンルームに命中させる事が出来たばあい、吸気口から 火炎を吸い込み、ガソリンエンジン車は最悪爆発を起す事が有ります。 爆発しなくとも、エンジンの部品の中で熱に弱いところ(エアフィルターとか ホースとか)をダメにして動けなくする、燃料漏れさせて引火させる、などの効果が期待できます。 #right(){(42:914,916)} **ノモンハン事件の日本軍の戦死者、実態を教えてください。 ノモンハン事件での 日本軍総兵力:約75000・戦死行方不明:約8600・負傷者約17700 よって戦死約11パーセント、死傷者だと約35パーセント。 ソ連・モンゴル軍は総兵力約75000・戦死約8200・負傷約16600 死亡率約11パーセント、死傷率33パーセント。 ソース=NHK出版『ノモンハン 隠された戦争』 数字を見てもわかるとおり、一見互角の勝負に見える。 それでも日本は何一つ得るものなく退却、負けたわけだが、 その要因は一言で言って関東軍の上層部の無能にある。 辻参謀あたりがDQNの代表。 ゲームなどの世界では同数の兵力で同数の損害の場合、 引き分けとなるが、現実の戦争ではそうはならないというイイ事例だろう。 #right(){(44:245)} **ノモンハン事件で日本軍はぼろ負けだったって習ったんですけど、ソ連軍のほうが損害ずっと多いんですよね? >日本軍のほうが勝ったんじゃないの? 勝敗はキルレシオでなく戦略目標の達成如何で決まる。 ソ連の戦略目標はポーランド侵攻に先駆けて今後日本がちょっかい出さないようにすること。 そしてそれは達成されている。 日本の戦略目標は日本側の主張する国境線に確定することだが、 ごく一部を除いて達成できなかった。 個別の戦闘を見ても、日本の戦車はまったくソ連戦車に歯が立たなかった。 日本戦車の損害が少ないのは、総数が少ないのと、修理した数を差し引いてるから。 日本戦車の砲弾は、弾丸が割れたり、避弾径始に滑らされたりして、 カタログどおりの効果が無かった。 ノモンハン事件での,日ソ両国の戦略目標は 大日本帝国:満蒙国境線をハルハ川とし,満州領内に侵攻せる蒙古軍及びソ連軍を撃退すること. ソヴィエト連邦:満蒙国境線をノモンハンとし,蒙古領内に侵攻せる日本軍を撃退すること. 指揮官のその後を見ればわかる通り、小松崎師団長は詰め腹を切らされてるが、ジューコフは出世してる。 #right{(491:848-858)} **ノモンハン事件で、どっちが土地の勘定では得をしたのでしょうか? >ノモンハン近くの国境線は日本側に不利になったけど、宮崎連隊が活躍したおかげで別の地域では日本側に有利になったと聞いたのですが、 秦郁彦は、ノモンハン付近でモンゴルが得た領土と、 モンゴル側が失ったとする領土「500平方キロ」を比べて、「差し引きすれば大差ない」とします。 (秦「昭和史の謎を追う」) ただ、この本に載ってる地図を見た限り、日本側が占領した面積が500平方キロもあるようには見えず、 ノモンハン付近で失った部分のほうがずっと大きく見えるような。 日本側が得たのは、下の地図の右のほうで国境が川に接するあたりと、地図の表示範囲外の右下のあたりいくらか。 ざっと探したところでは、ネットではいい地図が見つかりませんでした。 http://homepage2.nifty.com/ijn-2600/File-nomunkhan1.jpg #right{(531:950:◆yoOjLET6cE)} **ノモンハン事件でのソ連機械化部隊は壊滅的被害だったの? ノモンハンのソ連機械化旅団は度々壊滅状態に陥って その度に補給を待って投入ということを繰り返したため 当初の配備戦車が総とっかえさせられるほどの被害になった。 日本側の損傷車両は半数が1週間以内に修理されて部隊に復帰してるが。 撤退したのは貴重な」戦車戦力を消耗させたくないという判断があってのこと。 #right(){(608:775)} **日蘭会商を日本が蹴ったのは何故ですか? >要求量の半分以上は貰えたんだから蹴る理由が解りません。 モーラル・エンバーゴ(道義的禁輸令)の発動が39年12月、この時点で既に南方資源確保に食指を動かし始めた その前にサウジアラビアやメキシコ、アフガンと交渉したが芳しくなかった (唯一の成功は、エクアドルのマナビ・エメラルダス両州の鉱区を獲得した事) 日蘭交渉の前に、それら交渉失敗の背景に米国の意図を感じ取っていたから、尚更強硬に出てしまった #right{(477:956:シチュー砲 ◆STEW.ibjrE)} **戦前の日本の植民地における軍部の役割をおおまかに教えてください。 併合された朝鮮、台湾では、陸海軍大将が総督となり、 日本本国とは独立して天皇直属の総督府を作っていた。 もっとも、実質的には内閣が行政・司法を支配していたといえる。 最初期には憲兵が警察を担当していた時期もあり、内地に比べると軍の影響は大きいが。 委任統治領だったサイパンなどでは、軍部は軍事のみを担当していた。 一般行政は拓務大臣指揮下の南洋庁が担当している。 保護国だった満州国や内蒙古では、形式的にはそれぞれの政府が自治しているが、 顧問などとして日本軍将校が相当に入っていた。同様に文官も相当数入ってるが。 満州国軍の将校には日本軍からの派遣も多く、軍事面は完全に日本軍が握っている。 公共政策でも関東軍の軍事的要請に応じたものが多い。 形式はともかく、実質においては関東軍が大きな権力を持っていたと言うあたりか。 #right{(529:116)} **戦前の日本の武器輸出の実情はどんな感じだったのでしょうか? WW1のときフランスに二等駆逐艦を新造設(計は流用)して売った。 両大戦間には中国やタイに2千トン級以下の二線級艦艇をいくらか新造して売った。 タイには小さいやつだが潜水艦も売った。 信じられないかもしれないが、三八式歩兵銃は第一次世界大戦で 武器が不足したロシアが大量に輸入している。フィンランドも購入したはず。 #right{(353:550-556)} >そして革命がおきて代金が回収できなかった・・というのは本当? 本当に回収できなかったんですよ。 第一次大戦の際に、陸軍はロシアに小銃97万丁・小銃弾2億8,000万発・火砲823門などを供給しました。 また、海軍でも野砲や砲弾、またロシア海軍の要請に基づいて日露戦争の戦利艦である 宗谷・相模・丹後の3隻を修理費を含めて1,550万円で売却しています。 ところがロシア革命により、ロシアにより武器購入のために発行された大蔵省公債2億2,000万円や 短期軍事公債3億784万円はすべて回収が出来なくなってしまいました。 ちなみにこの額は第一次大戦時の総海軍予算と商船の武装費とほぼ同額だったそうです。 #right{(353:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **1930年代、ヨーロッパから日本まで、航路、海路、陸路(シベリア鉄道?) ではどれ位かかっていたのでしょうか?? >最速記録的なものではなく、兵隊や外交官や民間人が普通に移動してという仮定でお願いします。 空路の場合は、例えばニッポン号だと、1939年10月12日午前7時38分にローマのリットリオ飛行場を発って、 ロードス島、バスラ、カラチ、カルカッタ、バンコク、台北を経由して、10月20日午後1時50分に日本の羽田飛行場 に帰還しています。 海路の場合は、イタリアのナポリから発った伏見丸の場合だと、1940年5月31日に同地を発って、7月7日午前8時に 神戸港に入港しています。 平均的には、神戸~ナポリの間は32~38日、ナポリ~ロンドンは8~11日、マルセイユ~ロンドンだと6~9日を要し ました。 アントワープやハンブルクへも延航する場合もありましたが、この航路は旅客を原則として乗せていません。 地中海航路ではなく、世界一周航路の場合は、更に時間が掛かった為、余り用いられていません。 陸路の場合は約2週間前後で東京からモスクワへ赴くことが出来ます。 #right(){(564:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **何で二・二六事件の時に朝日新聞本社が襲撃されたの? 報道機関を抑えるのが、クーデーターの基本だから。 #right(){(339:86)} >それは分かりますが、新聞なんて発行するのにそれなりに時間がかかりますよね >ラジオ局もおさえよう、みたいな計画はなかったの? 2.26事件の時は、埼玉にあったNHKの送信所も占拠されています。 敗戦時のどさくさでも、同じように狙われています。 最後が、1945年8月末だったか9月だったと思いますが、このとき、どんな時でも電波を絶やしたことのなかった NHKの送信所からの送信が停止してしまっています。 #right(){(339:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **なんで2.26事件発生当初は、反乱軍が戒厳部隊として扱われたり一部、国の理解があるように見られたんですか? >明らかにクーデター軍でしょ。 いわゆる皇道派が反乱軍に対して終始同情的な立場を取り続けたから。 反乱軍は皇道派の総帥格である真崎甚三郎大将を首班とする暫定内閣の樹立を望み、 本庄繁侍従武官長も昭和天皇に対してそれをかなり強く働きかけている。 もし天皇が突っ張り通さなかったら…。 #right(){(339:)} **ワシントン会議やロンドン会議の折に日本が唱えた「対英米7割論」の根拠を教えてください。 >また、この「7割」というのはあくまでも交渉用(妥協するときの為に多めに見積もっている)で、実際には6割で問題なかったのでしょうか。 ランチェスターの法則が元だったと思う。 ・戦力は兵力の2乗に比例する ・攻める側は3倍の兵力が必要 6割だと戦力比が1:0.36だから戦力差が3倍近くになるからマズイかもしれない。 7割だと1:0.49だから大丈夫って感じで。 戦力自乗則というのがあって、戦力は兵力の自乗で利いてくるとされてます。 兵力対米7割だと、戦力比は49:100≒1:2で、米軍は大西洋にも兵力を貼り付けないといけないから、 何とか対抗できるけれど、6割だと36:100で1:3よりややマシ程度になってしまい、 とてもではないが対抗できない、というのが論拠。 #right(){(337:170,171)} **2.26事件当時、反乱軍の勝利条件はなんだったのでしょうか? >天皇に賊軍認定されないためにはやはり重臣殺害は回避するべきだったのでしょうか? 少なくとも実際にクーデターを起こした青年将校達は 国家戦略の大転換を要求していたので基本的に成功する見通しはない。 逆に成功したとする前提で原因を考えていくならそれこそ 昭和天皇が心を打たれて大権発動&乱用するしかないという 当時の日本の政治事情では著しく無理のある状況を仮定しなくてはならない。 上の方でこっそり目論まれてたと思われる利権の再配分という目的なら そこそこの流れがあれば後は運と実力次第でどうにかなったかもしれないし 史実では実際に事件直後は軍上層部はいい感じに動揺はしていたが 天皇激怒が伝わってから後はクーデター全否定モードになったのでそこまでだった。 #right(){(582:896)} **戦前・戦中の日本にも「軍事オタク」って存在したのでしょうか? 少なくとも陸軍にはドイツ信者がいっぱいいた。 ちなみにイタリア信者(戦術論など)は各国にかなりいたと思われる。 昔の古本から当時の軍オタが書いたと思われる、航空機のスケッチとかいろいろ描いてあるのが見つかったことがあるらしい。 あと海軍は軍縮条約期では世界で3番目の規模を誇っていたから、 ほかに自慢できることの少ない日本ではそこらへんで好きになる人もいる。 #right(){(333:43,46)} 戦前には「航空朝日」とか「空」という今の航空ファンのような航空機雑誌があって、 それを愛読している航空機マニアは結構いました。 自動車ジャーナリストの小林彰太郎氏は大戦当時当時成蹊学園に通う中学生でしたが、 同級生の義弟の福生の陸軍技術審査部の技術将校から陸軍の機体に関する情報を得て それを元にわいわい仲間内で討論していたとか。 休日には成増の飛行場の二式単戦「鍾馗」(飛行47戦隊?)を自転車で二時間かけて見に行ったり、 厚木の海軍航空隊の基地に4発の大型機が並んでいると聞いて見に行けばそれは 「深山」だったり…。 あと、昔戦中に艦船マニアだった人が「世界の艦船」でそのころの思い出を連載していたような。 #right(){(333:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **第二次世界大戦前、沖縄の基地はどれぐらい存在していたか? 昭和16年12月8日現在における南西諸島所在の陸軍部隊 【沖縄本島】 中城湾要塞  中城湾要塞司令部  中城湾要塞重砲兵聯隊  第61要塞歩兵隊  中城湾陸軍病院 【西表島】 船浮要塞  船浮要塞司令部  船浮要塞重砲兵聯隊  第65要塞歩兵隊  船浮陸軍病院 #right(){(590:301)} 中城湾要塞 1 経緯 (1)中城湾の要塞建設は大正十一年度に、狩俣(宮古島)、船浮(西表島)と共に計画にのぼっていたが、ワシントン条約の影響で延期。 (2)昭和16年7月28日…中城湾、舟浮湾に臨時要塞建設命令が発せられる(8月着工10月工事完了。 与那原の部隊兵舎は翌年完成)。要塞は要塞司令部、要塞重砲兵連隊、軍病院などの編成。」 船浮臨時要塞(ふなうきりんじようさい)は、沖縄県西表島船浮方面に設置された大日本帝国陸軍の臨時要塞。 1940年(昭和15年)10月に要塞着工。西部軍戦闘序列に組入れられた。 下記、中城湾要塞を参照ください。 ttp://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/nakagusukuwanyousai.htm #right(){(590:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)} **対日石油輸出禁止前にターチン油田を発見していたら、やはり相当違った歴史になってますよね? 大慶油田の原油は重油質気味で硫黄分が多く質が悪い。 ただでさえ採掘、製油技術の低い日本が採算ベースに持っていけるかは疑問。 現代でも火力発電用が関の山だし。 対米戦のみを考えれば海底直行航路になりかねない蘭印の油田よりかは安全面でマシだが。 #right(){(332:105)} **IHIエアロスペース社は戦前、中に当時の中島飛行機が行っていたロケットの研究にその端を発するそうですが、当時中島飛行機はどんな研究を行っていたんですか? 中島というとジェットの橘花を開発したが、エンジンのネ-12は空技廠の開発だったはず、秋水は三菱だし。 確かに会社としては、IHIエアロスペース-日産自動車-プリンス自動車-富士精密工業-中島飛行機 という流れに有るが、 富士精密工業は糸川の呼びかけで、ほぼ一からロケット開発を始めた。 むしろ固体燃料を開発した日本油脂の方が、戦中からの固体燃料ロケット製造の流れを引き継いでるんじゃないかな。 #right(){(593:255)} **ロシア革命にかこつけて、日本はシベリア出兵を行いましたが、目標を定めてロシアに赴いたのでしょうか? >なんだかずるずるとイルクーツク辺りまで行った様ですが……当時から陸軍は暴走し始めていた? 元々、第一次大戦時点では、第三次日露協商を締結して日ロは同盟関係にありました。 当時、日本は武器の供与や接収軍艦の返還などを行い、間接的にロシア政府を支援しています。 また、貿易面でもロシアは欧州側航路が殆ど使えない為、アジア側の貿易航路を使わないと駄目で、 しかも、内陸輸送費をさっ引くと、輸送距離が一番近い工業国は日本ですので、日本との貿易額が 急増していました。 その政体が引っ繰り返って、新たに出来たのは、「人民が主体となる」政体の所謂「過激派」が 中心の政権でした。 その思想は、皇帝を中心とする権力の否定であり、天皇を中心とする国家運営を行っている日本 にとっても、脅威となる政体で、それがドイツと単独講和したことで、「ドイツの傀儡である」と規定 しました。 そのため、日本としては、こうした過激な政権を膺懲し、加えて、元々併合した朝鮮と、進出しつつ あった中国東北部の安全確保の為の緩衝地帯設定ならびに空白化した資源地域を確保すべく、 進出したのがシベリア出兵です。 但し、バイカル以東を領土にすべきという主張は、マスゴミを含め一部の過激派だけで、政府としては 米国含めた連合国との共同歩調を取ると言う姿勢に終始しています。 (自由出兵の余地は残してありますが) 英仏伊が日本に要求した条件としては、ロシアの領土主権は認め、ロシア内政に干渉しない、ドイツ軍 と会戦のため、出来るだけ西に進軍すると言うものだったりします。 つまり、この案を日米が受け入れれば、日本はドン河まで進軍できる訳。 対して米国は、7000名の兵力に限り、チェコ軍の救援に限定すること、と保留を付けてきます。 すったもんだの挙げ句、日米英の合意で、兵力をシベリアに派遣することになりましたが、既にチェコ軍は 崩壊したため、大義名分は無くなってしまいました。 ここで、日本は方針を転換し、ロシア白軍(ウラル・コサック軍と特にコルチャック軍)を支援し、彼らを日本の 影響下に置いて、ソ連との緩衝国家とし、沿海州に自国の拠点を設ける、出来れば、沿海州を日本の勢力範囲 と規定したいと考えた。 なので、当初方針では、ウラル方面でチェコ軍と合流する為にイルクーツクくんだりまで行った訳で。 #right(){(319:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **2・26事件で狙われた要人は政治家だけなのは何故? >過去の右翼のテロとかを見る限り財閥関係者とかも狙われてもおかしくない気がするのですが。 皇道派青年将校の黒幕とされている北一輝は三井財閥から多額(年2万円)の援助を受けていました。 戦前の国家社会主義者は実は財閥とベッタリだったりするケースが多かったりします。 私有財産は否定しているくせに。 こんな状況で財界関係者が狙われると言う事は無いでしょう。 まぁ、彼ら的には既に軍門に降っていると思っていたのかもしれませんが。 #right(){(299:ue ◆WomMV0C2P.)} **日本もニューディール政策のような、国内で大きな需要を生み出す事業は出来なかったのでしょうか? >世界恐慌が発生してアメリカが超不景気になったため、日本の絹や綿花が売れず、 >各国がブロック経済を始めて日本の輸出貿易に打撃を与え、 >日本も独自のブロックを持とうと満州などに進出し、最後は太平洋戦争が発生したと聞きましたが 高橋財政でググれ。 戦前の(シナ事変前の)日本経済は絶好調だったぞ? 当時十年で英国を、十五年以内には独ソを抜いて 世界第二位の経済大国になることが予想されていた。 実際は戦災で二十年遅れる事になったが。 #right(){(298:516)} **関東軍特別大演習の件ですが、極東から対独戦に参戦したソ連軍がいなくなってもても、なお在極東のソ連軍は日本軍を上回っていて進攻どころでないぐらい戦力差があるんですか? 極東軍管区だけで、関特大演習でかき集めて動員した兵力の倍以上いました。 オムスク以東で37個師団、さらに極東に30個師団が配備されてたそうだよ。 #right(){(657:370-380)} ----
#CONTENTS ---- **日本がWW2前に行った資源目的の侵攻は他の国でもやってた事であり非難に値しないのでは? ヴェルサイユ条約やワシントン条約,国際連盟規約の制定によって「領土保全」が定められ,それ以前のように「植民地切り取り」は事実上禁止となった. 故にWW1以降の植民地戦争は国際法上は違法となる. イギリスやフランスが日本の植民地主義を非難するのは「道徳」的観点からおかしいというのは事実かも。 **なぜ日本は南部仏印進駐を行ったのか?  その主目的は日華事変の処理にあったが,米英に対して攻勢防御の態勢をとる狙いもあった.  しかし,この攻勢防御の思想の底には,南部仏印は南方進出のための足場であるとの考えが潜んでいた事は否定できない.  また,資源確保の狙いもあったという. **日本の南部仏印進駐を,なぜアメリカは重大視したのか?  アメリカは大変な錯覚をしたのだ,と京都産業大学教授・須藤眞志は述べる. 「日本の南部佛印進駐は,大東亜共栄圏の思想に基づく東南アジア一帯を支配する第一歩であり,やがてその勢力は自国のテリトリーである,フィリピンにまで及ぶものと解釈した」のだという. **なぜ青森には2つも陸軍師団があったのですか?(戦前) 漏れの推定だけど…。 青森県は明治以前は二つの大名がいました。 弘前を中心とした津軽家と、盛岡を中心とした南部家の二つです。 その支配地は、青森の日本海側が津軽家、太平洋側が南部家になっています。 で、元々青森は中小勢力が多数居ましたが、概ね南部家の威令が及んでいました。 ところが、戦国末期、その南部家の重臣の一人であった大浦為信が反乱を起こし、 津軽地方から南部勢力を一掃します。 これに対して、南部は対抗しようとしますが、その動きを察した為信は小田原攻め の途上にあった豊臣秀吉の陣営にいち早く参上して朱印状を貰い、支配権を確立しました。 これを南部氏は非常に恨み、江戸時代には津軽藩主の狙撃事件まで起こしています。 明治時代になっても、津軽家は勤王側に立ち、南部家は佐幕側に立ち、津軽側の勝利に終わりました。 この300年以上の反目により、旧津軽家支配地の住民と、旧南部家支配地の住民 も互いに争うようになってしまい、陸軍師団も津軽系の弘前と、南部系の青森の二つ の師団が出来てしまったのでしょう。 (ちなみに、今でも津軽の住民と南部方面の住民は仲が良くありません) #right(){(14:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **第2次世界大戦のバトル・オブ・ブリテンを、日本軍はどのように研究、分析したのでしょうか? >まだそのころはアメリカ、イギリスと戦争をする前だったので、ロンドンには駐在武官とかいたと思うのですが、 >防空体制はこう築くべきだとか、或いは逆に空爆する時はこうすべきだとか、バトル・オブ・ブリテンでどういう教訓を得たのでしょうか? >もしかして、ノモンハンみたいになにもしなかったのでしょうか? 当時は防空演習も盛んに行われており、防空や対空についての関心は高く、 政府機関からも国民向けに様々な情報提供を行っています。 1940年10月には、ロンドン空襲について爆撃痕などの写真が掲載されると共に、 日本の都市が空爆されたらと言うシミュレーションが国民向けに宣伝されています。 例えば、敵の250kg爆弾が百貨店の一角と路面電車の正面道路上に命中した場合、 百貨店は滅茶苦茶に破壊され、自動車は百貨店4階まで吹き上げられ、水道管、ガス管、 通信線も破壊され、百貨店内並びに道路上の人々も無残な死を遂げると言う結論が出て います。 一方で、焼夷弾による火災は軽視し、10kg級油脂焼夷弾については、消防ポンプを使わずに、 バケツリレーで消火すると言う楽観的な見通しが考えられています。 で、その結果として空襲対策には防空壕を建設すべしと言う結論に持って行っています。 空襲を阻止すると言う点においては、「そうむざむざと、我が国上を敵機の蹂躙に任す様な事は 無い」としながらも、各都市の空襲の例を見ると、「侵入する敵機を全部捕捉撃滅することは不可能」 であるとし、普段の防空訓練と、「我が国土は我が手で護るという決意」が大切であると言う精神論に なっています。 1938年当時は、国民の安全を考え、空襲時の避難方法とか毒ガスから身を守る方法が考えられて いましたが、1941年になると、空襲から逃げずに消火活動をせよ、防空壕は身を潜める場所ではなく、 積極的な防護活動をするための待機所である、となっています。 因みに、この方針転換は、1941年11月の防空法第一次改正から行われたもので、BoBやモスクワ空襲など の影響も如実に受けていると言えるでしょう。 また、従来は毒ガス弾対策が考えられていましたが、欧州の空襲ではその様なものが使われなかった事から、 焼夷弾対策に重点を移しているのも特徴です。 #right(){(初心者スレ486:534,眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **戦前の日本が、戦い敗れた兵士が降伏する、あるいは生還してくることについて否定的な意識を持っていたのはなぜなのでしょうか >戦陣訓が出される以前、既に日清日露のころですら、公式的には「日本兵の捕虜などいない」となっていたようですが、 >逆に戦国や幕末には寝返りも降参もなんでもありです。 >この間に、神道か何かの思想が建設途上の近代日本に影響を及ぼしたということなのでしょうか? 一点だけ。 >日清日露のころですら、公式的には「日本兵の捕虜などいない」となっていた というのは誤りです。 日露戦争時には、ロシア側から通知された捕虜については、日本側でも官報や新聞で一般国民に公開し、 捕虜宛の慰問品などの発送方法についての注意書きも発表しています。 実際にロシア国内の捕虜収容所で励ましの手紙や慰問品を受け取った例も確認されています。 もっとも、この当時から、捕虜の家族が村八分にされるといった現象があったのも事実です。 日清戦争頃の泉鏡花の小説にも、帰還捕虜が市民に非難される場面が出てきます。 #right{(501:553)} **戦前の日本のナチスやヒットラーへのイメージはどのようなものだったのですか? ヒトラーが首相と大統領を兼任したときから独裁者という認識はあった。 ただ当時は独裁者=悪というイメージではない。 また、ナチスドイツへのイメージは時期によって異なる。 1930年代前半にはナチスやヒトラーへの批判記事が日本の新聞に載っている。 ベルリンオリンピックの前後から親ヒトラー的な報道が増え、 米英への反発からたが日独の軍事同盟を望む世論が沸いた。 その後、ノモンハン事件の最中に独ソ不可侵条約が結ばれたことにより ヒトラーおよびナチスドイツへの不信感が広まった。 だが、ポーランド戦の勝利以降は、日本国内の政治家への不信感とあいまって ヒトラーおよびナチスへ憧れともいえるイメージを持った。 #right{(504:272)} **日本軍はノモンハンでT-26やBT-5、7といったソ連戦車を捕獲できたのでしょうか? 一台、二台くらいの鹵獲ならあったかもしれませんが、M3軽戦車のように 小隊やら中隊を構成できるくらいの戦力には成ってなかったと思います。 鹵獲しても輸送する手段はなかったでしょうし、精々、戦力分析用と言うのが関の山だとお思います。 あるいは現地部隊がそのまま員数外の兵器として使用して撤退時に破壊するのがオチでしょうか。 #right(){(32:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **ノモンハン事件のとき、日本軍は火炎瓶でソ連の戦車を撃退したという記事を読んだことがありますが、信じられません。本当なんでしょうか? 本当です。運良くエンジンルームに命中させる事が出来たばあい、吸気口から 火炎を吸い込み、ガソリンエンジン車は最悪爆発を起す事が有ります。 爆発しなくとも、エンジンの部品の中で熱に弱いところ(エアフィルターとか ホースとか)をダメにして動けなくする、燃料漏れさせて引火させる、などの効果が期待できます。 #right(){(42:914,916)} **ノモンハン事件の日本軍の戦死者、実態を教えてください。 ノモンハン事件での 日本軍総兵力:約75000・戦死行方不明:約8600・負傷者約17700 よって戦死約11パーセント、死傷者だと約35パーセント。 ソ連・モンゴル軍は総兵力約75000・戦死約8200・負傷約16600 死亡率約11パーセント、死傷率33パーセント。 ソース=NHK出版『ノモンハン 隠された戦争』 数字を見てもわかるとおり、一見互角の勝負に見える。 それでも日本は何一つ得るものなく退却、負けたわけだが、 その要因は一言で言って関東軍の上層部の無能にある。 辻参謀あたりがDQNの代表。 ゲームなどの世界では同数の兵力で同数の損害の場合、 引き分けとなるが、現実の戦争ではそうはならないというイイ事例だろう。 #right(){(44:245)} **ノモンハン事件で日本軍はぼろ負けだったって習ったんですけど、ソ連軍のほうが損害ずっと多いんですよね? >日本軍のほうが勝ったんじゃないの? 勝敗はキルレシオでなく戦略目標の達成如何で決まる。 ソ連の戦略目標はポーランド侵攻に先駆けて今後日本がちょっかい出さないようにすること。 そしてそれは達成されている。 日本の戦略目標は日本側の主張する国境線に確定することだが、 ごく一部を除いて達成できなかった。 個別の戦闘を見ても、日本の戦車はまったくソ連戦車に歯が立たなかった。 日本戦車の損害が少ないのは、総数が少ないのと、修理した数を差し引いてるから。 日本戦車の砲弾は、弾丸が割れたり、避弾径始に滑らされたりして、 カタログどおりの効果が無かった。 ノモンハン事件での,日ソ両国の戦略目標は 大日本帝国:満蒙国境線をハルハ川とし,満州領内に侵攻せる蒙古軍及びソ連軍を撃退すること. ソヴィエト連邦:満蒙国境線をノモンハンとし,蒙古領内に侵攻せる日本軍を撃退すること. 指揮官のその後を見ればわかる通り、小松崎師団長は詰め腹を切らされてるが、ジューコフは出世してる。 #right{(491:848-858)} **ノモンハン事件で、どっちが土地の勘定では得をしたのでしょうか? >ノモンハン近くの国境線は日本側に不利になったけど、宮崎連隊が活躍したおかげで別の地域では日本側に有利になったと聞いたのですが、 秦郁彦は、ノモンハン付近でモンゴルが得た領土と、 モンゴル側が失ったとする領土「500平方キロ」を比べて、「差し引きすれば大差ない」とします。 (秦「昭和史の謎を追う」) ただ、この本に載ってる地図を見た限り、日本側が占領した面積が500平方キロもあるようには見えず、 ノモンハン付近で失った部分のほうがずっと大きく見えるような。 日本側が得たのは、下の地図の右のほうで国境が川に接するあたりと、地図の表示範囲外の右下のあたりいくらか。 ざっと探したところでは、ネットではいい地図が見つかりませんでした。 http://homepage2.nifty.com/ijn-2600/File-nomunkhan1.jpg #right{(531:950:◆yoOjLET6cE)} **ノモンハン事件でのソ連機械化部隊は壊滅的被害だったの? ノモンハンのソ連機械化旅団は度々壊滅状態に陥って その度に補給を待って投入ということを繰り返したため 当初の配備戦車が総とっかえさせられるほどの被害になった。 日本側の損傷車両は半数が1週間以内に修理されて部隊に復帰してるが。 撤退したのは貴重な」戦車戦力を消耗させたくないという判断があってのこと。 #right(){(608:775)} **日蘭会商を日本が蹴ったのは何故ですか? >要求量の半分以上は貰えたんだから蹴る理由が解りません。 モーラル・エンバーゴ(道義的禁輸令)の発動が39年12月、この時点で既に南方資源確保に食指を動かし始めた その前にサウジアラビアやメキシコ、アフガンと交渉したが芳しくなかった (唯一の成功は、エクアドルのマナビ・エメラルダス両州の鉱区を獲得した事) 日蘭交渉の前に、それら交渉失敗の背景に米国の意図を感じ取っていたから、尚更強硬に出てしまった #right{(477:956:シチュー砲 ◆STEW.ibjrE)} **戦前の日本の植民地における軍部の役割をおおまかに教えてください。 併合された朝鮮、台湾では、陸海軍大将が総督となり、 日本本国とは独立して天皇直属の総督府を作っていた。 もっとも、実質的には内閣が行政・司法を支配していたといえる。 最初期には憲兵が警察を担当していた時期もあり、内地に比べると軍の影響は大きいが。 委任統治領だったサイパンなどでは、軍部は軍事のみを担当していた。 一般行政は拓務大臣指揮下の南洋庁が担当している。 保護国だった満州国や内蒙古では、形式的にはそれぞれの政府が自治しているが、 顧問などとして日本軍将校が相当に入っていた。同様に文官も相当数入ってるが。 満州国軍の将校には日本軍からの派遣も多く、軍事面は完全に日本軍が握っている。 公共政策でも関東軍の軍事的要請に応じたものが多い。 形式はともかく、実質においては関東軍が大きな権力を持っていたと言うあたりか。 #right{(529:116)} **戦前の日本の武器輸出の実情はどんな感じだったのでしょうか? WW1のときフランスに二等駆逐艦を新造設(計は流用)して売った。 両大戦間には中国やタイに2千トン級以下の二線級艦艇をいくらか新造して売った。 タイには小さいやつだが潜水艦も売った。 信じられないかもしれないが、三八式歩兵銃は第一次世界大戦で 武器が不足したロシアが大量に輸入している。フィンランドも購入したはず。 #right{(353:550-556)} >そして革命がおきて代金が回収できなかった・・というのは本当? 本当に回収できなかったんですよ。 第一次大戦の際に、陸軍はロシアに小銃97万丁・小銃弾2億8,000万発・火砲823門などを供給しました。 また、海軍でも野砲や砲弾、またロシア海軍の要請に基づいて日露戦争の戦利艦である 宗谷・相模・丹後の3隻を修理費を含めて1,550万円で売却しています。 ところがロシア革命により、ロシアにより武器購入のために発行された大蔵省公債2億2,000万円や 短期軍事公債3億784万円はすべて回収が出来なくなってしまいました。 ちなみにこの額は第一次大戦時の総海軍予算と商船の武装費とほぼ同額だったそうです。 #right{(353:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **1930年代、ヨーロッパから日本まで、航路、海路、陸路(シベリア鉄道?) ではどれ位かかっていたのでしょうか?? >最速記録的なものではなく、兵隊や外交官や民間人が普通に移動してという仮定でお願いします。 空路の場合は、例えばニッポン号だと、1939年10月12日午前7時38分にローマのリットリオ飛行場を発って、 ロードス島、バスラ、カラチ、カルカッタ、バンコク、台北を経由して、10月20日午後1時50分に日本の羽田飛行場 に帰還しています。 海路の場合は、イタリアのナポリから発った伏見丸の場合だと、1940年5月31日に同地を発って、7月7日午前8時に 神戸港に入港しています。 平均的には、神戸~ナポリの間は32~38日、ナポリ~ロンドンは8~11日、マルセイユ~ロンドンだと6~9日を要し ました。 アントワープやハンブルクへも延航する場合もありましたが、この航路は旅客を原則として乗せていません。 地中海航路ではなく、世界一周航路の場合は、更に時間が掛かった為、余り用いられていません。 陸路の場合は約2週間前後で東京からモスクワへ赴くことが出来ます。 #right(){(564:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **何で二・二六事件の時に朝日新聞本社が襲撃されたの? 報道機関を抑えるのが、クーデーターの基本だから。 #right(){(339:86)} >それは分かりますが、新聞なんて発行するのにそれなりに時間がかかりますよね >ラジオ局もおさえよう、みたいな計画はなかったの? 2.26事件の時は、埼玉にあったNHKの送信所も占拠されています。 敗戦時のどさくさでも、同じように狙われています。 最後が、1945年8月末だったか9月だったと思いますが、このとき、どんな時でも電波を絶やしたことのなかった NHKの送信所からの送信が停止してしまっています。 #right(){(339:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **なんで2.26事件発生当初は、反乱軍が戒厳部隊として扱われたり一部、国の理解があるように見られたんですか? >明らかにクーデター軍でしょ。 いわゆる皇道派が反乱軍に対して終始同情的な立場を取り続けたから。 反乱軍は皇道派の総帥格である真崎甚三郎大将を首班とする暫定内閣の樹立を望み、 本庄繁侍従武官長も昭和天皇に対してそれをかなり強く働きかけている。 もし天皇が突っ張り通さなかったら…。 #right(){(339:)} **ワシントン会議やロンドン会議の折に日本が唱えた「対英米7割論」の根拠を教えてください。 >また、この「7割」というのはあくまでも交渉用(妥協するときの為に多めに見積もっている)で、実際には6割で問題なかったのでしょうか。 ランチェスターの法則が元だったと思う。 ・戦力は兵力の2乗に比例する ・攻める側は3倍の兵力が必要 6割だと戦力比が1:0.36だから戦力差が3倍近くになるからマズイかもしれない。 7割だと1:0.49だから大丈夫って感じで。 戦力自乗則というのがあって、戦力は兵力の自乗で利いてくるとされてます。 兵力対米7割だと、戦力比は49:100≒1:2で、米軍は大西洋にも兵力を貼り付けないといけないから、 何とか対抗できるけれど、6割だと36:100で1:3よりややマシ程度になってしまい、 とてもではないが対抗できない、というのが論拠。 #right(){(337:170,171)} **2.26事件当時、反乱軍の勝利条件はなんだったのでしょうか? >天皇に賊軍認定されないためにはやはり重臣殺害は回避するべきだったのでしょうか? 少なくとも実際にクーデターを起こした青年将校達は 国家戦略の大転換を要求していたので基本的に成功する見通しはない。 逆に成功したとする前提で原因を考えていくならそれこそ 昭和天皇が心を打たれて大権発動&乱用するしかないという 当時の日本の政治事情では著しく無理のある状況を仮定しなくてはならない。 上の方でこっそり目論まれてたと思われる利権の再配分という目的なら そこそこの流れがあれば後は運と実力次第でどうにかなったかもしれないし 史実では実際に事件直後は軍上層部はいい感じに動揺はしていたが 天皇激怒が伝わってから後はクーデター全否定モードになったのでそこまでだった。 #right(){(582:896)} **戦前・戦中の日本にも「軍事オタク」って存在したのでしょうか? 少なくとも陸軍にはドイツ信者がいっぱいいた。 ちなみにイタリア信者(戦術論など)は各国にかなりいたと思われる。 昔の古本から当時の軍オタが書いたと思われる、航空機のスケッチとかいろいろ描いてあるのが見つかったことがあるらしい。 あと海軍は軍縮条約期では世界で3番目の規模を誇っていたから、 ほかに自慢できることの少ない日本ではそこらへんで好きになる人もいる。 #right(){(333:43,46)} 戦前には「航空朝日」とか「空」という今の航空ファンのような航空機雑誌があって、 それを愛読している航空機マニアは結構いました。 自動車ジャーナリストの小林彰太郎氏は大戦当時当時成蹊学園に通う中学生でしたが、 同級生の義弟の福生の陸軍技術審査部の技術将校から陸軍の機体に関する情報を得て それを元にわいわい仲間内で討論していたとか。 休日には成増の飛行場の二式単戦「鍾馗」(飛行47戦隊?)を自転車で二時間かけて見に行ったり、 厚木の海軍航空隊の基地に4発の大型機が並んでいると聞いて見に行けばそれは 「深山」だったり…。 あと、昔戦中に艦船マニアだった人が「世界の艦船」でそのころの思い出を連載していたような。 #right(){(333:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **第二次世界大戦前、沖縄の基地はどれぐらい存在していたか? 昭和16年12月8日現在における南西諸島所在の陸軍部隊 【沖縄本島】 中城湾要塞  中城湾要塞司令部  中城湾要塞重砲兵聯隊  第61要塞歩兵隊  中城湾陸軍病院 【西表島】 船浮要塞  船浮要塞司令部  船浮要塞重砲兵聯隊  第65要塞歩兵隊  船浮陸軍病院 #right(){(590:301)} 中城湾要塞 1 経緯 (1)中城湾の要塞建設は大正十一年度に、狩俣(宮古島)、船浮(西表島)と共に計画にのぼっていたが、ワシントン条約の影響で延期。 (2)昭和16年7月28日…中城湾、舟浮湾に臨時要塞建設命令が発せられる(8月着工10月工事完了。 与那原の部隊兵舎は翌年完成)。要塞は要塞司令部、要塞重砲兵連隊、軍病院などの編成。」 船浮臨時要塞(ふなうきりんじようさい)は、沖縄県西表島船浮方面に設置された大日本帝国陸軍の臨時要塞。 1940年(昭和15年)10月に要塞着工。西部軍戦闘序列に組入れられた。 下記、中城湾要塞を参照ください。 ttp://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/nakagusukuwanyousai.htm #right(){(590:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)} **対日石油輸出禁止前にターチン油田を発見していたら、やはり相当違った歴史になってますよね? 大慶油田の原油は重油質気味で硫黄分が多く質が悪い。 ただでさえ採掘、製油技術の低い日本が採算ベースに持っていけるかは疑問。 現代でも火力発電用が関の山だし。 対米戦のみを考えれば海底直行航路になりかねない蘭印の油田よりかは安全面でマシだが。 #right(){(332:105)} **IHIエアロスペース社は戦前、中に当時の中島飛行機が行っていたロケットの研究にその端を発するそうですが、当時中島飛行機はどんな研究を行っていたんですか? 中島というとジェットの橘花を開発したが、エンジンのネ-12は空技廠の開発だったはず、秋水は三菱だし。 確かに会社としては、IHIエアロスペース-日産自動車-プリンス自動車-富士精密工業-中島飛行機 という流れに有るが、 富士精密工業は糸川の呼びかけで、ほぼ一からロケット開発を始めた。 むしろ固体燃料を開発した日本油脂の方が、戦中からの固体燃料ロケット製造の流れを引き継いでるんじゃないかな。 #right(){(593:255)} **ロシア革命にかこつけて、日本はシベリア出兵を行いましたが、目標を定めてロシアに赴いたのでしょうか? >なんだかずるずるとイルクーツク辺りまで行った様ですが……当時から陸軍は暴走し始めていた? 元々、第一次大戦時点では、第三次日露協商を締結して日ロは同盟関係にありました。 当時、日本は武器の供与や接収軍艦の返還などを行い、間接的にロシア政府を支援しています。 また、貿易面でもロシアは欧州側航路が殆ど使えない為、アジア側の貿易航路を使わないと駄目で、 しかも、内陸輸送費をさっ引くと、輸送距離が一番近い工業国は日本ですので、日本との貿易額が 急増していました。 その政体が引っ繰り返って、新たに出来たのは、「人民が主体となる」政体の所謂「過激派」が 中心の政権でした。 その思想は、皇帝を中心とする権力の否定であり、天皇を中心とする国家運営を行っている日本 にとっても、脅威となる政体で、それがドイツと単独講和したことで、「ドイツの傀儡である」と規定 しました。 そのため、日本としては、こうした過激な政権を膺懲し、加えて、元々併合した朝鮮と、進出しつつ あった中国東北部の安全確保の為の緩衝地帯設定ならびに空白化した資源地域を確保すべく、 進出したのがシベリア出兵です。 但し、バイカル以東を領土にすべきという主張は、マスゴミを含め一部の過激派だけで、政府としては 米国含めた連合国との共同歩調を取ると言う姿勢に終始しています。 (自由出兵の余地は残してありますが) 英仏伊が日本に要求した条件としては、ロシアの領土主権は認め、ロシア内政に干渉しない、ドイツ軍 と会戦のため、出来るだけ西に進軍すると言うものだったりします。 つまり、この案を日米が受け入れれば、日本はドン河まで進軍できる訳。 対して米国は、7000名の兵力に限り、チェコ軍の救援に限定すること、と保留を付けてきます。 すったもんだの挙げ句、日米英の合意で、兵力をシベリアに派遣することになりましたが、既にチェコ軍は 崩壊したため、大義名分は無くなってしまいました。 ここで、日本は方針を転換し、ロシア白軍(ウラル・コサック軍と特にコルチャック軍)を支援し、彼らを日本の 影響下に置いて、ソ連との緩衝国家とし、沿海州に自国の拠点を設ける、出来れば、沿海州を日本の勢力範囲 と規定したいと考えた。 なので、当初方針では、ウラル方面でチェコ軍と合流する為にイルクーツクくんだりまで行った訳で。 #right(){(319:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **2・26事件で狙われた要人は政治家だけなのは何故? >過去の右翼のテロとかを見る限り財閥関係者とかも狙われてもおかしくない気がするのですが。 皇道派青年将校の黒幕とされている北一輝は三井財閥から多額(年2万円)の援助を受けていました。 戦前の国家社会主義者は実は財閥とベッタリだったりするケースが多かったりします。 私有財産は否定しているくせに。 こんな状況で財界関係者が狙われると言う事は無いでしょう。 まぁ、彼ら的には既に軍門に降っていると思っていたのかもしれませんが。 #right(){(299:ue ◆WomMV0C2P.)} **日本もニューディール政策のような、国内で大きな需要を生み出す事業は出来なかったのでしょうか? >世界恐慌が発生してアメリカが超不景気になったため、日本の絹や綿花が売れず、 >各国がブロック経済を始めて日本の輸出貿易に打撃を与え、 >日本も独自のブロックを持とうと満州などに進出し、最後は太平洋戦争が発生したと聞きましたが 高橋財政でググれ。 戦前の(シナ事変前の)日本経済は絶好調だったぞ? 当時十年で英国を、十五年以内には独ソを抜いて 世界第二位の経済大国になることが予想されていた。 実際は戦災で二十年遅れる事になったが。 #right(){(298:516)} **関東軍特別大演習の件ですが、極東から対独戦に参戦したソ連軍がいなくなってもても、なお在極東のソ連軍は日本軍を上回っていて進攻どころでないぐらい戦力差があるんですか? 極東軍管区だけで、関特大演習でかき集めて動員した兵力の倍以上いました。 オムスク以東で37個師団、さらに極東に30個師団が配備されてたそうだよ。 #right(){(657:370-380)} **2.26事件の時、昭和天皇がブチ切れて >「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん、馬を引け!」とまで仰られたそうですが、 >この時実際に動かせたであろう近衛師団の編成ってどうなっていたんでしょうか? 基本的に普通の師団と変りません。 近衛歩兵連隊が4個、近衛砲兵連隊があって、鹵簿の護衛に、近衛騎兵聯隊があるくらいです。 #right(){(290:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} 昭和11年当時はまだ三単位制師団への移行が始まっておらず、したがって 近衛師団も歩兵二個旅団・四個連隊編制です。 主な編制は以下のとおり。(特記しないものは編制地は東京) 近衛歩兵第一旅団┬近衛歩兵第一連隊 ..           └近衛歩兵第二連隊 近衛歩兵第二旅団┬近衛歩兵第三連隊 ..           └近衛歩兵第四連隊 騎兵第一旅団┬近衛騎兵連隊 ...        ├騎兵第十三連隊(習志野) ...        └騎兵第十四連隊(習志野) 野戦重砲兵第四旅団┬近衛野砲兵連隊              ├野戦重砲兵第四連隊(千葉県下志津)              └野戦重砲兵第八連隊 この他に近衛工兵・近衛輜重兵・高射砲第二・気球・鉄道第一・鉄道第二各連隊が付属。 注)騎兵第一旅団主力は当時満州派遣中。 #right(){(290:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} ----

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