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#CONTENTS ---- **ロシアや近隣諸国の武器援助があるにもかかわらずタジキスタンの政府軍は戦車を保有していないのでしょうか? タジキスタンは国土の70%が山岳地帯なので戦車使用にあまり適していないのが、理由と思われます #right(){(6:213)} **ヨーロッパでは、ハーケンクロイツが御法度らしいですが、具体的にはどうなるんですか?懲役刑、罰金等ありますか? >ヨーロッパ製のプラモデルのドイツ機は、鍵十字無しでちょっとやだ。 Germanyは法律で規制しています。S.S.とかもNGワードです。 イタリアの刑法において人種差別は、実際の行動はもちろん、 公にそれを表明しただけでも人道上の犯罪となる。 公の場でハーケンクロイツやケルト十字を掲げることはもちろん、ナチスやファシズムを礼賛するだけでも立件の対象となりうる。 #right(){(11:名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2)} **緑の党って過激派サヨの類なんですかね・・・?なんか欧米各国に支店があるみたいですけど。 緑の党は歴とした政党であって、過激派ではないよ。 昔は過激な行動をしていたが、Germanyで政権に参加するようになって、随分大人しくなった。 #right(){(11:名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2)} 日本の緑の党は、海外のそれとは全く関係を持たない団体です。 #right(){(11:大渦よりの来訪者 ◆8An/neko)} **欧州での不発弾事情はどうなっているのでしょうか? ディスカバーチャンネルでやっておりました。不発弾処理。 フランス工兵隊がWWⅠとWWⅡの砲弾処理。 フランスやアメリカ製は爆発はしないが、ドイツのは信管が まだ生きていて危険だと言ってました。 ベルリン東方オーデル河キュストリンのゼーローでは、 ボランティア二名で地雷処理をまだやってます・・・・ 砲弾や航空爆弾など、地中深くあるものは普通は放っておくと思います。 理由として手間がかかるからです。処理するのは工事中発見されたものや、地表表面近くあるものだけです。 #right(){(30:一等自営業 ◆O8gZHKO.)} **旧東独と西独の国境線はどんな感じになっていたのでしょうか? 第三次世界大戦で突破口になりそうな地点には米軍が核地雷を埋め込んで特別警戒体制を組んでいたが 他のところは自然障壁頼り #right(){(俺初質スレ431:490)} **EUって人口も経済力もアメリカに匹敵するんだからその気になればアメリカに並ぶ軍事力持てると思うんだけど? >現実にはコソボでもアメリカ頼みだったし、アフガンにもあんま派兵してないし・・無責任なのか良識的なのか? ・アメリカに比べれば社会保障重視のリベラルな政権が多いから。 間違ってもパックスアメリカーナに代わってパックスユーロなんてことにはならないだろ。 サルコジでさえEU軍をそこまでにしたいとは思ってないはず。 ・コソボ紛争にNATO軍が介入した時、ドイツのリベラリストの代表、ハーバーマスは 「ナチ的な政権があればそれを打ち倒して民衆を解放するのが反ナチなのだ」 という理論でドイツ軍の派遣を支持したそうな。 宮台真司によればリベラルな社会を維持するのに必要なコストを払うのが真のリベラリストで、 リベラリズムとネオコンはその理想において共通した部分があるらしいから、パックスユーロ(ピアーナ)の 可能性が無いわけではない。 ただ問題なのはコソボと同時期に起きていたインドネシアによる東チモールでの虐殺には アメリカもヨーロッパもほぼ無関心だったこと。コソボは空爆したが東チモールは虐殺が 終わってからPKOを派遣しただけ。 そのためリベラリズムと言いながらヨーロッパ人は人種差別を克服してないと批判された。 #right(){(現代ヨーロッパの軍:708,711)} **チェコが「ダナ」のみならず後継の「ズザナ」までも装輪の自走砲を採用した理由は何でしょうか? >また他のヨーロッパ諸国が装輪の自走砲を採用しない理由は何でしょうか? >他国で装輪の自走砲といえば南アフリカのライノがありますがこの国の場合、乾季には国土一面が舗装道路のように >なるという特有の事情があるからこそ装輪のメリットが生きているのだろうなと想像がつきますが ・ズザナはダナのバージョンアップ版だから。 ・榴弾砲だから。 ・開発のベースとしてそういう8輪トラックがあったから。 http://www.ebroadcast.com.au/ecars/Mil/Tatra/PiCs37/T815.jpg ・チェコは以前からモータリゼーションは進んでいたから。 (他の国と比べると) ・悪路走破力より展開力を重視したから。 チェコスロバキアは東欧の国の中では道路網が発達している国土を持っているのと、チェコスロバキア軍は ワルシャワ条約機構の中で東ドイツで戦争が起こった時の「第1援軍」に指定されていたので、高速展開能力が 必要だったから。 装輪式の自走砲は標準的(150mm台)の砲を搭載出来るようにすると装軌式に比べてもやたら巨大な車両に なって、全体的に高価になる。 それを押してまで高価な装輪式にするメリットが、コストパフォーマンス的に見合わないから。 チェコスロバキアの場合は元々大量には装備しない、少数精鋭志向の軍隊だったのでメリットの方を取った。 あと、装輪式のメリットである「高速展開能力」は、東側から国土を防衛することを主眼に軍隊を整備した 戦後の西側にとってはあまり必要性がない。 なので発達しなかった。 #right{(初心者スレ496:221,222)} **トルコとアルメニアが関係改善を計っているようですが,この時期に接近した理由は、先のグルジアでの戦争が要因の1つなのでしょうか? >また、両国の接近はコーカサスの諸国にどのような影響を与えるのでしょうか? 政治の話になってくるのでなにが原因と一概に言う事は不可能だが今回の戦争で情勢に変化はあった。 トルコはアゼルバイジャンとグルジアと協調関係にあってアルメニアを包囲してる形だったんだがその一角が崩れかけたわけだ。 なんで協調関係にあるかと言うとグルジアとアゼルバイジャンは国内にアルメニア人を抱えていているから。 経済的にも3国の結びつきは強く、中でもアゼルバイジャンの石油をロシアもアルメニアもイランも通らずに トルコに持ってこれるるBTCパイプラインがトルコ経済にとって重要だったんだが戦争でああなりました。 戦争の結果、アルメニアに新しいパイプラインを引こうかってはなしも出てるじゃん。 #right{(498:モッティ ◆uSDglizB3o)} **東ドイツって何で自前でMBTやらIFVやら作らなかったんですか? ワルシャワ条約機構では、軍事装備は各国が分担して整備していますが、 ドクトリンについては完全にソ連が主導権を握っていますから、主要装備に ついては、ソ連製が主になっています。 東ドイツについては、元々がソ連の傀儡国家的な位置づけですし、主要な 生産設備は戦後直ぐにソ連に運び去られてしまったので、国産のものを 作ってはみたものの、設備投資額や兵器の価格的に他国の代物に太刀打ち 出来なかったので、結局は自国でも得手である光学兵器などの生産に特化し、 独自の装備は中々生産出来ませんでした。 #right(){(553:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **セルビア側は兵力・装備とも豊富であったにもかかわらず、なぜボスニア側支配地域を包囲するのみで直接侵攻しなかったんでしょうか? >当初は国連側の活動も不活発で、サラエボ全土を押さえる最大のチャンスだったと思うのですが。 マスコミの情報操作に相当やられて勘違いが大きい。 まずNATOの介入前もボスニアでセルビア人は決して優勢では無い。 クロアチア人は本国の正規軍が投入されており、モスレムと連合して当初から 重要拠点は悉くこのモスレム・クロアチア連合が抑えていた。 かつて農奴階級であったセルビア人は元々農村部に住んでいる人が多く、結果 装備で圧倒的優勢な連合に対して山間部に立てこもる戦術を余儀なくされただけ。 それをマスコミが「内部からの侵略」などと報道していただけ。 そしてサラエボの一角にはセルビア人の支配地域もあった。 元々セルビア人は防戦一方で他民族の拠点への侵攻には消極的でそれ以上の拡大を 望んではいなかっただけ。 #right(){(348:741)} >「サラエボ包囲」という事象自体が、ボスニア政府とマスコミが造り上げた虚構だった、ということですか? サラエボは確かに包囲されており、内戦は確かにあったのでした。 例えばこのオリンピックスタジアムの南東にある墓地は内戦時にできたものです。 http://maps.google.com/maps?ie=UTF8&oe=UTF-8&hl=en&q=&z=18&ll=43.868801,18.411224&spn=0.002699,0.004989&t=k&om=1 また旧ユーゴ内戦についてはクロアチア独立期、ボスニア内戦期、国際介入期、コソボ内戦およびNATO航空攻撃期 といった感じで分けないと主要な参加者を混同する可能性があります。 セルビア側は旧ユーゴスラビア連邦軍からの重装備の引継ぎがあったことにも留意すべきですが、ボスニア内の セルビア人とセルビア共和国のセルビア軍とは一応分けて考える必要があります。 また最近流行っている見方ではイスラム諸国、とりわけイランのクッズ旅団のモスレム人への支援なんていう 要素があるでしょう。 #right(){(348:771)} そもそも悪役に仕立て上げられたセルビア人は域内で最も民族意識が弱かった。 そのためモスレム政府軍にも多数のセルビア人が参加していたし、 セルビア共和国には大量の非セルビア人の難民が流入し、差別を受ける事もなかった。 ただそういう甘さが悲惨な結果を招く一因になったとも言える。 「戦争広告代理店」って本を読むべし。 元々セルビア人はユーゴの主流派だったから、逆に民族意識が薄かった。 抑圧されてもいないし経済的にもそれなりに恵まれてるし政治の主導権を 取ってるから、自からの民族性を意識しなくても生きていけた。 クロアチア人はナチスドイツの占領時代にナチスと組んでユーゴの主流派に なり、セルビア人その他を虐殺しまくったという過去の汚点から、戦後ユーゴ 連邦が出来てからずっと民族性を表に出すことを押さえられてた。 またクロアチア人自身「民族性の発露」はタブーだった。 日本やドイツが「過去の反省」を何かにつけて要求されたようなのと似てる。 なので、「ユーゴ連邦」という枠組が揺らぐとその抑圧されてきた民族性が 一気に爆発した。 そもそも内戦の原因だってクロアチアの側からユーゴ連邦(セルビア)にケンカ 売ったことだし。 クロアチア人=弾圧された被害者 セルビア人=他の民族を強圧的に支配した加害者 という図式はクロアチア政府に依頼されたアメリカの広告代理店が作り上げたもの。 #right(){(348:780,781)} **冷戦下で、地続きの東側国と西側国の国境ってどうなってたの? >ベルリンの壁みたいになってたり、38度線みたいに両軍が角突き合わせてたりしてたの? 鉄条網でフェンス作って警備兵が行ったり来たりしてました。 その頃の東側のジョーク 国境警備兵A「なあ、もし今この瞬間にこのフェンスが倒れたらどうする?」 国境警備兵B「急いでそこの木に登るね」 A「なんで?」 B「(逃げ出す国民に)踏み潰されたくないからな」 東西ドイツ国境では、場所によってはワイヤー式の罠が仕掛けられてました。 亡命者がワイヤーに引っ掛かると仕掛けてある機関銃から7.72mmが80発ほど打ち込まれる仕組みだったようです。 ただ、人間よりも動物が蜂の巣になることの方が多かったようですが。 #right(){(327:128,252)} **90年代のバルカン半島の民族紛争、欧米はなぜ、クロアチアやボスニア側についたんですか? >クロアチアやボスニアだって、セルビアに負けず劣らず残虐行為を繰り返していたのに? ボスニア政府はアメリカのPR企業を雇ってる。 PR企業がセルビア人の残虐行為だけをマスコミに吹き込んでボスニア人が やった残虐行為はセルビアのプロパガンダに見えるように工作してた。 民族浄化だって言い続けてたからマスコミにはセルビア=悪のイメージついてて セルビアに有利な証言をしたらナチスの同類扱いされるところまで行った。 セルビアがPR企業を雇おうとしたころには経済制裁発動されて雇えなかったし。 詳しく知りたいなら戦争広告代理店って本をおすすめする。 #right(){(634:797)} **90年代末のユーゴスラビア内戦に米・独が介入したけど、どんな国益上のメリットを得ようとして武力行使に踏み切ったの? >独はともかく、米がセルビアと戦うメリットなさなんだけど 米独、というかNATOが介入した。 バルカン半島は欧州の火薬庫なんて言われるくらいで、昔から 欧州全体に影響を与える不安定地帯。 なのでEUの指導的立場になりつつあるドイツとしてはEUの確立に 向けて不安定要因を取り除いておきたかった。 あとセルビアはロシアの影響下にある国なので、当時まだロシアと 信頼関係や協調関係が築けていなかったアメリカとしては、ロシアの 影響力が大きい国に東欧で影響力を持ってほしくなかった、というのが 大きい。 #right(){(305:272)} **マケドニアのVMROについて教えて下さい そもそも、露土戦争の結果、サン・ステファノ条約で成立した大ブルガリア公国の領土に、マケドニア地域 (現在のヴァルダル・マケドニア、ギリシャのエーゲ・マケドニア、ブルガリアのピリン・マケドニア)を含む 地域を含めていたのが問題の最初で、この条約は英・独・墺の三国干渉によって撤回され、結局オスマン・トル コ帝国の領土へ返還されました。 しかし、ブルガリアは、言語的近親性から自国領土「西ブルガリア」であると主張し(今でもブルガリアには公式 にマケドニア人はいないことになっています)、なおかつ、大ブルガリア帝国の領土だったことを声高に言えば、 セルビアは文字が近しく、宗教的祝日の監修の近親性から、自国領「南セルビア」と主張し、これも中世のセル ビア王国領だったことを主張しました。 また、ギリシャはマケドニア人がスラブ化されたギリシャ人であることを主張し、ビザンツ帝国時代には、 自国領だったことを主張しています。 内部マケドニア革命組織(VMRO)は、1893年に20代の若手教師であったゴシェ・デルチェフを 中心に結成されたもので、この組織によってマケドニア人独立の準備が整えられ、マケドニア人 と言う民族のアイデンティティが確立されます。 1895年、ブルガリア(この国は、マケドニア地域を自国に組み込む野望を持っており、実際、30% を後のバルカン戦争で手に入れている)で、最高マケドニア委員会が結成され、これに同調した 人々がゲリラ活動に走り、ついには1903年に中部の街クルシエヴォで蜂起して(イリンデン蜂起)、 マケドニア共和国の臨時政府樹立を宣言しますが、これはトルコ軍の大軍に鎮圧されました。 この解決策として、墺、露がマケドニアを国際管理下に置いて、秩序回復後に民族別行政区を作る 構想をぶち上げますが、これが混乱を招き、バルカン戦争の遠因となっていきます。 VMROはその後歴史の中に埋もれていきますが、第一次大戦中はあくまでも独立を目指すのか、 また、ブルガリアの一地方として生きるのかを巡って、分派活動が起き、またテロ組織としてセルビア 国内でゲリラ戦を展開、ブルガリア合同派は枢軸国、特にブルガリアと連携しつつ、生き延びています。 ブルガリア合同派はブルガリア軍部の道具としてピリン・マケドニアを制圧した後、其処を実効支配して その地を根拠地に、ユーゴ国内、ギリシャ国内で様々なテロを行ないます。 このため、1925年には、業を煮やしたギリシャがブルガリアに侵攻すると言う事件も引き起こしました。 1920~30年代に、ユーゴはセルビア人中心の中央集権体制を強いて、他民族の反発を買い、また、周辺 部に於いても、Thessalonikeの領有を巡ってギリシャと対立し、ユーゴ自身はブルガリアに接近します。 丁度その頃、ブルガリアでもボリスIII世の国王独裁が成立し、中央集権体制に移行しようとしていたために、 1934年にピリン・マケドニアを実効支配していたVMROを弾圧したため、ブルガリア統一派は支持を失い、マケ ドニアのVMROは今度は、同じユーゴ国内で虐げられてきたクロアチア人に接近します。 そして、再び、この組織が表に出るのは、1934年、ユーゴスラヴィア国王ペタルをマルセイユで暗殺 した時です。 この時はウスタシと共同で暗殺を行なったようです。 その後、第二次大戦ではユーゴスラヴィアがドイツ軍に占領した時に、ブルガリア軍も同時に彼の国に 侵攻し、マケドニアの解放を謳います。 その際に先頭に立ったのが、統一された内部マケドニア革命組織(VMRO)で、セルビア人の中央集権 国家に虐げられてきたマケドニア人の心を擽り、一定の支持を得ることに成功します。 しかし、進駐したブルガリア軍が傍若無人な振る舞いをするに及んで、民心は離れ、1940年にマケドニア 人の自治を認めたTito率いる共産党が浸透していき、再びVMROは衰退していった訳です。 #right(){(108:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} ----
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