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日本近代以前」を以下のとおり復元します。
#CONTENTS
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**戦国時代の鉄砲って、武士が使う事もあったんですか?それとも足軽だけの武器だったんでしょうか?
雑賀衆の鈴木孫一など武士も使ってる。
#right(){(俺初質スレ430:164)}
武士が使う事も当然あるわけですが 
鉄砲は弓のような熟練を必要とせず 
少しの訓練で足軽や女でも使える「女の武器」ということで 
武士が使うのは不名誉であると、嫌がられたといいます。
#right(){(俺初質スレ430:166)}
**文永の役(1274年)でフビライ軍は「てつはう」なる手榴弾みたいな火薬武器を用いたそうですが、その時、「てつはう」は日本側に捕獲されたのでしょうか?
確か対馬だか長崎だかに「てつはう」の実物は展示してあります。すごい昔に「GUN」誌に掲載されてました。
鉄砲伝来についてですが1543年よりおよそ100早く中国から琉球に鉄砲は伝来しております。
尚王が琉球統一をするとあらゆる武器が放棄されたので詳細はまだ不明です。
#right(){(6:古式銃ファン)}

**源氏の血をひいていないと征夷大将軍になれないのはなぜですか?
>戦時中の将軍と征夷大将軍は別物ですか?
初代の征夷大将軍坂上田村麻呂は、源氏より前に登場したので、源氏の血を引いておりません。
また、源実朝死して後、源氏の嫡流は絶え、以降宮様を将軍とする場合もありましたし、
徳川家綱の後の将軍に松平伊豆守が、公家を推戴しようと画策したこともありました。

つまり、それは天皇の血統を神聖視する勢力と同じく、政治的な思惑から生じた幻想です。
単なる権威付に過ぎません。

後段に関しては、別物です。
別に、将軍だからと言って日本の国の願主になったわけではありませんから。
#right(){(16:眠い人 ◆ikaJHtf2)}

**昔の兵士は同じ様な鎧や格好をしているのにどうやって敵味方を識別してたんでしょうか?
お貸し具足の場合、デザインは殆ど同じ量産品です。
従って、袖印とか鉢巻き、襷などで識別しています。
数日もの間、行軍などを行うことで顔見知りにはなりますし。
あと、夜襲などでは合い言葉を決めて、それを答えられない、
あるいは間違ったものを言った場合には槍を突き出すと言う方法も採られています。
#right(){(20:眠い人 ◆ikaJHtf2)}

**鳥羽伏見の戦いの後から江戸城無血開城直前までの徳川宗家の保有していた兵力、戦力を教えて下さい。
徳川宗家の保有していた兵力ですが、幕府は安政元年(1854年)から近代的な軍の編成を
はじめ、文久三年(1863年)にはその兵力はおよそ1万人程度になっていたようです。
しかし、慶応二年(1866年)の征長戦争に敗れた結果その戦力は低下し、フランスから
軍事教導団を受け入れ再編成を開始しています。
そしてさらに鳥羽伏見の戦いの後となりますと、数千人程度になっていたのではないかと思います。
ちなみに大鳥圭介が連れ出した幕府伝習隊は二個大隊(約1000名)だそうです。
#right(){(50:名無し軍曹)}

**ペリー来航というのは、「戦わずして負けた戦争」というべきですか?
譲歩と敗戦は違う。無闇に喧嘩を売らずに収めた事を考えれば妥当と言えるんじゃないだろうか。
#right(){(57:81)}

**『蒙古襲来絵詞』に「てつはう」が描かれていますが、なぜ日本では種子島以降まで火器が広まらなかったのでしょうか?
>同時期の支那大陸では火器はどの程度普及していたのですか。 

技術が伝わらなかったというか、当の大陸でも普及し始めた程度。
また、友好的な国交があったわけでもなかったので、技術を伝えなかった。 

日本国内では火薬の原料の一部、特に硝石がろくに取れないので、自作は無理。
仮に伝来しても自力では製造が出来ず、輸入に頼ることになる。 
#right(){(483:893)}

ついでに、当時の中国で使われていた火薬兵器も精度も威力もあんまり無く、 
威嚇兵器としての意味合いが大きかったので、主力兵器にはなってない。 
(部分的には、工夫や改良を凝らして使われていた物があったようだが、 
詳細が不明で実像が未だにわからず、予想や憶測、想像図を含んでいるものも多い) 
実用的な火薬兵器の登場は、ヨーロッパに伝来してそちらで改良されて 
アジアに伝来する時代まで経たなくてはならなかった。 
#right(){(483:894)}
**元寇における元軍が使用したてつはうについての知識・製法を、日本は元軍の捕虜から吸収することができなかったんでしょうか? 
元寇の主力は元の命令で動員された高麗兵だったので、彼らは「兵器を与えられて使われている」立場でしかなく、
高度な技術を手(と脳)に持っている者は少なかった。
更に二度の元寇は日本、というか鎌倉幕府にもかなりの混乱をもたらしたため、その後のゴタゴタでそういった面に割けるリソースも少なかった。
兵器のコピーに関して言えば、弩(ど、おおゆみ)のコピーには着手したが肝心な鉄弓の部分がコピーできず、諦めたという経緯がある。 

あと、何より元軍の遺棄兵器は奮戦したのに恩賞が貰えない御家人達が使い道もよくわからないまま「戦利品」「舶来のお宝」として
自己のものにしてしまい、幕府が提出を求めても恩賞が貰えないことを理由に拒否し、大半は御家人の倉に納われたまま忘れ去られた。 

後に、先祖が文永弘安の役に参加したという武士の家には、当時の元の兵器(の残骸や成れの果て)が代々伝わっていたりしたとのこと。 
中には室町戦国安土桃山そして江戸時代を経て明治まで伝わっている物品があったりする。 
#right{(532:381)}

**日本の戦国時代……信長以降の1600年前後の頃、日本の保有していた軍備(鉄砲や戦闘兵員ですね)は当時のヨーロッパ全体のそれを上回っていたという話を聞いたことがあるのですが。
>これの真偽、そして本当であった場合はたして日本は世界に覇権を問うことができたかについてお聞きしたいのですが……。
無理だと思います
渡海しての作戦は補給が続きません
朝鮮出兵の顛末を考えても不可能だと思います 
#right(){(9:907)}

**日本史上での軍事結果や作戦、人物等が世界の戦史に影響を与えたような事例は無いのでしょうか。
戦国末期の織田信長~豊臣秀吉に至る時代の鉄炮の集団運用戦法は、
大砲と刀槍中心の中国に多大な影響を及ぼしました。
また、火縄銃に関しては日本が世界の最先端を行ってました。

時代は下って、日露戦争では二百三高地の作戦に於いて、Russiaの使った
機関銃が塹壕戦、要塞戦に威力を発揮することが判り、世界に機関銃が広まる
結果となりましたし、有名な日本海海戦の結果は、英国がDreadnought級戦艦を建造するきっかけとなりました。
また、金剛の建造は超弩級艦建造の口火になりましたし、長門の建造は、40センチ砲搭載の超超弩級艦建造の口火となっています。

日中戦争ではゲルニカとともに、日本の重慶爆撃が戦略無差別爆撃のお手本となっていますし、
第二次世界大戦では真珠湾攻撃で空母の運用に、
マレー沖海戦で対艦兵器としての戦艦の終焉という影響を引き起こしています。 
#right(){(14:眠い人 ◆ikaJHtf2)}
日清戦争の黄海海戦では、艦隊陣形の単縦陣vs.横陣論争に決着が付きました。
(単縦陣を採用した日本の勝利)  
#right(){(14:404)}

**日本の戦国時代の騎馬武者は戦闘の際には下馬して戦っていたと聞いたことがありますが、それなら武田騎馬軍団や伊達の騎馬鉄砲隊は創作ですか? 
創作や講談のような意味での騎馬軍団なんてものは無いが、 
しかし騎馬の集中運用というのが完全に無かったかと言うとそうでもなく 
フィクションのような数百~数千の騎兵が突撃するようなものより 
ずっと規模の小さい、数十騎くらい集めれば精一杯といったものだったそうだ。 
100騎もいたら、凄い大規模な騎馬部隊という感覚。 

でもって、そうした騎馬部隊というのは常設の物というのは少なく、 
戦場で臨時に余剰騎兵を集めて突撃させるような物が大抵で、 
その他に本陣控えの旗本、伝令役たちの十~数十騎ぐらいしか無い。 

武田騎馬軍団については、今の山梨県が馬の産地ってことで、 
移動や輸送に馬がふんだんに使えたこと、軍全体から見た馬の割合がかなり多いこと、 
つまり馬や騎兵に余裕があった事から言われたもの。 
伊達の騎馬鉄砲も、常設部隊では無いが、ちゃんと馬上で鉄砲を使う装備が記録に残っている。 
ただし、これの実態がどんなものだったかは不明。
>日本の馬は小さくて騎乗には向いていないときいたが?
それはアマチュア研究者が勘違いで書いてしまって広めてしまった有名なデマ。 
蛇足だがこのアマ研究者は打刀(短刀や小太刀ならまだしも…)で首を取るとかの間違いも広めてしまっている。 
#right{(502:852)}
**日本には欧州や中東の様な破城槌は無かったんですよね? 
>城攻めの時はどの様な方法で城門を破壊したんですか?
急峻な坂、階段、郭などを配した山城では、破城槌が威力を発揮できないため、 
利用されることはありませんでした。
20~30度もある不揃いな階段を数十メートル登り、90度コーナーを2つ通り抜け、 
後背を敵の櫓に晒す狭い空間が正門前、といった感じです。 
破城槌が使えない理由が想像できるでしょうか。
城門を破壊するには、丸太・大砲を用いたほか、火矢・焼き玉(熱した砲弾)などで 
火災を狙うなどされました。 
ちなみに朝鮮出兵の際には、現地で「亀甲車」という破城槌が考案されています。 

余談ながら、戦国時代期の日本型城塞は、古代~中世にかけて作られた西洋の 
都市型城塞に比べて、数世代後のものに当たります。 
よい縄張りと防御施設を備えた山城は、街や居館を石壁で囲っただけの城塞とは 
比較にならないほど堅固です。 
平城でも大阪城規模のものになると、この時代の大砲を用いても容易には落城さ 
せられませんでした。(家康が大砲の利用を控えさせたとはいえ) 
もちろんこの時期の欧州でも城塞は進歩を遂げていて、さらに17世紀中盤には 
城塞設計の革新者ヴォーバンが登場し、要塞は飛躍的な進歩を遂げてゆきます。 
#right{(514:283)}

城の造りが西洋や中東と異なるので一般的には破城槌は必要なかったのではないかと思う。 
中東の特に十字軍王国の城などは岩山の尾根先を大きな溝をほって区切り 
先端に極めて堅固な要塞を築いている例があります。 
城壁は尾根の崖線上およびこうした人工崖線と一体化し、城壁真下に取り付いた 
敵兵を側射できる塔も備わるなど、かなり発達した造りでした。
従って攻める側は巨大な投石機を幾つも作り城壁を崩して攻めます。 

一方、日本の城、ことに山城は包囲されることもあるんですが、基本的には自然地形をうまく
改修して幾重にも防衛線をめぐらすもので石垣なども部分的に施されている場合はあるものの、
そもそも地山を削り柵を巡らし櫓を立てるといった形での防御です。 
長槍、後には鉄砲で隊伍をなして攻めるのが良いでしょう。 
どちらが優れているということはありませんが、西洋のやり方で攻めてはかえって 
苦労すると思われます。 
#right{(514:285)}

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Saone.jpg 
上で述べた十字軍の城の一例です。大きな切り石を石灰かモルタルで 
繋いで城壁と塔を作っています。城壁の構造は表面と裏面は切石で中には 
小さい丸石が詰められているものです。 

中央右の塔の高さ半ばに細長い黒い線がありますが、これが矢狭間です。 
城壁下に取り付いた相手を横合いから撃つためこの位置に開けられています。 
日本の城でいう、横矢掛かり です。
日本の山城の場合は地山を巧みに堀で削り、区切り、柵を巡らして守りますから 
西洋流の城とは異なります。 
#right{(514:286)}
**戦国時代の弓は有効射程はどのくらいで、鉄砲に比較して有用なものだったんでしょうか? 
>戦国時代にも鉄砲は運用されていますが、飛び道具としては弓がメインですよね。 
>三十三間堂で弓を射る場合、標的は66間=119mですが、戦国時代の弓は100m以上飛ぶしろものですか? 
強弓に分類される弓が必要になるが飛距離としては割と余裕。 
ただ、たとえ強弓といえどわずかながら曲射的に射る必要があり、 
屋根があるため飛ばしすぎや射角をとりすぎるほうが問題だった。 
特に後半疲れてくると手元が狂ってくるので、 
三十三間堂の梁には矢が刺さったあとがいっぱい残ってる。 

飛距離については射流し大会という飛距離そのものを競う大会が全国各所であって、 
昭和13年に曽我正康という人物が琵琶湖の大会で385mの記録を打ち立てている。 
これが記録に残ってる確実な範囲内では最高記録。 
また一般的に実力者級の成年男性は200m~250mほど、 
女性の場合は150m~200mほど飛ばすという。 
ただしこれらは18gという特製の軽い矢を使ったもので、 
記録や遺物から推定される戦国時代に実際に使用された矢の 
50g~70gと比べて非常に軽い。 
これは軽い矢尻では甲冑に守られた人体に食い込ませる事が難しいため。 
また弓の方も戦国時代の一般的な実戦用は約20kg~30kg程度と推測される。 
これは現代弓道の男性用14kg~20kgと比べると重いが、 
三十三間堂で記録を出すような強弓の30kg~40kgと比べると遥かに軽い。 
これらの条件の元に当時の状況を再現すると、最大射程距離はおよそ100mから150mほど、 
狙いを付けて狙撃する場合の有効射程距離はその1/5から1/4程度と推定される。 
ただし戦場に強弓を持ち込む達人も存在しただろうからその様な場合はこの限りではない。 

戦場における鉄砲に対する弓のメリットを、宮本武蔵は五輪書で次の用に述べている。 
・速射が可能で別の武器にすぐに持ち替えられる事(近距離戦にも対応) 
・撃った矢が目に見える事(着弾観測が容易) 
・戦場でのかけひきにつかえる事 
以上の理由より野戦での使用に適した武器だとしている。 
攻城戦においてはメリットが少なく、拠点防衛においては鉄砲の方が遥かに勝るとも。 
なお、宮本武蔵は戦場における弓の有効射程距離を20間、およそ36mとしている。
#right{(528:750)}

**戦国時代の農民兵は、刀とか槍とかは自分で持って行ったんですか? 
>もしそうなら、高価な刀とか槍をどうやって調達していたんですか? 
当時は兵農分離や刀狩りが行われる前ですから豊農はが武器・防具を備えていました。 
戦の為だけでなく自衛や治安維持のためにも役に立つものです。アメリカの銃に近いかもしれません 
いまだと日本刀は高価な美術品ですが、当時は数打ちと言われるような 
質が低い代わりに安価な量産品が供給されてました。 
鎧も現代に残ってるような立派な物だけではなく、 
もっと簡素で実用本位な物が広く使われていました 
雑兵用の安物は胴の前半分しか無いようなものからあります。 

もちろん武器も買えないような貧農、小作人が食べ物と略奪目当てに参戦する光景は 
ありふれたものです。 
竹槍で戦うわけにも行きませんからその場合雇い主が武具を支給します(当然安物です)。 
#right(){(559:モッティ ◆uSDglizB3o)}
**明治以前の皇居や皇族の守護はどうなってたんですか?
>近世にも禁衛府みたいなのあったんですかね?
幕府から禁裏付と言う老中差配の役人が居て、その配下に御所の警備、
公家衆の監督をする人間がいました。
また、上皇の警備に関しては、仙洞付と言う役人が担っています。

維新直前は、十津川郷士が禁裏の警備を行っていたこともありましたっけ。
京都所司代は、警備と言うより行政のような気がするのですが。
#right(){(343:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**壬辰倭乱で李舜臣将軍が何万人の倭人を殺したか教えてほしい
七年間の朝鮮役で李舜臣指揮を含めた朝鮮水軍と明水軍の攻撃による日本軍の戦闘死傷者総数は数百人から数千人の規模
(最大でも五千人前後)と考えられます。
また李舜臣の攻撃で日本軍の補給や連絡が恒常的に遮断されたことはなく、極短期間の攻撃時間以外で補給連絡線の
制海権を維持できたことはありません。
二次的な船腹不足に影響が無いとは言えませんが、海象による事故や寿命の自然減耗に比べるほど戦闘消耗は激しくありません。

また日本軍には廻船補給計画は元々存在せず、例え朝鮮水軍が存在していなくとも陸上作戦的な海岸支配と技術的な
海路開拓の問題によって漢城方面への海路補給が成立することは非常に困難です。

李舜臣に対する評価は戦争指導指揮を行なっていたのが明であり、朝鮮独自の勝利ソースの少なさと李舜臣の属した派閥の
評価から朝鮮内部で珍重されたこと、それの日本での江戸時代の受け売りと豊臣失政というレッテル貼りが罷り通った。
そして、明治以降のマハンの海上権力論を奉戴して海軍権益を拡充した帝国海軍の宣伝が原因となっています。
これが権威となり、詳細研究や先行研究批判が充実しないまま戦中に頂点を迎え、戦後の史観へ退凋します。
つまり李舜臣への幻想は朝鮮役という戦争全体の研究不足が原因となっています。
#right(){(337:96-98)}
**戦国時代の一般的な軍隊の階級制度って、どうなっていたんですか?
戦国時代での軍隊という組織を考えると大名の直臣及び被官の全てが構成成分と見なすべきだと思います。 
荒っぽい例えですが武士階級すなわち軍人と考えれば良いと思います。 
その中で、大きな所領を持つのが家老等の重臣層です。合戦の時は大きな戦闘単位を率いる一手の侍大将になります。 
小規模な所領を有する地侍や直臣層は、総大将すなわち大名の近辺の警固する馬廻りや寄騎として
各備えや家老等の部隊に出向く形で配置されます。 
軍監や目付、使番としての役割を果たす事が有ります。 
#right(){(601:不動産屋のオッチャン ◆UMCByHJxYk)}
**アイヌ民族の人達は、侵略者の日本人に対して、地の利を生かしたゲリラ戦を展開しなかったのでしょうか?
結構抵抗はしている。
「シャクシャインの乱」で検索してみるべし。

ただ、いわゆる「アイヌ人」には統一された”民族意識”というものが
出来上がらなかった。
そもそも”アイヌ”というのも「人間」という意味で、
「アイヌ民族で団結して和人と戦おう!」というような民族自決意識が
定着せず、結局蜂起の指導者であるシャクシャインが暗殺されたらそれ以前の
「山を越えたら隣の村。隣の村の奴は一応人間だけど自分たちとは違う存在」
という世界に戻ってしまったので、統一勢力として抵抗することができす、
そのまま和人によって征服されて行った。

この辺はネイティヴアメリカン(インディアン)と似たところがある。
#right(){(326:274)}
**日本刀は戦争で活躍したんですか?ってか剣の道を究めたと呼ばれるような武士は実際に役に立ったのでしょうか? 
 首級を獲るのに役立ちました。刀 
合戦では、主に槍を使っていました。刀を使うような局面は護身くらい(今の軍用拳銃と似たようなもの)。 
 刀主体の戦闘法(なんとか流という剣術の類)が確立したのは戦国末期と、ほとんど 
合戦と関係ないです。ぶっちゃけ、仕官のためのセールスポイントになったくらいですね。 

合戦ではないけど、船の上での接近戦では役に立ったようです。 
短いので、構造物を傷つけないとか、刺さって抜けなくなるようなことがないとか。 
明が日本刀を輸入したのは、和冦が使う威力を目の当たりにしたためだと言われています。 
#right(){(325:566,567)}
**何故日本の武士は手持ち手盾を持たなかったのでしょう? 
要らないから。 
防御は鎧と設置タイプの盾の仕事。 
手を塞ぐ盾もあったことはあったけど、使うのは矢弾を防ぎなら近づく時ぐらい。 
鉄砲登場後は竹束ぐらいつかわないと意味ないしね。 
#right(){(610:モッティ ◆uSDglizB3o)}
盾って言うのは、比較的起伏が少なく、草木が少ない地形でこそ役に立つもの。 
そして同時に、盾を使いこなせるだけの練度がなければいけない。 
どっちも、戦国時代後期までの日本にはなかったもの(前者は今もだけど)。 
戦国時代の集団歩兵だと、長柄を使ったから、盾は必要なかった。 
置き盾は、火縄銃の攻撃を防いだりするのに役に立ったけど。 

で、練度の高い武装集団たる武士だけど、日本は昔から武人=弓手みたいな価値観が 
あって、矢を防ぐ機能は鎧が担った。モンゴル軍も、持盾は使用してないだろ? 
剣や槍なら盾と一緒に持てるけど、弓は無理だから。 
鎧が発達してたのでわざわざ手に持つタイプの盾は要らなかったとも言える。 
#right(){(610:251)}
あ、手盾って言葉があるように限定的な防御用としてはあったよ。 
欧州ほど普及しなかったけど 
手盾なんてもってたら槍も弓も鉄砲も日本刀も使えない 
#right(){(632:モッティ ◆uSDglizB3o)}
>でも地中海では盾持ったまま長い槍使ってなかったっけ?
あの時代は、ほとんど鎧を身につけていませんでしたがね。 
一時期青銅製の鎧が使われたりもしていたみたいですが、重いということで、リネンキュラッサと 
いう麻の布を重ねた簡易の胴鎧にとって代わられています。 
ようするに、実用的な金属鎧を作れなかったので、盾に防御を頼らざるを得なかったということで 
しょう。 
#right(){(632:467)}
**秀吉の時、海洋国家の癖に朝鮮ごときに負けたのは何で?
朝鮮水軍や亀甲船が秀吉の唐入り失敗の主原因だってのはただの神話。 
実際に海上ゲリラ戦仕掛けられて痛い目にあってはいるが、 
船団護衛方式をとる事によって対抗しているので、 
海上優勢を巡る争いで主導権を握ってたのは日本側。 
一定の負担になってはいるけどね。 
実際の主要因は遠隔地への補給の負担が重すぎた事と 
秀吉の病状悪化により国内諸勢力を押さえきれなくなった事、 
つーかそもそも朝鮮南部はともかく、 
北部から明直轄地あたりを恒久的に支配する能力がなかったため、 
最初から明を脅かし交渉で勝てる要素に乏しかった事。 
>日本の水軍は「水」軍と言われてるように内水向けの軍隊 
>海を越えるような遠征はほとんど考えてなかった
日本がというか、当時日本周辺で外洋海軍持ってた国はいない。 
つか中国文化圏では船、特に大型船といえばジャンクに代表される 
龍骨を持たない構造が主だったので、凌波性に限界があった。 
そのために波の荒い外洋を長距離航海するのはまさに命がけで、 
その状態で戦闘するとかありえない。 
つまり水上戦といえば沿岸部での戦いだったのが当時の常識。 
対して西洋では地中海という冬以外は波の穏やかな海があったため、 
古代から海戦の概念が存在した。 
#right(){(672:704)}
**日本で大型の攻城兵器が発達しなかったのはなぜでしょうか?
一般的にイメージされる日本の城が出現したのが戦国末期から安土桃山にかけて。 
それ以前の山城の時代はどっちかっていうと地形を利用した砦や陣地に近く、 
石垣があるだけでも戦国時代の一般的な水準なら本拠地にあるかどうかレベル。 
だから地形を変えるレベルで土木工事してくる古代ローマ軍ぐらいの 
技術と根性がなきゃ大規模な攻城兵器の使用は難しい。 
平城が普及し始めた戦国末期から安土桃山にかけては 
古来の大型攻城兵器より大砲の普及の方が早かったんでやっぱり出番はない。 
弩については遊牧や牧畜の文化に乏しく材料になる動物の腱が貴重品だったから 
竹を中心とする木材を用いて強弓を作る長弓の方向に進歩した。 
弩と違い熟練に長期間の訓練が必要だが、 
それが逆に武家のアイデンティティーにもマッチしたため 
(日本は早くから戦う人の特殊化が進んでいる) 
戦国末期に手軽に育成できる飛び道具部隊の需要が発見されたとき、 
既に火縄銃が出回る時代になってしまっていた。 
#right(){(686:324)}
**なぜ日本の城下町は城壁で守られていなかったのでしょうか? 
外曲輪に城下町を収容したのが小田原城で、東西50町(約5.45km)、南北70町(約7.63km)、 
周囲5里(約20km)の範囲に堀を巡らしています。 

基本的に日本に於ける城は防御施設ではありません。 
どちらかというと、人質と守備兵を入れておく為の施設となります。 

城の管理規定である、「城掟」では、城番衆の行動規程、脱走の禁止など応戦に関する条項 
はありません。 
家臣が出陣する際の質(嫡男とか妻)、職人・商人も領国内で営業する為に質を置き、農民は 
夫役の為に駆り出され、妻子は城内に収容されて質となり、夫役は惣構の城の外周に配置 
されていました。 
これらは全て、城からの逃亡防止の為の措置です。 

また惣構とか宿城というもので、城下町や家臣団の住地をすっぽり覆うことも行なわれています。 
これも、欠落者防止、人質確保の為に作られています。 

ちなみに、平城になったのは、戦国末期であり、戦国盛期は山城が主流でした。 
この山城が出来たのは、悪党が不法に入手した物資を隠匿する場所として作られた所から発生して 
おり、居住の為のものではありませんでした。
#right(){(136:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**忍者が実際に戦場に出て戦ったり、手柄を立てたりした例ってないのでしょうか? 
>服部半蔵は戦場で活躍したから江戸城の半蔵門に名前がつけられたはず 
服部半蔵は、本能寺の変のときに家康が伊賀越えで三河に帰った 
ときの地元工作などが評価されて名を残したはずです。 

乱波(らっぱ)は読んで字の如く敵地の内情探るのが第一 
次に民衆に恐怖感を吹聴する 等が任務 
半蔵は甲斐、信州方面の偵察 有名な伊賀越えで無事帰国させた事で 
家康の信任を勝ち取った 

忍者は戦場では陽動の為の支援活動等が任務です 
半蔵は家康の長男信康の介錯も勤めたれっきとした武士ですので 
武士として、または諜報活動等で功績があったかもしれませんが 
忍者が戦場で敵を倒して手柄うんぬんはないでしょう 
戦闘機や爆撃機ではなく偵察機や電子戦機のような支援的な存在です 
任務中にやむを得ず戦うこともありますが 
基本的には戦闘はしません 
半蔵門は伊賀同心が警護していたことからその名がついたとも言われます 

忍者を戦力として有効活用した例としては、天文10年(1541年)の川越の夜戦が挙げられます 
北条家の川越城を上杉家が包囲しましたが、夜戦により撃退されたものです 
長い間、夜間の攻撃を仕掛けたのが、北条家正規軍であったのか、忍者衆による不正規戦であったのか論争がありましたが、 
正規戦であったとしては資料が極端に少なく、さらに川越城の発掘調査により、少なくとも上杉軍が忍者と見られる
不正規戦術により強襲を受けたことがわかっています。 
北条家に仕えた風魔忍軍は諜報活動のほか、戦場でのかく乱、強襲を行うことが特徴で、スパイのみならずコマンド部隊と
しての性格を併せ持っていたと考えられています。 
#right(){(208:830-840)}
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復元してよろしいですか?

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