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各海戦・作戦」を以下のとおり復元します。
#CONTENTS
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**レイテ沖海戦での栗田艦隊と米護衛空母群との砲撃戦で日本側の発射した砲弾が徹甲弾であったため命中したが爆発せず素通りしてダメージを与えられなかったという話を再三聞いたがいくらなんでもそれはないのでは?
ありえます。

徹甲弾は、一般に硬いものに一番効力を発揮するものですが、護衛空母は一般的な商船の構造そのままを用いているので、
徹甲弾が威力を発揮する硬さの鋼材ではありません。
従って、徹甲弾が威力を発揮する前に突き抜けてしまうこともあります。
また、戦艦相手だと、装甲を突き破ってから内部で爆発するのが一番効果的なので、遅延信管を用います。
ところが、突き抜けてしまうので、外に出てから爆発し、至近弾程度しかダメージを与えられなかったようです。

こういった商船構造の船に対しては、榴弾でしかも触発信管の方が効果的だったのでしょうが、
「軍艦=装甲しているもの」という観念があったからか、頑迷なまでに徹甲弾を使っていたようです。
(大和の場合、三式通常弾24発に対して91式徹甲弾は100発も使っている)
#right(){(20:眠い人 ◆ikaJHtf2)}

**「ミッドウエーのエース重松大尉のその後」について知っておられる方
ミッドウエー後の経過はわかりませんが、重松大尉は昭和19年7月、サイパン島で戦死なされたそうです。
#right(){(21:ベタ藤原 ◆94Ls6/3E)}

**1945年7月に行われた釜石に対する艦砲射撃に関する日本側および連合軍側よりの戦闘/被害/戦果に関する資料が知りたいのですが
釜石艦砲射撃
http://www2u.biglobe.ne.jp/~yunta/06.htm
おそらくそれほど詳細な資料は、現地に出向いて市役所や現地図書館で市史やその他
戦災関連資料を閲覧するしかないのでは?
#right(){(36:679)}

**ミッドウェイ海戦では、爆装と雷装の換装ミスが主たる敗因となりましたが、当時の陸用爆弾と魚雷では、艦船に対して与えられるダメージは、どの程度の差が出るのですか?
ミッドウェー時に97式艦上攻撃機が積んでたのは30~80kg級の小型爆弾複数。
水平爆撃で運良く当っても甲板の掃除ができるくらい。
99式艦爆は陸用250kgだったけど触発信管だから飛行甲板上で爆発。
普通450kg三発喰らって生還した翔鶴よりは被害が少ないと思う。
#right(){(369:270)}
**ミッドウェー作戦では、どうして戦艦部隊は後ろからついていったんですか? 
>敵艦隊の出現を警戒しているんなら、なるべく前に出て、哨戒機が敵艦隊を発見したら速やかに艦砲で反撃したほうがいいんじゃないですか? 
艦隊決戦をするためです。 
主力部隊はミッドウェー攻撃を知った米艦隊が真珠湾を出撃し、ミッドウェー来援に到着する頃に 
同様に決戦海面に到着することを想定しています。 
>日本海軍が、その主力部隊(戦艦部隊)を、わざわざ空母機動部隊の後方500kmに位置させた理由は何なのですか?
500kmという数字の意味をよく考えてください。 
遠方に見えてわずか300浬弱。 
18ノットの艦隊巡航速度で半日強で追いつける距離です(南雲部隊が同一海面に留まる前提ですが)。 
これは後方と言えるほど後方ではないのです。 
戦略単位として考えるなら半日強の時間差は部隊間距離として十分にアリです。 
そもそも戦略機動力では南雲部隊も主力部隊も巡航速度は変わりません。 
どちらも足は十分に速いのです。 
もっとも実際の戦闘においても日本の戦艦部隊は25ノット前後の高速戦艦部隊であり、 
空母部隊が30ノットで動いたとしてもその差は5ノットでしかないのです。 
>それで、戦艦部隊の存在意義はあったのですか?
あります。 
米艦隊は戦艦の出撃も検討しており、 
南雲艦隊は戦艦以外にも2隻の米空母(ヨークタウンは想定外)とミッドウェー航空隊を相手取らねばなりませんから、 
それに対抗するのには完全に力不足です。 
仮に米戦艦が現れないにしても、南雲艦隊の消耗を補うためにはやはり別の艦隊が必要なことに変わりはありません。 
ミッドウェー作戦は、どの道南雲艦隊だけで完遂できるようなものではないのです。 
#right{(518:ゆうか ◆9a1boPv5wk)}

**陸軍はミッドウエー海戦の大敗北等の海軍の失態を把握していたんでしょうか? 

少なくともミッドウェー海戦の敗北に関しては、直後に陸軍に伝えられています。 

戦史叢書「大本営海軍部・聯合艦隊<3>昭和十八年一月まで」p10から転載 
 六月六日午前、軍令部第一課は参謀本部作戦課長以下の来部を求めて、戦況を説明するとともにF・S 
作戦を延期すべき意見を述べた。その情況は左のとおりであった。 
[出典:「井本日誌」 当時、参謀本部第二課部員井本熊男中佐(のち大佐)の業務日誌] 
 海軍ノ面持沈痛也 山本中佐より「ミッドウェー」方面ノ戦況ヲ説明ス 昨五日ヨリ本日ニカケ航空作戦ヲ 
実施 戦況不利ニシテ赤城、加賀、蒼龍、飛龍ノ四隻沈没シ 聯合艦隊ハ戦を離脱シテ布哇西方約一千 
浬ニ集結中也(中略)F・S作戦ハ一時中止 Fハ少クモ二ヶ月延期スルコトトナル(軍令部一課ノ意見) 
 この敗戦は陸軍部にとっても、まさに青天の霹靂であり、田中作戦部長を「思いもかけぬ大敗北、太平洋 
の覇業潰えたり」と嘆でしめ、杉山参謀総長は暗然として「永野総長の二年間の保証が破れた。屈敵の方 
法を太平洋以外に選ばなければならなくなった」と述べた。 
[出典:「田中新一中将業務日誌」 当時、参謀本部第一部長田中新一少将(のち中将)の業務日誌] 
#right{(526:918)}

**マリアナ沖海戦においてなんですが、陸海軍の基地航空隊は米機動部隊を攻撃しなかったんでしょうか?
ビアク方面で消耗していたため、戦力が残っていなかった。 
一応出撃しているが、たいした効果がなかった。 
2月23日の空襲で120機を喪失。 
その後、なんとか600機を整備。 
ビアク襲来に反撃のため相当数をパラオ方面へ移動し、その大半である400機以上を失う。 
マリアナへの直前空襲で150機を失う。 
反撃可能戦力約50機。 
#right{(525:948)}
**アリアナ沖海戦は七面鳥打ちとか一方的に負けてますが、どうしてなんですか?
>陸戦・海戦を問わず「ここで負けたら後はない」という戦いだったのに
マリアナの敗戦原因は以下が挙げられると思います 
軍人官僚政府にありがちな人命軽視、シビリアンコントロール欠如 
 1)ミッドウェーで空母の安全欠陥が判明したが「軍の外からメスが入らなかった」 
   米国と違い、議会主導で軍部の外に「ミッドウェー敗戦原因究明委員会」を設けて抜本的に 
   軍艦の安全性の総点検をしなかった。従って「ミッドウェーで問題になった箇所」 
   しか安全欠陥が改善されず、別の箇所の安全欠陥が露呈して空母大鳳を失った 
 2)零戦が燃え易いなど安全性の欠陥があったが改善されなかった 
   これは源田など不適切な人間を指導的地位に上げた「上司主観評価」人事制度の欠陥 
   と、上記のように「敗戦/問題の官僚組織外からの外部監査」が不徹底だったことによる 
   また2.26/5.15のあと軍部を批判した勢力は殺される風潮が広がり、誰も軍部を批判できなくなった 
   米国なら戦闘機の防弾不足は新聞に叩かれ、政治家から軍部へ改善への強い指示があった筈 
   だが「戦前の日本は現在以上に民主主義国ではなかった」ため軍人の人命軽視文化が支配していた 
   その結果、マリアナの頃には多数の熟練パイロットを失っていた 
 3)米国と違い、飛行艇によるパイロットの救出を行わなかった 
 4)米英独に比べ科学者の地位が低く、軍人の技術や試作の必要性への理解度が低かった 
   また、官僚組織は減点主義なので、新兵器を多数試作して技術優位を掴もう 
   とするより、会議でケチをつけて自分を賢く見せようする有害な連中が跋扈 
   する文化であった。(これは現在にいたるも大して変わっていない) 

全般的に、マリアナでは、戦術的には比較的ミスも油断も(ELV覆った事以外)なかったが、日本は米国 
より軍人官僚主義の弊害が大きく、この頃になると一気に噴出していたのが国力と並ぶ敗因でしょう 

現在も、「飛行機墜落の場合のような原因究明・再発防止委員会」が議会主導で開かれないで 
責任はうやむやにされることは多いです。年金問題も薬害問題もそうですね 
また現在も、他の先進国が戦車を犠牲にしてもAPC確保している一方で陸自はAPCの装備率が低いです 
改革しないとまた同じような過ちを繰り返して恥ずかしい負け方をするであろうと思われ
#right{(532:872)}

**珊瑚海海戦のときに、日本艦隊の攻撃隊がアメリカ側に比べて少ないのは? 
>空母の数で上回っていて、日本では最大級の2隻も参加してるのに、どうして少なかったんでしょうか? 
空母が3隻といっても1隻は軽空母の祥鳳で戦闘に参加する前に沈められました。 
これで隻数は互角。 
空母のほうですが翔鶴級よりもレキシントン、ヨークタウンのほうが搭載機数自体が 
多かった。さらに航空機が減ってるのは、出撃して帰還時に損傷が大きいと判断された 
機体は海中に投棄されてる為。
#right{(526:549)}
もともと搭載してる数が少なかったんです。 
翔鶴型はたしかに搭載能力が大きく、真珠湾攻撃時には常用72機が定数でしたが、 
珊瑚海海戦の際には定数が54機に減らされてしまっていました。 
搭乗員が足りなかったようです。 
開戦後に空母も陸上航空部隊も増えてますし、よそから借りた乗員は返さなきゃいけないし。 
そのうえ戦闘で消耗し、 
翔鶴が損傷して2隻分収容せねばならないこともあって、 
上のレスのとおり傷ついた機体はどんどん捨てたり。 
おかげで昼間の攻撃隊の数も少ないですし、作戦終了時の残存戦力が激減してるんです。
#right{(526:553:◆yoOjLET6cE*一部改編)}

**太平洋戦争で日本海軍の潜水艦隊が通商破壊戦を行っていましたが、連合軍の戦略に何らかの影響を与えたのでしょうか?
>また影響を与えなかったとすれば、何が日本軍の間違いだったのでしょうか?

開戦から1年弱ほど仮装巡洋艦まで投入してインド洋でそれなりの成果を上げている。
そんでもって、インド洋に1個潜水艦隊規模を投入しての大々的な通商破壊作戦を行おうとして
準備中にガタルカナルでの戦いが起こり潜水艦がほとんどソロモン海に投入されたがそれでも細々と
1個潜水戦隊規模で通商破壊を行ってたのだが、連合軍の戦略に影響を与える程度の損害を与える
ことが出来なかった。
結局のところ、通商破壊を行うにしろ、太平洋には通商路がほとんど存在せず、前線の兵站への攻撃が
関の山だが、日本軍の方針として、商船よりも軍艦、それも大物狙いを優先した戦略方針にまちがいが
あったとしか。
まあインド洋で大規模な通商破壊をやれればまた違った展開になるだろうけど、その際でも潜水艦の損害が
激増して、先細りになったであろうけどね。
#right(){(474:415)}
**アメリカ西海岸で日本潜水艦が行った通商破壊の成果は? 
太平洋戦争開戦時の真珠湾近辺での哨戒後に 
第6艦隊の一部伊9.10.15.17.19.21.23.25.26の9隻にて先遣支隊を編成 
アメリカ西海岸沖で12/27まで通商破壊戦を実施 
成果は撃沈または着底5隻 大破5隻 計6万4669トン 
#right{(533:627)}

12月20日頃より作戦開始。 

21日 『エミディオ』号撃沈(タンカー、6912総トン) 伊17 雷撃による 
    『アグィワールド』号大破擱座(タンカー、6771総トン) 伊23 砲撃による 
22日 『モンテベロ』号撃沈(タンカー、8272総トン) 伊21 雷撃による 
23日 『H・M・ストーレイ』号撃破(タンカー、1万0763総トン) 伊19 魚雷1本命中 
    『アイダホ』号撃破(タンカー、6418総トン) 伊21 雷撃による 
24日 『ラリー・ドヘニイ』号撃破(タンカー、7038総トン) 伊17 魚雷1本と砲撃による 
25日 『アブサロカ』号撃破(貨物船、5695総トン) 伊19 雷撃による 
    『ドロシー・フィリップス』号撃破擱座(客船、2119総トン) 伊23 砲撃による 
28日 『コネチカット』号撃沈(タンカー、8684総トン) 伊25 雷撃による 

残燃料の関係で各艦共23~27日頃までに帰投行動に入っており、わずか10日足らずの作戦期間だった。 
通商破壊戦においては1回の出撃1ヶ月前後の作戦期間(戦場に到着して以降帰投に移るまで)で 
1隻の潜水艦が3隻も撃沈破すれば大戦果と評価される。 
そんな中、9隻がわずか10日でこれだけの戦果を挙げたのは十分に作戦成功と判断された。 

なお、作戦期間中に西海岸各地に砲撃を試みたが連合艦隊司令部より一旦命じられたものが撤回・延期された。 
これは砲撃期間がクリスマスにかかるために避けられたとされる。
 
以上『日本潜水艦戦史』(図書出版社)より 
#right{(533:700)}

ちなみに、1942年1~4月の間に、ドイツ海軍のUボートは、アメリカ近海にて、『太鼓の響き(Paukenschlag)作戦』を決行、
115万tの戦果もおさめています。 
これを割り算しますと、ほぼ1日1万トンになります。 
しかも、撃沈のみです。 

参考図書 
『歴史群像』2005年6月号 記事、サブマリナー24H 
下記、Der Alteを参照ください。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~PEIPER/page013.html 
#right{(533:634:霞ヶ浦の住人 ◆WdKJPq1xgk)}

その1942年1~4月のUボート1隻・1日当たりの撃沈戦果ですが 
1月 231トン/日・隻(洋上出撃42隻) 
2月 296トン/日・隻(50隻) 
3月 341トン/日・隻(48隻) 
4月 284トン/日・隻(49隻) 
にしかなりません。 

その1日1万トンという数字は、50隻近いUボートが総がかりでようやく挙げた戦果なのですよ。
#right{(533:978:ゆうか ◆9a1boPv5wk)}
**日本海軍は海上通商路の重要性を認識していませんでしたか?
『戦史叢書 海上護衛戦』では、 
戦前に海軍が戦時下のシーレーン防衛にどの程度の戦力が必要か 
研究班を編成して分析していたことが記載されていますよ。 

その研究結果によると台湾海峡以北の海上護衛だけで 
膨大な護衛艦隊に航空隊が必要で 
日本の戦力ではとても捻出不可能だったとか。 

同書では海上護衛に史実以上に戦力を傾注しても 
十分な効果が望めたとは考え難いことと 
日本の状況では正面戦力による主作戦で成功を続け 
シーレンに対する攻撃を直接抑制するしか 
通商破壊に対抗する手段が無かったという分析と合わせ 
海軍の主作戦重視の判断はそれなりに妥当性があったと結論されいます。 
#right(){(620:390)}

**日本はなぜ通商破壊戦に力を注がなかったのか?
>ドイツやアメリカは大量の潜水艦を使って通商破壊戦を繰り広げ 
>イギリスの海上輸送を一時的に不可能にさせ、日本軍の輸送船を撃沈し物資輸送を半分ほど麻痺させました 
>一方日本軍の潜水艦は敵の主力艦隊に出来るだけ痛手を負わさせる事が主任務ということになっていたので 
>通商破壊戦には少し関心がなかったようで、大量の潜水艦をアメリカ艦船を沈めるために使われてしまいました 
>潜水艦の使い方とその予防をおろそかにしたがために太平洋戦線の慢性的な物資不足が発生し 
>決定的な物量の差が出てしまったのではないでしょうか? 
アメリカの通商路は北米大陸沿岸と西海岸~、ハワイにしかなく日本から 
通商破壊を仕掛けるには距離がありすぎて、非常に効率が悪い。 
日本が見習うのは、ドイツの通商破壊でなく同じ島国であるイギリスの対潜作戦のほう。 
#right{(542:274)}
付け加えると第一次大戦後早い段階で通商破壊の是非は検討されてますが 
そういう「攻撃する通商路ねーじゃん」でさっさと諦められてます。 

しかし艦隊襲撃の困難さは海大型が完成型に達した昭和14年頃には皮肉にもすでに認識されており、 
潜水艦戦略の抜本的見直しが行われてはじめたところで開戦を迎えたタイミングです。 

つまり日本潜水艦陣は旧来の戦略が効率的ではないことを認識しつつも 
新たな戦略を未だ構築しきれない、非常に中途半端な状態で戦争に突入したのです。 
#right{(542:ゆうか ◆9a1boPv5wk)}
>学研ムック「日米潜水艦」に書かれていることと矛盾すると思われますが、
>どのようなところから「中途半端な状態」と評価されるのでしょうか? 
>昭和15年の段階で軍令部は艦隊決戦への投入を断念し、その運用方針をロンドン条約以前のものに回帰した、と記述されており、 
>これを中途半端と呼んでいいのか疑問を覚えます。また、開戦直前に着手した○追計画の眼目が 
>「積極的に通商破壊戦を展開、潜水艦搭載機による要地爆撃で米国世論を刺激し 決戦を誘引する」 
>とはっきりと示されているにもかかわらず、これを「中途半端」というのでしょうか? 
>日本海軍は旧来の戦略の過ちを認め、新戦略を構築した上でそれに適した戦力整備に着手した途上で開戦を迎えたように思われるのですが、 
>中途半端と判断された資料など示していただけないでしょうか? 
潜水艦史とか海軍軍戦備とか日本海軍潜水艦史とか、その辺を読み込めば。 
後は防衛研究所の史料(訓練所見とか潜水艦隊の戦技研究とか)もありますが。 

もっとも事実に対する解釈の相違というのもあるでしょう。 
昭和14年時点で潜水艦側の見解は一言でいって「敵艦隊発見でさえ運まかせ、まして攻撃など」とボロクソです。 
一方で軍令部の運用方針には未だに潜水艦の決戦投入がうたわれてるんですねこれが。 
てかそれしかなかったというか・・・「困難だがやらねばならぬ」が偽らざるところですか。 

後○追計画の眼目ですが、正直言って当の海軍があまりあてにしてません。 
というより、決戦時期を主導できないことこそが漸減戦略最大の弱点であることは 
策定当初からの大問題でして、結局開戦まで海軍はその「決め手」を持つに至らなかったんです。 

ま、中途半端と判断してるのは昭和16年度時点に至ってなお潜水艦隊の想定任務について 
アレはダメ、コレもダメ・・・と、有効性を否定しまくってる(つまり有効と認めうる段階まで戦略を構築しきってない)のが 
上記戦技研究なんかから読み取れるからです。 
通商破壊は前述の通り攻撃場所がない、要地偵察は敵戦闘機に食われる、 
艦隊攻撃は敵に振り切られるし警戒厳重・・・ 
利点より欠点を強調する描写がやたらと目立ちます。 
#right{(542:ゆうか ◆9a1boPv5wk)}
**インド洋での通商破壊は日本海軍がすべき任務だったけど、熱心では無いので仕方なしに、ドイツ海軍がやって来て戦闘をしていたの? 
インド洋の作戦海域は最初の作戦協定を締結時から、日独で等分されており、必要性があれば、協議によって 
作戦海域を融通していました。 
インド洋が日本の担当作戦海域と言うのは、間違いです。 
だから、連合軍のマダガスカル攻略戦のときに日本の潜水艦で襲撃するために事前に協議を行い 
作戦海域の融通を認めさせてます。
>しかしマレーシアのペナン島で、日本海軍に居候しながらは異常です。 
米海軍はイギリスの基地に居候しながら欧州で戦っているし、 
オーバーロード作戦でもグレートブリテン島を根拠地にしているし、 
ドイツの地中海や北アフリカ戦線にしたところでイタリア軍の世話になってるんだが? 
#right(){(620:518,532)}
**日本はなぜ『海上護衛戦』に書かれているように敵の通商破壊に対する対策を怠ったのでしょうか? 
戦史叢書の『海上護衛戦』では 

「イギリスはドイツの水上戦力を完全に無力化した後に戦力を海上護衛だけに集中することができたが、 
帝国海軍は強大なアメリカの正面戦力と対峙しつつ海上護衛に戦力を抽出する必要があった点に大きな差があり、 
海上護衛が万全でも正面戦力同士の主作戦で敗北すればシーレーンは封鎖されることになるし 
そして史実以上の戦力を海上護衛に割いても十分な効果が望めたかは疑わしく 
平時から海上護衛を達成できるほどの強大な戦力を持てる国力があったのはアメリカのみであり、 
イギリスはその支援の元に海上護衛を行なったもので、事実上日本はイギリスより大規模で困難な海上護衛を行なっていた状況だった」 

というような結論が述べられている。 
大井篤氏の『海上護衛戦』については、どちらかというと全体的な状況分析より 
現場の声を重視した書き方をしているから、その差が戦史叢書との違いに現れているんだと思われる。 
#right(){(603:556)}
**アメリカの存立に関わる通商路が太平洋にあったの?
貿易ってのは出す側と受け取る側、双方があってはじめて成立するものです。 
つまりアメリカは輸出する側として巨大な通商路を有する大海運国家でもあるわけで、 
よってアメリカが相手であっても通商破壊戦は立派に大きな効果を発揮します。 

でもね、アメリカが太平洋に持つ通商路って、 
本土~ハワイ~グァム~フィリピンの細い一本だけなんですよね。 
大戦によってこれが途切れ、替わりに行き先をオーストラリアに変更した、やはり細い一本。 

それ以外でアメリカに大ダメージを与えうる航路が太平洋にあるか? 
実はあります。 
ただし日本の手の届かないはるか遠方に。 
大西洋と太平洋をパナマ乃至マゼラン海峡で繋ぐ東西交流路。 
これは行き交う船腹量も多く、大戦果が期待できる海域です。 
部隊を展開できさえすれば。 

日本は開戦直後のただ一回きり、この航路で通商破壊戦を仕掛け、大きな戦果を持ち帰っています
#right(){(620:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)}
**連合艦隊は、あ号作戦でサイパン上陸されるのを待ってノロノロし、地上戦開始後も上陸部隊輸送船団を放置して、沖の空母をウロウロ指向したそうですが、 
>これは犯罪ではないですか 
主攻撃目標が敵機動部隊だったから。 
まず機動部隊を撃滅してから輸送船団を攻撃するという計画だった。 

機密連合艦隊命令第76号 
1 連合艦隊は(…)敵進攻兵力、就中敵機動部隊を覆滅し以て敵の反抗 
 企図を激摧せんとす 
2 本作戦を「あ号作戦」と呼称し作戦要領を別冊第1乃至第3の通定む 
別冊第1 「あ」号作戦要領 
作戦方針 
 (…)本決戦は主として昼間強襲に依り敵機動部隊を攻撃撃滅す  

機動部隊「あ」号作戦計画 
機動部隊作戦方針 
 (…)敵進攻兵力、就中敵機動部隊を覆滅し以て敵の反抗企図を激摧す 

第1機動艦隊戦策 
戦闘方針 
 (…)航空部隊の全力を挙げ機先を制し先ず敵航空母艦を撃滅し 更に 
艦隊の全力を挙げて残敵を追撃し之を殲滅するを本旨とす 
#right{(538:125)}
**大和の沖縄特攻の際、航空機の援護がなかったのは、出さなかったのか、出せなかったのか、どちらなんでしょう?

別の任務、すなわち全力特攻を行っていた。
むしろ大和は囮任務だったのだよ。

菊水1号作戦は、水上特攻と航空特攻を組み合わせたもので、
航空部隊は同時に行われた航空特攻作戦に大半が投入されていた。
それでも、水上部隊には一応の護衛をつけることになっていたが、兵力不足から断念した。

鹿屋から航続距離ギリギリまで援護があったそうだが、なにしろ空母がいないからな。
沖縄はもうほとんど制空権をとられていたし。
#right{(363:326,327,334)}
**サマール沖海戦で、カサブランカ級護衛空母は最高速でも20kt無かったはずですが、なぜ数時間も追撃しておきながら1隻沈めただけで取り逃がしてしまったのでしょうか?
空母から発艦した攻撃機が、日本艦隊を執拗に攻撃した。
航空機に攻撃された日本艦隊は、どうしても攻撃機に対して回避行動を取らなければならないから、
日本艦隊とアメリカ艦隊との距離は離れていった。

爆弾や魚雷を既に投下した攻撃機も、日本艦隊に何度も擬似反復攻撃を繰り返した為、アメリカ艦隊
との距離は益々離れていった。

アメリカ艦隊を護衛していた駆逐艦も日本艦隊が驚くほど勇敢に戦い、煙幕を張って空母を逃がし、
日本艦隊に突撃して、執拗に砲撃を加えた。

この海戦は、例え空母艦隊が戦艦郡に襲撃されても、空母側が攻撃機を発艦できたら、ほぼ互角に
戦えることを証明した海戦でした。
#right(){(344:826)}
**日本海軍が米潜水艦による通商破壊を極めて深刻な物と認識したのはいつ頃のことでしょうか? 
開戦前は船舶の損失を1年目は100万総トン、2年目は80万総トン、3年目は60万総トンと 
年毎に減少すると予想していた 
実際には年を経るごとに損失は増加していった

開戦前は日米共に潜水艦の役割は艦隊決戦のうらかたという存在でした。 
潜水艦は予め敵の艦隊が通過するだろう場所に待ち伏せし敵艦隊の通過を自軍の艦隊へ連絡する。
偵察の役割を主に担うものでした。 
しかし太平洋戦争開戦前に欧州ではアメリカとイギリスを海路で結ぶ商船が次々とUボートの餌食になり、
アメリカは自身の身を持って潜水艦の新たな使い方を学びました。 
その結果、アメリカ海軍では潜水艦の使い方を通商破壊に使うための研究をし、その後太平洋戦争に突入しました。 

逆に日本海軍にはそのような経験がなく、また開戦前に商船被害は開戦直後から開戦二年後にかけて逓減して
いくと見積もっており。むしろあそこまで被害が拡大するとは考えていなった。 
それに作戦に使える駆逐艦の数を減らしたくなかった連合艦隊の反対もあり商船護衛に回せる駆逐艦があまり
なかったことが原因で商船を保護しきれませんでした。 

一部の人間を除き、海軍全体的には商船護衛の必要性は結局終戦まで認められませんでした。

最初の兆候は1942年10~11月にかけて 
ガタルカナルを巡る戦いの中で空襲等で17万7千トン16万8千トンの損害を出した時だが 
日本海軍内では、これはあくまで一時的な損害という認識だった。 
日本海軍内では月平均7万トンの損害があり、ガタルカナルさえなければ 
損害は月平均内なので問題がないという認識だった 

米軍は1942年6月からは潜水艦に水上レーダーを装備させ 
1943年4月からは潜水艦戦術を大西洋のドイツ海軍を見習い改善 
米軍の潜水艦より発射する魚雷には欠陥があり命中しても不発だったのが 
1943年の6月以降に改善された魚雷が米潜水艦に配備され 
9月には不発の多い磁気信管の使用が禁止された。 

日本軍側は1943年に入ってからの月平均7万トンを超える商船の損害と 
損害トン数の増加に対して、護衛艦の増産を予算請求することを決定したのが1943年の6月 
その護衛艦が出来上がる1944年ころには、米軍は潜水艦の数が増え、魚雷の欠陥はなくなり 
電子装備は優れ、という状態になっていた。 

開戦前なら、日本軍は米軍の潜水艦は、日本の潜水艦の戦術と同じように日本の軍艦を標的にするだろう 
後方の商船への攻撃はあまりないだろうという認識だった。
#right(){(167-183)}

**レイテ沖海戦では壊滅している海軍航空隊ではなく、陸軍航空隊に栗田艦隊の護衛とかは頼めなかったんでしょうか?
頼むことはできたでしょうけど、拒絶されるのが関の山。
そもそもフィリピンの航空戦で、手一杯。
#right(){(俺初質スレ430:656)}
**坂井三郎氏の「ミッドウェー会戦での急降下爆撃による空母被弾は上空の備えを怠ったから」という指摘は妥当なのでしょうか? 
>「源田が悪い。空母の上に一機ずつでも戦闘機を上げて待機させておけば防げた。 たとえ一機だけでも、
>戦闘機は爆撃機にとって怖ろしい存在なのだから」というような発言をされてたように記憶しているのですが
まあ、後知恵になるけど、考えはただしい。 
当時の零戦に搭載していた無線機は劣悪で、ろくに会話もできなかったくらいなので、 
効果的な迎撃ができなかった。ようはワーワーサッカーとおなじで、敵を見つけて、誰かが攻撃をはじめると 
みんなそっちに行って母艦の上空待機に回る人の割り振りができなかったのも事実。 
ミッドウエーでは雷撃隊の迎撃に全機が向かってしまい高空から近づいてきた急降下爆撃機に対応できなかった。

上げてた直援戦闘機隊は低空飛行しながら雷撃体制に入ってたデヴァステーター隊を迎撃していた。 
(デヴァステーターは全滅) 
なので空母の「上空」はガラ開きで、その隙を突かれた事は失態だが、雷撃機は無視できない脅威だから 
一概に失策とも言えない。 
ただやはり上空警戒機を残して置くべきであったとは思う。
#right(){(582:694,696)}

**ミッドウェーの敗因は運がとにかく悪かった? 
と、よく言われるミッドウェーだが 
一番の原因は、何より 
「こうなったら、こうする」「そうなったら、そうする」「こうもそうもならなかったら、あぁする」 
という事前の作戦の詰めがもうどうしようもないくらいに甘かったこと。 

そもそも 
「ミッドウェー諸島を攻略すれば敵機動部隊が出張って来るだろう。そうしたらそれを叩く」 
という、 
「一番肝心なところが相手任せ」 
の”決戦”を挑んだ所からして根本が間違ってる。 

真珠湾攻撃であれだけ事前に緻密に作戦を詰めた(もっともそれが後々裏目に出た訳だが)のに 
ミッドウェー攻略がこうも適当なのは何故だったのか? 

考えるべきはそこのところで、「運が悪かった」ではないだろうな。 
#right(){(582:704)}

作戦の実施前に潜水艦部隊と空母部隊よりそれぞれ、作戦延期の提案が出てる。 
りゆうは、潜水艦部隊は作戦決定が急で、索敵線への潜水艦の展開が間に合わない。 
空母部隊からは、インド洋から帰ったばかり、さらには、真珠湾作戦の関係で凍結していた人事異動を行ったため、 
舞台の休養と再訓練ができてないことが理由。 
#right(){(582:707)}
**真珠湾での魚雷発射ですが水深12メートルで魚雷を投下し進ませるには海面より何メートル位で投下したのでしょうか 
>また魚雷投下の技術?は終戦まで同じようにいったのですか?  
真珠湾での魚雷発射はうろおぼえだが、 
魚雷が深く沈まないように抵抗板かなにかをつけてたような気がする 

雷撃の例 
①機首を敵艦の艦腹方向に向け、 
②高度20メートルほどで水平飛行に入り、 
③敵艦との距離が約1000メートルの地点で投下、 
④魚雷は一旦水深15メートルほどに潜ってからエンジンを始動。 
  水深6~7メートルほどの所を速力30~40ノットで直進、 
⑤敵艦に炸裂する! 

K(攻撃)501銀河飛行隊の例 
攻撃目標に近づくまでは編隊は間隔をとり約3000メートルの中高度を飛ぶ。 
オートパイロットを使いながら雲層直下を巡航していた。目標を発見した 
直後、巡航高度より高速で迫る。それから各機は増槽(タンク)を捨て間隔 
を詰め、時速556キロの緩降下高速で単列一文字に攻撃発起点へと侵入、そのまま 
高速緩降下を続け水平巡航に入る。エアブレーキを適宜使いながら魚雷は速度 
463キロ、高度50メートル、距離800メートルが基準である。 
離脱は全速直進、最短の時間と距離で行うように訓練したが、敵対空砲火により 
雷撃機は半数から4分の3を失った。 
#right(){(584:835)}
**栗田艦隊のヤキ1カ電とはなんですか?
レイテ沖海戦で、最終的に栗田ターンをするきっかけになったとされる電文の通称。 

いわゆる北方機動部隊の出現を、「南西方面艦隊」から通知したもので、 
「ヤキ1カ」というのは、スルアン灯台5度113マイル地点を示す暗号。そこに敵がいると。 
この情報を受けて、突入しないでその機動部隊を攻撃しようと進路を変えたと言われる。 

結果から言うと「ヤキ1カ」に該当する機動部隊は実在せず、誤報だった。 

ちなみに、この電文を打ったという記録が南西方面艦隊に残ってないようで、 
受信記録はあるが発信元不明という風に言われてきた。 
栗田さんは、南西方面艦隊からだったとはっきり言ってる。 
(今は判明してるかもしれないが、最近のことはよくしらないので) 
#right(){(585:64)}
**エンガノ岬沖海戦で、伊勢日向は適切な航空弾幕を貼って敵機を寄せ付けなかったと聞きます。これの発想や指導は誰がしたのですか?
当時の戦隊司令が松田少将で彼は大和の艦長やってたころから
回避運動や対空射撃の研究をしていました。
ちなみに日本で最初にレーダー載せたのも彼です。載せたのは日向と伊勢でした。

かなりの航空機を割いたにもかかわらず大した損害も与えられなかった航空戦艦二隻に対して
ハルゼー提督は忌々しく思っていたらしくレイテ沖海戦が終わったあとにも撃沈しようと機動部隊で攻撃を仕掛けますが
日本本土への輸送任務で上手く攻撃を擦り抜けた為、代わりにと言ったら変ですが輸送船団が壊滅してます。
>大和特攻の際には、この戦訓は取り入れられなかったと思います。なぜですか?
条件がかなり違うよ。天候が違うし。
空母の護衛艦として戦艦が参加した作戦と、
戦艦が目的地にたどりつくための作戦では、
攻撃側(米艦載機)の集中度もかなり違うから、戦訓だけでは評価はできないよ
#right(){(334:53,58)}
**ミッドウェー作戦がずさんだったのはなぜ?
>山本五十六は日米の戦力差が圧倒的になる前に、アメリカ軍の航空戦力を壊滅して早期講和に持ち込むため、 
>ミッドウェー作戦を強行しましたが、それほど危機感を抱いていたわりに、無計画だったのはなぜでしょうか? 
構想こそあったがが、具体化したのが東京初空襲に対抗してのドサクサまぐれだったから。 
だから、機動部隊からインド洋作戦から戻り凍結されてた人事異動を行ったので再訓練の時間がほしいとか、 
潜水艦部隊から、哨戒線への潜水艦の展開が間に合わないから最低半月延期しろという要望はすべて却下 
して実施したから。
#right(){(586:704)}

ミッドウェー作戦が帝都空襲を受けて、政治的な要請から発起された作戦だし、 
ミッドウェー島の戦略的価値はさほど無かったのは事実。 
あくまでも敵の機動部隊をつり出して決戦を計るためのもの。 

でも作戦自体は言うほどずさんじゃなかったと思うよ。 
帝国海軍の戦力を集結し、米艦隊より大きな戦力でぶつかることに成功してるんだから。 
負けたのは情報戦、判断のミス。あと確かに運も悪かった。 

あと帝国海軍の決戦思想なんかもあるけど、普通に戦争が長引けば必ず負けるから投機的な作戦に打って出ざるを得ないというのもまた現実だな。 
#right(){(586:モッティ ◆uSDglizB3o)}
珊瑚海海戦に参加した五航戦は 
真珠湾攻撃のため開戦少し前に編成されたばかりで練度が比較的低く 
ミッドウェーに参加する二航戦航空隊からは「妾の子」呼ばわりされて侮られていた。 

その「妾の子」ですら2対2の空母戦で勝てているんだから 
ミッドウェーは楽に勝てるという油断があった。 
そして海軍は珊瑚海海戦で米空母2隻撃沈と報告を受けていたから 
ミッドウェーでは米空母が出てきても2隻が限度だと考えていた。 
2隻+ミッドウェー基地航空隊なら、日本の4空母の航空戦力の方が優勢だから 
怖るるに足らずという意識。 
#right(){(588:264)}
**坊ノ岬沖海戦で大和を含めた全10隻撃沈されなかったのは何故?
>http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/BattleShip_Yamato14.htm 
大和撃沈で米軍の作戦目敵を達成したからです。
あとの残敵掃討をやってると沖縄上陸軍の支援に支障をきたす事や、
残敵掃討中のすきをついて特攻機が飛び込んでくる恐れがあったか
らです。
#right(){(333:9)}
**レイテ沖海戦では、第一遊撃部隊はブルネイからレイテまでの遠距離を踏破しなければいけないわけですが、駆逐艦等の小型艦の燃料が切れたら、戦艦から補給する予定だったんでしょうか? 
問題になるとすれば一番航続力の短い松型かと思われますが、 
16ノットで3500海里走れますので、ブルネイで燃料満載できれば問題ないかと思われます。 
ブルネイ-レイテ-ブルネイの行程は目分量ですがだいたい1400海里程度かと。 
戦闘行動その他を見越して航続距離を半分としても、少しばかり余裕があります。 
#right(){(328:22)}
**レイテ沖海戦時って日本艦艇の練度は低下していたんか? 
>面白いぐらい撃沈されてるし 
そのころには対艦兵器の攻撃力のインフレが凄まじかった。 

たとえば航空魚雷は、マレー沖海戦で陸攻が用いたのが九一式改航空魚雷だったが 
これは弾頭炸薬量がTNT250kg相当(当時の英海軍の航空魚雷がTNT170kg相当)で、 
POWやレパルスを数発の被雷で沈めたように戦艦を撃沈するのに十分な威力の魚雷だった。 

英戦艦はロイヤルオークやバーラムがUボートのTNT300kg相当の魚雷3~4発で轟沈しているから 
当時の戦艦はTNT250~300kg相当の魚雷には全く無力だったというべき。 

これがレイテ沖で米軍が使用した航空魚雷MK13になると 
トルペックス新式炸薬を弾頭に250kg用いたTNT換算400~500kgという 
命中したら装甲を隔壁ごと破壊する凄まじいものになる。 
潜水艦や艦船用の魚雷になるとさらに強力で、 
日本は損傷をもとにこれらの魚雷の破壊エネルギーを計算すると 
あまりの威力に「同一箇所に2発同時に命中した」んじゃないかと疑うほどだった。 
#right(){(603:371)}
**レイテ沖海戦で、何故大日本帝國海軍は、米上陸船団や輸送船団ではなく、主力艦隊を狙ったんですか? 
作戦実施前に主目標が上陸部隊の輸送船とGF司令部から指令を受けてる。 
最もその際に、好機があれば米軍の主力艦を攻撃してもよいとの許可も与えてる。 
主力部隊を追っかけたのは、上陸開始から時間がかなり経過してるので、上陸部隊の 
輸送船はすでに荷揚げを終え、空船だからこれを攻撃するよりはと追っかけただけ。 

ソロモン海戦なんかの失敗を繰り返さないために、連合艦隊司令部は珍しく? この点に 
関しては気を使った。 

もっとも豊田副武は栗田を信用してなかったこともあって艦隊出撃後も何度も「作戦目的について」 
再三通信文で念を押し、栗田初め艦隊首脳部にウザがられたけど。 

宇垣纏は日記に「過去の失敗を繰り返すなというのはわかるが執拗すぎる」「そんなに中央は現場を 
信用していないのか」と何度も書いていたりする。 
#right(){(609:252,269)}
**パールハーバー奇襲で燃料補給タンクを破壊しなかったのが問題だったという説
アメリカとしては、空母と巡洋艦戦力が健在なので、たとえ燃料タンクが破壊されても 
代替設備を建設する間、ハワイ諸島の他の泊地、港湾を利用して、そこにアメリカの 
豊富なタンカーを回し、燃料タンク代わりにするだけなので、あまり意味がない。 

またそもそも南雲艦隊が抱えていった爆弾の総量を考えても一部は破壊できても全部の破壊は無理。 
何せ、破壊の検討をしたことが無いので、効果的な爆撃コースや目標の選定が出来ない。 
さらに言うと第一次攻撃第一波、第2波で湾内が黒煙で爆撃目標確認が困難。 
#right(){(609:247)}

「450万バーレルの根燃料が保存されていた燃料タンク基地が、手つかずのままで残った。これが破壊されていれば、 
艦隊は本土西岸へ後退せざるをえなかったあろう。このほか、必要不可欠の修理施設が目こぼしにあずかり、
対日反抗の先陣をうけたまわることになる潜水艦の根拠地が敵の攻撃をまぬかれた」。 

上記は、提督ニミッツ (1979年) [古書] (-) E.B.ポッター (著), 南郷 洋一郎 (翻訳)の一節です。 
原著の発行元は、アメリカ海軍協会です。 
著者は、アメリカ海軍兵学校歴史学部教授です。 

450万バーレルの燃料の量の感覚が、霞ヶ浦の住人には掴めません。 
検索してみて、日本海軍全体で1942年に消費して重油の約3分の1だと、分かりました。 

下記、石油関連データの石油製品消費量推移(本土内、単位:1000バレル、1945年は4-9月)を参照ください。 
http://www.geocities.jp/eiji96301045/oil.htm 
#right(){(609:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)}
当時保存されていたのは、450万バーレルです。 
太平洋艦隊が保有していたタンカーは、7万バーレルです。 
同じ量の燃料を蓄えるためには、64倍のタンカーを必要とします。
#right(){(611:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)}
民間のタンカーを徴用すればすむ話し。 
太平洋艦隊所属の艦隊に随伴できる高速タンカーが不足しても 
低速でも積載量の大きなタンカーを燃料タンクがわりにすればすむ話し。 
そもそもその7万バーレルのタンカーって、開戦時、真珠湾にいた、ネオショーじゃねえか。 
ネオショーと同型艦は、護衛空母に改造された4隻をのぞいて10隻以上存在してる。 
民間や、太平洋艦隊に所属してないだけでカウントしないのは意図的な情報操作だぞ。 
>開戦当初は、ドイツのUボートの活躍により、タンカー不足になっています。 
シマロン級だけで8隻、他にT2型タンカーだけで10隻以上開戦と同時に海軍に買収されてます。 
ようは、開戦時真珠湾にいたのが1隻だけだったという話でアメリカには、軍を除いても民間にタンカーが 
存在しそれを順次海軍が買収しているので、史実以上に真珠湾の機能麻痺は望めません。 

そこまでタンカーが不足していたと主張するなら、開戦から1年くらいのタンカー保有量の推移くらいだせよ。 
軍が買収や徴用したので、民間用が不足したのは事実だが、アメリカ自体が不足したんじゃないぞ。 
それとタンカーが無いといってるのは、開戦時に真珠湾の在泊タンカーがないだけだろ。 
#right(){(611:192,210)}
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